第4部 女王国衛星諸国と狗奴国について

 更新日/2017(平成29).5.3日

 これより前は、「投馬国から邪馬壹国に至るまで」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、女王国の衛星国一覧と狗奴国風情を検証解析する。

 2006.11.27日再編集 れんだいこ拝


女王国より以北は、其の戸数.道里を、略載することができるが、其の余の旁国は遠絶で、詳しくは分からない。
次に斯馬国有り、 (しま國)
次に巳百支国有り、 (しおき、いおき、いはき、きはくき、きひやつき国)

次に伊邪国有り、 (いや国)

次に都支国有り、 (とき、とし、たき国)
次に彌奴国有り、 (みの、みな、みぬ国)
次に好古都国有り、 (こうこと、ここと、こかた国)
次に不呼国有り、 (ふと、ふこ国)
次に妲奴国有り、 (そな、しゃぬ国)
次に對蘇国有り、 (つそ、たいそ国)
次に蘇奴国有り、 (その、そな、そぬ国)
次に呼邑国有り、 (こお、こゆ、こゆう国)
次に華奴蘇奴国有り、(かなそな、かなそぬ国)
次に鬼国有り、 (き国)
次に為吾国有り、 (いご国)
次に鬼奴国有り、 (きの、きな、きぬ国)
次に邪馬国有り、 (やま国)
次に躬臣国有り、 (くし、くじ、くしん、きゅうしん国)
次に巴利国有り、 (はり国)
次に支惟国有り、 (しい、きい国)
次に鳥奴国有り、 (うな、、うぬ、あな国)
次に奴国有り、 (の、な、ぬ国)
此れ女王の境界の尽きた所なり。

【綜合解説】
 ここで、女王国の衛星圏として21カ国が記述されている。

【逐条解説】

「女王国」について

 ここで初めて女王国という表現が表れる。この女王国と先の邪馬台国との関係を廻って諸説が混乱をきたしているように思えるので特に入念に考察することとする。

(私論.私見) 解読取り決め31、「邪馬台国、女王国、倭地、倭国」の関連考

 「邪馬台国」の範囲を廻って諸説が紛糾している。「邪馬台国=女王の都 とする所」をしっかり踏まえれば問題を生じない筈であるが、この「邪馬台国」と「女王国」と「倭地」の使い分けが混乱しており諸説が紛糾している。これを同一の別な表現の様に受け取る向きもあるが、「邪馬台国、女王国、倭地、倭国」は意識的に使い分けられており、それぞれ意味するところは異なっていると理解すべきであろう。

 そこで、この使い分けの筆法について確認しておくこととする。まず、「邪馬台国」とは「女王の都とする所」であり、倭人伝全体にこれ以外の記述は見当らないことに注意すべきである。従って、「邪馬台国」とは、極めて狭義に「女王の都とする地域」として限定的に把握する必要がある。諸説は、これを広義に解釈して、倭地全域的に対馬より女王の都とする所迄を含めて邪馬台国と理解する説や、倭地全域的ではあるが対馬国、一支国を除いた末盧国より女王の都とする所迄とする説等々に分かれている。こういう「邪馬台国広義説」の根拠は見当らない。なるほど倭人伝記載の諸国家は邪馬台国連合国又は構成国又は衛星国として事実上はそういう連盟国家として存立していたものと思われが、倭人伝の記述自体からはそういう表現は見当らないことに注意すべきである。

 さて、以上のことを確認した上で、「次に斯馬国有り云々と以下21ケ国を記述した後で、これ女王の境界の尽きた所なり」とある文意につき考察することとする。この文章からすれば、「女王の支配圏の及ぶ女王国=邪馬台国+21ケ国」と思われ、「境界」という表現からすれば、この21ケ国は邪馬台国と隣接して拡播する諸国家であったことが想像される。その意味では、国名であっても郡名のようなもので、邪馬台国の直轄下にあり、一括して女王の支配圏にある衛星国家群として理解することが適切であろう。

 諸説の中には、この21ケ国を含めたものが邪馬台国であり、女王国とは邪馬台国の都のあるところと云う風に逆転させて理解する向きもあるが、誤りとすべきである。「女王国>邪馬台国」であって「女王国<邪馬台国」ではない。又、「境界」という表現からすれば、この21ケ国を日本列島の各地に分散して比定する説も如何かと思われる。字句通りには、上述のように邪馬台国の隣接諸国家としてみなすべきではなかろうか。なお、「女王國とは卑弥呼の直轄領であったと考えられる」とする説もあるが、「女王國とは卑弥呼の連合同盟国であったと考えられる」と了解すべきだろう。

 さらに、「女王国より 以北には、とくに一大率を置き、諸国を検察せしむ」とか「女王国より以北は、其の戸数.道里を、略載することができるが、其の余の旁国は遠絶で、詳しくは分からない」又は「女王国から東へ海を渡ること千余里、 復國有り、皆倭種」又は伊都国の説明の際に「世世王有るも、皆女王国に統属す」とある記述、又は「郡自至女王国万二千余里」とあることからすれば、この女王国という表現は、「対外的に表明される場合に使われる、卑弥呼共立の連合同盟国」としての名称であるということが伺われことになる。

