第3部 投馬国から邪馬臺国に至るまで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).6.2日

 これより前は、「對馬国から不弥国に至るまで」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、投馬国、邪馬臺国に至る行程とそれぞれの国の風情を検証解析する。

 2006.11.27日再編集 れんだいこ拝


南へ 水行二十日で 投馬国に至る。

官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。
五万余戸ばかり。

【総合解説】

 投馬国へ到る行程が、三文意にて記述されている。これを仮に第八行程と為す。


【逐条解説】

「南へ」について

 この場合、出航地を確定せねばならない。通説は、直前記述の不弥国から「南へ」行程したと受け取る。私説もこれに従う。放射説では、末盧国ないしは伊都国より起点する行程とする。


「水行二十日で」について

 ここで、「水行二十日」が登場する。これまでの道程記事はすべて里数で示されてきた(これを「里数表記」と云う)が、ここから様子が変わって日数で示されているのが注目される(これを「日数表記」と云う)。これを、里数行程は郡使が実際に通行したところ、日数行程は実際には行っていないところとする説もあるが私説はこれを採らない。「日数表記」の方が相応しい距離にあったので感覚的に「日数表記」にしたと伺う。一日の水行は平均8km、陸行は一日6kmが基準とされており、これによると、「水行二十日」は凡そ160kmの距離となる。

(私論.私見) 解読取り決め24、「水行二十日」読み考
 留意すべきは、「水行二十日」とは、これまでの書き分け記述に従えば陸行では行けない水行の先に投馬国があると窺うべきであろう。これにより、投馬国を九州地に求めることが非となる。

「投馬国に至る」について

 投馬国は上古音により近い発音から推測するのに「ツマ」と読める。又は「トウメ」、「トマ」、「トモ」、「タマ」、「トメ」等々各様に読まれる。語義的には、「投」は「トウ」であり頭、疾(早く)(三省堂古語辞典)、「馬」は「メ」であり物と物の交差するところのすき間(字訓)と云う意味になる。総合すれば「流れの疾い海峡」ということになる。

 投馬国の所在を廻って、論争のあらしを巻き込むことになる。これまでの地名が、ほぼ九州北部におさめられ、ほとんど異論がないのに比べ、この投馬国となると、大きく九州説と非九州説とに分かれてしまう。水行を川の溯行と考える説もある。しかし、やはり海上を南へ進んだとみるのが自然であろう。このあたりから九州説は、水行二十日という長い行程に苦労しみ始め、非九州説では、方角の点で苦しい九十度曲げ解釈をしなければならなくなる。

(私論.私見) 解読取り決め25、投馬国、邪馬台国の「馬」読み考
 案外触れられていないが、「対馬国」、「投馬国」、「邪馬台国」が国名に「馬」を共有している。官名の「卑」、「馬」も然りであるが、魏志倭人伝中においては同一字は極力同音で読むべきであろう。即ち、対馬の馬、投馬の馬をメと読み、邪馬台国の馬をマと読むのは許されないとすべきであろう。よって、対馬国をツシマ、投馬国をツマと読むなら邪馬台国もヤマと読まねばならないと思う。逆も然りである。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「投馬国の比定地」について

【九州説の比定地】
 今これを表でみると、九州説では、九州本土を西回りか東回りかによって南下したとみなすことになる。いずれも投馬国を「トマ」と読み、音訳比定によっている。以下のように比定されている。
筑後国上妻下妻郡説  現在の福岡県三 郡三 町から筑後市並びに同県山門郡瀬高町に及ぶ一帯の地域と見立てる説。
肥後国玉名郡説  肥後國の西北部、菊池、山本、山鹿、玉名、飽田、託麻、現在の熊本県菊池市、鹿本郡鹿本町、山鹿市、玉名市、飽託郡飽田村、同郡託麻村を結ぶ一円の広い地域に比定する説。
日向国児湯郡

 都万神社の地説。古くは、本居宣長が比定した。都万神社は西都市にあり、これを裏書するように、西都市の西方には西都原古墳群(宮崎県)が存在する。男狭穂塚(おさほつか).女狭穂塚(めさほつか)古墳。東には、新田原古墳群.茶臼原古墳群があり、南の国冨町には、本庄古墳群がある。都万神社は、木の花の咲くや姫を祀っており、神社の近くには子湯池があって、木の花の咲くや姫が分娩の時沐浴したところと云われている。

