第69部 1882年 85才 伊蔵伏せ込み、かんろだいの没収と迫害毎日つとめ
明治15年

 (最新見直し2015.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先のご執筆】

 教祖はこの頃、お筆先第17号を執筆している。全1711首が完成される。教祖は、最後となるお筆先にこう記した。

 「これをはな、一列心思案頼むで」(17.75)

 この年初めから「合図立てあい、合図立てあい」としばしば仰せられている。


【教祖他高弟が奈良警察署へ呼び出される】

 2月、奈良警察署から出頭命令が為された。教祖、秀司の妻まつゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の面々が呼び出され、それぞれに科料の言い渡しが為された。その時の警官の申し渡しは、「本官がいかほどやかましく取り締まるとも、その方らは聞き入れない。その方らは根限り信仰いたせ。その代わりに、本官も根限り止めに入る。根比べする」というものであった。


【伊蔵の「伏せこみ」】
 3.26(陰暦2.18)日、伊蔵はいよいよ櫟本の家を引き払ってお屋敷に移り住んだ。お道ではこれを「伏せこみ」という。こうして伊蔵一家は伏せこみ人衆となった。この時教祖85才、伊藤蔵49才、おさと48才、長女よしえ17才、次女まさえ11才、長男政甚8才であった。この時、教祖は、次のように宣べられた。
 「今日から親子もろとも伏せこんだから、誰に遠慮もいらんで。こちらは真之亮とたまへと三人やで。これからは一つの世帯、一つの家内やで」。

 明治31.8.26日の刻限お指図は次のように記している。
 「この道筋という年限数え、何カ年のと云う。来る者に来んなと云わん。来ぬ者には来いとは云わん。いついつ順序にも諭しある。この一つの順序難しい。教祖と云うは女であった々。学を学んだ者でない。この屋敷、人間始めた真実一つ胸に始めて、この一つ順序。今と云う、へばり付き、どちらこちら草生え、そんな時誠一つも無かった。来いと云うても、今日々と云うように、十分時々神の云う事聞いて来れば、その時貰い受け、夫婦貰い受け、荷物持って屋敷へ伏せこんだひとつの理、何と思うか云々」。

 お屋敷に引き移ってからの伊蔵一家は、内蔵の中二階6畳に、中山家の方々は中南に住んだ。従来中山家の営業であった宿屋と空風呂は、おさとの名義に切り替えることになり、4.1日から一切を引き受ける事になった。伊蔵は、官憲が取り調べに来ると、年若いよしえに門を開けさせにやる隙に参拝者や宿泊人を裏口から抜け出さすなど教祖を護る勤めに当たっていた。

【かんろだいの没収弾圧事件発生】
 5.12(陰暦3.25)日奈良警察署長上村行業(ゆきなり)が数名の警官を引き連れて出張し、当時2段まで出来ていた「かんろだい」の石を取り払い没収するという事件が起こった。(別稿「かんろだいの理」)

 
この時教祖の衣類など14点も没収された。「差押物件目録」は次の通り。
一 石造甘露台                一個
   但二層ニシテ其形六角 上石径二尺四寸 下石径三尺二寸厚サ八寸
一 唐縮緬綿入                一枚
一 唐金巾綿入                一枚
一 唐縮緬袷                 一枚
一 仝単物                  弐枚
一 仝襦袢                  弐枚
一 唐金巾単物                一枚
一 縮緬帯                  一枚
一 寝台                   一個
一 夜具                   一通
  但 金巾ノ更紗大小貮枚
一 敷蒲団 但坐蒲団ヲ云         一枚
一 赤腰巻                  弐個

 右ハ明治十四年十月中祈祷符呪ヲ為シ人ヲ眩惑セシ犯罪ノ用ニ供セシ物件ト思料候条差押者也

 明治十五年五月十二日
               大和国山辺郡三島村ニ於テ
                  大坂府警部 上村行業  印
                  立会人 山辺郡三島村平民 中山マツヘ 印
                  立会人 仝郡新泉村平民  山沢良治郎 印