 ところで、「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は 連なり、周旋五千余里可り」又は「倭の地は温暖で、冬夏生菜を食す」とある「倭地」と「邪馬台国」、「女王国」との関連はどうなっているのであろうか。「邪馬台国」又は「女王国」の記述を替えて「倭地」とあることの筆法からすれば、表現の対象は異なっているものと理解すべきであろう。私説は、「倭地」とは、魏の使節からみて「倭地」と考えられる地域一帯を指しているものと理解し、その範囲は、女王国にとどまらず、倭人伝に記載された対馬国以下のいわば邪馬台国を盟主とする連盟国家の全域及びそれ以外の諸国迄を含む共通文化圏一帯の地域迄を指しているものと思われる。

 「邪馬台国、女王国、倭地」は以上の様に使い分けが為されていると思われるが如何であろうか。倭地の解釈にはやや不明な点も残るが、邪馬台国、女王国については上述の様に理解されるべきであり、諸説の混乱も又早急に改められるべきであると思われる。なお、倭国という表現は倭人伝には記載がない点も注意されるべきである。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝


 「より以北は」について

 「女王国より以北」とは、これを素直に読めば邪馬台国≒女王国より以北と云うことになる。

(私論.私見) 解読取り決め32、「女王国より以北は」考
 これは変な記述ではある。普通には「以南」とならねばならないのではなかろうか。なぜなら、ここまで南へ南へと下って来ているのだから繰り返しになろう。ここは解せぬ方位である。思うに、魏志倭人伝の方位には何やら分からぬバイアスがかかっていることになる。ここの下りの記述が証左していると思う。ここでは南がとあるべきところを北としているので180度転換していることになる。魏志倭人伝の方位記載は45度転換、90度転換、180度転換と様々に転換されていると思わねばならないと心得たい。  

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 「其の戸数.道里を、略載することができるが」について
 字義通り。

 「其の余の旁国は」について

 これをこの後に続く21国を指すという説が通説であり傍国の解釈について、女王に当属された純然たる倭の構成国である。九州説では、この傍国を九州内に比定する。畿内説では、広く関東以西の地方に分布していたものと考える。両説とも、音訳比定であることとに変わりは無い。

 異説として、他所の他系統の諸国とみなす。この方が普通であると思われる。


 「遠絶で、詳しくは分からない」について

邪馬台国衛星諸国

 「次に」について

 「次に」とはどういう意味であろうか。方位も距離もないままに「次に」と述べ、以下21ケ国を列挙している。これをどう読むべきか。

(私論.私見) 解読取り決め33、「次に」考
 私説は、方位も距離もないままに「次に」と述べていることにつき、邪馬台国と非常に接近しており、いわば衛星的に連座していると読む。これは、江戸時代の幕藩体制下での各藩の江戸詰め屋敷の如しと思えば良いと思う。「邪馬台国以外の女王国の内訳は」と云う含意があると見立てる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 以下、私見を交えない。諸説の一つを記述する。 

 「次に斯馬国有り」について

 「シマ」国と読む。斯の字の斤はオノである。つまり切り離すことを意味する。馬は高地性集落を意味する。従って、この国は、馬から切り離されたようになっている国を意味している。

 九州説では肥前国杵島郡、筑前国糸島半島の半島部の志麻郡、薩摩国かご島郡、島原半島が比定される。大和説では近畿地方の三重県の伊勢志摩半島一円が比定されている。


 「次に巳百支国有り」について

 「しおき」、「いわき」国と読む。巳は曲がったものが伸びることである。百は多いこと、たくさんの意味。支は枝のことで、海に突きで田岬のことをいう。従って、この国は、出入りの多い入り江が長く連なった国を意味している。

 武英殿版は己、紹煕本では巳と書かれている。

 九州説では福岡県筑後地区の朝倉郡把木(はぎ)町が比定される。大和説では岐阜県不破郡岩手邑伊吹(伊富岐神社)又は滋賀県抜田郡伊吹町(伊夫伎神社)、伯耆.但馬の日本海岸地帯、東北宮城の磐城等が比定されている。


 「次に伊邪国有り」について

 「いや」、「いざ」国と読む。伊は天下を伊治する者。神と人間の間にある人物。つまり王を意味する邪は海に延びる半島状の陸地を意味している。

 九州説では福岡県朝倉郡に弥永(いやなが)が比定される。大和説では琵琶湖の南岸野洲郡と神埼郡辺りにある伊邪の洲、愛媛県の 伊予松山.伊予両市の海岸地帯、伊賀国(三重県)が比定される。


 「次に都支国有り」について

 「とき」、「つき」、「タキ」国と読む。郡支国とも書かれている。郡は人間の住む集落を意味する。支は枝であって、分かれること。従って、この国は、幾つかの国に分かれる分岐点にある国を意味している。

 九州説では岡県筑後地区の朝倉郡把木(はぎ)町が比定される。大和説では岐阜県養老郡、伊吹山脈の南端に時山があり、彦根市.米原町あるいは近江町辺り、摂津の高槻.茨木両市の淀川沿岸地域、多紀国(丹波国多紀郡)が比定される。


