第5部 「邪馬台国」比定諸説論争史(1)概括

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (はじめに) 
 邪馬台国の研究は「日本古代史上の最大の謎(ミステリー)」であり「古代史ロマンの華」である。一説に「新井白石に始まり安本美典で終わった研究史」と云い為す向きもあるが、違う。「邪馬台国研究の決定打は未だない」とすべきであろう。当然、「邪馬台国論争は終わった」だの「邪馬台国論争終結宣言」なる言はすべきでない。れんだいこに云わせれば、れんだいこの新邪馬台国論の登場により新たな段階に入ったのであり、それはまだ「緒に就いたばかり」と云うのが正しい。こういう有り様だからして、在野史家(郷土史家、小説家、宗教家、私学者)が自説を堂々と開陳できる魅惑的な分野となっている。結論として、今日なお甲論乙駁飛び交う論議のただ中にあり、あまたの頭脳を投入しているにもかかわらず解明にはほど遠い学問領域であると踏まえたい。

 その原因は、魏志倭人伝の約二千文字(正しくは1984文字)の記述そのものに内在している。どうすればこれだけ様々の解釈が生まれる記述を為し得るのかと驚嘆するばかりの多義的文言で書かれている。これについては意図的に筆法的書き方が為されているとみなす向きもある。確かに、その解読は、奥深く入り込めば込むほど迷宮入りしてしまう不思議なパズルとなっている。

 東西の帝国大学の碩学歴史学者の頭脳をしても解けず、かの高名な推理作家である松本清張あるいは高木彬光、盲目詩人・宮崎康平をしても如何ともし難たかった。逆に云えば、そういう文言ないしは筆法のせいで、この二千文字から何を如何に読み取るのか、未だ各人の自由に任されているとも云える。これまでどれほど「創造」的な読み取りが現れてきたか微笑を禁じえない。それを思えば、邪馬台国論は我々の思考を鍛えてくれる格好素材と云えるかも知れない。れんだいこはいつしかそのことに気づき、歴史学的探究心に加えて論理学的興味をも抱き始め今日なお抱き続けている。

 魏志倭人伝の多義的文言、筆法的書き方は今更どうしようもなかろう。それを踏まえてどう学問するのかが問われている。考古学的に実証していく方法と史料的に考証していく方法とが常道であろうが、どちらの方法にせよ学問的な裏付けを積み重ねて、一つづつの事象を確認していくのが相応しかろう。しかしながら、邪馬台国研究の実際は学閥的に左右されたり、郷土愛的な先入観を第一義にしてみたり、観点に特許を導入して他の論者の介入を斥けてみたりの凡そ非学問的作法、論法が横行している。

 もう一つ大事な方法がある。それは、考古学的実証にせよ史料的考証にせよ、研究成果の共有と解釈方法そのものを共同構築していくことが肝要ではなかろうか。勿論、異説を許容しつつの共認化を求めねばなるまい。邪馬台国研究のお粗末さは、この面が積み木崩しされてしまっており生産的になっていないことにある。いわばお互いが得手勝手に自己の信ずる見解を披露するばかりで、論を蓄積して焦点を精密化するという研究作法が定着していない。人文科学の世界のことである故にある程度は仕方ないにせよ、それにしても度が過ぎているように思えるのは私だけだろうか。これらから気づくことは、従来の邪馬台国論の論争の仕方そのものが問題なしとはなしえないように思われるが如何であろうか。


 驚くことに魏志倭人伝約二千文字の解釈において、異説を内包しない通説は見当らないというのが現状である。通説はあるが通説に留まり、極端に云ってどの部分一つとっても定説がない。時に奇抜な着想で在野の研究史家が続々と登場してはいるが珍説の域を出ない。邪馬台国の研究に大きな進歩をもたらした様子も見受けられない。こうしたことの原因に、先ほど指摘したように積み上げた努力をお互いが獲得しようとしない独りよがり作法が横たわっていることを考えざるを得ない。

 
邪馬台国論の場合、解釈の分かれそうなケ所のどの部分を採ってみても、通説が異説を退けるには足りない範疇においてしか通用していない。こうした場合の便宜として折衷説も飛び出すけれども、事がそれで解決する訳でもない。真偽を質す実証精神のないままに諸説が喧騒し続けているというのが実際である。こうした場合、通説側からは異説を斥ける論証が為されるべきであり、異説を無視したまま通説を語り続ける態度が果たして学術的であろうか。

 有名な白鳥−内藤論争にしたって単に並置された説に留まっており、それぞれのどの部分までが一致しており、どこから先に見解が分かれることになっているのかの検証が為されていない。あたかも講座派的な学閥上の争いに取り込まれてしまった観がある。なるほど著名な推理作家の手によっても解明し得ない世界のことであるから、結論を急ぐ訳には行かないというのが実際のところではある。但し、私は、論争の仕方によってはもっと進展が見られる局面もあるのではなかろうかと思っている。


 暫く、諸説分かれるところを取上げて見る。邪馬台国論の比定上の最大の関門は、邪馬台国の所在地である。このことに誰しも異存はあるまい。巷間、「九州説.畿内説」の二大説で流布されるが、「九州説.畿内説.その他諸説」の三すくみの鼎立状態で推移しているという認識こそ正しいのではなかろうか。にも関わらず二大説としてのみ流布されている。この辺りからして研究者の恣意的な驕りとそれによる歪みを見てとることができよう。方位にせよ、里程にせよ、諸国の比定地にせよ、女王卑弥呼の見立てにせよ、共通の認識を探ろうとする努力が乏しいまま甲論乙論が得手勝手に論駁されている。


 驚くことに、邪馬台国の比定地は百ケ所を越えており、九州は北から中央、南の各県、奄美大島、沖縄の地まで推定されている。四国説も登場してきている。中国地方では出雲、吉備説がある。畿内においては河内、大和、熊野、琵琶湖、丹波、丹後等々。その他国内各地に信州諏訪、房総、越後等々が散見する。更に、国内に止まらず韓国、フイリッピン、ジャワ、スマトラのアジア各地から中近東のエジプト説まである。果ては「邪馬台国はなかった説」となる。  

 これだけ各地に比定されておりながら相互に何らの検証を為さないということは学問的作法として相応しくないのではなかろうか。それぞれの説にはそれぞれの根拠があってのことと思われるが、倭人伝その他各史書との記述上の整合性を確認しあい、諸説を支える根拠について議論し、成果を抽出できるならば共有し合うべきではなかろうか。

 特に、九州・畿内の二大説以外の諸説の場合には、その比定地を支える根拠に首肯し難い面も見られるが、二大説の欠陥については鋭く指摘している場合が多い。特に、大杉氏の四国山上説の場合かなり精緻に言及しており、聞くべきところが多い。とすれば、二大説を唱える者は、諸説の比定地を無視するだけではなく、指摘された二大説の欠陥について正確に反論すべきではなかろうか。こうした相互検証のないままに諸説が諸説として喧騒されるだけの事態は学問的には異様なのではなかろうか。

 邪馬台国へ至る行程を確認してみよう。対馬国の比定については現在の対馬で何人も異存なかろうと思えるが、子細については対馬の上島.下島の両島を指すのか片方の島を云うのかについて議論が定まっていない。一支国を壱岐島に比定するには異存は見られないが、一支国の支は大と記述されることもあり、どちらかが書き誤りなのかそれぞれ根拠をもっているのかについても詮議半ばである。ここまではまだしも、この後更にややこしくなる。通説は、末盧国を松浦半島の唐津市辺りに、伊都国を糸島半島の旧怡土郡辺りに、奴国を博多市辺りに比定しており、ここまでは確かなこととして論を進める者が多いが然りとすべきだろうか。この通説に疑義を挟み込む異説も多く、この異説は無視されるには棄て難い有力過ぎる根拠に支えられていたりする。

