18章 戦後学生運動9期その1 1970(昭和45)年
 70年安保闘争とその後

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「8期その2、全国全共闘結成と内部溶解の兆し」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1970(昭和45)年の70年安保闘争史を概括する。これを仮に「戦後学生運動9期その1、70年安保闘争とその後概略」と命名する。詳論は「70年安保闘争とその後」、概論は「70年安保闘争とその後」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。

【70年安保闘争】

 1970(昭和45).2.27日、日共の不破が予算委員会での初質問で、佐藤栄作首相を相手に、創価学会の出版妨害事件に対する政府・自民党の態度を追及した。これが不破のデビュー戦となつた。創価学会の出版妨害事件とは、196970年の言論・出版問題とは、評論家の藤原弘達氏が著作「創価学会を斬る」を日新報道という出版社から発行しようとした時、これを闇に葬ろうとする創価学会・公明党の妨害にぶつかったことから明るみに出た事件のことを云う。

 5.3日、創価学会の池田大作会長が講演で「猛省」し、政教分離宣言。次のように述べている。

 概要「日蓮正宗と創価学会が国立戒壇を目標としてきたことは事実であるが、国立戒壇というと、国教化、一宗専制を目指し、他教を権力によって弾圧するかのような誤解をあたえるので、国立戒壇という表現は将来ともに使わないこと、国会の議決を目標にしないこと等々を約束する。創価学会と公明党の関係は、政教分離とする。今後、たとえ票が減ろうと、議員数が減ろうと、それは近代政党として当然の道であり、今後は、イ、創価学会と公明党の関係は、制度の上で明確に分離していくという原則を貫く。ロ、創価学会は公明党の支持団体であるが、学会員個人個人の政党支持は自由とし、政党支持について、会員の自由意思には、全く干渉するものではない。ハ、選挙は、公明党の党組織を思い切って確立し、選挙活動はあくまで党組織の仕事として、明確に立て分けて行う、創価学会は支持団体として地域ごとの応援」をしてゆく」。(このあと開かれた公明党大会では、公明党の“独立性”と“政教分離”のあかしとして、宗教の政治支配を意味する「王仏冥合〈おうぶつみょうごう〉」の文言を削除する綱領改定など、一連の軌道修正をおこなった)

 3.14日、日本万国博覧会開会。大阪万国博(EXP0'70)開会式。大阪府吹田市千里丘陵で「人類の進歩と調和」をテーマに77カ国が参加した。米宇宙船アポロ11号が持ち帰った「月の石」などが人気を集めた。過去最高の6千421万人の入場者を記録した。 
 3.14日、この頃カンボジアで内戦が起こ り、これに南ベトナム解放軍・北ベトナム軍が参戦したことからわが国のベトナ ム反戦闘争も混迷を深めることとなった。3.18日、カンボジア,シアヌーク元首解任のクーデター。3.31日、日米安保条約自動継続の政府声明発表。4.9日、カンボジア政府軍、べトナム系住民を虐殺。中国と北朝鮮両政府、「日本軍国主義と共同して闘う」との共同声明を発表。4.15日、米国で反戦集会・デモ。数十万人参加。4.23日、日本政府はカンボジアの現状は内戦ではなく、北ベトナム軍の侵略に対する戦いであるとの公式見解を発表。米国政府、カンボジアに武器を援助していたことを認める。4.30日、米軍、カンボジア侵攻。5.5日、カンボジア王国民族連合政府樹立。
【日米安全保障条約自動延長】

 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。60年安保闘争に比べて妙に穏和なスケジュール闘争に化していた。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集、逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。


【日共第11回党大会】

 7.1日、日共の第11回党大会が初公開で開催された。大会の眼目は、「70年代の展望と日本共産党の任務」を大会決議することにあった。それにより「人民的議会主義」路線打ち出し、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を展望させた。