 「かんろ台没収」は、教祖の思召しに対する官憲の正面からの弾圧攻撃であった。但し、八島教学では、秀司亡き後戸主となったまつえが、山沢良治郎の指図でかんろだいの撤去を警察へ依頼したのが真相であるとのことしである。こういう事情により、警察書類に立会人として署名している、と述べている。
 

 教祖は、明治20年の正月を期してより積極的に働きに出る予告をされていた(ふ3-73~74)。それは、教祖が115歳在世を前提に考えられていたたすけのシナリオであった。天保9年の立教の年から準備期間としての長き50年の艱難辛苦の道を通り抜けて、明治20年から道はいよいよ世界に躍り出ようとしていた。その50年の準備がまもなく完成しようとしていた矢先の明治15.5.12(旧3.25)日、二段まで出来ていた念願のかんろだいが官憲によって没収されたことになる。

【かんろだい没収の教理的意味】
 教祖はここまで、道人に順々に「理」を教え、「おつとめ」を整備し、その完結態として「おぢば」に「かんろだい」を据え付け、これを取り囲んで「神楽づとめ」を勤めることを目指していた。

 「お道」は、教祖の「せき込み」のままにお連れ通して頂く中に幾重の節も通り抜けてきた。それは、常に教祖がお聞かせ下さる通り、かえって芽の出る「活きぶし」であることを人々は自ら体得することができた。例え、どんなに恐き危なき道筋であっても、教祖の仰せのままにお連れ通り頂きさえすれば、絶対に間違い無いという堅い信念を、幾度かの節を通して人々は身に付けていた。これら信念堅くした道人を講元とし、既に各地に数々の講中組織も結成されつつあった。道人は、ぢば中心、教祖目標に強い信仰の紐によって結ばれていた。教祖のお導き下さる方向なら、どんなところへでもついていこうとする信仰の団結ができていた。

 「かんろだい事件」の起こった明治15年のこの頃には、「お筆先」の執筆も既に終結編である第17号までに筆が進んでおり、「お道」教義の大綱が確立されつつあった。道人も、「お道」の信仰の眼目が何であるか承知する時節にもなっていた。即ち、「お道」の信仰は、心の入れ替えによる「陽気ぐらし」の世の実現であって、単にご守護を頂く信仰ではなくて、心の入れ替え、心の普請を通じて「世の立替、世直し」に向かうことが一層明確にされつつあった。「かんろだい」の建設は、こうした信仰の眼目であり、理想の実現として、人々の楽しみと期待を担った事業であった。

 明治8年、「かんろだい据え付けのちば定め」が執り行われ、その後早速に「いちれつすますかんろだい」とおつとめの歌と手振りを教え、「かんろだい」の据え付け完成を待つばかりとなっていた。「ぢばのかんろだいを取り囲んでの神楽づとめ」を勤めることによって、一列の心を澄ませ、陽気ぐらしへと導き、「世界一列たすけ」を思召されていた。これが教祖のひたむきな親心であった。「かんろだい」建設は、こうした信仰の眼目であり、理想の実現として、道人の楽しみと期待を担った事業であった。「かんろだい」の石ぶしんは一時頓挫をしていたとはいえ、天保9年から数えて45年目、2段まで出来上がり完成しつつあった。その「かんろだい」が
官憲に取り払われ、しかも没収されるという運命に遭遇することとなった。

【教組のご立腹】

 この事態に際して、教祖は、どんな風にこれに対処されたであろうか。道人が固唾を飲む思いの中、教祖は、従来にない調子で「残念、立腹」と仰せられ、お筆先に次のように記されている。

