出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考

 (最新見直し2015.10.03日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線が見えてきており、ここで確認しておくことにする。

 2006.12.3日 れんだいこ拝


 れんだいこのカンテラ時評№972 2011年 8月17日
 【皇紀2600年考その1】

 「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線考」を愚考する。その始まりは「皇紀2600年問題」となる。これが新邪馬台国論とどう関係するのか。

 戦前の1940(昭和15)年2月11日、日本政府は、皇紀2600年祝祭行事を盛大に挙行した。ここでは、これに悶着つけようというのではない。ひたすら初代天皇即位年月日の真実を探ろうとしている。余りにも史実と離れ過ぎていると思うからである。

 皇紀2600年とは、日本神話上の天孫族による東征に基づく大和平定後の橿原宮での初代天皇即位(践祚)記念を云う。この栄誉を担ったのが神武天皇であり、御年52歳、神武天皇御代は76年、127歳にして崩御云々とされている。ちなみに神武天皇の即位前の名は古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」。「かむやまといわれひこのみこと」と訓読みされる。神武天皇は漢風諡号(しごう)であり「始馭天下之天皇」(はつくにしらすすめらみこと)とも称されている。

 神武天皇即位年月日につき、日本書紀は「辛酉年春正月庚辰朔」と記している。これを西暦で計算すると紀元前660年2月11日になる。れんだいこはこれに疑問を持つ。この際、神武天皇実在、非実在は問わない。初代天皇の即位日をのみ問題にしようとしている。

 記紀神話によると初代天皇の即位は大和平定後のことである。「大和平定後」がなぜ紀元前660年2月11日になるのか、これが解せない。そこで、「初代天皇の即位日=紀元前660年2月11日」の真否を確かめたい。繰り返すが、これは神武の問題ではない。大和平定後の初代天皇の即位日の問題である。初代天皇の即位日を日本書紀が何故に「紀元前660年2月」になるように「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位日」と記したのかを問おうとしている。この辺りの日本書紀の記述はどこまでが真実でどこからが詐術なのか、これを問いたい。

 思うに記紀神話の説く「大和平定後の初代天皇の即位」は史実であろう。故に、ここは問わない。問うのは、「大和平定後の初代天皇の即位」の年月日である。日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」は明らかにオカシイ。なぜなら、中国史書各書が紀元3世紀に所在したと記している邪馬台国の取り扱いができなくなるからである。「辛酉年春正月庚辰朔」は、そういう難題を孕(はら)んでいる。

 このことを、邪馬台国研究者はもっと大々的に指摘すべきではなかろうか。畿内大和説の側からすれば無論のこと、九州説、その他説でも事態は変わらない。なぜなら、九州説、その他説であろうとも、邪馬台国後の大和王朝建国史を前提としているからである。大和王朝建国後の邪馬台国論をぶつ者は一人として居るまい。

 即ち、日本古代史の流れを検証すれば、「大和平定後の初代天皇の即位日」は必ずや邪馬台国後の即位でなければ辻褄が合わない。然るに、その邪馬台国が紀元3世紀に確かめられると云うのに、日本書紀は何故に邪馬台国史よりはるか900年も遡(さかのぼ)る昔の「紀元前660年2月11日」になるような「辛酉年春正月」に初代天皇となる神武天皇の即位を記述したのだろうか、ここが訝られねばならない。

 考えられることは、「辛酉年春正月即位」の読み解きにおいて、戦前の皇国史観系政府及び歴史学会が間違っていたと云うことである。これを仮に「読み解き間違い説」と命名する。それならば今からでも改めて計算し直せば良い。然るべき論拠を添えて「新皇紀2600年」を打ち出せば良い。戦後になっても特段に動きがないと云うことは興味がない為だけではなく、読み解きが間違いなく「紀元前660年2月」になる故ではなかろうか。この場合、日本書紀が何故に900年にも及ぶ時差を記したのかを問わねばなるまい。この議論は尽くされているのだろうか。これを誰かが解明せねばならない。

 考えられることはもう一つ、魏志倭人伝を代表とする中国史書各書が記す邪馬台国が捏造記載であった可能性である。こうなると、邪馬台国について記す中国史書全冊を偽書とせねばならないことになる。これを仮に「邪馬台国記述偽書説」と命名する。しかしながら、邪馬台国に関する下りの中国史書全冊を偽書とするならば中国側も黙ってはおるまい。中国歴代史家の責任問題に発展し、場合によっては日中間の国際紛争になりかねまい。現代日本の史家にそこまで主張する度胸があるだろうか。偽書説が当っている場合なら許されても、暴論ともなると謝罪が要求されることになろう。

