JR当局と動労のせめぎあい考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.8.3日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで「JR当局と動労のせめぎあい考」をしてみたい。

 2009.10.7日 れんだいこ拝


 2019.7.6日、「JRに君臨した革マル派最高幹部の「亡霊」」。
 昨年、JR東日本の最大労働組合である「JR東労組」から、3万4500人の組合員が大量脱退するという事件が起こった。巨大企業の中で、いったい何が起こっているのか──。月刊誌『ZAITEN』7月号に掲載されたジャーナリスト・牧久氏の記事を抜粋して紹介する。

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 私は4月に『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』を上梓しました。2年前の『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社、2017年)の続編です。1987年に国鉄が分割・民営化されて誕生したJR東日本の労使関係を軸に「平成JRの裏面史」を描いています。

 分割・民営化をきっかけに、経営当局と対峙してきた旧国鉄最大の労組、国労(国鉄労働組合)が分裂・崩壊した一方、動労(国鉄動力車労働組合)は生き延びることになります。かつて動労はストも辞さない過激な闘争手法で「鬼の動労」と呼ばれ、国労と同じく経営側と対立してきましたが、民営化直前になって方針転換し、経営側と密接な関係を築きます。

 その方針転換を主導したのは、かつて数々のストを指揮し「鬼の動労」の象徴的存在だった松崎明でした。その鮮やかな“変心”は「松崎のコペルニクス的転換(コペ転)」とも言われました。その結果、国労を崩壊に追い込み、彼は「国鉄改革」の最大の功績者の一人になります。

 分割・民営化を行ったのは「戦後政治の総決算」を掲げた中曽根政権です。首相の中曽根康弘は民営化に際して国労や動労が生き残れば大騒動が起きると思っていたはずです。また、「国鉄改革3人組」(松田昌士、井手正敬、葛西敬之)にとっても組合問題は最重要の課題でしたが、最大労組の国労を潰すには、一時的にせよ、動労を取り込むしかないと判断したのです。一方の松崎にしても、時の政権の大方針と闘うことがどういう結果を招くかを読み切った。だから、動労が生き残るために「コペ転」をしたのだと思います。

 松崎は民営化後、JR東労組(東日本旅客鉄道労働組合)の初代委員長に就任しますが、上部団体のJR総連(全日本鉄道労働組合総連合会)にも強い影響力を持ち、事実上、上部団体を下部組織が支配するという歪な関係が長く続きます。組合だけでなく、会社側にも人事など経営権に深く介入する「影の社長」のような影響力を及ぼしました。

 しかし一方で、松崎には「もう一つの顔」があった。過激派同士の“内ゲバ”で数々の殺人・傷害事件を起こしてきた新左翼組織「革マル派」の副議長という最高幹部でもあったのです。革マル派の組織論には、敵組織に“潜り込み”、敵組織を内側から“食い破る”という戦術があり、松崎は「コペ転」によって、この革マル派の戦術通りにJR東日本に潜り込んだとも言えます。松崎自身はある時期から表向き「革マルを離脱した」と公言していますが、警察当局や多くの関係者は「離脱は偽装」と見ていました。

 松崎の「コペ転」は本当なのか、偽装なのか。当時の革マル派の機関紙を当たりましたが、民営化賛成に方針転換するといったことは一切書かれていません。むしろ「我々は新たな闘争を開始する」といった趣旨で、新たなJRでどのような組合運動を進めていくかに焦点を合わせたような論調が展開されていたのです。実際、松崎はJR東労組を拠点にJR総連に息のかかった人材を送り込んで「絶対権力者」としての地位を確立し、会社の経営権にまで深く介入していくのです。

 JR東日本の初代社長に就任したのは、元運輸省(現国土交通省)事務次官の住田正二。住田をJRの最大会社・東日本に起用したのは中曽根と言われています。住田の妻は山種証券の創業者・山崎種二の娘で、山崎は中曽根の有力な後援者でした。労組と対峙した経験のない住田は、JR東の経営に失敗して中曽根の顔に泥を塗るわけにはいかないとの思いから、松崎の牛耳る組合と協力していこうと思ったのかもしれません。

 ◆キヨスクから消えた週刊文春

 一方、常務取締役には改革3人組の一人である松田昌士が就任します。北海道出身の松田は、民営化後はJR北海道を希望していた。しかし、大方の予想に反して井手、葛西はそれぞれJR西日本副社長、JR東海取締役となり、松田が東京に残ることになる。松田は運輸省出向時代に住田に仕えた時期があり、住田も東大卒でヤリ手の井手、葛西よりは松田の方が扱いやすかったのでしょう。

 住田―松田体制で出発したJR東の経営陣は、JR東労組の委員長である松崎と手を握ります。松崎は「労使協調」を否定し、あらゆる面で労使は対等だという「労使対等」(労使ニアリー・イコール論)を主張。労使協議制を作って、そこを通さなければ何ひとつ決められない体制を築いた。

 しかし、労働条件だけでなく、幹部人事や設備投資などの会社運営に関しても対等になるということは、経営陣が経営権を放棄したことに等しい。日本の労使関係では異常事態です。そのことを住田、松田はどれだけ自覚していたのか疑問です。

