れんだいこの新邪馬台国論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの2003年段階の邪馬台国研究サイト冒頭で「れんだいこは今も持論をもたない」と記したが、2009年ようやく見解が固まり始めた。ここに、れんだいこの邪馬台国論最新を立論しておく。まだ発表したばかりであり反応もないが、邪馬台国論マニアなら飛びつく内容であり、学界の重鎮なら目からうろこで卒倒する内容になっていると自負する。だがしかし、この見解も、れんだいこの政治発言然りで黙殺されるのだろうか。新見解は以下の通りである。「出雲王朝考、その真偽考」、「三輪王朝神話考」、「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考」、「れんだいこの日本神話考」と関係しているので併せ読み願う。

 2010.7.30日現在、「新邪馬台国論」で検索すると、大和岩雄氏の「新邪馬台国論―女王の都は二カ所あった」が冒頭に出てくる。れんだいこは読まぬままに批評するのは気が引けるが、題名からして折衷案でしかない気がする。折衷案は往々にしてトンチンカンなことが多い。早くも「最強の邪馬台国論です」なる評が為されているが、ならばれんだいこの新邪馬台国論と比較して欲しい。れんだいこの知見こそが新邪馬台国論となって然るべきだと自負している。2011.8.7日、倉橋日出夫氏の「邪馬台国と大和朝廷」を知った。れんだいこの観点と非常に通じている。2004年頃に打ち出しているので、れんだいこより早いか同じ頃かも知れない。同じような観点が時空を超えて互いに伝播しつつあることが分かる。恐らく第三、第四の共鳴者が現れるだろう。

 以下は、「別章【邪馬台国論、同論争の歴史的意義について】」、「邪馬台国比定諸説論争史(1)概括」の続編である。

 2009.11.22日、2011.8.29日再編集 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評626 れんだいこ 2009/11/21
 【箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考】

 2009年、箸墓(はしはか)古墳を廻るニュースが報道を賑わした。これについて、れんだいこコメントを発表しておく。箸墓古墳は纒向(まきむく)古墳群のヌシ的な古墳である。その古墳が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ではないかとの関心から脚光を浴びている。いずれにせよ、纒向古墳群の科学的考証が進むにつれ、日本古代上の闇の部分が明らかにされつつあることは疑いない。ごく最近発表された箸墓古墳調査は、その歩を大きく進めた。まず、このことを確認しておきたい。以下、れんだいこ史観による邪馬台国論争の時代を画する日本古代史上の大胆な新分析を発表する。同様分析が既に発表されているのかもしれない。そうだとすれば、その見解を支持する。

 纒向古墳群問題の隠された真のテーマは、「纒向古墳群の解明」によって新たな邪馬台国論を浮上させることにある。爾来、邪馬台国論は、いずれもが大和王朝の母胎として大和王朝に接続する式での九州説、畿内説、その他説の三スクミの中で論争されて来た。目下、畿内説論者は、「纒向古墳群の解明」が畿内説邪馬台国論を補強するものとして期待を膨らませている。それに反して九州説邪馬台国論者はしかめ面を増しつつある。そういう拮抗関係にある。

 
しかしながら、れんだいこの見るところ両者とも一喜一憂するには及ばない。「纒向古墳群の解明」は、従来の畿内説、九州説、その他説の虚構を撃ちつつあるのではなかろうか。「纒向古墳群の解明」は、邪馬台国が発展して大和朝廷になったと想定するレール上でのそれではなく、かって纒向に大和王朝とは違う別系異系の王権が存在していたことを示しつつあると窺うべきではなかろうか。即ち、大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説を浮上させつつあると認めるべきなのではなかろうか。同じ邪馬台国大和説でも、大和王朝へと陸続する説と断絶しているとする説では面貌が大きく変わる。

 ちなみに、従来の邪馬台国畿内説は、「纏向遺跡および箸墓古墳をスタートラインとするヤマト王権は邪馬台国連合から発達したものと考えてもよい」としており、これを仮に「邪馬台国ヤマト王権直列説」と命名しておく。付言しておけば、邪馬台国東遷説も「邪馬台国ヤマト王権直列説」の系譜に列なることになる。

 
「大和王朝に接続しない式の邪馬台国大和説」を採るならば、「纒向古墳群の邪馬台国」は大和王朝側に滅ぼされたのであり、為に「纒向古墳群の邪馬台国」は表向きの痕跡を消されたのもむべなるかなとなり、これによりこの時代の解明は容易なことでは進まないようにされていることになろう。「纒向古墳群の解明」は、消された王朝とその時代を復元するものであり、即ち「纒向古墳群」は滅ぼされる前の邪馬台国として位置づけられるべきものである。かく構えることによって却って光芒を放ちつつあるのではなかろうか。これを仮に「邪馬台国ヤマト王権異系説」と命名しておく。

 こう窺うことにより、次の推理が説得力を持つのではなかろうか。日本古代史の新視角として聞き流してほしい。論旨は異なるが「邪馬台国近畿説を往く -纒向遺跡-、歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向」に触発されたので謝しておく。

 かって倭国は、その豊富な天然資源の賜物によってか平和的分棲の部族連合国家として独特の王朝楽土を形成していた。ここでは一々採り上げないが、その様は中国の各史書の記す通りである。邪馬台国は、この時代の最後の精華となる諸国連合女王制国家であり、迫り来る外航族(記紀神話では「高天原王朝」)の来襲に対する迎撃を使命としていた。

 ところで、れんだいこの今日的見解は、高天原王朝にも異説を唱えている。「高天原」は元々在地系の出雲王朝―邪馬台国系の理想の天地を指しており、してみれば元々は土着系の「神天地」を意味していた。その「神天地」の宗教的権威を剽窃する為に、外航渡来族が「高天原」を名乗ったと捉えている。天照大御神も然りである。「天照大御神」は元々在地系の出雲王朝―邪馬台国系の最高神である。その宗教的権威を剽窃する為に、外航渡来族が「天照大御神の高天原での御託宣」を利用したと捉えている。そう判明した以上、外航渡来族を高天原王朝と見なす訳には行かない。本文では、ややこしくなるのでそのままの表記とするが、早急に書き換える必要があると思っている。なお、出雲王朝―邪馬台国連合女王国は大和朝廷よりも古い時代であるにも拘わらず高度な宗教的国家であったと思われる。その高度性が秀でていたために継承され、結果的に出雲王朝―邪馬台国連合女王国時代の政治、精神、文化が今日にも深く伝統化され大和民族の血肉となっていることを知るべきだと思う。

 その邪馬台国の比定は難しい。何とならば、邪馬台国の痕跡が一切消されているからである。唯一の手掛かりとして、魏志倭人伝の記述が遺されている。しかしながら、どういう事情によってかは定かではないが、記載された通りの方位と里程距離を辿ると邪馬台国に辿り着けない仕掛けになっている。なぜこのように筆法されたのか、その理由は今も分らない。

 そこで、後世の史家は、自説に不都合なくだりは記述が正しくないとして大和説は方位を替え、九州説は里程距離を訂正する解釈を生みだしている。それにしても、邪馬台国のみならず邪馬台国に至る直前の投馬国から途端に推定できない。直前の投馬国が推定できないからして投馬国の先に予定されている邪馬台国がまちまちにならざるをえない。その南に位置していたとされる狗奴国然りである。九州説、畿内説、その他説然りで、これにより、投馬国、邪馬台国、狗奴国比定地が百家百言といっても良いほど様々な比定地を登場させることになった。

 いずれにしても、邪馬台国の後に大和王朝時代が始まるのは確かだ。ところが、日本は無論、中国、韓国の史書にも、魏志倭人伝記載後の邪馬台国のその後の動向が記されていない。奇妙なほどにプッツリ途絶えている。日本古代史書正史とみなすべき地位を得ている古事記、日本書紀があれども(以下、「記紀」と記す)、且つ記紀双方の記述が互いに訂正していると見られる箇所が相当数あるにも拘わらず、邪馬台国に関する記述は共にない。記紀以前の書と云われるいわゆる古史古伝にも記述がない。これは非常に不自然なことである。

 これをどう窺うべきか。一つは、魏志倭人伝を架空のユートピア論とみなせば足りる。もう一つは、れんだいこはこれに従うが、大和朝廷が邪馬台国の流れを汲んでいない故、否むしろ邪馬台国を撲滅解体した側に位置する故、痕跡を消すのに忙しく、意図的に抹殺したとみなしている。しかし、例えそうであるにしても、西欧系世界史の如くにその征服史を堂々と記載すれば良かろうと思うが、それを不名誉なる恥とした弁えなのか、それとも別の理由によってか邪馬台国を不問不言及するという措置に出た。辛うじて屈折した形で邪馬台国の存在を語らしめており、いわゆる暗諭方法を採用している。これにより、日本古代史の読み取りが極めて困難なものとなっている。史書があるだけマシとの判断もできるが、非常に複雑な日本古代史になっていることは疑いない。よって凡庸な頭脳では迷路に入ったきり抜け出すことができない。