 これをどう読むべきかが問われている。れんだいこは第三説を唱えたい。第三説とは、「辛酉年春正月庚辰朔」が歴史考証的に「紀元前660年2月11日」になるならば記述間違いであるとして、初代天皇の即位日を邪馬台国平定後の何日かに訂正せねばならないとする説である。これを仮に「日本書紀記述詐欺説」と命名する。詐欺とするのは、日本書紀の記述「辛酉年春正月庚辰朔」に意図的故意の詐術を認めるからである。

 これを古事記で確認したいところである。古事記では、初代天皇の即位日をどう記述しているのだろうか。これを知りたいが分からない。推定として、古事記は日本書紀が記しているような即位日を記していないことが考えられる。もし記しているのなら、日本書紀ではこう古事記ではこうとする併記が常用なところ、日本書紀の記述する即位日しか知らされないからである。

 神武天皇の即位前の名前につき、古事記では「神倭伊波礼琵古命」、日本書紀では「神日本磐余彦尊」と記し、その履歴を記している。つまり、古事記は、神武天皇について記しているにも拘わらず、即位日の記載を避けているのではなかろうかと思われる。れんだいこには断言する知識がないので、その通りとか、そうではないかくかくしかじかと記述しているとする、どなたからかのレクチャーを頼みたい。

 2011.8.17日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№973 2011年 8月17日
 【皇紀2600年考その2】

 この問題になぜ拘るのか。それは、記紀が「大和平定後の初代天皇の即位日」を意図的故意に隠蔽ないしは撹乱していると思うからである。古事記が敢えて沈黙したところを日本書紀が敢えて蛮勇を振って「紀元前660年2月」になるような「辛酉年(神武天皇元年)春正月即位」と詐術記述したのではないかと思うからである。「大和平定経緯」に知られたくない事情、それを記し難い事情があったと思うしかない。

 衆知の通り、日本神話に従えば、初代天皇神武の即位は出雲王朝の国譲り後である。その後に天孫降臨している。続いて天孫族の東征が記されている。艱難辛苦の末に大和を平定し、その後の神武天皇即位と云う流れになっている。この順序に従えば、神武天皇即位日「辛酉年春正月=紀元前660年2月11日」とした場合、天孫軍の東征はそれ以前になる。天孫降臨は更にそれ以前、出雲王朝の国譲りは更にそれ以前と云うことになる。結果的に、出雲王朝の国譲りがはるか昔のことになる。

 古事記は神武天皇以下33代の推古天皇(在位590―620年代)まで、日本書紀は第41代持統天皇(在位690年代)までの歴代天皇の御代の事蹟を年次毎に記述している。他方、魏志倭人伝を始めとする中国史書各書には厳然と紀元3世紀の倭国日本に於ける邪馬台国連合国を主とする当時の倭国の克明な記録を記している。

 然るに、記紀は揃いも揃って紀元3世紀頃の倭国に存在していた筈の邪馬台国について言及していない。僅かに片言隻句を記している個所があるに過ぎない。それは記紀だけではない。記紀派が偽書と断ずる古史古伝各書に於いてさえ記されていない。まことに不思議なことと云わざるを得ない。ここに歴史の闇があると思う。

 この闇を解明したいと思う。時の政府が、1940(昭和15)年に紀元二千六百年記念行事を挙行したのは政治の論理である故に敢えて責任を問わない。しかし史家の論理は政治の論理に屈してはならない。史家が、史家の論理を持たぬまま今日まで経緯しているのは不正、不見識なのではなかろうかとして詰(なじ)りたい。

 れんだいこは、記紀が邪馬台国を記述しなかった不正、このことに関連すると推理しているが、初代天皇神武の即位日を古事記が記さず、日本書紀は記したものの邪馬台国時代よりはるか900年も昔のことにしている不正を見逃さない。この背後には、「大和平定事情」記述がウソであると云うことを裏筆法で示唆していると見る。