 古事記.日本書紀によると、応神.仁徳両天皇は日向出身の女性を娶ったと伝えられている。特に仁徳と髪長比売(かみながひめ)との間に生まれた皇子女たちは、5世紀のヤマト政権内で、かなりの勢力を誇っていたように記されている。

薩摩国説

 今の鹿児島は、しばしば火山灰が空を覆うから火山灰を雲として、イヅクモ出雲と云われ、イヅモと短縮された。転じてイ接頭語ツマ端になり、接頭語のイがサに変わり、サツマになっと云う。又、今の桜島は、火を吹くことからカグシマ火島と云われ、その形によって籠島に転じ、鹿児島と書かれ、島名が薩摩国の郡名に拡大され、さらに都市名に縮小したのであるとされ、投馬国を設馬、殺馬の誤記とする説もあり、 やはり音訳比定によっている。

【大和説の比定地】
 大和説による投馬国の候補地は倭人伝の方位記事は、末盧国へ上陸して以降は南を東に修正してみなければならないという説に従っており、投馬国を瀬戸内方面又は日本海航路に比定することとなる。大和説もこれまた多彩である。さほど注目されていないが、邪馬台国へ至る中継国のうち「馬」が使われている国は邪馬台国と投馬国のみである。これより両国が余ほど深い同盟ないしは親族関係にあることを窺うべきではなかろうか。こういう留意で投馬国を比定する必要があるように思われる。
【瀬戸内航路説】
 瀬戸内航路説の場合の水行は、玄界灘から関門海峡を通過して瀬戸内海に入る航路であるが、直線的に見れば、これは東の方向となる。
周防国佐婆郡玉祖郷  現在の山口県防府市大崎の玉祖神社の付近 内藤虎次郎説
備後国鞆の浦  現在の広島県鞆の津 新井白石説
備中国玉島  現在の岡山県倉敷市玉島
備前国玉の浦  現在の岡山県玉野市玉
播磨国須磨の浦  現在の兵庫県須磨

【日本海航路説】
 日本海航路説の場合の水行は、日本海の黒潮に乗って東北方向へ上る航路である。

出雲の国(島根県出雲)

笠井新也説
但馬国(兵庫県但馬) 山田孝雄説

 笠井新也氏の説である。「瀬戸内航路説」 を採れない理由を次のように記している。
 「この大和説の主張に於ける一の弱点は、『陸行一月』に対する解釈である。即ち邪馬台国を大和とし、これに達する交通路を、普通大和説の学者が考えて居るが如く瀬戸内海に取る時は、その邪馬台国に向かふべき上陸地点は、畿内の門戸として古代史上に著名な難波を以ってこれに擬定するのが最も適切でなければならないのであるが、もし然りであるとすると、難波から大和の何れの地に至るとしても、その日程は数日の外に出でないのであって、陸行一月といふ魏志の記事に合わないのである」。

 笠井新也氏は、「陸行一月」という魏志倭人伝の記述ゆえに「日本海沿岸を航行し敦賀に上陸し、越前、近江、山城を経て、陸行一月を費やして大和に入った」とした。

 「投馬国は出雲?五万余戸・第二の大国」は次のように述べている。
 「ただ、当サイトでは、上古音により近い発音から推測して、投馬国のことをツマ国と解釈して、投馬国=出雲国説を提唱したい。 イツモのイは母音の発語、音が軽いから自然に省かれる。 マとモは同類音で相通ずるから、出雲と投馬両国名は全く一敦する可能性が高い。この場合、魏志倭人伝に出てくる投馬国、邪馬台国までの水行を日本海沿岸航路と解釈していくことになる。「投馬国のことをツマ国として、投馬国=出雲国とするのには、他にいろいろ要因がある。宋版大平御覧の倭人伝では、投馬が於投馬(エツモ)と書かれている。 今日、出雲の人は出雲をエヅモとなまって言うから、 この時代もそうで、中国人はそれを聞き取ったのかもしれない。また、投馬国の官名が異彩をはなっているのも注目だ。彌彌(ミミ)と彌彌那利(ミミナリ)である。実は、このミミがつく名称は、記紀では出雲系や神代系に多く登場する名前である。これらの理由から、投馬国=出雲国だと思われる」。