 もとへ。大和王朝時代の初期、全国各地に古墳が造営される。この時代を古墳時代とするならば、この時代のイメージは凡そ邪馬台国の持つそれとは程遠い。記紀神話に従う限り、外航渡来族が新天地を求めて海を渡ってきた。どこから来たかは定かではない。高天原とあるばかりで、その比定はない。記紀神話によれば、その外航渡来族が天孫降臨により日向の高千穂の峯辺りに降ったと記載している。その彼らが周辺諸国を次第に従え、海を越えた向こうにあるという豊芦原の瑞穂の国の算奪を決意する。その手始めと地均しに出雲王朝に闘いを挑む。これによれば、出雲王朝こそが、外航渡来族が樹立せんとする大和王朝以前の日本史上最古と考えられる在地土着系連合王権国家であったことになる。この出雲王朝と邪馬台国の繋がりが史書的に不明にされているが、大和王朝と邪馬台国の疎遠さに比すればよほど近いと推定し得よう。但し、この解明は進んでいない。

 かくて、「高天原王朝対出雲王朝の闘い」と云う古代史上最大の政変が始まる。これは記紀神話の記すところである。この神話を否定するようでは古代史の解明は進まない。この辺りは各地の神楽が伝えるところである。記紀記述のそれよりも神楽演劇の方が史実に近い伝承をしている可能性が強い。

 戦前の皇国史観の犯罪は次のところにある。即ち、出雲王朝を下賤、高天原王朝を高貴とする史観の下で、高天原王朝派による出雲王朝派懐柔、殲滅の両建て戦略戦術を聖戦と看做して賛美する。このような史観では、日本古代史はさっぱり要領を得ないことになろう。それはともかく「ドラマティックな国譲り」を経て、神武東征譚に至る。

 高天原王朝はやがて畿内に攻めのぼり、二ギハヤヒと長脛彦率いる三輪王権派との激闘に入り、艱難辛苦の末に紀州の熊野経由で大和の地を掌中にし、大和王朝を創始し古墳時代を造る。これを系譜的に見れば、高天原王朝による倭国乗っ取り完遂と云えよう。この時期が、微妙に邪馬台国時代と重なっていることが興味深い。仮に、邪馬台国勢力を当時のヤラレタ側に比定するならば辻褄が合う。

 かくて畿内を統一した大和王朝は、それまでの日本を原日本とすると、その原日本を牛耳っていた旧政権たる邪馬台国連合系の依然としてまつろわぬ諸国の豪族狩りに出向き、屈服させ、有力者を殺し、抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、和を請えば許して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、力づくで倭国を支配した。ヤマトタケルの征服譚は、この視点から見れば理解し易い。ヤラレタ側は土地に封じ込められ鬼化させられる。あるいは東へ東への移動を余儀なくされた。アイヌ蝦夷系の北上逃亡史はこれに歩調を合わしているように見える。「倭の五王」の一人が中国に送った「我が祖先は闘いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず」という状況はこの時代のでき事を書き残したもののように思える。(但し「倭の五王」は大和王朝系譜ではないかも知れない。案外とヤラレタ側の後継王朝の抵抗史を語っている可能性もある)

 彼らは、「新種の穀物と鉄器」を持ってやって来た。この二つが先進的文明的な利器となり大いに力を発揮した。まず、北九州を征服し、神武東征譚に表象される如くに次第に東漸し、遂には大和の地を掌握した。それまでの原日本も「新種の穀物と鉄器」を既に取得していたが、基本的に銅鐸文明下にあった。その原日本たる出雲王朝が国譲りで屈服させられ、銅鐸は急ぎ山腹に隠された。その後、出雲王朝派は二ギハヤヒと長脛彦率いる三輪王権を成立させ外航渡来族と対峙した。三輪王権派はその後、三十諸国が集まって傑出した女性霊能士であった卑弥呼を共立し、来る国難に備えた。それが邪馬台国連合国家である。その邪馬台国連合国家が遂に滅ぼされた。こうして大和朝廷が創建された。かく推定できるのではあるまいか。

 但し、次に述べることが興味深い。大和朝廷は、国譲り譚で明らかな如く、征服過程で懐柔策を用いざるを得なかった。出雲の国譲り譚では、政治権力は譲らせるが宗教的権威とその限りでの活動は認めるというものであった。それほどに征服される側の国家及び社会秩序形成能力が高かったということでもあろう。これにより、西欧史に見られるような戦争決着がつかず「手打ち和睦」を余儀なくされた。為に完全絶滅ジェノサイド策が採られていない。懐柔策のもう一つとして、在地土着系豪族のうち有能なる者の登用を約束していた。こうしなければ邪馬台国征服が首尾よく進展せず、且つ大和朝廷経営が首尾よく進展しなかったからであると考えられる。

 これにより、大和王朝は、高天原王朝系、出雲王朝系その他を問わず門地文柄秀にして有能なる者を官吏に用い、律令国家に向けての歩みを始めることになる。新国家は大陸文化の咀嚼に向かい、和魂漢才を発揮し始める。その摂取の仕方に於いて国津族派、外航族派が競い始める。且つ新たな日本政治、社会、文化を発酵させ始める。大和朝廷内の権力は、外航族系各派、出雲系各派、邪馬台国系各派の内攻的な闘いへと向かい暗闘し続けることになった。

 大和王朝前の時代を画していた出雲王朝、邪馬台国の記憶は、出雲系、邪馬台国系官吏の能力に応じて温存され、辛うじて痕跡を留めることになった。ざっと荒削りであるが、これが日本古代史の流れであり伝統であり今も息づいているのではあるまいか。これが私がたどり着いた邪馬台国の姿である。諸賢の批評を請う。

 2009.11.21日 れんだいこ拝
 追記しておく。古事記、日本書紀が何故に邪馬台国を意識しながら記述しなかったのか、その闇を解きたい。思うに、述べたように大和王朝は邪馬台国を滅ぼした側であり、その皇統譜を神聖化させる為にも、古事記、日本書紀編纂に当たって厳重な不記述を命じていたのではなかろうか。これにより、古事記は辛うじて出雲王朝を代替的に記述することで邪馬台国史を暗喩するという方法で編纂した。これに対し、日本書紀は、古事記の出雲王朝言及さえも良しとせずこれをも封殺した。古事記と日本書紀にはこういう違いがあるのではなかろうか。その後、風土記が生まれる。そのうちの出雲風土記で出雲王朝が語られた。こうして出雲王朝はそれなりに史書化されたが問題は邪馬台国である。これについては厳重に発禁されていたのではなかろうか。時代が下がるうちに本当に分からなくなってしまい今日に至っているのではなかろうか。史書の政治主義的本質性、その陥穽を思う次第である。

 2011.8.7日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評628 れんだいこ 2009/11/26
 【邪馬台国論争史上の「一、台論争」考】

 れんだいこは、先の「箸墓(はしはか)古墳を廻る新たな邪馬台国論考」で拍車がかかったか、久しぶりに邪馬台国論に色気づいてきた。このテーマは、れんだいこが学生運動に関わり始める前の関心事であり、今は散逸したがそれなりにノートしていたなつかしい思い出が詰まっている。こたび、気になっていた「一、台論争」につき、れんだいこ論を発表し、世の関心者の批評を請いたいと思う。れんだいこ結論は末尾に記す。