 こうなると逆に「大和平定事情」を解き明かしたくなるのが人情ではなかろうか。そう云う意味で「大和平定後の初代天皇の即位日」を探索することは後世の史家の責務だと思う。初代天皇の即位年及び即位経緯全体を史実的に再検証せねばならない必要を感じる。

 この言は、皇国史観を否定せんが為に云っているのではない。よしんば皇国史観を信奉するにせよ歴史の検証に耐える史観で構築せねばなるまいと申し立てている。戦前式皇国史観は、記紀が裏筆法で書いているところまで鵜呑みにして天孫族の聖戦を美化したイデオロギー的な歴史観であり、盲信狂気理論と断定する。史家足る者は、そういう戦前式皇国史観批判で事足れりとするのではなく、これを突き抜けて本来の皇国史観即ち国体論に向かうべしであったと思う。もとへ。これが云いたいのではない。れんだいこの真意は、記紀が語り得なかった、否意図的故意に隠蔽した「大和平定事情」をこそ解明したいと思っている。

 日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」とする神武天皇即位日は意図的故意の詐術記述である。故に、史実に基づいて初代天皇の即位年及び即位経緯を解明したい。なぜなら、これが邪馬台国興亡史に深く関係していると看做すからである。思えば、日本古代の政治史上の最大政変は国譲りであった。次が邪馬台国興亡史ではなかろうか。次に壬申の乱なのではなかろうか。この辺りを史実に基づいて解明するのが日本古代史の要諦であり、史家は挑まねばならないのではなかろうか。

 れんだいこの邪馬台国新論は、実はこの皇紀2600年説の不実を暴くところから始まる。初代天皇即位が邪馬台国興亡史、大和王朝建国史に大いに関係していると思うからである。日本書紀が記すような邪馬台国時代より900年も昔ではなく邪馬台国滅亡後の出来事と推理するからである。これを解き明かすのがもう一つの邪馬台国論になるべきではなかろうか。

 2011.8.17日 れんだいこ拝

 Re::れんだいこのカンテラ時評534 れんだいこ 2009/02/11
 【建国記念日考】

 今日は建国記念の日であった。これを機会に建国記念日の歴史を確認しておく。

 日本書紀は、神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと記している。明治維新政府は、この記述を、カムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇が即位した日と読み取り、日本国創建日として称え祝日とすることにした。但し、時の明治政府は、旧正月を日本国創建日と定め祀ることを良しとしなかった。なぜなら、和暦から西欧暦への転換を押し進めており、旧正月を祝うのではなく西洋式の正月を祝わせようとしていたからである。

 
ちなみに、日本が西暦を導入したのは、1872(明治5)年で、この年の12月2日で太陰太陽暦法(月の満ち欠けを基準にした暦)の天保暦を打ち切り、翌日を1873(明治6)年1月1日とした。これにより、太陽暦が使われるようになった。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。

 
これにより、月の満ち欠けと密接に結びついていた農業や漁業などのサイクルや、七夕や十五夜などといった生活習慣がうまく対応できなくなり、旧暦が生まれることにもなった。旧暦は天保暦の計算方法を用い、実際の計算に使う数値(1太陽年など)はグレゴリオ暦に使われる値を使って計算したものを云う。つまり、旧暦とは過去に用いられた天保暦を太陽暦と折衷したカレンダーということになる。正式な暦ではないが、現在まで重宝されている。

 
もとへ。旧正月と日本国創建日が重なることは、西欧暦に転換させ旧正月を廃止せんとする政府の意向に添わなかった。そこで、水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正氏に命じて、日本書紀の期日を西欧暦に当てはめ換算させた。これにより、「神武天皇の辛酉の年の春正月庚辰朔」は「BC660.2.11日」とされた。1872(明治5)年、2.11日を紀元節祝日とする法が制定された。1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。

 これによれば、紀元節の創設そのものが、明治維新政府の西欧暦導入に象徴されるような欧化主義、その奥に潜んでいる国際金融資本のシナリオに沿って創設されたものに過ぎない、少なくとも明治維新政府の目指す天皇制国家主義が国際金融資本の植民地主義のシナリオ下に於いて機能させられていたという政治性が見て取れよう。ここまで窺うのは窺い過ぎだろうか。
 

 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止された。これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。

 ところが、1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、1957(昭和32)).2.13日、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として建国記念日制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が、建国記念日の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」との理由により反対したため廃案となった。以降9回の議案提出、廃案を繰り返す。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協した。

