生涯の概略履歴 |
(「ウィキペディア毛沢東」その他参照)
(もう,たくとう
Mao,Tse-tungマオ・ツォートン,1893.12.26生〜1976.9.9没) 中国の政治・軍事指導者。湖南省湘潭県韶山出身。生家は農家。省立師範学校卒、北京大で五・四運動を指導。北京大卒。中国共産党の創立メンバーで中華人民共和国建国の父であり、死に至るまで最高実力者の地位を保った。 |
1893年、湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれる。生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子供のうちから労働に従事させられる。小学校を卒業後、家業を手伝い、14歳で最初の結婚をするが数年で妻は死去。 その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会学系の書物に触れる。1918年、湖南省立第四師範学校を卒業し、恩師を頼って北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となる。 翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが四号で省政府から発禁処分を受ける。このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大サと会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東は生活は安定していた。同年恩師の娘楊開慧と結婚。 |
1938年、長征時代の妻である賀子珍と離婚し元女優の江青と結婚した。 1976(昭和51).9.9日、「中国の赤い星」、毛沢東中国共産党主席は、北京で側近と主治医に見守られるなか病気のため82歳の生涯を終えた。1935年、長征途上で党主席に就任して以来、40年余にわたり中国の最高指導者として、新しい社会主義の建設に全力を傾け、「毛沢東思想」は中国人民の指針であり、心の支えでもあった。この年、周恩来首相、朱徳全国人民代表大会常務委員会委員長を相次いで失った中国にとって、毛主席の死はことさら重大な意味を持った。 その生涯は闘争に明け闘争に暮れた。初めと終わりは党内闘争が主だったが、新中国発足前後から1970年代までは米帝国主義やソ連修正主義に鋭いほこ先が向けられた。1950年代前半に始まる思想、科学、芸術分野の活性化をめざす「百花斉放」「百家争鳴」から「反右派闘争」へ。さらに大々的な建設運動である「大躍進」時代へとつづく。1965年秋からの文化大革命は修正主義路線との決定的な対決だった。そして文革後の1976年には「第1次天安門事件」を招き、毛沢東死後には華国鋒首相を中心としたグループによる江青夫人ら「四人組」の摘発を招いた。 著作「湖南農民運動視察報告」、「新民主主義論」(1940(昭和15)年)、「連合政府論」、「矛盾論」、「実践論」、他。 |
【毛沢東の家系―富農の出身、ゲリラの血統】 |
中国には「族譜」とよばれる記録がある。日本の系図に似ているが、記述されている内容はずっと豊富であり、一族の系譜にはじまり、伝記、墓地、祠廟、家規家訓におよぶ。したがって族譜の編纂には調査研究や出版のために多額の費用がかかる。族譜がつくれる宗族は少数の大地主にかぎられる。毛沢東は「封建的宗法的支配」こそが地主体制をささえていると攻撃したが、毛沢東一族は族譜をもつほどの家柄なのであった。 毛沢東の先祖は毛太華という。朱元璋が明朝を建てたとき、江西省吉州府龍城県(現在の吉水県)から朱元璋の部隊に身を投じた青年がいたが、その青年こそ毛太華である。彼は下級軍官として雲南省まで遠征し、雲南の平定後、軍人としてそこにとどまった。現地には漢民族の住民がいなかったので、毛太華は多くの戦友と同じく少数民族の娘を妻とし、四人の息子をもうけた。毛沢東には雲南の少数民族の血が流れている。毛太華は老いてから内地に帰ることを朝廷に願い出て、湖南省韶山に妻、長男、四男を連れて帰ることを許された。以後約五百年、毛家は農業を営んできた。 毛沢東は毛氏二〇代目にあたる。毛沢東の父毛貽昌の字(ルビ・あざな、本名のほかに別名をつける習慣がある)は順生である。