 以後、「労使対等」路線を批判した人は次々と閑職に追いやられ、松崎と手を組んだJR東の経営側がそうした左遷人事を行います。極め付けは1994年に起きた『週刊文春』事件。ルポライター・小林峻一が書いた連載記事「JR東日本に巣くう妖怪」を巡り、JR東の駅構内のキヨスクから週刊文春が一斉に消えるという前代未聞の言論弾圧事件です。キヨスクから雑誌を全て排除するという判断を会社が行ったのです。

 私は今回の取材で、なぜ松崎と手を握ったのか、松田にきちんと聞かなければと思いました。当時、多くの関係者は「松田は革マル派に脅された」と見ていました。後年、日本経済新聞の「私の履歴書」で松田は、孫がプールで何者かに無理やり顔を水に押し付けられた、と書いていますが、それは民営化以前の話。その後、孫が誘拐されたとの怪情報が流布されたこともありましたが、結局、確認は取れていません。

 松田が私の取材に語ったのは、脅された事実はないということ。その上で松田は、革マル疑惑について松崎に単刀直入に問いただしたところ、松崎は「自分は今でも革マル派である」と認め、「そのことで住田社長や松田さんに一切迷惑はかけない」と誓ったと明かしました。松田は「自らの意思で松崎と一緒の船に乗り込んだ」と明言したのです。

 ◆JR東労組の弱体化

 1993年から社長を務めていた松田は2000年に会長に退き、社長に大塚陸毅、副社長に清野智が就任。2006年には大塚は会長に、清野がJR発足後の4代目社長となります。住田、松田の2人は顧問となり、大塚―清野時代が到来します。大塚、清野はともに旧国鉄時代、改革3人組の同志として国鉄改革に協力した若手改革派。大塚以降の経営陣は「是々非々の労使関係」を目指し、松崎に対しては、飴を舐めさせながら、一方で時間をかけて牙を抜いていくという作戦をとります。この路線は2012年に社長に就任した冨田哲郎にも引き継がれます。

 そして2018年、ついにJR東労組に激震が走ります。きっかけは春闘でスト権を確立し、ストを構えた労組に対し、会社側が労使紛争を防止する「労使共同宣言」の“失効”を通告したこと。これを機に脱退者が激増し、4万7000人(同年2月1日時点)いた組合員が1万4000人(同年6月1日時点)となり、10月には脱退者が3万4500人に上りました。組合員数は3分の1に激減し、同労組は崩壊の危機に追い込まれます。発足から30年が過ぎ、大塚―清野体制以降、慎重に進められてきた労組対策がやっと実を結んだのです。

 JR東において、労組側にほとんど何も事を起こさせないで、組織を弱体化させたことは一面では成功だったのかもしれません。また、当時の経営陣のやり方がおかしかったのかと言えば、それしか方法がなかったと言えなくもない。一気に労使関係を正常化しようとすれば、大きな混乱が起きたことは否定できません。それでも、やはり松崎と手を握った住田―松田体制に対しては、私はもう少し別の方法があったのではないかと個人的には思っています。

 JR東によると、東労組がスト戦術を打ち出した2018年2月頃から、首都圏を中心とした管内各線で不審な事故が相次ぎました。当局は内部犯行の疑いもあるとみて、警戒を強めています。また、JR総連傘下のJR北海道労組が9割以上の組織率を占めるJR北海道では2011年以降、承知のように事故が相次ぎ、現役社長が自殺。2014年には元社長も自殺する異常事態が起きています。

 松崎は2010年に死去しましたが、今でもJRと革マル派の闘いは終わってはいません。「妖怪」の亡霊は今日もどこかの線路の上を彷徨い続けているのかもしれません。(敬称略)

 【プロフィール】まき・ひさし
 1941年生まれ。1964年早稲田大学第一政治経済学部政治学科卒業後、日本経済新聞社入社、東京本社編集局社会部に所属。サイゴン・シンガポール特派員、東京・社会部長、副社長を経てテレビ大阪会長。前著『昭和解体』(講談社)は国鉄民営化の裏側を取材した決定版通史として各紙誌書評で取り上げられた。
 【関連記事】

 「平成JRの裏面史 マスメディア最大のタブー「動労」の実態」。
 牧久氏『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』/2000円+税/小学館
 その変節は当時、〈松崎のコペ転〉(=コペルニクス的転回)とも揶揄されたとか。JR東日本労組初代委員長で、「動労の鬼」とも恐れられた、〈JRの妖怪〉こと松崎明。『暴君―新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』の著者・牧久氏には、国鉄分割民営化(1984年)への20年の軌跡を具(つぶさ)に検証した『昭和解体』(2017年)もあり、本書ではそのさらなる深層と、革マル派の大幹部でもあった松崎の支配の実態に、数々の新事実をもって迫る。

 当初は動労のドンとして民営化に猛反発した松崎は、なぜ一転して当局側と手を組み、国鉄解体の功労者にすら変貌を遂げたのか──。結論から言えば、〈「形勢不利なときには敵の組織に潜り込む」〉動労型労働運動によって、松崎たちは生き残りに成功。やがて全国に30万の従業員を抱える一大企業群を、〈暴力と抗争〉の渦に陥れていくのである。

