松崎明/考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.2日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「松崎明」を確認しておく。 2009.10.7日 れんだいこ拝 |
【松崎明(まつざき あきら)/考】 |
「 ウィキペディア松崎明(Wikipedia)」。 |
(1936年2月3日 - 2010年12月9日) |
松崎 明(まつざき あきら)は、日本の労働運動家。革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)創設時の副議長。国鉄動力車労働組合元委員長を務め、鉄道労連(後にJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)委員長を務め、JR東労組会長、顧問を務め、事実上JR東労組のトップだった。 元革命的労働者協会活動家の松崎重利は実父が同様に国鉄職員で姓が同じであるが、縁戚関係はなく政治活動面においても無関係である。愛称は松っつあん。 |
思想・活動 |
黒田寛一から厚い信頼を受けており、革マル派結成時の副議長(組織名:倉川篤、愛称:クラさん)であったことは松崎本人も認めている(松崎明『松崎明秘録』(同時代社))。1970年代から次第に革マル派から離れ、JR総連幹部になった頃には関係は切れていたと松崎は主張している。 動労ではカリスマ的な指導力で、闘争を高揚させて国鉄労働運動、ひいては総評労働運動をリードしてきた。その頂点が1972年のマル生反対闘争であり、国鉄総裁が国会で陳謝して勝利解決した。その闘いから「鬼の動労」と呼ばれるようになる。 その後は、動労内の反主流派を積極的に排除する動きをみせるようになった。「共産党系活動家」として排除された者達(背景に共産党が「『スト万能論』批判」を行ったことがある)が1974年に全動労を結成、「中核派活動家」として排除された者達(背景に成田闘争への立場の違いがある)が1979年に動労千葉を結成して、動労は分裂した。これらの動きにより中核派との抗争が激化し、松崎個人に対して宣戦布告とも言える「カクマル松崎せん滅」のスローガンを突きつけられることになる。また、右翼団体からも言動・思想で対立軸になっている為批判をされているが、一水会の鈴木邦男とは反権力・反公安で親交があった。 1975年のスト権ストの敗北以降、春闘でのストライキはあったものの、1980年代の国鉄分割民営化においては激しく闘うことはなく、組合員の雇用を守るため、民営化に協力している。その際、過去の闘争を否定し、国鉄幹部や自民党議員との会談において「私は犯罪者でした」と語るなど「転向」した(いわゆるコペ転)。JR以降の思想と行動は東日本会社との蜜月関係である「労使協調」を除けば、反戦運動を闘争方針に掲げたり、月刊誌「自然と人間」では過去の動労の闘争を再評価するなど、「動労に先祖返りした」と言われる所以である。 2007年11月30日、警視庁公安部は、松崎をJR総連の内部組織「国際交流推進委員会」の基金口座から3000万円を引き出し横領した業務上横領容疑で書類送検した。直後に松崎はハワイの高級住宅街にある別荘を3千数百万円で購入。この購入資金は同協会職員の個人口座を通じてハワイの不動産会社に送金されており、公安部は横領した金が充てられた疑いがあるとみた。松崎は「妻名義の土地を売却して得た資金なども口座に入っており、私的流用はしていない」と容疑を否定。JR総連も「横領された事実はない」とした。2007年12月28日、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。 2010年、かつての宿敵・中野洋(元動労千葉委員長)の逝去にあたり、『われらのインター』31号(2010.4.15)に追悼文を発表し、「革共同が分裂し、私は革マル派、彼は中核派のメンバーとなった。党派の対立の中で袂を分かつことになった。……共に闘い抜きたかったが、路線の違いは致し方ない。しっかりと目を見開いたままの戦闘態勢を堅持した中野洋さん、心から称え、冥福を祈ります」と記した。かつての宿敵の死を追悼したこの寄稿が、皮肉にも松崎にとっての遺作となった。 松崎明の逝去に対して、革マル派は機関紙『解放』ほかの自己刊行物で完全に沈黙した。2011年3月3日、都内のホテルでJR総連・JR東労組主催の『松崎 明さんを偲ぶ会』が開かれ、約2000人が出席し、佐藤優らがあいさつした。 |
