駅家は、山口県美祢市西厚保町本郷。厚狭川の上流に位置し、日本海に向かう官道が通っており、阿津駅が置かれていました。次の駅家は、鹿野駅です。
長門国厚狭郡に続き、豊浦郡を投稿させて頂きます。
浦は「海岸」の意味に思われがちですが、本来は海岸が入り江や湾を成すところを言います。まさに、豊浦郡はそいう地形をしています。
豊浦郡は、田部・生倉・室津・額田・駅家・栗原・内日・神田の八郷です。式内社の数は、住吉坐荒御魂神社三座・忌宮神社・村屋神社の五座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺と考えてください。
田部は、山口県下関市菊川町田部。田部郷は、伊勢国渡會郡、下総匝瑳郡、下野足利郡、出羽河邊郡、筑前早良郡にもあり、物部氏の一族である田部氏が住んでいたと言われています。
生倉は、山口県下関市伊倉町。弥生時代前期の複合遺跡である綾羅木郷遺跡があり、また、若宮1号墳(5世紀中頃の前方後円墳)などがある郷です。
室津は、山口県下関市豊浦町室津下。「室」の付く地名は河谷や海岸に多く、地形的に山などに囲まれています。牟呂や牟婁と表記されている場合もあります。式内社の村屋神社〔長門国三之宮杜屋神社〕があり、御祭神は三保津姫命です。
大門古墳、天神古墳、長仙古墳があり、栄えていたことが窺えます。
額田は、山口県下関市長府宮の内町。額田氏は、大和国平群郡額田を本貫とし、伊勢国桑名郡、筑前国早良郡などにも郷があるほどの大豪族です。国造である穴門氏は、その一族です。因みに、この郷に国府が置かれていました。
式内社の住吉坐荒御魂三座〔住吉神社〕は、住吉大神の荒御魂を祭る名神大社です。また、式内社の忌宮神社は、息長帯比賣命を祭る式内小社です。
駅家は、山口県下関市小月町。長門国厚狭郡松室郷の西にあって官道が通っており、宅賀駅が置かれていました。そして、官道は、神田郷、額田郷を経て臨門駅(下関市壇ノ浦町)に至ります。
栗原は、山口県下関市豊北町田耕。「田耕」をタスキと読みます。一般的には田を耕すと理解されるでしょう。しかしながら、地名の場合、スキは、村落を意味することがあります。「栗」や「スキ」が付く地名の郷には渡来人や帰化人が住んでいることがあるので気になります。
内日は、山口県下関市内日上。
神田は、山口県下関市王司神田。駅家郷の南西にあり、また、額田郷のに隣接しており、おそらく、住吉坐荒御魂神社と忌宮神社の神戸であったと考えます。
長門国は、古くは穴門国と呼ばれておりましたが、阿武国を併せて長門国と呼ばれるようになりました。天智天皇四年の条に「城を長門国に築かしむ」とありますから、交通上の要衝であるばかりではなく、国防上の要衝でもあったことが窺えます。
厚狭郡は、見穂・小幡・厚狭・久喜・二處・神戸・駅家・良田・松室の九郷です。式内社はありませんが、別府八幡宮が山口県山陽小野田市有帆にあります。創建は神護景雲四年(770年)の古社です。
『倭名類聚抄』の地名部の郷の記載は、一見ランダムに見えますが、郷を比定してその分布を見ると、そうではないことが判ります。つまり、簡単な地図をイメージして書かれています。それゆえに、注意深く読む必要があるのです。
次に、比定地の住所を書きます。地点名なので、その周辺とお考えください。
見穂は、山口県山陽小野田市有帆。「有帆」は、見穂の転化であると考えられる。
小幡は、山口県宇部市西万倉。
厚狭は、山口県山陽小野田市厚狭。厚菱村の大字として残っています。
久喜は、山口県宇部市船木。久喜という地名は東北・関東・北陸・山陰・四国・九州北部にあります。小高い丘を意味する地形語です。
二處は、山口県宇部市吉見。この郷には、阿潭駅が置かれていました。
神戸は、山口県宇部市東須恵。神戸は。神社の封戸です。
駅家は、山口県山陽小野田市埴生。律令制時代には、官道に駅が設置されていました。埴生駅はここにあったと考えられます。
良田は、山口県下関市吉田。吉田村として残っています。
松室は、山口県下関市松屋本町。松室は、松屋の誤記だと思われます。
今日、市町村合併や都市化に伴う区画整理によって古代地名を探すのは非常に困難になっています。
私は、明治の測量地図を利用しています。古代地名が村の名や大字・小字として残っていることがあるからです。さらに、位置も正確に判ります。
河川や神社の名や遺跡・古墳の分布も手掛かりになるので調べています。
郷の分布についは、国土地理院地図等でご確認ください。では、次回の投稿をお待ちください。
皆さん、私の投稿に沢山の「いいね」を下さりありがとうございます。
六十六ヵ国と壱岐・対馬の風土記の大部分は、失われて、『常陸国風土記』、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』と他の文献に引用された逸文と呼ばれる断章が残されていだけです。しかしながら、風土記が失われたことを残念がることはありません
『倭名類聚抄』の地名部と『延喜式神名帳』は、律令制時代の地理を知る上で重要な基本資料です。また、古墳時代の地理を知る手掛かりでもあります。十分とは言えないかもしれませんが、私は、それを元に古代の地理を再構成し、復元することを試みたいと思います。
投稿の折々に古代地名の探し方について述べさせて頂きたいとも思います。
投稿は。六十六ヵ国と壱岐・対馬の各郡別に行います。