第4部 「邪馬台国」比定諸説

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).4.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「邪馬台国比定諸説」を検証する。「邪馬台国大研究」の「邪馬台国比定地一覧」が詳しいのでこれを参照する。邪馬台国比定を廻って、これだけ多くの諸説が為されていることに驚くであろう。「研究者の数だけ比定地があるという邪馬壹国説」と評されている。このうちの二大説は「近畿大和」と「筑後山門」である。問題は、両者ともが邪馬台国をして原大和王朝と位置付けていることにある。これでは歴史の真相に迫れまい。れんだいこ邪馬台国論によれば、邪馬台国は大和王朝に滅ぼされ史実からも抹殺された「幻の邪馬台国」であり、原大和王朝説の視点から邪馬台国を追うのは「虚妄の邪馬台国」でしかない。この観点から再検証することが求められているという観点が欲しい。

 2006.11.29日、2009.2.23日再編集 れんだいこ拝


【畿内大和説】
 畿内説(邪馬台国大和説)は大和説、奈良県説と重なる。奈良県説は桜井市三輪山麓、天理市、郡山、飛鳥に比定している。九州説ほど比定地が多くない。新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いた。しかしのちに]「外国之事調書」で筑後国山門郡説に転じている。

 畿内説(邪馬台国大和説)は次のような論拠に依拠している。
卑弥呼が魏から受け取ったとされる鏡とされる画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡が畿内の古墳を中心に分布する。これに対し、畿内説は、三角縁神獣鏡は中国で1面も出土しておらず、魏の鏡である可能性は低いとしている。
奈良県天理市東大寺山古墳から「中平」年銘鉄刀が出土している。
奈良県桜井市の纏向遺跡は、邪馬台国時代の日本で最大の集落(都市)といえる。これに対し、畿内説は、邪馬台国が当時の日本列島で最大の勢力である必要はないとしている。
纏向の地に位置する箸墓古墳の後円部(丸い部分)が魏志倭人伝記述の「径百歩(直径凡そ150m)の塚」と一致しており、卑弥呼の墓に相当する古墳と推定できる。ちなみに箸墓古墳は宮内庁の管理下にある。よほど重要な秘密がある故と考えるべきであろう。
奈良県
大和 桜井市  肥後和男/三輪山麓の箸墓古墳を卑弥呼の墓としている。奈良県桜井市の纒向(まきむくい)遺跡を邪馬台国の中心地、その中にある箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓としている。
古墳名 全長 高さ 築造時期
纒向勝山古墳 115m 3世紀、詳細時期不明
纒向矢塚古墳 96m 3世紀前半
ホケノ山古墳 90m 3世紀中葉
箸墓古墳 278m 30m 3世紀後半
天理市  黒塚古墳とは奈良県天理市柳本町に所在する全長約130mの前方後円墳。1998(平成9).1月、黒塚古墳の竪穴式石室より全国でも過去最多33面もの三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡1面が、ほとんど未盗掘の状態で出土した。三角縁神獣鏡の製作年代は、古墳の出現時期を推定するカギでもあり、古代史解明の重要な資料となる。この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼が古代中国魏から贈られた「銅鏡百枚」にあたるのではといわれ、邪馬台国論争の争点になっている。黒塚古墳での三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の発見は、今後の邪馬台国研究に新たな1ページを加える歴史的な大発見といえる。
古墳名 全長 高さ 築造時期
西殿塚古墳 234m 3世紀後半〜4世紀初
黒塚古墳 130m 11m 3世紀末〜4世紀前半
中山大塚古墳 130m 4世紀初頭
柳本大塚古墳 94m 4世紀前半
下池山古墳 120m
行燈山古墳 242m 23m 4世紀前半
渋谷向山古墳 310m 23m 4世紀後半
郡山  鳥越憲三郎/物部氏一族説。
飛鳥  新妻利久。
 坂田隆。
 佐原真ら。
 畿内大和説は専ら卑弥呼論で見解が分かれている。
倭百日百襲姫
倭百日日百襲姫説
倭百日日倭姫命
 笠井新也「邪馬台国は大和である」。
 原田大六「邪馬台国論争」。
 和歌森太郎「私観邪馬台国」。
 藤田元春「漢委奴国考」。
 田辺昭三「謎の女王卑弥呼」。
 由良哲次「邪馬台国と大和」。
 山尾幸久「日本古代王権の成立過程について」。
 小林行雄「古墳の発生の歴史的意義」。
 樋口隆康「邪馬台国問題」。
 岡崎敬「邪馬台国問題」。
 浜田敦「魏志倭人伝などに・・」。
 稲葉岩吉「漢委奴国王印考」。
 末松保和「倭国に関する魏志」。
 中山平次郎「邪馬台国及奴国に関して」。
 梅原末治「考古学上より見たる上代の近畿」。
 三宅米吉「邪馬台国について」。
 山田孝雄「狗奴国考」。
 鈴木俊「倭人伝の史料的研究」。
 上田正昭「日本古代国家成立史の研究」。
 直木考次郎「国家の発生」。
 肥後和男「大和三輪山麓/邪馬台国は大和である」。
 三品彰英「邪馬台の位置」。
 大庭脩「親魏倭王」。
 鳥越憲三郎「大和郡山/古事記は偽書か」。
 青木慶一「邪馬台の美姫」。
 山口修「ふたつの邪馬台国」。
 高城修三。
 西嶋定生。
 謝銘仁。
倭姫命説  内藤虎次郎「卑弥呼考」。
 坂田隆「卑弥呼をコンピュータで探る」。
神功皇后説  舎人親王「日本書紀」。
 松下見林「異称日本伝」。
 伴信友「中外経緯伝草稿」。
 高橋健二「考古学上より見たる邪馬台国」。
 志田不動麿「神功皇后」。
 田口賢三「邪馬台国の誕生」。
 新妻利久「飛鳥/やまと邪馬台国」。
倭彦命説  橘良平「倭彦命」。