 1969年、当時一介の高校教諭であった古田武彦氏が「史学雑誌」に「邪馬一国説」を発表、研究者に衝撃を与えた。古田氏の論証は次の通り。
 魏志倭人伝の原文が存在せず、 今日残っているのは全て後世の写本である。南宋時代の紹熙本、紹興本、それ以降の汲古閣本、英殿本(北宋本)等いろいろな版本がある。こうなると、どの写本が原文に忠実であるかを検証せねばならない。その結果、南宋時代の紹興年間に刊行された「紹興本」の後に刊行された同じく南宋時代の「紹煕本」がより正確最良本であるように思われる。ところで、「紹煕本」は無論のこと写本のどれを見ても「邪馬一国」と書かれている。
 「一」の古字は「壹」、「台」の古字は「臺」であり、似ているが厳格に使い分けられている。意訳概要「三国志全体の中に『壹(一)』と『臺(台)』の字の使用例を抜き出したところ、『壹』の字は86箇所、『臺』の字は56箇所ある。『壹』と『臺』とは一見書体が似ているが、字義が違うので、『壹』の略字として『臺』が使用されることはあり得ない。実際に、『臺』が『壹』にされたり『壹』を『臺』と誤記されたものも一つもない。つまり、『壹』と『臺』は峻別されて使い分けられており、うっかり転写間違い、誤用、混用もない」。
 概要「倭人伝における「臺(台)」の意味は、元々『盛り土、高地』を意味していたがこれが転じて『天子の宮殿及び天子直属の中央政庁』を示している。いわば、『臺』は至高を意味する貴文字であり、従って、そうした至高文字が東夷の一国に冠されることはありえない。これに対して、『壱(一)』の意味は、『天子に対し、二心なく、相見(まみ)える』意の表現として使われている。その反対が『二(弐)』の意味で、『同盟からの離脱と他への二股的加入』意の表現として使われている。従って、悪徳的『二(弐)』の反対語としての徳目的『一(壱)』の意図的使用、つまり意図的に『邪馬一国』、『一与』として使用されていることを窺うべきである。この観点から『魏王朝に対する、二心なき朝貢』としての往来と盛大な貢物の意味が理解し得るところとなる」。
 魏志倭人伝の写本に「邪馬一国」と書かれている以上、であれば字句通りに読むべきである。従来式の「邪馬台国」呼称は間違いで、文献に従う限り正しくは「邪馬一国」とすべきである。5世紀半ばの「後漢書」(著者はんよう)、7世紀の「梁書」、「北史」、「隋書」等の諸書が「台」と表記しているのは誤りである。三国志の成立は3世紀後半であり、その底本が残って12世紀に「紹煕本」へと繋がっている。3世紀本の記述を5世紀本、7世紀本で訂正するのは、概要「新しい時期の書物で古い時期の書物の記述を訂正したことになり、これを良しとするのは史学の常道に反する」。5世紀に「三国志」に注をつけた裴松之本が存在するが、裴松之は邪馬一国については何の注も加えていないのが、その証左である。
 「邪馬一国」とするならば、「邪馬台」即ち「ヤマト」の音訳による大和を宛がう形での所在地比定には根拠がない云々。

 こうして、「邪馬台国」と了解する現行の魏志倭人伝の校訂は間違っており、「邪馬一国」とするのが正しいとする「邪馬一国説」が登場することになった。古田氏の説によれば、卑弥呼女王の都とする国は、「ヤマタイ國」ではなく「ヤマイ國」と読むことになる。この説はそれ以前にも阪本種夫、橋本郁夫により指摘されていたが、古田氏の様な考証を伴っておらず注目を受けることが少なかった。

 それまでの通説は、例えば、内藤湖南氏の「卑弥呼考」では、「邪馬壱は邪馬台の訛なること言ふまでもなし。梁書、北史、隋書皆台に作れり」と、「台」説をとるのが良いとされ、すんなりと受け入れられて来ていた。従来「ヤマタイ」又は「ヤマト」の読み方に従って「大和、山門」等の地名を音訳比定してきていた。この「常識通説」が古田論証により覆され大騒動になった。畿内説、九州説いずれを唱える者にも一大事となった。古田説には、和歌森太郎や佐伯有清、森秀人、小田洋、原田大六らが賛同見解を述べた。或る人曰く「古田氏がこの認識に達したとき邪馬台国論争の時代は終わり、邪馬一国の時代が始まった」。

 さて、その後どうなったか。邪馬台国か邪馬壱国かその古形を廻っての論争が始まり、反駁も多く未だに決着を見ない。古田説の方法は、中国の文字の用法を厳密に調べ上げてゆくという、今まで誰も試みなかったものであった為、多くの賛同者を得た。尾崎雄二郎氏の様に、古田説に組しないものの、「まことにあるかどうか、それを明らかにするのが研究者の仕事ではないのか」と、古田氏の主張の意義を評価する点については賛同も多い。むしろ、本来の「邪馬台-壱論争」の範囲を超えて、古田の果敢に応駁し一歩も退かない姿勢を貫く姿に属人的に古田を支持するものも多く、ある意味で在野の研究者対学界との対立図式ともなった感がある。

 以下、私説を申し上げる。れんだいこは、古田説を支持しないが、新井白石.本居宣長の研究以来邪馬台国論争は尽くされた感があるにも関わらず、榎の放射説同様に云われてみれば明白初歩的なことに対し、これまで研究が為されていなかった盲点を論点にしたことにつき、これを高く評価するものである。且ついわゆる在野史家が学界以上に実証的な考証をしたことの功績が認められるべきであろう。

 但し、「邪馬壱国説」そのものについては疑問を投じたい。古田説にも拘わらず古田説の典拠する魏志倭人伝の最古写本(版本)の年代が12世紀のものであることを考えると、5世紀に成立した後漢書倭伝の「邪馬臺国」、7世紀に成立した梁書倭伝の「祁馬臺国」記述を否定することには難があるとみなすべきではなかろうか。陳寿原本が遺されていないので、こういう議論が生まれることになるが、察するに陳寿原本には「台」と書かれていたのではなかろうか。「隋書には『邪麻堆、すなわち魏志に云う邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)』とあるので『タイ』と読むのが自然である」との反論が為されており、もっともな逆指摘と思う。

 問題は次のことにある。既に議論されているのかどうか分からないが、れんだいこが目を通すところ、紹熙本、紹興本、汲古閣本、英殿本、北宋本等が「邪馬一国」と記すも、魏志倭人伝末尾の同じ一文にある「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還」に続く「因詣臺」の「壹」と「臺」の明確な使い分けにこそ注目すべきではなかろうか。これをどう解するべきかこそ議論せねばならないのではなかろうか。

 思うに、「邪馬一国」と記されているから字句通りに読むべきとするよりも、古田氏自ら解説する如く「臺」の持つ「至高の貴文字」性を理由として、朝貢して来る側の辺鄙な倭国の女王国の都名に「臺」の字を宛がうのは不遜不当と気づき、南宋時代の写本者が、漢朝尊大主義の立場から敢えて意図的故意に「邪馬台国」とあるのを「邪馬一国」へと書き直し、この作法が伝授されたとも考えられるのではなかろうか。このことは逆に、辺鄙な倭国の女王国の都に「臺」の字を宛がった魏志倭人伝原本筆者・陳寿の倭国観に興味が湧く。それは、ここでは問わない。

 れんだいこ説は結果的に古田氏の「邪馬一国説」を否定することになるが、邪馬台国論争史上、「一」と「台」の違いを注目せしめた古田史学の意義は不朽であると思っている。いつか議論されねばならなかった箇所であり、これを採り上げ本格的に精査した古田史学の意義は大きいと評したい。古田史学には、かく「通説の盲点」を衝く炯眼性がある思う。邪馬台国の位置を博多湾周辺に比定しているのは平凡としても、後に「日流外三郡誌」(ツガルソトサソグンシ)に着目するに至ったのもいわば氏の炯眼性が為せる必然であったように思われる。

 なぜ、れんだいこが古田史学に注目し始めたのか。それは、れんだいこの新邪馬台国論考の着眼に関係するからである。今や古代史学は大和王朝以前の、大和王朝勢力に潰された原日本王朝の解明に向かうべきであり、古田氏が「日流外三郡誌」(ツガルソトサソグンシ)考を通じて、その先駆的作業に手をつけていたことを評価するからである。この視点からの考証は未だ手つかずの状態にあり、邪馬台国論は出尽くしたのではなく、緒に就いたばかりという認識が欲しい為である。誰か、評してみよ。 

 2009.11.26日 れんだいこ拝
 2019.7.30日、久しぶりに読み直してみて新たな知見を得たので発信しておく。古田氏は、「一の古字は壹、台の古字は臺であり、似ているが厳格に使い分けられている」として「邪馬一国論」を提起したが、「一の古字は壹」の断定に疑問を持つようになった。阿波説邪馬台国論者の指摘により教えられたのであるが、その説によると一の古字は「壱」であり、「壹」の読みを「壱」と読むべきではなく「と」と読むべきと言う。なぜなら、「壹」の下位のつくりの「豆」は納豆の「と」と読むのが普通で、「一」とは読まないと言う。この推理が正しいとすると、古田氏の「邪馬一国論」はかなりナンセンスなものだった云うことになる。本来は、陳寿原本で「邪馬台(臺)国」と記載されていたものが、何故に「邪馬壹国」と書き換えられたのかを問い、台(臺)と壹の間の距離を窺うべきだったのではなかろうか。

 私の推理は、2009/11/26ブログ 「邪馬台国論争史上の『一、台論争』考」で問うたように、「古田氏自ら解説する如く臺の持つ至高の貴文字性を理由として、朝貢して来る側の辺鄙な倭国の女王国の都に臺の字を宛がうのは不遜不当と気づき、漢朝尊大主義の立場から南宋時代の写本者が敢えて意図的故意に邪馬台国とあるのを邪馬壹国へと書き直し、この作法が伝承されたと考えられるのではなかろうか」と云うことになる。

