後漢書、梁書、隋書、太平御覧など複数の中国歴史書が邪馬臺国と書いているにもかかわらず、私たちがテキストとする12世紀改訂の紹興本、紹煕本の三国志倭人伝が、臺に似た壹という文字を使って邪馬壹国と書いている。この両者は、わずかな違いはあるが咸平本→汲古閣本の流れを踏襲しているとみなされる。では、なぜ「邪馬壹」と書かれたのだろうか。私のところへも二度ほど、「壹が正しい」とする立場からの意見が寄せられたことでもあるし、この論考を邪馬台国という名称で展開する根拠提示の意味も含めて邪馬臺が正しいことを証明する。読者の多くは邪馬台という略字に慣れておられると思うのだが、文字の真偽問題がからむことでもあり、ここでは中国の歴史書が使っている旧字体の邪馬臺を使ってすすめる。
▼5世紀成立の正史「後漢書」編纂者は、三国志を見て邪馬臺と書いた。
先達がその考証眼で濾過して書いた正史を資料として、自らの考証眼でさらに濾過して書くのが文章伝世である。そうやって史実を伝承することが歴史書編纂の作法だから、三国志を資料にするのは当然である。独自に書かれた歴史書も山ほどあるが、ほとんどが異聞として扱われている。三国志以降の後漢書倭伝を含む東夷伝にかぎっていえば、先に成立した三国志を資料にした事実は動かない。
中国史上、公式かつ始めて東方を調査したのは後漢朝ではなく魏朝だからである。すなわち後漢書東夷伝は、三国志を資料にしなければ書けない記録である。その後漢書倭伝は「その大倭王は邪馬臺に居る」と書いている。私たちが目にすることのできる倭人伝は12世紀宋代に民間で刷られた刊本だが、5世紀の後漢書編纂者がみた倭人伝には邪馬臺国と書いたあったから邪馬臺国と書いたのである。
▼7世紀の隋書の編纂者も三国志を見て書いた。
これもまた歴史書編纂の手順として当然といえる。見ているからこそ「魏志にいう邪馬臺なる者なり」と書いている。7世紀唐代の隋書編纂者がみた倭人伝にも邪馬臺と書いたあった証拠である。
▼後漢書と隋書、梁書が「邪馬臺」に間違えた可能性はあるか。
誤字はどの書物にも認められる。これは、現代のように統一された辞書がなかった時代のことでもあり、無理からぬことだと私は思う。邪馬臺を中国人の発音に併せて書き換えたたと思われるものには、邪摩惟、邪靡堆とあり、ひどいものになると、邪摩推、邪靡惟というものまである。いわゆる「間違いの増幅リレー」である。これは、ほとんどが筆写時か版木作成時の間違いと思われる。だが、可能性のパーセンテージという科学的見地からいえば、後漢書、隋書、梁書の三書が揃って壹を臺に間違ったという結論には至らない。必然的に、三書の編纂担当者が見た三国志には邪馬臺と書かれていたと考えるべきである。
▼注釈をつけた李賢と裴松之がみた三国志にも邪馬臺とあった。
後漢書倭伝の場合は、「其の大倭王は邪馬臺国に居る」と書いた。これに続けて、唐代に李賢が「案:いま邪摩惟の音をこれに訛えて名ぶ」と注釈している。李賢は、自らが入れたその注釈のすぐ上にある邪馬臺の文字を見ていながら、「壹の誤りである」とは注釈していない。これが壹の間違いだったとすれば、いうまでもなく注釈を加えたはずである。これに先立って、裴松之は三国志に膨大な注釈をつけている。彼の注釈が完成したのは429年で451年に死去。私たちがテキストとしている倭人伝は12世紀に刷られたものだが、これよりも700年以上前の人である。その裴松之は臺と壹については何も触れていない。つまり、彼が見た時点では触れる必要がなかったのだと採れる。ほぼ同時代の笵曄は後漢書に臺と書き、三国志に注釈をつけた裴松之は臺にも壹にも触れていない。ということは、5世紀の裴松之と笵曄と、7世紀の李賢らが見た三国志には臺と書いてあった証拠である。
ここで、裴松之が三国志の注釈に引用した史書を、作者とタイトルで列挙する。
・後漢代を紀伝体で記録したもの
謝承『後漢書』、華キョウ『後漢書』、司馬彪『続漢書』
・三国時代を紀伝体で記録したもの
王沈『魏書』、魚豢『魏略』、韋昭『呉書』、張勃『呉禄』
・その他
麌預『晋書』、張□『後漢紀』、袁宏『後漢紀』、袁遺『献帝春秋』、楽資『山陽公載記』、司馬彪『英雄記』『九州春秋』、孫盛『魏氏春秋』『晋陽秋』、習鑿歯『漢晋春秋』、干宝『晋紀』、郭頌『世語』、麌薄『江表伝』、胡沖『呉暦』……これらの多くは多くは異聞として扱われているものである。
次に、正史「後漢書」の編纂者が資料としたと思われる後漢代の歴史書の主だった5書をざっと眺めてみる。
・謝承『後漢書』
霊帝紀に始まり東夷列伝で終わる。東夷列伝に「三韓俗以臘日、家家祭祀、俗云臘鼓鳴春草生也………」。という記録がある。他の東夷諸国に関する記録なし。
・華キョウ『後漢書』
明帝紀
で始まり西南夷伝
・南匈奴伝で終わり。東夷に関する記録なし。
・謝沈『後漢書』
そもそも伝少なし(断片的で不完全な紀伝体)。東夷に関する記録なし。
・袁山松『後漢書』
光武帝紀ではじまり。西域伝で終わる。東夷に関する記録なし。
・司馬彪『続漢書』
光武帝紀で始まり烏桓伝・鮮卑伝
で終わる。東夷に関する記録なし。
・薛瑩『後漢記』
光武帝紀
