別章【毛沢東】 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/令和2)年.8.10日
目次 | |
中項目 | |
生涯の概略履歴 | |
毛沢東の夫人履歴考 | |
別章【毛沢東著作集】 | |
毛沢東語録 | |
毛沢東の組織論: | |
建国革命の功績 | |
建国後の評価 | |
文革中の評価 | |
様々の毛沢東論 | |
れんだいこの毛沢東論 | |
毛沢東は何を見据えて闘ったのか論 | |
(私論.私見)
毛沢東の個性を丹念に執拗に追求 金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝(一八九三〜一九四九)上・下』 みすず書房、月刊『東方』2001年3月号28〜31ページ
主編金冲及は日本語版への序文で、執筆意図を「毛沢東はどうして毛沢東になりえたかという問題」だと説明した。「時勢が英雄を造る」という言い方がある。「時勢」とはなにか。「もしも近代中国のあのような特殊な環境がなかったら、もしも近代中国の革命闘争がなかったら、もしも中国の歴史と中国の文化という深い背景が存在しなかったら、毛沢東はありえなかった」(iiiページ)。要するに、中国史と中国文化のなかで行われた近代中国の革命闘争こそが英雄毛沢東を生み出す必要条件であった。だが必要条件は十分条件ではない。そのような革命闘争のなかで「同じ隊列にありながら、誰もがみな毛沢東になりえたわけではない」(iiiページ)。いわば毛沢東の個性こそが毛沢東をして毛沢東たらしめたのだ。その「思想、性格、作風」とは何か。著者たちは長期かつ錯綜した革命実践の過程で「マルクス主義者毛沢東」(毛沢東はみずからをそのように認識した)が生まれ、しだいに「中国的マルクス主義」(これも毛沢東自身の認識である)を作り上げていく過程を執拗に追跡する。その外的内的過程に、利用可能なあらゆる資料を渉猟しつつ迫る。細部まで確実に描くことによって巨人の心の襞にまで迫ろうとする姿勢は真摯そのものだ。
遵義会議を経て、延安でのある日、一九四三年三月二〇日、中央政治局は毛沢東を主席に推薦し、「主席が最終決定権をもつ」と決めた。「この決定が毛沢東に党全般の活動におけるすべての重大問題について最終決定権を与えることになった、と考える研究者がいるが、それは誤伝に基づく誤解である」(610ページ)。正確な記述によって、これまでいささか曖昧であった史実の細部がくっきりと浮かびあがる一例だ。
一九四三年五月二〇日、ディミトロフから毛沢東に宛てた電報が届き、コミンテルン解散を知らされた。「コミンテルンは、もはや闘争の必要性に適応できなくなっており、かえって各国の革命の発展の妨げになる」、「解散は、中国の党が独立自主的に、中国の実情にもとづいて中国革命の問題を処理しうるようになるうえでいっそう役立つ」(618ページ)。毛沢東はようやく功罪半ばするコミンテルンの軛から解放された。その興奮ぶりが察せられる。いまや毛沢東は思う存分に指導力を発揮できる条件が整った。あとは一瀉千里、全国解放へ向けての進軍が始まる。
訳者が原文の不足を補う例は少なからぬ訳注にみられ、苦労がしのばれる。望蜀の感を述べれば、原書にはない訳書固有の「人名索引」は大いに役立つが、もう一つ「事項索引」も欲しかった。この本は、伝記として読みくだすだけでなく、必要に応じて適宜参照すべき中国革命史の性格をもつ書物だからである。
さて違和感を感じたところを一つ挙げておきたい。秋収蜂起後、毛沢東が長沙暴動を停止する決断をした有名なエピソードにまつわる解釈である。毛沢東のこの決断について、本書は「当時の中国の具体的状況に合致しており、しかもマルクス・レーニン主義の基本的原則にも合致している」(訳書上巻143ページ)と評価した。「当時の中国の具体的状況に合致」していたことは、明らかだ。後者の判断基準には疑問を感ずる。当時の毛沢東の決断を「マルクス・レーニン主義の基本的原則」に合致している、と今日の時点で評価することにどのような意味があるのか。当時のコミンテルンの呪縛力や、誤った指令がすべて「マルクス・レーニン主義」によって権威付けされていたことはよく知られている。コミンテルンはその解釈権を傘に着て誤った指揮を繰り返し、中国の同志たちを悩ませた。毛沢東らは惨憺たる犠牲のうえに、「中国の具体的状況に合致」する闘争こそが勝利への唯一の道であることを探り当てた。この実践的勝利について「マルクス・レーニン主義」の理論的勝利だと毛沢東自身が確信したことは明らかだが、これは当時の毛沢東の認識である。旧ソ連が解体して一〇年を経た今日、二〇世紀の革命史には根本的な見直しが必要ではないか。私は「マルクス・レーニン主義の原則」なるものを基準として毛沢東の正しさを説く解釈には違和感を感じざるをえない。これは本書の後編に当たる『毛沢東伝一九四九〜一九七六』の執筆スタンスへの期待にも関わる。四九年革命までの毛沢東の努力がほとんどすべて成功したのは、マルクス・レーニン主義の「教義から自由」であったためではないか。四九年以後の試みは、人民公社運動であれ、工業の国有化運動であれ、基本的に失敗した。これは毛沢東が「マルクス・レーニン主義の教義」(特に農業理論、所有制理論)を真に追求した事実と深く関わっている。この矛盾を毛沢東の傍らで鋭く見つめていたからこそ、ケ小平は「社会主義市場経済論」を提起できたのではないか。編者たちが解放後の毛沢東をどう描くのか、興味津々である。出版が待たれる。