【九州説】
 邪馬台国九州説は次のような論拠に依拠している。
魏志倭人伝に登場する地名の多くが北部九州に対応する(奴国・伊都国など)。
魏志倭人伝の旅程記事につき、伊都国から先を放射状に読むと、九州島内に邪馬台国が存在することになる。
北部九州と中国大陸との交流の歴史を考えれば邪馬台国は九州にあったと考えるのが妥当である。
 (「第四章、邪馬台国時代の遺跡と遺物」)より転載
図11 山田尾告示代の遺物の出土状況
 九州説論者は次のように説いているようである。
福岡県 福岡市博多一帯  久米邦武/筑紫国造説(「住吉社は委奴の祖神」)。
 松本清張(巫女説)。
 古田武彦ら。
北九州
(九州北部、北部九州)
 中島河太郎(巫女説)。
 大谷光男。
 川野京輔(シャーマン説)。
 鯨清(天照大神説)。
 森浩一(豪族説)。
 井上光貞(「日本の歴史」)。
 和辻哲朗(「日本古代文化」で天照大神説)。
 藤間生大(「埋もれた金印」)。
 実吉達郎ら。
北九州沿岸  大林太良(シャーマン説)。
筑後川流域  山村正夫(女酋巫女説)。
 阿部秀雄ら。
吉野ヶ里広域
(博多・吉野ヶ里・甘木朝倉に及ぶ)
 久保雅男/卑弥呼の墓を日吉神社の鳥居周辺に比定。
 奥野正男ら。
福岡県一帯  古田武彦ら。古田氏は「博多湾に臨む平野と周辺丘陵地帯」に比定している。
太宰府市近辺  松田正一
 佐藤鉄章ら。
筑後山門郡
福岡県柳川市付近
 奴国から筑後川を舟行し、この地へむかったとする説。
 新井白石/神功皇后説(「外国之事調書」)。
 星野恒/田油津媛の先代説(「日本国号考」)。
 橋本進吉(「邪馬台国及び卑弥呼に就いて」)。
 津田左右吉(「邪馬台国の位置について」で一女酋説)。
 喜田貞吉/大和朝廷配下の九州の王説。
 村山健治/教祖族長説。
 吉田修/シャーマン説。
 榎一雄(「魏志倭人伝の里程記事について」)。
 牧健二(「邪馬台国問題の解決のために」)。
 田中卓。

