松崎明/考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「松崎明」を確認しておく。

 2009.10.7日 れんだいこ拝


【松崎明(まつざき あきら)/考】
 「 ウィキペディア松崎明(Wikipedia)」。
 (1936年2月3日 - 2010年12月9日)
 松崎 明(まつざき あきら)は、日本の労働運動家。革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)創設時の副議長。国鉄動力車労働組合元委員長を務め、鉄道労連(後にJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)委員長を務め、JR東労組会長、顧問を務め、事実上JR東労組のトップだった。 元革命的労働者協会活動家の松崎重利は実父が同様に国鉄職員で姓が同じであるが、縁戚関係はなく政治活動面においても無関係である。愛称は松っつあん。
 思想・活動

 黒田寛一から厚い信頼を受けており、革マル派結成時の副議長(組織名:倉川篤、愛称:クラさん)であったことは松崎本人も認めている(松崎明『松崎明秘録』(同時代社))。1970年代から次第に革マル派から離れ、JR総連幹部になった頃には関係は切れていたと松崎は主張している。 動労ではカリスマ的な指導力で、闘争を高揚させて国鉄労働運動、ひいては総評労働運動をリードしてきた。その頂点が1972年のマル生反対闘争であり、国鉄総裁が国会で陳謝して勝利解決した。その闘いから「鬼の動労」と呼ばれるようになる。

 その後は、動労内の反主流派を積極的に排除する動きをみせるようになった。「共産党系活動家」として排除された者達(背景に共産党が「『スト万能論』批判」を行ったことがある)が1974年に全動労を結成、「中核派活動家」として排除された者達(背景に成田闘争への立場の違いがある)が1979年に動労千葉を結成して、動労は分裂した。これらの動きにより中核派との抗争が激化し、松崎個人に対して宣戦布告とも言える「カクマル松崎せん滅」のスローガンを突きつけられることになる。また、右翼団体からも言動・思想で対立軸になっている為批判をされているが、一水会の鈴木邦男とは反権力・反公安で親交があった。

 1975年のスト権ストの敗北以降、春闘でのストライキはあったものの、1980年代の国鉄分割民営化においては激しく闘うことはなく、組合員の雇用を守るため、民営化に協力している。その際、過去の闘争を否定し、国鉄幹部や自民党議員との会談において「私は犯罪者でした」と語るなど「転向」した(いわゆるコペ転)。JR以降の思想と行動は東日本会社との蜜月関係である「労使協調」を除けば、反戦運動を闘争方針に掲げたり、月刊誌「自然と人間」では過去の動労の闘争を再評価するなど、「動労に先祖返りした」と言われる所以である。

 1986年、自民党機関誌/自由新報の「生まれかわる国鉄 関係者に聞く」(1986年4月29日)にインタビュー記事が掲載される。

 2007年11月30日、警視庁公安部は、松崎をJR総連の内部組織「国際交流推進委員会」の基金口座から3000万円を引き出し横領した業務上横領容疑で書類送検した。直後に松崎はハワイの高級住宅街にある別荘を3千数百万円で購入。この購入資金は同協会職員の個人口座を通じてハワイの不動産会社に送金されており、公安部は横領した金が充てられた疑いがあるとみた。松崎は「妻名義の土地を売却して得た資金なども口座に入っており、私的流用はしていない」と容疑を否定。JR総連も「横領された事実はない」とした。2007年12月28日、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。

 2010年、かつての宿敵・中野洋(元動労千葉委員長)の逝去にあたり、『われらのインター』31号(2010.4.15)に追悼文を発表し、「革共同が分裂し、私は革マル派、彼は中核派のメンバーとなった。党派の対立の中で袂を分かつことになった。……共に闘い抜きたかったが、路線の違いは致し方ない。しっかりと目を見開いたままの戦闘態勢を堅持した中野洋さん、心から称え、冥福を祈ります」と記した。かつての宿敵の死を追悼したこの寄稿が、皮肉にも松崎にとっての遺作となった。

 松崎明の逝去に対して、革マル派は機関紙『解放』ほかの自己刊行物で完全に沈黙した。2011年3月3日、都内のホテルでJR総連・JR東労組主催の『松崎 明さんを偲ぶ会』が開かれ、約2000人が出席し、佐藤優らがあいさつした。

 著書
  • 『国鉄動力車-順法闘争と労働運動』(谷恭介と共著)1972年、三一書房
  • 『鬼が撃つ-もう一人のJR牽引者として』 1992年、TBSブリタニカ
  • 『国鉄改革-正々堂々と我が道を行く』(上巻・下巻)1998年、ぴいぷる社
  • 『職場からの挑戦-時代を創る』 2000年、東日本旅客鉄道労働組合
  • 『鬼の咆哮 暴走ニッポン!』 2001年、毎日新聞社
  • 『鬼が嗤う-ひとよ人たれひとは民たれ』 2002年、西田書店
  • 『鬼の闘論-いでよ変革者!』(鈴木邦男と共著)2006年、創出版
  • 『松崎明秘録』(聞き手宮崎学)2008年、同時代社

【松崎明略歴】
 1936.2.2日、埼玉県生まれ。精米業を営む父・登喜治と母・タネの間に生まれた。
 ****年、埼玉県立川越工業高校卒業。国鉄の松戸電車区に臨時雇用員として配属される。
 1954年、国鉄入社試験に合格したが自宅待機。日本民主青年同盟(民青)に加入。
 1955年、臨時雇用員として国鉄松戸電車区に配属。日本共産党に入党。
 同品川客車区、同東京支区を経て、
 1956年、国鉄職員となり尾久機関区に配属。機関車労働組合(後の国鉄動力車労働組合、動労)加入。

 1957年、(革マル派の教祖)黒田寛一と出会う。
 1958年、革命的共産主義者同盟に加入。
 1959年、日本共産党を離党。革命的共産主義者同盟(革共同)に加入。
 1960年、動労東京地本執行委員。
 1961年、国鉄動力車労働組合全国青年部を結成、初代青年部長に就任。動労を改革、総評労働運動の刷新を目指す。
 1963年、動労青年部退任、動労尾久支部委員長に就任。この年、革命的共産主義者同盟が中核派と革マル派に分裂し、黒田寛一率いる革マル派につき副議長に就任(組織名:倉川篤・愛称:クラさん)。
 同年12・13尾久・田端基地統廃合反対闘争を指導し逮捕され、公労法解雇処分を受ける。その後、動労の専従役員となる。

 1964年、政研事務局長就任。尾久機関区を統合した田端支部書記長となる。
 1967年、動労関東地評事務局長となり、機関助士廃止反対闘争などを指導。
 1969年、東京地方本部書記長に就任。
 1970年、反安保・沖縄闘争。
 1971年、マル生粉砕闘争。
 1972年、動労東京地本25日間の順法闘争などを指導。
 1973年、東京地本執行委員長に就任。
 1975年、スト権ストを指揮し、「鬼の動労」と呼ばれる過激な組織をつくり上げた。。
 1976年、「動労型労働運動」を提起する。
 1978年、動労津山大会で「貨物安定輸送宣言」を本部に提起し、実現する。
 1980年、「反ファシズム統一戦線」提唱。
 1982年、「国鉄労使国賊」論が流布される中で「職場と仕事と生活を守る」たたかい、国鉄再建問題4組合共闘会議(国労・動労・全施労・全動労)を結成し、分割・民営化反対のたたかいに取り組む。その過程で国労と対立が深まり、実質上2分解する。
 1984年、第2臨調「国鉄分割・民営化」の基本答申が出され、国鉄が余剰人員調整策として「3本柱」を提案。
 1985年、動労中央執行委員長に就任。組合として「三本柱」に取り組み、雇用安定協約締結。
 1986年、政府が「国鉄改革関連5法案」を閣議決定し、3月国会上程。7月、鉄労・動労・全施労・真国労等により「国鉄改革推進労働組合協議会」を結成する。総評と決別、公労協を脱退。
 1987年3月、鉄道労連(後のJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)中央執行委員長に就任。4月、JR発足を経て、8月、鉄労、日鉄労、鉄輪労と完全統一に至った。対等な労使協力関係をめざし、抵抗とヒューマニズムを基底に据えて、健全な経営、労働条件の向上、安全、健康、平和のたたかいを進めた。しかし、結成当初から分裂策動が始まる。


 1987年、国鉄が民営分割化され、JR東日本などJR各社が誕生した。この移行に際して戦後、日本の労働運動を牽引し、社会党など革新政党を支えてきた最大労組の国労は、分裂・崩壊した。かわって躍り出たのが、かつてストや順法闘争の先頭に立った「鬼の動労」指導者の松崎明(1936~2010)氏。JR東日本労組の委員長としてJR東日本の経営や人事にも影響を与える存在となった。

 そんな松崎氏には新左翼、革マル派の最高幹部ではないかとの見方もあり、「偽装転向」もささやかれていた。本書『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』(小学館)は、その生涯を追うとともに、松崎氏に翻弄され続けてきたJR東日本の30年の陰の歴史を明らかにした大冊である。松崎氏と革マル派の関係については、すでに多くの本が書かれ、国会でも取り上げられている。本書の最大の特徴は、JR東日本の元社長・松田昌士氏の証言を引き出していることである。

 「松崎は『自分は今でも革マル派である』ことを私に率直に告白し、『そのことで住田社長や松田さんにはいっさい迷惑はかけない』と誓ったのです。(中略)私は松崎がたとえ革マル派であっても、信頼して同じ船に乗り込める男だと判断しました」


 労使協調路線と言えば聞こえはいいが、ただの組合ではない。階級闘争を掲げる新左翼、革マル派に牛耳られた組合だ。敵対組織に「もぐりこみ」、内部から「食い破る」運動理論をもとに、「ストはもうやりません」と宣言し、組織を温存して国鉄改革を乗り切った。同派がJR総連のもと、全国のJR労働運動を指導するというもくろみは、別労組をつくったJR西日本、JR東海、JR九州の労組や経営陣の判断もあり、崩れ去った。しかし、JR東日本では「労使協調」の名のもとの、松崎氏の専横がまかり通った。

 絶対権力者となり、組合を私物化し、神格化されてゆく松崎氏。革マル派の最高指導者、黒田寛一(1927~2006)氏との確執も生じる。かつての部下の離反も進み、彼らが提供した資料や私家版が、本書の分厚い記述の裏付けになっている。

 松崎氏と革マル派との関係が国会で取り上げられていた2010年9月頃から、松崎氏の消息は絶える。入院し、次の句を詠んだ。「D型もD民同へ涸谷(かれだに)に」。著者は「松崎が牽引車となって進めて来た『闘う動労型労働運動』はすでに水源も涸れ、流れ落ちる水もない岩屑が転がる涸れ谷となろうとしている、という無念の思いを詠んだものであろう。その原因を作ったのは自分自身であることを、松崎は果たして気づいていたのかどうか」と書いている。その後、JR東日本の経営陣は、組合との距離を取り始め、現在はかなり「正常化」していることは付け加えておきたい。組合員数も激減している。