毛貽昌は妻文氏を娶った。彼女は文氏の七番目の子供なので文七妹とよばれた。父母は五男二女をもうけたが、長男、次男と二人の娘は夭折し、三男の毛沢東が長男として育てられた。弟に三歳年下の毛沢銘(沢民)、一二歳年下の毛沢覃がいる。文七妹は夫よりも三歳年上だったが、それは旧中国では最も適例とされていた。魯迅の父母や魯迅・朱安夫婦も、妻が三歳上であった。 毛沢東の字(あざな)はこれまで潤之とされてきたが、『族譜』によれば、正しくは詠芝である。湘潭方言では同じ発音であるが、毛沢東は潤之を好み、よく用いた。 湖南省とは洞庭湖南の意、湘潭県は湘江流域にある。韶山とは舜帝が韶楽(古代の楽曲名)を奏でたとする伝説に由来する。湖南は二千年あまり前、楚の国であり、隣国秦と対抗していた。楚に三戸あれば、秦を亡ぼすのはかならず楚である、といわれたほど英雄豪傑が多く、この言い方は今日までつたえられている。世がみだれると、群盗、毛のごとし、といわれるほど土匪、盗賊も多かった。 湖南人の好物は唐辛子であり、子供が歩きはじめたらもう食べさせる習慣がある。この習慣のため、どんなに辛いものも平気になる。堅忍剛毅な性格は唐辛子によるといわれるほどだ。毛沢東自身、唐辛子を食べない者は革命的になれないとしばしば口にした。毛沢東の頑固さは湖南人気質によるものとする説がある。 毛氏一族は科挙とは縁が薄かった。第三代の毛有倫が歳貢(科挙制度のもとで国子監で学ぶ資格をもつもの)になったのは珍しい例であり、国子監の学生になる者(監生、現在の大学生)さえほとんどなく、大部分は韶山で農民として暮らしてきた。しかし、毛恩毅(一八代)が清代提督軍門で重要な職務についたように、軍功を立てて官職を得た者は少なくなかった。たとえば毛沢東の祖父の世代七四〇人のうち功名を立てた者は一〇人いるが、九人は軍官である。毛沢東の父の世代八一四人のうち功名を立てた者は二六人で、うち一七人は軍官である。毛沢東の世代六七〇人のうち功名を立てた者は一七人、うち一四人が軍官である。このなかには、毛沢東、毛沢銘、毛沢覃の三兄弟も含まれる。 この意味では、ゲリラ戦略家毛沢東の出現は決して突然変異ではなく、初代毛太華以来の毛氏一族の血統であるかもしれない。 毛沢東の父は、短気で毛沢東や弟たちをよく殴ったが、母は情け深く寛大だった。家には父という支配者党と、毛沢東、母、弟、雇い人からなる反対党の「連合戦線」があったとエドガー・スノウに語っている。毛沢東は一三歳のとき、父の用いた論拠で父に反駁するやり方を覚えた。敵の武器を奪って、敵と戦うゲリラ戦法の原型であろう。 少年のころ、堯、舜や秦の始皇帝、漢の武帝の話に夢中になり、『世界の大英雄』という本から、ナポレオン、エカテリナ女帝、ピーター大帝、ワシントン、リンカーンなどの名を知った。 一六歳のとき、長沙で暴動がおこり、父の米が奪われたが、毛沢東はむしろ貧乏な農民の立場に同情した。このとき、毛氏の宗廟で宗族の族長と争っている。一七歳のとき、長沙にゆき、湘郷中学に入ったが、辛亥革命がおこると、学業を放棄し、弁髪を切り落として革命軍に応募した。翌年、高等商業、省立第一中学などの図書館で独学した。 一九一三年、一九歳のとき、長沙の省立第四師範に入学したが、まもなく第一師範に合併され、以後二四歳で卒業するまで五年間学んだ。卒業前後に仲間たちと新民学会をつくった。第一師範時代に、恩師楊昌済から大きな影響をうけた。毛沢東はその後、北京大学教授として赴任した楊昌済を頼って、北京大学図書館のアルバイトを紹介してもらっている。 一九年、二五歳のとき長沙に帰り、湖南学生連合会を組織し、『湘江評論』を創刊し、軍閥張敬堯の追放運動などをこころみた。二〇年、ロシア革命三周年にあたり、新民学会の仲間と長沙でデモを組織した。このころ、彼は『共産党宣言』(陳望道訳)、『階級闘争』(カウツキー著)、『社会主義史』(カーカップ著)を読んでマルクス主義者になったとスノウに語っている。翌二一年、二七歳のとき、中国共産党の創立大会に、郷里湖南省の仲間を代表して参加した。毛沢東はロシア革命から強い衝撃をうけて、大衆運動のみが政治的改革の実現を保障する力の源泉だと確信するようになっていたのである。 |
【毛沢東の私生活―質素、読書好き】 |