 「次に彌奴国有り」について

 「みの」、「みな」、「みぬ」国と読む。彌は、いよいよ、ますます栄える、満つるという意味で美称として用いられる言葉である。従って、この国は、豊かな国、立派な田のある地方を意味している。

 九州説では、新井白石が著書古史通或門において肥前国「三根郡」に比定している。凡そ吉野ガ里遺跡のある地域付近のことである。吉野ガ里遺跡は神埼町にかかっており、三根町はその隣である。他に 福岡県八女郡と久留米市・田主丸町の境に「水縄(みのう)山地、佐賀県三養基郡三根(みね)町が比定される。 大和説は美濃国(岐阜県)揖斐川中流域一帯に比定する。岐阜県不破郡と大垣市一帯、三野国(岡山県)が比定される。


 「次に好古都国有り」について

 「こうこと」、「こうこつ」、「ここと」、「ホカタ」、「ホコト」国と読む。好は女が子どもを育てる意味である。古は人の頭、つまり人間である。都は人が集まることである。従って、この国は、古くから人が住んでいて大勢の人が居る地方を意味している。

 九州説では福岡市博多区に比定している。大和説では滋賀県滋賀郡の雄琴村辺り、河内の八尾.羽曳野.富田林三市地帯が比定される。


 「次に不呼国有り」について

 「ふと」、「ふこ」、「びを」、「ふこ」、「ふほ」国と読む。不は背を向ける、北を向くことである。呼は呼ぶ、息をするという意味で、近いことを表現している。従って、この国は、王の都に近く、しかも北に位置していることを意味している。

 九州説では福岡県浮羽郡が比定される。大和説では徳島県海部郡日和佐町辺り、摂津の武庫川流域、宝塚.池田.伊丹三市地帯が比定される。


 「次に妲奴国有り」について

 「その」、「そな」、「 しゃな」、「しゃぬ」、「さの」、「つな」、「つの」国と読む。妲は姉と同じ意味である。且は多いことを意味する。従って、この国は女が多く集まる国を意味している。

 九州説では三潴郡、筑紫地方、門司などにある曽根が比定される。大和説では淡路島東岸の津名国(佐野村、茅野一帯)、都怒山、大阪府和泉の佐野市辺り、信濃の塩尻.諏訪、都奴国(周防国都濃郡) が比定される。


 「次に對蘇国有り」について

 「つそ」、「つさ」、「 とゐそ」国と読む。

 対は向き合うこと。蘇は別れること。従って、この国は、二つに別れて相対している地方を意味している。恐らく、次の蘇奴国と相対している国という意味であろう。

 九州説では肥前国鳥栖郡に比定される。現在の鳥栖市鳥栖町である。大和説は、四国の土佐の南海岸.土佐市一帯、兵庫県の但馬国にある津居山付近城崎町辺りに比定する。


 「次に蘇奴国有り」について

 「その」、「そな」、「そぬ」国と読む。

 對蘇国の片方、川によって二分された、その片方の国であることを意味している。

 九州説では福岡県朝倉郡に「曽根田」が比定される。大和説は姫路の東南曾根町辺り、讃岐の海浜平野地帯、佐那国(伊勢国多気郡佐那)が比定される。


 「次に呼邑国有り」について

 「こお」、「こゆ」、「ほを」、「 をいふ」国と読む。

 邑は一定の領域を示す。周囲に防備を施して境界をつくり、その中に治下の人民を入れたのを邑という。つまり領民を入れた領域である。防備を施した境界は、城のことである。そこには兵士がいる。

 呼の字は、卑弥呼の場合にはこと読まれているが、他には万葉仮名としては使用された例がない。通常はをを表わすための万葉仮名として使われている。呼と音の近い乎の字も、助詞のをなどを表わすための万葉仮名として使われている。

 九州説では***が比定される。大和説は三河国加茂郡の荻生庄辺り、甲斐一円が比定される。


 「次に華奴蘇奴国有り」について

 「 かのその」、「かなそな」、「かぬそぬ」、「はなそな」、「はなその」国と読む。

 この国は、前記蘇奴国と隣り合った華奴国ということであろう。華というのは、華やか、いろどり、美しいという意味である。山在り、田在り、川在り、海在りの恵まれた土地という意味である。

 九州説では、安本氏によると吉野ガ里遺跡のある神埼地方が比定され、神埼を和名抄で加無佐岐とあることに関連して、華奴蘇奴に音訳比定している。大和説では、猪名川の中流以下の流域、大阪.兵庫の境にある尼崎市一帯付近、淡路島が比定される。


 「次に鬼国有り」について

 「き」、「こゐ」国と読む。

 鬼は亡霊、霊魂のことである。従ってこの国は、先祖を祀る国という意味である。古墳ないし神社の存在が予定されていることになる。

 九州説では肥前国の基の郡に比定した。現在の基山町の地である。大和説は、紀伊の国十津川以西一帯に比定する。


 「次に為吾国有り」について

 「いご」、「いが」国と読む。

 為は姿を変えることである。つまり複雑な地形を意味している。吾は語の原字で、言葉をかわすことである。接触が多いという意味にもなる。従ってこの国は、複雑な地形で、人の出入りが多い国を意味している。

