第69部 | 1882年 | 85才 | 伊蔵伏せ込み、かんろだいの没収と迫害、毎日つとめ |
明治15年 |
(最新見直し2015.10.26日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【お筆先のご執筆】 | |
教祖はこの頃、お筆先第17号を執筆している。全1711首が完成される。教祖は、最後となるお筆先にこう記した。
この年初めから「合図立てあい、合図立てあい」としばしば仰せられている。 |
【教祖他高弟が奈良警察署へ呼び出される】 |
2月、奈良警察署から出頭命令が為された。教祖、秀司の妻まつゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の面々が呼び出され、それぞれに科料の言い渡しが為された。その時の警官の申し渡しは、「本官がいかほどやかましく取り締まるとも、その方らは聞き入れない。その方らは根限り信仰いたせ。その代わりに、本官も根限り止めに入る。根比べする」というものであった。 |
【伊蔵の「伏せこみ」】 | ||
3.26(陰暦2.18)日、伊蔵はいよいよ櫟本の家を引き払ってお屋敷に移り住んだ。お道ではこれを「伏せこみ」という。こうして伊蔵一家は伏せこみ人衆となった。この時教祖85才、伊藤蔵49才、おさと48才、長女よしえ17才、次女まさえ11才、長男政甚8才であった。この時、教祖は、次のように宣べられた。
明治31.8.26日の刻限お指図は次のように記している。
お屋敷に引き移ってからの伊蔵一家は、内蔵の中二階6畳に、中山家の方々は中南に住んだ。従来中山家の営業であった宿屋と空風呂は、おさとの名義に切り替えることになり、4.1日から一切を引き受ける事になった。伊蔵は、官憲が取り調べに来ると、年若いよしえに門を開けさせにやる隙に参拝者や宿泊人を裏口から抜け出さすなど教祖を護る勤めに当たっていた。 |
【かんろだいの没収弾圧事件発生】 | |
5.12(陰暦3.25)日、奈良警察署長上村行業(ゆきなり)が数名の警官を引き連れて出張し、当時2段まで出来ていた「かんろだい」の石を取り払い没収するという事件が起こった。(別稿「かんろだいの理」) この時教祖の衣類など14点も没収された。「差押物件目録」は次の通り。
「かんろ台没収」は、教祖の思召しに対する官憲の正面からの弾圧攻撃であった。但し、八島教学では、秀司亡き後戸主となったまつえが、山沢良治郎の指図でかんろだいの撤去を警察へ依頼したのが真相であるとのことしである。こういう事情により、警察書類に立会人として署名している、と述べている。 教祖は、明治20年の正月を期してより積極的に働きに出る予告をされていた(ふ3-73~74)。それは、教祖が115歳在世を前提に考えられていたたすけのシナリオであった。天保9年の立教の年から準備期間としての長き50年の艱難辛苦の道を通り抜けて、明治20年から道はいよいよ世界に躍り出ようとしていた。その50年の準備がまもなく完成しようとしていた矢先の明治15.5.12(旧3.25)日、二段まで出来ていた念願のかんろだいが官憲によって没収されたことになる。 |
【かんろだい没収の教理的意味】 |
教祖はここまで、道人に順々に「理」を教え、「おつとめ」を整備し、その完結態として「おぢば」に「かんろだい」を据え付け、これを取り囲んで「神楽づとめ」を勤めることを目指していた。
「お道」は、教祖の「せき込み」のままにお連れ通して頂く中に幾重の節も通り抜けてきた。それは、常に教祖がお聞かせ下さる通り、かえって芽の出る「活きぶし」であることを人々は自ら体得することができた。例え、どんなに恐き危なき道筋であっても、教祖の仰せのままにお連れ通り頂きさえすれば、絶対に間違い無いという堅い信念を、幾度かの節を通して人々は身に付けていた。これら信念堅くした道人を講元とし、既に各地に数々の講中組織も結成されつつあった。道人は、ぢば中心、教祖目標に強い信仰の紐によって結ばれていた。教祖のお導き下さる方向なら、どんなところへでもついていこうとする信仰の団結ができていた。 「かんろだい事件」の起こった明治15年のこの頃には、「お筆先」の執筆も既に終結編である第17号までに筆が進んでおり、「お道」教義の大綱が確立されつつあった。道人も、「お道」の信仰の眼目が何であるか承知する時節にもなっていた。即ち、「お道」の信仰は、心の入れ替えによる「陽気ぐらし」の世の実現であって、単にご守護を頂く信仰ではなくて、心の入れ替え、心の普請を通じて「世の立替、世直し」に向かうことが一層明確にされつつあった。「かんろだい」の建設は、こうした信仰の眼目であり、理想の実現として、人々の楽しみと期待を担った事業であった。 明治8年、「かんろだい据え付けのちば定め」が執り行われ、その後早速に「いちれつすますかんろだい」とおつとめの歌と手振りを教え、「かんろだい」の据え付け完成を待つばかりとなっていた。「ぢばのかんろだいを取り囲んでの神楽づとめ」を勤めることによって、一列の心を澄ませ、陽気ぐらしへと導き、「世界一列たすけ」を思召されていた。これが教祖のひたむきな親心であった。「かんろだい」建設は、こうした信仰の眼目であり、理想の実現として、道人の楽しみと期待を担った事業であった。「かんろだい」の石ぶしんは一時頓挫をしていたとはいえ、天保9年から数えて45年目、2段まで出来上がり完成しつつあった。その「かんろだい」が官憲に取り払われ、しかも没収されるという運命に遭遇することとなった。 |