に始まり戴翼伝で終わる。東夷に関する記録なし。
裴松之は、笵曄が後漢書を完成させたあとも10年ほど生存している。このことから、正史「後漢書」を自分の目で確認していることは疑いようがない。完璧主義ともいえる裴松之の仕事ぶりからみて、壹が臺に間違っていたとすれば彼の目の黒いうちに気づいて、後世の注釈者に間違いである旨は伝わったはずである。ところが現実には、訂正も注釈も入れなかった。一方の漢書の場合。7世紀の李賢たち4人の知識人は、同じ行のすぐ目の前にある臺の下にカッコつきで注釈を入れたにもかかわらず、臺の文字については何も関与せずに臺で通した。臺で正しいと判断したからである。興味がなかったわけではない証拠に、大倭王の居るところについて「7世紀当時のいまは邪摩惟と呼んでいる」とわざわざ注釈しているのである。その邪馬臺が、12世紀の後漢書刊本制作でもそのまま活かされた。南宋本の三国志と後漢書の制作年代のずれは、最大アバウトでも数十年の時間差である。ここでも、李賢の注釈と同じ行にあった臺の文字は訂正されることなく生き残っている。
▼その他
「現存する三国志写本がみな壹と書いている」という意見を耳にしたことがある。これは一種の「まやかし」である。紹興本と紹煕本の流れをくむ後代の三国志刊本は5~6種類あるらしいのだが、中国におけるこれらの評価は、年代が新しいほど誤りも激しいとのことである。編纂現場とはかけ離れたところで、「間違いの増幅リレー」をして出版された後代の版本や写本を、いちいち取りあげたところで何の意味もないのである。
●「一書一名」の現実
現代のように体系化された辞書がなかったにしろ、中国の歴史家も完璧ではなかったらしい。現実に、「ヤマイ」と書いたのもあれば、「ヤヒタイ」と書いたのもある。中でも邪靡堆と書いた隋書は、邪摩堆と書くところを誤ったとみて差し支えないだろう。この件については、中国の良識が校勘できちんと回答を出している。中国中央研究院の校勘によると、「邪摩惟も邪摩推も、邪摩堆に改める」と述べている。
※『翰苑』が『後漢書』から引いたとされる「倭面土」について。
先に提示した通り、厳密には後漢書は複数あった。笵曄の正史「後漢書」は、安帝紀にも倭国が朝献したことを記録している。ここに倭面土という記録がないところをみると、翰苑はどの後漢書から引いたというのか。少なくとも、正史「後漢書」から引用したとは考えられない。この倭面土に関しても「倭面上国」、「倭面土地」など、ヤマイやヤヒタイの混乱ぶりと非常に酷似している。
ここで銘記したいのは、中国の歴史書は「一書一名」だという事実である。たとえ誤字や異同があっても、どの歴史書も一つの時代の一つの国について書いている。分かりやすくいえば、「ヤヒタイ」でも「ヤマイ」でも良い、「倭面上国」、「倭面土地」でも良い。一つの歴史書が、互いがまったく別の国として、同時代に存在したと書いている例はない。原本記録から刊本製作に携わった人間たちが、各時代の当て字を使って書いた呼称や誤字などの一つか二つをとりあげて、その一字に「意味」をもたせたりパズルか乱数表のように扱ったところで、文献学的見地からは何の意味もないのである。
簡潔で分りやすい方法で説明する。
▼時代の異なる幾つかの中国史書のいうところをまとると以下のようになる。
3世紀の日本列島に邪馬臺国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対馬国、一支国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬臺国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して、親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、臺與という13歳の女子が女王になった。
▼12世紀に改訂された倭人伝のいうところは以下の通りである。
3世紀の日本列島に邪馬壹国があった。帯方郡から1万2000里。帯方郡から韓国の沿岸を経て狗邪韓国へ。そこから海を渡って対海国、一大国、を経て末盧国へ。そこから伊都国、奴国、不弥国を経て、その南に王都の邪馬壹国があった。そこには卑弥呼という女王がいた。倭国の大乱のあとで女王になった。鬼道に堪能な女性だった。弟が一人いて政治を手伝っていた。南にある狗奴国と抗争していた。景初2年に魏に朝献して親魏倭王の爵号と金印を頂戴した。卑弥呼が死んだあと、壹與という13歳の女子が女王になった。
歴史書によって微妙な違いや省略がある部分を度外視しているが、いかがだろう。同じ時期の列島の同じような場所に・邪馬壹国と邪馬臺国があった。その女王の名もまったく同じ卑弥呼といい、女王になった経緯もまったく同じだった。魏はその二人に、同時に親魏倭王の爵号と金印を与えた。こんなことがあり得ると思われるだろうか。文章伝世によって一つの国の歴史と沿革を述べるのに、時代や歴史書によって文字表記や国の呼び方が違っているだけのこと。断じて、それぞれがまったく別の国とその歴史を書いているのではないのである。