 社会部記者の宿題だった


 著者の牧久さんは、日本経済新聞の元社会部記者。その後副社長を経て、テレビ大阪会長まで務めた人だ。社会部記者時代に国鉄を担当、その蓄積を生かして2017年に『昭和解体-国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社)を書いた。しかし、その労使関係についてはあまり触れず、心残りだったという。今回、本書を書き、「妖怪の呪縛」からようやく解き放たれた、とあとがきに記している。

 牧さんは日産自動車を立て直し、君臨してきたカルロス・ゴーンが逮捕された事件で、かつて「日産の天皇」と呼ばれた組合指導者・塩路一郎氏のことを思い出したという。自家用のヨットに美女をはべらす豪奢な生活を送った塩路氏。一方、松崎氏もハワイに二つも別荘を持ち、その資金源として組合費を横領しているのではないかという容疑で警視庁公安部の家宅捜索を受けたことがある。最終的には立件できす不起訴処分になった。

 二人が根拠とした組合はまるで似つかわないものだが、「権力は腐敗する」という法則は民主的であるはずの組合の指導者であっても逃れられないようだ。

 本稿にはほとんど固有名詞を引用しなかったが、本書には膨大な人名が出てくる。日本を代表する巨大企業を陰で操る集団の存在は、平成のマスメディアのタブーだった。週刊誌の発売中止や訴訟で言論が封殺されてきた側面もある。

 松崎氏の死から9年、その影響力がそぎ落ち、ようやく書ける時期になったのかもしれない。著者の粘り強い追及は社会部記者OBの力量を最大限発揮したものだ。






 1989年、革マル副議長松崎は、11PMに元警視総監、元法相秦野章、当時自民党幹事長だった小沢一郎らとともに出演した。松崎はその場でカラオケを歌っては同席の秦野を「わが師」と呼び、また秦野は松崎を「わが弟子」と吹聴した。警察官僚と革マル松崎との公然たる師弟関係こそ、黒田=大川スパイ問題以来の権力と革マルの協力、内通関係を象徴するものだった。そして、その後の衆院選で松崎、JR総連革マルは自民党候補13名の推薦を行った。その中には国鉄分割民営化の張本人、三塚も含まれていた。

 1990年頃、JR総連・JR東労組破壊が表面化する。
 1992年、JR連合が結成され、以降、対立状態が続いている。
 1993(平成5)年.8月、JR東労組が開いた青年婦人部学習会において、松崎委員長が「特別講演」を行なう。
 「労働組合のリーダーの多くは、出世主義に走る。いい思いをしたい。だから特別出向その他で苦勞しない為にも、組合の専従役員でいて、おいしいところがあったら、その時に乗り移ってしまおうというような、邪なことを考えている労働組合の幹部が多い。そういう事を頭において、労働組合とは何だということを考えてみてほしい。決して弱い人の立場に立っていない。我々はヒューマニズムということを強く言っている」、「こういう労働貴族みたいな者が、日本の労働運動をダメにしてきており、まじめに闘おうとする労働組合の幹部を潰そうとする。間違ってることを指摘して下さるなら、それはいい、いっこうに構わない。しかしそういう人達は、その種の指摘を一回もしたことがない」とした上で前出の勝俣康之氏に対して、名前をあげて以下の調子で批判している。 「この労働組合を割りたいというのであれば、千葉の勝又君よ、まともに考えてみたまえ。この組合を守るというのであれば、何を目標にしているか言ってみなさい。馬鹿馬鹿しいから、あんな者に声をかけるつもりはないけれども、組織を割るというのであれば、それなりの価値観があるでしょう。自分たちの人生とこれからの未来のために、正義を貫こうとした闘いが必要ですよ」、。「馬鹿面こいて、あちこちで酒を喰らって、会社や権力の言いなりになっていって、アル中でくたばる自由はあるんですから。でも、そんなことをやっていたら、世の中、救いがありませんよ。労働組合とは少なくとも、社会正義に立脚しなければいけない。我々はそう考えている」(矢沢修太著『JR―歪んだ鉄路 「JR東日本」の不可解な労使関係』日新報道、1995年、pp.55~57)。

 1995年、JR東労組会長に就任。
 2001年、JR東労組会長を退任、顧問に就任(2002年退任)。
 2002年、JR総連特別顧問に就任。(2003年勇退)。2002年からのJR浦和電車区事件など、大弾圧を受ける。
 2003年、すべての組合役職を退職。
 2005年、業務上横領容疑で不当弾圧される。
 2007年、業務上横領容疑で家宅捜索を受ける。11.30日、業務上横領容疑で警視庁が書類送検 ※一部のマスコミはJR東日本労組元会長などの匿名表記で報道した。12.28日、不起訴処分となる。
 2008.1.29日、不当捜査による精神的苦痛・社会的信用失墜を理由に、東京都や国に損害賠償を求める訴えを起こす。
 2010.12.9日、特発性間質性肺炎で逝去(享年74歳)。

【革マル派の№2松崎明と小池百合子の交友録】
 その社長は幅広い人脈を誇り、大物政治家や財界人、時にはヤクザとの交友を吹聴していた。JR東労組の会長だった故・松崎明氏とはベッタリの関係で、新宿駅東口のイベント・ステージ管理の利権も提供されていた。社長を通じ、小池氏は松崎氏とも交流していたのだが、松崎氏は警察当局が、かつて内ゲバで人殺しも行った“極左暴力集団”革マル派のドンと見ている人物で、いわくつきの“人脈”だった。「社長は松崎さんの口利きで、JR新宿駅東口にあったイベントステージの管理運営を請け負い続けていた。おいしい利権でした」。
 週刊新潮2020.6.18日号掲載 「小池都知事『カネと男』のスキャンダル 極左暴力集団、闇金業者とも交際」。
 小池氏と松崎氏の間に関係が生まれた。 「松崎さんの出版パーティーの司会を百合子がしていた」(同)。結果、彼女は「極左暴力集団」の広告塔を務めてしまったということになる。社長との関係は、彼女が政界に入って出世し、新たな庇護者を得る中で解消されていった。 「4年くらい前かな。社長に“百合子とはどうなった?”と聞いたら“とっくに別れた”“政治家はとにかく金がかかるよ……”とこぼしていた」(同)。社長は3年前に世を去り、会社も閉鎖。知事にとって触れられたくない“過去”であることは間違いない。

【松崎明記念資料コーナー】
 「一般財団法人 日本鉄道福祉事業協会」の「松崎明記念資料コーナー案内
 「松崎明記念資料コーナー」は、2017年7月、「目黒さつきビル」オープンと共に開設しました。松崎明氏は動労、JR総連・JR東労組の指導者として、職場の闘いを基礎に組合員の利益を守り、平和と安全を守る闘いを切り拓いてきました。5万人合理化反対闘争、マル生粉砕闘争、安保・沖縄闘争、スト権奪還闘争、そして国鉄分割民営化反対闘争など、日本労働運動全体をも牽引するたたかいを実現してきたと言えます。
 また1987年、「一個の革命」とも言われた国鉄改革を成し遂げ、JR東労組の礎を築き上げ、世界の労働組合・労働者との連帯も実現してきました。松崎明氏は2010年12月9日に亡くなりましたが、時代の流れに抗し、常に労働者の立場に立って闘い抜いた松崎明の抵抗とヒューマニズムの精神はいまも受け継がれています。

 本コーナーは松崎明氏のたたかいの足跡、歴史的資料をできるだけ蒐集し、現在・未来の労働運動の発展に役立てていきたいという願いが込められています。弾圧につぐ弾圧で、松崎氏本人はほとんど資料を保存することができませんでした。したがって、JR総連一JR東労組資料室に保存してあったもの、関係機関・関係者からの寄贈という形で蒐集しましたが、まだまだ全体を網羅することはできていません。これからも皆様のご協力を得てコーナーを充実させていきたいと思います。皆様のご協力とご活用をお願いします。

 2017.4.4日、平井康章 ノンフィクションライター「打算と裏切り…国鉄最後の20年を描いた『昭和解体』はここがスゴイ」。
 昭和62年(1987年)4月1日午前0時、「日本国有鉄道」は明治5年(1872年)の開業以来、115年にわたった長い歴史の幕を閉じた。その日、鉄道発祥の地である東京の汐留貨物駅で行われた「SL汽笛吹鳴式」では、戦前に製造されたC56型蒸気機関車が、むせび泣くような汽笛を鳴らし、詰めかけた鉄道ファンは国鉄との別れに涙するとともに、新たに発足する民間鉄道「JR」の前途を祝したのだった。

 だが、この記念すべき日を迎えるまでのおよそ20年間、水面下では国鉄関係者のみならず、政治家、官僚、財界人を巻きこみ、友情、憎悪、打算、裏切り、そして連帯という壮絶な人間ドラマが繰り広げられていたのである。そんな国鉄最後の20年間を、中曽根康弘元首相をはじめとする関係者による詳しい証言や、未公開の貴重な資料をもとに描き切ったのが『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』だ。著者の牧久氏は、昭和16年、大分県生まれ。東海道新幹線が開通した昭和39年に日本経済新聞社に入社し、東京本社社会部に所属。担当記者となった昭和43年以来、「同時代の目撃者」として国鉄の動きをウォッチしてきたベテランジャーナリストである。分割・民営化から30年という節目に本書を上梓した牧氏に、当時の真相を聞いた。

 戦後日本の転換点を描く

 私は、かねてから国鉄の分割・民営化は戦後の日本における最大の「政治経済事件」だと考えていました。ピーク時に60万もの人員を抱えた企業体は日本においては国鉄しかありませんし、それほどの巨大組織が解体されたことで、社会は大きく変化しました。なかでも劇的に変わったのは、日本の「労働組合運動」が壊滅したことです。 

 戦後の日本はマッカーサー連合国軍総司令官が進める民主化政策のもと、多くの労働組合が誕生しましたが、最も規模が大きかったのは「国鉄労働組合」(国労)でした。国労は最盛期には約50万人以上の組合員を擁し、「日本労働組合総評議会」(総評)の中核組織として、社会党を支えていた。ところが国鉄の分割・民営化により国労が潰れたことで上部組織の総評は解体に追い込まれ、ひいては社会党の壊滅に繋がった。国鉄解体は戦後日本の転換点だったわけです。

 では、この「事件」はいかにして起こったのか。これまで、当事者たちがそれぞれの立場から発言した記録はたくさん残っていますが、俯瞰して全体像を示すものはなかった。そこで本書では、当局者や労組関係者、国鉄を取り巻く政治家や官僚たちの証言や資料をもとに、国鉄解体に至るまでの客観的な記録を残そうと考えたのです。