【教組のご立腹】 | ||||||||
この事態に際して、教祖は、どんな風にこれに対処されたであろうか。道人が固唾を飲む思いの中、教祖は、従来にない調子で「残念、立腹」と仰せられ、お筆先に次のように記されている。
続いて、教祖は断固として次のように仰せられた。これまでも官憲の理不尽な弾圧に見舞われてきたが、その度に「節から芽が出る」と諭されてきていたが、この度の激怒は尋常でなかった。お筆先に次のように記されている。
敢然と抵抗の姿勢を見せた。否、さとりの鈍い子供たちの胸の掃除を急ぐという攻勢的態度を表明されることとなった。本部教理は、「一列人間の胸の掃除をすると強い警告を発し、切に、人々の心の成人を促された」と穏和に記すが、むしろ教組の反転攻勢の決意を窺うべきであろう。 (歴史観世界観としての「上、高山論」参照) |
【つとめの地歌の「いちれつすまして」への変更】 |
これに呼応して、おつとめの地歌を、これまでの「いちれつすますかんろだい」から「いちれつすましてかんろだい」と改められた。より意欲的積極的なお言葉に改められたように拝察される。 |
【その後のぢばとかんろだい】 | |||
「かんろだい」が設置されるはずにして二段まで出来ていた石を没収された後のぢばには、直径三,四寸の票石が高さ一尺ぐいに積み重ねられていた。この間、道人は、取締りの警官の目を盗んで門から飛び込んで行き、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた」(「教祖伝」239頁)。その石を頂いて患部をさすると、どんな病気も鮮やかにご守護頂いたという話が残っている。それから後は二度と石造りの甘露台を建てる計画はなく、「いちれつすまして」後に建立されることに変わったと口伝されている。
明治21年、板張りの二段甘露台が据えられる。「仮かんろだい」について、次のようなお指図がある。
昭和9年10月 現在の木製十三段の雛型かんろだいが据えられる。
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なお、後に、本来、甘露の食物を「お供え」として信者に払い下げする予定であったと思われるが、かんろだいが取り壊されてより不可能となった。そういう事情から仮に洗米を小袋に包んで手渡す儀式が執り行われるようになった。「をびや許し」の場合には「をびや御供え」が別に用意されている。教祖の時代は、「お指図」の中で、「何もお供え効くのやない。心の理が効くのや」と諭されている。教祖後になると、本部がその一手販売権を握ることになった。 |
6.18(陰暦5.3)日、教祖が、赤衣を着て人力車に乗り、飯降、山中栄蔵(山中忠七の息子)を連れて河内国教興寺村(八尾市)の松村さくのお助けに赴かれ三日滞在された。
【手踊りのお手つけ】 | |
8.27日(陰暦7.14日)、山田伊八郎心勇組講元が、講社の人々にてをどりのお手つけをしていただきたく、講師のご派遣をば教祖にお願い申し上げ、山本利八が派遣されている。なお、翌明治16年に入ってからは高井、山沢、仲田が指導に来ている。「山田伊八郎・こいそ逸話集」36Pの「山本いさ、徳次郎談話」(天理教敷島大教会編、1983年1月発行)は次のように記している。(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「てをどり お手つけ」)
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【心勇講(後の敷島大教会)の献木】 | |
8月、心勇講(後の敷島大教会)が、教祖のお言葉により普請の献木を引き受けている。これにつき、「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「敷島として最初の献木」が次のように記している。
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9.21(22)日、新治郎(真之亮)が、中山家の家督を相続し戸主となる。
10月頃、内蔵をつぶすことになり、伊藤蔵一家は小二階と呼ばれる二階座敷の下に移った。
【毎日つとめ始まる】 |
こうして、官憲の取締りはいよいよ露骨に強化され始め、「かんろだい」の石を没収してからは、その取締りの対象が、教祖とその主だった道人の身に集中してきた感があった。教祖は、そのような中にも関わらず、ただ一条に「おつとめ」をせき込められ、特に10.12(陰暦9.1)日から10.26(9.15)日まで、自ら転輪王講社の祭壇の場所となっている北の上段の間にお出ましの上、毎日毎日「おつとめ」が行なわれた。この時期、教祖が、道人に一層の成人を促そうとのお仕込みに懸命であらせられたことが分かる。 |