著書 |
【松崎明略歴】 | ||||||||
1936.2.2日、埼玉県生まれ。精米業を営む父・登喜治と母・タネの間に生まれた。 ****年、埼玉県立川越工業高校卒業。国鉄の松戸電車区に臨時雇用員として配属される。 1954年、国鉄入社試験に合格したが自宅待機。日本民主青年同盟(民青)に加入。 1955年、臨時雇用員として国鉄松戸電車区に配属。日本共産党に入党。 同品川客車区、同東京支区を経て、 1956年、国鉄職員となり尾久機関区に配属。機関車労働組合(後の国鉄動力車労働組合、動労)加入。 1957年、(革マル派の教祖)黒田寛一と出会う。 1958年、革命的共産主義者同盟に加入。 1959年、日本共産党を離党。革命的共産主義者同盟(革共同)に加入。 1960年、動労東京地本執行委員。 1961年、国鉄動力車労働組合全国青年部を結成、初代青年部長に就任。動労を改革、総評労働運動の刷新を目指す。 1963年、動労青年部退任、動労尾久支部委員長に就任。この年、革命的共産主義者同盟が中核派と革マル派に分裂し、黒田寛一率いる革マル派につき副議長に就任(組織名:倉川篤・愛称:クラさん)。 同年12・13尾久・田端基地統廃合反対闘争を指導し逮捕され、公労法解雇処分を受ける。その後、動労の専従役員となる。 1964年、政研事務局長就任。尾久機関区を統合した田端支部書記長となる。 1967年、動労関東地評事務局長となり、機関助士廃止反対闘争などを指導。 1969年、東京地方本部書記長に就任。 1970年、反安保・沖縄闘争。 1971年、マル生粉砕闘争。 1972年、動労東京地本25日間の順法闘争などを指導。 1973年、東京地本執行委員長に就任。 1975年、スト権ストを指揮し、「鬼の動労」と呼ばれる過激な組織をつくり上げた。。 1976年、「動労型労働運動」を提起する。 1978年、動労津山大会で「貨物安定輸送宣言」を本部に提起し、実現する。 1980年、「反ファシズム統一戦線」提唱。 1982年、「国鉄労使国賊」論が流布される中で「職場と仕事と生活を守る」たたかい、国鉄再建問題4組合共闘会議(国労・動労・全施労・全動労)を結成し、分割・民営化反対のたたかいに取り組む。その過程で国労と対立が深まり、実質上2分解する。 1984年、第2臨調「国鉄分割・民営化」の基本答申が出され、国鉄が余剰人員調整策として「3本柱」を提案。 1985年、動労中央執行委員長に就任。組合として「三本柱」に取り組み、雇用安定協約締結。 1986年、政府が「国鉄改革関連5法案」を閣議決定し、3月国会上程。7月、鉄労・動労・全施労・真国労等により「国鉄改革推進労働組合協議会」を結成する。総評と決別、公労協を脱退。 1987年3月、鉄道労連(後のJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)中央執行委員長に就任。4月、JR発足を経て、8月、鉄労、日鉄労、鉄輪労と完全統一に至った。対等な労使協力関係をめざし、抵抗とヒューマニズムを基底に据えて、健全な経営、労働条件の向上、安全、健康、平和のたたかいを進めた。しかし、結成当初から分裂策動が始まる。
1989年、革マル副議長松崎は、11PMに元警視総監、元法相秦野章、当時自民党幹事長だった小沢一郎らとともに出演した。松崎はその場でカラオケを歌っては同席の秦野を「わが師」と呼び、また秦野は松崎を「わが弟子」と吹聴した。警察官僚と革マル松崎との公然たる師弟関係こそ、黒田=大川スパイ問題以来の権力と革マルの協力、内通関係を象徴するものだった。そして、その後の衆院選で松崎、JR総連革マルは自民党候補13名の推薦を行った。その中には国鉄分割民営化の張本人、三塚も含まれていた。 1990年頃、JR総連・JR東労組破壊が表面化する。 1992年、JR連合が結成され、以降、対立状態が続いている。