 「今までは このよ始めた 人間の 元なるぢばは 誰も知らんで」(17.34)
 「このたびは この真実を 世界中へ どふぞしいかり 教えたいから」(17.35)
 「それ故に かんろふたいを 始めたは 本元なるの ところなるのや」(17.36)
 「こんな事 始めかけると ゆうのもな 世界中を 助けたいから」(17.37)
 「それをばな なにもしらさる こ共にな とりはらハれた この残念わな」(17.38)
 「この残念 なにの事やと 思うかな かんろふ大 が一の残念 」(17. 38)

 続いて、教祖は断固として次のように仰せられた。これまでも官憲の理不尽な弾圧に見舞われてきたが、その度に「節から芽が出る」と諭されてきていたが、この度の激怒は尋常でなかった。お筆先に次のように記されている。

 「この先ハ 世界中は どこまでも 高山にても 谷底までも」(17.61)
 「これからは 世界一列 段々と 胸の掃除を するとをもへよ」(17.62)

 敢然と抵抗の姿勢を見せた。否、さとりの鈍い子供たちの胸の掃除を急ぐという攻勢的態度を表明されることとなった。本部教理は、「一列人間の胸の掃除をすると強い警告を発し、切に、人々の心の成人を促された」と穏和に記すが、むしろ教組の反転攻勢の決意を窺うべきであろう。 (歴史観世界観としての「上、高山論」参照)


【つとめの地歌の「いちれつすまして」への変更】
 これに呼応して、おつとめの地歌を、これまでの「いちれつすますかんろだい」から「いちれつすましてかんろだい」と改められた。より意欲的積極的なお言葉に改められたように拝察される。

【その後のぢばとかんろだい】
 「かんろだい」が設置されるはずにして二段まで出来ていた石を没収された後のぢばには、直径三,四寸の票石が高さ一尺ぐいに積み重ねられていた。この間、道人は、取締りの警官の目を盗んで門から飛び込んで行き、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた」(「教祖伝」239頁)。その石を頂いて患部をさすると、どんな病気も鮮やかにご守護頂いたという話が残っている。それから後は二度と石造りの甘露台を建てる計画はなく、「いちれつすまして」後に建立されることに変わったと口伝されている。  

 明治21年、板張りの二段甘露台が据えられる。「仮かんろだい」について、次のようなお指図がある。
 「さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろ台と云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか(に神一条の)道から、今の間にかんろ台を建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」(明治22.4.18日)。
 「ぢば証拠人間始めた一つの事情、かんろうだい一つの証拠雛型を拵え、今一時影だけのもの云うて居るだけでならんから、万分の一を以って、世界ほんの一寸細道を付けかけた」(明治30.7.14)

 昭和9年10月 現在の木製十三段の雛型かんろだいが据えられる。
 「真座のまなか、ぢばにお鎮り頂きました親神様の御前に眞柱中山正善慎んで申上げます。只今仮の御座所で申上げました通り、立教百年祭を御迎へする仕度として親神様の御守護の下に神殿の改築と礼拝殿の増築をさせて頂きました。とりわけ神殿は親神様の思召しに則り、芯を土台に四方正面に形造り、ひながたではありますが、木製の甘露台をも造らせて頂きました。従って今後は陽気神楽のつとめを始め、一切の神事をお言葉に則り勤行(ごんぎょう)させて頂きたく存じて居りますが、然し成人への道すがら中で御座いますので、御思召にかなはぬ点も沢山ある事と存じます。何とぞ私共子供の心をおくみ下さいまして、今日からはこの甘露台にお鎮りの上、子供等がまごころこめて御願ひ申上げる事柄を御聞き取り下され、ろくぢにふみならす親神様の御心を畏(かしこ)み、尚も世界たすけの為に勇ましく働かせて頂く私共の堅い決心を御受け下さいまして、一列一体の道を早くおつけ下さいますよう一同に代って慎んで申上げます」。(田川虎雄『祭文のてびき』30頁参照、「甘露台の歴史」より)
 なお、後に、本来、甘露の食物を「お供え」として信者に払い下げする予定であったと思われるが、かんろだいが取り壊されてより不可能となった。そういう事情から仮に洗米を小袋に包んで手渡す儀式が執り行われるようになった。「をびや許し」の場合には「をびや御供え」が別に用意されている。教祖の時代は、「お指図」の中で、「何もお供え効くのやない。心の理が効くのや」と諭されている。教祖後になると、本部がその一手販売権を握ることになった。

