常陸国風土記 |
更新日/2018(平成30).7.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで「常陸国風土記」について確認しておく。 2006.11.22日 れんだいこ拝 |
【常陸国風土記編纂考】 |
常陸国風土紀 福慈の岳・筑波の岳 と新嘗祭
(1)筑波山
関東平野の真ん中に立つ900m弱の独立峰。7500万年前に地下のマグマが上方に押し上げられたが、爆発はせず火山になり損ねた『斑令岩』からなる岩塊。頂上付近は比重の軽い白い石が目立ちます。
(2)福慈の岳(富士山)と筑波の岳の言い伝え
良く知られている話で有りますが、次の様に記されています。富士山と筑波山は擬人(神)されています。
①昔、神祖の命〈祖先神〉があちらこちらの神々のところをお巡りになっていたた。《神祖の命、諸神の処に巡り出まししに》
②富士山のところにお着きになった時、とうとう日が暮れてしまった。そこで一夜の宿を富士山の神に請われた《寓宿を請欲ひたまいき》処、新嘗祭の物忌を理由に断られました。《此の時福慈の神答えて日いへられく、わせの新嘗して家中物忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ
③祖神の尊は怒り、泣叫び、福慈の神に呪いの言葉を投げかけた。《即ち汝が親ぞ。何ぞも宿さまく欲りせぬ。汝が住める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり冷寒重襲り、人民登らず、飲食もまつるものなけむ。》
④祖神は筑波山に至り、宿を請われた。新嘗の祭りをしていたが、断らず飲食を用意して、うやうやしく拝して、謹んでお支えした。《今宵は新嘗すれど、敢えて尊に不奉ひまつらじ。》
⑤祖神はすっかりお喜びになった。こうした次第で福慈の岳はその時以来、雪が降り積もっていて人は登ることが出来ず、筑波の岳は人びとが往き集い、歌ったり踊ったり、また食べたり、飲んだりして今に至るまで絶えることがない。
次の点に留意する必要があると指摘されています。(岡田精治氏)
・神様は人間の住む所には居ないで、普段は海や山等人里から離れた清浄な場所に住み、祭りの日だけやって来る。人びとは、祭りをする時に、目に見えない神を呼び出して斎場に迎える。
・祖神は先祖か?《汝が親ぞと》と言っている。
・新嘗祭は夜行われる。元来古代の神道の儀式は夜間行われた。(798年に畿内での夜の祭りが禁止された。松明をつけて夜、人びとが移動することは不穏な雰囲気を招くと言う理由によると言われるが、逆に言うとそれまでは夜に行われることが多かったと言える。)灯火の普及しない時代においては人が行動する昼間と神の行動する夜ははっきり区別されていた。伊勢神宮の三節祭り、大嘗祭り等宮中行事も多くは夜行われる。大国魂神社の暗闇祭りもその名残りか?
(3)稲作と日本人の信仰
①古代日本では一神教ではなく、あらゆるものに神霊が宿っていると考えた。
②神は目に見えないものである。
③磐座や樹林が神霊を招く際、そのより処として必要となった。
これに加えて稲の栽培が農耕社会の基礎であることから稲の祭りが結び付いたと考えられる。更には祖霊の崇拝も付け加えるべきであろう。
(4)新嘗に祖神が訪れる。(荻原秀三郎氏)
①新年は収穫祭の時期に当たり、その日が祖神来訪の日となる。収穫に感謝し祖神を迎える。中国からの暦法が伝わる以前の古代の日本では生産暦が採用され、新嘗祭の日が大晦日、翌日が正月となったようである。
《魏志倭人伝注 正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀となすのみ。》
②「宿借」は神霊がこの世にやって来て仮の宿を求め福を授けるものである。訪れ神はホトホト、コトコトと音をさせて訪ずれる。《音連れ→訪れ》神は「音なひをもって神意を知らせる。万葉に多い「風の聲」「川の音」のように、みな自然の音声を、その「訪なひ」として聴いたのでないかと説かれている。?
③「宿借」については常陸国風土紀のみならず、備後国風土紀にも同じような言い伝えが記載されているという。(大歳の客)また、素戔嗚尊が高天原を追われ
根の国に降って行く途中、神々に宿を乞い、断れたと日本書紀に書かれている。
④同様な話が、石垣島にもマユンガナシという来訪神の話が残っている。
⑤新嘗の祭りは、拡く江南、東南アジアにも似た風習が有るという。稲作という共通の文化を持つので、当然の話であろう。
この辺りになると、歴史学というより民族学の範疇になろうが、興味深い問題である。機会を見て更に勉強して見たいと思います。
参考文献 ・岡田精治氏 神社の古代史
・荻原秀三郎氏 稲と鳥と太陽の道
・常陸国風土紀 日本書紀
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(私論.私見)