第4部3 | 魏志倭人伝総合解説(3)、紹興本の邪馬壹國、後漢書倭伝の邪馬臺國記述考 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).4.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「魏志倭人伝総合解説(3)、紹興本の邪馬壹國、後漢書倭伝の邪馬臺國記述考」をものしておく。 2009.11.20日 れんだいこ拝 |
【魏志倭人伝総合解説(3)「紹興本」の「邪馬壹國」、後漢書倭伝の「邪馬臺國」記述考】 | |
「邪馬台国」は通称であり、「紹興本」魏志倭人傳(伝)には「邪馬壹国」と書かれていることについて考察をせねばならない。この問題につき、古田武彦(1926-2015)氏が、現存する写本の内、最も古い写本である「紹興本」(紹興年間(1131-1162)に刊行された写本)の記述が「邪馬壹(イチ)國(国)」である以上、「之に従うべし、後漢書の撰述の年代は三国志のそれより遅く、倭の条の記載は魏志倭人伝を参照したものであることを考えると、新しい方でもって古い方を訂正することは奇妙ではないか」と「邪馬壹(イチ)国論」を主張することで大論争となった。これを仮に「古田武彦史学」又は単に「古田説」と命名する。 これに対し、范曄(はんよう、398-445)が著わした後漢書(440年)は「紹興本」より5世紀もさかのぼる正史である。後漢書は魏志倭人伝の原本を見て、あるいは紹興本よりも古い写本を見て書かれたと考えられる。そこでは「臺」(トゥ)を用いて「邪馬臺(タイ)國」と記しており、その他文獻の記述からも「邪馬臺(タイ)國」と読む方が適切とする反論が定着しつつある。この立論からは「邪馬臺國」が「邪馬壹國」であった可能性はないとの結論が導き出される。 「邪馬臺(タイ)國」論の一説として発音転訛説がある。魏志倭人伝の最も古い写本である「紹興本」は陳壽による原著の時(285年)から900年近く経っている。その間に竹簡や絹布を用いて写本が繰り返されている。その間に首都も洛陽(西晋)から南京(東晋の時代)に移り、長安(隋・唐の時代)に移り、開封(かいほう 北宋の時代)に移り、杭州(南宋の時代)に移動している。それらの地域では現在でも発音が著しく異なっている。 「臺」は「台」(たい)の旧字で、その旁(つくり)である「至」の音は「トゥ」。「臺」の音は「トゥ」。一方、「壹」の旁である「豆」の音も「トゥ」、「壹」の音も「トゥ」。従って、「紹興本」の写本家が「臺」と「壹」を音の上で混同した可能性は高く、その結果「臺」が「壹」となり、それは「壱」すなわち「一」を意味するようになったのだと考えられる、としている。しかし、この説では、魏志倭人伝文中で「渡一海千餘里」や「一大國」、「陸行一月」、「一大率」、「一女子」、「船行一年」など「一」を使うべきところでは「一」が使われているので、何故に敢えて「壹」が使われたのか釈然としないことになる。 台の源字「臺」と「壹」が似ている字体なので、単に書き誤りとする説もある。鹿島氏は、「倭と王朝」で次のように解析している。
こういう折衷的見方もある。 しかしながら、「壹與遣、倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送、政等還。因詣臺」の下りでは「壹與」の「壹」と「邪馬臺国」の「臺」が書き分けられている。これよりすれば、原本は中国魏王都も「臺」、邪馬台国王都も「臺」あったところ、邪馬台国王都に「臺」を宛がうのは不遜であり、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いることならずとして書き分けたとする説がうまれる。古田説は「壹」の略字を「一」としているが、「壹」は「壹」であり、「壱」の略字が「一」であるとする説もある。これによれば、「壱」(一)、「壹」、「臺」(台)の三角関係になっていることになる。なお、古田説の「壹=一」は牽強付会説と云うことになる。 |
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次のような解説もある。「壹」は形声文字であり、形声文字は旁(つくり)を読み(声符)、旁以外の編や冠等は文字の意味(義符)を表す。「壹」の旁は「豆」であるから読みは「と」と読むのが正しい。よって邪馬壹国とはヤマト国と読むべきという説がある。実際、魏の公式文字は篆書体であるが、楷書体の「壹」を篆書体では「壺の中に吉」と書く。吉の読み(声符)は、古代では「とん」あるいは「と」と発音した時代があった。これが「壹」を「ト」と読む根拠となっている。これによれば、「臺」、「壹」共に「ト」と読むべし、「壹」は「壱(一)」に非ずということになる。 | |