 党規約を改正し、組織方針上の大きな改変が行われた。1・中央委員会議長と幹部会責任者の分離、2・幹部会委員長の創設、3・常任幹部会の常設化、4・書記局及び機関紙編集委員の中央委員会選出から幹部会任命制などが為され、「中央委員会及び書記局体制から幹部会へのシフト、幹部会を中心とした一元化体制の確立」が為された。これにより、百数十名の中央委員会は、数名からなる幹部会の翼賛機関化していくことになった。その他、基礎組織の旧来の「細胞」名称を改め、「支部.班」とした。

 7.7日、中央委員会幹部会委員長に宮本顕治、書記長に不破哲三就任。新しい中央委員会は、議長に野坂.幹部会委員長にそれまで書記長だった宮顕が本自ら就任。副委員長に袴田、岡が選ばれた。初代書記局長には、当時40才の不破が大抜擢された。書記局次長には、市川正一、金子満広が選ばれた。宮顕子飼いグループによる党乗っ取りが完了した。袴田の役目は、「毛沢東盲従分子を切ることで終わり」、以後不要扱いされていくことになる。


【カンボジア内戦にベトナムが介入】

 この頃カンボジアでのポル・ポト政権の「残虐」が国際的に問題になっていた。ベトナム軍は、反ポル・ポト政権派の要請に随い軍事行動を起した。これを是認するかベトナムのカンボジア侵略とみなすかで、左翼は混乱に陥った。この問題の深刻さは、この間の新旧左翼にあった国際反戦闘争におけるアメリカ帝国主義=悪、民族解放闘争=善というそれまでの図式の根底からの見直しが迫られたことにあった。いわば、民族解放闘争間にも矛盾対立が存在し、これにどう対処するのかという新たな理論的課題が突きつけられることになった訳である。問題を複雑にさせていたのは、ソ連−ベトナム−反ポル・ポト派、中国−ポル・ポト政権という国際関係であった。つまり、一筋縄で行かない様相を見せていた。

 この事態に対し、日共は、ポル・ポト政権の「残虐」を踏まえベトナム軍の行動を支持した。第四インター系譜もこの立場を取った(『世界革命』五五八号.「インドシナ革命の新たな前進を米日帝国主義の敵対から防衛せよ」)。これに対し、ブント系譜は、ベトナム軍の行動を批判する立場を見せていた。しかし、この時も新旧左翼は互いが罵倒しあうだけで、こうした新事態現象の理論的解明を為しえなかった。以降、この種の国際紛争に関する対応能力を失ったまま今日にいたっている。 

 10.9日、ロン・ノル政権のカンボジア、ク メール共和国へ移行を宣言。

 10.20日、政府、初の防衛白書を発表。
 10.24日、チリ,アジェンデ社会党党首が大統領当選。社共統一戦線によるアジュンデ人民連合政権が選挙を通じて樹立された。
【三島由紀夫クーデター未遂事件】

 11.25日、作家三島由紀夫氏と三島が率いる「盾の会」会員4名が東京・市ヶ谷自衛隊内に潜入、総監を監禁し、クーデターを扇動、三島と森田必勝が割腹自殺を遂げた。この事件も好奇性からマスコミが大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。決起文は次のように詠っていた。

 今日明らかにされているところに寄ると、70年安保闘争の渦中で決起せんと楯の会を組織していたが平穏に推移したことから「全員あげて行動する機会は失はれ」、この期に主張を貫いたということであった。決起文は次のように主張している。

 「革命青年たちの空理空論を排し、われわれは不言実行を旨として、武の道にはげんできた。時いたらば、楯の会の真價は全国民の目前に証明される筈であつた」。
 「日本はみかけの安定の下に、一日一日、魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐる」、「日本が堕落の渕に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の練成を受けた、最後の日本の若者である。諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。私は諸君に男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた」。