 「最新邪馬台国論争・21世紀のレポート」は次のように述べている。
 「長い間、邪馬台国論争において、出雲はなにか忘れ去られた存在のようであった。しかし、卑弥呼登場前で、日本歴史で語り継がれてきたのが出雲神話であり、最近になって、出雲地区で次々に発見されている遺跡によって、神話は神話でなくなり、かつて、この地に王朝、もしくは大豪族の存在があったとする学説が主流を占めるようになってきている。まず、前方後円墳の前の時代、二世紀から三世紀前半、卑弥呼登場前、四隅突出型墳丘墓という豪族の墓が、出雲(島根県)、伯耆(島根県西部)、因幡(島根県東部)、さらに北陸(富山)に、そして二世紀後半には、岡山県(吉備地方)から広島県東部(三次市・千代田市)にまたがる地方にも、この四隅突出型墳丘墓の広がりが見え、渡辺貞幸らによると、これらの豪族たちが連合し、又、豪族の死に際しては、これらの豪族が集合し、葬儀を営むなど、強い絆で結ばれていたとする学説を発表している。さらに出雲地区における銅剣、銅鐸の大量発見である。1984年、農水省の広域農道の工事中、356本の銅剣(荒神谷遺跡)が発見され、その十二年後の平成八年、荒神谷から3キロの加茂岩倉から、三十九個の銅鐸が発見された。共に、遺跡発掘史上空前の発見と騒がれたが、これによって、出雲が古代史の日本列島にあって、重要な位置にあったことが証明されたといえる。古事記、日本書紀、出雲風土記の出雲神話を読むと、出雲にも、他の地域の豪族たちがうらやむ宝を産した気配が感じられる。今もある出雲の玉造温泉は、まさに古代人が好んだ句玉の産地であることを物語る。出雲の玉作遺跡は五十ヶ所を越え、その玉作遺跡は、主に宍道湖のそば、花仙山の周辺に集中している。

 平所遺跡では、鉄製の錐によって穿孔した、水晶の玉作跡が確認されているが、花仙山に産する琥珀、碧玉、水晶などは、古代人にとって、なにものにも変えがたい宝物で、出雲のこうした玉物は、諸国の諸豪族がこぞって求めたと思われ、それは、各地の遺跡から、出雲の玉類が多く発見されていることでも明らかである。

 青銅器のみでなく、鉄を産していたのではないかとの説もある。卑弥呼の時代、鉄は、輸入品はあっても、国内での製鉄はなされなかったとの説が主流だが、江戸時代から明治にかけての、出雲のタタラ吹きによる鉄生産は全国一を誇り、西洋からの溶鉱炉が導入されるまで隆盛であったことや、朝鮮半島南部、まさに倭人の国、加羅(狗那韓国)の時代、二世紀には、多々羅という製鉄にゆかりの地があることから、出雲には、卑弥呼の時代以前に鉄の生産が行われていた可能性は否定できない。最近になって、島根県石見町の湯谷悪谷遺跡、弥生時代末の住居跡から、二酸化チタン9・4パーセントを含む砂鉄精錬滓が検出されていて注目されてもいる。

 朝鮮半島、釜山附近から、出雲沖にある隠岐の島までは約60キロ、その隠岐をして出雲までは、対馬や壱岐を経由する北九州への道とそれほどの差はなく、紀元前には、むしろこのルートによって、朝鮮半島から多くの渡来があったとすれば、出雲は一時期、日本列島最大の古代都市であった可能性は否定できない。倭国大乱前、百余国であったクニが邪馬台国連合の統一、誕生後は三千余国となったのは、出雲連合の国譲り(神話伝説)も大きくかかわっているのではないだろうか。北九州沿岸の津から水行二十日、その戸数五万戸は、この出雲を於いて他にないとするのはこうした理由からである。

 それでは、伊都国附近からなぜ海路をとったのか、陸路ではの疑問が生じるのは当然のことだが、当時の日本海側の山口県海岸沿いには道らしき道はなく、海路を取るしかなかったと理解するしかない。時刻表の鉄道営業距離では、博多から門司までは72・7キロ、関門海峡を渡って下関から出雲までの距離は292・7キロとなっている。合計365・4キロである。海路と鉄路の差はあるが、『水行二十日』の一日の距離は18・27キロとなる。『投馬国へ水行二十日』の魏志の記述は、伊都国からではなく、帯方郡からだとする説もあるが、それでは、魏志に書かれた帯方郡、狗那韓国、対馬、末慮国、伊都国の記述はなんのためのものだったかということになる。水行二十日とは、北九州沿岸の津から出雲までの旅日数と思えるのである」。