 この場合、邪馬壹国の「壹」を「一」と読むべきではない。「一」と読むなら「壱」と記載されていなければならない。実際は「壹」と記載されており、「壹」をどう読むべきかが問われている。思うに、「壹」は、至高貴文字の「臺」に代わる文字として宛がわれた代用文字なのではなかろうか。してみれば、古田史学の意義は、「臺」が「壹」に書き換えられていることに注意を喚起したことにあり、「一の古字を壹」としたのはミステークだったのではなかろうか。古田氏はここで、一の古字を「壱」ではなく「壹」としたことにより、「壹」に秘められた歴史的意味について考察し損なったのではなかろうかと拝察できる。古田氏の問題意識は良かったのだが、解析を間違えたと云うことになる。それは通説史学に衝撃を与えることに狙いがあり過ぎた所為ではなかったか、と思う。

【「邪馬一国、邪馬台国論争」考】
 「邪馬一国、邪馬台国論争」につき優れた論考を見出したので転載しておく。
 「邪馬台国・奇跡の解法」の「邪馬臺の証明01」  2011-07-28 | ●定説の真偽を検証する「証明の章」

 後漢書、梁書、隋書、太平御覧など複数の中国歴史書が邪馬臺国と書いているにもかかわらず、私たちがテキストとする12世紀改訂の紹興本、紹煕本の三国志倭人伝が、臺に似た壹という文字を使って邪馬壹国と書いている。この両者は、わずかな違いはあるが咸平本→汲古閣本の流れを踏襲しているとみなされる。では、なぜ「邪馬壹」と書かれたのだろうか。私のところへも二度ほど、「壹が正しい」とする立場からの意見が寄せられたことでもあるし、この論考を邪馬台国という名称で展開する根拠提示の意味も含めて邪馬臺が正しいことを証明する。読者の多くは邪馬台という略字に慣れておられると思うのだが、文字の真偽問題がからむことでもあり、ここでは中国の歴史書が使っている旧字体の邪馬臺を使ってすすめる。

 ▼5世紀成立の正史「後漢書」編纂者は、三国志を見て邪馬臺と書いた。

 先達がその考証眼で濾過して書いた正史を資料として、自らの考証眼でさらに濾過して書くのが文章伝世である。そうやって史実を伝承することが歴史書編纂の作法だから、三国志を資料にするのは当然である。独自に書かれた歴史書も山ほどあるが、ほとんどが異聞として扱われている。三国志以降の後漢書倭伝を含む東夷伝にかぎっていえば、先に成立した三国志を資料にした事実は動かない。

 中国史上、公式かつ始めて東方を調査したのは後漢朝ではなく魏朝だからである。すなわち後漢書東夷伝は、三国志を資料にしなければ書けない記録である。その後漢書倭伝は「その大倭王は邪馬臺に居る」と書いている。私たちが目にすることのできる倭人伝は12世紀宋代に民間で刷られた刊本だが、5世紀の後漢書編纂者がみた倭人伝には邪馬臺国と書いたあったから邪馬臺国と書いたのである。

 ▼7世紀の隋書の編纂者も三国志を見て書いた。

 これもまた歴史書編纂の手順として当然といえる。見ているからこそ「魏志にいう邪馬臺なる者なり」と書いている。7世紀唐代の隋書編纂者がみた倭人伝にも邪馬臺と書いたあった証拠である。

 ▼後漢書と隋書、梁書が「邪馬臺」に間違えた可能性はあるか。

 誤字はどの書物にも認められる。これは、現代のように統一された辞書がなかった時代のことでもあり、無理からぬことだと私は思う。邪馬臺を中国人の発音に併せて書き換えたたと思われるものには、邪摩惟、邪靡堆とあり、ひどいものになると、邪摩推、邪靡惟というものまである。いわゆる「間違いの増幅リレー」である。これは、ほとんどが筆写時か版木作成時の間違いと思われる。だが、可能性のパーセンテージという科学的見地からいえば、後漢書、隋書、梁書の三書が揃って壹を臺に間違ったという結論には至らない。必然的に、三書の編纂担当者が見た三国志には邪馬臺と書かれていたと考えるべきである。

 ▼注釈をつけた李賢と裴松之がみた三国志にも邪馬臺とあった。

 後漢書倭伝の場合は、「其の大倭王は邪馬臺国に居る」と書いた。これに続けて、唐代に李賢が「案:いま邪摩惟の音をこれに訛えて名ぶ」と注釈している。李賢は、自らが入れたその注釈のすぐ上にある邪馬臺の文字を見ていながら、「壹の誤りである」とは注釈していない。これが壹の間違いだったとすれば、いうまでもなく注釈を加えたはずである。これに先立って、裴松之は三国志に膨大な注釈をつけている。彼の注釈が完成したのは429年で451年に死去。私たちがテキストとしている倭人伝は12世紀に刷られたものだが、これよりも700年以上前の人である。その裴松之は臺と壹については何も触れていない。つまり、彼が見た時点では触れる必要がなかったのだと採れる。ほぼ同時代の笵曄は後漢書に臺と書き、三国志に注釈をつけた裴松之は臺にも壹にも触れていない。ということは、5世紀の裴松之と笵曄と、7世紀の李賢らが見た三国志には臺と書いてあった証拠である。

 ここで、裴松之が三国志の注釈に引用した史書を、作者とタイトルで列挙する。
・後漢代を紀伝体で記録したもの
 謝承『後漢書』、華キョウ『後漢書』、司馬彪『続漢書』
・三国時代を紀伝体で記録したもの
 王沈『魏書』、魚豢『魏略』、韋昭『呉書』、張勃『呉禄』
・その他
 麌預『晋書』、張□『後漢紀』、袁宏『後漢紀』、袁遺『献帝春秋』、楽資『山陽公載記』、司馬彪『英雄記』『九州春秋』、孫盛『魏氏春秋』『晋陽秋』、習鑿歯『漢晋春秋』、干宝『晋紀』、郭頌『世語』、麌薄『江表伝』、胡沖『呉暦』……これらの多くは多くは異聞として扱われているものである。

 次に、正史「後漢書」の編纂者が資料としたと思われる後漢代の歴史書の主だった5書をざっと眺めてみる。
・謝承『後漢書』
霊帝紀に始まり東夷列伝で終わる。東夷列伝に「三韓俗以臘日、家家祭祀、俗云臘鼓鳴春草生也………」。という記録がある。他の東夷諸国に関する記録なし。
・華キョウ『後漢書』
明帝紀 で始まり西南夷伝 ・南匈奴伝で終わり。東夷に関する記録なし。
・謝沈『後漢書』
そもそも伝少なし(断片的で不完全な紀伝体)。東夷に関する記録なし。
・袁山松『後漢書』
光武帝紀ではじまり。西域伝で終わる。東夷に関する記録なし。
・司馬彪『続漢書』
光武帝紀で始まり烏桓伝・鮮卑伝 で終わる。東夷に関する記録なし。
・薛瑩『後漢記』
光武帝紀 に始まり戴翼伝で終わる。東夷に関する記録なし。

 裴松之は、笵曄が後漢書を完成させたあとも10年ほど生存している。このことから、正史「後漢書」を自分の目で確認していることは疑いようがない。完璧主義ともいえる裴松之の仕事ぶりからみて、壹が臺に間違っていたとすれば彼の目の黒いうちに気づいて、後世の注釈者に間違いである旨は伝わったはずである。ところが現実には、訂正も注釈も入れなかった。一方の漢書の場合。7世紀の李賢たち4人の知識人は、同じ行のすぐ目の前にある臺の下にカッコつきで注釈を入れたにもかかわらず、臺の文字については何も関与せずに臺で通した。臺で正しいと判断したからである。興味がなかったわけではない証拠に、大倭王の居るところについて「7世紀当時のいまは邪摩惟と呼んでいる」とわざわざ注釈しているのである。その邪馬臺が、12世紀の後漢書刊本制作でもそのまま活かされた。南宋本の三国志と後漢書の制作年代のずれは、最大アバウトでも数十年の時間差である。ここでも、李賢の注釈と同じ行にあった臺の文字は訂正されることなく生き残っている。

 ▼その他

 「現存する三国志写本がみな壹と書いている」という意見を耳にしたことがある。これは一種の「まやかし」である。紹興本と紹煕本の流れをくむ後代の三国志刊本は5~6種類あるらしいのだが、中国におけるこれらの評価は、年代が新しいほど誤りも激しいとのことである。編纂現場とはかけ離れたところで、「間違いの増幅リレー」をして出版された後代の版本や写本を、いちいち取りあげたところで何の意味もないのである。

