マスメディア最大のタブーに切り込んだ牧久氏
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【著者に訊け】牧久氏/『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』/2000円+税/小学館
その変節は当時、〈松崎のコペ転〉(=コペルニクス的転回)とも揶揄されたとか。JR東日本労組初代委員長で、「動労の鬼」とも恐れられた、〈JRの妖怪〉こと松崎明。『暴君―新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』の著者・牧久氏には、国鉄分割民営化(1984年)への20年の軌跡を具(つぶさ)に検証した『昭和解体』(2017年)もあり、本書ではそのさらなる深層と、革マル派の大幹部でもあった松崎の支配の実態に、数々の新事実をもって迫る。
当初は動労のドンとして民営化に猛反発した松崎は、なぜ一転して当局側と手を組み、国鉄解体の功労者にすら変貌を遂げたのか──。結論から言えば、〈「形勢不利なときには敵の組織に潜り込む」〉動労型労働運動によって、松崎たちは生き残りに成功。やがて全国に30万の従業員を抱える一大企業群を、〈暴力と抗争〉の渦に陥れていくのである。
実は松崎と革マルの関係に触れることは、20年以上タブー視されてきたという。
「つまり1994年の『週刊文春』不買騒動以来です。JR東日本と松崎は一体となって同誌の特集『JR東日本に巣くう妖怪』を問題視し、各キヨスクでの取扱拒否に出た。また2006年にはこの問題を追及した『週刊現代』が計50件もの訴訟に見舞われ、〈平成最大の言論弾圧事件〉として報道関係者にトラウマを残します。
私自身、その自己規制の渦中で日経時代を過ごし、前作でも松崎と革マル派の問題に正面から切り込んだとは言い難い。ただ78歳にもなると『お前は知っててなぜ書かない?』と言われたくなくてね。どうせなら元国鉄担当記者として知る限りの事実を全部書いてから、死んでやろうと(笑い)」(牧氏・以下同)
右派と左派がせめぎ合う政治の季節に育った松崎は、1936年、埼玉県生まれ。川越工業高校在学中は民青で活動し、卒業後は義兄の勧めで国鉄へ。臨時雇用員として働く傍ら、日本共産党に入党し、正規採用後は動労の前身、機労に加入。その後、機関助士となり、青年部を立ち上げるなど、頭角を現わす。またこの頃、松崎は後に革マル派を率いる黒田寛一と会い、日共を離党。黒田が理論、松崎が闘争と集金を担い、国鉄に革マル分子を続々と送り込んでゆく。
「1957年に黒田が立ち上げた“革共同”が1963年に本多延嘉の中核派と黒田の革マル派に分裂し、以来両者の対立は内ゲバへと発展します。そんな中、松崎は動労の初代青年部部長に選出され、元々は『切符切りと一緒にするな!』と言って国労を出た旧機労系勢力を駆逐し、当時最大勢力だった国労とも覇権を争うようになる。“コペ転”も国労の孤立を図り、新会社で実権を握るための雌伏作戦と言えます。
しかも彼は〈悪天候の日に山に登るのは愚か者〉とか、演説で組合員の心を掴むのが実に巧い。結果、当局のお偉方までが取り込まれ、革マルによる組合専横説も松崎さえ否定すれば、ないことにされていくんです」
◆権力はいずれ腐敗するのが世の常
国鉄解体によって総評や野党をも解体させた中曽根元首相の意図や、国鉄側の改革派三人組、葛西敬之、井手正敬、松田昌士各氏の活躍は前作にも詳しいが、その中で松崎が巧妙に立ち回り、新生JRをも手中に収める様は、戦慄必至だ。
JR移行後、井手は西日本の副社長、葛西は東海の取締役、松田は東日本の初代社長・住田正二の下で常務に就くが、松崎はこの住田・松田ラインに〈労使対等〉論を呑ませるほど、蜜月を築く。
「民営化を実現するため、最初に松崎に接近したのは葛西氏で、そこには何らかの密約もあったと思う。ところが井手や葛西はJR発足後本性を現わした松崎を見限り、松崎の怨念に曝されていきます。
