第2部 對馬国から不弥国に至るまで

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 これより前は、「郡から狗邪韓国に到るまで」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国に至る行程とそれぞれの国の風情を検証解析する。

 2006.11.27日 れんだいこ拝

 「邪馬台国の比定地」より上図を転載させていただいた。比定地の部分は要らないが、他にこのような方位関係を記した位置地が見当たらず貴重と心得る。然るべき地図が手に入れば変更する予定であるが、それまでの暫くの間ご了承願います。

 2003.9.13日 れんだいこ拝


始めて一つの海を渡ること千余里、對島国に至る。
其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
居る所は絶島で、方四百余里可り。
土地は山険しく深林多く、道路は禽や鹿の径の如し。
千余戸有り。
良田は無く、海の物を食べて自活し、船に乗りて南北に市糴す。

【総合解説】
 狗邪韓国から対馬国へ至る行程が、六文意にて述べられている。これを仮に第二行程と為す。

 逸文魏略は、「始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴」と記している。

【逐条解説】

「始めて一つの海を渡ること」について

 既に述べたように、私説は、第二行程は狗邪韓国の特定の港から始められるのではない。狗邪韓国へは「到」っており、「到」が使用されている以上ここからは進んでいないと理解すべきとする。朝鮮半島と対馬海峡との間のこのコースは、かなり早い速度で西から東へ海流が流れており、狗邪韓国の金海付近から渡ろうとすると、船は大きく東に流されて、対馬に着くことができない。魏使は、恐らく、郡を出て、狗邪韓国入りしながら、潮流を考慮に入れた頃合いの港より対馬へ向かったことと思われる。

 「一つの海を渡ること」につき、「一」と表記されている。何気ないことではあるが、卑弥呼の居住国が「邪馬壱国」と表記されており、「一」と「壱」が使い分けされていることになる。これについては「邪馬壱国」の項で言及することにする。

 参考までに記すと、古代野性号の実験が次のように示唆している。1975(昭和50)年、角川書店の主催で古代野性号で朝鮮海峡を渡ろうとした企てが為されたが、朝鮮半島と対馬島の間の朝鮮海峡を流れる対馬暖流は、南西から東北の方向で海峡を通過しており、この時の航海実験で、船は東に流されて人の漕ぐ力だけでは対馬に着くことができなかった。つまり、釜山から対馬島まで直線的に船を漕ぐことは海流に逆らい、困難であることが判明した。

 このことからも推測し得るように、使節を乗せた船は、もっと西の方の地点から出発し、潮の流れを利用して対馬に到着したものと推測出来る。その一例として、元寇の役が次の史実を残している。「新元史」の日本伝は、「巨済島に至り、はるかに対馬島を望んだが、大洋は万里、風と濤とは、天を蹴っていた」と書き記しているように、朝鮮海峡は相当の荒海であり、黒潮の流れからすれば逆流コースになっている、ことの認識を持たねばならない。「従って、倭人伝の実際の航路は、狗邪韓国の釜山付近から海岸沿いに巨済島付近まで一旦戻り、そこから海流に乗り対馬島を目指して一気に渡海したのでありましょう」とある(「倭人伝の里程・行路シミュレーション - 邪馬台国の位置」)。


「千余里」について

 この第二行程が千余里とされていることを検討しておく。この航路がはっきりしないので、一里当りの基準も正確には導きだされない。この海峡幅は55kmであり、仮に、「狗邪韓国」辺りから出発したとして、今日の地理における朝鮮半島のプサンから対馬浅茅湾迄の距離を求めると、約100kmになる。ということは、第二行程でも、100km÷1000里として、概ね一里当り約100mを求めることができる。どちらも水行の場合の基準であるが、第一行程の「一里=80〜100m」と合致していることになる。


「對島国に至る」について

 「對島国」は、紹與本では「對馬国」、紹煕本では「對海国」となっている。隋書では「都斯麻」とも書かれている。「對馬」の音表記は「つま」、「つしま」と読めるかどうか。隋書では「都斯麻」とあり、これなら「つしま」と読める。表意的には「馬韓に対する島」と読める。「對海国」の場合は、大陸側から見ての表記と考えられる。語義的に解読すれば、對は漢音でタイ、呉音でツイ(ヰ)、海はカイ、馬は漢音でバ、呉音でメ、どう読んでもツシマとはならない。”ツシマ”は港となる島の義で津島と記すなら問題ない。しかし、「對島国」ないしは「對海国」と記されている。

 これには諸説があって、古田武彦氏は「邪馬台国の方法」で、「倭人伝の記載する地名は『中国の呼び名』である。対海国は、逆に大陸側からとらえた『目』の上にたっているのである」、楠原祐介氏は「地名学が解いた邪馬台国」で、「これまで『対海』は『対馬』の誤記とするのが通説であった。しかし、海と馬は自体はまったく異なる。似ているのは、むしろ発音のほうである」、山田宗睦氏は「魏志倭人伝の世界」で、「島名の倭人音はたぶんトマである。その音に表意文字を当て、『魏志』流には『対海』、倭人流に歯『対馬』となったのであろう」と様々に述べている。「馬」がどうして「海」に化けたのかにつき、草書体では酷似しており、それを楷書体に書き直す際に見間違えたという説もある。書道家の井上悦文(えつふみ)氏の説とのこと。

 いずれの説に従うにせよ、ここでいう「對島國」が、今日の対馬であることには異論ないものと思われる。これを「比定地4、対島国」とする(2011.8.14日現在認定)。古事記上巻、第六段「二神の国生」の条に、「次に津島を生みたまひき。亦の名は天之狭手依比賣と謂ふ」とあるのが、この對島国のことであると思われる。但し、対馬には、「和名類聚抄和名抄」の時代から現在に至るまで、上県郡と下県郡とが存在する。このどちらを「對島國」とするのか、魏の使節がどこの港に寄港したのか、その比定地は不祥である。いずれにしても、この後の「一支国」の「方三百里可り」に比較して「方四百余里可り」とあるので、これに整合せねばならない、という条件がある。上県郡は北島を指し下ノ島と云い、下県郡は南島を指し上ノ島と云うようにややこしい。通説は、南北二島よりなる対馬全島を指すが、上ノ島を云うとする説もある。その根拠は後述する。

 ※「和名類聚抄」は、「和名抄」と略されることが多い。10巻本と20巻本とがある。10巻本は源順(911〜983)の撰。20巻本の方も、平安時代末期迄には成立していたとみられる。本書は、意味によって分類された現存最古の百科事典的性格を持つ漢和辞典となっている。

 対馬を地理的に見た場合、東海岸よりも西海岸の方に良港が恵まれており、風浪を避けて停泊できるいくつもの津や入り江があることからして、使節の航行ルートには西海岸沿いが利用されたものと推定され、このルートを通って浅茅湾辺りの良港に寄港したものと思われる。浅茅湾は、対馬の下島と上島の間の小海峡にあり、湾内は千ほどの入り江を持つリアス式海岸となっている。現在でも緑の小島が点在する波静かな景勝地であり、特に仁位には弥生遺跡も多く、銅矛が多数発見されており、和多津見神社が鎮座しているからして停泊地として有力視される。

 なお、他の候補地として、日本書紀は、神功皇后の新羅討伐の際に、「冬十月 の己 亥の朔 辛丑(かむなづき つちのとの い ついたち かのとのうしのひ)に、和にの津より発ちたまふ」(日本書紀巻第九、「神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年九月ー十月)の条」)との記載があり、北島の和にの津(現在の 浦、対馬北端)から出発したことを明らかにしている。この津も又候補地になるであろう。


補足/対馬の神社について

 対馬には次のような神社がある。参考までに確認しておく。

和多都美神社  わたつみ、対馬上県下県郡豊玉町大字仁位字和宮55番地一の宮、「彦火火出見尊、豐玉姫命」
 (伝承) 原初の神体は磯良エビスと呼ばれる霊石、安曇磯武良の磯武良はイソタケルと読め、五十猛となる。また彦渚武茅葺不合尊のナギサタケはイソタケルの同義となり、五十猛命、磯良、彦渚武が繋がってくる。五十猛命は紀伊の名草に鎮座しており、名草のタケルである。彦ナギサタケに通じる。五十猛命は「韓国伊太氏命」と呼ばれる。茅葺不合尊のウガヤは上伽耶とされ、これまた韓半島の地名である。神々の名に半島の地名が付いている希な共通点が注目される。 「ウガ」には紀州方言で海蛇があり、豊饒の神もウカであるので、今後の解明が待たれる。
天神多久頭魂神社  てんじんたくずたま、対馬上県上県郡上対馬町佐護字洲崎西里286、「多久頭魂命」
 (伝承) 雄嶽雌嶽を持つ天道山に鎮座、社はない。山麓の海辺に磐境形式の祭場がある。
高御魂神社  たかみむすび、対馬下県 下県郡厳原町豆酸字東神田628、「高皇産靈尊」
 (伝承) ご神体がうつほ船に乗って漂着した霊石であるとの伝承がある。皇祖の高皇産霊神と同一神である。
多久頭魂神社  たづくたま、対馬下県 下県郡厳原町大字豆酘字字龍良山1250、「多久頭魂神」
 (伝承) 神離磐境のお社で、古木巨樹鬱蒼としていて、昼もなお暗く、此の辺りの神域は古来天道信仰の聖地として磐境の限りを八丁角と称し、今に至ってもこの神地に立ち入るを忌みている。 
阿麻氏留神社  あまてる、対馬下県 下県郡美津島町小船越字河岸川352、「天日神命」
 (伝承)対馬には俗神[オヒデリ]がある。社がないので廃れかけた所が多いが阿連(厳原町)の里には古い祭祀が」よく残っている。
雷神社
 (伝承) 厳原町にある雷神社に、亀トの儀式が伝わっている。この亀トは、弥生時代朝鮮半島から伝わり、鹿の骨や亀の甲羅をもって吉兆を占ったとある。又、対馬の上原町志多留で、占いに使ったと思われる亀の甲羅が見つかってもいる。それは、大宝律令制定時( 701 年)、朝廷に占部に二十人が配置されたが、その内容は、対馬十名、壱岐と伊豆から各五人とあって、対馬が亀トのふるさとであるかのような記述にも符号する。「魏志」の「その俗に挙事行来云為することあれば、すなわち骨をやいてトする。そして、まず占うところを告げる。その占いのとき方は(中国の)令亀のごとくである。火?(熱によって生じるさけめ)を見て(前兆)を占うのである」とある記述に符合する。

補足/対馬の遺跡について

 対馬の遺跡は、良好な入り江に面して農耕にいくらか適した平地を控えたところにまとまってみられる。その分布は上県郡に多く、特に浅茅湾沿岸に集中している。対馬には次のような遺跡がある。

塔の首遺跡  鉄斧、銅予、銅釧、中国製万格規矩、鏡や、多くの土器類が、女性の歯七個の残された石棺の中で見つかっている。
朝日山古墳  5世紀後半の築造古墳とされている。
三根・遺跡  弥生時代、それも「魏志」にある対馬国の集落ではないかと想定される二基の竪穴住居跡や、四棟以上の高床式倉庫跡が発見され、「対馬の王都の可能性も」との新聞報道もなされている。但し、それを決定的証拠はまだ発見されていない状況にある。 2000年、三根遺跡が発掘され、対馬国の王都説が唱えられた。
井出遺跡  2002年夏、対馬の中央に位置する「三根遺跡」と「井出遺跡」で、日韓合同による発掘調査が行われ、弥生時代前期(紀元前3世紀〜前2世紀)の日韓の土器が発掘された。卑弥呼の時代以前、対馬で日韓交流がなされていたことが証明された。