 実は松崎と革マルの関係に触れることは、20年以上タブー視されてきたという。

 「つまり1994年の『週刊文春』不買騒動以来です。JR東日本と松崎は一体となって同誌の特集『JR東日本に巣くう妖怪』を問題視し、各キヨスクでの取扱拒否に出た。また2006年にはこの問題を追及した『週刊現代』が計50件もの訴訟に見舞われ、〈平成最大の言論弾圧事件〉として報道関係者にトラウマを残します。

 私自身、その自己規制の渦中で日経時代を過ごし、前作でも松崎と革マル派の問題に正面から切り込んだとは言い難い。ただ78歳にもなると『お前は知っててなぜ書かない?』と言われたくなくてね。どうせなら元国鉄担当記者として知る限りの事実を全部書いてから、死んでやろうと(笑い)」(牧氏・以下同)

 右派と左派がせめぎ合う政治の季節に育った松崎は、1936年、埼玉県生まれ。川越工業高校在学中は民青で活動し、卒業後は義兄の勧めで国鉄へ。臨時雇用員として働く傍ら、日本共産党に入党し、正規採用後は動労の前身、機労に加入。その後、機関助士となり、青年部を立ち上げるなど、頭角を現わす。またこの頃、松崎は後に革マル派を率いる黒田寛一と会い、日共を離党。黒田が理論、松崎が闘争と集金を担い、国鉄に革マル分子を続々と送り込んでゆく。

 「1957年に黒田が立ち上げた“革共同”が1963年に本多延嘉の中核派と黒田の革マル派に分裂し、以来両者の対立は内ゲバへと発展します。そんな中、松崎は動労の初代青年部部長に選出され、元々は『切符切りと一緒にするな!』と言って国労を出た旧機労系勢力を駆逐し、当時最大勢力だった国労とも覇権を争うようになる。“コペ転”も国労の孤立を図り、新会社で実権を握るための雌伏作戦と言えます。

 しかも彼は〈悪天候の日に山に登るのは愚か者〉とか、演説で組合員の心を掴むのが実に巧い。結果、当局のお偉方までが取り込まれ、革マルによる組合専横説も松崎さえ否定すれば、ないことにされていくんです」。

◆権力はいずれ腐敗するのが世の常

 国鉄解体によって総評や野党をも解体させた中曽根元首相の意図や、国鉄側の改革派三人組、葛西敬之、井手正敬、松田昌士各氏の活躍は前作にも詳しいが、その中で松崎が巧妙に立ち回り、新生JRをも手中に収める様は、戦慄必至だ。

 JR移行後、井手は西日本の副社長、葛西は東海の取締役、松田は東日本の初代社長・住田正二の下で常務に就くが、松崎はこの住田・松田ラインに〈労使対等〉論を呑ませるほど、蜜月を築く。

「民営化を実現するため、最初に松崎に接近したのは葛西氏で、そこには何らかの密約もあったと思う。ところが井手や葛西はJR発足後本性を現わした松崎を見限り、松崎の怨念に曝されていきます。

 一方で労使は対等、〈ニアリー・イコール〉だと言う松崎になぜ松田氏が同調したのか、私は不思議でね。本人に聞いてみると北大の大学院で労働法を専攻した彼が今でも松崎を庇うくらい、術中に嵌ってるんです。

 組合が人事や設備投資計画にまで口を出し、会社側もそれを平気で許すなんて、まさに経営権の放棄でしょ。そんな異常事態が長年放置されてきた背景にはやはり暴力に対する恐怖があったのではないか。実は松崎自身が言ってるんです。革マル派には革マル中央と松崎の革マルがあり、JR革マルは松崎組だと」

 現に中核派等による東労組幹部襲撃事件の死傷者は10数名を数え、〈次は松崎だ〉との犯行声明も出されたが、その松崎側も脅迫・盗聴や人事介入により、JR内で権力を掌握していく。

 公安も1996年以降は革マル派の摘発に動き、2007年には組合費をハワイの別荘購入に私的流用した容疑で松崎の強制捜査に踏み切るが、結局は不起訴に。が、ダメージは大きく、東労組内でも松崎批判の声が高まる中、彼は間質性肺炎で、平成22年12月、享年74でこの世を去る。

「彼の生涯は現場労働者に対する差別への恨みや自分を顧みない大卒組への怨念を感じさせ、そのルサンチマンや純粋な義憤が当初は松崎を革命に向かわせたとは思う。

 ただ権力はいずれ腐敗するのも世の常で、日産ではゴーン前会長ばかりか元組合指導者・塩路一郎までが同様の末路を辿り、昨年はJR東で3万5000人近い脱退者が出たほど組合離れも進んでいる。このような組合不信が続けば、誰が労働者の権利を守るのか、今こそ組合の存在意義について考え直す時期なのかもしれません」

 かつて〈権力は肥大化したら傲慢になる〉と言って闘争を挑んだはずの松崎が、その権力に溺れてゆく皮肉。が、あくまで本書に書かれたのは平成の出来事であり、ごく昨日の話なのだ。