 「バカヤロー!」「ノロマ!」

 <牧氏によれば、国鉄解体に向けての起点となったのは昭和42年(1967年)だったという。この年、国鉄は開業以来、初めての累積赤字に陥った。>

 単年度でみれば、国鉄は昭和39年から赤字でしたが、しばらくは繰越利益でしのいでいたんです。しかし昭和42年には繰越利益をも食いつぶし、公共企業体としては最悪の財務状態に陥ってしまった。そこで国鉄当局は「5万人の合理化計画」に乗り出します。柱となるのは「EL(電気機関車)・DL(ディーゼル機関車)の一人乗務」の導入です。従来、国鉄の機関車は機関士と機関助士の二人が乗務していましたが、これを機関士一人だけの乗務に切り替え、人員を削減しようとしたわけです。

 この動きに対し、「国鉄動力車労働組合」(動労)や国労が猛反発し、ストライキに突入。スト解除の見返りとして一人乗務問題の先送りと、「現場協議制度の確立」を勝ち取りました。そしてこの「現場協議制度」が、国鉄に混乱をもたらしたのです。

 <通常、労働組合と経営側は、本部間の団体交渉によって協定を結ぶ。しかし現場協議制度は「駅単位」や「保線区単位」といった末端レベルで労働条件に関する様々な協定を結ぶものだった。>

 現場協議制度の導入以降、全国各地の国鉄で、駅長などの「管理者」を組合員が吊るし上げる光景が日常的に繰り広げられました。組合員らは駅長のネクタイを引っ張ったり、腹を小突いたりしながら「バカヤロー」「ノロマ」といった罵声を浴びせた挙げ句、「この作業には手当をつけろ」とか「飲食費を当局が負担せよ」などと要求した。管理者も組合員とうまく付き合わなければ昇進できないとあって、抵抗もせずに彼らの要求を受け入れてしまう。そのため職場環境は荒れ、現場ごとに様々な手当が乱発された。国鉄当局の管理権が失われる事態となったのです。

 こうした状況を改善すべく、昭和44年に就任した磯崎叡総裁が導入したのが「生産性向上運動」(通称・マル生)だ。これは、全国の現場管理者を集め、「労使協調して生産性を向上させる」ための研修を行うというもの。しかし研修の実態は、職員の「労組脱退」を促す内容だった。当初、マル生の効果は絶大で、昭和46年1月ごろから国労・動労合わせて1ヵ月平均で3000~5000人もの脱退者が続出、労組に大きな打撃を与えました。

 こうした国鉄当局の攻勢に対し、慌てた労組側はマスコミに窮状を訴えることで反撃。新聞には連日「昇給をエサに組織を切り崩している」とか「協力せぬなら差別は当然」といった〝反マル生キャンペーン〟記事が掲載されるようになりました。

 決定打となったのは、水戸鉄道管理局の「不当労働行為」(労働者の団結権を侵害する行為)発言です。これは、水戸管理局の能力開発課長が現場管理者を集めた会議の席上、「知恵を絞って不当労働行為をやれ」と発言したもので、証拠となる録音テープを国労が入手し、公表したために新聞各紙で一斉に批判されました。

 <その結果、国鉄当局はマル生の中止を表明したが、勢いづいた労組はそれだけでは納得しない。不当労働行為者の処分、不利益を受けた者の救済、昇給基準の見直しなど、様々な要求を突きつけた。>

 この頃の国鉄当局はもはや無抵抗の状態で、組合の要求を次々と受け入れてしまいました。なかでも驚くのは「昇職・昇格基準の設定」を組合に委ねてしまったことです。

 中曽根・土光が動いた

 従来、国鉄では勤務成績や職務能力で昇職・昇格を決めていましたが、組合の要求によって、能力に関係なく、勤続年数で自動的に昇格者を決めることになってしまった。「査定」という人事権までもが組合に奪われ、職員の間には「働いても働かなくても給料は同じ」という風潮が蔓延してしまったのです。

 <実際、当時の組合員らの「驕り」は尋常ではなかった。試運転の列車を組合員専用の通勤列車として運行させる一方、「運転の基本動作を守る」との名目で必要以上の安全運転を実施したため、遅延・運休などダイヤの乱れが頻発する。利用者は怒りを爆発させ、大宮駅や上尾駅では、乗客が列車の窓ガラスを割る、駅長室になだれ込むなどの暴動が起こった。

 こうした混乱を受け、ある「野望」を秘めた政治家が立ち上がる。中曽根康弘元首相だ>

 昭和55年に発足した鈴木善幸内閣で行政管理庁長官に就任した中曽根氏は、国鉄を分割することで労組を分断し、弱体化させることを決意します。

 中曽根康弘氏

 当時は国労だけで20名程度の代議士を当選させるだけの票を持っていましたが、これを潰すことができれば社会党は壊滅し、戦後長らく続いてきた「55年体制」を終わらせられると考えたわけです。

 中曽根氏は「メザシの土光さん」として国民に親しまれた土光敏夫・経団連名誉会長をトップに据えた「第2次臨時行政調査会」を発足させ、国鉄の分割・民営化の論議が本格的にスタートしたのです。

  <政治が動き出す一方で、国鉄内部からも「3人組」と称された井手正敏(後のJR西日本社長)、葛西敬之(同JR東海社長)、松田昌士(同JR東日本)らを中心とする若手改革派が台頭。政界・官界と連携しつつ分割・民営化に取り組んでいった。>

 井手・葛西・松田の三氏は、それぞれ採用年次も歩んできたキャリアも異なりますが、共通するのは地方管理局で「労務」を経験したことです。彼らは地方の現場で、人事権までも組合が握っている実態を知り、改革を志した。

 国鉄当局の中で分割に反対する「国体護持派」と呼ばれた幹部たちは、そんな井手氏らを、中国で文化大革命を主導した「4人組」になぞらえて「3人組」と呼び、国鉄に弓を引く反逆者と見なしていました。しかし、3人組に共鳴する若手職員は次第に増え、昭和60年には総勢20人が「抜本的な国鉄改革の方法は、分割民営化しかない」とする「決起趣意書」に署名しました。

 彼らはいずれも課長補佐クラスで、30代から40代と若かった。明治維新では薩長の下級武士が決起しましたが、同じようなことが国鉄でも起こっていたのです。

 いまだ道半ば

 <国鉄当局内で改革への機運が高まる一方、労組にも変化が起こっていた。国鉄の組合の中でも、最強硬派として知られていた動労が、昭和61年に「労使共同宣言」を締結し、国鉄当局との協調路線に転じたのである。>

 昭和60年に動労委員長に就任した松崎明氏が「このままでは国鉄の将来はない」と判断して労使協調路線に転じました。配置転換によって鉄道業務から離れ、駅の売店や系列ホテルへ異動になる組合員もいましたが、松崎氏は雇用を守ることを優先させ、これを受け入れた。

 こうした松崎氏の姿勢は、彼が在籍した「革マル派」(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)の組織を温存するための「偽装」ではないかとも見られていました。しかし、組合員の生活を守るという点から見れば、正しい選択だったともいえる。

 他方、国労は労使協調を受け入れるか否かで内紛状態に陥り、弱体化した。ただ、これも「生き延びるためといって、当局の言いなりになるわけにはいかない」という彼らなりの理念に基づいて行動した結果ですから、労働運動のあり方として間違いだったと言い切ることもできない。動労と国労では「生きざま」が違っていたのです。

 各人各様の思惑が複雑に絡み合った結果、国鉄は消滅。6つの旅客会社と、貨物会社に分割・民営化されたのだった。

 <あれから30年――。果たして分割・民営化は成功したのだろうか。>

 JRという民間企業になったおかげで、サービスは格段に良くなったと言えます。列車が順調に動くのはもちろん、「駅ナカ」と呼ばれる駅構内の商業スペースは充実しているし、トイレだって国鉄時代に比べるとずっときれいになった(笑)。ただ、民営化の恩恵を十分に受けたのは本州にある東、西、東海の3社だけで、他社は苦戦が続いている。 

 豪華列車「ななつ星」で話題になった九州にしても、上場したのはようやく昨年で、鉄道事業は未だに赤字です。四国、北海道に至っては民営化以来、ずっと赤字が続いている。これらの会社をどう立て直すのか、未だに展望は開けていませんし、国鉄の分割・民営化は今なお〝道半ば〟と言えるのではないでしょうか。

 私はこれからも、JR各社の動向を見守りたいと思っています。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 いち早く本書を読んだ国鉄・JR関係者からは「これは国鉄解体の〝正史〟だ」との声が上がっているという。平成の世もすでに30年近く経過した今、ますます遠のいていく「昭和」という時代を改めて知るうえでも貴重な一冊だ。


 「巨大企業を恣(ほしいまま)にした、信じられない「暴力」と「抗争」の真実『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』"」参照。
 JR東労組から3万4500人が大脱走の怪

 2018年春、JR東労組から3万3000人の組合員が脱退した。その後も組合を抜ける者は増え続け、2018年末時点で脱退者は計3万4500人にのぼり、残る組合員は1万3000人弱となった。かつての動労、JR東労組委員長にして新左翼「革マル派」の実質的な指導者と見られる労働運動家・松崎明の死から8年余り。ようやくJR東日本が、「JRの妖怪」と呼ばれた松崎の〝呪縛〟から「完全に解放される日」が近づいてきたのだろうか。 

 松崎は1936年、精米業を営む父・登喜治と母・タネの間に生まれた。高校卒業後、国鉄に就職し、国鉄動力車労働組合(動労)全国青年部の初代青年部長となった松崎は、ストを辞さない闘争手法で国鉄と対立。1963年、ストライキに入り、威力業務妨害の容疑で逮捕され、国鉄を解雇される。その後、動労の専従役員となり、尾久機関区を統合した田端機関区の動労・支部長、動労・関東地方評議会事務局長、動労・東京地本の書記長、動労・東京地本の委員長を歴任。1975年の「スト権スト」など数々のストライキを指揮し、「鬼の動労」と呼ばれる過激な組織をつくり上げた。

 ‹‹松崎明は、日本の労働問題が燃え上がった戦後昭和で、もっとも先鋭的で過激な活動を繰り広げた「動労」(国鉄動力車労働組合)の闘士として、当局の合理化(リストラ)に猛然と反発、1975年(昭和50年)のスト権奪還闘争では国鉄最大の労組「国労」(国鉄労働組合)と一体となって、全国の列車を八日間にわたって止めるなど、〝鬼の動労〟の象徴的存在だった。

 しかし、80年代後半、中曽根政権が進めた国鉄の分割・民営化に徹底抗戦する国労を切り捨て、それまで犬猿の仲だった、当局寄りの「鉄労」(鉄道労働組合)と手を組み、組織を挙げて労使協調、民営化賛成に回り、大転換の先頭に立った。〝松崎のコペルニクス転換(コぺ転)〟とも呼ばれたこの男の見事な〝変心〟によって国労は瓦解し、国鉄分割・民営化は軌道に乗って走り始める。