【れんだいこの比定する投馬国とは】
 投馬国の比定地について私説はこう考える。投馬国へ至る条件として、1・不弥国より南へ向う、2・水行で20日要する、3・陸行ではいけない乃至は不都合な地域、という3条件を充足させる必要がある。私説は定まらぬが、方位が合わぬけれども出雲の国(島根県出雲)を採りたい。いづれの日か実地に探索したい。これを「比定地10、投馬国」とする(2011.8.14日現在認定)。

 実際、投馬国を出雲の国に比定すると、投馬国より邪馬台国への「水行十日、陸行1ケ月」が見事に符牒する。出雲の国より舟で十日進めば丹後に至り、丹後から陸路で大和へ向かえば1ケ月かかる。これほど「水行十日、陸行1ケ月」が合うところは出雲以外にない。つまり、不弥国より「水行二十日」の地にして、邪馬台国へ「水行十日、陸行1ケ月」で至る地として出雲の国ほど相応しい比定地はないと云うことになる。「五万余戸ばかり」とは相当の人口数であり高度の文明を持っていたことになる。当時に於ける日本海文化圏の枢要地である出雲の国はこれに相応しいとも思う。(2013.8.14日現在書き加え)

「官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う」について

 弥弥はミミ、副官は弥弥那利はミミナリと読む。ナリは副の義となる。ナリは物の形、衣裳をまとうこと(三省堂古語辞典)を意味する。
(私論.私見) 解読取り決め26、弥弥考
 弥弥の弥は卑弥呼の弥と同じであり、邪馬台国の官の弥馬升、弥馬獲支と弥に於いて共通している。これは投馬国と邪馬台国が相当深い関係にあることを示唆していると思う。  

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「五万余戸ばかり」について
 戸数が5万余戸とは邪馬台国の7万余戸に次ぐ第二の規模である。
(私論.私見) 解読取り決め27、投馬国の戸数考
 、投馬国の戸数「五万余戸ばかり」はもっと注目されてよい。と云うのは、仮に九州説の場合、投馬国が何故に突出して「五万余戸ばかり」の戸数になっているかの合理的説明ができないからである。かく問うのは、れんだいこの初見かもしれない。

 2013.8.17日 れんだいこ拝

南へ 邪馬臺(壹)国に至る。

女王の都する所。
水行十日、陸行一月。

官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う。

七万余戸ばかり。

【総合解説】

 邪馬台国へ到る行程が、五文意にて記述されている。これを仮に第九行程と為す。


【逐条解説】

「南へ」について
 連続式に読む場合、投馬国より南へということになる。私説は、これに従う。放射説では、末盧国ないしは伊都国より起点する行程で「南へ」とする。

「邪馬臺国に至る」について
 ここに初めて「邪馬壹国」が登場する。魏志倭人伝中の「邪馬壹国」表記は1回、女王国は5回登場する。現存する全ての三国志(魏志倭人伝)の版本では「邪馬壹國」と書かれている。「邪馬臺國」は「国」と表記されているが、続いて「女王の都する所」とあるので、実態は「都」であり、その「首都名」ということになる。

 三国志より後の5世紀に書かれた選者范曄(398~445)の「後漢書・東夷伝倭の条」の冒頭は次のように記している。
 「倭は韓の東南大海の中に在り山島によりて居をなす。およそ百余国、武帝朝鮮を滅ぼしてより、使訳漢に通ずる者三十許国、国皆王を称し、世世統を伝う。その大倭王は邪馬臺(台)国に居す」。

 「邪馬臺國」か「邪馬壹國」かにつき、7世紀の「梁書・倭伝」では「祁馬臺国」、7世紀の「隋書・倭国伝」では「俀国」と記され「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、「北史・倭国伝」等に おいても「台(臺)」という文字が使われていることが証左で「邪馬臺國」と了解すべき論が主流となっている。私説もこれに随う。

 ところで、「壹」は「壱」の旧字なのだろうか。仮に別物とすると、邪馬*国について、一(壱)、壹、台(臺)の三通リの記載があることになる。

 読み方として、音読みではジャメイチ、ジャメダイとなるが、和読みではヤマド.ヤマダイ.ヤマドイ.ヤマイ.ヤマタイ.ヤマトなどと読まれる。邪は説文に琅邪(らうや)郡の字とする。邑部の字は国名、地名であるから、この字の他の語義は、亠牙衣(ジャ)と通用し、衣服の奇邪なることをいうもので、呪術者の身に服するところである(字統)。邪は地名、国名ではヤとなる。臺は万葉仮名ではト、台は怡(よろこぶ;イ)に通じイともされる。邪馬壱、邪馬台はヤメイ、ヤメトとなる云々。