 そこから先の不弥国、投馬国、邪馬台国の比定となると百家争鳴状況にある。れんだいこも判然としない。これだけ各地で提唱されながら、お互いの主張の根拠を確かめ合う姿勢が乏しい。いわば随意にお勝手にという姿勢であろうが、こうした姿勢が真摯に学問的であろうか。諸国の比定ばかりではない。方位にせよ、長里短里を問う里程にせよ、邪馬台国か邪馬一国かの「台一論争」にせよ、女王卑弥呼の見立てにせよ、共通の認識を探ろうとする努力が乏しいまま甲論乙論が得手勝手に論駁されている。もう少しお互いの根拠を確かめ合いながら議論を詰めていくべきではなかろうか。人文科学系の場合には絶対の真理というものは定めにくいのであるから、双論併記の上で一つ一つ断をくだしていく作法がいるのではなかろうか。

 奇妙なことに、邪馬台国と女王国と他の倭の諸国との関係についてさえ解釈が一定していない。このこと自体は倭人伝全体の文章解釈により為しえるのであるから難しいことではないと思われるが認識の混乱が横行している。つまり、邪馬台国と女王国と倭との関係において数学式の「≧、≦、=」さえ定まっていないということである。こうしたことの論議が為されないままに議論百出させ続けて見ても、学問上の成果は覚束ないと云うべきではなかろうか。整合的理解を進めることを惜しんではならない。都合の悪い部分を史料の誤りとしてすぐに切り捨てるのではなく、倭人伝に内在する論理性を重視しながら整合させる努力を試みることが大切ではなかろうか。

 私は、本書執筆に当り、上述の問題意識から邪馬台国論に取り組もうと思う。従って、通説、異説を盛り込みながら自身の見解を対置させ、まるでジグソーパズルを解くようにして迷路からの脱出を試みたいと思う。その際の基準は、これまでの邪馬台国研究のうち定着させるべき成果の確定であり、少なくともここまでは詮索可能と為し得る点につき印しを打っていくことである。これより先はどうしても私見に依らざるを得ず、この点については読者のご容認を頂けるものと思う。こうして獲得された成果に対しては、その成果の上にたって論を積み上げていったらどうなるのであろうか。このことに挑戦したのが本書である。十分とはいかないものの、作法としては学界に大いなる貢献を為すものと確信している。

 もう一つ提言しておきたい。西欧宗教のユダヤ―キリスト教聖書には研究上、一節ごとにbェ付されている。これにより番号でどの文句かが共認できるようになっている。邪馬台国研究も、魏志倭人伝二千文字の文節毎に見出し番号をつけ、更に一文毎に個別番号をつけてはどうだろうか。これを提案しておきたい。

 2003.8.24日再編集、2011.8.06日再編集 れんだいこ拝

 邪馬台国論争の構図上の第二の関門は、邪馬台国及び女王卑弥呼と「記紀神話」との相関にある。国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚と邪馬台国との関わりが分からない。よって、その真相解明が急がれている。「記紀神話」は、天津神系譜を正統とする天皇伝説を縦糸として、在地の国津神系譜との抗争ないしは和睦の歴史を綿々と連ねているが、邪馬台国及び女王卑弥呼がそのどちらの系譜に列なっているのかを解析せねばならない。

 特に、神武天皇東征神話との絡みを重視せねばならない。「邪馬台国論、同論争の歴史的意義について」でも言及したが再確認する。神武天皇を、1・邪馬台国系譜の人とみなすのか、2・邪馬台国と対立していた狗奴国系譜のものと見るのか、3・はたまた別の系譜上の人物とみるのか。これによって、大いに邪馬台国の解釈が揺れることになるという歴史的相関性が認識されていなければならない。極論すれば、邪馬台国研究の意義はこの皇統譜の解明の為にこそ深められるべきであり、紀元三世紀の倭国の様子がつぶさに伝えられていることの成果はむしろ従の関係にあるというべきであると思われる。 

 邪馬台国の比定地論争もこの課題に関係して論ぜられている筈であるが寡聞である。更に云えば、邪馬台国を国津神系譜で捉える視点も魅力的である。出雲政権及び畿内の国津神系譜のナガスネヒコ政権と邪馬台国との絡みはどう了解されるのであろうか。これまで無数といってよいほど邪馬台国が考証されて来た割には曖昧模糊の感じが否めない。

 卑弥呼を神功皇后や天照大神と同一視して天津神系譜で捉えるのが通説のようにも思えるが解せない。それならそれで邪馬台国と対立していた狗奴国をどう捉えるのかという問題に言及せねばならない。狗奴国も又天津神系譜で捉えられることが多い。しかしながら国津神系譜で捉えた方が自然の読みであるように思われる。更に初代天皇(ハツクニシラスメラミコト)として知られる神武天皇又は崇神天皇伝説はどちらとどう絡むのであろうか、これも解析せねばならない。これらに思いを馳せれば次々と知りたい衝動が生まれてくる。

 れんだいこは、日本古代史上の政変とそれによるその後の歴史への影響は、今に至る日本的DNAの原基を為しているように思っている。そういう意味で、国譲り譚、天孫降臨譚、神武天皇東征譚、邪馬台国譚の考察は非常に重要であるように感じている。これまで無数といってよいほど古代史が考証されて来た割には、肝腎要めのこれらとの関係が曖昧模糊なままな気がする。邪馬台国の比定地論争は、これら「日本古代史の秘密」に関係して論ぜられるべき筈であるが、この観点からの論が深められていない。してみれば、邪馬台国の研究はまだ緒に就いたばかりと云うべきではなかろうか。

 既に明察の士も居られようが、邪馬台国研究のこの情況は、まさしく日本マルクス主義のそれと酷似している。邪馬台国研究の質の出藍は、マルクス主義のそれをも生み出すという相関関係にある。そういう意味から、邪馬台国研究の意義を位置づけることも可能であろう。一事万事というから。以上、記しておく。

 2003.8.24日再編集、2011.8.06日再編集、2013.3.29日再編集 れんだいこ拝

 現在、れんだいこは、上記の問題意識からかなり歩を進めて「れんだいこの新邪馬台国論」を打ち出すまでになっている。今のところ全く認められていないが、知る人ぞ知るで、ひとたび「れんだいこの新邪馬台国論」を味わった者には、れんだいこ立論の関門を経由しない邪馬台国論の味気なさを思い知らされることになろう。比定地論争の喧騒さえ児戯っぽく感じることになろう。今や、「れんだいこの新邪馬台国論」の門をくぐり、この説を更に補強するなり批判するなり覆すなりの学究こそが望まれていると自負している。人文系学問にノーベル賞のようなものがあるとすれば、「れんだいこの新邪馬台国論」は受賞する資格があるとさえ思っている。少なくとも稲門卒としては、母校から津田史学賞ぐらいのものは貰っても迷惑はかけまいにと思っている。誰か推挙してくれふふふ。

 2013.8.17日 れんだいこ拝

 『卑弥呼と日本書紀』第四版 第一章〜第三章(オロモルフ)」の重要な指摘を確認する。

 ◆◆◆ 時代区分の確認と日本人の先祖 ◆◆◆

 ここで参考までに、縄文から平安にかけての時代区分の概要を図1・2に示しておく。
 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm

 日本どくとくの縄文時代がひじょうに古く長いことが印象的である。しかもさいきんの考古学的発見によって、その起源は一万七千年前あたりまで、おおはばに延長される可能性がでてきた。日本列島における人類の居住は、何十万年も前からだとの説もあるが、それは別問題として、いまのわれわれ日本人に直接つながる人たちの最古の姿は、特有の土器の模様から縄文時代と呼ばれる時代やその少し前の時代――すなわち旧石器時代(氷河期)を含んだほぼ二万年のあいだ――にできあがったのであろう。

 では、縄文時代を切り開いた人たちがどこから来たのかであるが、縄文より前は日本列島は独立しておらず、北と南で大陸とつながっていて、日本海は巨大な湖だったので、北から南から西から、さまざまな種族が日本を往来することが可能だった。また北方では、氷上を歩いて渡ることもできたらしい。最近いちじるしく発展したDNAによる研究にもとづいて、それら多くの種族のなかでも、寒冷化に適応できなかったバイカル湖周辺の人々が約二万年前の氷河期に暖を求めて南下し、いくつかのルートで日本列島にわたって縄文人の主体をなした可能性が高い――という説が唱えられている。しかしはっきりしたことは不明である。

 いずれにせよ、縄文時代がはじまる直前に氷河期が終わって海面が上昇し、日本列島が大陸から地理的に独立し、温暖化によって緑が豊かになり、独自の文化を醸成するうえで絶好の環境ができた。アジア諸地域からの海をこえての移動や混合はじわじわとなされたであろうが、幸いなことに、大陸における激しい民族の興亡の影響をじかには受けずにすんだのだ。

 豊富な水と森林に恵まれ、外敵の脅威も減った日本列島の住民たちは、どくとくの文化や習俗をつくって、のちに縄文時代と言われた。それら日本人の集団が、弥生時代を迎えて国内で交易や移動を活発化させ、大陸との物的あるいは人的な交流を深めながらさらにその文化を発展させ、ついに古墳時代を迎えるのだが、ちょうどその弥生時代と古墳時代の移行期――たぶん西暦一五〇年〜二五〇年ごろ――こそが、『魏志倭人伝』に記された《邪馬台国》の時代なのである。

 多くの研究によって紀年修正された『記紀』の天皇紀でいえば、それは第十代崇神天皇の御代およびその少し前にあたっている。したがって幸いなことに、『魏志倭人伝』と『記紀』との照合も可能だし、また近年の三世紀前後の考古学的研究の進展によって、遺跡からの考察もかなりの確度で可能になってきている。

 (図1・2に関連するが、「古代」という用語がよくもちいられる。国史における「古代」は、古い辞書では神武天皇即位から飛鳥時代の直前まで――つまり聖徳太子や中大兄皇子によって法治国家が形をつくりはじめる前まで――をいうことが多く、さいきんの辞書では飛鳥・奈良・平安時代をいうことが多い。著者が勉強した史書類では古い用法がほとんどなので、本書では飛鳥時代の前までを「古代」と呼ぶことにする。こういう意味での「古代」の天皇家が狭い意味での大和朝廷である)


 
◆◆◆ 縄文・弥生交代説の退潮 ◆◆◆

 日本人はどこから来たのか、また日本語はどうやって出来たのか――といった日本民族起源論は昔からあり、延々として議論が続けられているが、さいきんの考古学的研究によれば、どうやら、縄文から弥生にかけて徐々に形成されていったもので、特定のある時期――たとえば弥生初期――に大陸から高い文化をもつ多くの移民がきて、それまで日本列島に住んでいた縄文人たちを駆逐して古墳文化を築いた――といった事態は、あまり考えられないらしい。かつてこのような説を唱えていた学者も、さいきんでは自説を撤回することが多いようである。

 じじつ、日本語はシナ大陸の諸言語とはかなり違っているし、朝鮮語とも同じではない。東南アジアにも同じ言語は見つからない。似た側面をもつ言語はあちこちにあるが、直接つながることが証明された言語はない。もし、圧倒的に高い文化の集団が到来して、それまでの住民を駆逐したとしたら、日本語がその集団の出発地の言語になっていた筈であり、出発地自体についての記憶が――神話や神社の伝承などに――鮮明に伝えられている筈であるが、そういうことはまったく見られないのだ。ときおり、特定の地域に日本語の起源をもとめる説が発表されることがあるが、学界の批判に耐えて長続きしたことはない。最近の研究では、日本語の起源はやはり縄文時代にまでさかのぼるらしい。


 
古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけての帰化人については、『記紀』などにも記されているのでかなり分かっていて、一時期の上層部――といっても身分の低い役人が主体――ではかなりの人数だったらしいが、当時の人口の大部分を占めていた農業・漁業・林業などに従事する一般の人々のなかにたくさんの帰化人がいたとは思われない。(この帰化人の人数についての著者の論考は、『女性天皇の歴史』で述べてある) したがって文化的・技術的には刺激を受けたとしても、日本語や日本人の血統自体が激変したことはないであろう。

 帰化人たちの影響は、縄文から弥生の時代でも質的には同様だったと考えられる。量的にはたぶん、古墳時代より少なかったであろう。つまり、文化的にはつねに刺激をうけつつ、言語や遺伝子については、ゆっくりとした影響をうけながら自律的に進展し、縄文時代から奈良時代にいたったと想像できるのである。奈良時代を過ぎて平安時代にはいると帰化人も減り、九世紀末には遣唐使も廃止されて、閉ざされた世界で日本独特の文化が爛熟したことは、周知のとおりである。

 なお帰化人の問題に関連して、かつて東大教授・江上波夫の騎馬民族征服説が流行したことがあった。東北アジアの騎馬民族が日本を征服して崇神朝など大和朝廷をきずいたという大胆な説だが、さまざまな矛盾があり、いまでは支持する学者はすくない。考古学的な証拠がほとんど見られないこととともに、『記紀』に英雄が騎乗して活躍する話が無いこと、大挙して海を渡った伝承が残されていないこと、故郷の地への憧憬が書かれていないことなども、反対意見の有力な論拠となっている。

 ◆◆◆ 戦前への誤解 ◆◆◆

 ここでわずかばかりの余談をお許しいただきたい。
 戦後(大東亜戦争後)の通説のひとつとして、戦前・戦中は『記紀』の紀年、すなわち初代の神武天皇の即位が西暦換算で紀元前六六〇年などという記述を、そのまま信ずることを強要された――という意見があるが、それには疑問を感じる。大正〜昭和初期の史学や考古学の論文を読むと、ほとんどの場合、『記紀』の紀年を大幅に修正するのはむしろ当然のこととして、その先の論述が展開されている。和辻哲郎、肥後和男といった碩学たちも、戦前・戦中に『記紀』の批判的研究を禁じられたことはないと、戦後になって語っている。

 もちろん反日的プロパガンダになれば話は別で排除されただろうし、公式行事としては皇紀二千六百年の祝典がにぎやかに行われた。しかしそれをいうなら、現在でも両陛下は、この皇紀と『記紀』の記述にもとづいて、仁徳天皇陵への御拝などをなさっておられる。それは、古い歴史をもつ国としては当然の行事である。遠い先祖を崇拝し、国の安寧を祈る儀式なのだ。著者が小学校のときに学んだ『小學國史』にも、神武天皇の即位は書かれていても、それが何千何百年前であったとは記されていなかった。付録をよく読むと何となくわかるというていどであった。修身の教科書も同様だった。国の教科書ですら、公式行事の基準としての『記紀』紀年と、学問上の修正とを、両立させていたのである。