 【プロフィール】まき・ひさし
 1941年大分県生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒。1964年日本経済新聞社入社。国鉄担当、ベトナム特派員、社会部長等を経て代表取締役副社長。その後、テレビ大阪会長。著書は他に『サイゴンの火焔樹』『不屈の春雷──十河信二とその時代』『満蒙開拓、夢はるかなり』等。松崎の訃報は3度目のホノルルマラソン挑戦で訪れたハワイで聞く。「疑惑のコンドミニアムがあったハワイでね」。163cm、61kg、A型。

 2001.1.12日、「九州労の集団脱退や坂入拉致監禁事件–革マルの内部抗争 今こそJR総連との決別を」。
 九州労の集団脱退や坂入拉致監禁事件。JR総連と革マル派の対立。
 2000.12月、JR総連革マルは、警察へ告訴。革マル派学生の顔写真を掲載して「彼らが拉致・監禁の犯人だ」とする指名手配書のようなビラをつくって駅頭や革マル派の事務所周辺で配布する。革マル本体は、「わが同盟の戦闘宣言」という文書をだし、「JR総連本部執行部ならびに九州労残存北執行部を階級敵と断罪し、これを打倒することを宣言する」。その論理は、「党内問題を直接的に組合問題として外化することは党規約違反だ」というもの。

 12.20日、JR連合九州労組は、JR総連九州労からの737名の大量脱退について加入届を返却することを決定している。その理由は「拉致された坂入が仕組んだ大量脱退はJR革マル派が仕組んだもぐりこみ戦術だと暴露している以上受け入ればできない」というものだ。これに対して集団脱退した側は、「約束不履行だ」として抗議声明をだしたり、署名運動を行ったり、「約束を守らせる会」なるものまでつくって、JR連合九州労組への加入を求めるという異常な対応を行っている。

 革マルに拉致された坂入は未だ行方不明。その坂入名で「私を利用し、革マル派を権力に売り渡すJR総連の一部指導部を弾劾する」という自己批判書が革マルの機関紙に掲載され、様々な所に送付されている。その内容は、「私は拉致・監禁などされていない。党内議論をしているだけだ。私が革マルをJR連合にもぐり込ませるために組合員を九州労から脱退させたり、会社から迫られて革マルとは一線を画すという指導を行ったことを自己批判する。自らの誤りに気づいた私はJR総連の執行部を許すことができない。告訴や捜索願を直ちに取り下げよ」というものだ。この文書が、坂入本人の意志によるものなのか、革マルに強制して書かされたものなのかは知るよしもないが、JR総連は、これに対抗する文書を乱発し、泥沼のような抗争を続けている。一連の事態から明らかなことは、①坂入を拉致・監禁した側も、それを告訴したJR総連の執行部側も、ゴリゴリの革マルであること、②革マル本体とJR総連革マルの矛盾が激しく なり、JR総連革マルが革マル本体から集団脱党する事態が起きたこと、③JR総連革マルは、松崎を先頭に「JR総連革マル党」「第二革マル」のようなかたちで、必死の生き残りを画策していることである。

 
松崎が、12月9日のJR東労組全支部委員長会議のなかで、「私は、かつて革マルの活動をやっていたことがあるが、今は完全に手を切っている。私を組織に止めておけば資金の提供も十分にしてもらえると思い、われわ}れに対抗するような新聞などを投げ込んで、私を苦しめているんだと思う。私は彼らの考えているようなことは絶対にしないつもりだ。革マルの攻撃から会社を守っていこうではありません か」と発言する至つた。「われわれの敵は革マルだけではない。われわれの組合を民主化しようと攻撃している弱小組合がある」などと称して、革マルの醜悪な内部抗争と同じレベルで国労などを攻撃するのである。JR総連の革マル支配は腐りきって末期症状を呈している。革マルと手を結ぶことで成立していたJRの労務政策は今や完全に破たんした。

 7.12日、「バラまかれた「不倫写真」、社内には盗聴器…‟革マル“のあまりに陰湿な攻撃に「俺、もう辞めるわ」と、JR東海・葛西敬之が涙を流した日」。
 森功著『国商 最後のフィクサー葛西敬之』では、「改革三人組」と呼ばれた若き日の葛西敬之も描かれる。葛西は国鉄分割民営化の際に、最大労組である国労を潰すために、革マル派労組・動労トップの松崎明と手を組んだ。  しかし、分割民営化が果たされJR東海が発足すると、葛西は「反松崎」「松崎切り」を鮮明にする。それに激怒した松崎の執拗で陰湿な攻撃が始まった。松崎一派が葛西のスキャンダルを暴露するキャンペーンを行ったのだ。本年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞(7月20日に最終選考会)にもノミネートされた本作から一部を抜粋してお届けする。 前回記事 【国鉄改革裏面史】「俺たちに協力せんと、どうなるかわからんぞ」…JR東海・葛西敬之が裏切って捨てた、革マル・松崎明からの陰湿な「逆襲」の中身