福岡県久留米市御井町
高良山を中心とする筑後
川南岸付近
 ここには高良大社が祀られ、それを取り囲むように城石が廻らされていて、この城域は高良山神籠石と呼ばれている。
筑後
福岡県久留米市御井町、三井郡
 植村清二(「邪馬台国・狗奴国・投馬国」)ら。
筑後京都郡  重松明久ら(「邪馬台国の研究」)。
筑後田川郡  坂田隆(「邪馬一国の歴史」)ら。
築前博多福岡県福岡市付近  
築前甘木
(福岡県甘木市・朝倉郡付近)
 筑後川北岸中心。安本美典氏が指摘していることの一つに、甘木市と大和の奇妙な地名の一致がある。甘木に住んでいた集団が大和に入ったことの証明になると云う。神話の「天の安河」と思われる「夜須川」もあり、日本書紀の神話が史実からの伝承である可能性も出てくる。天皇家が渡来系であるなら、朝鮮半島から甘木付近に入った後、大和に移住したことになる。
 安本美典。
 村山義男/天照大神説。
 奥野健男。
 木村俊夫ら。
朝倉郡  高倉盛雄
その他筑前(福岡県瀬高町)
その他筑前(福岡県鳥栖)
佐賀県 八女郡八女市  中堂観恵/日の御子説。
 井沢元彦ら。
筑紫平野  藤沢偉作ら。
長崎県 肥前島原(長崎県島原半島)  宮崎康平。
肥前千綿長崎県東彼杵町付近  野津清。
佐世保市  恋塚春男。
大村湾東岸  鈴木勇/天照大神説。
熊本県 肥後山門
(熊本県菊池郡小源村)
 伊都国から舟で玄界灘沿岸を西へ行き、長崎県西彼杵半島をまわって有明海に入ったとする説。
 近藤芳樹/九州の一豪族説。
 白鳥庫吉。
 黛弘道ら。
肥後玉名(熊本県玉名市付近)  宮崎康平。
玉名郡江田村  古屋清/神功皇后。
阿蘇郡  藤井甚太郎/神功皇后説。
阿蘇神社周辺  渡辺豊和。
阿蘇郡蘇陽町  藤芳義男/百襲姫説。
下益城郡佐俣町  安藤正直ら。
人吉市  工藤篁。
山鹿市  鈴木武樹。
八代市  李鉦埼/インドの王女説。
東九州  石崎景三ら。
菊池川流域  岩下徳蔵/豪族の娘せつ。
大分県 豊前山戸宇佐
(大分県中津、宇佐八幡神宮付近)
 不弥国から舟で関門海峡を通り、豊前の海岸を南下して大分県宇佐市に入ったとする説。宇佐八幡神宮はその由緒により、後の大和朝廷時代に至っても一朝事あった際の神託のお告げを授かる地位にあったとする。卑弥呼の墓を宇佐八幡神宮に比定。
 富来隆。
 久保泉。
 高木彬光(作家)。
 伊勢久信/神功皇后説。
 安藤輝国/応神天皇一族説。
 高橋ちえこ/巫女説。
 市村其三郎ら。
宇佐神宮領地内  神西秀憲。
周防灘沖合海中(知珂島)  大羽弘道。
別府湾岸  山本武雄。
中津市  横堀貞次郎。
宮崎県 日向地方  林屋友次郎。
延岡市構口  小田洋。
日向  尾崎雄二郎。
霧島山周辺  高津道昭/巫女説。
西都原  清水正紀/天照大神説。
西都市  原田常治/天照大神。
鹿児島県 鹿児島  加治木義博/王仲殊。
霧島山一帯  霧島山南峰の高千穂峰は、神話の伝説峰として尊崇されてきており霧島山の南の麓にある霧島神宮は旧官幣大社であり、主祭神は邇邇芸命書紀では杵尊。霧島付近がなんらかの形で日本創世に関係が在ることは疑いない。霧島山の東方には、高原.高崎.高城、少し離れて高岡.高鍋などの地名がある。山の名前も高千穂をはじめ、高隅山.高畑山など高のつく地名が多く、これらは神話にでてくる高天原と無縁ではないように思われると為す。
薩摩・大隅国
(鹿児島県大隅半島。)
 鶴峰戊申/熊襲の女首長。
薩摩国・そお  吉田東伍。
大隅国姫木  那珂通世。
九州南部  本居宣長/熊襲の女首長説。
奄美大島  小林恵子。
徳之島
沖縄  木村政昭。

【四国説】
 四国説論者は次のように説いているようである。
愛媛県川之江市一帯  大森忠夫(「邪馬台国伊予説」)。
愛媛県松山  浜田秀雄(「切丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」)。
四国東半
徳島県 阿波国  古代阿波研究会/神功皇后説(「邪馬壱国は阿波だった」)。
 岩利大閑ら。
徳島高根
四国山頂  大杉博/徳島県神山町山上を比定。卑弥呼の墓を八倉比売神社に比定。
高知県伊野町