 ◆◆◆ 『魏志倭人伝』への批判精神 ◆◆◆

 このように『記紀』についての吟味は古くからなされていたが、一方の『魏志倭人伝』の信憑性についての吟味は、わが国に古来からある大陸文明への憧憬によってからか、なされることが少なかったようである。江戸時代の本居宣長らの国学的な立場からの批判をべつにすれば、先の一覧のなかでこのことに明確な意見を述べているのは立命館教授の山尾幸久で、昭和四十年代に、「古事記・日本書紀などの国内史料に比べれば、中国の文献に対する本文批判は、一般にたいへん甘い。特に魏志倭人伝は、弁析すべき他の史料がほとんどないため、史料の限界を無視した議論がはなはだ多い(佐伯有清の引用より)」――と警告している。山尾自身の史観には疑問を感じる面もあるのだが、文献批判についてのこの意見は正しいと思う。

 このような『魏志倭人伝』を無条件に受け入れるシナ礼賛の雰囲気はずっとつづいていたのだが、戦前から疑問を抱く学者も存在していた。大和地方の遺跡発掘など考古学で多大な業績をあげた樋口清之は、「『記紀』がA級史料とすれば『魏志倭人伝』はB級史料にすぎない」 ――と断定しているし、文化勲章の和辻哲郎も、〈天照大神〉の神話を聞いて〈卑彌呼〉の話を創作した疑いがある、と述べている。さいきんでは、岡田英弘、渡部昇一、西尾幹二といった啓蒙家たちが、「こまかな議論には値しない文献だ」――と主張している。


 
■□■□■ 第二章 〈卑彌呼〉とは誰か? ■□■□■

 あまてらす 神の御光 ありてこそ わが日のもとは くもらざりけれ
 〔明治天皇御製〕

 足姫(たらしひめ) 御船泊てけむ 松浦の海 妹が待つべき 月はへにつつ
 〔万葉集3685〕
 「神功皇后のお船が停泊したという松浦の海ではないが、妻が待っている月は過ぎてゆくばかりだ。(松と待つをかけている)」

 三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなも 隠さふべしや
 〔額田王/天智天皇(万葉集18)〕
 「三輪山をどうしてそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。三輪山を隠してよいものだろうか。(大陸からの侵略に備えるために大和から近江へ突然遷都したときの望郷の歌として有名)」

 ■■■■■ 二・一 〈天照大神〉説 ■■■■■

 まず、『魏志倭人伝』中の女王〈卑彌呼〉の正体について、前記辞書類にあったような、従来から一般によくいわれてきた説を列挙してみよう。くわしいことはのちの各章で述べるので、ここでは概要のみを記しておく。

 ◆◆◆ 『日本書紀』重視の理由 ◆◆◆

 本題にはいる前に日本の古代史書と著者の考え方について触れておく。本書ではテーマの性質上『古事記』と『日本書紀』に何度も言及することになるし、またそれを重視するつもりであることは前章で述べたが、参考文献としてはそのうちの正史(六国史の最初)である『日本書紀』を中心にすえることにしたい。『日本書紀』は『古事記』よりずっと詳しく、日本国にとって不名誉なことも正々堂々と書かれているし、また別説も多く記載されているからである。実質的には『日本書紀』の方が古いという説もかなりあるのだ。

 『日本書紀』の信憑性については、江戸時代から多くの研究があり、とくに戦後の一時期には、単なる伝説や創作にすぎないという意見も出された。しかしさいきんの考古学の進展によって、そこに記されている事柄の多くが史実――または史実の反映――であることが判明しつつある。『日本書紀』と似た文章の書かれた木簡が、飛鳥時代の遺跡から何千も出土している。『記紀』の完成は奈良時代の八世紀の初めであるが、そのとき参考にしたいくつかの書――「帝紀」「旧辞」など――があり、さらにその元は百年はさかのぼるとされている。すなわち飛鳥の推古天皇の御代に聖徳太子らが主導して正史の編纂を開始し、整理された文献を蘇我氏の書庫にしまったといわれているのだ。

 この文献は大化改新における蘇我氏滅亡のおりに焼失してしまったらしいのだが、記憶していた役人(当時の歴史家)は多かっただろうし、整理される前の記録は各方面――たとえば豪族たちの本拠――に保存されていたであろうから、八世紀初頭の『記紀』が百年前に整理された元史料によっていることは確かだとおもわれる。で、この元史料が整理された七世紀初めというと、『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の時代の三百年から四百年あとにすぎない。


 
しかも近世以降の数百年の時代変化にくらべて、古代における変化はずっとゆるやかだったから、古代の三百年はいまの百年以下だったと考えることができるであろう。だから、聖徳太子の時代の歴史家が〈卑彌呼〉の時代をふりかえる作業は、現在の歴史家が、明治・大正または昭和の初期をふりかえる作業になぞらえることができる。書物がほとんど無かったとしても、抜群の記憶力がそれを補い、代々家伝を伝誦する時代だったので、〈卑彌呼〉の時代についてのかなり正確な記録が『日本書紀』のなかに存在していると考えても、おかしくない。著者が『日本書紀』を重視するゆえんである。

 ◆◆◆ 〈天照大神〉説について ◆◆◆

 
さて、まず、「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」――である。〈天照大神〉は太陽を連想させるおなじみの女神で、高天原の主神であり、《伊勢神宮》に祀られている。他にもこの大神を祀った神社は数え切れないほどある。さいきんの義務教育では記紀神話はあまり教えないらしいが、素戔嗚尊の乱暴で天の岩屋に隠れて天地が暗くなった伝説(図2・1)くらいは誰でも知っているであろう。
 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm

 『古事記』では天照大御神と書き、『日本書紀』では生誕時の名は大日靈女貴(靈女は合わせて一つの文字)で、このほうがむしろ本名である。また両書ともに尊称として日神とも記している。この〈天照大神〉こそ〈卑彌呼〉の正体だという説は素人学者の好みにいちばん合っており、小説にもなりやすく、驚くほど多くのアマチュアがこの説を主張し、自費出版は「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」 ――の物語で花盛りである。三波春夫に影響をあたえた原田常治などはその典型だし、さいきんでは井沢元彦もこれに近い説を述べている。もちろん『記紀』の年代を信じれば、時代的にはまった合わないし、修正された紀年でも合わない。古代の天皇一代の期間を十年として〈天照大神〉を〈卑彌呼〉の時代に合わせようとする議論もあるが、必然性に乏しい。しかし伝説上の女王であることは間違いないし、とくに神武天皇の東征伝説とからめて、「《邪馬台国》九州説」――と矛盾しない説明ができる点が強みである。年代については、〈卑彌呼〉の活躍への記憶が、〈天照大神〉の神話として残ったのだ――とすれば、矛盾は解消し、ロマンチックな空想や推理がいくらでもできる。小説に数多く書かれるゆえんである。

 「九州説」の白鳥庫吉は、昭和天皇に国史のご進講をした碩学だが、明治時代に、九州にいた〈卑彌呼〉が〈天照大神〉の伝承の原形となった――との推理を発表している。また逆に、前章で記した和辻哲郎の説のように、〈天照大神〉の伝説を聞いた魏の使者がそれをもとに〈卑彌呼〉の話を書いた――ということも、考えられないではない。なおもちろんのことであるが、「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」は、「《邪馬台国》九州説」 ――にむすびつく。〈天照大神〉は神武天皇が日向から大和へ遠征するはるか前の祖神だからである。