 九州説では**。大和説では伊賀国(三重県)一円.木津川上流の名張市辺り、 伊予国(愛媛県)が比定される。


 「次に鬼奴国有り」について

 「きの」、「きな」、「きぬ」国と読む。

 これも祖霊を祀る国である。

 九州説では**。大和説では桑名市.四日市市、和泉の泉佐野市一帯、毛野国(栃木・群馬県)が比定される。


 「次に邪馬国有り」について

 「やま」国と読む。

 邪は海に張り出した半島、馬は田や畑のある丘陵地帯。

 九州説では福岡県と熊本県の県境の八女市、八女郡あたりが比定される。大和説では丹波山地の旧山口一帯、山城国(京都府) 、山背の木津川中下流一帯.生駒山北方地帯が比定される。


 「次に躬臣国有り」について

 「くし」、「くじ」、「こし」、「こもしに」 、「きゅうしん」国と読む。

 躬は体を丸く曲げることである。又極まる、という意味も在る。臣は君に仕える者、または屈服の意味も在る。従って、この国は、曲がったところが極まるところ、の地形を意味している。

 九州説では大分県日田市の隣の玖珠(くす)町あたりが否定される。大和説では熊野地方、出雲一円、越国(福井〜新潟県)が比定される。


 「次に巴利国有り」について

 「はり」国と読む。

 巴は頭の大きい蛇のことで、それが利(道)にはっている様を表わす。従って、この国は、躬臣国の胴体部分になる国を意味している。

 九州説では、八女郡辺春(へばる)村あたり、三潴町原田(はるだ)や三潴郡壱町原(いっちょうばる)、福岡県の春日原(かすがばる)あたりが比定される。大和説では尾張の国、播磨一円が比定される。


 「次に支惟国有り」について

 「しい」、「きい」、「きび」、「しゆい」国と読む。

 支は枝、分かれることである。惟はただ一人、の意味がある。従って、この国は、大きなものから、ポツンと飛び出して分かれている半島を意味している。

 九州説では背振山脈東端の佐賀と福岡の県境にある基肄(きい)城址あたりが比定される。大和説では紀伊の国、備前.備中.備後一円が比定される。


 「次に鳥奴国有り」について

 「うな」、「あな」、「うぬ」、「をの」国と読む。

 鳥はつかえる、ノドにつかえることを意味する。

 九州説では福岡県の宗像郡には「奴山(ぬやま)」が比定される。大和説では兵庫県小野市、長門一円、阿那国(近江国坂田郡阿那郷)が比定される。


 「次に奴国有り」について

 「の」、「な」、「ぬ」国と読む。

 二つ目の奴国を廻って、重複しているのか、別に二国存在していたのかであるのか両説がある。

 三宅米吉氏は誤っての重複説、松本清張氏、宮崎公平氏は意識的な重出説を唱えている。

 別の国の説もある。その根拠は、人口二万余戸の官名も記された大国の奴国と21の傍国として挙げられている中の一国とを同等しする訳にはいかないと解釈する。祖奴国とか鬼奴国とあるように奴国の前にもう一字あった可能性もある。

 奴の字は一般に助詞の「の」の意味であろう。

 九州説では福岡県の宗像郡には「奴山(ぬやま)」が比定される。大和説では摂津の灘、六甲山系南麓一帯、難波国(大阪北部・神戸)が比定される。


 「此れ女王の境界の尽きた所なり」について

 この文章を直前の奴国を受けて理解する説と、いろいろの国があるが、後は女王国の支配権外であると広く解釈する説とがある。「女王の境界」とあり、女王國とは言っていない。その違いは分からない。いずれにせよ、「女王の権力が及ぶ範囲」と考えられる。


(私論.私見) 解読取り決め34、女王国構成諸国比定考

 「女王国を構成する諸国」につき、漫然と記されているのか、厳密に記されているのかはっきりしない。但し、この件の記述の意義は、邪馬台国及び女王国の比定に重要性を示している。つまり、邪馬台国をあれこれの地に比定する者は同時に「女王国を構成する諸国」の比定をも引き受けなければならないと云う制限を課している。しかし、案外このことが無視され、単に邪馬台国の比定地のみが喧騒されている。 

 実は、「女王国を構成する諸国の比定」は無視しているのではなく、できないと考える。これの救済案を生み出すことにする。邪馬台国隣接21ケ国は、江戸時代の各藩の江戸屋敷のようなものとして考えれば良いのではなかろうか。それぞれ本国を持つが、仮に邪馬台国を奈良県桜井市辺りに比定したとして、これに忠誠を誓う各国が江戸詰の如く出先領地を構え邪馬台国を囲む形で衛星国を形成していたのではなかろうか。これを仮に「女王国構成諸国藩屋敷論」と命名する。これにより奴国の重複が容易に理解できることになる。同じ理解で同様の遠国の21ケ国入りも理解できるようになる。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

其の南に、狗奴国有り。

男子を王と為す。
其の官に狗古智卑狗有り。
女王に属さず。

【総合解説】
 ここで、狗奴国が登場している。(逸文)魏略は、「女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也」と記している。