 ●「一書一名」の現実

 現代のように体系化された辞書がなかったにしろ、中国の歴史家も完璧ではなかったらしい。現実に、「ヤマイ」と書いたのもあれば、「ヤヒタイ」と書いたのもある。中でも邪靡堆と書いた隋書は、邪摩堆と書くところを誤ったとみて差し支えないだろう。この件については、中国の良識が校勘できちんと回答を出している。中国中央研究院の校勘によると、「邪摩惟も邪摩推も、邪摩堆に改める」と述べている。

 ※『翰苑』が『後漢書』から引いたとされる「倭面土」について。

 先に提示した通り、厳密には後漢書は複数あった。笵曄の正史「後漢書」は、安帝紀にも倭国が朝献したことを記録している。ここに倭面土という記録がないところをみると、翰苑はどの後漢書から引いたというのか。少なくとも、正史「後漢書」から引用したとは考えられない。この倭面土に関しても「倭面上国」、「倭面土地」など、ヤマイやヤヒタイの混乱ぶりと非常に酷似している。

 ここで銘記したいのは、中国の歴史書は「一書一名」だという事実である。たとえ誤字や異同があっても、どの歴史書も一つの時代の一つの国について書いている。分かりやすくいえば、「ヤヒタイ」でも「ヤマイ」でも良い、「倭面上国」、「倭面土地」でも良い。一つの歴史書が、互いがまったく別の国として、同時代に存在したと書いている例はない。原本記録から刊本製作に携わった人間たちが、各時代の当て字を使って書いた呼称や誤字などの一つか二つをとりあげて、その一字に「意味」をもたせたりパズルか乱数表のように扱ったところで、文献学的見地からは何の意味もないのである。

 簡潔で分りやすい方法で説明する。

 ▼時代の異なる幾つかの中国史書のいうところをまとると以下のようになる。
 3世紀の日本列島に邪馬臺国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対馬国、一支国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬臺国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して、親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、臺與という13歳の女子が女王になった。

 ▼12世紀に改訂された倭人伝のいうところは以下の通りである。 

 3世紀の日本列島に邪馬壹国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対海国、一大国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬壹国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、壹與という13歳の女子が女王になった。
 
 歴史書によって微妙な違いや省略がある部分を度外視しているが、いかがだろう。同じ時期の列島の同じような場所に・邪馬壹国と邪馬臺国があった。その女王の名もまったく同じ卑弥呼といい、女王になった経緯もまったく同じだった。魏はその二人に、同時に親魏倭王の爵号と金印を与えた。こんなことがあり得ると思われるだろうか。文章伝世によって一つの国の歴史と沿革を述べるのに、時代や歴史書によって文字表記や国の呼び方が違っているだけのこと。断じて、それぞれがまったく別の国とその歴史を書いているのではないのである。

Re::れんだいこのカンテラ時評774 れんだいこ 2010/07/26
 【れんだいこ史観「原日本新日本論」を世に問う】

 2010.7.26日現在の日本は、累積型の未曽有の財政危機、経済危機下にありながら深刻さがない。ひょっとして、懐の中を見ながら、れんだいこ一人の財政危機、経済危機なのかと辺りを見回したくなる。多くの方がそれなりにのほほんとしているようにも見え、元来楽天家のれんだいこの悲観ぶりが際立つ。しかし、そんなことはあるまい。食えない者が増えており、事業者の経営環境が一段と厳しくなりつつある。してみれば、日本人には悲壮感が似合わないのかも知れない。達観しているのか脳内がピーマン化しているのか、そのどちらかだろうが判断がつかない。

 日本政治は昨年の政権交代により新しい時代に入った。これは確実であるが、新政権として登場した鳩山政権、菅政権の治績を見る限り、新時代の創造性は感ぜられない。むしろ、回天事業の原野開拓から逃走し、旧政権時代の政治に戻そうと逆走し始めている気がしてならない。なぜなら、やろうとする意思さえあればできるのに真に有効な財政危機策、経済危機策に対して何一つ手をつけていないからである。7.11第22回参院選での菅首相の逆采配がこれを証明している。こたびの民主党官邸は勝とうとして指揮したのではなく負けるように企んだ。そう理解するより他ない不見識、言動ぶりが目立つ。菅首相は政治履歴にくっきりと汚点を残したが、この重篤犯罪を感知する能力を持たず居直りに汲々している。それが通用しようとしている。れんだいこには信じられない。

 この政治状況を見るにつけ、れんだいこは「或る発想」を浮かべた。現代日本人は鳩山の如く菅の如く、その脳内に大きな欠損を植えつけられているのではなかろうか。要するに「学べば学ぶほどバカになる怪しげな学説」を鵜呑みにしており、それを学ぶ程度に応じてすっかり愚頓になってしまっているのではなかろうか。もう一つ気づくことは、植民地根性を植えつけられ、祖国愛、民族愛を喪失し根なし草になってしまっているのではなかろうか。これが、れんだいこの鳩山、菅評である。彼らは元々は阿呆ではなかった。ところが、バカになる学問、政治的トレーニングを積み重ねた結果、どうにも使い物にならない愚物になってしまった。こう捉えれば辻褄が合う。こう捉えなければ説明できない。

 思うに、鳩山、菅らに象徴される知性派は明らかに日本の伝統的なそれと切り離されている。顔は日本人のように見えるが既に精神、頭脳は日本人のそれではない。せいぜい評価しても、あるかどうは知らないが西欧的市民社会の無性の抽象的人間である。このことは身も心も戦勝国側の望むように仕立てられたことを意味する。この種の人間が戦後より急増した。これを思えば敗戦の産物であろう。してみれば、敗戦とは生易しいものではないことになる。幸いなことは、多くの日本人がそのように変質させられたのではないことだろう。一部のエリートが戦勝国イデオロギーに染められ、戦勝国政治の手下となり、駒使いさせられ、その代わりとして立身出世を得たということであろう。
 という話しから急きょ邪馬台国論になる。れんだいこは、先の「カンテラ時評626」、「カンテラ時評628」で新邪馬台国論をぶちあげた。未だ何の反響もないが、れんだいこの新説が無価値な故にではない。否むしろ想像以上の値打ちものであるが故に既成学説派はたじろぎ、言及する言葉さえ浮かばない故にだと解している。あるいは単に読んでいないのかも知れない。

 どこが違うのかと云うと、従来の邪馬台国論は九州説であれ大和説であれその他説であれ、大和王朝に陸続する前王朝として位置づけ、その上で神武天皇東征譚との絡みを念頭に置きながら各所に比定してきた。これに対し、れんだいこの新邪馬台国論は、邪馬台国は後の大和王朝派に攻め滅ぼされ、痕跡を消された失われた王朝であるとしている。ここが違う。今日からすれば共に上古代史になるが、れんだいこの新邪馬台国論によると、古代史は邪馬台国時代までの原日本、大和王朝以降の新日本を隔絶的に区別して研究しなければならないことになる。早い話しがそれだけのことであるが、この分別を得るのに「れんだいこ登場までの時間」が必要だったことになる。これを仮に「原日本新日本論」と命名する。

 もっとも、この観点は「ヤマトの地」では当たり前の伝承であり、れんだいこの新説でも何でもない。れんだいこの功績は、伝承を学問化させ、これを元にして古代史を読み直すことを指針させたことにある。これによると、邪馬台国九州説論者は頭を丸め、邪馬台国畿内説論者は大和王朝との連続性を見ようとしていた点で不明を恥じ、その他説論者は所詮は田舎の郷土史家でしかなかったことを悟らねばならぬ。邪馬台国論は出尽くしたのではなく、これから始まる、今は緒に就いたばかりということを弁えねばならないということになる。

 この指摘によって何が言いたいのか。それは、今日までの日本史に於いて、滅ぼされたにもかかわらず邪馬台国時代までに形成された原日本人の思想、哲学、宗教、政治、経済、文化こそが基底となって今も息づいており、それは原日本人能力の優秀さ故であり、この原日本人世界観こそが21世紀の地球の破滅を救うかも知れない叡智を秘めていることを指摘したい訳である。この観点も含めてれんだいこ史観と云う。

 現代日本の自称知識人の知的貧相は実に、日本史上のこの秘密を知らなさ過ぎることにあるのではなかろうか。原日本人世界観が滅び行くべき低次の自然崇拝教でしかなかったのなら別に知らなくても良かろう。それが今後の人類が範とすべき高次のものであるとしたなら知らぬことは恥でしかない。思えば、原日本人世界観は共生的である。それは宇宙と交信しており、そこから叡智が汲みだされており、自然とも人類とも国家とも民族とも等々のあらゆる空間磁場に対して開放的共生的である。産業、事業、商売、組織等々に対しても同じ原理で応用される。宗教論的に云えば神人和楽的である。