【中国地方説】
 中国説論者は次のように説いているようである。
吉備 日差山  久保幸三/卑弥呼の墓を楯築遺跡に比定。
岡山・香川  広畠輝治/蒜山高原を高天原に比定。
吉備津神社  薬師寺慎一/卑弥呼の墓を楯築遺跡に比定。
熊山町  若狭哲六/卑弥呼の墓を熊山に比定。
出雲  大川誠市。

安芸

 

安芸郡府中村  多祁理宮(埃宮)、現在の府中町にある多家神社を中心とした地域であるとする。その根拠として、この地域は古の莵狭國の中心地であり、神武天皇はこの地の多祁理宮で亡くなっており、後世の厳島または宮島は「神ろぎ磐坂」として祭祀を厳修した社殿が存在したりする。

【その他地域】
 その他地域論者は次のように説いているようである。
大阪府 大阪市  大熊規短男(「神社考古学」)。
難波  泉隆弐(「邪馬台国の原点倭」)。
京都府 京都府京都市  江戸達郎/神功皇后説。
滋賀県 近江説(琵琶湖畔)  小島信一/神功皇后説。
野洲町  大内規夫/天照大神説。
和歌山県 吉野から紀州一帯  立岩巌/神功皇后説(「邪馬台国新考」)。
北陸地方越前説  小島信一/神功皇后説。
福井県 福井県鯖江市
福井県福井市  八岐 大蛇/高志の国(福井県福井市)。同所の丸山古墳(直径縦150m、横100mの楕円形円墳)を卑弥呼の墓と比定している。
石川県 石川県眉丈山
石川県羽昨市  能坂利雄/能登ヒメ説。
新潟県 新潟県栃尾市
長野県 諏訪地方  武智鉄二/南シベリア族の女王説(「月刊歴史と旅」)。
山梨県 逸見高原  奥平里義/(「新日本誕生記」)。
東海地方説
静岡県 静岡県登呂
南伊豆、下田  肥田政彦。
旧東山道
千葉県  伊藤邦之(「邪馬壱国」)。
総国(上総・安房)  鈴木正知/巫女説(「邪馬台国に謎はない」)。
福島県 会津若松市
(旧耶麻郡山都町)
 遠藤谷吉(「耶馬台国は耶麻郡だった」)

【海外】
ジャワ、スマトラ  内田吟風/神功皇后説(「朝日新聞紙上」)。
エジプト  木村鷹太郎(「日本太古小史」)。
朝鮮半島  山形明郷。

【偽書説】
 岡田英弘が、晋朝狂言説、偽書倭人伝は偽書であり、邪馬台国は架空であると唱える。

【折衷説】
北九州と大和  海渡英祐/(「二つの邪馬台国」)。
【折衷変遷説】
 「横浜市 井上友幸」氏の「新説・日本の歴史第6弾邪馬台国の真相」を転載しておく。

 「ヤマ」とは、「多い」と意味であった。「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という意味である。すると邪馬壱国は、「多くの国が一つになった」という意味ではないだろうか。すなわち、連合国家である。

 壱与の時代(西暦260年ごろ)から、40,50年経過した頃、邪馬台国を構成していたどこかの国が、奈良盆地に移動したものと思われる。これが近畿邪馬台国である。九州・福岡県一帯と奈良盆地には、同じ地名が多いとの研究報告があるが、近畿に東遷した邪馬台国の国は、福岡県一帯に居住していた人達の国ではなかったか、と思われる。日本書紀に書かれている崇神天皇がこのとき東遷した勢力とも考えられる。

 東遷したその国は、国名を「ひのもと」と命名したものと思われる。この国は、発展をとげ、大阪、吉備、出雲などを従えるようになり、多くの鏡を生産し、九州、中国、近畿にばら撒いたものと思われる。そして、「ひのもと」の首都が、纏向遺跡で、「多くの人がいる」という意味で「ヤマト」と呼ばれたのである。後世、「日本」、「大和」と書いてヤマトと呼んでいるが、このような歴史的事実があったからこそ、当時の人は抵抗なく、受け入れたものと思われる。(注意)この時期、大阪は、「クサカ」(草深い棲家)と呼ばれていた。