1995年、JR東労組会長に就任。 2001年、JR東労組会長を退任、顧問に就任(2002年退任)。 2002年、JR総連特別顧問に就任。(2003年勇退)。2002年からのJR浦和電車区事件など、大弾圧を受ける。 2003年、すべての組合役職を退職。 2005年、業務上横領容疑で不当弾圧される。 2007年、業務上横領容疑で家宅捜索を受ける。11.30日、業務上横領容疑で警視庁が書類送検 ※一部のマスコミはJR東日本労組元会長などの匿名表記で報道した。12.28日、不起訴処分となる。 2008.1.29日、不当捜査による精神的苦痛・社会的信用失墜を理由に、東京都や国に損害賠償を求める訴えを起こす。 2010.12.9日、特発性間質性肺炎で逝去(享年74歳)。 |
【革マル派の№2松崎明と小池百合子の交友録】 | |
その社長は幅広い人脈を誇り、大物政治家や財界人、時にはヤクザとの交友を吹聴していた。JR東労組の会長だった故・松崎明氏とはベッタリの関係で、新宿駅東口のイベント・ステージ管理の利権も提供されていた。社長を通じ、小池氏は松崎氏とも交流していたのだが、松崎氏は警察当局が、かつて内ゲバで人殺しも行った“極左暴力集団”革マル派のドンと見ている人物で、いわくつきの“人脈”だった。「社長は松崎さんの口利きで、JR新宿駅東口にあったイベントステージの管理運営を請け負い続けていた。おいしい利権でした」。 | |
週刊新潮2020.6.18日号掲載 「小池都知事『カネと男』のスキャンダル 極左暴力集団、闇金業者とも交際」。
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【松崎明記念資料コーナー】 | |
「一般財団法人 日本鉄道福祉事業協会」の「松崎明記念資料コーナー案内 」
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2017.4.4日、平井康章 ノンフィクションライター「打算と裏切り…国鉄最後の20年を描いた『昭和解体』はここがスゴイ」。
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「巨大企業を恣(ほしいまま)にした、信じられない「暴力」と「抗争」の真実『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』"」参照。
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JR総連。JR総連は傘下組合員6万1000人を誇り、JR連合(組合員7万5000人・右派)と並ぶJR労組内の一大勢力である。特にJR東日本では、経営側のバックアップもあって労組員の約8割を占め、圧倒的影響力を持っている。そのJR総連が革マル派によって完全支配されている。JR総連の前身は国鉄動力車労働組合(動労)である。この動労、国鉄民営化前は順法闘争やスト権ストを繰り広げ、「鬼の動労」の異名を取っていた。で、このJR総連を革マル派が支配するようになったのは、元動労委員長で現JR総連・JR東労組顧問の松崎明氏抜きには語れない。ほかのセクト(党派)が大衆闘争(学園闘争や街頭闘争)に力を入れていたのに対し、革マル派だけは、組織の強化(前衛党建設)にひたすら励んでいた。革マル派は、その独善性、排他性、意見の異なる者への攻撃性という点で、もう「共産主義」という名のカルト集団にすぎないと確信した。
この反戦青年委員会で勢力を誇ったのが、中核派と革マル派である(我がブントは運動論はあったが組織論がなかったのでダメだった)。で、そのころの中核派は過激な街頭闘争を運動の軸にしていた。当然、反戦青年委員会に所属する労働者にも動員がかかる。が、革マル派は組織の強化(前衛党建設)が第一であるから、労働者を街頭闘争に参加させるような真似はけっしてしなかった。その結果、中核派系の反戦青年委員会は多数の検挙者を出し弱体化したが、革マル派系のそれはかえって勢力を増すことになるのである。国鉄民営化は労働者の側からすれば、まさに大合理化そのものである。したがって、左翼党派であれば、当然反対せざるをえない。実際、当時の社会党や共産党、総評や国労は民営化に反対した。ところが、である。最左派と目された「鬼の動労」が賛成に回ったのだ。しかも動労から見れば右翼とも言える鉄労と組んでまで。