 松崎は、「国鉄改革」の最大の功績者のひとりとなったのだ。そして民営化後、崩壊した国労に替わりJRの組合を率い、会社側にも「影の社長」のような権勢をふるうことになる。労働運動家の花形だった松崎は、政治家や文化人、ジャーナリスト、作家など幅広く多彩な人脈を形成する。元警視総監の秦野章とはカラオケ仲間で、自民党主流派の〝ドン〟金丸信からは参院選全国区から出馬要請を受けたこともある。政治評論家の岩見隆夫、松崎の「偲ぶ会」で弔辞を読んだ作家・佐藤優や、東京都知事の小池百合子とも親交があった。

 だが、松崎には、労働組合の〝名士〟とは別の、もうひとつの顔があった。非公然部隊を組織し、陰惨な〝内ゲバ〟で数々の殺人・傷害事件を起こしてきた新左翼組織「革マル派」の幹部でもあったのだ。››(序章「天使と悪魔」――ふたつの顔を持つ男)

 2010年、松崎は間質性肺炎が悪化し、この世を去る。それは、「戦闘的労働運動」の終焉を意味していた。機関士に憧れた少年から「革マル派」最高幹部、JR東日本「影の社長」へ。これまで封印されてきた〝暴君〟の生涯とは・・・?『昭和解体』の著者が、マスメディア最大のタブー「平成JRの裏面史」に挑んだ画期的ノンフィクション!。

 著/牧 久『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』


 JR総連。JR総連は傘下組合員6万1000人を誇り、JR連合(組合員7万5000人・右派)と並ぶJR労組内の一大勢力である。特にJR東日本では、経営側のバックアップもあって労組員の約8割を占め、圧倒的影響力を持っている。そのJR総連が革マル派によって完全支配されている。JR総連の前身は国鉄動力車労働組合(動労)である。この動労、国鉄民営化前は順法闘争やスト権ストを繰り広げ、「鬼の動労」の異名を取っていた。で、このJR総連を革マル派が支配するようになったのは、元動労委員長で現JR総連・JR東労組顧問の松崎明氏抜きには語れない。ほかのセクト(党派)が大衆闘争(学園闘争や街頭闘争)に力を入れていたのに対し、革マル派だけは、組織の強化(前衛党建設)にひたすら励んでいた。革マル派は、その独善性、排他性、意見の異なる者への攻撃性という点で、もう「共産主義」という名のカルト集団にすぎないと確信した。

 この反戦青年委員会で勢力を誇ったのが、中核派と革マル派である(我がブントは運動論はあったが組織論がなかったのでダメだった)。で、そのころの中核派は過激な街頭闘争を運動の軸にしていた。当然、反戦青年委員会に所属する労働者にも動員がかかる。が、革マル派は組織の強化(前衛党建設)が第一であるから、労働者を街頭闘争に参加させるような真似はけっしてしなかった。その結果、中核派系の反戦青年委員会は多数の検挙者を出し弱体化したが、革マル派系のそれはかえって勢力を増すことになるのである。国鉄民営化は労働者の側からすれば、まさに大合理化そのものである。したがって、左翼党派であれば、当然反対せざるをえない。実際、当時の社会党や共産党、総評や国労は民営化に反対した。ところが、である。最左派と目された「鬼の動労」が賛成に回ったのだ。しかも動労から見れば右翼とも言える鉄労と組んでまで。しかも松崎氏は、このとき、運輸族のボスだった三塚博運輸大臣と手を結び、当時の自民党の実力者だったあの金丸信氏とも親交を深めた。もっともネックになると目されていた動労(松崎氏)の転向によって、国鉄民営化は大した混乱もなく実現する。このときから、JR東日本の経営側はJR総連(というか松崎氏)の意向を無視できなくなった。このあと、動労は鉄労とともにJR総連を発足させる。が、やがてJR総連内の鉄労系組合員は、動労系のセクト主義、その攻撃性に愛想をつかして総連を脱退し、新組織を結成する。この新組織を積極的に支援したのが、当時、JR東海の副社長だった葛西敬之氏である。で、この葛西氏、自らが非常勤講師を務める大学で革マル派に襲撃される。JR東日本とJR東海が犬猿の仲なのは、こういう背景があるのである。当時、松崎氏はメディアに対して、「私は革マル派ではない」「(革マル派の教祖)黒田氏から思想的影響は受けたが、今は関係がない」と語っていた。そして、「労働者の雇用を守るために民営化に賛成した」とも語った。が、これはウソだ。革マル派の論理に忠実に従ったにすぎない。

 「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相(当時)は、国鉄民営化の目的を「国労を解体し、社会党・総評ブロックを消滅させ、新しい憲法を安置する」と語っている。この体制側の猛攻に、戦後政治の一方の軸であった当時の社会党・総評ブロックでさえ崩壊しかねないほどの危機に直面した。そこで松崎氏は、勝ち目の薄い「抵抗」よりも「組織の温存」を選択したのだ。中核派によると、松崎氏は晩年の黒田氏(2006年死去)とは意見が対立していたようだ。党官僚や学生が黒田氏を支持し、労働者が松崎氏を支持するといった構図らしい。中核派の機関紙「前進」によると、2000年の12月、松崎氏は「革マルと完全に手を切った」と公言し、一方の黒田氏率いる革マル派は「JR総連本部執行部を階級敵と断罪し、打倒する」との「戦闘宣言」を出したらしい。対し、公平・公正な社会を築くために、「反グローバリズム運動」を掲げ、世界の仲間たちと連帯して闘っています―などと、もっともらしいメッセージを発信する。


 2011年9月、城山 邦紀(きやま・くにき、元読売新聞社会部次長)取材ノート「私が会った若き日の松崎明さん
 鬼の動労 私についた唯一の嘘


 動労(国鉄動力車労働組合)は当時、国鉄ストライキを連発、鬼の動労と言われた。1973年、動労東京地方本部委員長に就任した松崎明さんは、壁際で取材している労働記者を壇上からじろりと見て、「ここにブル新の記者がいる」と言った。面と向かってこんなことを言われたのは初めてで、強く反発した。松崎さんは東京地本を拠点に、影の実力者として動労中央本部を動かしていた。前年の72年には地本書記長として順法闘争など反マル生闘争を展開、鬼と呼ばれた。東京地本はそのころ東京駅の裏にあり、バラック建ての引き戸をがらりと開けるとヘルメットが転がっていて、数人の組合員の刺すような視線があった。「革マル」の噂が胸をよぎったのを覚えている。そうして、75年のスト権ストに突入。11月26日から12月3日まで8日間にわたり陸海空の足が止まり、日本列島はマヒした。

 修羅場で何度も取材に行くと、松崎さんは隠さずに本当のことを言った。意外だった。あるとき、「松崎さんは革マルですか」と単刀直入に聞くと「違います」と一言。松崎さんが私についた唯一の嘘だった。黒田寛一の下、革マル派結成時の副議長であったことは後に本人も認めている。(『松崎明秘録』同時代社)

 松崎さんのお嬢さんが小学校3年生のころ、当時女の子に流行のウサギの毛皮のポシェットを持って、都内の自宅へ夜打ちをかけたことがある。話しているうち、ふと「このマンションに住んでいる記者が『動労の松崎がここにいる』と住民に言うんですよ。弱りました」と漏らした。家族を思う心痛が伝わり、鬼も普通の親だと思った。その後、引っ越して行った。

 国鉄分割民営化では、「組合員の雇用と生活を守る」をスローガンに、労使協調路線に180度転換した。「北海道の仲間が、東京に出てきてホテルマンになってくれたんですよ。もう、ストはしません」。リーダーの決断と孤独の中で組織を引っ張っていた。分割民営化に反対する国労を「トンボに眼鏡だ。先が見えない」と皮肉った。

 松崎さんの人脈は驚くほど広かった。元警視総監の秦野章さんとはカラオケを歌う仲だった。しかし、革マルの影を引いてか、労働界では異端だった。「笹森さんに会いたい」と頼まれ、笹森清連合会長との橋渡しをしたが、松崎さんが急に中国へ行くことになり、実現しなかった。すでに革マルからは離れていたが、労働界主流の人脈に近付こうとした理由は何だったのか。幻のトップ会談だった。

 2010年12月9日、突発性間質性肺炎で死去。74歳。偲ぶ会が11年3月3日、東京・品川のグランドプリンスホテル新高輪で開かれ、2000余人が参列。光子夫人は「こんなにたくさんの人が支えてくださったとは」と絶句した。同ホテルでは07年7月23日、平岩外四・元経団連会長の「告別の会」が開かれ、きらびやかな人脈や業績がパネル写真で紹介された。松崎さんの若い姿はデモやストに明け暮れる動画の中にあった。正統と異端だが、人柄を慕って参列した人たちの気持ちは、どちらも同じように思えた。


 2016.7.25日、「JR東日本に巣食う「革マル派」というカルト 」参照。
 日本を代表する公共交通機関であるJRの巨大労組「JR総連」は傘下組合員6万1000人を誇り、JR連合(組合員7万5000人・右派)と並ぶJR労組内の一大勢力である。特にJR東日本では、経営側のバックアップもあって労組員の約8割を占める圧倒的影響力を持っている。その「JR総連」が新左翼(過激派)の中で異筋な党派である革マル派によって完全支配されている。「JR総連」の前身は国鉄動力車労働組合(動労)である。この動労、国鉄民営化前は順法闘争やスト権ストを繰り広げ、「鬼の動労」の異名を取っていた。JR総連を革マル派が支配するようになったのは、元動労委員長で現JR総連・JR東労組顧問の松崎明抜きに語れない。松崎は1936年生まれ。1955年、国鉄入社。日本共産党に入党。1958年、革マル派教祖の黒田寛一氏と出会う。1959年、共産党を離党。革命的共産主義者同盟(革共同)に加入。1963年、革共同分裂。革共同が中核派と革マル派に分かれた時、松崎は黒田率いる革マル派についた。そして副議長(組織名:倉川篤・愛称:クラさん)になった。