(私論.私見) 解読取り決め10、方位不記載考

 第二行程の方位が記載されていない点について考察を要する。私見ではあるが、倭人伝においては、方位の記載がないのは自明であるからという理由によるのではないように思われる。むしろ特定のル−トに拠らず複数の地点より出発し得る場合、又は複数の到着地となる場合においては、つまりルートが複数であった場合に限り方位の記載がなしえなかったことにより、敢えて記載が為し得なかったものと了解し得るのではなかろうか。

 つまり、狗邪韓国の特定の港より対馬の特定の港へ至ったのではなく、前述した様に、恐らく天候とか風向き、海流の関係で、朝鮮半島南岸の複数の地点の任意の港より出航するというのが一般的であったのではなかろうかということであり、又到着した対馬の上陸地点も又時々の天候風向きに左右されて複数の任意の地点となっていたのではなかろうかということが推測され、こうした場合においては、方位の記載がなされなかった、為し得なかったものと了解すれば如何であろうか。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


「其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う」について

 「其の大官」とあり、官の前に大が付されている。大が付くのは対馬国だけである点も注目される。よほど重要な地位にあったと推定できる。

 「卑狗」の卑はヒ、狗は漢音でコウ、呉音でク。「卑狗」は、「ヒク」又は「ヒコ」と読まれ、「貴人」を意味する「彦」にあたるものではないかと推測される。これには異説が見当たらない。「卑奴母離」(ひなもり)の奴は漢音でド、呉音でヌ、母は漢音でボウ、呉音でモ、離はリ。これをどう読み解するべきか。一説は、呉音で「日の守」と読め、和語ではヒは日/霊/火、クは所/処、霊処の主、ヌは寝る、モリは守となる。よって、近くで寝てヒを守護する義ともとれる。当時、今日的な意味での「官」としての「彦」と占星術師的な「日の守」とが職掌分担していたと考えられるとする。二説は、日本書紀に「夷守」(ひなもり)とあり、これは辺境を守る人、又は外敵から守る将軍という意味である。同じような意味で「鄙守」という意味に解釈すべきとする。後世のさきもり(岬守・防人)と同じ国防担当官と解する説もあり、この場合、「卑奴母離」(ひなもり)は臨海国に設けられていた官職になる。

(私論.私見) 解読取り決め11、卑奴母離考
 私説は、「卑奴母離」の「卑」が卑弥呼の「卑」と同字であることに注目したい。卑弥呼は「日」の「御子(巫女、弥子)」と解することができるように思われる。してみれば、「卑奴母離」とは卑弥呼系譜にして卑弥呼と同様の職掌を持つ身分の者と云う意味に於いて「日の守」と解したい。「『卑奴母離』という官の置かれた国々は、邪馬台国からみて、地方(夷)とみる意識があったようである」なる言は痴呆というしかない。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

 「卑狗」、「卑奴母離」を対馬国専属の国王ないし官吏と見做すか邪馬台国の派遣官吏と見做すかどうかを廻って説が分かれる。他にも、対馬国と一支国は、官、副官の名前が同じであることが注目される。両国が同一の支配圏にあったと推定できる。

(私論.私見) 解読取り決め12、「卑狗」、「卑奴母離」の官位考
 「卑狗」、「卑奴母離」を当該国専属の国王ないし官吏と見做すか邪馬台国の派遣官吏と見做すかどうかにつき、私説は、通常はそれぞれが「専属の国王ないし官吏」と見なすが、卑弥呼の卑が使われている場合につき、邪馬台国の派遣官吏的地位にあったと看做す。この原則は以降の諸国の官吏にも適用する。卑弥呼の卑が使われている官吏が置かれている国は邪馬台国側がよほど重視していた国であることを意味していることにもなる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「居る所は絶島で」について
 字義による記述通りとする。

「方四百余里可り」について

 「方」とは、通説は面積のことであるとされる。私説もこれに従う。異説として、「方」を四辺形あるいは方形の一辺の長さと考える説、周囲の長さとの説もある。「方**里」を、一辺の長さと見るか、周囲の長さと見るかで、四倍の違いを生ずることになる。私説は、後に「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里可り」とあり、周囲の長さは「周旋」と表記されている節があるので、「方」を「周囲の長さ」とは見ない。「一辺の長さ」と見ると、400里とは一里100mの400倍つまり40kmとなり、仮にこれを正方形求積すると40×40=1600km2となり、対馬の面積に合致しない。因って、これらの説には首肯できない。

 ちなみに現在の対馬は、南北約80km.東西約15km有り、面積約709km2(682km2説もある)である。「方」の意味からして、対馬全島を指すのであれば細長い地形となり叙述と合わなくなることから、ここでは上ノ島(南島)を指しているものと考える説もある。この上ノ島に限ると壱岐島より一回り大きい257km2であり、次に出てくる一支国の方三百里との比率が整合することになる。「古事類苑」所引「日本実測録」によれば、「其の南部を上の島(下県郡)と称し、東西二里二十八町(11km).南北五里二拾町(23km)」と記してあり、現代の地図と比べても正確な記述であることが判る。


「土地は山険しく深林多く」について
 深林とは、深い照葉樹木の森に覆われていたと解釈することができる。

「道路は禽や鹿の径の如し」について
 字義による記述通りとする。

「千余戸有り」について
 戸とは、まさに戸であり人数ではない。人数は一世帯当り仮に10人として×戸数となる。戸と家の違いに家のところで確認する。

「良田は無く」について

 倭の地の特色は稲の国ということにあった。従って、撰者も又田というものに対する関心が深く、諸国を通じてこの観点からの記述を意識的に為しているように思われる。対馬国の場合には、「良田は無く」ということであるから、文字通り田地が乏しい様子が推測される。


「海の物を食べて自活し」について
 字義による記述通りとする。

「船に乗りて南北に市糴す」について
 南北とは、倭国と朝鮮を指していると思われ、「市糴す」とは、市場で米穀を買入ることを云う。つまり、物々交換による交易をしていたものと推測される。

又、南へ、一つの海を渡ること、千余里。名づけて瀚海と曰う。
一大国に至る。
官は亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
方三百里可り。
竹木叢林多く、三千許りの家有り。
いささか田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す。

【総合解説】
 対馬国より一大国へ至る行程が五文意にて述べられている。これを仮に第三行程と為す。

 (逸文)魏略は、「南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里」と記している。

【逐条解説】

「又」について

 「又」を分析すれば、「又」は起点になりうる表現であることを了解しておく必要がある。他に、「従り」、「始めて」、「至」も同じ様に解釈出来る。既に述べたように「到」という字によって導きだされた国は起点にならないという違いがある。


「南へ」について
 既にのべた様に、恐らく星座の位置から割り出す方位法であったと推測するので、定点から目的地に向う方向には誤りはないものの、使節が実際に行程する道中における方位は概略であった、と理解する。この場合は、「定点から目的地に向う」記述であるので誤りはないと思料する。

「一つの海を渡ること」について

「千余里」について
 対馬国より一大国に至る行程つまり第三行程につき検討を加えたい。現在の航路に置き換えて見て、仮に、対馬浅茅湾(対馬の下島.上島の間の小海峡)から壱岐勝本(壱岐島北端)迄の距離を求めると約80kmとなっている(対馬厳原から壱岐国の郷乃浦までは 65キロとなっている)。倭人伝では、これも千余里と為しているので、同様にして一里当りを求めると約80mとなる。従って、ここまでの第一、二、三行程を一括すれば、一里当り65m〜100mとして考えられていることになるであろう。尤もすべて水行距離としてであることが注意されねばならない。

「名づけて瀚海と曰う」について

 対馬海峡のことを云う。海峡幅45キロ説もある。


「一大国に至る」について

 「倭人伝」の刊本、紹煕本は「一大國」としているが、紹與本、梁書、 北史、翰苑では「一支國」と記載されており、通説は「一支國」に従う。私説も又「一支國」説に従い大過ないものとする。これを「比定地5、一支国」とする(2011.8.14日現在認定)。隋書、通典も「一支國」とするが、対馬から東と書かれていることから壱岐ではなく、沖ノ島の可能性もあるという余地を残している。ちなみに古事記では「伊伎」、日本書紀では「壱岐」、国造本紀では「伊吉」と表記されている。

 語義的に解読すれば、一は漢音でイツ、呉音でイチ、大は漢音でタイ、呉音でダイ。「一大國」は、漢音でイツタイ、呉音でイチダイと読む。壱岐は後に石田と壱岐の二郡に分れ、石田は万葉集に「伊波多イハタ」、和名抄で「伊之太イシタ」と称されたという(「楽しい人生 魏志倭人伝」)。石田のイは接頭語、シは岸、タは場所、方向をあらわす接尾語で水路にあたる処。魏略では一=壱、支=シ。一支=壱支(イツシ)となる。イチシと読めば壱岐イキに近い。支、岐はともに万葉仮名ではキとなる。イ(斉)は接頭語で、キは神霊の根源の基、伊邪那岐のごとく神名の語尾の尊称、場所を示す処(大分県古地名の語源と地誌 古国府歴史研究会)となる。壱岐には神聖なイメージがあった。書道家の井上悦文(えつふみ)氏の説では、草書体では酷似しているので「支」を「大」に読み間違えたとのことである。

 「一支國」を、現在の壱岐島(長崎県壱岐郡)に比定することに異存ないものと思われる。現在の壱岐島は、南北約14km.東西約12kmで面積約139km2である。「古事類苑」記載「地部」の項によれば、「東西凡そ三里余、南北凡そ四里余」とある。

 壱岐島は、対馬とは対照的に比較的穏やかな起伏の少ない低台地が広がり、その間に若干の広さをもった水田が点々としている。勝本.郷ノ浦.芦辺.石田の四町で一郡をなしている。沿岸には対馬暖流が流れ、イカ.イワシなど各種水産資源の豊庫となっている。壱岐島の東南部に広がる深江田原が島内でもっとも広い平野であり、代表的な遺跡は、芦辺町原の辻遺跡と勝本町のカラカミ遺跡である。他に、壱岐島で最古のものと考えられている吉ケ崎遺跡(郷ノ浦町片原触)等がある。

 但し、魏の使節が壱岐島のどこに寄港したのか、その比定地は不祥である。


補足/古事記の「伊伎」、日本書紀の「壱岐」考
 古事記は次のように記している。
 「かく言い終えて御合みあひして、生める子は、淡道(あわじ)の穂の狭別島(さわけのしま)、次に伊予の二名(ふたな) の島を生みき。この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。(中略) 次に隠伎の三つ子 の島を生みき。またの名を天之忍許呂別(あめのおしころわけ)、次に筑紫島を生みき。この島もまた身ひとつにして面 四つあり。面毎に名あり。(中略) 次に伊伎島(いきのしま)を生みき、またの名を天之比登都 柱(あめのひとつばしら)という。次に津島を生みき(中略) 次に佐渡島を生みき。次に大倭豊秋津島 (おおやまととよあきつしま)を生みき。またの名は天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきつねわけ)という。故 この八島を先に生めるによりて、大八島国(おおやしまぐに)といふ」。