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れんだいこは、古田武彦氏の所論(【邪馬壹国の論理】、【邪馬一国の証明】、【邪馬台国の常識】、【邪馬一国への道標】)を評価しつつ、にも拘わらず結論の所で誤誘導があったとする「邪馬臺(タイ)国」論を獲得している。(目下、古田氏の所説それぞれにコメントをつける形にしている) れんだいこ説は、「陳寿の原本・魏志倭人伝」は、「後漢書」その他史書の記す如く「邪馬臺(台)国」と記していたとみなす。後世の写本段階で、東夷の一国家に過ぎぬ倭国に魏王朝と同じ位を持つ「臺」(台)の字を宛がうことの不遜性が問題になり「壹」に差し替えられ、以降この写本が正統化されたのではないかと推理している。なぜ、かく解するかと云うと、陳寿の倭国観には、由来は定かではないが「邪馬臺(台)国」に対する強い思い入れがあり、敢えて王朝待遇の「臺」(台)の字を宛がったとみなすからである。それは、東夷伝に於ける破格の二千文字を費やして倭国論を記した背景と通じている。かく理解したい。古田氏説の逆読みになるが、ハタと膝を叩いて欲しいところである。 なお、「壹」と「臺」のみならず「壱」と「一」が使い分けされていることも見ておかねばならない。「一」については「始度一海千余里 至對海國」、「又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國」等何度も使われている。但し「壱」とは記されていない。してみれば、「壹」は「壱」(一)に対しても「臺」に対しても厳密に使い分けされていることになる。恐らく、「壹」は「壱」(一)ではなく、「臺」(台)を意識してそれよりへりくだった意味を持つ当て字なのではなかろうか。こう解すれば整合すると思う。古田説は目の付け所までは良かったのだが、結論で「壹」を「壱=一」と読み換えて邪馬一(壹)国論を喧伝したところに誤まりがあったと見做す。 ちなみに、古田説の如く「邪馬壹(一)国」にすると、「同じ漢字の表音文字的読みは、同一文献中に於いては一定の法則に従い、極力同じ読みで発音しないと整合しない」となるべきだから、卑弥呼の宗女は「壹與」と読むことになる。「邪馬臺(台)国」と読むのであれば「臺與」となる。果して「臺與」と「壹與」のどちらが正鵠な読みだろうか。れんだいこは「臺(台)與」と読むべきところ、「壹與」と書くことで「一與」としか読めず、それは本来記述の間違い書き換えによる読み間違いだと思う。 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝 |
【歴史学者の桃崎有一郎氏の「ヤマト(乙類)」論考】 |
歴史学者の桃崎有一郎氏が、「邪馬台はヤマトと読む」(文藝春秋 2024年3月号)を発表し、「邪馬台国はどこにあったのか論争に歴史学者が画期的新説」と評されている。これを確認しておく。 邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いである。「邪馬」を「ヤマ」と読むのはよい。問題は「台」だ(正確には旧字体の「臺」だが以下「台」と記す)。古代中国の南北朝時代・隋・唐(5〜10世紀頃)では「台」は「ダイ」に近い発音だった。3世紀に書かれた魏志倭人伝やその原資料が、ある日本語の地名を「邪馬台」と音写した時に最も近い頃、中国の「台」の発音は、「ダ」と「ドゥ」の中間のような音だった。「台」と発音が全く同じ「苔」の字が、上代(飛鳥・奈良時代)に「ト」と読まれた証拠が、8世紀に成立した日本書紀以下のわが国の正史に多数ある。上代日本語の「ト」には甲類・乙類の2種類があるが、これは「ト(乙類)」である。上代日本語で「ヤマト(乙類)」となる音を、中国人は「ヤマダ(ヤマドゥ)」のような音として聞き取り、「邪馬台」と書いたと思われる。後に、日本の正史は、日本全体や奈良地方を表す「ヤマト(大和)」を「野馬台」、「夜摩苔」とも書いた。これらも、「邪馬台」の「台」が「ト」だった証拠である。 江戸前期の国学者の松下見林(けんりん)は、著書『異称日本伝』の中で、「邪馬台」を「ヤマト」と読み、「大和」と同じだと結論していた。九州にも「山門」()という地名があるが、「門」の字で表す「ト」は甲類なので、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」とは発音が違うので棄却してよい)。後代の地名で「邪馬台」と完全に発音が一致するのは、日本全体や奈良地方を指す「ヤマト」しかない。ならば、「邪馬台」という地名の場所は、その「ヤマト」との関係から探る以外にない。「邪馬台」が、日本全体のようなかなり広い地域を指す「ヤマト」としか結びつかないならば、邪馬台国の場所は特定できない。逆に「邪馬台」が、日本のどこか特定の地域を指す「ヤマト」と結びつくのなら、そこに邪馬台国の場所を求めるのが自然だ。もっとも、奈良地方に「ヤマト」という地名があるからそこが「邪馬台」だ、というだけでは新説にならない。私の説ではむしろ、奈良地方以外を指す「ヤマト」の存在が重要になる。 日本列島の統一王朝全体(統一されていない状態も便宜的にこう呼ぶ)を指す国号としての「ヤマト」。話の都合上、これを仮に「(最上層)ヤマト」と呼ぶ。それより小さく、その中に含まれ、律令制で「大和国」とされた現在の奈良県地方にあたる行政区分の「ヤマト」もある。これを仮に「(中間層)ヤマト」と呼ぶ。それより小さく、「ヤマト」という地名が指す用例のうち最も小さいその領域の、奈良盆地東部の律令制の行政区分でいう磯城(しき)郡(後に城上郡と城下郡に分離)と十市(とおち)郡の領域にあたり、その中心部は大和国の城下郡に属する「大和郷」(ヤマト郷またはオオヤマト郷)地域を指す「ヤマト」を「(最下層)ヤマト」と呼ぶ。これら三つの「ヤマト」には、様々な漢字「日本」、「大和」、「大倭」、「倭」などが宛てられた。これらのうち「日本」は「ヤマト(最上層)」を指すものに偏(かたよ)る。日本書紀では、1例だけ「(中間層)ヤマト」の用例があるが、残る218例が「(最上層)ヤマト」であると先学が指摘している(神野志隆光説)。 |
(私論.私見)