「邪馬一(壹)国か邪馬台(臺)国か」について

 本件につき、別稿「魏志倭人伝総合解説(3)、紹興本の邪馬壹國、後漢書倭伝の邪馬臺國記述考」で詳論する。


「邪馬台国比定地」について

 邪馬台国肝心の所在地となると、「一体それがどこにあったのか昔から 甲論乙駁、百花繚乱として論のみ多く一向に定まるところを知らない」(鈴木正知「邪馬台国に謎はない」)。大別して、九州説と近畿大和説、その他地域説(中国地方、四国地方、その他、外国)に分かれる。九州説は、築前博多説、筑後御井説、、筑後川北岸中心築前甘木説、築前八女説、築前鳥栖説、筑後山門郡説、肥後山門説、肥後玉名説、熊本県熊本市説、大隅薩摩説、豊前山戸説、肥前島原説、肥前千綿説、宇佐説、霧島山一帯説等々。近畿大和説は、**等々。その他地域説は、安芸國安芸郡府中村説等々。詳細は別紙一覧表の「邪馬台国比定諸説」で別途考察する。 


【れんだいこの比定する邪馬台国とは】
 邪馬台国の比定地について私説はこう考える。邪馬台国へ至る条件として、1・投馬国より南へ向う、2・水行で10日、陸行で一月要する、3・水行ないしは陸行のどちらでも行くことのできる又はどちらも行程しなければ辿り着けない地域、という3条件を充足させる必要がある。私説は定まらなかったが近畿大和の桜井説を採りたい。これを「比定地11、邪馬台国」とする(2011.8.14日現在認定)。

 参考までに、柿本人麻呂の和歌「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」(萬葉集巻第三 二五五番)(口語訳 遠い鄙からの道のりを恋しく思いながら来てみると、明石の海峡からヤマト島が見えてきた)が意味深であろう。これによれば、明石の門より見えるのが大和島と云うことになる。この「大和島」が邪馬台国を指しているかどうか検証を要するが、「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば」は往時の邪馬台国を偲んでいると思われる。

「女王の都する所」について

 この部分の記述を原則的に確認しておく必要がある。ここでは、「邪馬台国=女王の都とする所」と記載されていることを確認しておくこととする。これにつき、次のような所説がある。

 「魏志倭人伝には女王卑弥呼の記事はかなり詳細に叙述されているが、しかし『女王卑弥呼が邪馬台国女王である』という明確な記事はない。また卑弥呼が邪馬台国女王であると理解すべき叙述もない。魏志倭人伝の叙述に関する限り、女王卑弥呼は倭女王であり倭王であると記されている。倭女王とは倭国の女王のこと、倭王とは倭国王のことである。邪馬台国女王卑弥呼という叙述は皆無である」。
(私論.私見) 解読取り決め29、「邪馬台国女王卑弥呼」考
 こういう説をいわゆる学究が平然と唱えているが余りにも馬鹿馬鹿し過ぎる、「南へ 邪馬壹国に至る。女王の都する所」とあり、後の記述に「年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い」とあれば、「邪馬台国女王卑弥呼」と解して何を憚ることがあろうか。にも拘わらず、この教授は平然と「女王卑弥呼が邪馬台国女王であるという明確な記事はない。また卑弥呼が邪馬台国女王であると理解すべき叙述もない」と云う。無茶苦茶な論であることを指摘しておく。なお、「魏志倭人伝の叙述に関する限り、女王卑弥呼は倭女王であり倭王であると記されている。倭女王とは倭国の女王のこと、倭王とは倭国王のことである」も狂っている。魏志倭人伝に従う限り、卑弥呼は女王国の王であり倭の女王ではない。「女王卑弥呼は倭女王であり倭王である」は正しくない。この教授の主張するところは全て狂っている。どう読みとれば、そうなるのか解せない。

