風土記

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).2.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、風土記を概括しておくことにする。

 2009.1.9日 れんだいこ拝


関連サイト

目次
コード№ 中項目
風土記編纂考
出雲風土記考(完本)
播磨国風土記
常陸国風土記
豊後国風土記
肥前国風土記
山城国風土記(逸文)
摂津国風土記(逸文)
伊勢国風土記(逸文)
尾張国風土記(逸文)
遠江国風土記(逸文)
陸奥国風土記(逸文)
越後国風土記(逸文)
丹後国風土記(逸文)
伯耆国風土記(逸文)
備中国風土記(逸文)
備後国風土記(逸文)
長門国風土記(逸文)
阿波国風土記(逸文)
伊予国風土記(逸文)
土佐国風土記(逸文)
筑前国風土記(逸文)
筑後国風土記(逸文)
豊前国風土記(逸文)
豊後国風土記(逸文)
肥後国風土記(逸文)
日向国風土記(逸文)
大隅国風土記(逸文)
壱岐国風土記(逸文)
インターネットサイト
関連著作本




(私論.私見)

長門国阿武郡について投稿させて頂きます。
阿武郡は、穴門国と阿武国を併せて長門国が置かれる前は、阿武国と呼ばれていました。かつて、この国を支配していたのは、国造あった阿牟氏でした。自分たちを神魂命の子孫であると称しています。
阿武郡の郷は、阿武・椿木・大原・宅佐・多萬・住吉・神戸の七郷です。式内社はありません。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺とお考えください。
阿武は、山口県阿武郡阿武町奈古。国郡里制では、郡に郡衙が置かれていました。記録によれば、この郷に郡衙があり、また、阿武駅が置かれていました。
椿木は、山口県萩市椿。垣田駅が置かれていました。
大原は、山口県山口市阿東徳佐中。同名の郷が因幡国氣高郡、出雲国大原郡、播磨国赤穂郡、美作国英多郡にあります。
宅佐は、山口市萩市高佐下。
多萬は、山口市萩市下田万。
住吉は、山口市萩市浜崎町。
神戸は、山口市萩市中小川。「神田」と書いてカンデと読む字が残っています。この郷には、小川駅が置かれていました。官道を東に向かうと、石見国美濃郡美濃に至ります。すなわち、国境の郷です。
長門国大津郡について書かせて頂きます。
大津郡の郷は、三隅・深川・日置・三島・向国・駅家・二處・神戸・稻妻の九郷です。式内社はありません。
次に、比定地の住所を書きます。地点名ですのでその周辺とお考えください。
三隅は、山口県長門市三隅下。長門国美禰郡作美郷と境を接しており、三隅駅という駅家が置かれていました。
深川は、山口県長門市東深川。同名の郷が飛騨国荒城郡と下野国梁田郡にあります。
日置は、山口県長門市日置上。天平勝宝四年(752年)に書かれた文献に「長門司日置山守家刀自」という名前が出ています。日置氏がこの郷に住んでいたことは間違いありません。
三島は、山口県萩市見島。萩市の沖にある島です。この島には、見島ジーコンボ古墳群があります。この古墳群は、7世紀から10世紀初めに造られました。埋葬者は、副葬品などから島民ではなく、新羅などの侵略を防ぐために駐屯していた武人たちだと考えられています。すなわち、防人の郷です。因みに、同名の郷が伊豆国賀茂郡、下野国都賀郡、越中国射水郡、越後国三島郡、筑前国上座郡にあります。
向国は、山口県長門市油谷向津具下。
駅家は、山口県長門市深川湯本。長門国美禰郡美禰に接し、由宇駅という駅家が置かれていました。
二處は、山口県長門市俵山。長門国厚狭郡にも同名の郷があります。
神戸は、山口県下関市豊北町神田上。土居ヶ浜遺跡がこの郷にあります。土居ヶ浜遺跡は、国指定史跡で弥生時代前期から中期の埋葬遺跡です。また、和久1号古墳があり、古墳時代にも住民がいたことが窺えます。
稻妻は、山口県下関市豊田町稲見。「稻妻」をイナメと読みます。稲見は稻妻の転化です。
長門国美禰郡について書かせて頂きます。
美禰郡は、美禰・渚鋤・位佐・作美・賀萬・駅家の六郷です。式内社はありませんが、壬生神社という国史現在社があります。
次に、比定地の住所を書きます。地点名ですのでその周辺と考えください。
美禰は、山口県美祢市大嶺町東分。美禰には、鹿野駅が置かれていました。厚狭川に沿って北上し、意福駅(美祢市於福町下)を経て長門国大津郡駅家郷に至る官道があり、また、東に向かい、北上し、渚鋤の郷を抜けて参美駅に至る山路がありました。この郷は、山陽と山陰を結ぶ交通の要衝でした。
湝鋤は、山口県美祢市美東町赤。「渚鋤」をススキと読みます。
位佐は、山口県美祢市伊佐町伊佐。
作美は、山口県萩市三見。「作美」をサミと読みます。参美駅が置かれていました。
賀萬は、山口県美祢市秋芳町嘉万。「賀満」をカマと読みます。この郷には、国史現在社である壬生神社があり、御祭神は高龗神・神功皇后です。
駅家は、山口県美祢市西厚保町本郷。厚狭川の上流に位置し、日本海に向かう官道が通っており、阿津駅が置かれていました。次の駅家は、鹿野駅です。
長門国厚狭郡に続き、豊浦郡を投稿させて頂きます。