 この国は、100年近く栄えたが、その後、応神天皇が、九州の勢力(実際は朝鮮の勢力か)を従えて、大阪に上陸することになり、激しい戦闘の上、敗北し、長野県方面に逃げたが、さらに津軽にまで逃げ、そこで、その子孫は、再び国を作ることになる。

 これが、「エミシ」と呼ばれる人たちの国で、1500年ごろまで、政権は変わったが、津軽を中心に栄えた。「エミシ」の「エ」は「えにし」の「エ」で昔の意味、ミは「尊い」の意味、「シ」は「うおがし」の「し」と同じで場所特定の意味、すなわち、「昔の尊い人」という意味になる。しかし、津軽の邪馬台国の後継政権は、1500年ごろ当地襲った大地震で壊滅した。

 奈良の天理市の近くに「石上神社」があるが、ここでは、今でも毎年1月1日の早朝(紅白が終わってまもなく)祝詞を挙げる慣わしがある。内容は、「ひふみよいむなや」で始まる意味不明の祝詞である。

 これを古代朝鮮語で訳した人がいる。内容は「返してよ、返してよ、お馬鹿さん」という意味だそうだ。実は、石上神社は、いつ頃できたか判らないほど古い神社である。おそらく、奈良盆地で一番古い神社といわれている。

 ところが、津軽に、これと同じ祝詞を1月1日に挙げる神社がある。これをどのように解釈したらよいであろうか。おそらく、石上神社は、「ひのもと」の国の神社であったろうと思われる。そして、応神王朝に対して、政権の返還を実に1600年に渡って、主張しているのである。

 そして、津軽の神社でもその子孫が、延々と歩調を合わせていたと思える。(もっとも、やっている当人は、その意識はないと思うが)これは、西暦700年ごろ国を失ったイスラエル人が、旧地返還を主張し、戦後(1950年ごろ)、アメリカの援助で旧地に「イスラエル」を建国した話に似てないだろうか。

 津軽には、「津軽外三郡史」という江戸時代にできた歴史書がある。津軽藩の家臣が、当時の津軽近辺の民話、伝承などを編集したもので、一部には荒唐無稽な話もあり、歴史学者からは、信用されていない。

 この中に、「かって、津軽は日本の中央であった。」という意味で、「日本中央」とういう石碑があったが、坂上田村麻呂の侵略のとき、地中に埋めたと書かれている。明治になってから、石碑を探すプロジェクトができたが、そのときは、発見されなかった。

 ところが、戦時中、自分の庭に防空壕を作ろうとしていた農家の庭先から、「日本中央」と書かれた石碑が出てきたのである。当時は、戦時下で、この事実は伏せられていたが、最近では、広く写真入りで公表されている。

 (注意)最近、放送されNHKの番組では、「日本中央」の石碑の発見に関して、戦時中、農家の人が適当な大きさの石を探しているとき、小川の土手で偶然「日本中央」の石を発見したとなっていたが、真偽の程は不明。

 これが、かっての津軽政権の残した「日本中央」の石碑かどうかは、今後の分析を待つしかないが、恐らく、津軽政権の遺跡と思われる。いつの時代の石碑なのか、どのような背景で作られたのか判らないが、津軽政権の一端を示すものであろう。

 日本の歴史の継続性は、驚くものがある。古代エジプト文明は、歴史の古さ、文明の規模に付いては、申し分ないが、継続性がない。すなわち、古代エジプトは、今のエジプト人の生活、家系、信仰とほとんど関係ないのである。

 また、中国の歴史は、歴史の古さ、文明の規模、歴史の継続性、すべてにおいて世界でもっとも優れた歴史である。(何しろ、孔子の子孫が今でも家系を保っている)これに対し、日本の歴史は、歴史の古さ、文明の規模においては中国にかなわないが、歴史の継続性においては中国の歴史を凌ぎ世界一である。この点において、ユダヤの歴史と日本の歴史は似ている。

 また、日本人の血液を分析すると、東北地方と、沖縄人がともに南方系ということで、共通している。これは、弥生時代に朝鮮からの人口移入により、それまで日本に住んでいた縄文人や比較的古い弥生人が南北に分断されたためである。このことは、邪馬台国の東遷、そして、東北地方への亡命という歴史的出来事と符合するものである。