 確認しておくが、一般には邪馬台国論と云われるが、魏志倭人伝上の邪馬台国の記述は一ケ所でしかない。多くあるのは女王国である。あるいは、倭人、倭、倭地が出てくる。この相互規定が曖昧な故に混乱しているので整理しておく。論者の中には、邪馬台国を女王国よりも広域圏に捉えほぼ倭に匹敵させる者もいる。正しくは、倭>女王国>邪馬台国である。女王卑弥呼が都として所在するところが邪馬台国であり、「21ケ国の邪馬台国詰め出先屋敷」を含むその他同盟諸国が女王国であり、女王国に属さないそれら以外の諸国も含むのが倭である。こういう書き分けがされていることを踏まえないと議論が混乱する。

 2011.8.27日再編集 れんだいこ拝
 奈良大学で長年考古学の研究に従事した水野正好氏が次のように述べている。
 「倭国女王卑彌呼の宮都が邪馬臺国にあることは『三国志』魏志の明記するところである。從前、この邪馬臺国は、魏志に頻出する女王国と混同され、同一視される場合が多いが、邪馬臺国と女王国は区別されるべき、別個の存在であることは魏志を熟読することで理解される。女王国の謂いは『女王の統治する国』の意であり、『女王の都する国』の意をもたぬことは歴然と窺えるところである」。
 次のように解説されている。
 「 すなわち、水野は邪馬台国をあくまで卑弥呼の居住地とみており、卑弥呼が統治した範囲は女王国≒倭国としました。このように、邪馬台国の所在地をめぐる論争においては、このような視点も重要になってきます」。
(私論.私見) 「邪馬台国女王卑弥呼」考
 「倭>女王国>邪馬台国」で了解すれば良いだけのことである。

「水行十日、陸行一月」について

 「水行十日、陸行一月」につき、「双方説」と「片方説」、「陸行一月は陸行一日の書き誤り説」の3解釈に分かれている。

「双方説」  「水行十日、陸行一月」を連続式に読むと、「水行で十日進み、さらに陸行で一月進む」として計40日に解釈する説であり、仮に「双方説」又は「and説」とする。
「片方説」

 「水行十日、陸行一月」を選択式に読むと、「水行すれば十日かかり、陸行すれば一月かかる」と選択式に解する説であり、仮に「片方説」又は「or説」とする。昭和初期に志田不動麿によって提唱され、九州説の多くがこれを採用するところとなった。もっとも同氏は畿内説を主張している。もし双方説とすれば、中間に又という字が入るべきであり、もしくは水行十日の到着地を明らかに示しているのが当然であり、それがない以上片方説として理解すべきであるとする。片方説の論拠の一つとして、双方説の通りであるならば、水陸行四十日と書き記す筈であるというのがある。

「書き誤り説」  「陸行一月」は「陸行一日」の書き誤りとする説がある。九州説の一部が主張しているもので、距離を縮めようと何かと苦労していることが伺える。

 他にも、所要日数説と加減説とがある。

所要日数説
加減説  一例として、謝銘仁氏は次のように述べている。
 「この日程記事は、先に水路を十日行ってから、引き続いて陸路を一月急いだという意味ではない。地勢によって沿海水行したり、山野を乗り越えたり河や沼地を渡ったり、水行に陸行、陸行に水行を繰り返したという意味である。さらに、天候やなにかの事情により進めなかった日数や、休息.祭日その他の日数も加算して、卜旬の風習や干支の思想も頭に入れて、整然とした十日一月で表記したのであろう」。
 
 以上は、いずれも投馬国からの行程を前提としてるが、それとは別に「水行十日、陸行一月」を「郡より倭に至る全行程の全所要日数」であるとする古田説がある。古田氏は、この解釈より九州筑前説を唱えることになる。

 なお、平安時代に書かれた「延喜式」に、九州の太宰府から京都の平安京へ向かう港までが一月と記されている。船に乗っても一月、歩いて行っても一月と記されているとのことである。
(私論.私見) 解読取り決め30、「水行十日、陸行一月」考
 私説は、「双方説」(「and説」)を採り、「水行十日の次に陸行一月」と解する。但し、魏志倭人伝に於ける同様記述で確認すべしと思う。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う」について
 官として4機関ないしは名を挙げている。この4機関ないしは人物が邪馬台国の官僚トップと云うことになる。

 主官は一人で伊支馬という。この読みは、「伊」を「イ」と読むのは良いとして、「支」は「ク」、「キ」、「シ」の三説ある。「馬」は「マ」、「バ」、「メ」の三説ある。これにより「イキマ」、「イキバ」、「イシマ」、「イシバ」、「イシメ」と読まれている。恐らく「イキマ」又は「イシマ」のどちらかに読むべきだろう。