 松崎はかって動労東京地本の書記長だった。このとき既に「動労の最高実力者」と言われていた。松崎の秀でた指導能力と革マル派の組織力(組織論)が一つになって革マル派による動労支配が確立されていく。革マル派は、ほかのセクト(党派)が大衆闘争(学園闘争や街頭闘争)に力を入れていたのに対し組織の強化(前衛党建設)にひたすら励んでいた。国家権力と対峙する局面を迎えると、闘争より「組織の温存」を選んだ。東大闘争がその典型である。彼らは、安田講堂攻防戦の時、与えられた持ち場からこっそり抜け出した(逃げ出した)。そこへ機動隊が陣取り、安田講堂攻防戦の拠点とした。革マル派はそういうこともあって全共闘からパージされた。その革マル派が他党派と常に衝突した(内ゲバ)。中核派とは近親憎悪もあってか「血で血を洗う」抗争を繰り広げた。その後、対革マル戦に社青同解放派が加わり凄惨を極める党派間戦争を演じている。
 かって、動労は日本社会党と総評(現・連合)の影響下にあった。社会党と総評は、ベトナム戦争の泥沼化を見て、「日米安保条約反対・ベトナム侵略戦争反対」の青年組織「反戦青年委員会」傘下の労組の中に作った。新左翼(過激派)各派がここぞとばかりにこの反戦青年委員会に対して加入戦術を取った。ほどなく反戦青年委員会は過激派の影響下に収められ、総評の「鬼っ子」になっていく。この反戦青年委員会で勢力を誇ったのが中核派と革マル派である。その頃の中核派は過激な街頭闘争を運動の軸にしていた。当然、反戦青年委員会に所属する労働者にも動員がかかる。革マル派は組織の強化(前衛党建設)を第一とし検挙に繋がるような街頭闘争を控えた。その結果、中核派系の反戦青年委員会は多数の検挙者を出し弱体化したが、革マル派系のそれは相対的に勢力を増すことになった。革マル派の活動家が総評の青年部を確実に侵食していった。動労、全逓(後のJPU)、全電通(現NTT労組)、日教組などの官公労組にその勢力を広げていつた。JPUやNTT、日教組などの革マル派は、中核派による度重なる襲撃などによりその勢力を衰退させたが、動労(JR総連)の革マル派はカリスマ松崎の存在もあって勢力が衰えることはなかった(九州や長野県は離反した)。  

 JR総連(革マル派)の危険性は、国鉄民営化の時の対応を見ればよく解る。国鉄民営化は労働者の側からすれば大合理化そのものであり、左翼党派であれば当然反対せざるをえない。実際、当時の社会党や共産党、総評や国労は民営化に反対した。ところが、最左派と目された「鬼の動労」が賛成に回った。しかも右翼とも言える鉄労と組んでまで。松崎は、このとき、運輸族のボスだった三塚博運輸大臣と手を結び、当時の自民党の実力者だった金丸信氏とも親交を深めた。もっともネックになると目されていた動労(松崎氏)の転向によって国鉄民営化は大した混乱もなく実現する。このときから、JR東日本の経営側はJR総連(というか松崎氏)の意向を無視できなくなった。このあと、動労は鉄労とともにJR総連を発足させる。が、やがてJR総連内の鉄労系組合員は、動労系のセクト主義、その攻撃性に愛想をつかして総連を脱退し、新組織を結成する。この新組織を積極的に支援したのが、当時、JR東海の副社長だった葛西敬之氏である。で、この葛西氏、自らが非常勤講師を務める大学で革マル派に襲撃される。JR東日本とJR東海が犬猿の仲なのは、こういう背景があるのである。

 当時、松崎はメディアに対して「私は革マル派ではない」、「(革マル派の教祖)黒田氏から思想的影響は受けたが、今は関係がない」と語っていた。そして、「労働者の雇用を守るために民営化に賛成した」とも語った。が、これはウソだ。革マル派の論理に忠実に従ったにすぎない。「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相(当時)は、国鉄民営化の目的を「国労を解体し、社会党・総評ブロックを消滅させ、新しい憲法を安置する」と語っている。この体制側の猛攻に、当時の社会党・総評ブロックは力不足だった。加えて、動労(松崎氏)が裏切り逸早く当局側に投降するという離れ業を演じた。「組織の温存」を優先させたことになるが、元々体制側に通じていたのかもしれない。

 松崎は晩年の黒田(2006年死去)と意見が対立していたとも云われている。党官僚や学生が黒田氏を支持し、労働者が松崎氏を支持するといった構図らしい。中核派の機関紙「前進」によると、2000年の12月、松崎は「革マルと完全に手を切った」と公言し、一方の黒田率いる革マル派は「JR総連本部執行部を階級敵と断罪し、打倒する」との「戦闘宣言」を出したらしい。が、革マル派はJR総連執行部を批判しても、松崎個人は批判しない。通常、「裏切り者」、「階級の敵」、「反革命」、「権力の手先」、「ファシスト」、「スパイ」等々批判(罵倒)されるが、革マル派はJR総連の労使協調路線を批判しても松崎には沈黙している。
 「平成18年10月25日 第165回国会 国土交通委員会 第3号」。
 革マル派、正式名称は日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派でございますが、同派は共産主義革命を起こすということを究極の目的としている極左暴力集団であります。約五千四百人の活動家等を擁しているというふうに見ております。革マル派は、他の極左暴力集団と比較しても、非公然性が極めて強い組織であります。これまでにも、火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反事件あるいは対立するセクトとの間での殺人事件等々、多数の刑事事件を引き起こしてきているところであります。他方、革マル派は、現在、将来の共産主義革命に備えるため、その組織拡大に重点を置いて、周囲に警戒心を抱かせないよう、その党派性を隠して、基幹産業の労働組合等、各界各層への浸透を図っております。JR総連及びJR東労組への浸透もその一環というふうに見ているところであります。
 平成15年3月18日政府答弁書」。
 警察においては、平成8年以降、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(以下「革マル派」という。)の非公然アジト15か所を摘発しているが、これらのアジトの一部から押収した資料を分析するなどした結果、全日本鉄道組合総連合会(以下「JR総連」という。)及び東日本旅客鉄道組合(以下「JR東労組」という。)内における革マル派組織の存在を確認するなど、革マル派がこれらの組織に相当浸透している実態を解明しているものと承知している。

 2019.4月、牧久(まき・ひさし)が『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』を上梓した。2年前の『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社、2017年)の続編。1987年に国鉄が分割・民営化されて誕生したJR東日本の労使関係を軸に「平成JRの裏面史」を描いている。分割・民営化を通して、経営当局と対峙してきた旧国鉄最大の労組「国労」(国鉄労働組合)が分裂・崩壊したのに比して「動労」(国鉄動力車労働組合)は生き延びた。「鬼の動労」と呼ばれ最も先鋭的に闘争してきた「動労」の方が民営化直前に方針転換し経営側と提携したことによる。その方針転換を主導したのが「鬼の動労」の象徴的存在だった松崎明である。「松崎のコペルニクス的転換(コペ転)」と評された。国鉄分割・民営化後、松崎は「国鉄改革」の最大の功績者の一人になった。分割・民営化を行ったのは「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根政権。これに「国鉄改革三人組」(松田昌士、井手正敬、葛西敬之)が呼応した。松崎は民営化後、JR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)の初代委員長に就任する。上部団体のJR総連(全日本鉄道労働組合総連合会)に強い影響力を持ち、下部組織が上部団体を支配するという歪な関係が続くことになった。松崎は、組合だけでなく会社側人事などにも容喙し、経営権に深く介入する「影の社長」のような影響力を及ぼした。松崎には「もう一つの顔」があった。新左翼系の異端党派である「革マル派」の副議長という№2最高幹部でもあった。松崎自身はある時期から「革マルを離脱した」と公言し始めたが「離脱は偽装」と見られた。JR東日本の初代社長に就任したのは元運輸省(現国土交通省)事務次官の住田正二。住田をJRの最大会社・東日本に起用したのは中曽根。住田の妻は山種証券の創業者・山崎種二の娘で、山崎は中曽根の有力な後援者。

 JR東日本の常務取締役には「国鉄改革三人組」の一人である松田昌士が登用された。北海道出身の松田は民営化後はJR北海道を希望していたが、大方の予想に反して井手がJR西日本副社長、葛西がJR東海取締役となり、松田が東京に残った。松田は運輸省出向時代に住田に仕えた時期があり、住田も東大卒でヤリ手の井手、葛西よりは松田の方を側近にしたことになる。松田はなぜ松崎と手を握ったのか、歴史の闇に包まれている。松田が牧久(まき・ひさし)の取材に語ったのは、脅された事実はないということ。革マル疑惑について松崎に単刀直入に問いただしたところ、松崎は「自分は今でも革マル派である」と認め、「そのことで住田社長や松田さんに一切迷惑はかけない」と誓ったと明かした。松田は「自らの意思で松崎と一緒の船に乗り込んだ」と明言した。住田―松田体制で出発したJR東の経営陣は、JR東労組の委員長である松崎と手を握る。松崎は「労使協調」を否定し、労使は対等だという「労使対等」(労使ニアリー・イコール論)を主張し、労使協議制を作って、そこを通さなければ何ひとつ決められない体制を築いた。しかし、幹部人事や設備投資などに関しても労組が介入するとなると、経営陣が経営権を放棄したことに等しい。以後、「労使対等」路線を批判した人は次々と閑職に追いやられる左遷人事が横行した。極め付けは1994年に起きた『週刊文春』事件。ルポライター・小林峻一が書いた連載記事「JR東日本に巣くう妖怪」を巡り、JR東の駅構内のキヨスクから週刊文春が一斉に消えるという前代未聞の言論弾圧事件となった。

 1993年から社長を務めていた松田は2000年に会長に退き、社長に大塚陸毅、副社長に清野智が就任。2006年には大塚は会長に、清野がJR発足後の4代目社長となる。住田、松田の2人は顧問となり、大塚―清野時代が到来する。大塚、清野はともに旧国鉄時代、改革3人組の同志として国鉄改革に協力した若手改革派。大塚以降の経営陣は「是々非々の労使関係」を目指し、松崎に対しては、飴を舐めさせながら、一方で時間をかけて牙を抜いていくという作戦をとつた。この路線は2012年に社長に就任した冨田哲郎にも引き継がれる。