 以上のように、神々の意味からいっても、神社の数からいっても、国民的行事のありようからいっても、あきらかに、日本は「神々の国」であり、それはわが国の誇るべき文化的伝統である。

 ■■■■■ 二・二 〈神功皇后〉説 ■■■■■

 なおこの説は『日本書紀』の選者の舎人親王を別にしてもとても古くからあり、江戸時代の学者、新井白石や伴信友もそうだったらしい。ただし白石はのちに九州説に変わったとされている。

 ■■■■■ 二・三 〈倭迹迹日百襲姫命〉説 ■■■■■

 つぎが、さいきんになって知名度が急上昇している、「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」――である。前出した辞書類における〈卑彌呼〉の記述を見ても、ほとんどすべてにおいて、その候補に〈倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)〉を挙げている。〈天照大神〉を挙げていない辞書はあるが、〈倭迹迹日百襲姫命〉を挙げていない辞書はほとんど見られない。したがって、とうてい看過できない、きわめて重要な候補だということができる。辞書とは、学界の最大公約数を記すものだからである。


 
さて、〈倭迹迹日百襲姫命〉とは、第七代孝靈天皇のお妃の娘で、第十代崇神天皇の時代に、天皇の大叔母(または叔母)という存在感のもとに、預言者として、また神託を伝える霊能力者として活躍した、神秘的な女性である。読みのトトヒはトトビかもしれないし、モモソヒメはモモソビメと称したのかもしれない。

 崇神天皇は第十代の天皇だが、実質的には大和地方を中心として日本の主要地帯を統一した最初の天皇だろういわれている。また聖山として知られる大和の《三輪山》の神である〈大物主神〉の祭祀を天皇家として初めておこない、さらに日本各地に神社の創建をすすめた天皇としても有名である。そしてこの〈大物主神〉の神託を天皇に伝えたとされるのが、〈倭迹迹日百襲姫命〉なのである。『記紀』はこの崇神天皇を讃えて「御肇國天皇」(ハツクニシラススメラミコト)――つまり国をはじめて創った天皇――と呼んでいるが、この尊称は崇神天皇と初代の神武天皇にのみつけられているもので、飛鳥から奈良にかけての歴史家にとってとくべつ重要な天皇だったことがわかる。巨大な御陵ものこっているし、この時代の都である三輪山麓の纏向遺跡――本書では《纒向京》と仮称する――も発掘されつつあり、実在したことは確実である。


 
だから崇神天皇が《大和》を中心とした統一国家をつくった最初の天皇であることは確からしいのだが、この天皇以前の九人の天皇が架空の存在だという戦後の一部の史家の主張にも疑問を感じる。崇神天皇以前の天皇は、紀年を合わせる意図だけで創作したのだという主張なのだが、もしそうだとしたら、天皇一人の寿命をもっと現実的な長さにし、かわりに天皇の数を二十〜三十人くらいに増やす筈であろう。その方が天皇家の代数が増えて、歴史を古く見せたい施政者にとっては都合がよい。

 しかしそうはしていないことからみて、神武天皇以下数代の天皇は、たぶん、大和朝廷が複数の豪族のひとつであった時代の歴代首長を伝承しているのではないかと思う。大和朝廷とは、大化改新で律令国家に向かうころまでの、《大和》を本拠地として日本の中心だった政権で、もちろん現天皇家の遠い先祖だが、崇神天皇またはその直前の天皇までは、周囲の豪族を完全に従えるところまではいっていなかったと考えられるからだ。(崇神天皇より前の九代の天皇を史実の反映と認める見解は、決して戦前の歴史家や現在の一部民族派の意見だけではない。たとえば、文部省検定済みの最近の明成社の高校教科書にも、そのように記されている) ただし、崇神以前の天皇の実在を認める史家であっても、全員を認めるのではなく、たとえば第八代の孝元天皇だけは架空だろうと考える学者もいる。多くの豪族の伝承を集めるとどうしても相互に矛盾がでてくるので、それを解消させるために『記紀』の編者が天皇を一代ふやしてしまった――というわけである。樋口清之がそのような見解らしい。

 ◆◆◆ 〈倭迹迹日百襲姫命〉の血族 ◆◆◆

 さて本題にはいって、この第十代崇神天皇の大叔母――本居宣長によれば叔母でもある――にあたる〈倭迹迹日百襲姫命〉なる不思議な長い名前の女性が〈卑彌呼〉の正体だ――という説は、昔からある。笠井新也、肥後和男、和歌森太郎、樋口清之といった大正〜昭和初期にかけての碩学たちが主張しているし、さいきんでは考古学者を中心として、慎重に言葉を選びながらも、この説に賛同する学者が増加している。〈倭迹迹日百襲姫命〉という奇妙な名の由来については、倭が大和であること以外はいくつかの推理があるだけでよくわかっていないらしいが、特別な女性につけられた名前であることは確かである。頭につけられている「倭」というのは大和朝廷の本拠地の《大和》であり、かつ日本そのものだから、それが女性の名の頭につくという事は、重大な意味をもっている。『日本書紀』全体を見ても、名の頭に「倭」のつく女性は十名しか数えることができない。しかもそれぞれが極めて重要な地位にいる。挙げてみよう。
*****
〈倭迹迹日百襲姫命〉・・・本人。
〈倭迹速神淺茅原目妙姫〉・・・本人の別名。
〈倭迹迹姫命〉・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
〈倭國香媛〉・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃。『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命〉。
〈倭迹迹稚屋姫命〉・・・本人の妹。
〈倭迹迹姫命〉・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪。または本人の別名。
〈倭國豐秋狹太媛〉・・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、つまり高祖母。
〈倭姫命〉・・・第十一代垂仁天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代)。本人の甥の曾孫にあたる。
***これ以下はずっと後の時代***
〈倭媛〉・・・第二十六代繼體天皇の妃。
〈倭姫王〉・・・第三十八代天智天皇の皇后。
***別枠***
〈大倭根子天之廣野日女尊〉・・・持統天皇(続日本紀)。

 最後の三人はずっと後の世なので別にしても、どの姫命も、古代の大和朝廷にとってきわめて重要な地位におり、また「倭」の次にくる名称も、暗示的な女性ばかりである。また、後の世の最後の三名にしても、天皇家の歴史の節目にあたる重要な天皇の配偶者または女帝である。この十人(持統天皇を含めて十一人)の名を見ると、特別重要な女性にしか頭に倭という文字が使われておらず、かつ古代のそれは、<全員が〈倭迹迹日百襲姫命〉のきわめて近い血縁>――であることがわかる。

 しかしそれにしては、〈倭迹迹日百襲姫命〉は『古事記』には名前が出るのみであり、『日本書紀』でも――かなりの存在感はあるものの――崇神天皇のブレインまたは補助者として記述されているだけである。だから〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在は、なにか不思議なものがあり、『記紀』の背後に、「古代大和朝廷の建国の歴史とこの「姫命」の関係について何かが隠されている可能性」――が感じられるのである。