毛沢東はなによりもまず農民の子であった。その生活習慣は後述のように、「田舎っぺ」(原文=土包子)くささがあふれていた。たとえば医者ぎらい、栄養剤ぎらい、質素な食事と衣生活などは毛沢東の青年時代からの信条を保持したものである。 権力をとってからも毛沢東の生活は非常に質素だった。毛沢東からもっとも愛されたボディガードの一人は李銀橋だが、彼の証言はたいへん興味ふかい。李銀橋は四七年春節すぎに周恩来のボディガードになったが、当時毛沢東のボディガードも欠員になったので、周恩来は毛沢東に回した。毛沢東は彼の性格が気にいり、六二年まで一五年間にわたって身辺の世話をさせた。李銀橋によれば、毛沢東は許可なしに新衣服をつくることを許さなかった。現に五三年から六二年末まで、毛沢東は新しい衣服をつくっていない。いつも水で顔を洗い、化粧石鹸は用いなかった。墨汁や油で手を汚したときは洗濯用石鹸で洗った。顔クリームなど化粧品も使わず、いや練り歯磨きさえ用いず、安価な粉歯磨きを用いていた。「練り歯磨きや、高級練り歯磨きに反対するわけではない。生産するのは用いるためだが、生産の必要のないものまで発展させるのか? むろん粉歯磨きは用いてよい。将来経済が発展したら、人々の生活水準が向上し、皆が高級練り歯磨きを用いるようになったら、私も用いる」と彼は説明した。 毛沢東の歯ブラシは豚毛がなくなるまで代えなかった。彼はずっと竹橋を使い、象牙の箸は使ったことがない。布団は普通の綿布と綿花でつくったもので、表も裏も白布、これを数十年来変えなかった。枕は蕎麦殼でつくり、やはり白布で包んであった。タオルケットや寝巻はつぎはぎだらけであった。北京入城の際も、葬式の際もそうだった。 彼の下着やパンツ、それに靴下もつぎはぎだらけであり、ちょっと不注意に足を伸ばすと靴下のつぎはぎがあらわれた。客をもてなすとき、李銀橋らはよくこう注意してやった。「家の恥を外に見せないようにしなくては」。 毛沢東は事務をとる場合、お茶なしではすまされなかった。飲み終えたあとの茶葉は指ですくって食べた。彼は雑穀が好きで、北京入城後も玄米飯をずっと食べた。中に粟や芋をまぜた。これは戦争時代の習慣だが、ずっと続けた。 毛沢東は通常は四菜一湯(料理四皿とスープ)であった。このうち一皿はかならず炒めた唐辛子であり、一皿はカビ豆腐である。スープは時には料理の残りに湯を注いだものであった。とはいえ、毛沢東が四菜一湯をとることはかならずしも多くはなく、勝手気ままだった。毛沢東は由来型にはまったことが大嫌いで、仕事を始めると時間の観念がなくなり、ただ空腹かどうかだけが基準となった。一日二食のときもあるし、一日一食さえあった。 家庭生活は恵まれなかった。最初の妻楊開慧は逮捕、銃殺され、二度目の妻賀子珍とは離婚した。三度目の妻江青との夫婦仲も睦まじいものではなく、事実上離婚した。 長男毛岸英は朝鮮戦争で犠牲になり、次男毛岸青は病弱、こうして毛沢東には後継ぎがないだけでなく、激務で疲れた神経を癒すべき暖かな家庭の団欒が欠けていた。この意味では、「革命」という神に献身する修道士のおもむきさえある。 独裁者というにはあまりにも質素な生活ぶりであった。身辺に心を明かすことのできる家族がおらず、ボディガードや看護婦らと心のうちをあかす会話をしている晩年の毛沢東は、むしろ痛々しい老人、孤独な皇帝であるにすぎない。 毛沢東のほとんど唯一の趣味は読書であった。革命のつぎに精力をつぎこんだのが読書だといってよいほとだ。毛沢東の図書を管理する仕事に一九五〇年冬から六六年夏まで、十数年間にわたって従事したのはパン先知である。運よく私は八七年九月一五日、来日したパン先知一行と東京で会う機会があり、八八年夏の訪中で再会できた。パン先知は山東人の大男、思わず、ノッポと私が嘆声を発したところ、毛沢東と会ったときの最初の会話が「君は山東人か」というものだったと往時を回想した。パン先知は毛沢東の読書についてこう書いている。 毛沢東は幼年から読書を酷愛し、長ずるにしたがってその性癖はますます甚だしくなった。もっとも苦しかったゲリラ戦争の渦中においても読書を忘れず、陝北に落ちついてからは各種のルートを用いて国民党統治地区の書物新聞などを入手した。延安では彼の書物はしだいに増えて、図書管理を専門に行う者が必要となったほどである。 毛沢東は自分の書物を愛惜し、あるとき、誰かが亡くしたことにひどく腹をたて、しかもそのことをずっと覚えていた。