 1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加した。同6.25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」第2条で、建国記念の日の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定している。

 但しこの時、同附則3項は、「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定め、日附の確定を審議に委ねた。

 内閣は「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定め、建国記念日審議会を発足させた。議論の末、委員9名中7名の賛成により戦前の紀元節と同日の2.11日とする答申を纏め、同年12.8日に提出され、翌日政令が公布された。これにより、1867(昭和42).2.11日より施行されることになった。

 概略以上のような流れが確認できる。れんだいことしては、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。もっとも「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと」のは元一日にならない。それより以前の国の成り立ちをも視野に入れて、この国及び民族の過ぎ越しこの方、行く末を考える祝日としたい。以上コメントしておく。

 2009.2.11日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評№974  れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日
 【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その1】

「皇紀2600年考」で、初代天皇たる神武天皇即位が邪馬台国の時代よりも900年前の出来事とするのは意図的故意の詐欺記述であることを指摘した。日本書紀は何故にそういう詐欺記述をしたのか、これを詮索する必要がある。狙いは、神武天皇即位を邪馬台国時代よりもはるか昔の話にすることにより、出雲王朝の国譲り、それより始まる大国主の命と邪馬台国との深い関係を隠す為であった。その隠蔽工作フィクションであった。れんだいこはかく解する。

 ならば、初代天皇即位はいつごろの話なのか、これを推理したい。出雲王朝の国譲り、神武天皇の東征譚、邪馬台国史は案外歴史的に近い出来事だったのではないかと見立てている。場合によっては、出雲王朝の国譲り後に邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立があり、国譲りの主役である大国主の命(又はその次代の後継者)がこれに関わっているのではないかと推理している。

 即ち、国譲り後の大国主の命の履歴と邪馬台国に於ける女王卑弥呼の共立は同時代的な史実だったのではないかと思っている。邪馬台国女王卑弥呼の御代は60年余続き、晩年に天孫族の総攻撃を受け、卑弥呼はその激動のさ中に死去する。邪馬台国連合は後継ぎに13歳の台与を立て懸命に巻き返しを図ったが善戦空しく滅亡させられた。代わりに登場したのが大和王朝である。こう構図したい。

 邪馬台国史は、出雲王朝の国譲りから大和王朝の建国までの間の架け橋の如くに介在している貴重な国史なのではなかろうか。記紀神話は、この史実を不自然過ぎる形で隠蔽しているのではなかろうか。これを論証したいが、人をして得心させる論証を為すには古代史文献に通暁する必要があり、れんだいこの能力と労力では今更無理である。故に大まかな見通しだけ綴っておきたい。ここでは断片的なことをのみ記し確認しておく。邪馬台国論については「邪馬台国の研究」、出雲王朝論については「出雲王朝神話考」に記している。ここでは、国譲り前後の大国主の命の大和との関係を確認しておく。

 大国主の命の履歴は「出雲王朝神話考」の「
出雲王朝史3、大国主の命王朝史考と「大国主の命考」に記している。それによると、大国主の命の出雲王朝経営に有力な助っ人としてスクナヒコナの命が登場していたが、「或る日、スクナヒコナの神は、淡路島でアワの茎に乗って遊んでいたところ、茎のしなりにはじかれ常世国に飛んでいってしまった」。大国主の命が嘆いていたところ、概要「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神が登場し、大国主の命は以降、大トシの神と共に国土経営して行った」(古事記)とある。これが、れんだいこの知る限り、大国主の命と大和の関わりの初見である。

 日本書紀には、国譲り直前の次のような逸話を記している。「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。この記述の意義は、国譲り直前時点において大国主の命と三輪山が繫がっていることを伝えていることにある。出雲王朝と大和―三輪山の深い歴史的繋がりを見てとることができる。

 古事記は、大国主の命が大和の国に向ったことを記している。国譲り前の履歴なのか後の履歴なのかは分からないが国譲り後のことではないかと思われる。とすれば、国譲り譚で、「大国主の命は国譲り後、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びた」としているのは半面の史実であり、実際には出雲王朝の政権を明け渡した後、大和へ向かったと解するべきではなかろうか。これは事代主の命も然りであり、国譲り後、「拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった」とされているが、実際には大和へ向かっている形跡が認められる。