【逐条解説】

 「其の南に」について
 「其の」は直前の奴国を指す説と邪馬台国説の二通りが考えられる。私説は、邪馬台国を指すと受け取る。こう解すると、狗奴国は邪馬台国の南に位置した国と考えられる。「女王国構成諸国藩屋敷論」によれば、狗奴国が元々からかいつの時点からかは分からないが邪馬台国を中心とする参勤交代諸国と対立していたと云うことになるのではなかろうか。

 「狗奴国有り」について
女王の境界をどこに引くかは、昔から、ここの奴国はあの奴國とどう違うのかなどと関連していて、諸説あるようですね。
 狗奴国はもとは女王国に属していたのではないかと思われます。国王が女王國に属していたころの「官名」をもっているからです。狗奴国は独自に製鉄技術を手に入れて鉄を生産できるようになり、一方で鉄を輸入に頼るしかない女王国よりも先進国となったのが、女王国が狗奴国を最も恐れた理由ではないかと私は感じております。
 私の実家(熊本県水俣市)の庭を掘ると打製石器が出ます。また、近くには鉄塊が出る台地があって、有史以前に製鉄をしていたようです。「官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う」について

 狗奴国は「クノ」、「クヌ」、「ケヌ」などと読まれる。「狗」は、對島国、一大国等の官の卑狗にも使われている。字義的には、狗は走狗(手先)、狗盗(こそどろ)などに用いられ、卑弥呼の卑同様に卑字の当て字と考えられる。但し、卑狗の場合には「卑狗=彦」と考えられるので拘る必要はないかも知れない。

 狗奴国が、後の女王国の下りで登場する珠儒国、裸国、黒歯国の後ではなく、邪馬台国の衛星21カ国に続いて記されていることは、邪馬台国―女王国からみて以外と近い位置にあり、同一政治圏にして元々は同盟国であったことを窺わせると思う。


 「邪馬台国総論」の「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」は次のように記している。

 「狗奴国は邪馬台国の南の国だ錯覚しやすい。しかし、よく読んでみると、そうとは言い切れないことが分かる。 「其南」の起点が不明だ。女王国(邪馬台国)の南なのか、女王国と狗奴国の間に上の諸国を挟むのか。なかでも、最後に出てきた奴国の南なのか? これにより、後の狗奴国との抗争の性質も変わる。「女王国の南」、「奴国の南」なら邪馬台国と狗奴国の争い、そうでなければ、「倭国全体」と狗奴国の大規模な争いとも解釈できる。 女王に従わないのは何時のことか?狗奴国が、後に登場する珠儒国・裸国・黒歯国と同じ場所ではなくここに書かれているのは倭国の一部という認識か? 後に登場する狗奴国との抗争を論拠として、狗奴国は邪馬台国を中心とする倭国30ヶ国連合に匹敵する大国とする説があるが、どうも素直には受け入れにくい。倭国を構成する一国と同規模のような気がする。 だとしたら、もともと邪馬台国を中心とした倭国連合に属していた狗奴国が、倭国連合の盟主の座を狙って、邪馬台国に反旗を翻したという見方が出来ないだろうか?」。

 この問題意識、解析は私説とほぼ重なる。

 九州説では、熊襲や隼人などに当て、「クコチヒコ」は肥後地方で勢力のあった「和名抄」に見える菊池郡久久地、後の岐久地(現在の菊池市)と関係 があるとする。肥後国北辺の菊池郡は、筑後国南辺の八女郡.山門郷と境を接しており、この地形位置は倭人伝の記載通りであるとする。白鳥庫吉氏は熊本球磨川に名を残している球磨地方であろうといい、「クナ」を「クマ」に音訳している。内藤湖南氏は九州の熊襲であるといい、「クマソ」は球磨と阿蘇とがつづまったものとする。異説として、川内平野説もある。川内平野を中心として、阿久根.串木野の海岸線と宮之城線の入来町あたりを結ぶ三角形の地域とする。

 畿内説では、笠井新也氏は大和の南の熊野であると主張している。志田不動麿も紀州の熊野(和歌山県熊野説)とする。濃尾平野説(赤塚次郎)もあり、前方後円墳と前方後方墳という古墳の形状の違いから、前方後方墳の分布範囲だった濃尾平野を狗奴国の地だと推定している。本居宣長は、四国の伊予国風早郡河野郷とする。その南を東と考え、狗奴国を「毛」の国と読み取り、毛人、蝦夷など、関東以北の大和朝廷に敵対した「ぬ部族」とする説もある。山田孝雄氏は群馬県毛野国説(関東毛野説)を唱えている。

 先代 旧事 (く じ)本紀の国造本紀に「久努(くぬ)国」が記されている。静岡県袋井市あたりの東海連合が比定されている。それを支えた氏族は、「ニギハヤヒの命」を祖神とし、同族を称していた尾張氏と物部氏と思われる。国造本紀によれば、東海諸国の大半を占める七カ国の国造の祖が尾張・物部氏とされている。発生期の古墳の形式についても、畿内が前方後円墳であるのに対し、東海地方は前方後方墳が卓越しており、それに先行する弥生時代後期には三河・遠江地方を中心にして畿内地方とは異なる三遠式銅鐸が発達している。この東海連合が魏志倭人伝の記す「狗奴国」の実態であろう、とする説がある。

