毛沢東語録


毛沢東は『資治通鑑』を愛読し、一七回読んだと語り、孟錦雲相手に皇帝論を展開している。いわく「中国の皇帝は面白いね。ある皇帝はデキるが、ある者はまるで大バカだ。だが仕方がないな。皇帝は世襲だから親父が皇帝なら息子がどんなにバカでも皇帝になる。これは息子をせめても始まらない。生まれたら即皇帝なのだから。二、三歳で皇帝になるという笑い話さえある」

「中国史には三歳の皇帝がいるが、三歳の赤ん坊が車を引いたという話は聞いたことがない。六歳でも車は引けない。皇帝になることと車引きになることとどちらが難しいと思うかね。皇帝がバカだと、大臣どもがデタラメをやり、民百姓から掠めとる。民百姓が文句をいうと鎮圧するが、その方法は残酷極まる。『資治通鑑』にこう書いてあるよ。当時の刑罰の一つだが、囚人の腹を割いて腸を引っ張って歩かせるものだ。その苛酷さに民百姓が我慢できなくなれば造反だし、皇帝が鎮圧できなくなれば、それでオシマイだ」。

孟錦雲がたずねる。王安石と司馬光は仇同士でありながら、友人だったとはどんな意味ですか。毛沢東いわく、「この二人は政治的には仇同士だった。王安石は変法をやろうとしたが、司馬光は反対した。しかし学問上では二人は良き友であり、互いに認め合っていた。これは学ぶべきだね。政見を異にするがゆえに人さまの学問を認めないのは、あってはならない」。それが容易じゃないと孟錦雲は文革期の内ゲバの例をもちだす。

毛沢東は説得を試みたあと持論をくりかえす。「中国には二大史書がある。『史記』と『資治通鑑』だ。ともに才気はあるが政治的に志を得なかった境遇のなかで書かれたものだ。どうやら人は打撃をこうむり、困難にぶつかるのはまんざら悪いことでもなさそうだ。むろん、その人に才気があり、志がある場合の話だがね」。

ここで唐代の武則天の石碑の話になる。彼女が墓前の石碑に何も刻ませなかった故事は有名だ。私は八七年秋の訪中のさい、この碑の前で同行の人々とその理由を穿鑿しあった記憶がある。白紙のような碑面は、文字に書ききれないほど功徳が大きい意味だと解釈するのが通例である。

毛沢東は「功罪は後人に論評せしめよ」の意と解釈した。中国では由来「棺を蓋いて論定まる」という。毛沢東は武則天に托して自らの功罪評価を歴史にゆだねたのかもしれない。

毛沢東は読書が大好きであり、生命の最後の瞬間まで書物を手離さなかった。七六年九月七日、毛沢東は危篤になり、混迷状態にはいった。このときも意識がもどると、本を読みたいと語った。毛沢東の発音は曖昧で声は微かだった。慣れている張玉鳳や孟錦雲でさえも聞とりにくいことがあった。

毛沢東が紙と筆を求め、震える手で書いたのは「三」の文字。孟錦雲はすぐ理解した。「三木の本」であった。当時、日本で三木下ろしが始まっていた時期で、毛沢東は『三木武夫』(中国で独自に編集した人物紹介であろう)を手にしてうなずいた。

しかしその本を支えるだけの力がすでに失われていた。孟錦雲が支えてやると数分間読んだあと、ふたたび混迷に陥った。これが毛沢東、最後の本であり、読み終えることのなかった唯一の本となった。九月九日きことである。


毛沢東の言葉・思想

日中戦争時代の有名な毛沢東の言葉:

戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」


 1957.1.27日、共産党の地方患部対象の演説の一節
「少数の悪者は、重大な罪を犯した者以外は、捕らえたり排除したりせずに、元の場にそのまま留めて孤立させ、反面教師として利用すればよい」。





(私論.私見)