様々の毛沢東論 |
【『毛沢東伝 一八九三〜一九四九』訳者あとがき抜粋】(金冲及主編、村田忠禧・黄幸監訳『毛沢東伝 一八九三〜一九四九』上下巻、みすず書房、上巻8,000円、1999年、下巻9,000円、2000年発行) |
毛沢東が晩年に文化大革命の発動という重大な過ちを犯し、中国を長期にわたって迷走状態に陥れてしまった張本人であることを、今日の中国人は誰でもよく知っているし、中年以上の人なら誰でもみな何らかの形で自ら苦い体験を持っていよう。そのため毛沢東の死後、文化大革命が反革命的動乱と否定的に評価されると、毛沢東をどのように評価してよいやら、中国人の間で思想の混乱が生じた。中国に関心を寄せる世界中の多くの人々の間でも、毛沢東および毛沢東後の中国について評価が分かれた。 毛沢東や中国革命をもともと否定的に評価してきた人々は、文化大革命の悲劇の実態が明らかにされるにともない、それらを根拠にして共産主義が誤りであり、毛沢東の行なった革命が間違っていたことが立証された、と宣伝している。文革中の毛沢東にこそ毛沢東の真価が発揮されていると見なした人々は、ケ小平が復活し、中国の歩みを大きく軌道転換させたことに失望し、中国に関心を示すことをやめるか、非難する論調を張った。 しかし中国人の大多数および中国に関心を寄せる海外の圧倒的多数の人々は、その後の中国の変化を経験する過程で、毛沢東が晩年に重大な過ちを犯したという事実をはっきりと理解するとともに、たとえ晩年に深刻な過ちを犯したとはいえ、それをもって毛沢東の生涯そのものを否定することは妥当ではない、と判断するようになっていった。毛沢東が中国および世界に与えた影響は文化大革命だけにとどまるものではない。毛沢東を総体としてとらえ、中国の歴史をもっと客観的に見直そう、という真摯な気持ちが人々のなかに育っているからこそ、きわめて地味で、読むだけでもかなりの労力を要する『毛沢東伝』が、多くの心ある人々から歓迎されているのであろう。 中国共産党にとって毛沢東は党の創設者の一人であり、死にいたるまで最高指導者の地位にあった人物である。彼の巨大な肖像画は今でも天安門に掛けられており、彼の名前を冠した思想は今でも中国共産党の指導思想として党規約に記されている。彼の生涯と思想・理論をどのように評価するかは、決して毛沢東個人の評価に止まらない重要な意味を持っている。 中国共産党はその十一期三中総(1978.12月)において、社会主義期の任務はやはり階級闘争にあるとする毛沢東の理論を、誤りとして退け、経済建設を核とする現代化建設を中心課題に据えた。その後、改革・開放路線を一歩一歩実行してゆき、そのなかで後にケ小平理論と称することになる社会主義建設期における指導思想を確定し、現在はケ小平理論をよりどころにしてあらゆる分野の活動を指導している。 当然のことながら、毛沢東思想とケ小平理論との関係はどうなるのか、それは前者の否定のうえに後者が成り立つものなのか、それとも後者は前者を継承し、発展させたものなのか、ということが重要な理論問題となる。ケ小平理論を毛沢東思想の否定のうえに成り立つものと解釈すれば、今日の中国が文革期のそれと大きく変っていることを説明するうえでははなはだ便利だし、明快そのものなのだが、中国の実際の歴史の歩みはそれほど単純なものではない。またそのようなとらえ方が真実を反映しているわけでもなく、ご都合主義的解釈にすぎない。むしろケ小平理論は社会主義建設期における毛沢東思想の継承・発展ととらえるほうが、現実を正しく把握することができると思われる。本書は中華人民共和国が成立する前の新民主主義革命期の毛沢東の実践や理論の発展過程を紹介しているものだが、その内容を注意深く読むと、今日の中国の路線や政策とかなり通底する面があることを、読者は随所で発見することであろう。 中国共産党が指導思想としている毛沢東思想やケ小平理論というのは、その名前を冠した個人の思想を指しているのではなく、中国共産党の指導者集団の知恵の結晶であり、しかも実践の検証を通じて正しいことが立証されたものを指す。したがって晩年における毛沢東の継続革命理論は、たとえ毛沢東が提起したものであっても、誤りであることが実践を通して立証されたものなので、それは毛沢東思想の範疇には入らない。 