一方で労使は対等、〈ニアリー・イコール〉だと言う松崎になぜ松田氏が同調したのか、私は不思議でね。本人に聞いてみると北大の大学院で労働法を専攻した彼が今でも松崎を庇うくらい、術中に嵌ってるんです。
組合が人事や設備投資計画にまで口を出し、会社側もそれを平気で許すなんて、まさに経営権の放棄でしょ。そんな異常事態が長年放置されてきた背景にはやはり暴力に対する恐怖があったのではないか。実は松崎自身が言ってるんです。革マル派には革マル中央と松崎の革マルがあり、JR革マルは松崎組だと」
現に中核派等による東労組幹部襲撃事件の死傷者は10数名を数え、〈次は松崎だ〉との犯行声明も出されたが、その松崎側も脅迫・盗聴や人事介入により、JR内で権力を掌握していく。
公安も1996年以降は革マル派の摘発に動き、2007年には組合費をハワイの別荘購入に私的流用した容疑で松崎の強制捜査に踏み切るが、結局は不起訴に。が、ダメージは大きく、東労組内でも松崎批判の声が高まる中、彼は間質性肺炎で、平成22年12月、享年74でこの世を去る。
「彼の生涯は現場労働者に対する差別への恨みや自分を顧みない大卒組への怨念を感じさせ、そのルサンチマンや純粋な義憤が当初は松崎を革命に向かわせたとは思う。
ただ権力はいずれ腐敗するのも世の常で、日産ではゴーン前会長ばかりか元組合指導者・塩路一郎までが同様の末路を辿り、昨年はJR東で3万5000人近い脱退者が出たほど組合離れも進んでいる。このような組合不信が続けば、誰が労働者の権利を守るのか、今こそ組合の存在意義について考え直す時期なのかもしれません」
かつて〈権力は肥大化したら傲慢になる〉と言って闘争を挑んだはずの松崎が、その権力に溺れてゆく皮肉。が、あくまで本書に書かれたのは平成の出来事であり、ごく昨日の話なのだ。
【プロフィール】まき・ひさし/1941年大分県生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒。1964年日本経済新聞社入社。国鉄担当、ベトナム特派員、社会部長等を経て代表取締役副社長。その後、テレビ大阪会長。著書は他に『サイゴンの火焔樹』『不屈の春雷──十河信二とその時代』『満蒙開拓、夢はるかなり』等。松崎の訃報は3度目のホノルルマラソン挑戦で訪れたハワイで聞く。「疑惑のコンドミニアムがあったハワイでね」。163cm、61kg、A型。
構成■橋本紀子 撮影■黒石あみ
九州労の集団脱退や坂入拉致監禁事件。JR総連と革マル派の対立。
2000.12月、JR総連革マルは、警察へ告訴。革マル派学生の顔写真を掲載して「彼らが拉致・監禁の犯人だ」とする指名手配書のようなビラをつくって駅頭や革マル派の事務所周辺で配布する。革マル本体は、「わが同盟の戦闘宣言」という文書をだし、「JR総連本部執行部ならびに九州労残存北執行部を階級敵と断罪し、これを打倒することを宣言する」。その論理は、「党内問題を直接的に組合問題として外化することは党規約違反だ」というもの。
12.20日、JR連合九州労組は、JR総連九州労からの737名の大量脱退について加入届を返却することを決定している。その理由は「拉致された坂入が仕組んだ大量脱退はJR革マル派が仕組んだもぐりこみ戦術だと暴露している以上受け入ればできない」というものだ。これに対して集団脱退した側は、「約束不履行だ」として抗議声明をだしたり、署名運動を行ったり、「約束を守らせる会」なるものまでつくって、JR連合九州労組への加入を求めるという異常な対応を行っている。