 ◆◆◆ 奇妙な名前の意味 ◆◆◆

 つぎに、「倭」の下のいくつかの奇妙な文字の意味についてだが、一説によれば、迹迹日は十×十で百になる霊的な意味を持つ百襲の枕詞で、百襲は数多くの神のお告げがその人を襲うという意味だとする。このほか迹迹日は神鶏の鳴き声からきたという説や飛速が訛ったもので天に飛ぶの意味だとする説もある。名称の由来は第九章で再度記すが、いずれにせよ不思議な語感をもつ意味深長な名であり、とくに〈倭迹迹・・・〉なる名は、無数にある『記紀』のなかの女性を探しても、本人と妹と姪の三人しか見つからない。

 すなわち、『日本書紀』によれば〈倭迹迹日百襲姫命〉には弟が一人と妹が一人いるが、妹の名は倭迹迹稚屋姫命で、やはり倭迹迹がついている。姪とは、孝靈天皇の次の孝元天皇の姫の倭迹迹姫命である。この姪も謎の女性であり、後述するように〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物だともいわれている。〈倭迹迹日百襲姫命〉は『古事記』においては、〈夜麻登々母々曽毘賣命〉――と書かれており、文字は違うが読みはほとんど同じである。

 
〈倭迹迹日百襲姫命〉の母親は倭國香媛で、大和の国の香という、なにやらとても高貴な名前である。この母親は『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(オホヤマトクニアレヒメノミコト)〉と書かれており、『日本書紀』よりもさらに丁寧な名となっている。頭に〈大倭〉がついているのだ。名の後半のクニアレというのは、国が有る――つまり国を存在させた――という意味とされ、建国を意味するきわだって高貴な名である。『日本書紀』のような書き方をすれば、〈大倭國在姫命〉とでもなるであろう。神武天皇や崇神天皇の生母につけられるべきような名前が、一皇女の母親につけられているのだ。

 
この「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」――を学術雑誌に最初に明確に述べたのは、笠井新也だとされている。大正十三年のことである。そのご、梅干博士として有名な考古学者の樋口清之が大和桜井市周辺の発掘調査などを元にそう推理したし、肥後和男、和歌森太郎などの著名な歴史学者も笠井説を発展させて〈倭迹迹日百襲姫命〉説を唱えた。しかし昔は多くの説の一つにすぎず、考古学的立場の暦年計算からも文献学的立場からも否定する人が多かった。

 だが、この数年、考古学の進展にともなって支持者が急増してきた。国立歴史民族博物館副館長の白石太一郎はさいきんの考古学的研究によって確信に近いものを持ちはじめたようだし、またジャーナリストの倉橋秀夫は、ハイテクに詳しい考古学者へのインタビューを整理して、著書『卑弥呼の謎年輪の証言』のなかでほとんど結論にちかい書き方をしている。もちろん決定打はない。状況証拠がかたまりつつあるにすぎず、今後の研究によってどのような反証がでてくるかはわからない。

 ◆◆◆ 紀年の修正 ◆◆◆

 崇神天皇の御在位は、『日本書紀』で計算すると、西暦前九七年から前三〇年までの六十七年間で、御降誕は西暦前一四八年とされている。だから〈卑彌呼〉の時代とはまったく違う。また崩御は退位と同じだから、百十八歳という、信じられないほどの長寿ということになる。しかしよく知られているように、『記紀』の古い年代は、神武天皇の即位を、「古代シナの学説(讖緯説)で革命が起こるとされたおめでたい辛酉の年(西暦紀元前六六〇年)」(日本文化研究会『神武天皇紀元論――紀元節の正しい見方――』立花書房など参照) ――にするために大きく引き延ばされており、『記紀』の数字と実際の年代がほぼ一致するようになるのは倭の五王とされる第十七代履中天皇から第二十一代雄略天皇の時代(五世紀)以降のことであるし、きわめてはっきりしてくるのは初の女帝として有名な第三十三代推古天皇のころ(またはその少し前)――六〜七世紀――からである。したがって崇神天皇御在位のじっさいの年代は、西暦紀元以後で『魏志倭人伝』の時代に重なる可能性が高いし、寿命もじっさいはずっと短かったであろうとされている。(なお〈倭迹迹日百襲姫命〉という名前は、漢字で書いてもカナで書いてもわずらわしいので、失礼とは思うが、〈百襲姫命〉と略称させてもらうこともある)

 ◆◆◆ 同時代の別の候補 ◆◆◆

 〈百襲姫命〉のほかにも、『日本書紀』のなかの似た時代の女性を探す試みもある。たとえば、本格的な「《邪馬台国》=大和説」を最初に唱えたとされる内藤湖南は、崇神天皇の孫(垂仁天皇の皇女)にあたり《伊勢神宮》の初代斎王となった〈倭姫命〉を、〈卑彌呼〉になぞらえている。この説も過去にはかなり多くの学者が唱えてきた。もうひとり、注目すべきは、孝靈天皇のつぎの第八代孝元天皇の皇后で〈饒速日命〉の子孫とされる鬱色謎命が生んだ、前記の〈倭迹迹姫命〉である。名前がよく似ているので、本居宣長は〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物だろうとしている。事実、前記一覧にあるように、〈百襲姫命〉をこの略名で記した箇所もある。本居説が正しいとすると、両親に二説あったことになる。こちらだと、神武天皇より先に《大和》に入っていて、豪族物部氏の先祖神となった〈饒速日命〉の子孫でもある――ということなので、天皇家と最大豪族の双方の血をひいた別格の身分ということになる。


 
この意見も、同意する学者が多いらしい。互いに覇権を争っていたと考えられる物部一族と大和朝廷の関係を暗示するからである。専門の歴史家の中にも、〈卑彌呼〉は物部系の指導者だったのだろう――と推理する人がいるが、そういう説は、〈倭迹迹日百襲姫命〉は物部系の血をひいていたという仮説ともつながることになる。なにしろ飛鳥・奈良時代の歴史家が、天皇家の伝承のほかに各豪族に伝わる伝承を参考にしながら何百年か前の家系を記すのだから、父母に二説あることくらいはやむを得ないが、どちらにせよ別格の父母から生まれている神秘的な名と伝承を持つ女性なのだ。

 ここまでの〈卑彌呼〉の候補者は、みな『日本書紀』に記された貴人だったが、『記紀』とはまったく無関係に〈卑彌呼〉がいた――という説も、もちろんある。というよりも、論争史においてはこの説が多数派である。『日本書紀』にある貴人説の場合は、その性質上ほとんどが畿内――とくに大和――に本拠地をおく人物になるが、『記紀』にない女王を候補とする説では、その多くは畿内以外である。とくに九州にあった大豪族の女王に見立てる人が多いようだ。たとえば明治の東洋史学者の那珂通世は、「〈卑彌呼〉は九州南部の熊襲の女酋長である」 ――と述べている。九州のどこだったかについては人によって主張が違うが、〈卑彌呼〉とはある豪族の女性の首長だったのだろう、という点では、多くの九州説学者の意見は一致している。また女性の首長を持つ九州の豪族が、自分たちこそ大和朝廷だと偽って魏と交流したのだろう、という説も多いが、これは『日本書紀』にそれに近い記述があるからである。(いまちょっと思い出せませんが、たしかあったと思います)

 例外的に、九州説でも『日本書紀』に記された個人名を出している論者もある。伊藤博文や大久保利通らに同行して『米欧回覧実記』を編纂した久米邦武は、第十二代景行天皇が九州遠征のときに通過した八女国の山中に住む女神〈八女津媛〉がそうだろうと、明治四十年に述べている。八女国は現在の福岡県の筑後市から佐賀県の吉野ヶ里遺跡のあたりだったらしい。景行天皇がこの女神に逢った形跡はないが、それだけに神秘的な色彩があり、〈卑彌呼〉になぞらえた気持ちもわかる。

