出雲風土記考

 更新日/2018(平成30).7.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで出雲風土記について確認しておく。

 2006.11.22日 れんだいこ拝


【風土記編纂考】
 ユリウス暦713(和同6).5.30(5.2)日、元明天皇の詔「畿内七道諸国郡郷の名は好字を著けよ。その郡内に生ずる所の銀銅彩色草木禽獣魚虫等の物はつぶさに色目を録せ。及び土地ノ沃項、山川原野の名号の由る所、また古老の相伝ふる旧聞異事は史籍に載せて言上せよ」が発せられ、全国の国司に命令された。これによって各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた各地の風土記が撰集された。

 続日本紀によれば、それは次の5綱目に分けて国司に報告するように求めている。1・畿内、七道の諸国は、郡、郷の名には好き字をつけよ。2・その郡内に生ずるところの銀、銅、彩色、草木、禽獣(きんじゅう)、魚虫などの物は、つぶさにその色目を録せ。 3・土地の沃せき(肥沃の状態)、4・山川、原野の名号の所由(地名の起源)、5・古老相伝の旧聞、異事。

 風土記編纂の時期は、律令制の施行に全勢力が注がれていた時期で、律令制定の中心人物であった藤原不比等が、右大臣として政治をとっていた時代であった。 これによって数多くの風土記が編纂されたと思われるが、その多くはその後散逸した。風土記の多くは詔の2-3年後に提出されているが、出雲国風土記は「天平五年(733年)・・・国造意宇郡大領・・・出雲臣広島」と「奥付」にあり、20年後の提出になっている。官道、駅家(うまや)、軍団、烽(とぶひ)、戍(まもり)などが詳しく理路整然と載せられており、他の風土記に比して優れものになっている。現存している「出雲国風土記」は何種類かが「写本」として残されている。現在、
出雲国風土記のみが完本として残され、一部伝存しているのは播磨国風土記常陸国風土記豊後国風土記肥前国風土記の4、合わせて5風土記である。

 その他各国別の風土記逸文がある。山城国風土記、摂津国風土記、伊勢国風土記、尾張国風土記、遠江国風土記、陸奥国風土記、越後国風土記、丹後国風土記、伯耆国風土記、備中国風土記、備後国風土記、阿波国風土記、伊予国風土記、土佐国風土記、筑前国風土記、筑後国風土記、豊前国風土記、肥後国風土記、日向国風土記、大隅国風土記、壱岐国風土記がそれである。残りは廃棄されているか、或いは全く作成されなかったことになる。

 出雲風土記の勘造の日付は733(天平5).2.30日、編纂責任者は出雲国造家の祖・出雲臣広島である。広島は秋鹿郡の人で、神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)の支援協力を得てこれを完成したと明記している。こうした事情の明瞭にわかるのは五国の古風土記の中で出雲風土記のみとなっている。この時代の記録が完全な形で今日に伝わっているのは世界的に見ても珍しい奇蹟である。

 2006.12.4日 れんだいこ拝

【出雲風土記考】
 「大国主命」の「出雲風土記の世界」に次のように記している。
 出雲風土記は、国全体の地勢をまずは概観し、四至を明らかにして国名の起源に及び、神社、郡郷駅、神戸の数を列記したのち各説に入り、意宇部以下九郡六十一郷の一々を記し、海岸の浦については、船舶停泊の可能数を掲げる。各説の記述が終るとあらためて国全体の記事に及び、道度の項を特にたてて郡家・郡界・河川を起点とする道程・道順、橋の長さと幅、渡舟数に至るまで注記し、別に軍団・烽・戍の名称と位置を挙げ、末尾は「国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等出雲臣広島」の署名を以て終る。文書の形式として完備しているのみならず、地理的記載に異常な熱意を注いでいるのが、他の風土記には見ることのできぬ、出雲風土記の大きな特色となっている。

 出雲国風土記の序文は次の通り。
 「老(著述者の自称)、枝葉を細思し、詞源を裁定す。(中略)出雲と号くるゆえは、八束水臣津野の命、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。かれ、八雲立つ 出雲という。(中略)」。

 「登場する神々の名は、「所造天下大神命(あめのしたつくらししおほかみのみこと)」又の名「大穴 持命(おほ なもちのみこと)」又の名「大国主命(おほくにぬしのみこと)」及び八束水臣津野の命のニ神 を含む157神である。

 構成は次の通り。
意宇の郡  母理の郷、屋代の郷、楯縫の郷、安来の郷、山国の郷、飯梨の郷、舎人の郷、大草の郷、拝志の郷、宍道の郷、忌部の神戸。島根の郡として、朝酌の郷、山口の郷、 手染めの郷、美保の郷、方結の郷、加賀の郷、生馬の郷、 法吉の郷。
秋鹿の郡  恵曇の郷、多太の郷、大野の郷、伊農の郷、神戸の里。
楯縫の郡  佐香の郷、楯縫の郷、 玖潭の郷、沼田の郷、 余戸の郷、神戸の里。
出雲の郡  健部の郷、漆沼の郷、河内の郷、出雲の郷、杵築の郷、伊努の郷。
神門の郡  朝山の郷、日置の郷、塩冶の郷、八野の郷、高岸の郷、 古志の郷、滑狭の郷、多伎の郷、余戸の里、狭結の駅、多伎の駅、 神戸の里。
飯石の郡  三屋の郷、飯石の郷、多禰の郷、須佐の郷。
仁多の郡  布勢の郷、 三沢の郷、横田の郷、 湯野の小川」。
大原の郡  神原の郷、屋代の郷、 屋裏の郷、 佐世の郷、 阿用の郷、海潮の郷、 来次の郷、斐伊の郷。
 概要「出雲の古地図によれば、古代出雲は、島根半島が本土から完全に独立した島で「島根島」になっていた。今の島根半島の東側は、鳥取県米子市から延びる「弓ヶ浜」が境港市まで延びて地続きになっているが、古代には「夜見島」という完全な島になっていた。島根半島の西側の付け根の出雲大社の方面は、全体的に低湿地帯で、古代の斐伊川の下流は西に折れて日本海に直接流れており、後世に下流部を東に折れて宍道湖に流れるように瀬がえを行った。太古の斐伊川の下流部は、斐伊川の土砂で埋め立てられる以前には宍道湖が日本海に繋がっていた」。
 「出雲風土記」にはヤマタノオロチの記事はなく、かわりに大国主命が「越の八口」を平定したという記事がある。