 「とぼけたことを言うんなら…」

 葛西はJR東海の常務取締役総合企画本部長から1990年6月に副社長に昇進し、名実ともに経営の舵を握った。それからおよそ1年後の91年8月、事件が起きた。佐藤が新たにJR東海労を立ち上げた翌日の、8月12日のことだ。 〈この資料はJR東海の社員である小沢三郎氏が同社副社長の葛西氏と直接電話で話したものです〉 そう書かれた文書が、日本銀行からJR東海の初代会長として天下った三宅重光やプロパーの須田寛初代社長をはじめ、全国のJR各社首脳のところへファックスや速達郵便で届いた。文書の差出人は「JR東海社員有志」となっている。その背後に松崎一派がいたのは火を見るより明らかだ。むろん「小沢三郎」は架空の人物である。が、そこに書かれている事実は存在したようだ。生々しい録音の文字起こしが関係者を驚かせた。電話の相手は次のように葛西に迫った。 「ロビーの前で女性と会って、そこにお入りになった。とぼけたことを言うんなら部屋まで行ってビデオを見せましょうか。うちの社員、5~6人、そこの下にいるんだから、今、行きますよ」。

 ばら撒かれた「不倫写真」

 文書がばら撒かれる11日前の8月1日、葛西は東京・丸の内のパレスホテルにいた。午後6時過ぎ、慶応大学医学部の教授夫人を連れてホテルのフロントでチェックインし、そのまま部屋に向かった。事前にその情報をキャッチした「小沢」は、ホテルに張り込んで二人が入室した部屋番号を確認した。もとより張り込みは「小沢」だけでなく、何人かで手分けしたのだろう。そのうえで頃合いを見計らい、8時過ぎに外から部屋に電話がかかった。  通話時間は40分ほどだ。その間、葛西本人は生きた心地がしなかったに違いない。葛西スキャンダルはJR各社だけでなく、国鉄清算事業団や運輸省(現国土交通省)幹部、新聞社などにもばら撒かれた。かつて政府の国鉄再建監理委員会の事務局に派遣された元運輸事務次官の黒野匡彦も、このスキャンダルに接した一人である。「葛西さんがいなかったら国鉄改革はできなかった」と称賛する。その大きな理由が旧動労の松崎との対処のあり様だという。「葛西さんは東海から革マル派を追い出した。そのとたん、アンチ葛西のキャンペーンを張られたのです。(不倫の事実が)本当にあったのか、本当はなかったのか、そこはわからない。われわれだったら圧倒されるところを、彼は揺るぎませんでした。 組合が撮った写真は僕のところにも送られてきましたから、今も持っています。ゴルフ場で二人が睦まじくゴルフをやっている写真。名古屋のお医者さんの奥さんとゴルフをやったとか、ホテルで待ち合わせしたとか、あくまでも組合の言い分ですが、そういうキャンペーンをやられたんです。

 「俺、もう辞めるわ」

 昔のJR東の本社の前で、JR東海新聞という印刷物が配られていました。とうぜんJR東海の記者会見でもその話が出る。そしたら彼は『私のプライベートな話ですから、こういう場で話すべきことではありません』と肯定も否定もしないんです。それでずっと通しちゃった。政治家には到底そんな芸当なんてできないでしょう。けれど、彼にはそれで通すだけの胆力がある。すごい男だと改めて感じたものでした。だからキャンペーンはそれっきりだったですね」 。この手の新聞や写真はJRの部課長クラスや駅長にまで届いたというから、大きな騒ぎになった。黒野はあくまで葛西は毅然と振る舞っていたという。が、実のところはそうでもない。先のJR東海関係者はこうも言った。  「旧動労の連中は夕刊フジ風のタブロイド判の新聞に仕立て、名古屋や東京にあるJR系ホテルの部屋にポスティングして回ったり、駅周辺の壁に貼ったり、果てはJR東海社員の家族の勤務先にまで新聞を送りつけていました。そのうちJR東海社内に盗聴器が仕掛けられていることがわかり、葛西さんが参ってしまいました。ついに『俺、もう(会社を)辞めるわ』と弱音を吐いてしまった。あろうことか、そう話している会話まで盗聴され、『葛西がついに退任を決意』なんて調子で、それが流されたことまでありました。あの強気の葛西さんがそこまで参ってしまうのですから、想像を超える激しい攻撃でした」  いっときは会社を辞める覚悟までしていたという。国鉄改革で苦楽をともにしてきた松本正之たち、側近が辞意を思いとどまらせたようだ。葛西が踏みとどまれた理由について、JR東海関係者はこう解説してくれた。「葛西さんにとって大きかったのは、捜査当局の存在ではないでしょうか。葛西さんには東大時代に仲良くなった検察や警察の友人がいて、法的にサポートしてもらったように聞いています。松崎や革マルを相手にするときはそういうガードマンが必要でしょう。  彼らを雇うにしても個人では負担できないから、会社としてやらなければならない。なにしろ旧動労系のJR東日本労組は資金が潤沢です。5万人ぐらいの組合員がいて、だいたい1人あたり10万円前後の組合費を集めていましたから、それだけで毎年50億円くらい入ってくる。それを活動費として使えるのだから、とてもじゃないけど個人では太刀打ちできません。だから、会社として対応した。それが功を奏したのではないでしょうか」  革マル派の影がちらつく組合に、警察、検察のパイプを使って対処したという。葛西はのちに、警察組織をことのほか重視するようになる。それはこのときの成功体験があったからであろう。 【革マルを排除できなかったJR東日本で起こった「犯人不明の暴行事件」…そして、社長の自宅ではプロパンガスの周辺にマッチ棒がバラまかれ…】に続きます。