 2018年、JR東日本の最大労働組合である「JR東労組」に激震が走る。きっかけは春闘でスト権を確立し、ストを構えた労組に対し、会社側が労使紛争を防止する「労使共同宣言」の“失効”を通告したこと。これを機に脱退者が激増し、4万7000人(同年2月1日時点)いた組合員が1万4000人(同年6月1日時点)となり、10月には脱退者が3万4500人に上る大量脱退事件となった。組合員数は3分の1に激減し、同労組は崩壊の危機に追い込まれる。発足から30年が過ぎ、大塚―清野体制以降、慎重に進められてきた労組対策がやっと実を結んだ。JR東によると、東労組がスト戦術を打ち出した2018年2月頃から、首都圏を中心とした管内各線で不審な事故が相次いだ。当局は内部犯行の疑いもあるとみて警戒を強めている。また、JR総連傘下のJR北海道労組が9割以上の組織率を占めるJR北海道では2011年以降、事故が相次ぎ、現役社長が自殺。2014年には元社長も自殺する異常事態が起きている。松崎は2010年に死去しましたが、今でもJRと革マル派の闘いは終わってはいない。
 2019/11/08日、刊ポスト 2019年5.17/24号「【著者インタビュー】牧 久『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』/「勤労の鬼」と恐れられ、JRの妖怪と呼ばれた暴君の新事実!」。
 JR東日本労組初代委員長で「勤労の鬼」として恐れられた、JRの妖怪こと松崎明。その支配の実態とは? そして報道関係者にトラウマを残した「平成最大の言論弾圧事件」とは? 数々の新事実を明らかにする、迫真のノンフィクション!【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
 機関士に憧れた少年は大企業の「影の社長」へ――マスメディア最大のタブーに挑むこれぞ「平成JRの裏面史」!
 会社側が経営権を放棄するような異常事態。その背景にはやはり暴力への恐怖があった
 その変節は当時、〈松崎のコペ転〉(=コペルニクス的転回)とも揶揄されたとか。JR東日本労組初代委員長で、「動労の鬼」とも恐れられた、〈JRの妖怪〉こと松崎明。『暴君―新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』の著者・牧久氏には、国鉄分割民営化(84年)への20年の軌跡を具(つぶに検証した『昭和解体』(17年)もあり、本書ではそのさらなる深層と、革マル派の大幹部でもあった松崎の支配の実態に、数々の新事実をもって迫る。当初は動労のドンとして民営化に猛反発した松崎は、なぜ一転して当局側と手を組み、国鉄解体の功労者にすら変貌を遂げたのか―。結論から言えば、〈「形勢不利なときには敵の組織に潜り込む」〉動労型労働運動によって、松崎たちは生き残りに成功。やがて全国に30万の従業員を抱える一大企業群を、〈暴力と抗争〉の渦に陥れていくのである。


 実は松崎と革マルの関係に触れることは、20年以上タブー視されてきたという。「つまり94年の『週刊文春』不買騒動以来です。JR東日本と松崎は一体となって同誌の特集『JR東日本に巣くう妖怪』を問題視し、各キヨスクでの取扱拒否に出た。また16年にはこの問題を追及した『週刊現代』が計50件もの訴訟に見舞われ、〈平成最大の言論弾圧事件〉として報道関係者にトラウマを残します。私自身、その自己規制の渦中で日経時代を過ごし、前作でも松崎と革マル派の問題に正面から切り込んだとは言い難い。ただ78歳にもなると『お前は知っててなぜ書かない?』と言われたくなくてね。どうせなら元国鉄担当記者として知る限りの事実を全部書いてから、死んでやろうと(笑い)」。

 右派と左派がせめぎ合う政治の季節、、、、、に育った松崎は、1936年、埼玉県生まれ。川越工業高校在学中は民青で活動し、卒業後は義兄の勧めで国鉄へ。臨時雇用員として働く傍ら、日本共産党に入党し、正規採用後は機関助士として動労の前身、機労に加入。青年部を立ち上げるなど、頭角を現わす。またこの頃、松崎は後に革マル派を率いる黒田寛一と会い、日共を離党。黒田が理論、松崎が闘争と集金を担い、国鉄に革マル分子を続々と送り込んでゆく。「57年に黒田が立ち上げた“革共同”が63年に本多延嘉の中核派と黒田の革マル派に分裂し、以来両者の対立は内ゲバへと発展します。そんな中、松崎は動労の初代青年部部長に選出され、元々は『切符切りと一緒にするな!』と言って国労を出た旧機労系勢力を駆逐し、当時最大勢力だった国労とも覇権を争うようになる。“コペ転”も国労の孤立を図り、新会社で実権を握るための雌伏作戦と言えます。しかも彼は〈悪天候の日に山に登るのは愚か者〉とか、演説で組合員の心を掴むのが実に巧い。結果、当局のお偉方までが取り込まれ、革マルによる組合専横説も松崎さえ否定すれば、ないこと、、、、にされていくんです」。
 権力はいずれ腐敗するのが世の常
 国鉄解体によって総評や野党をも解体させた中曽根元首相の意図や、国鉄側の改革派三人組、葛西敬之、井手正敬、松田昌士各氏の活躍は前作にも詳しいが、その中で松崎が巧妙に立ち回り、新生JRをも手中に収める様は、戦慄必至だ。JR移行後、井手は西日本の副社長、葛西は東海の取締役、松田は東日本の初代社長・住田正二の下で常務に就くが、松崎はこの住田・松田ラインに〈労使対等〉論を呑ませるほど、蜜月を築く。「民営化を実現するため、最初に松崎に接近したのは葛西氏で、そこには何らかの密約もあったと思う。ところが井手や葛西はJR発足後本性を現わした松崎を見限り、松崎の怨念に曝されていきます。 一方で労使は対等、〈ニアリー・イコール〉だと言う松崎になぜ松田氏が同調したのか、私は不思議でね。本人に聞いてみると北大の大学院で労働法を専攻した彼が今でも松崎を庇うくらい、術中に嵌ってるんです。組合が人事や設備投資計画にまで口を出し、会社側もそれを平気で許すなんて、まさに経営権の放棄でしょ。そんな異常事態が長年放置されてきた背景にはやはり暴力に対する恐怖があったのではないか。実は松崎自身が言ってるんです。革マル派には革マル中央と松崎の革マルがあり、JR革マルは松崎組、、、だと」。現に中核派等による東労組幹部襲撃事件の死傷者は10数名を数え、〈次は松崎だ〉との犯行声明も出されたが、その松崎側も脅迫・盗聴や人事介入により、JR内で権力を掌握していく。公安も96年以降は革マル派の摘発に動き、07年には組合費をハワイの別荘購入に私的流用した容疑で松崎の強制捜査に踏み切るが、結局は不起訴に。が、ダメージは大きく、東労組内でも松崎批判の声が高まる中、彼は間質性肺炎で、平成22年12月、享年74歳でこの世を去る。「彼の生涯は現場労働者に対する差別への恨みや自分を顧みない大卒組への怨念を感じさせ、そのルサンチマンや純粋な義憤が当初は松崎を革命に向かわせたとは思う。ただ権力はいずれ腐敗するのも世の常で、日産ではゴーン前会長ばかりか元組合指導者・塩路一郎までが同様の末路を辿り、昨年はJR東で3万5000人近い脱退者が出たほど組合離れも進んでいる。このような組合不信が続けば、誰が労働者の権利を守るのか、今こそ組合の存在意義について考え直す時期なのかもしれません」。かつて〈権力は肥大化したら傲慢になる〉と言って闘争を挑んだはずの松崎が、その権力に溺れてゆく皮肉。が、あくまで本書に書かれたのは平成の出来事であり、ごく昨日、、の話なのだ。
 【まき・ひさしプロフィール】

 1941年、大分県生まれ。1964年、早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業後、日本経済新聞社入社、東京本社編集局社会部に所属。サイゴン・シンガポール特派員、東京・社会部長、労務担当常務等を経て副社長を経てテレビ大阪会長。前著『昭和解体』(講談社)は国鉄民営化の裏側を取材した決定版通史として各紙誌書評で取り上げられた。著書は他に『サイゴンの火焔樹』『不屈の春雷―十河信二とその時代』、『満蒙開拓、夢はるかなり』等。松崎の訃報は3度目のホノルルマラソン挑戦で訪れたハワイで聞く。「疑惑のコンドミニアムがあったハワイでね」。163㌢、61㌔、A型。


 「国商」という耳慣れない言葉がいま話題になっている。ジャーナリスト森功氏の最新刊『国商 最後のフィクサー葛西敬之』に由来する言葉だ。日本有数とはいえ、一企業のトップにすぎない葛西氏がなぜ、フィクサーとして長きにわたり安倍政権を裏で操ることができたのか。『国商』はその理由を膨大な取材とともに精緻に描き出している。同書にも出てくるが、葛西氏がJR内で大きな力を持てた源泉は、「国鉄分割民営化」を先頭に立って進めたことにある。「国鉄改革三人組」と呼ばれた男たちがいる。葛西氏、JR東日本元会長・社長の松田昌士氏、JR西日本元会長・社長の井手正敬氏の三人だ。「国鉄改革」は、当時組合の第二勢力だった「動労」の協力なくしては果たせなかった。動労とはすなわち革マル勢力であり、そのトップが松崎明だった。松崎と改革三人組の関係は、これまでも様々に論じられてきた。だが、本当のところはいまひとつよくわからない。今回、森氏と、『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』著者の牧久氏が、松崎と三人組の「本当の関係」についてとことん語り合う。
 『国商 最後のフィクサー葛西敬之』連載第13回(1)
 組合問題にいちばん強いのは井手だった
国鉄分割民営化とは何だったのか。つきつめて言えば、あれは「組合潰し」のためにやったんです。
はい、私もそう思います。そして、当時最大の勢力を誇った労組・国労を叩き潰すために、葛西氏ら「改革三人組」は動労の松崎明と手を組みました。
当時から取材をしている私から見ると、三人組と松崎との関係には温度差があります。まず、井手(正敬・のちのJR西日本トップ)は最初から最後まで一貫して松崎を嫌っていたし、松崎も井手にはあまり近づかなかった。
井手さんは私の取材にも、「葛西は松崎に騙されたんだ。僕は最後まで松崎を信用してはいけない、と距離をとってきたけれど、最初に葛西が松崎を信用し、松田(昌士・のちのJR東日本トップ)も国鉄改革のためには仕方ないと妥協したんだ」とよく言っていました。実は三人組のなかで、組合問題に本当に精通していたのは井手さんだったようですね。
そうです。井手さんは旧国鉄職員局の課長補佐時代から、国労などの組合と最前線で向き合い、付き合いも深かったんです。面白いのが、たとえば組合が「明日12時間ストを打つ」となると、当時の職員局長が記者クラブに説明するわけです。記者からは「明日はどうなるんだ。12時間も止まったら大変だぜ」という質問が出る。 ところが局長あたりだと、どういう状況になるかまったく想定できない。そうするとクラブ側が「井手を呼べ、井手を」となるわけです。
へえ、面白いですね。さすが運輸省記者クラブで国鉄改革前からずっと三人組を観察してこられた牧さんにしかわからない話です。
ばら撒かれた不倫写真
そこで課長補佐の井手さんがクラブのあるフロアに下りてきて、「皆さん、大丈夫です。明日は始発から2本だけ止まります。そのあとストは全部解除されますんで、それで予定稿を書いて、皆さん方麻雀でもやってください」と言うんです。で、実際にその通りになる。
たいしたもんです。井手さんは私の取材にも「国鉄時代に大事にしてきたのがクラブ記者たちとの付き合いだった」と話していました。「国労をはじめとした組合側はマスコミを使って情報を操作し、闘争を有利にしてきたけど、国鉄改革ではこちらがそれを利用したんだ」と。見方を替えれば、課長補佐時代からすでに、それだけ組合の内部情報を掴んでいたということですね。
そうなんです、上っ面の関係ではなく、深く食い込んでいたと思います。
そういう井手さんだからこそ、いくら国労を潰すためといっても、松崎と組むのは危険だと直感的に思ったのでしょう。井手さんは松崎を最後まで信用していなかった。「葛西氏は結局、松崎に騙されちゃったんだよ」というのが井手さんの見立てでした。
葛西さんはプライドが高い人間ですから、「騙されたんじゃない。騙されたフリをしたんだ」という態度をその後もずっと、それこそ死ぬまで貫きました。「危ないと分かった上で松崎を使って、用済みになったからこちらから手を切ったんだ」と。
そのようですね。取材をしていて葛西さんの負けず嫌いの性格がよくわかりました。ただ、単なるプライドというより、こっちから手を切ったと言ったほうが、自分自身や東海の姿勢を世間にアピールできると考えたのではないでしょうか。
それもあります。でも、騙されたフリというのはちょっと怪しいな、という事実もあります。たとえば分割民営化が果たされてJR東海ができたとき、東海の組合の委員長に松崎の右腕の佐藤政雄を迎え入れたわけです。
完全な革マルだと誰もがわかっているわけで、社員として採らない選択肢がありますから、葛西氏には拒否権があった。
そのとおりです。葛西氏は「いつ握った手を離そうかと思ってたんだ」などとうそぶくわけですが、本当にそう思っていたのなら、佐藤を招き入れることは拒否したはずです。もう分割民営化が果たされて、松崎に媚びる必要はないわけですから。
なるほど。佐藤政雄が来ても、自分ならコントロールできる、大丈夫だと思ったわけですね。松崎が軍門にくだったと信じていた、という証拠になります。
 
