「長い間、邪馬台国論争において、出雲はなにか忘れ去られた存在のようであった。しかし、卑弥呼登場前で、日本歴史で語り継がれてきたのが出雲神話であり、最近になって、出雲地区で次々に発見されている遺跡によって、神話は神話でなくなり、かつて、この地に王朝、もしくは大豪族の存在があったとする学説が主流を占めるようになってきている。まず、前方後円墳の前の時代、二世紀から三世紀前半、卑弥呼登場前、四隅突出型墳丘墓という豪族の墓が、出雲(島根県)、伯耆(島根県西部)、因幡(島根県東部)、さらに北陸(富山)に、そして二世紀後半には、岡山県(吉備地方)から広島県東部(三次市・千代田市)にまたがる地方にも、この四隅突出型墳丘墓の広がりが見え、渡辺貞幸らによると、これらの豪族たちが連合し、又、豪族の死に際しては、これらの豪族が集合し、葬儀を営むなど、強い絆で結ばれていたとする学説を発表している。さらに出雲地区における銅剣、銅鐸の大量発見である。1984年、農水省の広域農道の工事中、356本の銅剣(荒神谷遺跡)が発見され、その十二年後の平成八年、荒神谷から3キロの加茂岩倉から、三十九個の銅鐸が発見された。共に、遺跡発掘史上空前の発見と騒がれたが、これによって、出雲が古代史の日本列島にあって、重要な位置にあったことが証明されたといえる。古事記、日本書紀、出雲風土記の出雲神話を読むと、出雲にも、他の地域の豪族たちがうらやむ宝を産した気配が感じられる。今もある出雲の玉造温泉は、まさに古代人が好んだ句玉の産地であることを物語る。出雲の玉作遺跡は五十ヶ所を越え、その玉作遺跡は、主に宍道湖のそば、花仙山の周辺に集中している。
平所遺跡では、鉄製の錐によって穿孔した、水晶の玉作跡が確認されているが、花仙山に産する琥珀、碧玉、水晶などは、古代人にとって、なにものにも変えがたい宝物で、出雲のこうした玉物は、諸国の諸豪族がこぞって求めたと思われ、それは、各地の遺跡から、出雲の玉類が多く発見されていることでも明らかである。
青銅器のみでなく、鉄を産していたのではないかとの説もある。卑弥呼の時代、鉄は、輸入品はあっても、国内での製鉄はなされなかったとの説が主流だが、江戸時代から明治にかけての、出雲のタタラ吹きによる鉄生産は全国一を誇り、西洋からの溶鉱炉が導入されるまで隆盛であったことや、朝鮮半島南部、まさに倭人の国、加羅(狗那韓国)の時代、二世紀には、多々羅という製鉄にゆかりの地があることから、出雲には、卑弥呼の時代以前に鉄の生産が行われていた可能性は否定できない。最近になって、島根県石見町の湯谷悪谷遺跡、弥生時代末の住居跡から、二酸化チタン9・4パーセントを含む砂鉄精錬滓が検出されていて注目されてもいる。
朝鮮半島、釜山附近から、出雲沖にある隠岐の島までは約60キロ、その隠岐をして出雲までは、対馬や壱岐を経由する北九州への道とそれほどの差はなく、紀元前には、むしろこのルートによって、朝鮮半島から多くの渡来があったとすれば、出雲は一時期、日本列島最大の古代都市であった可能性は否定できない。倭国大乱前、百余国であったクニが邪馬台国連合の統一、誕生後は三千余国となったのは、出雲連合の国譲り(神話伝説)も大きくかかわっているのではないだろうか。北九州沿岸の津から水行二十日、その戸数五万戸は、この出雲を於いて他にないとするのはこうした理由からである。
それでは、伊都国附近からなぜ海路をとったのか、陸路ではの疑問が生じるのは当然のことだが、当時の日本海側の山口県海岸沿いには道らしき道はなく、海路を取るしかなかったと理解するしかない。時刻表の鉄道営業距離では、博多から門司までは72・7キロ、関門海峡を渡って下関から出雲までの距離は292・7キロとなっている。合計365・4キロである。海路と鉄路の差はあるが、『水行二十日』の一日の距離は18・27キロとなる。『投馬国へ水行二十日』の魏志の記述は、伊都国からではなく、帯方郡からだとする説もあるが、それでは、魏志に書かれた帯方郡、狗那韓国、対馬、末慮国、伊都国の記述はなんのためのものだったかということになる。水行二十日とは、北九州沿岸の津から出雲までの旅日数と思えるのである」。
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