補足/壱岐の神社について

 壱岐には次のような神社がある。

住吉神社 壱岐壱岐 壱岐郡芦辺町住吉東触470、「底筒男神、中筒男神、表筒男神 配 八千戈神」
 (伝承) 住吉神は和多都美と並ぶ生み神である。外海へ出る人々が往還に祀ったのである。 摂津−長門−下関−筑前−壱岐−対馬と続く住吉社の配列は、畿内から朝鮮へ渡る海路の要衝に当たる。
兵主神社 壱岐壱岐 壱岐郡芦辺町深江東1616、「素盞嗚命、大己貴命、事代主命」
 (伝承) 
左肆布津神社 壱岐石田 壱岐郡芦辺町箱崎大左右触1146番地、「武甕槌命」
 (伝承) 
天手長男神社 あめのたながを、壱岐石田 壱岐郡郷ノ浦町物部田中触730 、「手力男命、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、天宇豆女命」
 (伝承) 式内社の手長比賣神社、当社、物部布都神社が同居している。鉢形山は見るからに神奈備山である。古代祭祀の中心地であったろう。一の宮。
国律神社 壱岐石田 壱岐郡郷ノ浦町渡良浦1148
 (伝承) (物部布都神社)社記に阿良波加大明神とある。

【補足/壱岐の遺跡について】
 壱岐には次のような遺跡がある。
 原の辻遺跡
 長崎県壱岐市芦辺町深江栄触・深江鶴亀触、および同市石田町石田西触にかけて存在する遺跡。島の南端の原ノ辻に古代の住居跡があり、中央の住吉神社は、神功皇后征伐韓国のとき、この地を通過したところと云われている。石田町、芦辺町の幡鉾川に面した低丘陵上にあり、ここが三世紀の一支國の中心地/王都であったと推定されている。弥生時代の全期間にわたって大規模な集落遺跡が見いだされている。

 1951(昭和26)から52(昭和27)年にかけて発掘調査され、弥生時代前期から古墳時代初頭頃まで存続した大規模集落遺跡で、多重環濠や、高床の建物や倉庫群が並んでいた祭儀場の跡、九州や朝鮮半島との海を隔てた交流を裏付ける国内最古の船着き場跡や、交易用の棹秤のおもり(権)、朝鮮系無文土器、中国の銅銭(紀元前一世紀頃の「新」の時代の通貨である「貸泉」)などが出土している。鉄製の斧、鎌、鍬や釣り針からは鉄?と呼ばれるものまでが出土した。これは、「魏志辰韓伝」の「(辰韓で)鉄を出す。韓、澁、倭、みなしたがってこれを取る。もろもろの市買はみな鉄をもらう、中国で銭を用いるがごとし」とあるのに符号してくる。

 韓国の李動恒氏は、「韓半島からきた倭国」で次のように述べている。
 「はなはだ理解しにくいことは、倭人がきて鉄を採っていたということである。倭は、日本列島の住民だという見解を以ってすれば、到底理解できなくなる。いかに鉄が貴重料であっても、それを搾取するために、帆船でもない小舟に乗って、海を渡ってくるのは、絶対に不可能だとはいえないにせよ、いかにも無理なことだと思わねばならないようだからである」。

 日本で「鉄」の製造が始まる時期が特定できないが、原の辻遺跡で見つかった鉄類、斧、鎌、鍬などは、すべて小舟によって壱岐にもたらされた可能性が高い。


 1976(昭和51)年の調査で、祭祀場、水田、船着場や小貝塚を含む甕棺墓や箱式棺墓、銅鏡一面及びまが玉、管玉などの多くの玉類、中国の貨泉が発見されている。
 1993(平成5)年の再調査によって、この原の辻遺跡が、「魏志」にある一支国の中心部、すなわち王都であると、長崎県教育委員会が発表した。「原の辻遺跡は三重環濠を備え、その内部集落部分の面積が、約 25 ヘクタールで、佐賀県神崎郡の吉野ヶ里遺跡と並び、全国でも最大級、魏志倭人伝に記された国々の中で、名前がわかっている国の中心となる集落が確認されたのは初めて」と報じられた。
 1997(平成9)年、国の史跡に指定された。
 2000(平成12)年、国の特別史跡に指定された。
 唐神(カラカミ)遺跡
 長崎県壱岐市勝本町立石東触にある弥生時代の環濠集落遺跡。壱岐市指定史跡に指定されている。原の辻遺跡から約6キロメートルに位置しており構成集落の1つとされる。主な遺構は、環濠 - 幅3.5メートル、深さ60センチメートル、墓地、住居址、貝塚、地上炉( 2013年に弥生時代後期の鉄の地上炉跡が発見された)。壱岐島内の鉄加工拠点だったことが見て取れる。主な出土遺物は石器のほか、鉄製の銛(もり)、釣り針、鎌、鉄鏃(てつぞく)、槍鉋、と薄などの鉄器が出土している。そのほか多数の動物遺体が出土しており、家畜としてのイヌ、ネコ、ウマのほかドブネズミ、鳥類、漁業対象である魚骨、クジラ、イルカ、アシカ、シャチなどが出土している。貝類ではカキ、アワビ、サザエ、オキシジミが出土しているほかウニの殻も出土している。出土土器のうちには、「周」の刻字を有する弥生時代後期の土器片があり、漢字が記された土器としては国内最古級とされる。 

 2014(平成26).4.13日、長崎県壱岐市の弥生集落カラカミ遺跡で、国内で初めて弥生時代後期(紀元1〜3世紀ごろ)の鉄生産用の地上炉跡が少なくとも6基確認されたと同市教委が明らかにした。いずれも床面に直接炉を築く地上式で、炉壁や焼け土、炭の堆積(たいせき)層が良好に残っていた。国内で確認されている地面に穴を掘り込む鍛冶炉とは違い、韓国南部の勒島(ヌクト)遺跡などに見られるタイプと似ているという。後期中ごろの炉跡1基は、工房とみられる長さ8メートル余りの長円形の建物内にある。炉を高温にするため風を送るふいごの羽口(送風管)や鉄滓(てっさい、鉄くず)、棒状の鉄素材、鉄成分が付いたたたき石、砥石(といし)なども出土した。弥生社会で明確に確認されていない精錬炉の可能性もあり、日本列島の鉄文化の起源に迫る発見となっている
 串山ミルメ浦(くしやまみるめうら)遺跡
 壱岐島の最北端・勝本町の勝本港の北にある古墳時代の生産遺跡。かつて島であった串山は陸化して半島状を呈し、その中央部のイルカ池の西手の内海と、東側の外海に挟まれた砂丘上(標高五メートル前後)にある。1980(昭和55)、1989(昭和63-平成元年に発掘調査。遺構は住居跡一棟・炉跡二基・石組カマド二基・土坑墓一基および帯状の配石遺構二ヵ所などが検出されている。住居跡は隅丸方形に近い竪穴住居で、主軸の長さ四・七メートル、幅三メートル、床面から甑・把手付甕の破片類が出土しており、七世紀前半頃と考えられる。大量のアワビ殻と、干しアワビを作るための作業が発見されている。律令制度の税制「租庸調(そ・よう・ちょう)」において、壱岐国からは「調」として干しアワビを納めていたことが古文書に記されている。
 勝本町立石山頂遺跡
 刈田院川上流北方の標高60メートル前後の丘陵上に位置している。銅鏡の破片、金海式土器等朝鮮半島との関連が認められる遺物が多数出土される。王都の特別史跡・原の辻遺跡とともに、弥生の環濠(かんごう)集落跡として知られる。

【補足/「壱岐のお国自慢」について】
 現在の壱岐の島の特色として、漁業と農業、観光の島として知られる。2004年3月から壱岐市となり、近年、豪華客船「飛鳥」や「ビーナス」「日本丸」が寄港するようになり往来が楽になっている。次のようなお国自慢がある。古事記に記された歴史の古い島であり、古事記発祥の地とも云われる。古事記編纂の前に対馬と共に壱岐から卜部氏5人が奈良朝へ招聘され神代の部を語ったとされている。稗田阿礼は壱岐系との説もある。玄海の宝来島として古来から宝の島の伝承がある。住吉神社発祥の地、月読神社発祥の地、内海湾の初日の出は「日本」国名の起源となったとの説がある、邪馬台国発祥の島 その証拠に紀元前からの”一大国”の王都、「原の辻」遺跡がある。「春一番」名の発祥の地(郷ノ浦、元居公園に記念塔)。離島には珍しい温泉の湧く島。「天一柱」(あめのひとつはしら)と言われ国生み神話で御柱があったとされる島云々。

「官は亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う」について

「方三百里可り」について

 ここで、対馬と壱岐との面積について考察しておくことも意味があると思われる。「方四百里」と「方三百里」の差は約1.3倍差であることになるが、対馬の実際の面積は約709km2であり、壱岐の実際の面積は約139km2であることからすると、約5倍の面積差があることになる。このことから考えると、「方四百里」と「方三百里」の記載は不正確であることになり、この不正確さは、倭人伝の記載全体を覆うこの程度の信憑性として理解すべきものであるのか、当時の測量技術的な問題として面積についてのみ限定的にとらえるべきものであるのか、又は「方」についての解釈の仕方が間違っているのかのいずれかに見解が分かれるところであるように思われる。但し、対馬を上ノ島と考える異説もあり、この場合であれば257km2であり、約1.84倍差となることから問題を生じない。


「竹木叢林多く」について
 字義による記述通りとする。

「三千許りの家有り」について 

 倭人伝記載の「家」表示は、他の諸国が「戸」で表示されているにも拘わらず、一支国と不弥国の項においては「家」表記されている。「単位が違うのは、交易が行われる夏季と行われない冬季とで人口が変化する流動的な集落構成だったためではないか」の説がある。

(私論.私見) 解読取り決め13、「戸」と「家」の表記区別考

 「戸」と「家」とどう違いがあるのか判然としない。さしあたりは同じように解釈して差し支えないものと思われるが、「戸」と「家」の表記区別は単なる表記修辞と見做すより、「戸」文化と「家」文化の相違なのではなかろうか。

 「家」表記されている一支国と不弥国の間にの何らかの緊密な関連を窺わせるものとして受けとめるべきではなかろうか。私説は、一支国から不弥国へ向かう別ルートが存在していたことを伺うものとする。つまり、倭人伝では、一支国より末盧国のルートを順次としているが、いわば裏ルートとしての一支国から不弥国航路が存在していたこと、ないしは二国が同一支配文化圏であることの「筆法」的表現でなかったかと思われる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「いささか田地有り」について
 字義による記述通りとする。

「田を耕せども猶食うに足らず」について
 字義による記述通りとする。

「亦南北に市糴す」について

 古代の朝鮮半島と北部九州を結ぶ航路は二つあった。唐津湾から壱岐対馬を経るルートと、もう一つは博多湾から出発して壱岐対馬を通るルートである。


又、一つの海を渡ること、千余里にして、末盧国に至る。

四千余戸有り。
山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、行くに前が見えず。
人々は好く魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。

【総合解説】
 一大国より末盧国へ至る行程が、四文意にて記されている。これを仮に第四行程と為す。いよいよ今日の日本列島本土に上陸したことになる。
 逸文魏略は、「又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也」と記している。

【逐条解説】

「又、一つの海を渡ること」について

 字義による記述通りとする。

「千余里にして」について

 一支国より末盧国へ至る行程を第四行程と考えると、この間も又「千余里」と記載されている。魏の使節の上陸地を廻っては、1.「呼子」港説、2.唐津港説、3.佐世保港説等々がある。通説の比定地を現在の航路に直して、仮に壱岐勝本から唐津迄の距離を求めると約50キロ、壱岐の石田から唐津までの距離は約40キロ、壱岐の南端から東松浦半島北端の「呼子港」を考えた場合には約30キロとなる。これを一里当りに直すと50m、あるいはそれ以下ということになる。

 ここまでのまとめ方に従って第一、二、三、四行程を一括すれば、一里当り50m〜100mとして考えられているということになるであろうが、何分50mと100mとでは違いが大きすぎることになり、倭人伝の撰者の里程感覚がそこまで杜撰であったとは思えない。壱岐勝本から唐津迄の距離約50キロは、一里凡そ100m前後に従えば、むしろ五百余里とした方が正確であり語調も問題ない。