四七年に延安を撤退するとき、他のものはどんどん捨てた。しかし書物は一部を埋蔵して隠し、書きこみをおこなった書物は苦心惨憺して北京まではこばせた。 全国解放後、毛沢東の読書条件は大いに改善された。パン先知が管理を引きついでまもなく、毛沢東は解放前の商務印書館と中華書局が出版したすべての図書を入手するよう命じたが、無理な注文というもの、かなえられなかった。当時毛沢東の書物は書架一〇個分に満たなかった。十数年へて、パン先知が離任したころは毛沢東の蔵書は数万冊に達し、比較的揃った、かつ毛沢東のニーズに適した個人蔵書室ができあがっていた。 毛沢東は無類の書痴であったが、外国文学作品は『椿姫』など少数の名著を除けば、ほとんどよまなかった。中国の現代文学もよまなかった。経済管理の書物、特に外国の社会化した大生産の管理に関わるものはなおさら少なかった。これは社会主義建設にとって大きなマイナスとなったとパン先知はコメントしている。彼が愛読したのは中国の古典であり、晩年は特に『資治通鑑』であった。 毛沢東が読書に熱中して睡眠を忘れ、食事を忘れるのは日常茶飯事であった。毎日国事の処理に多忙であったが、彼の読書速度は速かった。なみはずれた精力と驚くべき記憶力に恵まれていた。仕事を始めるとよく徹夜したが、読書も同じく徹夜であった。彼は仕事以外のほとんどすべての時間を読書にもちいている。 |
【毛沢東の気質―反骨、封建的結婚制度への反発】 |
毛沢東はスノウへの談話のなかで親の決定した最初の「妻」についてこう語っている。私が一四歳のとき、父母は私に二〇歳の娘を嫁にむかえたが、私は当時もその後も生活をともにしたことない。私は彼女を妻と認めなかった。『族譜』によれば、彼女は一八八九年九月二六日生まれの羅氏であり、一九〇八年一九歳で、一五歳の毛沢東に嫁ぎ、一九一〇年二一歳の若さで病死している。 一九一三年春、一九歳の毛沢東は長沙第一師範学校にはいった。この学校で毛沢東が師と仰いだのは、楊昌済教授であった。彼は日本、欧州留学から帰国し、哲学、とくに倫理学を講義した。『論語』に言及することが多かったので、学生たちは孔夫子とあだなして慕った。学識が深く、己を律すること厳しかったので、楊昌済はまるで学生からみて孔子の再来であった。 楊昌済が毛沢東に対して非常に深い影響をあたえたことはパウルセン著『倫理学原理』の上下余白に書きこんだ毛沢東の詳細な批注から知ることができる。これは楊昌済が倫理学のテキストとして選んだものであり、毛沢東はそれを血肉化するかのように熟読したあとをたどることができる。毛沢東は楊昌済というよき師を得て大の哲学好きになった。 一九一八年夏、楊昌済は北京大学にまねかれ一家は北京市地安門豆腐池胡同九号に転居した。九月毛沢東は北京に出て楊昌済の紹介で北京大学図書館のアルバイトをした。一九年一二月一八日、毛沢東は湖南の軍閥張敬堯追放代表団をひきいて二度目の上京。この時も毛沢東は楊昌済宅に居候するが、楊開慧との恋愛関係が進展した。 二〇年初め楊昌済が逝去すると楊開慧は父の棺とともに長沙に帰り、親友の父親の援助によって湘福女子中学に入学した。この冬、毛沢東は楊開慧と同居し、結婚を宣言した。これは花嫁衣装を着ることもなく、花かごに乗ることもない、両人の言葉によれば、俗人の挙を拒否した新スタイルの結婚であった。 当時の毛沢東の恋愛観、結婚観をしめす文章がある。「吾人の欲望は多種である。食欲、性欲、遊戯欲、名誉欲、権勢欲(支配欲ともいう)などである。各種欲望のうち食と性の二つが根本的欲望である。前者は現在を維持するもの、後者は将来を開発するものである。二つの欲望のうち、食欲には年齢差がなく、性欲には年齢差がある」「性欲の現れがすなわち恋愛である。……元来夫婦関係は完全に恋愛を中心とし、他はこれに従属すべきであるが、中国ではこの問題が脇におかれてきた」「子女の結婚に父母は絶対に干渉してはならない。子女の側はみずからの結婚に対する父母の干渉を絶対に拒絶すべきである。これをやりとげてこそ、資本主義的結婚を廃止し、恋愛中心主義の結婚を成立させ、真に恋愛の幸福を得た夫婦があらわれることができる」。毛沢東はこのころ親のきめた結婚を納得できず、自殺した女性の立場を弁護して「父母による結婚請負制を打破せよ」とよびかけていたが、この主張通りに楊開慧との結婚を実行した。 |
(私論.私見)