 6.18(陰暦5.3)日、教祖が、赤衣を着て人力車に乗り、飯降、山中栄蔵(山中忠七の息子)を連れて河内国教興寺村(八尾市)の松村さくのお助けに赴かれ三日滞在された。


【手踊りのお手つけ】
 8.27日(陰暦7.14日)、山田伊八郎心勇組講元が、講社の人々にてをどりのお手つけをしていただきたく、講師のご派遣をば教祖にお願い申し上げ、山本利八が派遣されている。なお、翌明治16年に入ってからは高井、山沢、仲田が指導に来ている。「山田伊八郎・こいそ逸話集」36Pの「山本いさ、徳次郎談話」(天理教敷島大教会編、1983年1月発行)は次のように記している。(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「てをどり お手つけ」)
 「この先生達が、やかましく、厳しくお仕込み下された共通点は、『お手ふりおつとめは理振りである、手の指を離さないよう、特に親指や子指を離さないよう、充分注意するよう』とのことであったのであります」。

【心勇講(後の敷島大教会)の献木】
 8月、心勇講(後の敷島大教会)が、教祖のお言葉により普請の献木を引き受けている。これにつき、「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「敷島として最初の献木」が次のように記している。
 敷島として最初の献木

 明治十五年八月のある日、山田伊八郎の目が急に見えなくなった。”こいそ”がお願いしたら八分通り見えるようになったので、すぐおぢばに参拝すると、『少し用があったから目をおさえたのや』と教祖が仰せられ、伊八郎は困惑して「この若ざかりに目が悪くなっては困りますから、どうぞお助け下さい」と、お願い申し上げると、『ふしんするのやが、お前のところに山があるやろう、その山の木をこのふしんに使いたいのやが』というようなお言葉である。大恩ある教祖へのご恩報じはこの時とばかり、伊八郎は喜んで、「ご用材は、この私に献納させて下さい」と、お願いした。そこで飯降伊蔵がわざ/\出屋鋪の山田家へご出張になり、立木に印をお入れ下さったのである。それを早速切り倒され、心勇組の人たちに手伝わせておぢばへ運び込んだ。この松材献納を警察が問題視する形勢となり、その夜三里半もある山田家まで飯降様がお越し下されて、木材売渡証や金銭受取証文など作り、表向きは売った、買ったということに話を決めて、夜の明けきらぬうちにお立ち帰り下さった。このご用材の余材を台として十六年正月、おぢばのお節会を初めて屋外で設営して開催下さる。(伊八郎談話、倉之助手記)(昭和五十八年一月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)34~35ページより)

 9.21(22)日、新治郎(真之亮)が、中山家の家督を相続し戸主となる。


 10月頃、内蔵をつぶすことになり、伊藤蔵一家は小二階と呼ばれる二階座敷の下に移った。


【毎日つとめ始まる】

 こうして、官憲の取締りはいよいよ露骨に強化され始め、「かんろだい」の石を没収してからは、その取締りの対象が、教祖とその主だった道人の身に集中してきた感があった。教祖は、そのような中にも関わらず、ただ一条に「おつとめ」をせき込められ、特に10.12(陰暦9.1)日から10.26(9.15)日まで、自ら転輪王講社の祭壇の場所となっている北の上段の間にお出ましの上、毎日毎日「おつとめ」が行なわれた。この時期、教祖が、道人に一層の成人を促そうとのお仕込みに懸命であらせられたことが分かる。

