毛沢東の夫人履歴考
 毛沢東は生涯に三度結婚している。その最後の三度目が江青であった。江青は今日悪妻として史的評価が下されているが、彼女の実像はほとんど未解明の気がしてならない。とりあえずインターネットサイトから拾った以下の文を書き付けておく。れんだいこの意に染まぬところは適宜修正した。今後時間が有る限り書き換えを行う予定で居る。


【最初の妻・楊開慧】

 1921年秋、中共湘区委員会が成立してまもなく、楊開慧は入党し、毛沢東の活動を助けた。1921.8月毛沢東が湖南自修大学を始めると、彼女はこの仕事を手伝った。1922年毛沢東が湖南青年図書館を創立すると、楊開慧はこの図書館の責任者となって、館内の事務をとりしきった。1922年長男毛岸英(毛遠仁)が生まれ、翌年次男毛岸青(毛遠義)が生まれた。

 1927年毛沢東一家は武昌に引っ越し、同年に三男毛岸立(毛遠智)が生まれた。1927年の大革命の失敗後、毛沢東一家は逃れて長沙に帰ったが、彼が秋収蜂起の準備をしている間、妻は子供を連れて長沙板倉の実家に戻った。これが二人の永別となった。1930.8月紅軍が長沙を撤退すると湖南省清郷(郷土粛清の意)司令何鍵は楊開慧逮捕に壱千元の懸賞金をつけたからである。

 彼女は1930.10月に8歳の毛岸英とともに逮捕され、毛沢東との絶縁声明を強要されたが、きっぱり拒否して11.4日に銃殺された。享年29歳の若さであった。毛沢東は誇り高き妻を失った。

 毛沢東にとって彼女は、革命の同志であるとともに理想の妻であった。解放後の1957.5月「我は驕り高き楊(開慧)をうしない、君は柳をうしなう」ではじまる詞をつくり、彼女の親友であった李淑一にあたえ、なつかしんだ。晩年には、生活秘書の張玉鳳や孟錦雲に楊開慧と同じ髪型をさせて楊開慧をしのんでいたという。



【二度目の妻・賀子珍】

 二番目(形のうえでは三番目)の妻・賀子珍は毛沢東が最も苦しい時代に生活をともにし、六人の子供を生みおとし、ついにはモスクワの精神病院に閉じこめられるという辛酸をなめた。

 彼女は実家が井岡山東麓の永新県にあった関係で1927年からゲリラに参加している。永新暴動から井岡山に撤退した共産党員の紅一点、最初の女兵士であった。1927.10月、毛沢東のひきいる秋収蜂起部隊が井岡山にはいった。1928.6月地主保安隊が懸賞金つきの毛沢東を襲った事件を目撃した19歳の賀子珍は、勇敢な青年革命家毛沢東(当時34歳)に一目ぼれした。

 まもなく結婚して毛沢東の生活秘書、機要秘書をつとめるようになった。生活秘書とは身辺の雑事を処理するもの、機要秘書とは解放区の機要文件を保管したり、整理する仕事である。賀子珍はゲリラ戦士の活動に慣れており、毛沢東の身辺で雑事をつとめるのは不本意で、たびたび不満をもらした。

 結婚前に毛沢東は妻(楊開慧)と三人の子供を実家に残してあること、久しく音信普通であり、生死も定かでないと説明した。1929.3月、紅軍が二度目に龍岩を攻撃したとき賀子珍は最初の女児を生んだ。その女児は15元のお礼とともに人に預けられ、その後預けた女性を探したが、子供は死んだとのことだった。

 1932.11月賀子珍は福建省長汀の福音医院で男児を生み、二歳すぎまで手許で育てたが、長征に出発する際、ある家に預けたが、預け先がわからなくなった。第三の嬰児は毛毛が生まれてから一年も経たないうちに生まれた男児だが、育たなかった。

 長征途中で賀子珍は第四の女児を生み落とした。オーバーで包み、四元をつけて土地の者に托し、賀子珍は担架に乗せられて長征をつづけた。この女児も行方不明となった。1936年賀子珍は保安で第五の女児を生んだ。1947年にソ連から帰国し毛沢東の身辺で暮らすようになったとき、(李)敏と名付けられた。

 1938.10月、賀子珍は毛沢東の意見にさからってモスクワに行った。毛沢東の生活秘書の仕事に飽きたらず、彼女は独立して革命に献身できる仕事を模索しており、そのために知識を身につけることを望んだ。紅軍最初の女性兵士は主婦の座に甘んじることができなかったのである。

 モスクワに着いてまもなく、賀子珍は第六の男児を生んだ。彼女は嬰児をあずけて東方大学に通った。毛岸英、毛岸青は上海の党組織によって継母より一足早くモスクワの国際児童院に預けられていた。母子四人(毛岸英、毛岸青、李敏)は毎日のように会った。