 この質が思いのほかに今日的であるように思われる。というのは、この原日本人世界観と全く対蹠的なのが現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義の世界観であるからである。何から何まで違う。珍しいほど食い違っている。歴史学の一部で、国際金融資本帝国主義のル―ツである古代ユダヤの失われた支族が日本に辿りついているとして祖先の一致性を見ようとする日ユ同祖論なるものが唱えられている。れんだいこは、この説を受け入れない。これほど発想が違うというのに同祖である訳がなかろう。

 敢えて言うなら、邪馬台国を滅ぼした大和王朝の皇統譜に古代ユダヤの失われた支族が加わっていたとする可能性はある。しかし、れんだいこのように、大和王朝以前の原日本を尊ぶ者からすれば否定事象的なものであり、それでどうしたという程度のものでしかない。つまり、日ユ同祖論が仮に天皇家との絡みに於いて認められたとしても底が浅いものと云うしかない。これを踏まえずに、日ユ同祖論を持ち出して祖先の一致性を見、ひいては今日の国際金融資本に対する隷従的関係を肯定しようというのは愚昧な知見というしかない。

 もとへ。政権交代政権としての鳩山政権、菅政権に対する不信は、鳩山首相、菅首相とも、政権ブレーンも含めて、日本史のこの悪深さに対する無知ぶりに起因しているのではなかろうか。その彼らが今後何らかの施策をするとして、してくれない方が国の為民族の為になることをし始めることになる。れんだいこの永続革命論の所以がここにある。三番手政権は誰がなるにしても必ずや、原日本人的感性、知性を持つ政治家でなくてはならない。これだけがはっきりしている。思えば、吉田茂、池田隼人、田中角栄、大平正芳、鈴木善幸の系譜は素晴らしい原日本人ではなかったか。彼らが政権を御した時、日本は世界に稀なる発展と成長と平和を得ていた。原日本人性を失った首相が指揮した時、日本は今日の日本へと向かった。このことを知るべきだろう。汝、自ら絞殺することなかれ。

 2010.7.26日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№970 】れんだいこ投稿日:2011年 8月13日
 【邪馬台国研究の新視点考】

 2011年のお盆は邪馬台国研究で明け暮れそうである。かなり書き直した。サイトは以下の通り。

 「れんだいこの新邪馬台国論」 
rekishi/yamataikokuco/
rendaiconorituron.html


 有益な作業として、魏志倭人伝2千文字(正確には1985字)を文節毎に分解し、それぞれに№を付した。全部で68小節に区切ることができた。これは聖書研究に使われている手法である。今後は№で云えば、該当箇所が分かるようになる。次に、郡から邪馬台国までの行程を仕分けして№を付した。全部で11行程になった。今後は何行程かを云えば、どこの話かが分かるようになる。次に、れんだいこの新見解ないしは准新見解を別立てで確認した。全部で21になった。精密にすれば優に50を超すだろう。これにより議論が深まれば良いと思う。

 今日発見したこととして次の見解がある。従来、邪馬台国の比定地を廻る論争が絶えないが、それに比べ21ケ国の衛星諸国家の比定が疎かにされてきた。正確には疎かにしたのではなく比定できなかったものと思われる。れんだいこの知る限り四国山上説を唱える大杉博・氏がこれに成功し胸を張ったぐらいのものである。もっとも、それが正しいかどうかは別問題である。

 そこで新たな視点を提供したい。邪馬台国を廻るべ21ケ国の衛星諸国家とは実は、江戸時代の藩屋敷のようなものと考えれば良い。藩屋敷とは、参勤交代制により江戸詰め常設の出先機関として構えることになったのだが、21ケ国の衛星諸国家もこれに似たようなものではないのか。これを仮に「21ケ国出先屋敷論」と命名する。従って、本国が遠国にあったからと云って無理やりにその遠国に比定する必要はない。邪馬台国の周りのどの位置にシフトしていたかを判ずればよい。今となっては跡かたもない場合もあろうし、痕跡が残っている場合もあろう。こうすることで21ケ国比定が弾むことになるのではなかろうか。

 邪馬台国研究上の新発見は時に現われる。宮崎康平氏が「まぼろしの邪馬台国」で打ち出した「海岸線の復元思考論」も然りであろう。榎一雄氏は「放射説」で有名になったが、その前の「国名記述の差異」指摘の方に価値がある。誰も気づかなかった盲点を指摘した。古田武彦氏の「邪馬『台』国ではない邪馬『一』国説」も衝撃であった。これも盲点であった。他にもいろいろあるが、その後の研究を陶冶した意味で上記の説は誰でもが首肯するであろう。れんだいこの「21ケ国出先屋敷論」もこれに匹敵するだろうか。それは分からないが、これで悩まなくても良くなったと云う意味では今後の研究上の手かせ足かせの一つを取り除いたことになろう。

 云いたいことは以上であるが、せっかくだからもう一つ有益な論点を述べ共認を得ようと思う。一般には邪馬台国論と云われるが、魏志倭人伝上の邪馬台国の記述は一ケ所でしかない。多くあるのは女王国である。あるいは、倭人、倭、倭地が出てくる。この相互規定が曖昧な故に混乱しているので整理しておく。論者の中には、邪馬台国を女王国よりも広域圏に捉えほぼ倭に匹敵させる者もいる。正しくは、倭>女王国>邪馬台国である。女王卑弥呼の所在するところが邪馬台国であり、「21ケ国出先屋敷」を含むその他同盟諸国が女王国であり、それら以外の諸国も含むのが倭である。こういう書き分けがされていることを踏まえないと議論が混乱する。

 最後にもう一つ。邪馬台国所在地比定論は「九州説、畿内説、その他説」の三通りで議論されていると云うのが正しい。これを「九州説、畿内説」の二大説で括るのは止めて欲しい。それらの論争の欠陥として、邪馬台国を大和王朝前の前王朝として位置づけるのは良いとしても、邪馬台国の延長線上に大和王朝が導かれたとする直接式説が主流であるが、これは百年来の謬論患いである。神武東征譚にかこつけての邪馬台国東遷論はナンセンスである。

 邪馬台国は大和王朝派により滅ぼされたのであり、痕跡さえ消されたのである。いわゆる皇国史観は、この過程を是と説く史観である。戦後は、そういう虚の史観と決別し歴史の実像解析に取り組むべきだったが、一部の専門家に任せてしまった。戦後の学校教育で神話を教えることがなくなり、その時代の知識が白痴にされてしまった。その一部の専門家が邪馬台国論に限りロクな仕事をしていないので、れんだいこの出番となっている。こういう構図が欲しい。

 2011.8.13日 れんだいこ拝

 jinsei/


れんだいこのカンテラ時評№971  れんだいこ 投稿日:2011年 8月15日
【邪馬台国新国学研究の会の結成呼び掛け】

 2011年お盆は邪馬台国研究で明け暮れた。恐らく突き動かすものがあるのだろう。結論的に云えば、れんだいこも含めた邪馬台国研究の新段階が始まっており、これまでの研究は前史に過ぎなかったと云う地平に至っていることに感応しているのではなかろうか。「邪馬台国研究は終わった論」、「邪馬台国論争に決着がついた! 」を奏でる者も相当に居る。だが終わったのは奏でる者自身であり、研究はこれからが本格的になるのではなかろうか。今後は眼から鱗の話、観点、発見が相次ぐだろう。自ずと従来の邪馬台国論の稚拙さをさらけ出すことになろう。

 
邪馬台国研究の新段階はどうも幕末時の水戸国学の果たした役割に似ている予感がする。水戸国学は尊王攘夷論に結実し結果的に皇国史観に辿り着き役割を終えたが、これに倣えば邪馬台国新研究は新国学と云う息吹を感じさせる。水戸国学が捉えそこなった地平を切り開き、日本の真の国学復権へと至るであろう。この学問が真っ当に発達すれば、皇国史観の虚妄を衝き、本来の瑞々しい日本的思想、思考、感性を呼び戻すことになるだろう。これを予言しておく。

 これを機会に、れんだいこは世の研究者に新たな邪馬台国研究のネット形成を呼び掛けたい。月一の研究会を全国で催し、どんどん理論を進化発展させて行きたい。何事も一人では進まない。三人寄れば文殊の知恵と云う。全国の知者が寄ればどういう博識になるのだろうか、これを期待したい。れんだいこが世話どりするには及ばない。まずは定年退職者、学生に音頭を取って貰いたい。時に、れんだいこも顔を出したい。機関誌も出してもらいたい。れんだいこも投稿したい。レギュラー会員ぐらいは約束する。研究の方向性打ち出し当りは得意である。細かい検証は苦手である。故にいろんな個性が絆を結ぶ必要がある。

 今日は、れんだいこの自著「検証学生運動下巻」を刊行したばかりである。思うに学生運動には当分期待できない。組織も理論も伝統までがズタズタにされているからである。この糸を解きほぐし新たな全学連が生まれる目はない。仮に無理やり作っても積み木崩しになる恐れが強い。真因は脳がやられていることにある。故にれんだいこが打ち出す観点に評ができない。

