豊後国風土記(逸文)

 更新日/2018(平成30).7.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2006.11.22日 れんだいこ拝


【豊後国風土記(逸文)】

【豊後国風土記の豊後国大分郡地名由来考】
 豊後国風土記によれば、豊後国大分郡の「郷は玖(九)所。駅は壱(一)所」と記されている。九郷は阿南、稙田、津守、荏隈、判太、跡部、神前、武蔵、笠和。式内社はない。因みに、『日本の地名』によれば、「大分」という地名は「大井田」で、大きい田という意味だと説かれている。郷の比定地の住所を探る。(「古代史研究会」の「箕岡義憲」参照)
阿南 大分県由布市庄内町畑田。旧阿南村。今も阿南神社があり遺称が残っている。
稙田 大分県大分市田原。旧稙田村。
津守 大分県大分市津守。同名の郷が越前国敦賀郡、摂津国西成郡、肥後国詫麻郡にある。津守氏が支配していたと言われている。
荏隈 大分県大分市荏隈。この郷に豊後国府と高坂駅が置かれていた。
判太
大分県大分市下半田。横尾貝塚は縄文時代早期後葉から後期前葉の集落遺跡。小牧古墳群がある。「判f太」という地名を「波多」と訓んで波多氏と関連するという説がある。
跡部 大分県大分市中戸次。同名の郷が伊勢国安濃郡、美濃国武藝郡、信濃国小縣郡にあり、阿刀部氏が支配してと言われている。
武藏 大分県大分市萩原。下郡遺跡群は弥生時代から中世の集落跡。豊後国國埼郡にも同名の郷がある。
神前 大分県大分市神埼。大分市上八幡にある柞原八幡宮は創建天長四年(827年)の古社。
笠和 大分県大分市生和。大臣塚古墳や大宮古墳などの古墳が集まっている郷である。