 となると、考えられることは、倭人伝の筆者が、一般に海を越せばなべて「千余里」と大雑把に考えていたと為す場合、又は一大国より末盧国へ至る比定航路が違う場合の二通りである。先に、対馬と一支の面積の記述に実際とは相当かけ離れた仕方が為されていたことを思えば、またしても大雑把な記述に出会ったものとやり過ごすこともできる。但し、測量技術的に見て面積の求積と線の測定とでは、線の測定の方が誤差が少ないものと考えるのが普通であろう。とすれば、面積で大雑把であったことが必ずしも線の測定も又大雑把であると結論づける必要はないのではなかろうか。つまり、残すところは一大国より末盧国へ至る比定航路が違うのではないか、つまり通説の末盧国の比定が間違っているのでないかと主張し得ることとなる。

(私論.私見) 解読取り決め14、末盧国比定条件考
 それでは末盧国をどこに比定するのかということになる。私説は、第三行程が千余里であり、第四行程も又千余里と記載されている以上、第三行程の距離と等間隔にあたる地への比定が条件とされるとしたい。となると、この距離を半径としてコンパスで円を描き、該当地を確認せねばならないことになる。これによれば、西は長崎県の五島列島から、東は福岡県の宗像郡あたりまでの北九州沿岸の任意の地点に比定することが可能となる。正確には、この任意の地点より、この後に続く伊都国の比定地との整合性を持つ地点ということになるであろう。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

「末盧国に至る」について

 語義的に解読すれば、「末盧」は通常「マツロ」、古事記では、マツラ(末羅)と読まれる。

 マツラはマヅラに通音し、はじめ末羅であったが、のちに松浦の字をあててマツラと呼ぶようになった。日本書紀巻第九、神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月ー四月の条に「因りて竿を挙げて、乃ち細鱗魚を獲つ。時に皇后の曰はく、梅豆邏國と曰ふ。今、松浦と謂ふは訛れるなり」とある。

 日本書紀巻第九神功皇后摂政前紀に松浦潟の玉島川で神功皇后が祈(うけ)ひて、竿をたれたところ、細鱗魚(あゆ)を獲た。「希見(梅豆邏志めずらし)き物なり」といわれたことから、そこを梅豆邏國(めずらのくに)といい、これが訛って松浦となったという記述がある。


「末盧国比定地諸説考
 末盧国比定地諸説を考察する。通説は、現在の佐賀県東松浦郡.西松浦郡.北松浦郡の地一帯に当てており、1・松浦半島の北端の呼子港を停泊地に予定する「呼子説」と2・「唐津説」、3・糸島郡前原町の「三雲、井原、平原付近」説に分かれる。しかし、通説のこの比定地では里程が合わない。そこで、異説を登場させることとする。外にも東寄りに4・神湊説、5・「福岡説」、西寄りに6・「佐世保港説」、7・西彼杵(にしそのぎ)半島説、8・「伊万里港説」等々がある。

 いずれにせよ、通説の末盧国=松浦半島唐津市説は、距離的な直線最短コ-スであることを踏まえて、たまたま「マツラ.マツロ」と「マツウラ」との音訳比定に拠っていると思われるが、1・里程が合わないという欠陥、2・当時の海岸線を想定した場合、糸島水道に隔てられた島である可能性、3・見かけの距離とは別に潮流の関係で航路となりにくいという理由により、比定地の間違いとして共通の認識となるべきであると思われる。  

 1、通説は次の通りである。
呼子港説  松浦半島北端の呼子港は、壱岐と九州本土とを結ぶ最短距離にある良港であることにより比定される。半島の北端にある東松浦郡鎮西町名護屋は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときの基地として有名で、付近一帯は玄海国定公園の一部となっている。
唐津市説  佐賀県唐津市。唐津は、派遣唐使いが発着した港唐の津から生じたとされる。この場合は、唐津市宇木汲田遺跡や桜馬場遺跡の唐津市柏崎.桜馬場地区をあてる。水田跡と炭化米が発見されている。参考遺跡として、宇木汲田遺跡(唐津市宇木。弥生前期から中期の遺跡。鏡、銅剣、銅矛、石斧、石包丁、石鏃)、甕棺墓遺跡、菜畑遺跡、唐津市柏崎遺跡群や唐津市桜馬場遺跡(甕棺墓.後漢鏡.銅釧.円形銅器.鉄刀.ガラス玉)がある。
糸島郡前原町説  糸島郡前原町の「三雲、井原、平原付近」説

 他に、東寄り説、西寄り説がある。これを図示する。
【東寄り説】
神湊説  「神湊」とは、北九州北岸の現・福岡県宗像郡玄海町神湊のことである。現在でも白い砂浜が弓のような半月形を描いて4〜5キロも続いている。 
福岡説  高津道昭氏は、その著書「邪馬台国に雪は降らない」の中で、「福岡説」を主張している。他に、坂田隆氏「卑弥呼と邪馬台国」でも、福岡県遠賀郡岡垣町波津.吉木近辺説が主張されている。
【西寄り説】
佐世保港説  佐世保説は、ここからなら南に向かって水行も陸行もできるという根拠に支えられている。この説をとる人は、中国人学者が多い。
西彼杵(にしそのぎ)半島説  長崎県佐世保の南にある。壱岐から千余里の海岸を地図上のコンパスで弧を描けば、この地も該当することになる。
伊万里港説

 松浦県(まつらがた)に関して、万葉集に次の歌がある。
 「佐用比賣(さよひめ)の子が 領布(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ」
 (山上憶良の万868)。 
 「足姫(たらしひめ) 御船泊(はて)てけむ 松浦(まつら)の海 妹が待つべき 月は経につつ」
 (万3685)。

二番目の歌は万葉集巻15にある歌で、「天平8年丙子夏6月、使を新羅に遣はしし時、使人等各別を悲しみて贈りて答へる、また海路の上に旅を慟み思を陳べて作れる歌、また所に當りて誦詠へる古き歌」という詞書がある。松浦は当時新羅や中国へ船出する港であった。


補足/「当時の海岸線」について
 私説は、次のことを重視する。「当時の海岸線」に対して一考せねばならない。かって、盲目の詩人宮崎康平氏による「まぼろしの邪馬台国」が上宰され、邪馬台国ブームを盛り上げることに一役を買ったが、同氏の邪馬台国ほか諸国の比定については評価がかんばしくないものの、その著書の中で指摘された、当時の「海岸線の復元思考」は価値ある一石であったと思われる。同氏曰く、現在の海岸線と邪馬台国時代のそれを区別することが肝要であり、仮に弥生海岸と名付けられたそれは、現在の地図でいう等高線の5〜10メ−トル辺りの範囲はかっては海域であり、後次第に陸化していったものであるものと推測される云々。

 その著書「幻の邪馬台国」の該当部を抜粋すると、次のように述べている。
 「現在の加布里付近から今津湾までは完全な海峡で、大きく云って、 博多湾と唐津湾はつながっていたのである。この海峡のことを地質学では糸島水道とよぶのだそうだ。----九州大学名誉教授の山崎光夫博士が、考古学者の意見を取り入れて、専門的な地質学の立場から作成された、弥生期の博多湾一帯の地図があるので、これによって記入された弥生線と現在の町の関係を比較してみると、当時の様子がよくわかる。おおむねこの弥生線の近くが、邪馬台国時代の海岸線と考えてもいいだろう」。

(私論.私見)  解読取り決め15、当時の海岸線復元論

 宮崎康平氏の「海岸線の復元思考」指摘にも関わらず、旧態依然の比定地論争が繰り広げられていることは惜しまれる。当時の海岸線復元論は当たり前の指摘であり、これに従うものとする。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

補足/「当時の船と海流の関係」について
 高木彬光氏は、その著書の中で、帆船航路による「神湊到着説」を唱えている。氏は、自然地理学的な事実の認識の重要性を指摘し、魏の使節が訪れた時期の考察と、使節が乗ったと思われる船とその航路の推測に情熱を傾け、概略次のように述べている。
 「対馬海峡、壱岐水道を経て北九州の海岸線の何処かに辿り着こうとする場合には、現在の汽船であれば直線コ−スをとることはできるが、当時の使節を載せた船は、漕ぎ船又は帆船又はその併用型と想像され、この場合は順風に恵まれた近距離を航海する場合は別にして、普通は直線コ−スをとれず、風向きの都合に左右される。今日においても朝鮮から北九州を経る水域は、航行が容易ではなく、経験的な知識を集積して、もっとも航海条件のいい順路を選ぶことが肝心となる程に風と海峡の流れの測定が大事な水域であり、赤道から日本に向かって北東に流れる海流は、九州本土にぶつかって黒潮と対馬海流に分かれるが、古代の人々の航海感覚からすれば、かなりな激流を踏破する感じであったと推測される。現在でも風速が秒速15メートルの風となって来ると忽ち遭難の危険にさらされ、風速が秒速8メ−トルを越すと帆船の航行は危険にさらされる。史上元冦の二度の失敗が玄界灘の大暴風雨襲来に曝された歴史的事実はその証左である。魏の使節を載せた船は、適宜な季節の好き日をみはらかって「吹送流」(西または西南の風が吹くと風が海流の表面を後押しするような流れの現象となる)の助けを借りてやって来たに違いない。そうすると、使節の到着地点は自ずと定まり」云々。

 こうして、氏は、末盧国を北九州北岸の「神湊」に比定することとなる。

 東京商船大学名誉教授・茂在寅男氏も「神湊説」を有力説とする。氏は、壱岐・対馬の現在にも伝わる船の下に帆を張るという変わった帆の使い方=潮帆(しおうぼ)に注目して、当時の帆船もそうであったと推定する。潮帆は、潮夕(ちょうせき)と海流が強いための工夫から生み出された帆船であり、壱岐からの黒潮の分派の流れに乗って辿り着くところを比定すれば「神湊」は自然推力で辿り付く事のできるヶ所になるという。雑誌ムーの2001.11月号の「猪群山ストーンサークルは卑弥呼の墓だった」(山上智)によれば、この地の「年毛(としも)神社」所蔵の古文書に「古来、この辺りは万津浦(まつうら)と呼ばれていた」と記す文書があると云う。

【れんだいこの比定する末盧国とは】
 末盧国をどこの地に比定するかが肝心となる。末盧国は倭国の玄関口に当り、これをどこへ持って来るかで後の地名比定も大いに影響を蒙る訳であるから、軽率には定めがたい。私説は、末盧国を「糸島郡前原町の三雲、井原、平原付近から神湊、宗像までの範囲」と比定して、魏の使節到着地を神湊ないしは宗像に比定することとする。これを「比定地6、末盧国」とする(2011.8.14日現在認定)。壱岐勝本より神湊迄の実際の距離は約**kmである。一支国よりの里程及び伊都国との整合性より導きだされる比定であり、こう考えて疑問を残さない。これを史料により裏付けると、古事記中巻の、神功皇后新羅征討のくだりに、「亦筑紫の末羅県の玉島豊に到り坐して」という記述があり、筑紫国における末羅県の存在が確かめられてもいる。

 通説は伊都国に比定する地であるが、伊都国については後に述べるように内陸地を確信しているので、この土地こそ末盧国と比定することとしたい。この地域には標高416mの高祖山があり、456から768年に大和朝廷の命によって吉備真備が対新羅戦争の爲怡土城を築いたことで知られており、この地は、東に博多平野、北に糸島水道、西に糸島平野を擁しており宮城所在地としての地勢的条件を備えているとされる。