 この時、大国主の命と正妻のスセリ姫が永遠の別れになることを覚悟してと思われる情熱的な惜別恋慕の歌を交わしている。これを仮に「大国主の命とスセリ姫のぬば玉歌」(略称「ぬば玉歌」)と命名する。 「ヌナカワ姫の元から戻ってきた大国主の命に対して、正妻のスセリ姫の嫉妬が激しかった」なる言を添えている解説があるが余計であろう。歌意の解説は「出雲王朝史3、大国主の命王朝史考」に記し、ここでは省く。「ぬば玉歌」逸話の重要性は、大国主が大和の国に向ったことを示唆していることに歴史的意味がある。

 ところで、「ぬば玉歌」で、大国主の命が大和入りしたことが判明するが、大和入り後の大国主の命の足跡を記すものが奇妙なほど何もない。関連として大和三輪の大神神社を始めとする数社で祭神として祀られていることが判明するぐらいのものである。これを不自然と思うのは、れんだいこだけだろうか。ちなみに、この頃の大和は葦原中国と呼ばれていたようである。思うに豊葦原の瑞穂の国が倭国全体、出雲―大和が葦原中国と呼ばれていたようである。

 2011.8.20日 れんだいこ拝

 jinsei/

 れんだいこのカンテラ時評№975 れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日
 【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その2】

 大和へ向かった後の大国主の命の履歴を確認したいが史書には全く出てこない。これは記紀然り、古史古伝然りである。代わりにニギハヤヒ(速日)の命が登場する。古事記では邇芸速日命、日本書紀では饒速日命、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ、あまのほあかり、くしたま、にぎはやひのみこと)、他に天火明櫛玉饒速日命、大物主とも記されている。このニギハヤヒの命の素性を廻って天孫系、出雲系、その他系の三説ある。

 先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒの尊が、「天磐船に乗り、天より下り降りる。虚空に浮かびて遥かに日の下を見るに国有り。よりて日本(ひのもと)と名づく」、「河内国の河上のいかるが峯(みね)に天降りまし」とある。これを仮に「ニギハヤヒの命のいかるが峯降臨譚」と命名する。その後、大倭国(やまとのくに)の生駒山付近の鳥見(とみ)の白辻山(白庭山)に居を構えている。

 興味深いことは、ここに「日本(ひのもと)」の命名が登場することである。これによると、日本と云う国名は天孫系を是とする皇国史観によって定まったのではなく、それ以前のニギハヤヒの尊の逸話に出てくる国名をそのまま踏襲していることになる。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も然りと考えられる節がある。「日の丸、君が代論」の際には、こういうところも押さえておきたいと思う。

 もとへ。ニギハヤヒの尊は、土地の豪族の盟主であった鳥見の豪族・ナガスネ彦(那賀須泥毘古、長髄彦、トミビコとも云う)と和議を結び、ナガスネ彦の妹のミカシギヤ姫(三炊屋媛)を娶り、戦わずして配下におさめている。政略結婚による閨閥的同盟化は大国主の命の得意とする政治手法であり、ここでも確認できる。ミカシギヤ姫は嫁してトミヤス姫(登美夜須毘売)と名乗った。先代旧事本紀には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、天道日女命(あめみちひめのみこと)を妃とし、天上に天香語山命(あめかごやまのみこと)を生む」と記している。二人の間に生まれたのがウマシマジの命(宇摩志麻遅命)であり、物部連、穂積臣、采女臣の祖とされている。

 ニギハヤヒの命は、その後、奈良盆地の東端の三輪山(当時は三諸山)麓に本拠を移して日本(ひのもと)王朝を創始する。記紀は記さず代わりに古史古伝の先代旧事本紀(旧事紀)、「秀真伝」(ほつまつたえ)その他がこの経緯を記しており、これが大和国の始まりとしている。

 但し、この時代をBC101~102年頃のこととして、その時の氏族や部隊の面々の名前を克明に記している。但し、天孫族、国津族の神々を混在させており難が認められる。BC80年頃、ニギハヤヒは65才前後で大和で亡くなり、「櫛玉」を追贈されて「櫛玉(櫛甕玉)饒速日尊」と尊称され三輪山の磐座に埋葬された云々と記している。この記述に信を置けば、大国主の命が国譲り後に大和へ下り邪馬台国の卑弥呼を共立したとするれんだいこの見立てとは時期が合わなくなる。この場合、れんだいこの見立ての誤りとすれば簡単なのであるが、「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」にもう少し拘りたい。