 2023.7.11日、「革マルを排除できなかったJR東日本で起こった「犯人不明の暴行事件」…そして、社長の自宅ではプロパンガスの周辺にマッチ棒がバラまかれ」。
 森功著『国商 最後のフィクサー葛西敬之』では、「改革三人組」と呼ばれた若き日の葛西敬之も描かれる。葛西は国鉄分割民営化の際に、最大労組である国労を潰すために、革マル派労組・動労トップの松崎明と手を組んだ。しかし、分割民営化が果たされJR東海が発足すると、葛西は「反松崎」「松崎切り」を鮮明にする。一方でJR東日本は、松崎らと手を切れてなかったとされるのが定説だ。しかし、JR東日本は本当に松崎に屈したのか。本年度の講談社本田靖春ノンフィクション賞(7月20日に最終選考会)にもノミネートされた本作から一部を抜粋してお届けする。

 JR東日本は脅しに屈したのか?

 革マル派は言うにおよばず、中核派や革労協など、国鉄時代から労働組合運動に極左の過激派が潜んできたのは公知の事実だ。彼らの活動は警備、公安警察の監視対象でもあった。それだけに民営化されたJR各社では警察の天下りを受け入れ、当局とのパイプを保ってきた。それはJR東日本でも同じだ。

 だが、JR東日本では、初代社長の住田正二や2代目社長の松田昌士たちが旧動労の松崎と手を切れなかったとされている。その理由について、先の東海関係者に尋ねてみた。 「もとはといえば松田さんは労務の経験もあり、鉄労とも親しかったんです。それで、葛西さんが動労と手を組んで改革をやっていこうという方針を立てると、松田さんは『葛西は動労を甘やかしている。けしからん』と言い、批判の急先鋒になっていった。 ところが、東日本に行って労政を担当するようになると、方向転換して松崎と手を組んだ。その理由はいまだにハッキリしません」革マル派の松崎と闘ったJR東海の葛西に対し、JR東日本の松田は松崎の脅しに屈した――。マスコミやJR関係者のあいだでは、定説のようにそう語られる。だが、それはあくまでJR東海側から発した見方といえる。一方で松田本人は、松崎を信用し労使協調路線を歩んだだけだと言ってきた。そのどちらも説得力に欠ける。

 松田と松崎の微妙な関係

 JR東日本の社長、会長を歴任した松田昌士は、2008年11月29日付の日本経済新聞「私の履歴書」28回目で自らの労務の苦労談を次のように書いている。 〈国鉄時代、私は常に主力組合であった国鉄労働組合(国労)と真っ向から対峙した。分割・民営化の信念を掲げ、これを曲げることもなかった。当然、私への風当たりはきつくなり、それは家族にも及んでいた。陰に陽に寄せられる様々な苦情、いやがらせ。国労関係者だけでなく、彼らと連帯を組む勢力が入れ代わり立ち代わり、妻や三人の子供たちに圧力をかけていた。国鉄民営化への道筋がたったころからJR発足にかけては特にひどかった。当時住んでいた埼玉県与野の自宅ではプロパンガスの周辺に幾本ものマッチ棒がばらまかれていた。組合の街宣車は近隣を練り歩き「松田は大悪人」と大音量で流し続けた〉  これは分割民営化に反対してきた国労との闘いを指す。〈彼らと連帯を組む勢力〉とは国労の活動家のことだと読みとれる。続いてこうも書く。 〈ある時、同居している長女の息子が極度に水を怖がることを知った。理由を尋ねると、近隣のプールで指導員とおぼしき人物に無理やり顔を水に押し付けられたという。孫にまでの陰気ないじめにはさすがに慄然とした〉

 ここのクダリにあるいやがらせの時期がいつなのか、相手はどの組合なのか、そこが判然としない。JRが発足して以降、旧国労は解体され、旧動労の松崎が取って代わった。三人組の一人である井手は松田も松崎を信用してきたと言ったが、松田はむしろ旧鉄労に近かった。民営化当初、松崎のつくったJR総連委員長に就任した鉄労出身の志摩が、JR東日本常務だった松田にJR総連からの脱退の了解を得たのも、そのあらわれといえる。松田はJR発足当初、松崎に対して厳しかった。

 犯人不明の暴行事件

 民営化後の松田は骨抜きになった国労ではなく、JR東海の葛西と同じく、松崎が委員長を務めるJR東日本労組や革マル派の影に怯えた。 暴行や脅迫といった刑事事件が起きても、犯人不明のケースが多く、真相は藪のなかだ。松田はプールの件についても、明確に犯人像を描けなかったのかもしれない。この点について、先のJR東海関係者はこう推測する。 「われわれは、プールの一件が松田さんの方向転換のきっかけではないか、と推測しています。もちろん誰の仕業かはわからないし、下手に書けば反撃を食らうので書けない。だから松田さんはそこをぼかしている。けれど、新聞に書いて精一杯の抵抗をしたのではないでしょうか。それほど身にこたえたという逆説のように感じます。 民営化前後から表向きは松崎を信用していると言い続けてきました。それは松田さんが脅しに屈したとは口が裂けてもいえなかったからではないでしょうか」。松田は三人組のなかでJR東日本という中核企業の経営を担った。旧国労を解体に追い込んだはいいが、松崎の率いる鬼の動労を排除しきれなかったのは間違いない。