 それでは、「福岡説」ではどうなるのであろうか。壱岐勝本より福岡市迄の距離は約75kmであり、これを一里100m前後で里程を求めると約750里となり、道中迂回しながらの航行であったとすれば千余里の記述とさほど齟齬をきたさないことになる。魏使の諸国歴訪を踏まえた航行コ-スとしては糸島半島以西辺りへ向かうことも充分考えられることと思われる。音訳比定としては、「マツラ.マツロ」と「マツバラ」も近く、「マツバラ」を松原と読めば、博多湾には百地松原、西隣の今津湾には生之松原等類似音地名には事欠かない。

「方位の記載がない」ことについて

 ここでも一大国から末盧国までの方向が記載されていない。第二行程と同じく、「複数の地点の出発地乃至複数の到着地」になっていたものと思われる。


「末盧国には官名の記載がなされていない」ことについて

 末盧国には官吏の記載がない。

(私論.私見)  解読取り決め16、末盧国官吏不在考
 末盧国には官吏の記載がないことにつき、後の伊都国との絡みにおいて、末盧国が実際には伊都国の統治下に置かれていたことを推測させる。後の42小節の邪馬台国の下りで「女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを憚る。伊都國で常治し、他の国でも置かれている刺史の如きものである」なる記述が出てくる。これによると、「一大率」(いちだいそつ)が一大(壱岐)国、末盧国、伊都国から邪馬台国間を検察していたことになる。一大率が伊都国に置かれていたことにより末盧国には官が不要であったと考えられる。こうして、末盧国は行政的には伊都国の官の管轄下にあり、外交面でも一大卒の検察下にあったとみることにより末盧国官吏不在が整合的に理解される。「官の名前が書いてないのは使者が上陸しなかったことを思わせる」なる解釈が見受けられるが、使者の上陸有無と官の不記載は関係なかろう。別説に「魏志倭人傳に出てくる末盧(まつろ)國は女王國に属していません。末盧國には加盟国としての官も副も記録されていないからです」がある。私説は、「女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを憚る。伊都國で常治し、他の国でも置かれている刺史の如きものである」に添って解したい。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「四千余戸有り」について
 字義による記述通りとする。

「山海の水ぎわに居る」について

 いずれにしても、山が直接海岸にせまっているという地形であることを表現しているものと思われる。


「行くに前が見えず」について

 この記述をうっかりして見過ごしがちであるが、これを倭国の特徴に対する的確な表現として捉える必要がある。魏の使節からみて、他の諸国に比較してみた場合、対馬は深林多く、一支国は竹木叢林多く、末盧国は草木茂盛であることが大きな特徴であったものと推測される。このことは又倭国全体の共通項として認識しておきたいように思われる。


「人々は好く魚や鰒を捕らえる」について

 通説は、「好く」を「好んで」と解釈しているが、この個所は、「魏略」や「御覧魏志」では、「善捕魚」となっており、このことから考えると「好(能)く魚や鰒を捕らえる」と理解されるべきだということになる。

 参考までに記すと、この魚や鰒を捕らえる倭人の能力は伝統的であったようであり、「水停まりて流れず。中に魚を見るも捕ることを得ず。倭の網をよくするを聞き、東に倭人国を撃ちて千余家を得、秦水の上に置きて魚を捕らしめ糧食を助く」(後漢書鳥桓鮮卑列伝)とある記述もこれを証左している。


「水の深い浅い無く」について
 字義による記述通りとする。

「皆沈没して之を取る」について
 字義による記述通りとする。神湊、宗像の古来からの伝統として今もなお「海女、海男」による素潜り漁が息づいている。

東南へ 陸行すること 五百里にして、伊都国に到る。

官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。
余戸有り。

世々王有るも、皆女王国が統属す。

郡使が往来するとき常に駐まる所なり。

【総合解説】
 末盧国より伊都国へ到る行程が、五文意にて記述されている。これを仮に第五行程と為す。

 (逸文)魏略では、「其國王皆属女王也で伊都國の王は皆、女王に属す」とある。

【逐条解説】

「東南へ」について

 ここで「東南」の正確さが問題となる。恐らく、使節の位置している定点と星座と目印の山との按配から指標している方位と思われる。この場合、正確な方位と看做すべきか、概略の方向として理解すべきかが問題となる。


「陸行すること」について
 「陸行する」をどう解するべきか。
(私論.私見)  解読取り決め17、伊都国の陸行行程考
 奇妙なことに従来この「陸行すること」について考察されることがない。恐らく、通説による末盧国松浦半島、伊都国糸島半島辺りの比定により漫然と見過ごされてきたものと思われる。倭人伝の里程の記述の仕方を総見すれば、水行が自然であれば単に水行と記述されており、陸行が自然であれば単に陸行と記述されておると思われる。そういう意味において、第一行程「郡より狗邪韓国」、二行程「狗邪韓国より対馬国」、三行程「対馬国より壱岐国」、四行程「壱岐国より末盧国」はいずれも水行であった。この第五行程「末盧国より伊都国」にして初めて陸行が記述されているのであり、陸行で行くのが自然であったか、もしくは陸行でしか行けなかったものと推測される。

 ここまでの諸国へ至る記述の仕方と伊都国以降の諸国へ至る記述のそれとを比べて見て、単に「陸行すること」とあるのは、上述の如く考えるべきであるということを力説したい。つまり、伊都国はどうやら内陸地にある国であるという推測が成り立つのである。こう理解しないと「陸行すること」の意味が見えてこないことになる。

 これに従えば、第六行程「奴国へ到る道」、第七行程「不弥国へ到る道」には、水行陸行の別無く単に方位と里程のみが記されており、これは逆に水行陸行どちらでも行き来できたことが推測される。こうして、第八行程「投馬国へ到る道」は水行とあるからには、当然同じ見地により、水行で行くのが自然か叉は水行でしか行けないと解するべきであろう。これによると、第九行程「邪馬台国へ至る道」の「水行十日陸行一月」は、水行で十日の里程、陸行で一月の里程という両行程の道行又はそのいずれかであったものと思われる。

 以上の総見により、伊都国へ至る陸行の記述は、明らかに伊都国が内陸地に存在していたことを証左しているものと推測し得る。この点については、通説も異説もなべて間違っており、伊都国の比定は最初からやり直さねばならないものと心得る。れんだいこのこの私説が卓見として評価される時が来るだろうか。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「五百里にして」について
 通説の末盧国唐津市付近より通説の前原町付近を求めると約25キロとなる。500里は長里で200km、短里で50kmとなり、短里に従ってさえ、この25キロは、これまでの里程感覚80mから100mとされるその半分の距離にみたない。ということは、ここでも通説の前原町の比定が間違っているのではないかということを推定させる。但し、この「五百里」は陸行であるから、これまでに求めた水行の一里100m基準がそのまま通用するかどうかは判然としない点は残る。

「伊都国に」について

 「伊都国」は「イト」又は「イツ」と読まれる。語義的には、イは胆嚢の古語。ト(甲類)は処、戸、門で場所を表す接尾語、区画相互の間を遮断し、その出入りのために設けた施設、門を構え、戸を設ける。また、河や海などの両方がせまって、地勢的に出入口のようになっているところをもいう(字訓)。「イツ」は厳に通じ、「神聖な」「神霊の威光」といった語感がある。この国は、代々伊都之尾羽張神の治める国として知られる。伊都之尾羽張神は、又の名を尾羽張神といい、海や川の航行.長い剣をつくる技術にすぐれていた。

 日本書紀巻第八、仲哀天皇二年七月ー八年正月の条に次のようにしるされている。

 「筑紫の伊覩縣主(いとのあがたぬし)の祖(おや)五十と手(いととて)、天皇(すめらみこと)の行(いでま)すを聞(うけたまわり) て、五百枝の賢(いほえさか)木を抜(きこ)じ取りて、船のともへに立てて、上枝(かみつえ)には八尺(やさか)にを掛(とりか)け、中枝(なかつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下枝(しもつえ)には十握剣を掛けて、穴門(あなと)の引嶋(ひこしま)に参迎(まうむか)へ獻る。(中略)天皇、即ち五十と手を美(ほいそし)めたまひて、伊蘇志と曰う。故、時人、五十と手が本土(もとのくに)を號(なづ)けて、伊蘇國(いそのくに)と曰ふ。今、伊覩と謂ふは訛れるなり」。

「伊都国比定地諸説考」

 この伊都国をどこの地に比定するかも重要である。通説は、1・筑前怡土郡.早良郡、現在の福岡県糸島郡地方に比定する。他に2・赤池村説、3・伊都国豊前市説等がある。

 1、筑前怡土郡.早良郡、現在の福岡県糸島郡地方説
 
 通説である。糸島郡は旧は前原町のある南側地域を怡土郡、北側地域を志摩郡といった。明治29年合併して糸島郡となった。この糸島郡前原町の、「三雲、井原、平原付近」が比定されている。前原市には築山古墳、靖山古墳、孤塚古墳、福岡との境に近い井原地区にはワレ塚古墳、平原遺跡などが集中する。ここには「伊都歴史資料館」がある。この地域には標高416mの高祖山があり、456から768年、大和朝廷の命によって吉備真備が対新羅戦争の爲怡土城を築いたことで知られている。この地は、東に博多平野、北に糸島水道、西に糸島平野を擁しており宮城所在地としての地勢的条件を備えているとされる。
 ○三雲南小路遺跡について

 鏡や銅器が発見。幻の壁と呼ばれているガラス製はり壁の破片が発掘された。はり壁は、当時、王候のシンボルとして天子から与えられ、政治.祭祀などに使用されたもので、国王の墓に副葬品として埋められたことがわかっている。

 この遺跡は江戸時代の1822(文政5)に発見された。「柳園古器略考」(青柳種信著)が発見当時の様子を記録している。「深三尺餘、腹經二尺許」即ち、高さが90cm以上、胴の直径が約60cmの巨大な甕棺が二つ、口を合わせて(合せ甕棺)埋められていた(1号甕棺)と書かれている。銅鏡35面を含む豪華な副葬品もあったが、その後散逸し、僅かに博多の聖福寺に銅鏡一面と銅剣一本が伝えられているのみとなっている。最初の発見から150年後の1975(昭和50)年、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な合せ甕棺(2号甕棺)が発見された。これも盗掘されていたが、副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉1個、ガラス製の管玉2個、ガラス製の垂飾1個などが出土している。同時に、1号甕棺があったと思われる場所から江戸時代に取り残したと見られるガラスの璧(へき)*8枚、金銅製四葉座金具8個分が見つかった。銅鏡は二つの棺から合わせて57面以上が出土していることになる。
 *璧:玉やガラスで作られ扁平な円盤形で中央に円孔を有する。表面に粒状文があり、穀璧ともいわれている。また玉の場合玉璧(ぎょくへき)ともいわれ、古代中国で発達したが、日本でも福岡県前原町三雲遺跡・須久遺跡など弥生時代の遺跡から発見されている。(日本考古学用語辞典)
 この時の調査では、2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺の上には墳丘があったと考えられる。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものである。周溝内には他に埋葬物等が見つかっておらず、墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものと考えられている。出土した銅鏡(連弧文鏡)は、中国の前漢時代の遺跡から発見されたものとの比較から、前漢時代(紀元前1世紀頃)の形式を備えた鏡であるとの判定には異論がない。このことからこの鏡をストレートに前漢時代に作られた鏡(前漢鏡)とされる。この時代にこれだけの副葬品を伴った王墓は全国で例を見ない。また、金銅製四葉座金具は、中国の皇帝が身分の高い臣下に葬具として下賜するものだとする説明が有力だとされている。