 応法派の教理では、人間思案の常識からすれば、これほど無謀極まる危険なことはなかった。取締り当局の目が、お屋敷に、教祖に、一層の厳しさをもって注がれている真っ只中に、おつとめを公然と鳴物入りで、しかも毎日続けているのである。人々の心は、何とも言えない無気味さで一杯であり、隠しきれない不安の明け暮れとなった、と説く。


【毎日つとめ最終日のいきさつ】

 「おつとめ」は、泉田事件、我孫子事件が大きな社会問題として取り上げられている最中にも毎日公然と勤め続けられた。その「毎日づとめ」の最終日のいきさつを見ておく。この日は1 0.26(陰暦9.15)日で、石上神宮の祭礼の日であった。年に一度の秋祭とて近郷からも人の出が多く、酔漢の喧嘩などもつきもので、それらを取り締まるために多数の巡査が集まってくるのが慣わしであった。今日こそは咎めだてされるのではなかろうか、これは、一応誰もが抱く人間心の不安であった。この日、炊事当番を勤めた山本利三郎が、餠につくもち米を誤って朝のご飯に炊いてしまった。又、いよいよおつとめにかかろうとする時、つとめ人衆の一人前川半三郎が琴につまずいて倒れた。こうした異変の数々が起こるに連れ、益々もって只事ではないと不安の空気が広がった。ところが不思議にも、この日は何のこともなく、教祖が仰せ下された毎日づとめは無事に終了した。

 変事がやってきたのは一切が無事におわった翌10.27(陰暦9.16)日であった。この日の警察の行動は、余程事前に準備と画策をしていたものと見え、その行動は今までにない激しさであった。お屋敷内にあるもので、凡そ信仰の用に供していたと思われるものは根こそぎ没収して、これを村総代に一応預けた上で引き揚げるという徹底した取締りとなった。

 ところが、皮肉なことには、この時没収されたものは、転輪王講社開設以来そのままになっていた曼陀羅をはじめ神仏混淆の祭祀用具一式であって、お道の祭典には必要がないばかりか、教祖が「むさくるしいてならん、すっきり神が取り払う」と仰せ下されたものばかりであった。こうして、この度の取締りも、教祖のお言葉通りの結果となって立ち現われることとなった。こうした事実を身をもって経験した道人は、今さらのごとく教祖の為さること、仰せくださることの不思議さに驚くとともに、この教祖の仰せのままについていさえすれば、絶対に間違いないとの確信を益々強めることとなった。こうして又も「ふしから芽が出る」の例え通りとなった。こうなると、お言葉のもう一つの予言であった「何時何処へ神がつれて出るや知れんで」とはどういう意味であろうかが気がかりとなった。

 明治14.15年頃の次のような逸話が伝えられている。辻忠作に対し、お屋敷の者が「お前さんが来るから教祖が警察に引っ張って行かれるのや。もう来てくれるな」と云ったのに対し、気色ばんで「教祖が来てくれるなと仰るなら来んけど、おまはんが云うのやったら、わしは意地でも、子も孫も連れてくる」と云った。

 明治15年には、お屋敷の玄関口に「参詣人お断り」の張り紙が出されていたが、忠作は毎朝早く参拝し、農事に励んだ後の夕刻また参り、夜遅くまで勤める。息子由松は、「秋の忙しいときでも、昼は精一杯働いておいて、夜は寝しな過ぎても、今宵参らな、お話が聞かれんと言うて、遅うても参る。又、暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが何が降ろうが、闇の夜でも提灯持たずに暗がりの道を、毎日毎夜、通いました‐‐‐」と伝えている。お屋敷に信者が来ると、自分から飛び出していって神様の話を取り次いだとも言われている。