 れんだいこには、ニギハヤヒの命と大国主の命が二重写しになってしようがない。ニギハヤヒの命が大国主の命その人ではないとしたら、大国主の命の直系譜の者と推定したい。ニギハヤヒの命を天孫族系に捉え、神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨とみなす説もあるが、この説は採らない。国譲り後の出雲王朝系の大国主の命その人か直系譜の者の大和降臨とみなした方が辻褄が合う。

 ニギハヤヒの命が如何に正真正銘の皇統の者であったのかにつき「天孫族と国津族の王権誇示譚」が次のように記している。天孫軍と国津軍の両軍対峙し最後の決戦となった際の金鶏譚によれば、その後段に国津軍の代表たるナガスネ彦と天津軍の代表たるワケミケヌの命が、ニギハヤヒの命と東征神のどちらが正統の王朝なのか確かめる為に双方の神璽を見せ合う場面がある。

 ナガスネ彦がニギハヤヒの命を正統とする証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せ、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった云々。これによると、神璽比べでは決着がつかなかった。即ち双方が正真正銘の皇統の証となる神璽を持っていた。即ちニギハヤヒの命が相当の人物であったことになる。

「天孫族と国津族の王権誇示譚」はニギハヤヒの命が正真正銘の皇統の者であったことを示している。古史古伝はこの逸話を記しながらも、「天孫族系にして神武天皇東征に先立つ先発的意味を持つ大和降臨」と捉えている。れんだいこは、この捉え方を否定し、「出雲王朝系の大和降臨」として捉えたい。とすれば、これに相応しい者は大国主の命ないしはその直系譜の者としか考えられない。「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」が自然な所以である。

 2011.8.18日 れんだいこ拝

 jinsei/


 れんだいこのカンテラ時評№976  れんだいこ 投稿日:2011年 8月20日
 【ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考その3】

 「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」を、ニギハヤヒが葬られたと云う三輪山の縁起伝説から確認してみたい。

 先代旧事本紀(旧事紀)は、ニギハヤヒ=大物主として奈良県桜井市三輪の大神神社の祭神であるとしている。且つ記紀が編纂される7世紀末頃までは天照大神が男神であったとした上で尊崇されていたこと、天照大御神を女神とするのは記紀編纂時における改竄であると断罪している。ここではこの吟味をしないが天照大神=男神説は大いに成り立つと見立てる。記紀は共に天照大神を天孫系の女神として記しているが、皇紀2600年問題に繫がる神武天皇即位年と同様、詐術している可能性がある。天照大御神は元々国津系の最高神であり、その称号を天津系が取り入れている可能性が強い。

 
もとへ。大神神社は、大物主大神、大己貴神、少彦名神を主祭神としている。識別すると主祭神は大物主大神であり、大己貴神、少彦名神を配祀していると捉えることができる。先に「大和の三輪山のオオミワの神である大トシの神」とする記述もあるので、元々は大トシの神が主祭神であり、後に大物主大神へ移行していると考えられる。大トシの神を大物主大神とする記述もあり史書間で混乱している。いずれにしても、大神神社は出雲王朝との関わりが深いことが垣間見える。

 ところで、大己貴神は大国主の命の別名である。大物主大神はニギハヤヒの尊である。仮説であるが、 れんだいこは、ニギハヤヒの尊は大和へ向かった大国主の命の大和入り以降の別名ではないかと見立てている。少彦名神は、大国主の命と力を合わせて国づくりした神である。してみれば、大神神社は、出雲王朝に於いては大国主の命、その大和入り後の名のニギハヤヒの尊(大物主大神)と少彦名神を祀っていると云える。即ち、大神神社は出雲王朝の大国主の命と少彦名神を祀っていることになる。


 
大神神社の縁起には、イクタマヨリ姫(ヤマトトトヒモモソ姫)と「高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。古事記の崇神天皇7年の条では、大物主大神の末裔である意富多多泥古(大田田根子)譚が語られている。それによると、崇神天皇の御世に疫病が流行り人心が定まらなかった。この時、大神神社が永らく荒んでいたらしく、その崇(たた)りとの託宣が有り、大物主神の末裔である「意富多多泥古(大田田根子)」を八方手を尽して探し出し、これを祭祀主として御諸山に迎えたところ国が平安になった云々。

