動労青年部オルグ考

 (最新見直し2008.2.1日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.10.7日 れんだいこ拝


『論語』講義(1)。 朱子 2009/10/05
 『論語』講義(1)。

 「子曰、已矣乎、吾未見好徳如好色者也」(「子曰わく、已んぬるかな、吾未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり」、先生が言われた。「おしまいだな、私は美人を愛するほど熱烈に有徳者を愛する人をまだ見たことがない」)。

 「おしまいだな」と言う孔子の言葉は現状を嘆く言葉ではない。軽いジョークで言っているのだ。人間は、みんな、有徳者=賢者を愛するよりは、アイドルのような美少女を、もっと熱烈に愛する者だと孔子は言っているのだ。孔子の時代の中国の女子の結婚適齢期は15歳だった(『韓非子』参照)。15歳前後のベリーズ工房やキュートのような美少女を、賢者よりも愛するのが、人間として当たり前の事だと孔子は言っている。革命的共産主義者もベリーズ工房やキュートのファンになって当然なのである。

 革共同(日本革命的共産主義者同盟)が執行部を掌握し、JR東日本の労働者の75%以上を組織しているJR東労組では、18歳で入社してくる青年労働者の教育に力点を置いている。18歳の高校を出たばかりの組合員には、ハロプロやAKB48のファンも多い。JR東労組の青年部の役員は、ハロプロやAKB48の事を知らなければ、組合活動家として失格である。革共同系の青年部役員は、18歳くらいの新入組合員を、夏焼雅や鈴木愛理のような美少女が居る風俗営業店に連れて行く。そうしてこそ、初めて、18歳の青年達も、組合活動家の言う事に耳を傾ける。

 JR東労組、東労組を中心とするJR総連の幹部の多くは、国鉄時代の動労(国鉄動力車労働組合=国鉄の運転士の組合)出身者である。動労のスローガンは「よく遊び、よく学び、よく闘う労働運動を!」であった。最初に「よく遊び」が来る事に注意してほしい。かつての動労や、現在のJR東労組は「女遊び」だけに力点を置いているのではない。すべての組合員が「サッカー部、野球部、バスケットボール部、自動車部、囲碁部、将棋部などのサークル」に加入しなければならない事になっている。

 各サークルのリーダーは、組合役員である。「遊び」のリーダーになれない者は、組合役員になれない。スポーツや「女遊び」のリーダーである組合青年部指導者は、20歳前後の組合員と3時間、酒を飲む時は、10分だけ、組合運動の話をする。そうやって、少しずつ、青年労働者の意識を高めていく。

 日本共産党のように固い事ばかり言っていたのでは、現代の青年労働者は、ついて来ない。その上で、青年労働者を、戦場となった沖縄、日本軍による大虐殺が行われた中国、ポーランドのアウシュビッツへ連れて行く。そして、中国では、中国人から、日本軍の残虐行為に関する話を、JR東労組の青年労働者は聞く。そうやって、青年労働者の反戦意識が高められていく。また、イギリスの港湾労働者のストライキの支援のために、イギリスに行き、青年労働者は、労働者の国際的連帯の重要性を学ぶ。マルクスの「万国の労働者、団結せよ」と言う言葉の重みを理解するようになる。これが、JR東労組の教育方法である。

 「子曰、君子和而不同、小人同而不和」(「子曰わく、君子は和して同せず、小人は同じて和せず」、先生が言われた。「君子は他人と心から一致するが、うわべだけ同調することはしない。小人はうわべだけ同調するが、心から一致することはしない」)。

 「和」と言う中国語は、心から打ち解けて友となることを指す。それに対して、日本では「和」を重視すると言うことは、自己主張を押さえて表面だけ仲良くする事を意味する。中国語の「同」とは、うわべだけの友達になることである。女子中学生、女子高校生のグループ、会社の中の人間関係は、うわべだけの同調に基づくものでしかない。現代日本では、学校でも会社でも、本当の友を作る事が困難になっている。現代人は「群衆の中の孤独」に苦しんでいる。