 革マル対策で警察庁キャリアが天下り

 半面、JR東日本ではJR東海と同じように、革マル排除のために警察の力を借りようともしてきた。JR東日本では会社の発足に伴い、警察庁のキャリア官僚である柴田善憲を監査役として迎えた。柴田は東大法学部を卒業して1955年に警察庁に入り、多くの東大卒キャリア警察官僚と同じく警備、公安畑を歩んだ。警備局公安3課長や1課長を経て警視庁公安部長を務めた。警視総監の目もあったはずだ。だが、警視庁の副総監から84年に警察庁警備局長に昇進したあと、女性スキャンダルにまみれて出世が絶たれた。近畿管区警察局長を最後に87年4月、JR東日本に天下る。JR東日本初代社長の住田正二や常務の松田にとって柴田は、革マル派対策にうってつけの人物に映ったのだろう。事実、柴田はJR東日本の監査役となり、古巣の警視庁公安2課に命じて捜査員が極左の情報収集にあたってきた。当時の捜査員が打ち明ける。「JRの発足当時は、革マル、中核の全盛期でもあり、警視庁では公安部だけでなく、刑事部もいくつもの事件で内偵捜査をしてきました。官営から民営に移るにあたり、業者とJR側の汚職情報が数多くもたらされ、大忙しでした」。

 コウノトリと呼ばれた公安刑事

 「その半面、事件のネタを組合からもらうため、彼らにも接近し仲よくなった。捜査員たちの多くが次第に革マルに取り込まれていったともいえるでしょうね。その大元締が柴田さんだったんじゃないかな」。捜査情報はギブ&テイクが基本だが、取り込まれる危険性もある。やがて柴田はコウノトリとあだ名されるほど、松崎たちと蜜月になっていった。ある警察官僚が言った。「その柴田さんが新たにJR東日本の顧問として招聘したのが、警察庁の後輩である杉田さんでした。葛西さんはそこをよく見ていたんだね」。「杉田さん」とはのちに第二次安倍晋三政権で官房副長官となる杉田和博のことである。革マル派との闘いを乗り切った葛西は、JR東海の経営者として運輸業界の顔となっていく。そして、ときの政権と一体化し、国士ともてはやされるようになる。

 2023.1.6日、森功「“国鉄改革3人組”のなかで、ただ一人「革マル」を拒絶した男「JR西日本」井手正敬の激白…「常に眉に唾をつけていました」」。井手は松崎を信用していなかった
 昭和の終わりを象徴する出来事だった「国鉄分割民営化」については、いまもまだ評価が定まっていない。JR東海、JR東日本、JR西日本の本州3社は順調だが、JR北海道などは経営が逼迫し、社長が続けて自殺するという悲劇も生んでいる。この「分割民営化」を国鉄内部で推進したことで、絶大な権力を持つに至った葛西敬之氏自身の評価にも、同じことが言える。彼は本当に巷間言われるような「国士」なのか? 森功氏の新刊『国商 最後のフィクサー葛西敬之』は、それに大きな疑問を投げかけている。後に葛西が国鉄改革で利用したのが「革マル」松崎明だった。しかし、同じ「国鉄改革3人組」でも、後にJR西日本のトップになる井手正敬は、松崎に対して、常に懐疑的だった。『国商 最後のフィクサー葛西敬之』から国鉄改革の裏面史をお届けする。
              『国商 最後のフィクサー葛西敬之』連載第9回後編

 前回記事【極左のカリスマが、工業高校を卒業後、共産党に入党し、国鉄を屈服させるようになるまで】を読む


 伝説の「ブルトレ事件」

 この松崎と葛西の関係について、元職員局幹部は次のように説明してくれた。「葛西は国鉄改革で国労を潰すために動労を利用した。いわば毒をもって毒を制そうとしたわけです。しかし、ことはそう単純にはいかない。本当は国労と動労どちらも潰さなきゃいけなかった。ところがそれをやりきるには、いかに葛西が剛腕だとはいえ、労働問題についてずぶの素人だからできない。それで松崎の寝技にだまされちゃったわけです」。

 松崎の寝技の象徴的な事件の一つに、国鉄幹部のあいだで伝説的に語られてきた「ブルトレ事件」がある。1958年10月に国鉄が鳴り物入りで導入した青い寝台特急列車「ブルートレインあさかぜ」が、いっときブームを呼んだ。ところが82年に入り、ブルートレイン検査係のカラ出張やヤミ手当問題が浮上する。不正行為を働いていた労働組合員とそれを守ろうとした労働組合がやり玉に挙げられた。

 当時国鉄では、旧来の国労や動労に加え、経営寄りで同盟系の鉄労や国労から分かれた右派保線職員系の全施労といった労組が活動していた。同盟は正式名称を全日本労働総同盟会議といい、左派色の強い官公労とは異なり、民間企業の産別労組の集まりとされ、旧民主党を支持した。この4労組のうち元来、極左に近かった動労が、なぜか職場を守るためと称して「働こう運動」を展開し、葛西たち改革組に賛同した。