 (注意)できたら、3世紀の九州の人骨と津軽の古墳の人骨のDNA鑑定をしてもらいたい。

 これが、邪馬台国の顛末と考える。すなわち、「邪馬台国はどのにあったか」という質問に対し、西暦200年から260年ごろは北九州に、西暦260年から350年ごろは奈良盆地に、しばらく長野に滞在したのち、西暦400年から1500年間は、津軽地方にあったというのが、私の答えである。

 以上


【邪馬台国吉備説】
 若井正一(全国歴史研究会本部会員)「邪馬台国吉備説の提唱」。
 萬葉集でも、本州は「やまと島」と呼ばれる。「天離る 鄙の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門より 大和島見ゆ」(柿本人麻呂)(萬葉集巻第三 二五五番)(口語訳 遠い鄙からの道のりを恋しく思いながら来てみると、明石の海峡からヤマト島が見えてきた)

 中国・新の王莽が鋳造した銅銭である貨泉を挙げたい。我が国では北部九州・近畿の弥生遺跡を中心に出土しているが、吉備の高塚遺跡からは弥生時代後期初め(一世紀前半)の土器とともに大量二十五枚が出土している。この当時の吉備の実力を窺わせるものだ。こうしたことを背景にして、弥生時代後期後半(二世紀後半から末)に、全国的にみて最大規模の弥生墳丘墓が出現する。

 岡山県倉敷市の楯築墳丘墓である。これは、副葬品を別にすれば王墓として北部九州のものを遙かに凌ぐ。この時代で最も強力な王権が北部九州や大和ではなくて吉備に存在したことの考古学的証である。これは「倭国乱」直前の倭国王の王墓候補と言える。吉備では、楯築以後も数多くの弥生墳丘墓が継続的に営まれる。それらに共通するのは特殊器台・特殊壺と呼ばれる独特な土器である。吉備の王権が独自の葬礼を持っていたことを物語っている。楯築以後で特に注目されるのが鯉喰神社墳丘墓であり、楯築に続く吉備の大首長の王墓と見なされている。卑弥呼の王墓の候補となり得るものが確かに存在するのだ。古墳時代に入ると(三世紀後半から末)、吉備では特殊器台・特殊壺が稀少になり、それにかわって遠く大和の地で、箸墓古墳を嚆矢とする定型化前方後円墳に並べられるに至る。この事実は、吉備の葬礼が大和の古墳文化へと移植されたことを意味する。三世紀後半から四世紀初めの時期に吉備の王権が滅亡し、その結果として、吉備が定着させた倭国王権の葬礼が、唯一の倭国王権となった大和によって継承されたと解釈したい。

 古事記には、第七代孝霊天皇の系譜記事の中で、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二人は、連れだって、播磨の氷河の岬に神事の瓶を据えて神を祀り、播磨を道の入り口として、吉備国を平定した」とある。これに対応する記事として、日本書紀には、大吉備津日子命(以下、ミコトと記す)が崇神天皇の時代に「四道将軍」の一人として「西道」に派遣され、その地を平定したとある。両書の記載を併せれば、崇神天皇の御代にミコトらによって吉備が武力制圧されたことが分かる。換言すれば、この時まで吉備は大和による支配に抵抗していたことになる。これはまさしく第四の条件に他ならない。

 そもそも、大吉備津日子命という名そのものが、西国平定という使命を果たす上で吉備制圧が決め手であったことを示唆している。古事記・日本書紀によれば、ミコトの元々の名は比古伊佐勢理毘古命。「四道将軍」の一人として「西道」平定の功績が報いられて先の名を得たわけだが、その名に吉備を冠していることは、吉備が西国の中心であったことを窺わせる。

 岡山県吉備地方に伝わる或る伝承。『吉備津宮縁起』と呼ばれるそれはミコトによる鬼退治の話である。鬼の名は温羅。またの名は吉備冠者。ミコトは大激戦の末にこの鬼を破り、吉備冠者の名を得たという。一方、敗北した鬼は首を切り落とされた。ところがそれで一件落着とはいかなかった。その首がいつまでも大声を発し続け、人々を悩ませたからだ。ある夜、ミコトの夢に鬼が現れ、或る行いの実行を告げた。それこそが、吉備津神社(名神大社)に今に至るまで連綿と続く「鳴釜神事」である。これは、御釜殿で神官と巫女とが釜を挟んで相対し、部屋中に鳴り響く釜の音で占うという大変奇妙な神事である。伝説は単なるお話に留まらず、現実の場に再現されているのだ。




(私論.私見)