 こういう折には、各自が銘々にこれと思うものを見つけ熱中した方が良いのではなかろうか。邪馬台国研究は日本の国体の秘密の扉を開けるものであり、歴史好きの者には堪らない分野である。既に終わったとするのではなく前史が終わったと見据え、邪馬台国新論に向かってほしいと思う。この結論を得る為に、今年の盆はどこにも行けなかった。連れ合いは嘆いている。明日は近くを廻り誤魔かそうと思う。

 
今日は8.15、終戦記念日である。こういうトピックな日にこういう想念が生まれたことを欣としたい。正確には違うが「二千年前の二千字解読の旅」と銘打って魏志倭人伝が伝える古来日本の在り姿を訪ね、現代に活かしたい。これが念願とするところのものである。特攻青年よ、これがれんだいこ流のはなむけである。卑弥呼が見据えた時空で逢おう。

 
2011.8.15日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№1160 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 8月16日
 れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ

 今日は2013.8.15日である。この日に「れんだいこの新邪馬台国論による日本史荒スケッチ」を捧げておこうと思う。れんだいこの新邪馬台国論は、今明らかに或る可能性を求めて生まれつつある。それは単に邪馬台国の所在地をどこそこに比定し、当時の風俗、政体を知ることにのみ興味があるのではない。大和王朝以前の原日本の在り方を知り、その原日本の高度文明性を窺い、これをどう現代に蘇生させるのかの狙いを持っている。これを仮に「原日本新日本論」と命名している。

 それは同時に、現代の無思想社会に於ける新たなカンテラの役目を持っているのではなかろうかと期待している。このカンテラは、日本のみならず、現代世界の混迷、その貧相な処方箋からの脱却を秘めているのではなかろうかと仮想している。仮にそういう期待が望めるのなら、これを明らかにしない手はないだろう。れんだいこの新邪馬台国論の意義はここにある。

 そのれんだいこの邪馬台国論は、邪馬台国を「ヤマトの三輪」の地に求めるようになりつつある。総合的に俯瞰すれば「ヤマトの三輪」に比定することにより理解が整合的になるように思っている。「ヤマトの三輪」にこそ邪馬台国があったのであり、この地に邪馬台国以前よりの分権的な王朝があったのではないかと考えている。これを仮に三輪王朝と命名する。三輪王朝は出雲王朝と縁戚関係にあり、いわば出雲王朝のヤマト地方に於ける出先機関にして、あるいは国譲り後の出雲王朝の後継政権であったように思われる。もう一つ、古代史上に於ける四国阿波-讃岐の地位も相当なものである。これとの因果関係が分からないので苦労しているが、相当に深い関係があったように思われる。

 この出雲-三輪王朝こそが在地土着型即ち国津族による日本史上初の王権王朝であったと推定できるのではなかろうか。この時代に、日本の古型としての言語、文字、政治経済文化が確立されていた。この時代に日本人の精神、風俗、習慣、社会、身分、国家のスタイルが定まった。これが社会学及び文化人類学的な意味での「原日本」なのではなかろうか。この認識を得ることが日本史を紐解くキーではなかろうか。こうなると、問題は、出雲王朝-三輪王朝ラインの政治を日本政治の原形、それを滅ぼして以降の大和王朝ラインの政治を新形として区別し認識した方が良いように思われる。これが日本政治の質を歴史的に確認する為の学問的方法となるべきであると思う。

 その三輪王朝が天孫族(を僭称する外航族)によって攻め滅ぼされる。三輪王朝の最期の政体としての邪馬台国が壊滅させられ代わって大和王朝が建国される。記紀神話は、この過程を正統化させる為の国定史書と推定できる。この傾向は日本書紀の方が古事記より強い。という理由により、記紀神話にのみ依存しては日本古代史は解けない。

 ここに本居宣長が登場する。本居史学は単なる神話として片づけられていた記紀既述に歴史の根拠を求めようとして営為した。その手法として、日本書紀よりも古事記の方に価値を見出そうとしていた。ここに功績がある。但し古事記世界より出ることを自主規制していた。ここに限界が認められる。いずれこの本居学は乗り越えられねばならなかった。

 この時、平田篤胤が登場する。平田は、本居史学の功績をそれとして認めつつも、本居史学が抑制していた更に先の古代史に分け入ろうとした。これにより平田史学が日本古代史の視野を更に先へ広げた。ここに平田史学の功績がある。但し、平田史学は怨霊怪奇現象の方に関心を寄せ過ぎており、その意味では先覚者の業績に留まるきらいがある。

 平田史学が扉をこじ開けた日本上古代史の研究が受け継がれねばならないところ、平田史学派は幕末維新から明治維新の政治的激動に接近し過ぎて、結果的に西郷派なき後の日本帝国主義化の従僕となり、近代天皇制のイデオローグと化し、薄っぺらな皇国史観の確立に向かった。それが大東亜戦争の敗戦により大鉄槌を喰らい今日へ至っている。

 これを平田史学右派と命名すれば、平田史学左派はまだ登場していない。れんだいこ史学はこの系譜のものではなかろうかと自認している。ここに史上の意味と値打ちがある。但し緒に就いたばかりで、これと云う業績を上げている訳ではない。あるいは、平田史学につき詳細には知らないので、知れば袂を分かつかも知れない。そういう意味で未だ流動的である。

 他方、その後に津田史学が登場する。津田史学は、本居学、平田学を否定し、記紀神話に史実性を認めないところから始発している。これは、皇国史観の欺瞞を討つには役立つが、本来の日本古代史、上古代史解明に対しては逆行的な学問的態度と云うべきではなかろうか。よしんば皇国史観の詐術的歴史観を否定するのに功があるにせよ、「原日本」の解明に向かわない皇国史観批判論は「たらいごと赤子を流す」愚に似ている。日本マルクス主義がそうした限界を持つ津田史学の系譜を引いているとしたなら、そもそもここに無能さが極まっていると云うべきではなかろうか。

 今や、我々は、記紀神話の先の日本古代史に光を当てねばならない。日本古代史の秘密を解き明かさなければならない。そういう意味で、記紀以前の史書が欲しい。これが仮に存在するとしたなら、その記述を知りたい。これを詮索するのが興味深いのだが、いわゆる古史古伝がこれに相当すると思わるのだが、今日公開されている古史古伝はあまり当てにならない。それはなぜか。本当に記紀以前の史書かどうか疑いがあるからである。仮に原書がそうであったとしても、写筆過程での書き替え改竄の可能性が強い。その為に信に足りない。但し、記紀よりも正確な史実を伝えているとみなされるべき記述もあり、この辺りは大いに学ぶべきであろう。これが古史古伝に対する態度となるべきである。

 ともかくも邪馬台国滅亡前後の史書が不在である。これは、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国の滅亡に関係しているように思われる。これが為、この時代の歴史が地下に潜った。これが為に邪馬台国滅亡前後の史書不在となっているように思われる。とはいえ、ここがまことに日本的なのだが、出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国は完全に滅亡されたのではない。彼ら旧政権派は、国譲り譚で判明するように、政権は譲り渡したが宗教的権威及び活動は担保され歴史に生き延びた。政治的には一部が新政権の大和王朝に組み込まれて残存し、一部が追放され東へ東へと逃げ延びて行くことになる。一部が人里離れた山岳に篭り鬼神化させられて生き延びる。この過程は西欧史の如くな皆殺しジェノサイドではない。

 興味深いことは、大和王朝内の政権の一角に組み込んだ出雲王朝-三輪王朝-邪馬台国派が、その能力の高さ故に後々重要な影響を及ぼし続けたと看做されることである。こうして、その後の日本史は、原日本時代、新日本としての大和王朝時代、新日本と原日本の練り合わせによる新々日本の創出へと向かったのではなかろうか。この日本が今日へ至っているのではなかろうか。以上を踏まえると、日本はほぼ単一民族化しているとみなせるが単一社会ではない、むしろ原日本、新日本、その他を織り交ぜた複合練り合わせ社会と云うことになる。こういうところを政治家が認識していないと国運の舵取りを誤ることになる。

 この日本史に特異な現象として、現代史的に意味のあるところだが、戦国時代期及び江戸幕末期よりネオシオニズム勢力が食い入って来たことであろう。戦国時代期のネオシオニズムは衆知の過程を経て排斥された。ところが江戸幕末期の黒船と共に来襲して来たネオシオニズムはその後の日本史への容喙を続けて今日に至っている。その政治はここへ来て次第に露骨化し始めている。