1981.6月の中共第十一期六中総で採択した「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」において、中国共産党はこのように毛沢東思想の定義付けを行なった。この建国以来の歴史決議は、毛沢東と毛沢東思想の関係、毛沢東の歴史的評価、中国共産党の社会主義建設期における路線の曲折等について、基本的な考え方を提起したことにより、人々を晩年の毛沢東の理論の呪縛から解き放つとともに、当時蔓延していた思想的混乱を整頓するうえで重要な役割をはたした。 同世代の人間が伝記を書くのにはさまざまな時代的制約が存在するので、伝記は後の世代の人に書かせるべきではないか、という意見にたいし、金冲及は、同時代人としての時代的局限性が存在することは否定しないが、後世の人が歴史を書く場合、後世の人であるがゆえの局限性がないといえようか、と反論する。後世の人は残された文献資料に依拠して歴史を書くことになるが、その時代を生きた人にとって見ればきわめて普遍的に見られる現象は、普遍的であるがゆえに必ずしも文献に記載されるとは限らない。そのため後世の人には、当時の複雑で微妙な時代の雰囲気や情況というものを理解することが難しくなる。そのため当時とまったく異なった環境にある自己の現在の経験や価値基準をもとにして過去の歴史を想定したり、批評したりしてしまうことが往々にしてある。これは後世という時代的局限性ではなかろうか。同時代を生きた人間には、自ら体験して得た認識をもとに、その時代の歴史を書く責任がある。これは金冲及のように、毛沢東思想の導きのもとに育ってきて、しかも建国以来のさまざまな風波を直接体験してきた人として、毛沢東の生きた時代を再現することを自己の任務であると自覚している人だからこそ言える言葉だと思う。 金冲及はまた次のようにもいう。歴史を再現するうえで慎重さは非常に大切であり、「ルポルタージュ文学」作品と称して、憶測で仕上げる作品がいま市場を賑わし、人々に真実とデマの弁別を難しくさせており、その影響はとても悪いものがある。『毛沢東伝』には、個々の事実について考証不足のために間違った判断をしている可能性がないとは断言できないが、「捏造や虚構はいかなるものであれ絶対に存在しない。もしもある種の必要性から意図的に事実を歪曲したとすれば、我々は卑しむべき行為であると考える」と強調する。毛沢東の主治医を自称してさまざまなでっち上げを行なった李志綏(『毛沢東の私生活』は彼とそれを支えたアメリカの反共「学者」の創作による通俗読み物であり、回想録としての価値はまったくない。詳しくは前掲拙訳書を参照のこと)の類とは雲泥の差のある執筆姿勢であり、温厚で柔和な好々爺然たる金冲及の真骨頂といえよう。 毛沢東の個性の特徴について、金冲及は次のように三点を指摘する。『毛沢東伝』は最も肝心な時期における毛沢東の行動に重点をおいて、それをできるだけ克明に描写することで、彼個人の性格や特徴を体現するように努めた。毛沢東の特徴として、第一に、彼は客観的実際をとりわけ重視し、人の正しい思想は実践のなかからのみ得られることを主張した。もう一つの特徴は、ものごとをその場しのぎにすませない性格で、毛沢東は実際というものを重視すると同時に、人々の経験を理論の高みにまで昇華させてゆくことをも重視した。マルクス主義に接する前の青年時代から世界の「大本大原(大原則)」を探索することに努力したが、その姿勢は生涯にわたって変ることなく、つねに物事の根本をつかむべきことを主張し、複雑きわまりない現実のなかから、本質的なものをつかみ出すことに努めた。もう一つの特徴として、これはと見定めたこと、重要だと思ったことについては、必ずしっかりとつかみ、やるとなるととことんやりぬき、その目的を達成するために必要とされる一連の政策や措置を定め、一歩一歩実現していったことである。以上が金冲及の談話からの要約である。必ずしも金冲及の発言をそのまま紹介しているわけではないので、正確で詳細な内容を知りたい方は『百年潮』創刊号を読んでいただきたい。 村田忠禧 北京師範大学新松公寓にて 二〇〇〇年六月四日 |
(私論.私見)