革マルに拉致された坂入は未だ行方不明。その坂入名で「私を利用し、革マル派を権力に売り渡すJR総連の一部指導部を弾劾する」という自己批判書が革マルの機関紙に掲載され、様々な所に送付されている。その内容は、「私は拉致・監禁などされていない。党内議論をしているだけだ。私が革マルをJR連合にもぐり込ませるために組合員を九州労から脱退させたり、会社から迫られて革マルとは一線を画すという指導を行ったことを自己批判する。自らの誤りに気づいた私はJR総連の執行部を許すことができない。告訴や捜索願を直ちに取り下げよ」というものだ。この文書が、坂入本人の意志によるものなのか、革マルに強制して書かされたものなのかは知るよしもないが、JR総連は、これに対抗する文書を乱発し、泥沼のような抗争を続けている。一連の事態から明らかなことは、①坂入を拉致・監禁した側も、それを告訴したJR総連の執行部側も、ゴリゴリの革マルであること、②革マル本体とJR総連革マルの矛盾が激しく
なり、JR総連革マルが革マル本体から集団脱党する事態が起きたこと、③JR総連革マルは、松崎を先頭に「JR総連革マル党」「第二革マル」のようなかたちで、必死の生き残りを画策していることである。
松崎が、12月9日のJR東労組全支部委員長会議のなかで、「私は、かつて革マルの活動をやっていたことがあるが、今は完全に手を切っている。私を組織に止めておけば資金の提供も十分にしてもらえると思い、われわ}れに対抗するような新聞などを投げ込んで、私を苦しめているんだと思う。私は彼らの考えているようなことは絶対にしないつもりだ。革マルの攻撃から会社を守っていこうではありません
か」と発言する至つた。「われわれの敵は革マルだけではない。われわれの組合を民主化しようと攻撃している弱小組合がある」などと称して、革マルの醜悪な内部抗争と同じレベルで国労などを攻撃するのである。JR総連の革マル支配は腐りきって末期症状を呈している。革マルと手を結ぶことで成立していたJRの労務政策は今や完全に破たんした。
森功著『国商 最後のフィクサー葛西敬之』では、「改革三人組」と呼ばれた若き日の葛西敬之も描かれる。葛西は国鉄分割民営化の際に、最大労組である国労を潰すために、革マル派労組・動労トップの松崎明と手を組んだ。
【画像】「最後のフィクサー」葛西敬之のヤバすぎる人物相関図を見る…!
しかし、分割民営化が果たされJR東海が発足すると、葛西は「反松崎」「松崎切り」を鮮明にする。それに激怒した松崎の執拗で陰湿な攻撃が始まった。松崎一派が葛西のスキャンダルを暴露するキャンペーンを行ったのだ。本年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞(7月20日に最終選考会)にもノミネートされた本作から一部を抜粋してお届けする。
前回記事 【国鉄改革裏面史】「俺たちに協力せんと、どうなるかわからんぞ」…JR東海・葛西敬之が裏切って捨てた、革マル・松崎明からの陰湿な「逆襲」の中身
「とぼけたことを言うんなら…」
葛西はJR東海の常務取締役総合企画本部長から1990年6月に副社長に昇進し、名実ともに経営の舵を握った。それからおよそ1年後の91年8月、事件が起きた。
佐藤が新たにJR東海労を立ち上げた翌日の、8月12日のことだ。 〈この資料はJR東海の社員である小沢三郎氏が同社副社長の葛西氏と直接電話で話したものです〉
そう書かれた文書が、日本銀行からJR東海の初代会長として天下った三宅重光やプロパーの須田寛初代社長をはじめ、全国のJR各社首脳のところへファックスや速達郵便で届いた。文書の差出人は「JR東海社員有志」となっている。その背後に松崎一派がいたのは火を見るより明らかだ。むろん「小沢三郎」は架空の人物である。が、そこに書かれている事実は存在したようだ。生々しい録音の文字起こしが関係者を驚かせた。電話の相手は次のように葛西に迫った。
「ロビーの前で女性と会って、そこにお入りになった。とぼけたことを言うんなら部屋まで行ってビデオを見せましょうか。うちの社員、5~6人、そこの下にいるんだから、今、行きますよ」。
ばら撒かれた「不倫写真」
文書がばら撒かれる11日前の8月1日、葛西は東京・丸の内のパレスホテルにいた。午後6時過ぎ、慶応大学医学部の教授夫人を連れてホテルのフロントでチェックインし、そのまま部屋に向かった。事前にその情報をキャッチした「小沢」は、ホテルに張り込んで二人が入室した部屋番号を確認した。もとより張り込みは「小沢」だけでなく、何人かで手分けしたのだろう。そのうえで頃合いを見計らい、8時過ぎに外から部屋に電話がかかった。