分割民営化後、松崎は全国のJRのスト権を、旧動労を中心に作った労組JR総連に集約しようと画策します。三人組はそれに反発しました。仮に松崎が全国のスト権を握ればかつての国労以上の脅威になる。そこで井手さんは真っ向から松崎の言い分に異を唱え、続いて松崎のJR総連の結成に反対したのが葛西氏だった。
松崎からすれば「葛西が裏切った、掌を返した」ということになる。それで、不倫写真をばら撒いたりする攻撃を始めるわけです。
あのとき一緒にいた女性は、葛西氏みずからが松崎に紹介したことがあったと聞いています。その点でも、葛西が松崎を一時は信用していた、と見ています。
「とんでもない変節漢で人間のクズ」…JR東海・葛西敬之が、ここまで「誹謗中傷」された理由
松崎は葛西をどうしても許せなかった
葛西氏はね、国鉄改革の際に、あまりにもいいように松崎を使ってしまったんです。それがあったから、裏切ったあとの反動も大きかった。
労使共同宣言ですね。国鉄改革のときに葛西たちが松崎に協力を仰ぎ、動労が分割民営化賛成に回った。それは労働界を牛耳りたい松崎にとって最大勢力の労働組合だった国労が邪魔だったという裏返しなのでしょうね。
はい。とにかく最大労組の国労を潰すためには、それ以外の労組と手を組まなければならない。そこで、国労に対する意地悪な動きを全部やるわけです。国労が分裂するように持っていくんだね。その総仕上げとも言えるのが、労使共同宣言です。
 松崎は「膨大な余剰人員の雇用をどう確保するのか。まず労使の決意を示し、世間にお願いするほかない。雇用確保のためなら、蛇といわれ仏といわれようが、この姿勢は貫く」と声明を出し、労使共同宣言に調印します。
JR東の初代社長はこうして革マルに絡めとられた
葛西氏は当時、職員局次長という立場でしたが、あれは見事でした。国労を含め動労、鉄労、全施労など主要組合の委員長を国鉄総裁室まで呼び入れて、「労使共同宣言にお前、ハンコつけ」って迫ったわけです。
労使共同宣言は、「これからはもうストやりません」という内容だったわけで、国労には呑めないですよね。
葛西氏がうまかったのは、国労にも分裂する要素があったんです。いくつかの派閥に分かれていて、労使共同宣言に調印すべき、という穏健派もあった。しかし、共産党系や、社会党系のなかでも向坂派と呼ばれる強硬派は反対だった。
そういう背景をわかっていたからこそ、「ハンコをつけ」と無理やり迫ったら、国労が分裂することも読めていたんですね。当時、葛西氏は40そこそこだったことを考えると、相当の策謀家だと認めざるをえない。
策謀は過激派の専売特許ですから、葛西にいいように利用され操られた挙げ句、裏切られたとなっては、松崎としても革マル内での立場を失う。そこで、「葛西はとんでもない変節漢で人間のクズのような男である」と言いふらし、嫌がらせを始めたというわけです。
井手さんは松崎を最初から最後まで信用していなくて、葛西はおそらく、一度は本気で手を組んだけど、手に負えなくて裏切った。これまでの話を総合するとそういうことになりますが、では、JR東日本(元会長・社長)の松田昌士さんはどうだったのでしょう。
かつて週刊文春が「JR東日本に巣食う革マル」というキャンペーンをやってキオスクから排除されたり、その後もジャーナリストの西岡研介氏が『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』という本を出版し、革マルにいちばんやられたのはJR東日本、というイメージが一般的にはあります。しかし私は、改革三人組の中で松田氏こそが、松崎と本当に人間として付き合い、最後まで一定の信頼関係を築いていた人だったと思うのです。
ほう、それは非常に興味深い。松田さんと松崎の関係については、巷間伝えられるほど単純ではない気がしてなりません。古手のJR東日本元役員たちに取材すると、「松崎に抱き込まれたというのは東海の葛西が意図的に流しているだけだ」と口をそろえて言いました。そこは不明な点が今も多い。
松田さんの話に入る前に、まずはJR東日本初代社長の住田正二氏の話をしなければなりません。
国鉄改革を進めた中曽根康弘に非常に近く、旧運輸省の元事務次官として、JR東日本の初代社長に収まった住田氏ですね。
そもそも住田氏が運輸次官として国鉄分割民営化にあそこまで協力したのは、国鉄官僚たちが嫌いだったからです。運輸省から国鉄が公共事業体として分かれた時に、優秀な官僚はみんな国鉄に行ったと言われた。そこで運輸省に残された住田氏には、国鉄官僚に対する強烈なコンプレックスがあったんです。
なるほど、それもあって、中曽根は住田氏を分割民営化に利用したわけですね。そしてJR東の初代社長となった住田氏は、まんまと松崎に籠絡されてしまう。最初に松崎と関係を築いたのは松田ではなく住田だったわけですね。
そうです。松崎は組合大会に住田氏を呼ぶんです。そうして、これからの労使関係はどうあるべきかということを、松崎がぶつわけです。労使はある意味対等だ、「ニアリーイコールだ」とね。
対決ではなくニアリーイコールだ、というのは、労使関係を曖昧にする松崎のうまい戦略です。
組合員の前で、「それでよろしいですね、住田さん」とまず先にやられて、住田氏は「その通りだ」と言っちゃって、後戻りができなくなるわけです。
松田さんに近い元JR東日本の役員たちを取材すると、北海道出身で北海道大卒でもある松田さんは分割民営化されたあとはJR北海道の赴任を希望していたそうです。あまり野心のない人だったといいます。その後、松田さんがJR東日本の社長になって否応なく松崎と対峙しなければならなくなったわけですが、住田前社長時代にズブズブだった松崎との関係を、松田さんは清算しようとしなかったんですか?
そもそも、松田さんは最初、鉄労と手を組もうとしていました。しかし、途中から松崎率いる総連とベッタリになる。その時に何があったんだ、というのは、当時からいろんな憶測が流れました。その中でやはり世間の耳目を引いたのは、「松田が革マルに脅された」という説です。
松田さんが日経新聞に書いた「私の履歴書」も話題になりましたね。孫が水を怖がるようになって、理由を聞いたら、プールの監視員に頭を押さえつけれた、と……。
でもあれは、よく読むと、明らかに「犯人は国労の組合員じゃないか」ということを松田さんは匂わせていました。
2023.02.06 「JR東日本・松田昌士の孫が誘拐されて高速道路の中央分離帯に置かれた」…読売新聞社会部の記者が流したウワサの真実【牧久×森功対談】
そうですね。私が松田さんの元秘書に聞いた時も、「あれは国労の話ですよ」とハッキリ言っていました。ただし、嫌がらせの時期が不明なので、犯人が国労なのか、動労なのか、よくわからない書き方をしています。なのでJR東海の幹部は「あれはあからさまに動労に脅されたとか書けないから、松田さんが曖昧にしたのではないか」とも話していました。
たしかに国労の仕業と断定はしていない。そしてもう一つ、強烈な情報が流れます。松田さんの孫が誘拐されて、高速道路の中央分離帯に置かれていた、というのです。
私も、話としては小耳に挟んだことはあります。そういうことが、本当にあったんですか。
そういう情報が流れたのは事実です。一生懸命流していたのは、読売新聞社会部の某記者でした。当時、我々社会部(註・牧氏は当時、日経新聞社会部の国鉄担当)は当然、裏取りに奔走しました。
さすがに、孫が誘拐されて高速道路の真ん中に置かれたりしたら、警察に言わないわけはない。裏取りは警察筋ということになりますね。
そうです。警察にさんざん裏取りをした結果、その情報はガセだと、私たち担当記者は判断しました。でもこの話は情報としてかなり広まったから、井手さんなんかも最初は事実だと信じちゃっていました。その意味では、情報を流した人間が「松田は革マルの脅しに屈した」と広めるのが目的だったとしたら、その目的はある程度果たされたことになります。
松田昌士が死の間際に残した証言
話が少し逸れましたが、それで肝心の、松田さんの話です。僕が『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』を書いていたとき、松田さんはもうかなり身体を悪くしていました。だから、これが最後の取材になるかも、という思いでハッキリと聞いたんです。「結局、松崎とあなたの関係は、いつからどうだったんですか。みんな、あなたが脅されていたと言うけれど、本当のところはどうだったんですか」と。
ほう、それに松田さんは答えたのでしょうか。
彼は、鉄労の志摩委員長を裏切ったあとに、松崎明と二人きりで酒を酌み交わした、と明かしてから、こんな話をしました。「松崎に革マル疑惑を単刀直入に問い質したら、『自分は今でも革マル派である』と率直に告白をした。そのうえで、『あなたは住田のあと社長になるんだ。社長になった時に、我々(革マル)はあなたに迷惑は一切かけない。ストもやらない。あなたに協力する。だからあなたも我々の言うことを聞いてくれ』と言うから、お互いに協力し合おうということで手を結んだんだ。だから、俺が社長のときに、彼らが俺に大きな迷惑をかけるような大闘争をやったこともないし、俺が聞いてくれって言ったら聞いてくれるところもたくさんあった。だから、俺はそれから松崎を信用して、手を結んだんだ。松崎が死んだときには、俺は花束を持ってたった一人で松崎の墓参りに行ってきたんだ」。
それはすごい証言です。牧さんの本にも、そこまでは書いてませんでしたね。
あのときは松田さんは存命だったからここまで詳しくは書けなかったけれども、松崎を人間として信頼していたという肝になる部分を文章にして、松田さんに持って行って、確認までしているんです。「松田さん、こう書きますけどよろしいですか」って。そうすると松田さんは「この通りだ。これはこの通りだから。俺はあそこでお互いに信用して、手を結んだんだ」と。
死の間際にそこまで言うのなら、真実味があります。
改革三人組の、松崎に対するスタンスの違いを見てもわかるように、葛西氏は「謀略家」の側面があり、権力欲が非常に強く、森さんの「国商」という表現はとても的を射ていると思う。彼がこれまでやってきたことは礼讃されるばかりではなく、きちんと検証されなければなりません。
そうですね、本人も『未完の国鉄改革』という本を書いていますが、国鉄分割民営化はあくまで「組合潰し」を目的にやったことで、経営を突き詰めて考えてやったわけじゃない。その歪が、JR本州3社以外の経営の逼迫に如実に表れています。
もう一つの問題が、リニア(中央新幹線)です。葛西氏がいなくなった今、リニア本当にやるんですかって話にまでいくんじゃないかと思ってますけどね。
そうですね、これから人口も減って、リモートワークも当たり前になる中で、東海道新幹線のほかにリニアが必要ですか、という声が上がるのは当然です。葛西さんはリニアのような国家プロジェクトは俺がやらなければ他にできない、とまで言ってきた自信家でした。その葛西氏が「国商」として最後に見ていた夢が、リニアでした。彼が天皇として君臨していた間にはできなかった本質的な議論を、いまこそすべきでしょうし、今年はリニアの検証元年になる気がします
連載第1回【安倍晋三を裏で操った「最後のフィクサー」JR東海・葛西敬之の知られざる正体…安倍が「国士」と称えた男が最期に抱えていた“爆弾”】から読む
安倍が死ぬ1ヵ月半前に世を去った「フィクサー」
葛西敬之(かさいよしゆき)が死の床についた。5月25日朝に息絶えたという。27日になって東海旅客鉄道(JR東海)が公表し、多くの人が新聞、テレビで訃報に接したが、ごく親しい知人は少し前から病状を知っていたようだ。安倍晋三もまた、その一人かもしれない。真っ先に国会内でこう哀悼の意を発表した。「濃密なおつきあいをさせていただき、本当に残念で、さみしい気持ちです。(故人は)ひとことで言えば国士で、常に国家のことを考えている人だった。安倍政権では有識者会議のメンバーとして集団的自衛権の行使を可能とする解釈の変更について、取りまとめをおこなっていただいた。先見性と実行力のある方で、心からご冥福をお祈りしたい」。
死を覚悟していた
唐突な死のように見える。だが、本人はすでに死を覚悟していたに違いない。実は葛西は6年前に間質性肺炎を発症し、余命宣告を受けていたという。訃報に接したあるJR関係者はこの間の事情について冷静に打ち明けた。「葛西さんは主治医から5年の命だと告げられていたと聞きます。余命はご本人も自覚されていました。死の宣告より、1年長く命がもったということでしょう。ご家族にもある程度の心構えがあったのではないでしょうか」。葛西の命を奪った間質性肺炎は、肺の間質部分に炎症や線維化病変などが起きる疾患の総称である。病気の原因は多岐にわたり、現代医学でも解明できていない。皮膚や筋肉、関節、血管、骨などのたんぱく質に慢性的な炎症が広がる膠原病(こうげんびょう)、あるいは眩しい光を受けて目が痛くなるようなサルコイドーシスと呼ばれる疾患のあとに発症するとされる。原因が特定できない患者も数多くいる。原因を特定できない症状は特発性間質性肺炎(IIPs)と呼ばれ、難病指定されている特発性肺線維症(IPF)など7疾患に分類される。IPFと診断された後の平均生存期間は3~5年と報告されている。葛西は恐ろしい爆弾を抱えたまま病魔と闘ってきた。6年前にそう診断されたとなれば、間質性肺炎に見舞われたのは2016(平成28)年以前となる。 奇しくもJR東海はその2016年の11月、リニア中央新幹線の建設費として国交省所管の独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」(鉄道・運輸機構)に総額3兆円の財政投融資による長期借り入れを申請している。あれほど徹底的に政府の介入を嫌ってきた葛西が、なぜ旧国鉄時代に赤字の元凶と呼ばれた財投を受け入れたのか。ずっと謎だったが、それは当人の病気と無縁ではないように感じる。葛西は財投の受け入れと同時に、それまでの東京~名古屋間の開通を優先する方針から一転、東京~大阪間の全線開通の前倒しを表明した。
政界の黒幕と呼ばれてきた大物財界人
現首相の岸田文雄は葛西の訃報が流れた明くる5月28日、山梨県都留(つる)市にあるリニアの実験線を視察した。もとよりあらかじめスケジュールに入っていたのだろう。岸田は記者団を前に、未着工区間である名古屋~大阪間の環境影響評価(アセスメント)を進める、と次のように述べた。 「(リニア中央新幹線の)全線開業の前倒しを図るため、来年から着手できるよう、沿線自治体と連携しつつ指導、支援していく」。超電導リニアは、葛西の悲願であった。享年81。日本国有鉄道の民営化を成し遂げた「国鉄改革三人組」の一人と称された。国鉄民営化以降、JR東海を率いた葛西は近年、政界の黒幕と呼ばれてきた大物財界人である。
安倍のカムバックを強力に後押し
葛西は2度首相の座に就き、日本の憲政史上最長となった安倍晋三政権における最大の後見人と目されてきた。それゆえ政界とのつながりが深いようにイメージされてきたかもしれない。だが、実のところはそうでもない。国鉄の民営化に奔走した頃は、自民党の運輸・鉄道族議員たちを動かした。半面、懇意の政治家はそう多くはない。最も篤(あつ)く結ばれてきた国会議員は、自民党と民主党を渡り歩いた与謝野馨(かおる)だ。与謝野との縁で安倍と知り合い、互いの親米、保守タカ派の思想が共鳴し合い、安倍を首相にしようと支援するようになった。 葛西は小泉純一郎が安倍に政権を譲る少し前に国家公安委員に選ばれ、教育再生会議のメンバーとしてときの内閣との結びつきを深めていく。自民党が下野したあとの民主党政権時代にも、東日本大震災に見舞われた政府の政策に関与していった。葛西は福島第一原発事故により、経営危機に陥った東京電力の経営・財務調査委員会ならびに原子力損害賠償支援機構運営委員会の委員に就任する。そこでも独特の持論を展開した。 「社会インフラである電力事業を政府の役人に任せきりではろくなことにならない」脱原発や電力自由化の気運が高まるなか、葛西はそこに異を唱え、むしろ原発再稼働の旗を振るようになる。そうして安倍の政権カムバックを強力に後押しし、実際にそれを実現させた。
閣僚や官僚の人事も葛西の指示だった
第二次安倍政権の発足にあたり、安倍の側近として旧知の官邸官僚を送り込んだ。その一人が警察庁出身の杉田和博であり、経産省出身の今井尚哉(たかや)だった。警察庁でもっぱら警備・公安畑を歩んできた杉田は、国鉄改革時代から極左の労働組合運動と対峙してきた葛西にとって頼りになる友人といえた。また、今井は第一次安倍政権時代に事務担当の首相秘書官を務め、政権の奪還に汗をかいてきた。葛西が信を置く経産官僚の一人でもあり、交友を重ねてきた。ときに葛西は安倍から内閣の主要閣僚や官僚人事の相談を受け、アドバイスしてきたといわれる。葛西の悲願だった超電導リニアの実現は、安倍政権の経済政策アベノミクスにおける成長戦略の目玉に位置付けられた。リニア事業はここからまさに政治と一体化したビジネスとなる。財投という政府の資金を使うことになったJR東海は工事を急いだ。そして葛西と政権との蜜月は、安倍のあとを引き継いで首相に就いた菅義偉にも受け継がれる。岸田政権が誕生したあとも、葛西の影がさまざまな場面でちらついてきた。奇しくも岸田が参議院選挙に臨んだ投票日2日前の7月8日、安倍は奈良県近鉄大和(やまと)西大寺(さいだいじ)駅前で応援演説をしている最中に凶弾に見舞われ、命を落とした。葛西の死からわずかひと月半後の出来事である。この10年のあいだ、葛西と安倍の二人は日本の中心にいて、 この国を動かしてきた。それは疑いようのない事実であろう。一国の首相が「憂国の士」と敬愛してやまない葛西は、財界のなかでも類を見ない愛国者に違いない。半面、日本という国を舞台にビジネスを展開し、政府や政策を操ろうとしてきた。政策の表舞台に立たない黒幕だけにその実像はほとんど伝えられなかった。最後のフィクサーと呼ばれる。