 井手は松崎を信用していなかった

 結果、順法闘争という名のサボタージュを繰り返す国労が悪者になり、マスコミにバッシングされた。改革三人組はブルトレ事件における国労の行為を次々とメディアにリークし、これにより国労の影響力が削がれ、その分逆に動労の力が増した。だが、三人組のリーダー格、井手は狡猾な動労の松崎と組むことの危うさを知っていた。それは過去、苦い経験をしてきたからだ。井手本人に聞くと、こう言った。ブルートレインの勤務で最初に騒ぎ出したのは、田町電車区で働く国労の組合員でした。『これからは俺たちも経営の合理化に協力し、ブルートレインには乗らない。だから、代わりに手当だけをよこせ』と言いだしたのです。国鉄の主流は国労に対し宥和路線をとっていましたから、われわれは独自に、朝日新聞の記者に事実を訴えました。松田君が中心になって動き、それを新聞に書いてもらった。すると、われわれの動きに松崎がパッと乗ってきたのです」。それはある種の松崎の策略だった。井手が続ける。「動労の松崎は国労からヘゲモニー(覇権)を奪おうと考えていました。そこで、『国労組合員のブルトレ手当はおかしい』とわれわれに同調したのです。国労はブルトレのヤミ手当について、労使で決めた話だからおかしくないんだ、と言う。それに対して動労の松崎は、おかしいものはおかしい、と反論した。それで、葛西君が松崎を信用しはじめ、やがて完全に松崎に心を許すようになるわけです。以来、葛西君はずっと松崎と民営分割路線に乗って走りだしました。松田君も彼を信用していた。しかし、私はずっと松崎にいじめられてきたから、常に眉に唾をつけていました。なので、松崎は私の存在が煙たかったでしょうが、とりわけ葛西君のいた職員局系統が自分たちのものになった、と自信を深めていったと思います。松田君と葛西君を籠絡したと……」。

 すり寄ってくる松崎

 動労の松崎は当初、国労と同じく分割民営化に反対してきた。だがそこから方針転換した。松崎は同時に、革マル派との決別も謳った。分割民営化への賛成や革マル派との決別という方針転換は、その極端さから「コペルニクス的転回」と表現された。通称「コペ転」だ。だが、井手はそんな松崎を信用していなかった。「松崎がどんどんわれわれにすり寄ってくるわけですね。松崎の腹心である佐藤マーさん(政雄)などから『井手さん、ブルトレ対策はどんな内容なのか教えてくれ』と朝いちばんに目黒の雅叙園に呼び出され、ずいぶん説明しました。で、いよいよ民営分割という段になった。民営化後の人の配置をどうするか、という話になって、葛西君が以前に問題を起こしてクビになったある男(動労組合員)を『関連企業で採用してほしい』と言いだしたのです。おそらく松崎に頼まれたのでしょう。動労にしてみたら、『ここまで分割民営化を応援したんだから、こちらの面倒もみろ。JR本体に復職できないにしても、関連企業ならいいではないか』という言い分です。それで、その件を松田君に相談したら、『今は松崎をこっちに付けておくほうが得策だから、少しぐらいは目をつぶったらどうでしょうか』と彼も同調していました」葛西はこのとき職員局次長として、民営化後のグループ職員の生殺与奪権を握っていた。民営化後も動労を味方に引き込んでおくため、かつて問題を起こした動労の組合員でもそれなりに遇する必要があると考えたのだろう。まさしく国鉄民営化前夜のことだ。

 国鉄改革の目的は「労働組合潰し」

 最大労組の国労を骨抜きにする国鉄の分割を進めるにあたり、先鋭的な動労を抱き込んだのは、葛西の戦略だったに違いない。ひょっとすると、中曽根政権の参謀である瀬島龍三から授けられた作戦かもしれないが、葛西自身が鬼の動労と呼ばれた松崎の革マル派との決別、コペルニクス的転回を信じた結果でもあった。三人組のリーダー格である井手は、やはり松崎の変心に懐疑的だった。こう話す
。「松崎はこっちにどんどん迫ってきました。これまでの組合の大会は申し訳なかった、と頭を下げ、労使共同宣言に率先してサインするわけです。ある意味、互いに疑わなかったのでしょうね。松崎も葛西君のことを信じていました。それだけに、あとの反動が大きかったのですが……」。国鉄民営化前夜の労働組合交渉において、動労が賛同した労使共同宣言はことさら大きな出来事だったといえる。労使双方にとっての懸案は民営化後に避けられない人員削減だ。もとより国労はそこに猛反発した。が、国鉄最後の総裁となった杉浦喬也(たかや)の下、2回にわたって経営側と国労を除く労働組合が合意、なかでも動労が積極的に協定に協力したのである。過去、ともに国鉄経営陣や自民党と闘ってきた鬼の動労の転換は、国労からするとまさに裏切り行為に映ったに違いない。

 松崎の“変節”は国労にとって代わり、国鉄内の労働運動を牛耳ろうとする動きにほかならない。半面、中曽根康弘政権の主導した社会党、国労潰しのための国鉄改革に歩調を合わせたともいえる。こうして国鉄は87年4月をもってJRに生まれ変わった。




(私論.私見)