 革共同やJR東労組は、組織の中に「心から打ち解けあえる人間関係」を創造する事を目指している。そういう人間関係に基づく団結が無ければ、熾烈な国家権力との闘争に勝利できないからである。「心から打ち解けあえる人間関係」を、どのようにして作るのか。

 「子路問曰、何如斯可謂之士矣、子曰、切切・偲偲・怡怡如也、可謂士也」(「子路問いて曰わく、如何なるかこれこれを士と謂うべき。子曰わく、切切・偲偲・怡怡如たる、士と謂うべし」、子路がおたずねした。「どういう人間が士といえるのでしょうか」。先生が言われた。「びしびしと励まし、なごやかに親しなければならない」)。

 「励まし」のための厳しい相互批判と、なごやかな親しみが「心から打ち解けあえる人間関係」を作るのである。厳しい相互批判が無い所、「慣れ合い」で成立している人間の間には真の友情は生じない。

 革共同は、内部での相互批判による人間変革を目指している。日本共産党は、下部が幹部を批判すれば、即座に除名処分になる。それに対し、革共同では、下部による幹部に対する批判を奨励している。日本共産党や中国共産党のような官僚主義的組織に変質する事を防ぐためである。

 企業、政治家、官僚、警察、自衛隊、大学教授の世界には派閥がある。出世を目指す者は、有力派閥に入る事に必至である。そして、派閥間には利権をめぐる醜悪な抗争が存在する。派閥の内部は親分ー子分関係が支配し、子分が親分に逆らう事は許されない。日本社会は、基本的にヤクザの社会と同じである。革共同とJR東労組は、組織の中に、そうした「親分ー子分」関係を基軸とする派閥を作ろうとする動きを闘ってきた。そうした派閥は、理論の相違ではなく、何が正しくて、何が悪いのかを無視した地平において形成されるからである。革共同は、理論の相違に基づく「分派形成」の権利を党員に認めている。日本共産党が分派活動を全面的に禁止しているのとは大違いである。

 「子曰、君子矜而不争、群而不党」(「子曰わく、君子は矜にして争わず、群するも党せず」、「君子は、厳然として犯すべからざる態度をとってはいるが、他人と争いを起こそうとしない。多くの人と交わるが、派閥には入らない」)。

革マル派転向脱落分子=四茂野修を弾劾せよ!!! 国家非常委員会・ジェルジンスキー 2009/09/24
 革マル派転向脱落分子=四茂野修を弾劾せよ!!!

 この本=『権力を取らずに世界を変える』の翻訳者=四茂野修が、どういう人間であるのか、諸君は、知らないとは無知丸出しでえすね。

 四茂野修は、革マル派の拠点として有名だった東京大学文学部自治会の執行委員であり、革マル派の軍事組織=全学連特別行動隊の優秀な指導者でした。四茂野修は、極めて優秀な軍人であり、中核派・本多書記長打倒、革労協最高幹部・中原一打倒において、重要な役割を果たした人物です。中核派の本多、革労協の中原は、両派のナンバー・ワンの指導者で、中核派、革労協の軍事組織が、最も、ガードを固くして防衛していた最高幹部です。その本多、中原を、四茂野修が指揮する全学連特別行動隊が革命的に処刑した事は、日本階級闘争における偉大な勝利です。

 四茂野修は、マルクス主義学生同盟革命的マルクス主義派の誇りでした。四茂野修は、東京大学文学部哲学科を中退し、その軍人としての功績と、哲学における優れた理論を、革マル派議長=黒田寛一に高く評価され、革マル派が執行部を掌握する動労(国鉄動力車労働組合)の書記として、革マル派副議長であり、国鉄分割民営化の時の動労中央執行委員長=松崎明の下に預けられ、国鉄分割民営化後は、松崎明を委員長とするJR東労組の情宣部長を務め、その後は、公安警察や中核派が革マル派支配の組織と呼ぶJR総連副委員長に就任した人物です。