 三雲遺跡(紀元前1世紀末頃)からは男性と女性の墓が発見されたが、これは夫婦ではなく、国を支配した男王と巫女王の墓であることがわかっている。つまり男王が世俗的権威、巫女王が宗教的権威という二重の政治形態が用いられており、邪馬台国の卑弥呼が巫女王、政務を司るのが弟であった制度と合致する。
 ○井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき) 
 三雲南小路遺跡の300mほど南に井原鑓溝遺跡と呼ばれる遺跡がある。「柳園古器略考」は、「天明年間(1781〜88)に日照りで水不足のため井原村の次市という農民が、鑓溝(三雲村との境界)というところで水口を開こうと棒で突いたところ、岸から朱が流れ出し、怪しんで掘ってみると一つの壷が発見され、中から古鏡数十・鎧の板の如きもの・刀剣の類が出土した。鏡の破片は数百片で、中には全うきものもあるが、そばで見物していた者等が取ろうとして終には無くなった。その破片は彼農民の家に今もあり、そのうちの小片を拓本墨を用いて載せる。文政6年(1823)4月」と記されている。青柳種信は農民が保管していた鏡片27、巴形銅器2の拓本を残しているが、拓本から復元される鏡はすべて方格規矩鏡で、21面分になる。発見当時はもっと多くの鏡があったと思われる。鏡の多くが早い形式の方格規矩鏡であることから、1世紀前半の新および後漢初期の製作と見られ、このことから、墓の年代はおよそ1世紀後半〜2世紀初頭の間であると推定されている。三雲南小路遺跡に次ぐ時代の遺跡と考えられる。

 井原鑓溝遺跡はその後場所が分からなくなっていたが、前原市教育委員会による発掘調査が継続して行われ、甕棺墓・木棺墓・石棺墓など、弥生時代後期に属する墓群と、それを切るように流れ、旧地籍図と一致する水路が検出されている。また、ガラス小玉170個とともに、割れた状態の方格規矩四神鏡ほぼ一面分が出土しており、復元の結果は「柳園古器略考」拓本中の鏡片と細部は異なっておりますが同型式で、この形式は、中国での制作年代が紀元1世紀頃とされている。
 ○平原(ひらばる)遺跡について
 平原遺跡は1965(昭和40年)真冬の夕方、偶然に発見された。巨大な白銅鏡の破片や多くの内行花文鏡・方格規矩鏡がガラガラしていた。在野の考古学者原田大六氏が中心となって急遽発掘が行われた。直径約46cmの巨大な内行花文鏡4面、方格規矩鏡32面、内行花文鏡3面、?(き)龍文鏡1面、あわせて銅鏡40面、そ
のほか、素環頭太刀1本、ガラス勾玉3個、メノウ製管玉12個、など多くの副葬品が出土している。その後、何度かの発掘・調査等で分ったことは、2基の墓が東西約14m、南北約10mの周溝で囲まれており、このことは以前には墳丘があったことを示している。また、周溝から出土した土器からこの墓が造られた年代はAD200〜250頃と見られる。鏡の形式もそれと矛盾していない。

 三雲遺跡の近辺に平原遺跡があり、形周溝墓から39面 ( 2000年に一面追が40面となる ) の銅鏡や素環頭大刀、装身具が出土している。なかでも、直径46・5センチの内行花文鏡は世界でも類を見ない国内最大級の大銅鏡四面で、方格規短鏡の大量副葬とあわせ重要な古代資料となっている。中国で製作された舶載銅鏡は大部分が直径9センチとして使用されたもので、直径9センチから23センチのものが多い。卑弥呼ゆかりの鏡とされている三角縁神獣鏡も17センチからから26センチまでであることを思えば最大鏡と云うことになる。1965年、長径18メートル、短径14メートルの、四方に濠 ( 方形周溝墓 ) のある弥生時代の墓が発見された。墓の中央には、長さ3メートルの割竹形木棺が安置されていて、数多くの被葬者への副葬品が配置されていた。当時の最高級品であるガラスやメノウ製の勾玉、管玉、小玉が多数出土している。
 しかしながらこの通説に従うと、末盧国より伊都国への方向を「東南」と記しているのに比して、唐津からみて糸島は明らかに東北であって方位が整合しないことになる。ここでも通説の前原町の比定が間違っているのではないかということが推定されるのである。又、唐津から糸島へ向かうなら陸行する必要はなく水行にても可能であった筈であり、なぜ陸行とされたのかが判然としなくなる。末盧国福岡市説を唱えた高津氏は豊前市を比定している。参考までに述べると、高津氏は現在の日豊本線にある今津駅に注目し、伊都=今津の音訳比定をしている。しかしながら、末盧国の比定を通説と相違させ末盧国=福岡市説としたからには、伊都国はここより陸行で500里の内陸地に求めるべきであるが、伊都国=豊前市今津は大丈夫だろうか、と云うことになる。

 2、赤池村説

 雑誌ムーの2001.11月号の「猪群山ストーンサークルは卑弥呼の墓だった」(山上智)によれば、末盧国=神湊から東南に歩くと宗像神社があり、赤間を通過し、猿田峠を越え、直方(のうがた)を抜けて500里(37,5キロ)ほどのところに赤池村があり、この地が伊都国と比定されている。付近には、縄文遺跡や弥生遺跡などが数多く存在している、とある。 

 3、伊都国豊前市説

【れんだいこの比定する伊都国とは】
 私説は、伊都国の比定につき「陸行=内陸説」に随い、未だ現地へ行っていないが吉野ケ里遺跡を中心とする現在の佐賀県鳥栖市付近、朝日山付近、神埼.三田川.中原地域等佐賀市北方地域の筑紫平野の一角を占める佐賀平野の東部、即ち鳥栖市から佐賀郡にかけての背振山地南麓一帯とする。これを「比定地7、伊都国」とする(2011.8.14日現在認定)。神湊から吉野ケ里までの500里を里程感覚80mから100mで計算すると約40kmから50kmになる。実際の距離は**である(これは後日確認し書き込みたい)。

【吉野ケ里遺跡考】
 吉野ケ里遺跡は、神埼郡三田川町.神埼町に位置している。吉野ケ里丘陵は、これらのうち神埼.三田川.中原地域に含まれる。この地域は、高位.中位の丘陵が山麓部から南の平野部へ舌状に細長くのびる地域である。これらの丘陵上には、姫方遺跡、船石遺跡、切通遺跡、二塚山遺跡、横田遺跡、三津永田遺跡など弥生時代の墓地を主体とする著名な遺跡が数多く立地する。吉野ケ里遺跡は丘陵上すべてが甕棺墓地といわれる吉野ケ里丘陵の南部に位置する。地理的に自然の要害を為し、また生産力も豊かなこの地域を時の権力者が把握することは、内政的にも対外的にも重要な政治課題でもあったことと思われる。

 その特徴は、弥生時代中期から後期(前1〜後3世紀)の日本最大規模の環濠集落(まわりを大きな濠で囲まれた集落)と、弥生時代中期(前1世紀)の巨大な墳丘墓である。吉野ケ里遺跡の発見は、日本の歴史上最大の謎とされる邪馬台国の時代の倭人伝に記された日本の状況を解く鍵を遺跡の上で初めて具体的な形で具現したことにある。とりわけ環濠集落にはその一画に物見櫓の跡及び重要な遺構として外濠の外側に建てられた高床の倉庫群が19棟以上、その建物一つをとっても一般の倉庫の2から4倍の容積があり、広い地域の物資を集積、保管する公的な蔵であると認められる概要を示している。

 まさに倭人伝の一説「租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り。国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる」の記述に相応する観がある。吉野ケ里遺跡の近くには他に姫方遺跡、船石遺跡、切通遺跡、二塚山遺跡、横田遺跡、三津永田遺跡等があり伊都国を構成していたであろう遺跡に事欠かないこともこれを裏付ける。
(私論.私見) 解読取り決め18、吉野ケ里遺跡比定考
 吉野ケ里遺跡が凡そ卑弥呼の時代に照応していることが魅力的である。但し、問題は、邪馬台国とすべきか伊都国とすべきか、その他とすべきかの判断が問われている。私説は、卑弥呼の時代の遺跡にして、内陸部にして、 「租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り。国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる」の記述に相応するとすれば、まさに伊都国として相応しいと読む。

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

(私論.私見) 解読取り決め19、榎氏の第一指摘、「国名記述の順序差」の意味考

 伊都国へ到る迄の記述の仕方と伊都国以降の国々の記述の仕方には相違がある。伊都国以前は「方角、距離、国名」の順に記されているのに対し、伊都国以降は「方角、国名、距離」の順に記載が為されており、距離と国名の順序が入れ替わっている。邪馬台国研究史の中で初めてこのことを指摘し一石を投じたのは榎一雄氏であった。云われてみればなるほどの違いである。邪馬台国研究史上に占める榎氏の功績はここにある。これを仮に「榎氏の第一指摘、国名記述の順序差」と命名する。

 これをどう了解すべきか。榎氏は「第二指摘、放射説」を開陳したが、解読取決め2・「至・到論」を媒介すれば成立しない説になる。榎氏の第二指摘である放射説を否定しても第一指摘の「国名記述の順序差」は有効と考える。これと、解読取決め2・「至・到論」をどう整合的に理解するのかと云う課題が残されていることになる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


「榎氏の第二指摘、放射説」について

 榎氏はこれをどう解いたか。その著「魏志倭人伝の里程記事について」は、これまで魏志倭人伝に表われた方位方角と距離の読み方は、連続式(この説を直進説又は続進説という)に末盧国、伊都国、奴国と読み進み疑いを持たなかった。しかし、歴然と記述が違う以上解読も異ならねばならない。そこで、伊都国以降の奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国は伊都国を起点として読み進められるべきだ主張するところとなった。つまり、邪馬台国への行程を伊都国を要として放射線状に読むことを提言した。これほ「放射説」と云う。

 この榎説は、牧健二氏により補強された。つまり、魏志倭人伝では明確に「至」と「到」の使いわけが為されており、「到」は狗邪韓国と伊都国にのみ使用されている。「至」使用の場合は、経過点の場合であり、「到」の場合は目的地への到達を示すと論述した。こうした使い分けの意味を探ると「放射説」は説得力のある見方であるとして、これを支持するところとなった。なお、古田氏は、「邪馬台国は無かった」で、牧氏の指摘するような使い分けは為されていないと論証している。

 更に、高橋善太郎氏は、倭人伝中の「至」と「到」の意味を探求し、「末盧国起点放射説」を提出した。氏は、末盧国は郡使の直線コースの最後であり、陸上諸国へはすべて末盧国から出発したものであるとしている。この説は、張明澄等中国の学者に支持する者が多い。私説もこれに随う。

 田中卓氏は、榎氏の伊都国中心の放射線説と高橋氏の末盧国中心の放射線説を折衷し、末盧国を含む伊都国という意味で、「伊都国末盧国起点放射説」を提唱した。こうして放射式の読み方は次第に撹拌されて行き、不弥国以前は旅程が里数で表わされているのに、不弥国以降は日数で記されていることに着目して「不弥国起点放射説」も現われることになったり、邪馬台国や投馬国など日程で記されている記事は、帯方郡からの日程を示しているのではないかと考える「帯方郡起点放射説」も出てくるところとなった。

 こうして諸説紛糾を為す結果を生じしめたものの、榎氏の「放射説」が斬新な視点を提供するところとなったことは疑いなく、主にこれまで距離の点で難解を窮めていた九州説を説く人たちは、榎説を採用することによって活気づくこととなった。