 【れんだいこの比定する狗奴国とは】
 狗奴国の比定地について私説はこう考える。狗奴国の条件として、1・邪馬台国衛星諸国の南か邪馬台国衛星諸国末尾の奴国の南、2・男子を王と為す、3・其の官に狗古智卑狗、4・女王に属さずの4条件を充足させる必要がある。私説は、大和の南の紀州の熊野説(和歌山県熊野説)を採る。その理由は、とりあえずは古代史全般から推量できるとしておく。これを「比定地12、狗奴国」とする。それにしても、笠井新也説とよくも符合することに驚かされる。

 「男子を王と為す」について
 字義表記通りである。

 「其の官に狗古智卑狗有り」について
 狗古智卑狗は「クコチヒコ」、「コウウチヒク」と 読まれている。九州説では菊池彦と解釈し、熊襲勢力の王とみなす説がある。(逸文)魏略では、「狗古智卑狗」を「拘右智卑狗」と記している。「古」と「右」の違いである。
(私論.私見) 解読取り決め35、狗古智卑狗考
 狗古智卑狗につき、「狗」は狗奴国の項で説明した通りで「ク」音の卑字であると考えられる。「古」は、魏志倭人伝では「古」、魏略逸文では「右」と記されている。いずれが正解だろうか。魏略逸文原文は「古」の記述のところ、その写筆過程で「右」と間違った可能性が考えられる。私説は、これを採る。或いは魏略逸文原文が「右」のところ、魏志倭人伝の方が誤って「古」と記述したとも考えられる。私説は、「狗古智卑狗」の方が辻褄が合うと考えるので、この説を採らない。「智」は意味深な気がする。「古」は「智」に掛かっており「狗」+「古智」と解すべきと思う。「古智」をそのまま解せば「古い智」となる。これをそのまま理解すれば、邪馬台国―女王国形成前の王系たる「古智」と読める。続いて「女王に属さず」とあるのは、何らかの理由で、例えば卑弥呼共立時の紛争で反目した等により女王国入りしなかったと考えられる。狗古智卑狗の「卑狗」は対島国の大官、一大国の官としての「卑狗」と同じであり、卑弥呼の「卑」を共有していることに注目したい。これは、狗奴国が元々邪馬台国連合国≒女王国と同じ歴史圏内に居たことを推定させる。そういう「卑狗」として捉えたい。

 狗古智卑狗を推定してみるに、断定できる根拠はないが、「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し」に匹敵する「狗古智卑狗と猿田彦の命の二重写し」を想念する。猿田彦の素姓は諸説あるが、私説はこれを出雲王朝系で捉える。さすれば、古い時代の出雲の元神であり神楽の祖とされている熊野大神、佐太大神の旧出雲王朝系が思い当たることになる。この時代に古神道の型が生まれており、「狗古智卑狗」の「古智」が誠に似合う。対照的にスサノウ―大国主の命系は出雲王朝内の新神系であり、出雲王朝支配権を合法的に奪権し新出雲(統一出雲)王朝を創始したと考えられる。この経緯で、出雲王朝内には絶えず新旧両神系の確執が介在していたのではなかろうかと思われる。かく理解すれば、他の史書の記述と整合する。ちなみに、神道で云えば、伊勢神道の神道に対して出雲神道は古神道となり、且つ古神道は旧出雲王朝時代に型が生まれているものの、最古の出雲神道が旧出雲時代のものであり、新出雲(統一出雲)王朝時代に古神道が磨きに磨かれ出雲神道として形成されていたと推量すれば他の史書の記述と整合する。

 出雲と大和の同盟関係は旧出雲王朝系の御代より成立しており、スサノウ―大国主の命系の新出雲(統一出雲)王朝時代も当然の如く大和に進出し同盟関係を構築していたが、旧出雲王朝系の御代との友誼に就く勢力が根を張っており、即ち出雲王朝内の対立が大和にも持ち込まれていたのではなかろうかと思われる。佐太大神は出雲に留まっている形跡が見られるので、大和における反新出雲(統一出雲)王朝勢力は熊野大神系と考えられる。してみれば、狗古智卑狗は大和地内の旧出雲王朝系の熊野大神系譜の豪族と考えられるのではなかろうか。その狗古智卑狗―熊野大神が猿田彦の命と考えられるので、「狗古智卑狗と猿田彦の命の二重写し」となる。

 猿田彦は、高天原王朝の天孫降臨に当たって先導役を務めたことで知られる。記紀神話によれば、「ニニギの命が天降り始め、地上へと続く道が八本に分岐する天の八またのところに差し掛かったとき、『上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす』見たことのない一人の神が道に立った」とある。この記述の「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」なる形容がまことに狗古智卑狗を髣髴させないだろうか。「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」とは、高天原と葦原中国の双方に事情通にして歴史通にして相当の影響力を持っていることを陰喩しているように思われる。この神を熊野大神―狗古智卑狗と同視すれば、旧出雲王朝の王族の王族にして統一出雲王朝後にはやや冷や飯を食わされており、その鬱憤により天孫族の降臨に際して誼を通じる事で旧出雲王朝勢力の再興を図ろうとしていたのではなかろうか。こう理解すれば、熊野大神―狗古智卑狗が猿田彦として水先案内人登場したことが整合的に理解できることになる。