 この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その一)」を転載しておく。
▷正直のこゝろ◁
 教祖御在世の時分は、その筋の圧制極めて甚だしく、御神楽勤めをする事も、堅く禁じられていたのでありますから、常に秘密にこれを執行していたのでありますが、一日(あるひ)の事、遠国から帰って来た数名の信徒が初代管長公(註・初代真柱 中山真之亮)の御屋敷、即ち中山家の御座敷に集って、一心不乱に御勤をさせて頂いている最中、巡査が来たと云う通知(しらせ)がありましたので、ソラコソ大変と、一同が驚き遽(あわ)て、手に/\面や楽器を持って、吾先にと逃出し、初代管長公だけ御一人その場に居残り、何食わぬ顔していられましたが、巡査はツカ/\と入来り、その光る眼で四辺(あたり)を見廻し、腹の底から出た尖り声で「禁制に背いて、又つとめをしているな」と、嚇(おど)すように咎めた。前管長公は沈着(おちつ)いた物謂(ものい)いで「イエ、決して……御覧の通り、誰もおりませぬ」と、静かに答えられた。巡査は一足前に進んで、「真之亮、偽りを申すな、其方が何と申しても、彼所(あそこ)に確かな証人が居るッ」と、座敷の一隅(かたすみ)を指(ゆびさ)した。管長公は何心無く巡査の手首の向いている方に目を注がれると南無三宝、今しもつとめに用いていた、鼓が一個置忘れてあった。若年ながら胆(きも)のすわった管長公はビクともせずして莞爾一笑(にっこりわらい)「アハヽヽヽあの鼓ですか。あれは妹[管長公夫人玉惠子の方、当時猶(まだ)十二三の令嬢であった]が、稽古屋から持って帰り、ポン/\鳴らしていましたが、置き放しにして、何処かへ行ったのです」と平気な返答。管長公の此の当意即妙の挨拶に、作り事とは知りながら、巡査は返す言葉が無いので、管長公を尻目に懸け、そのまま教祖の御居間に進入した。教祖は例(いつも)の如く、端座瞑目、神様との御霊交(おはなし)に余念なくいらせられた。巡査は立ったまま「婆ァさん、今日は誰も来ていないのか」と、尋ねたが、教祖は閉じたる眼を開かれて莞爾(にこやか)に『ヲヽ、御苦労様、イエ、五六人の子供等が、今がた彼所(あちら)で、つとめをしておりました……』是を聞くが否や、巡査は後から随(つ)いて来られた、管長公を見返って、眼からは雷光(いなずま)、口からは雷鳴(かみなり)「コラ、真之亮、貴様、よくも己(おれ)を欺(だま)したな、今、婆ァさんは、何と言った。貴様等が、つとめをしていたと、明かに申したでないか」、さすがの管長公も教祖の御前、此上陳述(いいわけ)の言葉も無ければ、只教祖のお顔を見上ぐるのみ、堅く口を結んでいられると、教祖はうなずきたまいつつ『コレ、真之亮、今巡査さんの言わしゃるところによれば、お前は何か嘘を言うたと見える、何故嘘を言わしゃる。わしはお前等に何を教えている、人は正直でなければならぬ、正直でなければ人ではない、正直のもとは、嘘を言わぬにあると、あれほどねんごろに言い聞かせてあるでないか、イヤ、言い聞かせたばかりじゃない、私は是までお前等(まえたち)に、只の一度でも不正直な事して、見せた事があるか、嘘を言うて聞かせた事があるか、お前は神様のお子じゃないか、私の孫じゃないか、何故人様に嘘を言うたのじゃ、サア、タッタ今此所で懺悔さっしゃい』、教祖は常のやさしさにひきかえ、厳然たる口調にて教戒された。管長公は眼に涙を浮べて、うや/\しく両手をつかれ「巡査殿、実は只今七八名の信者等と一緒につとめをいたしておりました。貴下(あなた)のお目に触れゝば、禁制を犯した科(とが)で、一同が拘引されるは必定、信徒の人々の中には、百里二百里の海山隔てた、遠方より参った者もありまする。其等(それら)の者に憂目を見するも気の毒と存じ、身を隠させたに相違ござりませぬ。併し、勧めてつとめをさせましたのも、此の私、逃がしましたのも、此の私、他の人々に科はござりませぬ、何卒私だけを御拘引下されまするよう」と、従容(しょうよう)として言出した。此の教祖の厳重なる訓戒と此の管長公の柔順なる服従を見て、さすが法律の外何も知らざる巡査も胸を打たれて、物柔かに管長公に向い「以後心得違いの無きよう」と、簡単に説諭して立去った。(つづく)