 四茂野修は、当初、松崎明と共に偽装転向し、ソ連共産党に盲従していた日本共産党と社会主義協会向坂派が牛耳る国労(国鉄労働組合)を切り崩し、革マル派を、世界最大の鉄道会社=JR東日本の労働組合運動の主流派にまで、拡大した偉大な功労者です。四茂野修による、日共・向坂派が支配する国労、中核派が牛耳る千葉動労に対する攻撃は素晴らしいものであり、共産党、協会向坂派、中核派を震え上がらせました。

 しかし、JR東労組、JR総連幹部は、連合内の自動車総連、鉄鋼労連、電気連合等の右翼組合の労働貴族と、交際する中で、右翼労働貴族的体質を身につけ、腐敗・堕落していきました。また、四茂野修を指導者とするJR東労組、JR総連が莫大な政治献金を民主党代議士に、与える中で、四茂野修は、民主党代議士と癒着し、その背後に居る日本帝国主義ブルジョワジーとも癒着していきました。

 そうした中で、四茂野修は、CIAのスパイ=宮崎学、右翼の鈴木邦男、鉄鋼労連の新日本製鉄八幡製鉄所労働組合を最高の労働組合だと主張する右翼学者=戸塚秀夫・東京大学名誉教授、トヨタ自動車のQCサークルこそ、労働組合再生の基盤となると主張していた右翼ゴロツキ学者=熊沢誠・甲南大学教授、国労、動労が、日本史上最高の闘いとして誇りにしてきた「1975年スト権奪還ストライキ」を「極左冒険主義」と誹謗・中傷してきたゴロツキ右翼=樋口篤三らと相互浸透していきました。この過程で、四茂野修は、革マル派から脱落・転向し、真正右翼となったのです。

 四茂野修は、我が革共同革マル派を口汚く罵倒し、自己の学生時代の履歴をも、無党派学生であったと詐称し、我が革共同による、国家権力の走狗=中核派、革労協解体闘争を誹謗・中傷し、自民党を見捨て、民主党を支持するようになった日本帝国主義ブルジョワジー、アメリカ帝国主義オバマ政権下のCIAと癒着するに至ったのです。

 こんな変節漢が、翻訳した『権力を取らずに世界を変える』なる本を高く評価する、このトピックを立てた者の無知、無能を糾弾すると共に、日本帝国主義ブルジョワジー、民主党鳩山政権、アメリカのCIAと癒着した右翼労働貴族=革マル派脱落転向分子=四茂野修を弾劾を、満腔の怒りをこめて弾劾する!! また、四茂野修が評価し翻訳した本を讃美する、このトピックに群がる者に対する警告を発しておく。

竹田誠全集第二巻 世界出版 2009/10/29
 竹田誠全集・第2巻『動労・国労・全逓・全軍労・労働争議(1970年代)−JR総連、JR連合、JP労組、全駐労・沖縄を理解するためにー』 248頁、3000円(消費税、送料込み)

 このサイトは、世界出版の営業用のサイトではなく、竹田誠博士の研究成果を公表するためのサイトです。著者=竹田誠は、1993年、東京大学にて経済学博士の学位を取得、現在、労働争議研究所・所長。

 この本は、岩井章・総評事務局長、富塚三夫・総評事務局長、山岸章・連合初代会長、目黒今朝次郎・参議院議員(動労中央執行委員長)、小谷昌幸・動労教宣部長(JR総連最高幹部)、中江昌夫・千葉動労顧問、柴田秋雄・JR連合事務局長、細井宗一・国労革同(日本共産党員)最高幹部、遠藤泰三・全動労初代委員長(共産党員)、保坂尚郎・全逓書記長(社会主義協会向坂派)、国安孝・全逓企画部長(宝樹派)、宝樹文彦・全逓委員長などの多くの動労、国労、全逓、「全軍労を中心とする沖縄の諸労組の役員」、高嶺朝一琉球新報編集局長の協力を得て書かれたものです。1970年代の労働運動に関する研究書が皆無に近い中で、画期的な著書と言えます。