浦は「海岸」の意味に思われがちですが、本来は海岸が入り江や湾を成すところを言います。まさに、豊浦郡はそいう地形をしています。
豊浦郡は、田部・生倉・室津・額田・駅家・栗原・内日・神田の八郷です。式内社の数は、住吉坐荒御魂神社三座・忌宮神社村屋神社の五座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺と考えてください。
田部は、山口県下関市菊川町田部。田部郷は、伊勢国渡會郡、下総匝瑳郡、下野足利郡、出羽河邊郡、筑前早良郡にもあり、物部氏の一族である田部氏が住んでいたと言われています。
生倉は、山口県下関市伊倉町。弥生時代前期の複合遺跡である綾羅木郷遺跡があり、また、若宮1号墳(5世紀中頃の前方後円墳)などがある郷です。
室津は、山口県下関市豊浦町室津下。「室」の付く地名は河谷や海岸に多く、地形的に山などに囲まれています。牟呂や牟婁と表記されている場合もあります。式内社の村屋神社〔長門国三之宮杜屋神社〕があり、御祭神は三保津姫命です。
大門古墳、天神古墳、長仙古墳があり、栄えていたことが窺えます。
額田は、山口県下関市長府宮の内町。額田氏は、大和国平群郡額田を本貫とし、伊勢国桑名郡、筑前国早良郡などにも郷があるほどの大豪族です。国造である穴門氏は、その一族です。因みに、この郷に国府が置かれていました。
式内社の住吉坐荒御魂三座〔住吉神社〕は、住吉大神の荒御魂を祭る名神大社です。また、式内社の忌宮神社は、息長帯比賣命を祭る式内小社です。
駅家は、山口県下関市小月町。長門国厚狭郡松室郷の西にあって官道が通っており、宅賀駅が置かれていました。そして、官道は、神田郷額田郷を経て臨門駅(下関市壇ノ浦町)に至ります。
栗原は、山口県下関市豊北町田耕。「田耕」をタスキと読みます。一般的には田を耕すと理解されるでしょう。しかしながら、地名の場合、スキは、村落を意味することがあります。「栗」や「スキ」が付く地名の郷には渡来人や帰化人が住んでいることがあるので気になります。
内日は、山口県下関市内日上。
神田は、山口県下関市王司神田。駅家郷の南西にあり、また、額田郷のに隣接しており、おそらく、住吉坐荒御魂神社と忌宮神社の神戸であったと考えます。
長門国は、古くは穴門国と呼ばれておりましたが、阿武国を併せて長門国と呼ばれるようになりました。天智天皇四年の条に「城を長門国に築かしむ」とありますから、交通上の要衝であるばかりではなく、国防上の要衝でもあったことが窺えます。
厚狭郡は、見穂・小幡・厚狭・久喜・二處・神戸・駅家・良田・松室の九郷です。式内社はありませんが、別府八幡宮が山口県山陽小野田市有帆にあります。創建は神護景雲四年(770年)の古社です。
『倭名類聚抄』の地名部の郷の記載は、一見ランダムに見えますが、郷を比定してその分布を見ると、そうではないことが判ります。つまり、簡単な地図をイメージして書かれています。それゆえに、注意深く読む必要があるのです。
次に、比定地の住所を書きます。地点名なので、その周辺とお考えください。
見穂は、山口県山陽小野田市有帆。「有帆」は、見穂の転化であると考えられる。
小幡は、山口県宇部市西万倉。
厚狭は、山口県山陽小野田市厚狭。厚菱村の大字として残っています。
久喜は、山口県宇部市船木。久喜という地名は東北・関東・北陸・山陰・四国・九州北部にあります。小高い丘を意味する地形語です。
二處は、山口県宇部市吉見。この郷には、阿潭駅が置かれていました。
神戸は、山口県宇部市東須恵。神戸は。神社の封戸です。
駅家は、山口県山陽小野田市埴生。律令制時代には、官道に駅が設置されていました。埴生駅はここにあったと考えられます。
良田は、山口県下関市吉田。吉田村として残っています。
松室は、山口県下関市松屋本町。松室は、松屋の誤記だと思われます。
今日、市町村合併や都市化に伴う区画整理によって古代地名を探すのは非常に困難になっています。
私は、明治の測量地図を利用しています。古代地名が村の名や大字・小字として残っていることがあるからです。さらに、位置も正確に判ります。
河川や神社の名や遺跡・古墳の分布も手掛かりになるので調べています。
郷の分布についは、国土地理院地図等でご確認ください。では、次回の投稿をお待ちください。
皆さん、私の投稿に沢山の「いいね」を下さりありがとうございます。
六十六ヵ国と壱岐・対馬の風土記の大部分は、失われて、『常陸国風土記』、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』と他の文献に引用された逸文と呼ばれる断章が残されていだけです。しかしながら、風土記が失われたことを残念がることはありません
『倭名類聚抄』の地名部と『延喜式神名帳』は、律令制時代の地理を知る上で重要な基本資料です。また、古墳時代の地理を知る手掛かりでもあります。十分とは言えないかもしれませんが、私は、それを元に古代の地理を再構成し、復元することを試みたいと思います。
投稿の折々に古代地名の探し方について述べさせて頂きたいとも思います。
投稿は。六十六ヵ国と壱岐・対馬の各郡別に行います。