【教祖御苦労】
 10.20日(陰暦9.9日)、教祖はじめ5名が奈良監獄に拘留される。10.29日(陰暦9.18日)まで拘束されている。11.9日(陰暦9.29日)、教祖帰宅。

 11.8日、蒸し風呂廃止。


 (道人の教勢、動勢)
 明治15.3月改めの講社名簿によると、新たに結成された講も含めて大和国5、河内10、大阪4、堺2の講名が記載されている。その他に記載されていない以前からの講社が7つあり、信者の分布は遠く遠江、東京、四国辺りにまで及んでいた。
 1882(明治15)年、6月、大阪市南区瓦屋町(現・大阪市中央区瓦屋町)の大工/小松駒吉(18歳)がコレラにかかり危篤のところを、泉田籐吉のおたすけでご守護頂き入信。1934(昭和9).2.13日、出直し(享年70歳)。明治20年1月、 教祖より赤衣。明治20年12月、本席よりおさづけ。御津支教会(現大教会)初代会長。(稿本天理教教祖伝逸話篇103「間違いのないように」)

 夏頃、鴻田忠三郎、新潟に布教する。秋頃、遠州に信仰が伝わる。

 11.10日(陰暦9.30日)、中山まつゑ出直し(32歳)。


 (当時の国内社会事情)
 1882(明治15).1.1日、旧刑法(皇室に対する罪〈不敬罪〉、兇徒聚集罪、官吏侮辱罪)、治罪法施行される。集会条例改正追加(支部の禁止、他社との通信連絡禁止、集会への警察官の臨監)される。4.16日、立憲改進党が結成される。8月、皇典研究所設立。日本銀行が設立される。福島事件起る。自由民権運動が広がる。朝鮮とアメリカ、通商和親条約を締結。国会開設の詔が頒布される。コレラが流行し全国で死者3万余発生。刑法・治罪法施行。自由党総理、岐阜で遭難。ルソー著・中江兆民訳『民約訳解』。
 (田中正造履歴)
 1882(明治15)年、42歳の時、立憲改進党に入党。

 (宗教界の動き)
 1882(明治15).1月、内務省の政教分離政策で、教導と神官の兼職が禁止され、神官は葬儀に携わらぬものとなる。府県社以下の神社は当分従前通り。国家神道と、神徳布教、人心救済の教法、行法にその価値存在をかけた教派神道とに二大別され一般宗教と区別された。

 3月、宮様は総裁を免ぜられ、その折、総裁の宮は教導職に皇道の隆盛に尽くすよう論され「令旨」を御親筆され、その後、教導職の嘆願により、再び神道総裁に就任した。

 5.15日、神道本局より、神道神宮派、同出雲大社派、同扶桑派、同實行派、同大成派、同神習派が、続いて御嶽派が別派特立を差許され神道6派が独立する。その間、麹町区飯田町に皇典講究所が開設され総裁の宮は兼務されることとなった。

 5月、天理教弾圧。

 9月、神道御岳教独立する。芳村正秉、神習教を設立。

 神道大教の教史」に次のように記されている。
 「昭和15年、宗教団体法施行さるるに当り、当時大会議を開き教名変更の重大審議の結果、創立以来の大教宣布の由緒を以て「神道」より「神道大教」へと改名した。かつては、教派神道の中心的組織体であったが、事務局・本局時代にそれぞれの教団が特立、独立して行き(現)第十代板倉信之助となり、歴代管長に培われた教えと本教の道統を引き継ぎ現在に至っている。(神社新報 『神道いろは』より転載)」。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1882年、ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結ぶ。





(私論.私見)