 この逸話は、大和王朝時代に、出雲王朝―邪馬台国の御代を粗末にして来たことによる崇(たた)りが記されていること、出雲王朝―邪馬台国系の末裔を迎えることにより人心が安定したことを知らせている点で貴重である。大和王朝史の底流に出雲王朝―邪馬台国勢力の処遇を廻る暗闘があり、これを見ないと流れが見えない。


 日本書紀の崇神天皇10年9月の条では、倭迹迹日百襲媛の命(古事記では夜麻登登母母曾姫の命)譚が語られている。そこで同女の「出雲系を暗示する高貴なるお方」との縁結び譚が語られている。その逸話の結びに「姫は悔いて、どすんと腰を着いた拍子に箸で陰部を突いて亡くなられた。姫は大市に葬られ、箸墓と名付けられた」と記されている。「悔いて」、「どすんと腰を着いた拍子に」、「箸で陰部を突いて亡くなられた」は全て暗示的表現であるが、これを仔細に解説するのも一興であるがここでは触れない。末尾の「箸墓古墳の被葬者が倭迹迹日百襲媛の命」と記していることが貴重である。

 その箸墓古墳が紀元3世紀頃に築造された古墳であることが現代考古学で判明しつつある。これらの神話譚を踏まえると、大国主の命即ち大物主大神(ニギハヤヒの命)と倭迹迹日百襲媛を結ぶ線が見えるように思われる。全て仮定ではあるが、こういう推論が可能と云うことである。

 倭迹迹日百襲媛の命=卑弥呼とする説がある。倭迹迹日百襲媛が葬られたのが箸墓古墳であり、その箸墓古墳が魏志倭人伝に記す卑弥呼の墓であると云うことになれば、そういうことになる。この説がよしんば間違いであろうとも、倭迹迹日百襲媛と卑弥呼―その後継者台与が非常に近い関係であり、同じ出雲系政治圏のほぼ同時代の人物であることは、墓の年代論で推定できる。

 少なくとも、ここに「出雲王朝と邪馬台国を結ぶ点と線」が見えると窺うべきではなかろうか。次に「日本の国体史を貫く出雲王朝と邪馬台国の点と線」を確認する必要があるが、ひとまず筆を置くことにする。

 2011.8.20日 れんだいこ拝

 jinsei/


【万葉集の古代王朝追憶歌考】
 れんだいこの邪馬台国三輪王朝論、出雲王朝と三輪王朝の同系譜論は、万葉集でも裏付けられることを知った。「邪馬台国発見-出雲に存在していた!」が万葉集の解析を通じて、柿本人麻呂、大伴家持、山上憶良等の和歌が滅ぼされた出雲王朝と三輪王朝の在りし日の姿を偲ぶ様子を解説している。「出雲王朝系邪馬台国論」の是非は別として、この万葉集の解析は意味と意義があると考える。

 これにより、れんだいこも万葉集の解析に向かおうと思う。但し、寿命が足りないのは致し方あるまい。

 
別章【万葉集考
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/kodaishico/manyosyuco/top.html)

 2013.2.18日 れんだいこ拝

 但馬故事記が、ニギハヤヒにつき麦や黍や粟などの穀類の栽培を拡めたと記している云々。

 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「 出雲の国譲りとは出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ
 出雲の神々は敵役
 出雲神話は古事記の神代記の3分の1を占めています。古事記に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。

 出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。日本書紀では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども日本書紀ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。

 これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。

 しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。
 八俣の大蛇伝説

 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。

 オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。

 でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。
 大きな土地の貴人

 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。

 オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。また、出雲国風土記によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また日本書紀によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。
 古代出雲文化圏の範囲

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。

 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。また、日本書紀の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 出雲国風土記には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。 また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

 一方、出雲系の神社の分布についてみると、延喜式(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。

 こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。
 武力で奪った国土

 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(日本書紀では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。

 オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、日本書紀の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。
 出雲国か、葦原中つ国か

 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。ところが、出雲国風土記はまったく別のニュアンスを伝えています。国譲りにさいして、オオクニヌシ(出雲国風土記では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」。つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。このように出雲国風土記では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。

 これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)






(私論.私見)