 ネオシオニズムも又日本化するのなら一法であるが、連綿と形成されてきた日本を溶解し植民地化せんとし続けている。その壊しようはあたかも、ネオシオニズムと思想的に最も鋭角的に対立している日本思想そのものの撲滅を期している感がある。思想がそうなら社会もそうとして日本社会の絆を根底的に殲滅せんとしている形跡が認められる。こうなると、日本的なものを愛する我々との間には非和解的な抗争しかない。そういうことになろう。

 2010.7.28日 2013.8.15日再編集 れんだいこ拝

 jinsei/


【れんだいこ新説「三輪邪馬台国滅亡論(説)」考】
 れんだいこの邪馬台国新論につき仮に「出雲王朝系三輪邪馬台国滅亡論(説)」(以下、「三輪系邪馬台国滅亡論」と記す)と命名することにする。従来の大和朝廷直結型の「九州説、大和説、その他説」に対して、「大和説ではあるが、大和朝廷非直結型と云う点で異なり、むしろ来航勢力の来襲を受け、出雲王朝の国譲りから始まる内戦が開始され、出雲王朝が畿内大和に最後の橋頭保として邪馬台国を創建し死守したものの数次の攻撃を受けた末に遂に滅亡させられ、代わりに大和朝廷が建国された」と位置づけ、これらの過程を総称略して「三輪系邪馬台国滅亡論」とする。

 「大和」を歴史的に「ヤマト」と読んできた裏には元々邪馬台国の地であったことを踏まえた特殊な読み方であり、これが定着したと思っている。漢字の「大和」は、邪馬台国滅亡後に「大きく和した」形での大和朝廷創建と云う歴史的経緯を踏まえた当て字と解する。

 補足。高橋克彦氏の「東北蝦夷の魂」18pが次のように記している。
 例えば、「黄泉の国」(死者の住む国)がそうだ。「黄」を「よ」、「泉」を「み」と読む例はない。原日本語に「よみ」という言葉があり、それに同じ意味の中国の漢字「こうせん(黄泉)」を当てたのだ。中国の字典では「黄泉」の意味は「地底湖」となっている。古い日本(原日本)における「よみ」のイメージも、鍾乳洞や洞窟の中の地底湖のようなものだった。それで「よみ」に、漢字の「黄泉」を使ったのだろう。これで、「大和」とは何かが見えてくる。

 高橋氏の指摘を請け売り且つ転用すれば次のように言えることになる。「大和の国」の「大」を「やま」、「和」を「と」と読む例はない。「大和朝廷」に先立って「邪馬台国」という国があり、その「邪馬台国」を殲滅し新王朝を樹立するに当り、「邪馬台国」派の残存諸国家の抵抗が止まず無益な百年戦争の様相を呈した状況下で、両者手打ち和睦して新王朝を樹立することを約した。その新王朝名として「両者手打ち和睦して新王朝を樹立」を念じ「大和」と銘打った。しかも、その読みを「やまと」と読ませた。この「やまと」読みこそ、両者がそれぞれに「名を与え実をとる」の知恵の賜物だった。目前で受け取れば、外航族派の政権と云う実取り、長期目線で受け取れば、邪馬台国派のやまとと云う名を歴史に遺した実取りであった。これが「大和の銘、やまとの読み」の裏物語であろう。

 これにつき、倉橋日出夫氏の「古代出雲と大和朝廷の謎」(学研M文庫、2005.2.19日初版)が、れんだいこと没交渉ながら殆ど同じ知見を得ていることに驚かされている。これにつき、直木幸次郎著「日本古代国家の成立」は次のように記している。
 「天皇家の先祖は、外から大和の地に入り、それ以前から三輪山の神を祀っていた権力を打ち倒して、それに取って代わったと考えるほかない」。

 古代史学会の動向は分からないが、「直木幸次郎、倉橋日出夫、れんだいこ」その他の論者が既に出雲王朝系邪馬台国論、その滅亡論を唱え新視点を打ち出している。記紀資料その他を普通に読めば、そのことが手に取るように分かると云うのに、これまでの邪馬台国論は九州説にせよ畿内説にせよその他説にせよ、大和王朝に直列的な先王朝としての研究に耽ってきた。しかしながら、その道に踏み止まる限り、日本古代史の解明は覚束ない。

 日本古代史の解明は、出雲系邪馬台国論を打ち立て、それが滅ぼされて大和朝廷に移行したと云う視点を打ち出さない限り一歩も前進しない。出雲系邪馬台国論の本拠地を纏向遺跡に据え、箸墓古墳の円墳を卑弥呼又は台与の墓と仮定し、この仮定から邪馬台国論を見直し、その王権が簒奪される形で大和朝廷へと至る政変論を展開させた方が生産的ではなかろうか。記紀神話が邪馬台国を記さないのは、この過程の不義によってではないのか。こう捉えた方が古代史が正確に見えてくるのではなかろうか。

 邪馬台国研究は「三輪系邪馬台国滅亡論」を獲得したことにより、その地平を大きく開いたことになる。これにより、魏志倭人伝の更なる精読が要求されることになったのは云うまでもない。次に魏志倭人伝の魏志内の地位、他の蛮夷伝との比較による特徴の検証が要求される。次に魏志倭人伝と他の史書の倭人伝倭国伝との比較検証が要請される。次に記紀神話、風土記、古史古伝各史書、記紀後の各史書との比較検証が要請される。次に考古学的検証が要請される。考古学的検証は銅剣、銅矛、銅鐸論、銅鏡論、古墳論、遺跡論等々と云う風に更に分岐したテーマごとの精密な検証が要求される。ざっとこういう按配になる。

 それらを総合して獲得すべき理論は、日本の国体、王統皇統譜の解明ではなかろうか。併せて紀元3世紀の日本の国情確認ではなかろうか。特に国津族と外航族の抗争と和合により織り為されることになったその後の日本史の端初的解明ではなかろうか。これは実践的にどういう意味を持つのか。それは、現代史の構図にも繫がる。即ち、江戸幕末の黒船来航以来浸潤してきた国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの爪牙(そうが)と酷似しており、早晩その決別と新たな日本式国際協調の道筋を造り出すことに繫がる。つまり、紀元3世紀の日本政治上の最大政変の研究を通して現代日本の再生を呼び込むことになる。こういう関心で「出雲王朝系三輪系邪馬台国滅亡論(説)」の検証に向かうことにする。

 付言しておけば、「三輪系邪馬台国滅亡論」は自ずと従来の諸説を破壊する。九州説は如何なる論であろうとも牽強付会が指摘されることになる。大和の邪馬台国との同盟関係諸国としての地勢的確認へ向かうことが要求されることになる。神武東征は史実性を増すが、それになぞえての邪馬台国東征論、狗奴国東征論なぞ頭ごなしに否定されることになる。幻の邪馬台国論と云う観点からの邪馬台国フィクション論も雲散霧消させられる。二つの邪馬台国論も同様に折衷主義性が痛打される。畿内説も、大和王朝の前身的な位置付けの邪馬台国論は撤回を求められる。比定地としては間違いないが、滅亡された側であることを確認しない限り意味を為さないことになる。その他説も然りで、どこに宛がおうとも大和王朝の前身的な位置付けの邪馬台国論は撤回を求められる。「三輪系邪馬台国滅亡論」によって、こういう地平が生まれたことになる。従来の邪馬台国研究は一端ご破産にされ新たに積み木していくことが要請されている。こういう衝撃を伴っていることを理解せねばならない。この衝撃をどう受け止めるかは論者の自由である。

 これは良いことであって、研究が本来の軌道へ戻ることを意味する。問題は、かく構図したとしても邪馬台国史の解明は容易ではないことにある。史書を尊重するのは当然としても、魏志倭人伝の如く記述が余りにも多義的になっている場合、これをどう読みとるのか。方位、距離をそのまま受け止めれば日本列島内に留まらいない場合に、これをどう読みとるのか。魏史と他の史書で記述が違う場合にどう読みとるのか等々難題を抱えている。中には裏筆法による記述も考えられる。つまり、解読側の見立て能力が優れて問われていることになる。現に、邪馬台国論はもつれにもつれており、これをどう解(ほぐ)して読み直すのかが問われている。従って、研究を本来の軌道へ戻したところで、なお難題が待ち受けていることに変わりはない。しかしながら、交合により放出された精子が着床を求めて子宮内を泳ぐように正解の道を訪ねる営為を止める訳には行くまい。このことだけが確かである。このメッセージを添えたことでひとまず筆を置くことにする。

 2011.8.21日 れんだいこ拝







(私論.私見)

古代史の六大難問とは、紀年の延長をめぐっての「紀年論」、高天原は何処論、出雲王朝の国譲り、邪馬台国の位置をめぐっての「邪馬台国論」、さらに神武の故郷や東征路をめぐっての「神武東征論」、「倭の五王」問題である。この六大難問を避けて、我が国の古代史は語れない。