 
また明治の史学・漢学者の星野恒は、〈神功皇后〉によって征服されたと『日本書紀』にある九州山門県(やまとのあがた/いまの福岡県山門郡)の〈田油津媛〉に着目し、この女酋長の先代が〈卑彌呼〉だったのではないか、との説を明治二十五年に出している。山門は《邪馬台国》に発音が似ているし、ひとつの見解ではある。しかし久米説も星野説も、たんにそういう女性名が『記紀』にあったというだけであり、傍証すらほとんど無く、いまでは支持する人はすくない。このように、《大和》以外を舞台として、無名の〈卑彌呼〉候補をあげる人は多いのだが、そもそも『記紀』にも無いかあるいはほとんどなく、考古学的証拠もなく、あるのは『魏志倭人伝』の解釈だけ――という説では、その信憑性について評価のしようがない。

 投馬国は読みの推測(トウマまたはツマまたはズマ)から、「大和説」では出雲か但馬ではないか――と考えられている。地理や大きさから出雲のほうが有力だが、出雲説における読みの類似については、出雲=イズモ→ズモ→ズマ(ツマ)=投馬(出雲=IZUMO(**)→ZUMO→ZUMA(TUMA)=投馬)――であろうと推理されている。投にはツやズという音があるのだ。さいきん出雲や但馬のあたりに巨大な集落遺跡が見つかっているので、この説は考古学的調査と矛盾しないのだが、もしそうだとすると、そこから《邪馬台国》までが地理にあわない。出雲から海を十日行き、さらに同じ方角に地面の上を一月も歩いたら、山形方面まで行ってしまうだろう。

(* 『記紀』と名称が合致する末廬→伊都→奴の経路は、『魏志倭人伝』では南東と書かれているが実際は北東である。つまりほぼ90度違って記述されている。だから、『魏志倭人伝』の方位は、全体として90度違うのではないか――との指摘がある。→この問題は後に詳しく述べる) 

(** 出雲を古代でもIZUMOと発音していたかどうかは疑問だが、そう仮定しての話)

(注2:『魏志倭人伝』の経路は、大部分が船便を連想する。道路が整備されておらず乗り物も無かった古代においては、陸地の旅は能率が悪く危険もあった。その点船便は圧倒的に効率的だったろうし、海岸沿いなら海難も少ない。したがって陸行は船ではどうしても行けない経路のみだったろう――と推理できる。こういう事からも「不弥国=津屋崎説」は有力視される)

 ところで、一般になされている「ヤマタイコク」という読みは現代の日本語風のもので、臺は「ト」とも読むので、「ヤマト」と読まれていたとも考えられる。つまり《大和》とほとんど同じ発音であるとの説が昔から多く出されている。《邪馬臺國》と畿内の《大和》や九州の《山門(やまと)》の発音上の照合は、三世紀のシナでの発音と、三世紀の日本での発音の両方を知らなければできないわけで、それが極度に困難な現状では、おおまかに似ていればよし、としなければならない。碩学として聞こえる田中卓のように、「ヤマトコク」と読むべきだとの意見も多い。ここでは《大和》や《山門》を連想させる発音だっただろう――とだけ推定しておく。


 
◆◆◆ 狗奴国の謎と重要性 ◆◆◆

 この一覧のうしろの方の侏儒国などは末尾近くに書かれていることで、かなり空想的であり、まともな論評はできない。現実的な検討のできる国々のなかで、《邪馬台国》に服していないとされる狗奴国については、「九州説」では読み方から、『日本書紀』にある、天皇を悩ませた九州の熊襲だろうという人が多い。クマソとは球磨(くま)と阿蘇(あそ)が繋がってできた言葉だという説があるが、クマをクヌと聞いたとすれば確かに狗奴国になる。これは「九州説」にとって有利であるが、著者には何ともいえない。

 一方「大和説」にとっての有力な説は、上毛野・下毛野地方――のちの上野・下野地方/現在の群馬県・栃木県に相当――の豪族だろうというものである。ケノとクヌが類似していること(KENO→KUNU)と、この地方の平定に中央政権が苦労した話が、『記紀』に多く記されていることからの、推理である。さらには熊野説もあるし、さいきんの発掘状況からは東海地方または愛知〜岐阜〜近江地方も有力視されている。

 大和朝廷より先に《大和》に達して君臨していたとされる〈饒速日命(にぎはやひ)〉一族の後裔を自認する尾張一族などが勢力をもっていたこれらの地方(愛知岐阜など)は、最近の考古学的調査によって、〈卑彌呼〉の時代に《大和》と複雑な関係があったらしいと推理されるようになってきたのだ。

■■■■■ 三・八 果たして殺人事件か〈卑彌呼〉唐突の死 ■■■■■

 ◆◆◆ 興味ぶかい『起居注』の記述 ◆◆◆

 前二節の外交記録のうち〈一〉〈三〉〈四〉は『日本書紀』にも『魏志倭人伝』より――と明記して記載されている(*)。 ただし難升米は難斗米と書かれており、外交の最初は景初三年とされている。また『日本書紀』は同様な個所で晋の皇帝の言行録である『起居注』を引用して、「晋の武帝の泰初二年(西暦二六六年)十月に倭の女王が朝献した」――と記している。

 武帝とは魏の軍師として蜀の諸葛孔明や公孫氏と戦った有名な司馬仲達の孫の司馬炎のことで、魏の皇帝を退位させて西暦二六五年に晋の国を創建し、三国で残っていた呉も二八〇年に滅ぼして天下をとった。
 蜀はすでに二六三年に滅びていたから、結局『三国志』の三国は晋の国に統一されたことになる。

 シナの王朝はこのあと南北朝を経て隋になりついで唐になって、日本は遣隋使や遣唐使を派遣するようになることはよく知られている。
 晋の都は魏と同じ洛陽だったが、日本側は、魏が滅びて晋ができた翌年にすでに、その洛陽に使者を送っていたわけで、〈卑彌呼〉の代が終わってからも絶妙な外交感覚をみせている。

 同じ天皇紀におけるこの『起居注』の引用は、『日本書紀』の編者――またはそのすこし後の人――がこの記録を『魏志倭人伝』中の上記〈七〉の〈臺與〉による朝献と同定していること、および、〈臺與〉を〈卑彌呼〉と同一視していること、を意味している。
 これは、あとで『日本書紀』と『魏志倭人伝』を比較するとき、大きな意味を持ってくる。

 いずれにせよこのような引用は、『日本書紀』の編者たちやその少し後の人たちがシナの史書をよく読んでいた証拠であり、また『魏志倭人伝』の類が『記紀』編纂の八世紀初頭またはその少し後の日本の知識人によく知られていた証拠でもある。

(* 『日本書紀』は『魏志倭人伝』に言及している最古の史料である。この事だけでも、日本初の正史である『日本書紀』の凄さがわかる。『日本書紀』には、この他にも、今は消滅しているいくつかの近隣国の史書からの引用があり、それが貴重な研究材料となっている)

 ◆◆◆ 〈卑彌呼〉とつぜんの死と巨大な墳墓 ◆◆◆

 魏との交流の話が長くなったが、本文に戻ると、〈六〉のあといきなり、〈卑彌呼〉が死んだ――と記されている。〈七〉の〈臺與〉の使者の話の前である。何年とは書いていないのだが、なぜ「いきなり」なのかについては、諸説紛々である。唐の時代に書かれた北朝の歴史を記した北史のなかの倭人伝には、「正始中卑彌呼死す」――とあり、正始は西暦二四九年までということから、それを受けて二四九年以前に死んだのだろうとする説がある。