豊後国直入郡について投稿させて頂きます。
豊後国風土記』の直入郡の条に、「郷は肆(四)所」とあります。
すなわち、朽網直入三宅柏原の四郷です。式内社は一座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。地点名ですので、郷はその周辺とお考えください。
朽網は、大分県竹田市久住町栢木。-久住神社は、大分県竹田市久住町久住にある神社で、建男霜凝日子神社の論社です。『神祇志料』の式外諸神に直入物部神直入中臣神が記されています。直入物部神は、大分県竹田市直入町長湯にある籾山八幡神社です。直入中臣神社は、大分県由布市庄内町阿蘇野にあります。筑後国生葉郡物部郷豊前国仲津郡中臣郷があり、何らかの関係があるかもしれません。
直入は、大分県竹田市竹田町。
三宅は、大分県竹田市三宅。-式内小社の建男霜凝日子神社〔穴森神社〕が大分県竹田市神原字国形にあります。他に論社の建男霜凝日子神社が同じく大分県竹田市神原にあります。ところで、同名の郷が筑前国那珂郡筑後国上妻郡肥後国詫麻郡日向国児湯郡にあります。屯倉が置かれ、筑紫の三家氏が支配していたと言われています。
柏原は、大分県竹田市萩町柏原。-同名の郷が上総国長柄郡近江国伊香郡播磨国佐用郡肥後国菊池郡にあります。ところで、縄文時代初期の古川洞穴遺跡が大分県竹田市萩町南河内にあり、また、大分県竹田市戸上には、4世紀の前方後円墳2基、円墳2基からなる七ッ森古墳群があります。そして、大分県竹田市菅生には、土蜘蛛塚という古墳があります。まさに、この地の歴史の古さが窺えます。
豊後国速見郡について投稿させて頂きます。
豊後国風土記』によれば、「郷は伍(五)所」とあります。
朝見八坂由布大神山香の五郷です。そして、式内社は三座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。なお、地点名ですのでその周辺とお考えください。
朝見は、大分県別府市朝見。-火男火賣神社二座〔火男火売神社〕は、火加具土命と火焼速女命を祭る式内小社です。ところで、朝見を「呰見」と書きますが、同名の郷が参河国碧海郡豊前国仲津郡にあります。
八坂は、大分県杵築市八坂。-同名の郷が山城国愛宕郡にあります。
由布は、大分県由布市湯布院町川上。-『豊後国風土記』の速見郡の条には、「柚富郷」と表記されています。この郷に式内小社の宇奈岐比女神社があります。御祭神は国常立命をはじめとする六柱が祀られています。しかしながら、社名から察するに、当初は、宇奈岐比女命が祀られていたと考えられます。
大神は、大分県速見郡日出町大神。-同名の郷が大和国城上郡美濃国大野郡にあります。
山香は、大分県杵築市山香町野原。-同名の郷が筑前国遠賀郡日向国諸県郡にあります。
豊後国大野郡について投稿させて頂きます。
『豊後国風土記』の大野郡の条に、「郷は肆(四)所」とあります。
すなわち、田口大野緒方三重の四郷です。式内社は一座です。
次に、郷の比定地の住所を示します。なお、郷は、その周辺であったとお考えください。
田口は、大分県豊後大野市千歳町船田。-田口神社が大分県豊後大野市千歳町船田にあり、遺称が残っています。
大野は、大分県豊後大野市大野町大原。旧大野町です。
緒方は、大分県豊後大野市緒方町越生。旧緒方町です。-緒方氏が支配していました。緒方氏の「緒方」は、「大神田」とも書き、大神氏の一族です。緒方氏の先祖は、蛇で家長になる者には、皆背中に鱗が生えているという伝承があります。いわゆる姥ケ嶽伝説です。三輪山伝説との関りが窺えます。
三重は、大分県豊後大野市三重町赤嶺。-三重郷には、道ノ上古墳などの4世紀から5世紀の前方後円墳が広く点在しており、大豪族がこの郷を支配していたことを物語っています。ところで、『延喜式神名帳』には西寒多神社が記載されています。社格は式内大社です。鎮座地は、大分県臼杵市野津町西寒田です。ここは、かつて三重郷に属していました。因みに、大分県大分市寒田に豊後國一宮西寒多神社がありますが、鎮座地は、豊後国大分郡稙田です。詳しい事情は分かりませんが、三重郷から遷されたと言われています。
豊後国海部郡について投稿させて頂きます。
『豊後国風土記』によれば、「郷は肆(四)所」と書かれています。
すなわち、佐加穂門佐井丹生の四郷です。そして、式内社は一座です。
次に、郷の比定地住所を示します。地点名ですのでその周辺とお考えください。
佐加は、大分県大分市佐賀関。-『豊後国風土記』の海部郡の条には、記述が欠落しています。
早吸日女神社は、式内小社で、御祭神は、八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神です。しかしながら、『神祇志料』によれば、速秋津姫命を祭ると書かれています。
穂門は、大分県佐伯市上浦。
佐井は、大分県大分市小佐井。-『豊後国風土記』の海部郡の条には、「佐尉郷」と表記されています。また、「此の郷の旧の名は酒井なり」とあり、同名の郷が下野国河内郡因幡国八上郡越前国今立郡にあります。阪合部氏が住んでいたと言われています。
丹生は、大分県大分市丹生。-式内社ではありませんが、大分市佐野に丹生神社(があります。御祭神は罔象賣神、建岩龍神です。因みに、建岩龍神は、室町初期に阿蘇神社から勧請したそうです。
後国國埼郡について投稿させて頂きます。
『豊後国風土記』の國埼郡の条に「郷は陸(六)所」と書かれています。陸所とは、武蔵、,來縄、國前、田染、阿岐、伊美の六郷のことです。式内社はありません。
郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺とお考えください。
武蔵は、大分県国東市糸原。-椿八幡神社は、国東市武蔵町三井寺にある古社です。創建は天平神護元年(765年)と伝わっています。すなわち、称徳天皇の御世です。
來縄は、大分県豊後高田市来縄。-「縄(ナワ)」の付く地名は、海岸の近くにあることが多く、來縄も海岸地名だと考えます。また、猫丸山古墳などの古墳が多く点在し、栄えていたことが窺えます。
國前は、大分県国東市国東町安国寺。-安国寺集落遺跡は、弥生時代から古墳時代の貝塚・集落遺跡です。この遺跡は、この郷の歴史の古さを物語っています。まさに、國埼郡の中心地に相応しい郷です。
田染は、大分県豊後高田市田染真中。
阿岐は、大分県国東市安岐町塩屋。「阿岐(アキ)」は、古くはアギと読み、漁労関係の地名だと言われています。
伊美は、大分県国東市国見町伊美。-比売語曽社のある姫島は、この郷に属します。
『豊後国風土記』の國埼郡の条に伊美郷の地名由来譚が次のように書かれています。「因リて国見の村と白ふ。伊美郷と謂ふは、其の訛れるなり」とあります。私は、この地名の説明に納得できません。ここの地形を詳しく見た結果、「伊美」をイビと読んで、エビの転化だと考えます。「エビ」は、地形語で「階段状地形」を言います。
豊後国は、本、豊前国と合せて一つの国なり」と『豊後国風土記』に書かれています。また、「後、両つの国に分ちて豊後国を名と為せり」とも書かれています。
「郡は、八所。郷は四十。」と書かれていますが、『倭名類聚抄』には、郡は、八所。郷は、四十一記載されています。郷が一つ増えているのは『豊前国風土記』が書かれた時と『倭名類聚抄』が書かれた時との間に約二世紀ほどの隔たりがあり、人口が増加したためです。
次に、豊後国球珠郡について書かれて頂きます。『豊後国風土記』には、「球珠郡。郷は参所。里は九。駅は壱所なり」と書かれ、その後に続く文に球珠郡の地名由来が書かれているのみで郷名などの詳しい記述は欠落しています。しかしながら、『倭名類聚抄』の地名部には郷名が記載されています。
郷の比定地の住所を示します。地点名ですのでその周辺とお考えください。
今巳は、大分県玖珠郡玖珠町綾垣。「今巳」をコゴと読み、古後という小字が残っています。
小田は、大分県玖珠郡玖珠町小田。
野は、大分県玖珠郡九重町田野。
式内社はありません。




(私論.私見)