【出雲風土記の地名由来考】
 意宇の郡安来の郷ではスサノオの命が天地のかぎり広く巡行され、この地に来てわが心は安く平らかになった、と申されたので「安来」というのであると伝えている。

 大原の郡の御室山に巡り来られて、ここに御室を造らせて宿り、佐世の郷では佐世の葉をかざして踊り、その木の葉が落ちたので「佐世」というのであるという。

 飯石の郡の須佐の郷ではミコトはこの地に来られて、「この地は狭い土地ではあるが住みよい所である。そこで自分の名は石や木にとどめることをせず、この土地に名を留めておこう」と申して、御自身の魂をここに留め、御各代(みなしろ)の田として 大須佐田、小須佐田をお定めになったので「須佐」という地名は起ったのだと云う。

 
嶋根の郡手染(たしみ)の郷ではオオナムチノカミが、この土地は大層丁寧に国作りをなされた地であると申されたので、「手染」というのだと伝えている。

 仁多の郡という部名の起りは、オオナムチノカミが、
「この国は大きくもあらず、小さくもあらず、川上は木の穂刺し交(か)い、川下は河芝生がよく繁り這(は)いわたっている。まこと湿地の多い小国である」旨を言ったので、仁多という名があるのだと記している。

 三処(みところ))の郷は「コノ地ノ田好シ、故ニ吾ガ御地(みところ)ノ田」と、しようという言葉から、その名を得たといっている。

【出雲風土記考】
 「意宇の郡」には次のように記されている。
 「意宇と号くるゆえは、国引きましし八束臣津野の命詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なる かも。初国小さく作らせり。かれ、作り縫はな」と詔りたまひて、「楮衾志羅紀の三埼を、国の余りありやと 見れば、国の余りあり」と詔りたまひて、童女の胸スキ取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り 分けて、三身の綱打ち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来縫へる国は 去豆の折絶よりして、やほに支豆支の御埼なり。---略(◎その他引き寄せた国は、狭田の国、闇見の国、三 穂の埼の三箇所)---「今は、国引き訖へつ」と詔りたまひて、意宇の杜に、御杖衝き立てて、「おゑ」詔り たまひき。かれ、意宇といふ」。
 「意宇の郡」の「母理の郷」の条には次のように記されている。
 「天の下造らしし大神大穴持の命、「越の八口」を平げ賜ひて還りましし時、長江山に来まして 詔りたまひしく、『我が造りまして命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命、平らけくみ世知らせと依(よ)さし奉らむ。ただ八雲立つ出雲 の国は、我が静まります国、青垣山廻らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守らむ』と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)と いふ。(神亀三年に、字を母理と改む)」。
 
 大穴持命の言葉と窺う。
 「安来の郷」には次のように記されている。
 「神須佐乃烏の命---中略---その時、鉾を挙げて中央なる一つの「わに」を刃して殺し捕りき。  己に訖へて然して後に、百余りの「わに」解散けき」。
 「拝志の郷」には次のように記されている。
 「天の下造らしし大神の命、「越の八口」を平げんとして幸しし時、ここの樹林茂盛れり」。
 「忌部の神戸」には次のように記されている。
 「国造、神吉詞奏しに、朝廷に参向ふ時、御泳の忌里なり。かれ、忌部という。すなはち川  の辺に出で湯あり。出で湯のある所、海陸を兼ねたり。よりて男女老いたるも若きも、或いは道路に駱駅り、  或いは海中を洲に沿うて、日に集い市を成し、繽紛に燕楽す。一たび濯げばすなはち形容端正しく、再び  沐浴すればすなはち万の病悉く除ゆ。古より今に至るまで、験を得ずということなし。俗の人、神の湯と  いへり」。
 「健部の郷」には次のように記されている。
 「先に宇夜の里と号けしゆえは、宇夜都弁の命、その山の峰に天降りましき。すなはち、その神  の社、今に至るまでなほここにいませり。かれ、宇夜の里という。しかるに、後に改めて健部と号くるゆえ  は、纏向の檜代の宮に御宇天皇(景行天皇)「朕が御子、倭健の命の御名を忘れじ」と勅りたまひて、健部  を定め給ひき。その時、神門臣古禰を、健部と定め給ひき。すなはち、健部臣等、古より今に至るまで、な  ほここに居めり。かれ、健部という」。
 「杵築の郷」には次のように記されている。
 「八束水臣津野の命の国引き給ひし後、天の下造らしし大神(大穴持の命)の宮を奉へまつらむ   として、諸の皇神等宮処に参集ひて杵築きたまひき。かれ、寸付という。(神亀三年に、字を杵築と改む)」。





(私論.私見)