 しかしこの記述は前からあった『魏志倭人伝』を解釈してそう書いたとも受け取れて、信憑性は低いようである。ただ、さまざまな分野の研究からの総合的な判断で、二四七年からあまり経たずに死んだのは確かだろうとされており、これへの異論はすくない。 げんざい多くの歴史家が推理している〈卑彌呼〉の没年は、西暦二四七年か二四八年であり、とくに前後の事情から二四八年の可能性が高いといわれている。

 さて、前記の「いきなり」というのは本当にいきなりで、〈六〉の外交記録の最後の、檄文によって〈卑彌呼〉を励ました――と受け取れる――文章のすぐあとに、死の記述が出てくるのである。議論百出の重要部分なので、石原道博による書き下し文(岩波文庫)を、掲載しておく。「・・・・・張政等を遣わし・・・檄を爲りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。またまた卑 彌呼の宗女壹與年十三なるを立てて王となし国中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告諭す・・・・・」。

 最初の・・・以下は〈六〉のおわりであり、最後の政等・・・は〈七〉のはじめの部分である。 これ以下は前節〈七〉のみであり、「・・・・・雑錦二十匹を貢献した」――で『魏志倭人伝』そのものが終わっている。

 この〈六〉と〈卑彌呼〉の死と〈七〉の部分の写本の写真を、図3・4に示した。説明すると長いが、原文はじつにあっけないものであることが分かる。

 「張政等を遣わし・・・・・檄を為りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す」――という場面である。これはどういう意味なのであろうか? 書き下ろし文で読んでも〈卑彌呼〉の死は唐突の感があるが、図3・4で分かるように漢文の原文ではなおさら唐突である。そもそも原文には句読点もなく、改行もないのだ。そして、どの単語がどこにかかるかも分からないことが多い。したがってこれは、どうとでも解釈できてしまう。狗奴国問題での〈卑彌呼〉の訴えを聞いた魏の使者が告諭したために〈卑彌呼〉が死んでしまった――または殺された――とも受け取れるし、檄文告諭の件と〈卑彌呼〉の死とは無関係で、まったく別の文章だとも受け取れるのだ。

 ■■■■■ 三・九 『魏志倭人伝』成立の経緯 ■■■■■

◆◆◆ 『三国志』の中の『魏志倭人伝』の位置づけ ◆◆◆

 これまでに断片的に記してきたが、『魏志倭人伝』とは通称で、正確には、魏・蜀・呉の三国の歴史を記した『三国志』全六十五巻のなかの、魏王朝に関係のあった周辺諸種族の話の中のひとつである巻三十『東夷伝(東の野蛮人の話)』の中のさらにひとつにすぎない倭人條――すなわち『倭人について書かれた部分』を意味している。
 もちろんこの史書『三国志』とは、天才軍師・諸葛孔明で有名な大衆小説としての『三国志演義』ではなく、シナ正史としての『三国志』である。

 この正史としての『三国志』は、魏書(三十巻)、蜀書(十五巻)、呉書(二十巻)の三部に分かれ、合計して六十五巻である。このなかの魏書三十巻は、皇帝について記した、武帝紀 (第一巻)、文帝紀 (第二巻)、明帝紀 (第三巻)、三少帝紀(第四巻)という「紀」と呼ばれる四巻と、后妃や重要人物の伝記を記した、 后妃伝 (第五巻)、 董二袁劉伝(第六巻)、 ・・・・・   烏丸鮮卑東夷伝(第三十巻)という「伝」と呼ばれる二十六巻からなっている。四巻と二十六巻をあわせて全三十巻である。

 ただしこの「伝」の最後の巻(第三十巻)は、伝記というよりは辺境の国々の解説であり、「烏丸鮮卑東夷伝」――という巻題がしめすように、烏丸(うがん)と鮮卑(せんぴ)と東夷(とうい)と呼ばれる国々の説明である。このうち烏丸と鮮卑は、昔から蒙古高原を中心にしてシナ王朝領土の北方で覇を競っていた遊牧系の諸部族のなかの二つである。

 東夷とは東の野蛮国という意味で、満洲、朝鮮半島、そして日本列島などが入っている。東夷について書かれた部分は、さらにいくつかに分かれている(図3・2)。すなわち、夫余 (満洲北部。高句麗の北、鮮卑の東)、高句麗(満洲南部から朝鮮半島北部)、東沃沮(とうよくそ/高句麗の東南部。今の北朝鮮東部)、■婁 (手偏+邑/ゆうろう/ウラジオストクやその北方)、■ (シ+歳/わい/高句麗や東沃沮の南、朝鮮半島の東側)、韓  (帯方郡の南、倭の北)、倭(帯方郡の東南の大海の中にあると書き出されている。日本列島)といった部分よりなっている。第三十巻のなかの烏丸・鮮卑・東夷の説明も羅列的であるが、東夷のなかはさらに羅列的で、明確な節に分かれているわけではない。倭人についての記述も、辰韓の説明のあと、いきなり倭人・・・とはじまっている。そのため、この日本について記された部分を倭人の條――すなわち『倭人條』――ともいうのである。そしてこの倭人の條に、既述したような三世紀の日本の様子や外交記録が記されているのだが、それが通称『魏志倭人伝』なのである。つまり、日本について書かれているのは『三国志』のなかのほんとうに端の端であって、当時のシナの都の著者や読者にとってはもっとも重要性の低い、いわば付録の末端のような部分なのだ。

 『三国志』を著述(編纂)したのは陳壽(ちんじゅ)という学者だとされている。陳壽は三国の一つで孔明が活躍した蜀の国に西暦二三三年に生まれ、蜀が滅びたあとは、魏の後継国として成立した西晋に仕えた人で、没年は西暦二九七年とされている。では、この『三国志』のなかの倭人の條を、編者の陳壽は何によって書いたのだろうか? これについては、主に先行する史書『魏略』によったらしいといわれている。『魏略』は魚豢(ぎょかん)という人物が書いたとされているが、完本は現存せず、一部分が残されているだけなので「らしい」ということしか分からない。なにしろちゃんと残っている当時の文献は『魏志倭人伝』の写本のみなのだ。魚豢は陳壽とほぼ同時代の人なので、さらに魚豢自身が参考にした史料があった筈だし、両者が共通して参考にした史料もあったであろうが、それらについては、なおさら推測の域を出ない。倭国について記されていて今に伝わっている似た史書として、『後漢書倭伝』『宋書倭国伝』『隋書倭国伝』などが知られているが、対象とした年代は古くても書かれたのはいずれも『魏志倭人伝』より新しく、〈卑彌呼〉らの話は『魏志倭人伝』を参考にしているらしいので、歴史資料としての価値は『魏志倭人伝』に及ばない。もう少し後世の記録になると、倭の五王の記録(宋書)とか、聖徳太子の時代に小野妹子が使者となって対等な挨拶文を渡してシナ皇帝を不快にさせた話(隋書)など、価値の高い資料が見られるようになってくる。というわけで、陳壽が参考にしたと思われる既知の書物は、一部しか現存しない『魏略』のみであるが、そのほかに伝聞とか報告書とか、もっと古い史書とかの類は、いくつか推理できる。

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