 次官は弥馬升と云う。この読みは、「弥」を「ミ」と読むのは良いとして、「馬」は「マ」、「バ」、「メ」の三説ある。「升」は「ス」、「ソ」、「シ」、「ショウ」の四説ある。これにより「ミマソ」、「ミマシ」、「ミマショウ」、「ミメショウ」と読まれている。恐らく「ミマス」又は「ミマショウ」のどちらかに読むべきだろう。

 次は弥馬獲支と云う。この読みは、「弥馬」を「ミマ」「」と読むのは良いとして、「獲」は「カ」と読み、「支」は「キ」、「シ」の二説ある。これにより「ミマカシ」、「ミマカチ」、「ミメカクシ」と読まれている。恐らく「ミマカキ」又は「ミマカシ」のどちらかに読むべきだろう。

 次は奴佳と云う。この読みは、「奴」は「ナ」、「ノ」、「ヌ」の三説ある。「佳」は「カ」、「ケ」の二説ある。「」は「テ」、「テイ」の二説ある。これにより「ヌカテ」、「ヌケテイ」、「ナカテイ」と読まれている。恐らく「奴」を「ノ」と読んで「ノカテ」又は「ノカテイ」、「ナ」と読んで「ナカテ」、「ナカテイ」のどちらかに読むべきだろう。

 官として以上の四階層があったことになる。これまでの諸国と比べて一番多いことが注目される。

 №1の伊支馬、№2の弥馬升、№3の弥馬獲支には共に邪馬台国の「馬」が入っている。これは邪馬台国との同族性を表象していると思われる。最後の奴佳だけ独自の名である。「奴国」の「奴」であり関連があるのかも知れない。

 熊谷秀武氏の面白い考察がある。次のように述べている。
 概要「伊支馬の伊は伊都國、支は一支國、馬は対馬國。弥馬の弥は不彌國、馬は投馬國。奴は奴國からとったものである。邪馬壹国の官としては伊都国の升、一支国の升、対馬国の升、不彌国の升、投馬国の升があり、次に不彌国の獲支、投馬国の獲支、次に奴国の佳{革是}が有る。あるいは邪馬壹国の官には伊都国、一支国、対馬国、不彌国、投馬国か ら升(のぼ)った者で構成されるものが有る。これを彌・馬の獲支という。 次に、奴国からのぼった者で構成される官を奴の佳{革是}という」としている」。

 長田通倫氏(日本古族研究所)は、「倭国詞律古族研究」で次のように述べている。
 「”倭人伝”に記載された官職名は,何れもが倭語と見なされる明瞭な裏情報を有しているので,倭国の役職名を音訓変換し、更に呉音読を当てて表記して異国風化したものと思われる。卑奴母離は銭金庫の守(大蔵大臣)、爾支は仕事を処理する司(実務官)、泄謨觚は礼節に務める公、柄渠觚は宗廟を護る公、馬觚は(先祖の)祀を推進する公、多模は倭衆の長、弥弥は(神,先祖を)祀る司、弥弥那利は(神,先祖を)祀る司、廟を管理する役人、伊支馬は倭国を治める官吏、弥馬升は(神,先祖の)祭祀を実行する聖者、弥馬獲支は(神,先祖の)祭祀の推進を画する司、奴佳革是は(倭族の)死を悔やみ悼む司」。
 「崇神が御間城入彦、皇后が御間城姫であり、「弥馬升」・「弥馬獲支」と「御間城」の類似性、第十一代・垂仁天皇の名が「活目入彦五十狭茅天皇」(いくめいりひこいさちのすめらみこと)であり、「伊支馬」と「活目」の類似性を見て取る所論がある。

「七万余戸ばかり」について
 ここで戸(家)数を比較してみる。
国名 戸数 推定人数
対馬国 千余戸有り
一支国 三千許の家有り
末盧国 四千余戸有り
伊都国 千余戸有り 但し魏略では戸万余
奴国 二萬余戸有り
不弥国 千余家有り
投馬国 五萬余戸ばかり
邪馬台国 七萬余戸ばかり

 邪馬台国の戸数七万戸は、当時は大家族で1戸に10人くらい同居していたと推定できるので、人口70万の大国になる。

 これより後は、「女王国衛星諸国と狗奴国について」に記す。





(私論.私見)