通話時間は40分ほどだ。その間、葛西本人は生きた心地がしなかったに違いない。葛西スキャンダルはJR各社だけでなく、国鉄清算事業団や運輸省(現国土交通省)幹部、新聞社などにもばら撒かれた。
かつて政府の国鉄再建監理委員会の事務局に派遣された元運輸事務次官の黒野匡彦も、このスキャンダルに接した一人である。「葛西さんがいなかったら国鉄改革はできなかった」と称賛する。その大きな理由が旧動労の松崎との対処のあり様だという。
「葛西さんは東海から革マル派を追い出した。そのとたん、アンチ葛西のキャンペーンを張られたのです。(不倫の事実が)本当にあったのか、本当はなかったのか、そこはわからない。われわれだったら圧倒されるところを、彼は揺るぎませんでした。
組合が撮った写真は僕のところにも送られてきましたから、今も持っています。ゴルフ場で二人が睦まじくゴルフをやっている写真。名古屋のお医者さんの奥さんとゴルフをやったとか、ホテルで待ち合わせしたとか、あくまでも組合の言い分ですが、そういうキャンペーンをやられたんです。
「俺、もう辞めるわ」
昔のJR東の本社の前で、JR東海新聞という印刷物が配られていました。とうぜんJR東海の記者会見でもその話が出る。そしたら彼は『私のプライベートな話ですから、こういう場で話すべきことではありません』と肯定も否定もしないんです。それでずっと通しちゃった。政治家には到底そんな芸当なんてできないでしょう。けれど、彼にはそれで通すだけの胆力がある。すごい男だと改めて感じたものでした。だからキャンペーンはそれっきりだったですね」
この手の新聞や写真はJRの部課長クラスや駅長にまで届いたというから、大きな騒ぎになった。黒野はあくまで葛西は毅然と振る舞っていたという。が、実のところはそうでもない。先のJR東海関係者はこうも言った。
「旧動労の連中は夕刊フジ風のタブロイド判の新聞に仕立て、名古屋や東京にあるJR系ホテルの部屋にポスティングして回ったり、駅周辺の壁に貼ったり、果てはJR東海社員の家族の勤務先にまで新聞を送りつけていました。そのうちJR東海社内に盗聴器が仕掛けられていることがわかり、葛西さんが参ってしまいました。ついに『俺、もう(会社を)辞めるわ』と弱音を吐いてしまった。あろうことか、そう話している会話まで盗聴され、『葛西がついに退任を決意』なんて調子で、それが流されたことまでありました。あの強気の葛西さんがそこまで参ってしまうのですから、想像を超える激しい攻撃でした」
いっときは会社を辞める覚悟までしていたという。国鉄改革で苦楽をともにしてきた松本正之たち、側近が辞意を思いとどまらせたようだ。
葛西が踏みとどまれた理由について、JR東海関係者はこう解説してくれた。
「葛西さんにとって大きかったのは、捜査当局の存在ではないでしょうか。葛西さんには東大時代に仲良くなった検察や警察の友人がいて、法的にサポートしてもらったように聞いています。松崎や革マルを相手にするときはそういうガードマンが必要でしょう。
彼らを雇うにしても個人では負担できないから、会社としてやらなければならない。なにしろ旧動労系のJR東日本労組は資金が潤沢です。5万人ぐらいの組合員がいて、だいたい1人あたり10万円前後の組合費を集めていましたから、それだけで毎年50億円くらい入ってくる。それを活動費として使えるのだから、とてもじゃないけど個人では太刀打ちできません。だから、会社として対応した。それが功を奏したのではないでしょうか」
革マル派の影がちらつく組合に、警察、検察のパイプを使って対処したという。葛西はのちに、警察組織をことのほか重視するようになる。それはこのときの成功体験があったからであろう。
【革マルを排除できなかったJR東日本で起こった「犯人不明の暴行事件」…そして、社長の自宅ではプロパンガスの周辺にマッチ棒がバラまかれ…】に続きます。