「ヤマ」とは、「多い」と意味であった。「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という意味である。すると邪馬壱国は、「多くの国が一つになった」という意味ではないだろうか。すなわち、連合国家である。
壱与の時代(西暦260年ごろ)から、40,50年経過した頃、邪馬台国を構成していたどこかの国が、奈良盆地に移動したものと思われる。これが近畿邪馬台国である。九州・福岡県一帯と奈良盆地には、同じ地名が多いとの研究報告があるが、近畿に東遷した邪馬台国の国は、福岡県一帯に居住していた人達の国ではなかったか、と思われる。日本書紀に書かれている崇神天皇がこのとき東遷した勢力とも考えられる。
東遷したその国は、国名を「ひのもと」と命名したものと思われる。この国は、発展をとげ、大阪、吉備、出雲などを従えるようになり、多くの鏡を生産し、九州、中国、近畿にばら撒いたものと思われる。そして、「ひのもと」の首都が、纏向遺跡で、「多くの人がいる」という意味で「ヤマト」と呼ばれたのである。後世、「日本」、「大和」と書いてヤマトと呼んでいるが、このような歴史的事実があったからこそ、当時の人は抵抗なく、受け入れたものと思われる。(注意)この時期、大阪は、「クサカ」(草深い棲家)と呼ばれていた。
この国は、100年近く栄えたが、その後、応神天皇が、九州の勢力(実際は朝鮮の勢力か)を従えて、大阪に上陸することになり、激しい戦闘の上、敗北し、長野県方面に逃げたが、さらに津軽にまで逃げ、そこで、その子孫は、再び国を作ることになる。
これが、「エミシ」と呼ばれる人たちの国で、1500年ごろまで、政権は変わったが、津軽を中心に栄えた。「エミシ」の「エ」は「えにし」の「エ」で昔の意味、ミは「尊い」の意味、「シ」は「うおがし」の「し」と同じで場所特定の意味、すなわち、「昔の尊い人」という意味になる。しかし、津軽の邪馬台国の後継政権は、1500年ごろ当地襲った大地震で壊滅した。
奈良の天理市の近くに「石上神社」があるが、ここでは、今でも毎年1月1日の早朝(紅白が終わってまもなく)祝詞を挙げる慣わしがある。内容は、「ひふみよいむなや」で始まる意味不明の祝詞である。
これを古代朝鮮語で訳した人がいる。内容は「返してよ、返してよ、お馬鹿さん」という意味だそうだ。実は、石上神社は、いつ頃できたか判らないほど古い神社である。おそらく、奈良盆地で一番古い神社といわれている。
ところが、津軽に、これと同じ祝詞を1月1日に挙げる神社がある。これをどのように解釈したらよいであろうか。おそらく、石上神社は、「ひのもと」の国の神社であったろうと思われる。そして、応神王朝に対して、政権の返還を実に1600年に渡って、主張しているのである。
そして、津軽の神社でもその子孫が、延々と歩調を合わせていたと思える。(もっとも、やっている当人は、その意識はないと思うが)これは、西暦700年ごろ国を失ったイスラエル人が、旧地返還を主張し、戦後(1950年ごろ)、アメリカの援助で旧地に「イスラエル」を建国した話に似てないだろうか。
津軽には、「津軽外三郡史」という江戸時代にできた歴史書がある。津軽藩の家臣が、当時の津軽近辺の民話、伝承などを編集したもので、一部には荒唐無稽な話もあり、歴史学者からは、信用されていない。
この中に、「かって、津軽は日本の中央であった。」という意味で、「日本中央」とういう石碑があったが、坂上田村麻呂の侵略のとき、地中に埋めたと書かれている。明治になってから、石碑を探すプロジェクトができたが、そのときは、発見されなかった。
ところが、戦時中、自分の庭に防空壕を作ろうとしていた農家の庭先から、「日本中央」と書かれた石碑が出てきたのである。当時は、戦時下で、この事実は伏せられていたが、最近では、広く写真入りで公表されている。
(注意)最近、放送されNHKの番組では、「日本中央」の石碑の発見に関して、戦時中、農家の人が適当な大きさの石を探しているとき、小川の土手で偶然「日本中央」の石を発見したとなっていたが、真偽の程は不明。
これが、かっての津軽政権の残した「日本中央」の石碑かどうかは、今後の分析を待つしかないが、恐らく、津軽政権の遺跡と思われる。いつの時代の石碑なのか、どのような背景で作られたのか判らないが、津軽政権の一端を示すものであろう。
日本の歴史の継続性は、驚くものがある。古代エジプト文明は、歴史の古さ、文明の規模に付いては、申し分ないが、継続性がない。すなわち、古代エジプトは、今のエジプト人の生活、家系、信仰とほとんど関係ないのである。
また、中国の歴史は、歴史の古さ、文明の規模、歴史の継続性、すべてにおいて世界でもっとも優れた歴史である。(何しろ、孔子の子孫が今でも家系を保っている)これに対し、日本の歴史は、歴史の古さ、文明の規模においては中国にかなわないが、歴史の継続性においては中国の歴史を凌ぎ世界一である。この点において、ユダヤの歴史と日本の歴史は似ている。
また、日本人の血液を分析すると、東北地方と、沖縄人がともに南方系ということで、共通している。これは、弥生時代に朝鮮からの人口移入により、それまで日本に住んでいた縄文人や比較的古い弥生人が南北に分断されたためである。このことは、邪馬台国の東遷、そして、東北地方への亡命という歴史的出来事と符合するものである。
(注意)できたら、3世紀の九州の人骨と津軽の古墳の人骨のDNA鑑定をしてもらいたい。
これが、邪馬台国の顛末と考える。すなわち、「邪馬台国はどのにあったか」という質問に対し、西暦200年から260年ごろは北九州に、西暦260年から350年ごろは奈良盆地に、しばらく長野に滞在したのち、西暦400年から1500年間は、津軽地方にあったというのが、私の答えである。
以上
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