 毛沢東は賀子珍に手紙をかいて直ちに帰国するよう求めたが、賀子珍は一端始めた学習をやめたくなかった。男児が10カ月のとき、風邪をこじらせて肺炎になって死んだ。賀子珍は悲痛のあまりヒステリーになった。このとき国際児童院の院長は精神分裂症のカルテをかいて、彼女をイワノフ市の精神病院にいれてしまった。こうして自立をめざした女性はついに鉄格子のなかに閉じこめられたのである。

 1947年、王稼祥・朱仲麗夫妻が精神病院から出してやり、賀子珍は李敏、毛岸青を連れて九年ぶりに帰国した。賀子珍は、中国を離れて九年、国内の状況がよくわからないので、工作を通じて理解したい。ソ連での生活は長征のときよりも苦しかった、と毛沢東に手紙を書き、李敏の手紙も同封した。一カ月後毛沢東は警衛員をよこして子供たちをひきとりたいと提案し、賀子珍の同意をえて河北省西柏坡につれていった。

 1949年に毛沢東が石家荘にうつった際に、賀子珍の実妹で毛沢覃未亡人の賀怡にこう話した。「あなたが賀子珍をここへつれてきなさい。これは歴史によってつくられた事実なのだから、やはり中国の古い伝統にしたがって処理しよう」と。毛沢東のいう古い伝統とは賀子珍との夫婦関係の回復のことだと賀怡は解釈した。ところが、賀怡がハルビンへ姉を迎えにいき、山海関駅につくと党の組織部を自称する者が二人の石家荘いりを妨害して南下させた。賀怡は江西に残した小毛を探しだしてから、賀子珍を毛沢東のもとに送ろうとしているうちに交通事故でとつぜん死亡し、賀子珍と毛沢東のパイプが切れてしまった。賀子珍の生涯を描いた『賀子珍的路』は、組織部門の横暴を非難しているが、真相はよくわからない。再会を妨害したのは江青であったかもしれない。



【三度目の妻・賀子珍】

 三番目の妻・江青は1914年生まれ、1930年に済南で結婚しているが、数カ月で離婚。1931年に黄敬と結婚したが、黄敬が逮捕されて離婚。江青は上海へ行き、1936年評論家兼劇作家の唐納と結婚。唐納の自殺事件などのスキャンダルのあと、1937.8月下旬、延安にはいった。1938.10月に魯迅芸術学院が成立すると江青は演劇科で教壇にたった。11月、毛沢東と結婚したが、このとき江青24歳、毛沢東45歳であった。

 若いときの彼女は美人で、肌が白く、両眼は生き生きしていた。化粧がうまく、大都市の香りのする瀟洒な雰囲気をもっていた。体つきはすんなりし、夏はレーニン服、冬は綿入れの軍服を着たが、ウェストラインはいつもはっきりしていた。上海から延安に突如あらわれた美人女優に毛沢東がフラフラとなったのも無理からぬところかもしれない。

 毛沢東が大衆から離れ、皇帝化するとともに、江青は悪妻度をつよめた。けれども結婚当時の毛沢東は、彼女が政治に口をはさむことを許さなかった。江青はもっぱら毛沢東の生活の世話をする役目であった。

 江青は李訥を身ごもったあと、毛沢東が特に優しい態度をとらなかったことに傷ついた。毛沢東にとって女性が妊娠するのは当り前のこと。現に賀子珍との10年間に、子供を六人つくっている。こうした毛沢東の無関心に、江青はヒステリーをおこして湯呑みを投げつけたこともある。毛沢東はわびたが、話はこれで終わらなかった。

 江青は李訥を生んだあと、授乳を拒否し、ミルクで育てた。「母親の容姿を保護するため」と江青は主張したが、毛沢東は母乳で育てるべきだと主張してケンカになった。しかし江青は自分の考えを押しとおした。二回目に妊娠したとき、彼女は人工流産して避妊手術をおこなった。「彼が私のことを心配してくれないから、私は自分で心配する」、「赤ちゃんが太り母親がやせるなんて、私はいやよ」。これが江青の考え方であった、と伝えられている。

 朝鮮戦争がおわったころのある日、毛沢東は連続数十時間働きつづけた。彼がこの二、三日きちんとした食事をとっていないことに、李銀橋が注意を喚起する。「そうか、少し腹がすいた。よし、メシにしよう」。「徐濤医師がかねてメニューを用意していますが、つくる機会がなくて……」と李銀橋。「医者のメニューなぞいらぬ。紅焼肉をくれ」。

 李銀橋が厨房へ行こうとすると江青が自室から出てきて、主席は食事かと問う。李銀橋が紅焼肉を食べたがっていると説明すると、江青はこれを禁じ、鶏肉か魚料理をつくるよう命じた。江青はいくらか栄養学を研究しており、コレステロールがたまり、血管の硬化をもたらしやすいとの理由で反対したのであった。

 さて食事になった。毛沢東はいつものように新聞をよみながら食卓についた。江青は魚を挟んで毛沢東の碗にいれてやった。毛沢東は新聞から目を離して食卓を眺め、紅焼肉は?とたずねる。李銀橋は答えられない。毛沢東が紅焼肉は?とくりかえしたずねる。江青はまるで知らぬふり。毛沢東が怒る。なぜつくらなかった? 命ぜられたことをなぜやらぬのか。江青はやはり沈黙。李銀橋はついに泣き出した。