(私論.私見)  解読取り決め20、伊都国行き止まり説

 私説は、狗邪韓国の項で説明した通り、一般に中国古文の中で、同じ個所で「至」と「到」が同文で出現した場合には区別して使用されており、当然区別して読まれなければならないという観点に立つ。その区別は、 「至」は、「通行途次の場合に使われ、至る先は経過点を表す」のに対し、「到」は、「逗留地であり、次の行程上の起点地ではないという含意を持つ到着地を表わす」という違いがあるとしたい。

 しかし、こうなると、「至」と「到」の解読識別は榎氏の放射説と丁度反対の意味を持つことになる。「至」と「到」の解読識別を重視すれば、先に「狗邪韓国に到る」とあるのを、次の出航に当って、狗邪韓国の特定の所から出発するのではない、時の按配によって前行程のうち都合の良い任意な出発地が用意されていると解したように、その基準に従うと、伊都国以下の国々へ行程する場合の方法は、伊都国を起点とせず、旅程の都合上直前の末盧国から出発するという含意があると解読することができる。この場合、以下同様に「至」の場合はそこを経由して、「到る」の場合には終着点と見なしていくことになる。となると、魏志倭人伝の以下の記述においては「到」の記述は出てこないので連続式に読み込んでいくべしということになる。私説はこれに随うこととする。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


「官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う」について

 官は、元来、将帥が携行する祭肉を置く軍の聖所で将官をさす。のち司るところのあるものを官と称した(字統)。帯方郡からの使に応対した官であろう。「爾支」は、「ニシ」、「ニキ」(稲置)。「泄謨觚」は「シマコ(島子)」、「カツ子」、「セモコ」、「イモコ(妹子)」、「エイモコ」、「セツモコ」などと読める。「柄渠觚」は「ヒココ」、「ヘクコ」、「ヒホコ」、「ヒャウキョコ」などと読める。不祥である。「觚」は「彦」の「ヒ」が関係しているとの説もある。あるいは、「妹子」などの「子」とも推測されている。


「千余戸有り」について

 伊都国の戸数は、この国の重要さからみて千余戸は少なすぎるのではないかという説がある。魏略逸文の方には「戸万余」となっており、私説も又、伊都国の重要な立場から見て、「万余戸説」に従うのがよいと思っている。あるいは、末廬國や奴國より戸数を少なく記述する根拠があったと看做すべきだろうか。


「世々」について
 「代々」という意味であろう。

「世々王有るも」について
 「世々王有る」は、「代々王がいる」と解する。「王」の存在を明記しているのは、この伊都国と邪馬台国と狗奴国の三国だけであることが注目される。

「皆女王国が統属す」について

 「皆女王国が統属す」につき、通説は、伊都国王は女王国に従っていたと解釈するが、「皆女王国が統属す」を逆に「女王国を統属す」と読んで、伊都国王を女王より上の立場に見ようとする説もある。

 「統属」の意味が、「単なる帰属を意味するのか、完全な隷属を意味するのか」との問いかけも為されている。女王国とは邪馬台国連合のこと、卑弥呼はその邪馬台国連合の女王、邪馬台国は女王が都をおいたところと解する。


「郡使が往来するとき常に駐まる所なり」について
 「郡使が往来する」とあり、伊都国が外交的に重要な役割と地位を占めていたことが伺われる。「駐まる所」の解釈も一定していない。「必ずここに立ち寄る」という意味と解する。その機能は、「後の太宰府の先駆けのような、今日の外務省兼入国管理事務所のようなものだったらしい」(倉橋日出夫「古代出雲と大和朝廷の謎」)。

東南へ、百里で、奴国に至る。

官はし馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。
二万余戸有る。

【総合解説】
 奴国へ到る行程が、三文意にて記述されている。これを仮に第六行程と為す。

【逐条解説】

「水行、陸行の別が記載されていない」ことについて
 奴国行きについて「水行、陸行の別が記載されていない」。
(私論.私見)  解読取り決め21、水行陸行別不記載考
 通常このことについては注目されないが、既に述べたように、私説によると、水行、陸行いずれにても可であったことを意味していると解釈する。してみれば、奴国の比定地はこの条件を充たさなければならないことになる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

「東南へ」について

 放射説以前の通説及び伊都国起点放射説の場合は、伊都国よりの方位と見る。

(私論.私見)  解読取り決め22、水行陸行別不記載考
 私説は、「至、到論」の規定により伊都国を起点としていないとする。故に末盧国よりの方位と受けとめる。となると、伊都国と同方位の東南と云うことになり、伊都国の手前地ということになる。しかし、伊都国は陸行とある。とすれば奴国も陸行地となる。そういう意味で陸行、水行の説明がないのであろうか。となれば、末盧国から伊都国の間の末盧国よりの地点に存在していたとしか比定できないことになる。ここの判断が非常に難しいところである。  

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

「百里で」について

 「百里」とは非常に近い距離にあることになる。これまで準じてきた短里で計算すれば約10kmということになる。これを伊都国よりの行程と見るのか末盧国よりの行程と見るのかが問われている。通説は、伊都国を前原町付近としているので、奴国=博多(福岡)付近に比定すると約20kmとなる。100里は長里で40km、短里で10kmとなり、短里に従っても20キロはその倍の距離になることになる。通説の比定地では、末盧国より伊都国へ至る場合には記載された500里の半分に足らず、伊都国より奴国へ至る場合には記載された100里の倍の距離になる。いかにも杜撰な結果になっているが怪しまれない。私には、通説の比定地が間違っていることにより、こうしたチグハグなことが平気でまかり通っていることになっているのではないかと思われる。

 私説は既述したように末盧国よりの行程と見る。且つ末盧国を神湊と比定した。後述するように「奴国」を博多(福岡)と比定する。すると、前原町付近より通説の奴国福岡付近を求めると約20kmとなる。これをより近い神湊からの距離で計ると約**kmとなる。ほぼ短里計算の約10kmに符合する。しかし、方位が合わない。

 魏志倭人伝の原書である王沈の魏書、梁書、北史には、「又」という字が加えられている云々。これにつき考証を要す。

「奴国に至る」について

 「奴国」は一般に「ヌ国」と読まれるが、これを「ノ国」と読んで野の意味に、又は「ナ国」と読んで「なの県」を表わすなど諸説がある。後世、儺県(なのあがた;博多附近)とされており、倭人伝において「ナ」と読まれる記述は「那」や「灘」であると解釈することが出来る。

 奴國で青銅武器が大量生産され、銅矛や小形人方製鏡(漢代の鏡を倭人が模倣して作った小型の粗末な銅鏡)の分布から北は対馬から東は四国を中心に中国地方までの制海権を奴國が掌握していたことが知られている。従来、銅鐸は近畿が中心とされてきたが、初期の銅鐸鋳型が春日市大谷遺跡、鳥栖市安永田遺跡、福岡市赤穂ノ浦遺跡(福岡市博物館)で発見され、初期銅鐸も奴國を中心とした地域で製作され、九州以外に配布されていた(日本の古代1)。しかし、1998年佐賀県吉野ケ里遺跡で銅鐸が発見され、吉野ケ里銅鐸も含めて、九州の銅鐸関連資料は主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない周辺部で見つかっており、祭祀に用いられたと考えられている(福岡市博物館)。 

 ○、博多説

 通説は、博多説が代表している。「奴国」を筑前那珂、「なの県」.那の津、糟谷郡の一部辺りの「博多湾沿岸地域全体」と考えると、今の福岡市博多付近が中心ということになり、金印の発見で有名な志賀島の「漢委奴国王」の刻みと符合することになるとされる。その範囲は、福岡県の筑紫、早良、粕屋などの郡と福岡市を流れる那珂川.御笠川流域を含んでいるとされる。この辺り一帯が古名で那賀郡と称されており、那賀=ナガに通ずるものとして奴国とは那賀の国の略と考えることも出来る。

 博多は、行政上の地名としては福岡市となるが、市の中央を北流する那珂川以東の商業地区の謂いであり、古くより那の津.なの大津などと呼ばれ、七世紀の頃より太宰府の外港として、大陸との外交と文化導入の門戸となってきた。明治11年1878年に、福崎地区と合併して福岡市となったが、福崎地区とは異なった民芸や伝統行事があり、古くからの気風を残している。博多湾は、複雑な陸けい式砂嘴の海の中道と糸島半島に囲まれ、湾口には残る島.志賀島.玄海島などがある。

 遺跡としては、春日市の須玖遺跡、岡本遺跡があり、これを中心とする。

 ○須玖岡本遺跡について

 千メートル級の背振山を源として北流し博多湾にそそぐ那珂川の東側、御笠山の間の台地にあって福岡平野のほぼ中央に、高さ30から40めーとるの須玖丘陵が突き出ている。この丘陵地帯から、おびただしい甕棺墓と土こう墓、箱式石棺墓が集中し、三十数面の前漢鏡のほか、銅剣、銅矛、銅戈など青銅器品、ガラス製壁.ガラス製まが玉と管玉等が多数出土している。その豪華さは他に較べるものがなく、奴国の王墓と推定されている。原田大六氏は「奴国王の環境」、「邪馬台国論争」等で、須玖遺跡を奴国の墓域であると唱えている。

 明治26年、春日市岡本で大発見があった。畑の土の中から巨下が見つかり、その下からカメ棺や三十五面以上の中国製銅鏡、銅剣、ガラス製品など、多量の遺物がされた。当時は豪族の墓とされたが、その後、奴国王の墓と推定された。昭和初期、京都大学の発掘調査をきっかけに、この墓の周辺では、縄文から古墳時代の遺跡が続々と発見された。戦後、宅地開発のブルドーザーが土を一すくいしただけで銅剣類が一度に40以上も見つかるなど「弥生銀座」の発見が続いた。

 ○板付遺跡について

 福岡空港横の板付遺跡は、日本最古の水田跡と話題になった。木製の鍬や収穫に使用した石包丁、炭化米も発見され、その水田跡は二千三百年も前、卑弥呼から五〜六百年も前に、既にこの地方で稲作が始まっていることが証明されている。

 この地域にあって特筆すべきことは、青銅武器の一大生産地であったと思われることである。最も古い鋳型は、金印発見の志賀島の勝馬で出土し、それは弥生中期のものとされている。次には、春日市大谷遺跡から出土した銅剣、銅矛、銅鐸の鋳型、そして、この春日市から福岡市博多区那珂まで伸びる丘陵で、続々と鋳型が出土して、その丘陵地帯は鋳型丘陵とも呼ばれている。

 ○、中津市説

 伊都国豊前市説は奴国を中津市に比定する。中津平野の東の外れには宇佐市があり、全国八幡社の総本宮である宇佐神宮が祭られていることが、その説を裏付けるとされる。


【れんだいこの比定する奴国とは】
 私説は、奴国の比定地を末盧国より伊都国へ向かう同じ方位の途次に末盧国より凡そ100里の里程にあったと推測される 国とする。ここで云う100里はこれまでの一里100mに従えば凡そ10kmであるから、神湊より10km前後の国ということになる。これを「比定地8、奴国」とする(2011.8.14日現在認定)。

補足/金印について

 那珂郡志賀島出土の漢委奴国王印について、三宅米吉氏は、明治25年に、この金印を「漢の委の奴の国の王」と読むことを主張し、金印の出現をもってこの地域に奴国があった証左とした。通説もこれに従う。但し異説も多く、その一つは、「漢の委奴の国の王」と読まれるべきで、そうなると「委奴国」であり「奴国」ではないことになり、従って「奴国」を志賀島に比定する史料にはならないとする。


補足/「漢の当時の奴国」について

 邪馬台国共立政権が樹立される以前の時代の推定であるが、この奴国が倭国の王権を代表していた時期があったものと思われる。


「官はし馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う」について
 し馬觚とは何者か。

「二万余戸有る」について
 字義による記述通りとする。伊都国は「千余戸有り」なので、奴国は伊都国の20倍の人口があることになる。ちなみに投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸と記されている。