 この推論に従えば、高天原王朝の天孫降臨、東征と邪馬台国はほぼ同時代の流れであることになる。高天原王朝の動きで見れば、国譲り、天孫降臨、東征、神武天皇即位であり、これを出雲王朝の側から見れば、国譲り、出雲族の降臨、女王卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国創出、卑弥呼の死、台与の後継、やがて滅亡となる。してみれば、これらは紀元2、3世紀の流れとなる。従って、神武天皇即位をこの時代より900年も昔の紀元前660年に措くと云うこと自体が、この日本史上最大の政変を覆い隠す詐術以外の何物でもないと云うことになる。

 2011.8.13日再編集、2011.8.21日再編集 れんだいこ拝
 「邪馬台国総論」の「狗奴国の男王・卑弥弓呼という名の意味」は私説に近い。「これらに共通するのが、邪馬台国を中心とした倭国連合とは違う異文化圏・異民族圏のような存在として、狗奴国を見る傾向が強いのである。でも、それは本当にそうなのだろうか?」と問い次のように述べている。
 「 邪馬台国論争で注目されるのが、邪馬台国の女王・卑弥呼とは仲が悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼である。この名前を聞いたとき、卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性の強さから、この二人は非常に近い文化圏の者同士なのだと推測できるのでは?いや、それどころか、この二人には同族の匂いすら感じるのである」。
 然りであろう。更に、「卑弥弓呼」の字義を解析して次のように述べている。
 「卑弥弓呼という呼称は、彦御子、彦命を表している説もある。これらは、日本書紀や古事記にも出てくる皇族たちの尊称でもあり、卑弥呼、卑弥弓呼も神聖化された存在だった可能性が強い」、「魏志倭人伝に伝えられた狗奴国の男王の呼称は、卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)という尊称で伝えられているのだ。この呼称は、おそらく、邪馬台国側が狗奴国の男王のことを卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)と呼んでいたから、魏志にはそう記されたのだと思う。ということは、狗奴国の男王は、敵対している邪馬台国側の人間から、尊称で呼ばれていたと想像出来る」、「 これは、狗奴国の男王「卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)」が、邪馬台国の女王「卑弥呼(日巫女 or 姫命)」と同族の王家の出身だったからなのでは?そのように解釈すれば、この邪馬台国と狗奴国との戦いが、邪馬台国を中心とした大倭国連合の身内同士の主導権争いだったのでは?という結論になるのでは?」。
 然りであろう。

 「狗奴国の男王・卑弥弓呼という名の意味」管理人のここまでの見立ては良い。しかし、この後、「当サイトでは、この狗奴国の男王を、日本書紀などに登場する武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、孝元天皇の皇子)のことだと解釈している」と述べている。私説は、これを採らない。既に述べているように、「熊野大神―狗古智卑狗=猿田彦」説を採る。

 2011.9.12日 れんだいこ拝

 「女王に属さず」について
 狗奴国が邪馬台国連合国に服さなかったことが明らかにされている。

 【水野祐・氏の狗奴国論考】
 水野祐・氏は、狗奴国の範囲を日向や薩摩地方に求め、その前身を元の倭奴国で紀元前2世紀頃、狗邪韓国や倭奴国に南下してきた北方アジアのツングース系騎馬民族であるとした。応神天皇が九州を統一、その狗奴国が邪馬台国を滅ぼして畿内に進出し仁徳王朝を作ったという三王朝交代説を打ち出している。これは、騎馬民族征服説に対しネオ騎馬民族征服説と呼ばれる。邪馬台国の風俗描写とされていた記述を狗奴国の記述と捉え狗奴国の存在を大きなものとしている。更に魏が邪馬台国の要請を受けても狗奴国に追討の軍を派遣しなかったのは、もともと狗奴国も朝貢していた魏の属国であったためであり、卑弥呼の死後、台与と思われる倭女王が晋の建国に朝貢(266年)した記事があるのみでその後の消息がないのは邪馬台国が狗奴国に敗れ消滅した故であるとしている。
(私論.私見) 解読取り決め36、水野式三王朝交代説考
 私説は、水野式三王朝交代説を採らない。その理由は、記紀神話との絡みになるが、狗奴国は高天原王朝による邪馬台国攻撃の際に、高天原王朝側として加担した役割を持つが、それ以上ではないと読む。更に云えば、狗奴国は出雲王朝の御代からの古株国であり、大国主の命の形成する新出雲王朝と対立していたと見る。天孫降臨神話に出てくる「上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす」サルタ彦(猿田昆古)の役割を果たしたのが狗奴国と見立てるからである。

