【出雲風土記考】 |
「意宇の郡」には次のように記されている。
「意宇と号くるゆえは、国引きましし八束臣津野の命詔りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なる かも。初国小さく作らせり。かれ、作り縫はな」と詔りたまひて、「楮衾志羅紀の三埼を、国の余りありやと
見れば、国の余りあり」と詔りたまひて、童女の胸スキ取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り 分けて、三身の綱打ち掛けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来国来と引き来縫へる国は
去豆の折絶よりして、やほに支豆支の御埼なり。---略(◎その他引き寄せた国は、狭田の国、闇見の国、三 穂の埼の三箇所)---「今は、国引き訖へつ」と詔りたまひて、意宇の杜に、御杖衝き立てて、「おゑ」詔り
たまひき。かれ、意宇といふ」。 |
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「意宇の郡」の「母理の郷」の条には次のように記されている。
「天の下造らしし大神大穴持の命、「越の八口」を平げ賜ひて還りましし時、長江山に来まして 詔りたまひしく、『我が造りまして命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命、平らけくみ世知らせと依(よ)さし奉らむ。ただ八雲立つ出雲
の国は、我が静まります国、青垣山廻らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守らむ』と詔りたまひき。故(かれ)、文理(もり)と いふ。(神亀三年に、字を母理と改む)」。 |
大穴持命の言葉と窺う。 |
「安来の郷」には次のように記されている。
「神須佐乃烏の命---中略---その時、鉾を挙げて中央なる一つの「わに」を刃して殺し捕りき。 己に訖へて然して後に、百余りの「わに」解散けき」。 |
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「拝志の郷」には次のように記されている。
「天の下造らしし大神の命、「越の八口」を平げんとして幸しし時、ここの樹林茂盛れり」。 |
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「忌部の神戸」には次のように記されている。
「国造、神吉詞奏しに、朝廷に参向ふ時、御泳の忌里なり。かれ、忌部という。すなはち川の辺に出で湯あり。出で湯のある所、海陸を兼ねたり。よりて男女老いたるも若きも、或いは道路に駱駅り、或いは海中を洲に沿うて、日に集い市を成し、繽紛に燕楽す。一たび濯げばすなはち形容端正しく、再び沐浴すればすなはち万の病悉く除ゆ。古より今に至るまで、験を得ずということなし。俗の人、神の湯といへり」。 |
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「健部の郷」には次のように記されている。
「先に宇夜の里と号けしゆえは、宇夜都弁の命、その山の峰に天降りましき。すなはち、その神 の社、今に至るまでなほここにいませり。かれ、宇夜の里という。しかるに、後に改めて健部と号くるゆえは、纏向の檜代の宮に御宇天皇(景行天皇)「朕が御子、倭健の命の御名を忘れじ」と勅りたまひて、健部
を定め給ひき。その時、神門臣古禰を、健部と定め給ひき。すなはち、健部臣等、古より今に至るまで、なほここに居めり。かれ、健部という」。 |
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「杵築の郷」には次のように記されている。
「八束水臣津野の命の国引き給ひし後、天の下造らしし大神(大穴持の命)の宮を奉へまつらむとして、諸の皇神等宮処に参集ひて杵築きたまひき。かれ、寸付という。(神亀三年に、字を杵築と改む)」。 |
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