東へ、百里行くと、不弥国に至る。

官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。
千余家有る。

【総合解説】
 不弥国へ到る行程が、三文意にて記述されている。これを仮に第七行程と為す。

【逐条解説】

「東へ」について

 「奴国」より「東へ」と受け取る。

(私論.私見)  解読取り決め23、水行陸行別不記載考
 不弥国行程も水行陸行別不記載である。私説は、「至、到論」の規定により奴国よりの方位と受けとめる。水行陸行別不記載の理由は、奴国へ到る行程の時に論じたが、水行、陸行いずれにても可であったことを意味していると読む。よって、「奴国より水行もしくは陸行で百里」が不弥国となると読む。ここの判断も非常に難しいところである。  

 2011.8.15日再編集 れんだいこ拝

「百里行くと」について

 私説は、奴国より100里とみなす。通説に従えば、不弥国は、奴国福岡説より東の宇美町付近となる。奴国福岡説からの距離を求めると約5キロとなる。100里は長里で40km、短里で10kmとなり、短里に従った場合でも、この5キロはその半分の距離になることになる。末盧国より伊都国へ至る場合には500里の半分に足らず、伊都国より奴国へ至る場合には100里の倍の距離になり、今度は又半分に足らずということになる。通説の比定地を支持する者はこの辺りを学問的に説明する義務があると考えるのは私一人であろうか。結論として、やはり比定地が間違っているのではないかということになる。


「行く」について
 字義による記述通りとする。

「不弥国に至る」について

 語義的には、フは時の経つこと、地域を経過すること、機織のたて糸(字訓)であり、ミは処、水、辺、海(大分県古地名の語源と地誌)。中継地点として機能していた國と解釈できる。不弥国は「フミ」と読まれる。又はヒヲミと読む。「不弥」を「海」ないし「産み」(神功皇后伝承で、応神天皇を産んだとするもの)と解する音訳比定が通説となっている。

 通説は、福岡県の粕屋郡宇美町説、嘉穂郡穂波町説、大宰府附近説、鞍手.宗像郡津屋崎町説.糟谷各郡の一部、福岡市博多区と北九州市門司区の間の港湾説等々を説く。

 ○、福岡県の粕屋郡宇美町説

 古事記に「宇美」仲哀天皇紀、書紀に「宇み」神功皇后紀、筑紫風土記逸文に「芋野」とある地である。神功皇后が応神天皇を出産した地と伝えられている地であり、神功皇后、応神天皇などを祀る宇美八幡宮がある。江戸時代の新井白石、本居宣長、鶴峰戊申、明治以降では、白鳥庫吉、内藤湖南、吉田東互、和歌森太郎などの学者がこの説を唱えている。音訳比定によっている。

 宇美町は粕屋平野にあって、宇美川、多々良川、須恵川の三つの川が博多湾に直結してをいる。宇美川流域には、前方後円墳の「光正寺古墳」を始めとして、多くの古墳が点在している。亀山遺跡には、福岡地区で発見された中で最も大きい亀山型石棺墓があり、それは、亀山神社の社殿脇にある墳丘にあって、2メートルを越える大きな三枚の板状の石が組み合わせてあって、この墓は、弥生時代の後期の宇美流域を支配した首長の墓だとされている。宇美川流域には、この他にも大小四基の円墳のある「神領古墳群」、五基の円墳と一基の前方後円墳をもつ「浦尻古墳群」、粕屋平野最大の円墳をもつ「七夕池古墳」などがあり、多々良周辺では青銅器の鋳型も出土している。

 2000.8.1日付け読売新聞によると、光正寺古墳の埋葬施設から、副葬品として弥生時代終末期(2世紀後半から3世紀前半)の土器が出土していたことが31日わかった。邪馬台国時代に、畿内のホケノ山古墳(奈良県桜井市)などと並んで、九州でも古墳が出現していたことが確実となった。同古墳は全長52mの前方後円墳。今回の発見で不弥国時代の王墓である可能性が強まった。

 ○、嘉穂郡穂波町説

 延喜式、和名抄に、穂波郡(現在の飯塚)とある地である。音訳比定によっている。粕屋郡宇美町を少し離れた遠賀川上流に位置している。穂波町の近くの飯塚市立岩遺跡が根拠となっている。明治の歴史家菅政友、那珂通世、久米邦武などが、この説を説いた。現代でも、原田大六、鳥越憲三郎、山尾幸久、児島隆人、高橋徹の諸氏は、この説をとっている。

 高橋徹・氏は、「卑弥呼の居場所」の中で次のように述べている。

 「私の旅は『考古学を信じる』ところから始まっている。倭人伝に記載された国にふさわしい規模の遺跡のある場所をたどる。それが『倭人伝を歩く基本』である。だから、畿内説論者だけでなく、九州説論者にもある『福岡市の隣の宇美町は、不弥国のフミはウミになまったもの』という説にはうなづけない。何よりも見学したいと思う遺跡がないからである。不弥国には正副の行政官がおり、千戸もあったと記載されているからだ。そこには目立つ弥生の遺跡がなくてはならないのである」。

 ○、福岡県宗像郡津屋崎町説

 宗像神社福岡県宗像郡玄海町の所在地に近く、沖ノ島に渡る玄海町神湊に隣接津屋崎町とする説もある。「魏志倭人伝なぞ解の旅桂川光和氏」は、「深い入り江になつた、良い港があるため、江戸時代には廻船の寄港地として栄えた」として津屋崎説を唱えている。

 笠井新也氏が「耶馬台国は大和である」(大正11年発行、考古学雑誌第十二巻第七号)で次のように述べている。

 「而して不弥に就いては・・・・今日の津屋崎の附近に推定したいのである。その理由は、第一、不彌より「南投馬国ニ至ル、水行二十日」といふ記事に依って考えると、その位置は必ずや水路の出発点でなければならない。されば宇彌・太宰府等の如き深く陸地に入込んだ地に之を比定するよりは、やはり海岸の船楫の便ある地とするのが妥当である。第二、末盧著陸後の方位は、伊都を経て奴国に至るまで、いつも東北を以って東南と記している。さればその謂ふ所の東は正に北を指すものであり、その謂ふ所の南は正に東を指すものと見なければならない。果たして然らば、奴国より「東行不弥国ニ至ル」のであるから、不彌国は儺縣即ち今日の博多より北方に之を求めなければならない。而してその距離百里といふ点から之を求めると、結局今日の津屋崎附近に落著せざるを得ないのである

 ○、太宰府市説

 太宰府政庁がおかれた太宰府市を比定する説がある。この説を白鳥庫吉が唱えている。め較より朝倉郡朝倉町付近を比定する説もある。

 ○、朝倉郡朝倉町付近説

 朝倉郡朝倉町付近を比定する説もある。

 ○、志賀島説

 志賀島説を田中卓が唱えている。不弥国の不弥はウミの転訛であり、ウミは海という意味であり、宇美、宇弥などと書かれ、従って不弥国は海の国と考えられる根拠がある。志賀島は、周囲11km、面積約5万km2の島で、現在、海の中道の西半分とともに福岡市東区志賀島町に属している。「漢委奴国王」の金印が発見されたのは志賀島である。不弥国を志賀島、沖の島辺り一帯の海と密接に関連した地域に比定することは有力である。

 志賀島は勝馬、志賀、弘の三集落からなり、島での人間の痕跡は紀元前までさかのぼり、志賀島には海人の大吉の昔から、海人の安曇族の拠点でもあったという。玄界灘、黄海を越えて、朝鮮半島や中国本土にまで航海したとされている。その安曇族の守護神、綿津見三神を祭る志賀海神社は古事記にも登場する。奈良、平安時代にあって、志賀島の所属する郡は粕屋郡、安土桃山時代は那珂郡、江戸時代に志摩郡、粕屋郡と変化するが、1971年、福岡市と合併、現在は福岡市東区に属している。

 改訂版・邪馬台国事典(同成社)は、次のように記している。「島には、航海の守護神、ワタツミ三神を祀る志賀海神社が鎮座する。この神は、古代海人族、阿雲族が祀る神で、日本神話の初期に属し、古事記日本書紀旧事本紀延期式、海名帳などに記載され、期限の古さを示している。玄海の荒波と博多湾口さえぎるこの島は、その地理的な位置から、弥生時代の航海部分を担当していたと思われる」。

 今、志賀島を見るに、島には阿曇連(古代の漁撈生活族、いわゆる海人族の酋長)などを祀る志賀海神社がある。沖の島は、志賀島の北方やや西よりの海上にある島であり、ここには、古事記や日本書紀にある宗像三女神の一柱であるタギリヒメの命を祀る沖津宮がある。どちらもワタツミ(ワタは朝鮮語PATA=パタで海の意)族、即ち漁撈生活族の阿曇族の共同祖神とされている。延喜式内の名神大社として志加海神社を持ち、この神社は、底津綿津見ソコツワタツミの神.中津綿津見ナカツワタツミの神.上津綿津見ウワツワタツミの神の三神を祀っている。いずれも海神としての特徴を持ち、官司家は阿曇氏で、アツミはアヅミともにごり、又ワタツミ綿積と同義であり、アマツミ海積のつまった呼び名である。

 ○、異説として、国東半島の北端国見町付近を比定しているものがある。全国八幡社の総本宮である宇佐大社が祀られている。宇佐大社下の福岡県玄海町の辺津(へつ)宮はイチキシマ姫神、大島の中津宮はタギツ姫神、沖ノ島の沖津宮はタゴリ姫神を祀り、イチキシマ姫神、タギツ姫神、タゴリ姫神を合わせて宗像三神と云う。

【れんだいこの比定する不弥国とは】

 不弥国の比定地について、私説はこう考える。不弥国へ至る条件として、1・海に関わる地名であり、2・奴国より「東」へ向う地であり、3・奴国から水行、陸行どちらとも可能で、4・「百里」の行程、5・共に「家」表記されていることで一支国と文化的共同性が認められる、という5条件を充足させる必要がある。そうすると、志賀島説はまず方位の点で難がある。私説は定まらないが一応博多説を採る。これを「比定地9、不弥国」とする(2011.8.14日現在認定)。

 「不弥国比定」の重要性は、大和説の場合、後の投馬国、邪馬台国の比定に大きく関わることによる。即ち、福岡説辺りだと投馬国を日本海航路に求めることができることになる。国東半島説になると、瀬戸内航路、鹿児島港路、四国南岸航路に求めることができることになる。そういう重要性がある。

 いづこの日か実地に探索したい。末盧国=神湊、奴国=神湊より東南の吉野ケ里遺跡の伊都国方向へ百里の地、不弥国=奴国より東へ百里の地となる。ちなみに末盧国起点説に随えば、神湊の東百里(約10km)の地に博多がある。これによれば不弥国=博多と比定することができる。不弥国=博多として逆行程させると、奴国=神湊と吉野ヶ里の間の神湊寄りとなる。伊都国=吉野ヶ里となる。末盧国=神湊ということになる。いずれにせよ、この辺りの北部九州地域に卑弥呼時代の邪馬台国同盟国が密集していたのは間違いないと思われる。


「官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う」について
 多模とは何者か。

「千余家有る」について

 戸数を表わす単位に千余家と「家」が出てきている。この「家」表記は、他には一支国に出てくるのみである。私説は、これは偶然ではなく、不弥国が一大国と文化的共同性があることを示唆しているものと推測する。同時に、こういう記述の書き分けができるということは使節が現地へ足を入れているからであると解する。


 これより後は、「投馬国から邪馬壹国に至るまで」に記す。





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