【毎日つとめ最終日のいきさつ】 |
「おつとめ」は、泉田事件、我孫子事件が大きな社会問題として取り上げられている最中にも毎日公然と勤め続けられた。その「毎日づとめ」の最終日のいきさつを見ておく。この日は1
0.26(陰暦9.15)日で、石上神宮の祭礼の日であった。年に一度の秋祭とて近郷からも人の出が多く、酔漢の喧嘩などもつきもので、それらを取り締まるために多数の巡査が集まってくるのが慣わしであった。今日こそは咎めだてされるのではなかろうか、これは、一応誰もが抱く人間心の不安であった。この日、炊事当番を勤めた山本利三郎が、餠につくもち米を誤って朝のご飯に炊いてしまった。又、いよいよおつとめにかかろうとする時、つとめ人衆の一人前川半三郎が琴につまずいて倒れた。こうした異変の数々が起こるに連れ、益々もって只事ではないと不安の空気が広がった。ところが不思議にも、この日は何のこともなく、教祖が仰せ下された毎日づとめは無事に終了した。 明治14.15年頃の次のような逸話が伝えられている。辻忠作に対し、お屋敷の者が「お前さんが来るから教祖が警察に引っ張って行かれるのや。もう来てくれるな」と云ったのに対し、気色ばんで「教祖が来てくれるなと仰るなら来んけど、おまはんが云うのやったら、わしは意地でも、子も孫も連れてくる」と云った。 |
この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その一)」を転載しておく。
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【教祖御苦労】 |
10.20日(陰暦9.9日)、教祖はじめ5名が奈良監獄に拘留される。10.29日(陰暦9.18日)まで拘束されている。11.9日(陰暦9.29日)、教祖帰宅。 |
11.8日、蒸し風呂廃止。
(道人の教勢、動勢) |
明治15.3月改めの講社名簿によると、新たに結成された講も含めて大和国5、河内10、大阪4、堺2の講名が記載されている。その他に記載されていない以前からの講社が7つあり、信者の分布は遠く遠江、東京、四国辺りにまで及んでいた。 |
1882(明治15)年、6月、大阪市南区瓦屋町(現・大阪市中央区瓦屋町)の大工/小松駒吉(18歳)がコレラにかかり危篤のところを、泉田籐吉のおたすけでご守護頂き入信。1934(昭和9).2.13日、出直し(享年70歳)。明治20年1月、 教祖より赤衣。明治20年12月、本席よりおさづけ。御津支教会(現大教会)初代会長。(稿本天理教教祖伝逸話篇103「間違いのないように」) |
夏頃、鴻田忠三郎、新潟に布教する。秋頃、遠州に信仰が伝わる。 |
11.10日(陰暦9.30日)、中山まつゑ出直し(32歳)。 |
(当時の国内社会事情) |
1882(明治15).1.1日、旧刑法(皇室に対する罪〈不敬罪〉、兇徒聚集罪、官吏侮辱罪)、治罪法施行される。集会条例改正追加(支部の禁止、他社との通信連絡禁止、集会への警察官の臨監)される。4.16日、立憲改進党が結成される。8月、皇典研究所設立。日本銀行が設立される。福島事件起る。自由民権運動が広がる。朝鮮とアメリカ、通商和親条約を締結。国会開設の詔が頒布される。コレラが流行し全国で死者3万余発生。刑法・治罪法施行。自由党総理、岐阜で遭難。ルソー著・中江兆民訳『民約訳解』。 |
(田中正造履歴) |
1882(明治15)年、42歳の時、立憲改進党に入党。 |
(宗教界の動き) | |
1882(明治15).1月、内務省の政教分離政策で、教導と神官の兼職が禁止され、神官は葬儀に携わらぬものとなる。府県社以下の神社は当分従前通り。国家神道と、神徳布教、人心救済の教法、行法にその価値存在をかけた教派神道とに二大別され一般宗教と区別された。 3月、宮様は総裁を免ぜられ、その折、総裁の宮は教導職に皇道の隆盛に尽くすよう論され「令旨」を御親筆され、その後、教導職の嘆願により、再び神道総裁に就任した。 5.15日、神道本局より、神道神宮派、同出雲大社派、同扶桑派、同實行派、同大成派、同神習派が、続いて御嶽派が別派特立を差許され神道6派が独立する。その間、麹町区飯田町に皇典講究所が開設され総裁の宮は兼務されることとなった。 5月、天理教弾圧。 9月、神道御岳教独立する。芳村正秉、神習教を設立。「神道大教の教史」に次のように記されている。
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(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
1882年、ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結ぶ。 |
(私論.私見)