(私論.私見)

松崎は1936(昭和11)年2月3日、埼玉県比企郡高坂村(現東松山市高坂)で精米業を営む父登喜治と母タネのあいだの6人きょうだいの末子として生まれた。日本陸軍の青年将校たちが昭和維新を謳いクーデターを企てる少し前のことだ。日本の世相は混沌としていた。父の登喜治は高坂商工会会長を務める地元の名士であったが、暮らし向きは決して楽ではなかった。

松崎が9歳の頃、日本は終戦を迎える。松崎は高坂国民学校4年生だった。ひと回り以上年が上の長兄暁は、陸軍に志願して日中戦争のさなかに結核にかかり、終戦を待たずに陸軍病院で死亡していた。父の登喜治も終戦の年に病死し、松崎家は困窮を極めた。

松崎は54年3月に川越工業高校を卒業したのち、55年3月から千葉県の国鉄松戸電車区に臨時採用された。すでに高校時代から日本共産党の下部組織である日本民主青年同盟(民青)で活動していた。この年、正式に共産党に入党し、国鉄で「臨時雇用員のための組合創設」を目指して活動を始める。

松崎は57年に革マル派の最高指導者だった黒田寛一と出会い、58年に革命的共産主義者同盟に加入した。63年、黒田の腹心として革マル派結成時に副議長を務めた。松崎は革マル派時代の組織名を倉川篤といった。国鉄時代の動労は、最大労組の国労に組合員数こそ遠くおよばない。が、先鋭的な革マル派の活動家を幹部組合員として抱えてきたその情報収集能力や過激な活動は国鉄内で知らぬ者がなく、企業経営者たちは恐れおののいてきた。

松崎は動労でカリスマとして知られてきた。国労と組んで国鉄首脳陣を屈服させたマル生運動では、「鬼の動労」と呼ばれるほどの力を見せつけた。