 その後、事情を悟ったらしく、毛沢東の就寝時に按摩する李銀橋にむかって静かに問う、いったいどうしたのかね。李銀橋が泣きながら事情を詳しく話す。当然、江青が毛沢東を田舎っぺ(原文=土包子)と罵倒したこともそのまま報告した。これを聞いた毛沢東、江青の言に反駁していわく、私はたしかに田舎っぺだよ。農民の子であり、農民の生活習性をもっている。彼女はハイカラさん(=洋包子)だ。同じものを食べられないのなら、食事を分けよう。今後は住む部屋、着る衣服、食べるものは私の習慣にあわせてやる。私のことは彼女にやらせない、こう決めよう!

 以後、毛沢東は江青と別々に食事をとることになった。同じ食卓で食事するときも、銘々のものを食べた。毛沢東は江青の料理を食べようとはしなかった。ただ、江青は毛沢東の料理に時々箸をつけた。毛沢東は湖南人であり辛いもの大好き、辛いものを食べないと革命家になれないが口頭禅。そこで彼女はムリに毛沢東用の辛い料理を食べようとした。

 毛沢東と江青がいつ別居したかについて明記した資料はないが、李銀橋によれば1962年ごろである。毛沢東夫妻は北京に移り住んで以来、起居の生活リズムが違うことから数週間、時には何カ月も顔を合わせないことが少なくなかった。毛沢東も初老であり、江青も更年期のため、1957年以後ヒステリー症状が激しくなった。こうして1959年には毛沢東は明らかに江青を避けるようになり、ついに別居するに至った。

 江青はこうして毛沢東の生活秘書としての仕事が少なくなり、退屈してきた。それを見かねたのは、気配り周恩来である。1956年に周恩来が提起し、政治局常務委員が一致して賛成して、江青はようやく中共中央の任命する、五人の毛沢東付き機要秘書(他の四人は陳伯達、胡喬木、葉子竜、田家英)の仲間いりし、毛沢東の公務を手伝う機会をえた。これ以後、江青は政治に首を突っこむことになり、文化大革命においては実権派いじめに狂奔した。あとからみると、周恩来の気配りは裏目に出たのである。

 1975.9.15日、中共中央、国務院は農業問題の会議をひらいた。ケ小平は整頓を強調したが、江青は『水滸伝』批判に名を借りて周恩来、ケ小平を暗に攻撃した。江青がこの録音と講話記録の発表を要求したので、華国鋒が指示を求めたところ、毛沢東は講話も録音も発表してはならない、と指示した。このころ、毛沢東と江青の関係は極端に悪かった。毛沢東は身辺の者にこう一人ごちた。「庶民が離婚したいときは裁判所に行けばよいが、私はどこへ持ち込んだらいいのか」。

 皇帝毛沢東はある意味では万能だが、実は自分の離婚さえ処理できない不自由さと背中合わせの絶大な権力なのであった。毛沢東はかつての同志たちを信頼できなくなり、江青に文化大革命の旗振り役を期待した。しかし、彼女は政治にはズブの素人であるから、むろん毛沢東の期待にこたえられない。毛沢東の耳には江青に対する悪口がしばしばきこえてくる。

 毛沢東が文化大革命を発動するや、江青はその政治舞台の先頭に立った。毛沢東が彼女にその任務をあたえたことによる。これを思えば基本的には毛沢東の責任というべきであろう。こうして彼女は文革期に権力をふるうことになる。

 林彪や陳伯達が追放され、文革派は四人組(江青、王洪文、張春橋、姚文元)が残ることになった。

 毛沢東が継続革命や文革精神の継承にこだわる以上、江青は処分できない。まして彼女は表向きはいぜん、主席夫人である。毛沢東崇拝が頂点にたっしているなかで、もし離婚でもしようものなら、「毛主席最新指示、離婚しない者は革命的でない」などというニセ指示が出回らないともかぎらない。私生活のトラブルとポスト毛沢東をめぐる権力闘争のははざまで、毛沢東は安らかな晩年をすごすことはとうていできなかった。皇帝の悩みにほかならない。

 蛇足を一つ。『文化大革命』では女性秘書張玉鳳について「一部では愛人と見られている」と書いたが、その真相はあいまいである。彼女は毛沢東の寝室に自由に出入りできることから、このようなウワサが流れたわけだが、晩年の毛沢東は肉体的に著しく衰えていたこと、彼女自身がこのウワサに強く抗議していること、最晩年は張玉鳳と孟錦雲が交代で食事の世話などをしたこと、などの状況から考えて、ここでは愛人説に疑問を提起しておきたい。英雄、色を好む式からいえば、張玉鳳も孟錦雲も愛人にした方がおもしろいが、毛沢東は精力剤や栄養剤が嫌いであり、粗食であったことに注目したい。

 が、毛沢東の死後、死刑判決をうけ、投獄されること十余年、1991.5月に首吊り自殺した。





(私論.私見)