 この本の特徴は、労働運動側の指導者だけでなく、国家の最高権力者の協力を得て書かれた所にあります。この研究に協力したのは、中曽根康弘首相、海部俊樹首相、川島廣守内閣官房副長官(元警視庁公安部長)、
加藤寛(三木武夫首相のブレーン)、高木文雄・国鉄総裁、鈴木瞭五郎・航空自衛隊空将・航空総隊司令官(航空自衛隊の最高司令官)です。1975年、スト権奪還ストライキの時、中曽根康弘が、自衛隊に治安出動準備を指示していた以上、自衛隊の最高幹部の協力を得る事が不可欠でした。また、川島廣守内閣官房副長官は、著者のために、警視庁公安部に、動労と革マル派に関する膨大な資料を作成させ、著者に送付しました。

 目次

 第1部 動労、国労の闘争ーマル生粉砕闘争(1970)からスト権奪還ストライキ(1975)へ

 第2部 全逓の闘争ー宝樹執行部の崩壊(1971)、東京地本「第二春闘」(1973)、越年反マル生闘争(1978〜79)

 第3部 沖縄の労働運動と学生運動ー全軍労ストライキ(1972)と米軍キセンバル演習阻止闘争(1974〜77)

 「章」「節」に関する目次は省略。

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1473 竹田誠博士略歴、革共同(中核派)情報部より。 林彪 2009/10/29 12:53
竹田誠博士略歴、革共同(中核派)情報部より。

1959年、名古屋市に、名古屋市医師会長・吉田誠三の庶子(愛人=竹田末子の息子)として生まれる。

1970年、プロテスタント福音派・一麦教会にて洗礼を受ける。

1971年、福音派(ブッシュ大統領の宗派)に反共主義に反発し、教会から離れる。

1971年、名古屋市立高見小学校児童会長

1974年、名古屋市立若水中学校生徒会長・反共主義者=生徒会顧問である中島忠夫教諭(後の校長、日教組破壊の中心人物)の指導の下、行動する。

1975年、愛知県立旭丘高校入学

中学時代の反共主義者追随の立場を捨て、高校1年生4月に、共産同戦旗派(日向派)のい活動家=高森五郎と出会うが、そのハミダシ主義、反差別主義に猛烈し、小ブル急進主義者に対する強い反発を抱き、日本共産党の教師=吉田(政治経済教師・名古屋大学の民青出身)に接近。

しかし、日共のチリ・アジェンデ政権崩壊に関する日共の説明に反発し、日共の絶望。

1976年11月、高校2年生、革マル派指導下の高校生組織=反戦高校生連絡会議に加盟。

1978年、横浜国立大学経済学部入学、反戦闘争委員会加盟

1979年、全学連フラクションに加盟。

以後、激烈な中核派解体闘争の最前線で活躍。
1978年、9・29事件、横浜国立大学における学園版「7・17」謀略に、怒りを抱き、中核派解体闘争への参加を決意。

1979年4月、ZF(全学連フラクションに加盟)

以後、動労、JR総連の松崎明のように、正体を隠して、ノンポリ・ノンセクト活動家との規定性において、学生自治組織=大学祭実行委員として活動。

1979年、横浜国立大学経済学部自治会再建に参加。

1979年4月、竹内寿一、松川倫明、村田秀夫、栗原、倉品ら10名の大学1年生、2年生を革マル派系組織にオルグ。

1979年6月、竹内寿一を経済学部自治会委員長にする事により、革マル派が経済学部自治会の執行部を掌握。

1979年11月16日、国家権力の謀略殺人によって、佐藤修平、小林智が虐殺され、この虐殺を契機に、本格的な中核派解体闘争に参加。

1979年12月、中核派機関紙『前進』が、第6面全体に「竹田誠特集」を掲載。

 中核派「竹田誠に対してせん滅を宣言」





(私論.私見)