 2011.8.15日 れんだいこ拝

郡より女王国に至るには、万二千余里

【総合解説】
 この記述で行程記事が終わる。

【逐条解説】

 「郡より女王国に至るには」について
 郡とは帯方郡のこと。

 「万二千余里」について

 この記述は魏略逸文、後漢書倭伝のそれと対応している。これを確認しておく。

魏略逸文  「自帯方至女國万二千余里」。
後漢書倭伝  「楽浪郡徼去其國萬二千里」
魏志倭人伝  「自郡至女王国万二千余里」

 この里程につき、正式な里程として考える説と中国の野蛮夷朝貢国扱いの数字とする説とある。

 ○正式里程説

 通説であり、次のように理解することになる。

郡 → 狗邪韓国 七千余里
狗邪韓国 → 対馬国 千余里
対馬国 → 一支国 千余里
一支国 → 末盧国 千余里

 ここまでの里程を合計すると、一万余里となる。ということは、残り二千里が邪馬台国へ至る道程といことになる。この二千里という距離は、解釈上、狗邪韓国から対馬国、対馬国から一支国、一支国から末盧国迄が各千余里であるからその二倍の距離ということになる。末盧国より伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へ至る方法には、既に述べたように連続説と放射説があるので、どちらを選ぶかにより差異が出てくる。更に、連続式の場合には末盧国起点説、伊都国起点説、不弥国起点説等々があるがここでは末盧国起点説を採用するものとする。

 ○連続説の場合

末盧国 → 伊都国 五百里
伊都国 → 奴国 百里
奴国 → 不弥国 百里

 となり、先の一万余里+七百里=一万七百里で残り一千三百里となる。続いて、

不弥国 → 投馬国 水行二十日
投馬国 → 邪馬台国 水行十日.陸行一月

 となる訳であるから、この距離と一千三百里が符合せねばならないことになる。ところで、一千里の距離は狗邪韓国から対馬、対馬から一支国、一支国から末盧国と同等の距離であるから、この同比率の距離+三百里が邪馬台国への距離となる。九州説を唱える者には便利であるが、果たしてこう解釈するのが正しいであろうか。

○放射説の場合

 末盧国起点説に従うと、末盧国より邪馬台国へ至る「水行十日.陸行一月」の距離と二千余里が符合せねばならないことになる。但し、この二千里は狗邪韓国より一支国ないし対馬国より末盧国の距離に相当することになるべきであるから、この説に従っても九州説を唱える者には便利であるが、畿内説論者には不利であると思われる。

○観念的理数説

 松本清張氏は、漢書地理志西域伝にある「けい賓国カシミールは長安からは万二千二百里で」、「鳥才山離国パルティアの東のアレキサンドリア の王の治所は長安を去る万二千二百里で、都護に属さず」、「安息国は長安を去る万一千六百里で、都護に属さず」、「大月氏国アフガニスタンは万一千六百里で」、「康居国中央アジアのキルギスは万二千三百里」で、「大宛国中央アジアのタシュケント地方であるフェルガーナは万二千五百五十里」で、と云う風にこれらの諸国全てが大凡万二千里前後に記述されている筆法に注目し、単に五行思想から発した地理的観念に基づいた長大な距離を表わす観念的な里数であり、実数ではないとしている。

○直線距離説

 万二千余里を郡より邪馬台国へ至る直線距離と推測する。仮に万二千余里が正しい記述とみなした場合でも、倭人伝記載の各里程は、魏の使節が各地各国に紆余曲折しながら立ち寄った場合の距離であり、この数字と万二千余里とは元々整合しないものと思われる。諸説のうちには数式的に整合させたものも見受けられるが、逆にひづみも生じさせ無意味な徒労と思われる。

○魏略表記継承説

 この文章はいわば唐突に記載されているやに見受けられることから、魏略他の別の史料よりの転載であると見るもみることができる。その表記を捨てるのに難を感じて単に受け継いだのかも知れない。その意図には、中華思想記述による遠方の属国からの朝貢を言挙げしたものであり、「万二千里」とはそうした際の中国の常用語とも云えるのではなかろうか。実際にはもっと近い場合も遠い場合も考えられると思う。

(私論.私見) 解読取り決め37、「万二千余里」考
 「万二千余里」につき、私説は魏略表記継承説に従う。即ち、「郡より女王国に至る実数距離ではなく、魏志の蛮夷伝に使われている慣用的な表現であり遠近の差を知らせているぐらいに受け止めれば良いのではなかろうかと解する。そういう意味では松本清張氏の観念的理数説による漢書地理志西域伝の例証を貴重としたい。これに次の私説を加えたい。「万二千余里」を実数とするなら、邪馬台国の行程記述「南へ 邪馬壹国に至る。女王の都する所。水行十日、陸行一月」に続いて「郡より女王国に至るには、万二千余里」と記すべきであり、こう記さず、21カ国、狗奴国を述べた後に突如挿入的に記されていることの意味を窺うべきではなかろうか。21カ国、狗奴国を述べた後の記述が不自然不似合いと思う。

 これは「魏略他の別の史料よりの転載」にして、削除し難い何らかの理由があったと思わねばならない。その理由は分からぬが実数表示とは受け取りにくい。よって、この「郡より女王国に至るには、万二千余里」を絶対視して、郡より不弥国の距離を差し引き、「先の一万余里+七百里=一万七百里で残り一千三百里となる」とし、この1300里の距離から邪馬台国を求めると云う数式比定法は如何なものかと思う。

 2011.8.13日再編集 れんだいこ拝

 これより後は、「倭国の風俗について」に記す。





(私論.私見)