しかも松崎氏は、このとき、運輸族のボスだった三塚博運輸大臣と手を結び、当時の自民党の実力者だったあの金丸信氏とも親交を深めた。もっともネックになると目されていた動労(松崎氏)の転向によって、国鉄民営化は大した混乱もなく実現する。このときから、JR東日本の経営側はJR総連(というか松崎氏)の意向を無視できなくなった。このあと、動労は鉄労とともにJR総連を発足させる。が、やがてJR総連内の鉄労系組合員は、動労系のセクト主義、その攻撃性に愛想をつかして総連を脱退し、新組織を結成する。この新組織を積極的に支援したのが、当時、JR東海の副社長だった葛西敬之氏である。で、この葛西氏、自らが非常勤講師を務める大学で革マル派に襲撃される。JR東日本とJR東海が犬猿の仲なのは、こういう背景があるのである。当時、松崎氏はメディアに対して、「私は革マル派ではない」「(革マル派の教祖)黒田氏から思想的影響は受けたが、今は関係がない」と語っていた。そして、「労働者の雇用を守るために民営化に賛成した」とも語った。が、これはウソだ。革マル派の論理に忠実に従ったにすぎない。 「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根康弘首相(当時)は、国鉄民営化の目的を「国労を解体し、社会党・総評ブロックを消滅させ、新しい憲法を安置する」と語っている。この体制側の猛攻に、戦後政治の一方の軸であった当時の社会党・総評ブロックでさえ崩壊しかねないほどの危機に直面した。そこで松崎氏は、勝ち目の薄い「抵抗」よりも「組織の温存」を選択したのだ。中核派によると、松崎氏は晩年の黒田氏(2006年死去)とは意見が対立していたようだ。党官僚や学生が黒田氏を支持し、労働者が松崎氏を支持するといった構図らしい。中核派の機関紙「前進」によると、2000年の12月、松崎氏は「革マルと完全に手を切った」と公言し、一方の黒田氏率いる革マル派は「JR総連本部執行部を階級敵と断罪し、打倒する」との「戦闘宣言」を出したらしい。対し、公平・公正な社会を築くために、「反グローバリズム運動」を掲げ、世界の仲間たちと連帯して闘っています―などと、もっともらしいメッセージを発信する。 |
2011年9月、城山 邦紀(きやま・くにき、元読売新聞社会部次長)取材ノート「私が会った若き日の松崎明さん」
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2016.7.25日、「JR東日本に巣食う「革マル派」というカルト 」参照。
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(私論.私見)
松崎は1936(昭和11)年2月3日、埼玉県比企郡高坂村(現東松山市高坂)で精米業を営む父登喜治と母タネのあいだの6人きょうだいの末子として生まれた。日本陸軍の青年将校たちが昭和維新を謳いクーデターを企てる少し前のことだ。日本の世相は混沌としていた。父の登喜治は高坂商工会会長を務める地元の名士であったが、暮らし向きは決して楽ではなかった。
松崎が9歳の頃、日本は終戦を迎える。松崎は高坂国民学校4年生だった。ひと回り以上年が上の長兄暁は、陸軍に志願して日中戦争のさなかに結核にかかり、終戦を待たずに陸軍病院で死亡していた。父の登喜治も終戦の年に病死し、松崎家は困窮を極めた。
松崎は54年3月に川越工業高校を卒業したのち、55年3月から千葉県の国鉄松戸電車区に臨時採用された。すでに高校時代から日本共産党の下部組織である日本民主青年同盟(民青)で活動していた。この年、正式に共産党に入党し、国鉄で「臨時雇用員のための組合創設」を目指して活動を始める。
松崎は57年に革マル派の最高指導者だった黒田寛一と出会い、58年に革命的共産主義者同盟に加入した。63年、黒田の腹心として革マル派結成時に副議長を務めた。松崎は革マル派時代の組織名を倉川篤といった。国鉄時代の動労は、最大労組の国労に組合員数こそ遠くおよばない。が、先鋭的な革マル派の活動家を幹部組合員として抱えてきたその情報収集能力や過激な活動は国鉄内で知らぬ者がなく、企業経営者たちは恐れおののいてきた。
松崎は動労でカリスマとして知られてきた。国労と組んで国鉄首脳陣を屈服させたマル生運動では、「鬼の動労」と呼ばれるほどの力を見せつけた。