 これについて、筆者はかく思う。こうした右派系の運動と行動について少なくとも論評をかまびすしくしておく必要があるのでは無かろうか。この決起文に感応すべきか駄文とみなすべきか自由ではあるが、左翼は、こうした主張に対してその論理と主張を明晰にさせ左派的に対話する習慣を持つべきでは無かろうか。機動隊と渡り合う運動だけが戦闘的なのではなく、こういう理論闘争もまた果敢に行われるべきでは無かろうか。今日的な論評としてはオウム真理教なぞも格好の素材足り得ているように思われるが、なぜよそ事にしてしまうのだう。百家争鳴こそ左翼運動の生命の泉と思われるが、いつのまにか統制派が指導部を掌握してしまうこの日本的習癖こそ打倒すべき対象ではないのだろう、と思う。


 11.28日、チッソ株主総会に水俣病患者ら、1株主として出席。この年、公害深刻化。水銀、コバルト、カドミウム、鉛、硫酸、オキシダント、PCB、キノホルム、チクロ、シアン、ヒ素、ヘドロ、光化学スモッグ多発。

【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【70年安保闘争考】
 いよいよ70年を向かえて「70年安保闘争」の総決算の時を向かえたが、全共闘運動は既にピークを過ぎていた。というよりは既に流産させられていた。民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力はこの時既に潰えていた。機動隊の装備の充実とこの間の実地訓練によって治安能力が高まり一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入、岸政権打倒にまで至った60年安保闘争のような意味での70年安保闘争は存在せず、政治的カンパニアだけの動員数のみ誇る儀式で終わった。60年安保闘争は「壮大なゼロ」と評されたが、70年安保闘争は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。

 70年以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと云われる一般学生が主流となった。従来、一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はノンセクトを経てもはや政治に関心を示さないノンポリとなって行った。学生運動活動家が特定化させられ、両者の交流が認められなくなった。

 その原因は色々考えられるが、ここまで顧みてきたように旧左翼運動は無論としてそれを否定した新左翼運動をも幻滅に終わったことにより、そしてその打開の道筋を創れなかったことにより、左派運動そのものの稚拙さが食傷され、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってネオ・シオニズムイデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と云われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになったという背景事情もある。

 私は、この辺りについて左翼の理論が現実に追いついていないという感じを覚えている。一つは、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて、一部特定化された学生運動活動家と武装蜂起−武装闘争型の武闘路線が結合しつつより過激化していくという流れが生み出されていくことになった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。

 反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。この延長上に69年の共産同赤軍派、70年の日共左派による京浜安保共闘の結成、ノンセクト・ラジカル過激派黒ヘル・アナーキスト系の登場も見られるようになった。

 これとは別に1・革マル派を主役とする党派間ゲバルトの発生、2・連合赤軍の同志査問殺人が大きく否定的影響を与えていった。この問題は余程重要であると考えているので、いずれ別立てで投稿しようと思う。

 1970(昭和45).3.15日、赤軍派議長塩見孝也(28才.京大)が破防法、爆発物取締り罰則違反容疑で逮捕されている。


【赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件】
 3.31日、赤軍派による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャック)が発生。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。この事件の首謀者達は北朝鮮に入国したままとなっており、現在まで日朝の政治案件となっている。れんだいこは、よど号赤軍派の主義主張の是非はともかく、乗客を危めなかったことと、金浦空港偽装工作を見抜き目的通りに北朝鮮に向かったことを評価する。なお、当時のハト派政権が並々ならぬ配慮で根回しし、被害最小限に押えている手際をも高く評価する。

【70年安保闘争】
 4.28日、沖縄デー。各地でデモ。10余万名参加。反代々木系1万6600名(うちべ平連など市民団体8000名)結集。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。

 5.8日、全共闘、反戦青年委などカンボジア侵略抗議集会。2500名結集、デモ。べ平連など市民団体は不参加。5.29日、カンボジア侵略抗議で全共闘、反戦青年委、1万7000名がデモ。

 6月、「反安保毎日デモ」が展開される。6.14日、社共総評系のデモ、集会、全国で236ヵ所。「インドシナ反戦と反安保の6.14大共同行動労学市民総決起集会」。革マル派を含む新左翼党派と市民団体の初の共同行動、7万2000名参加。全国全共闘・全国反戦・ベ平連など約1700名逮捕。6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。

 6.23日、日米安全保障条約、自動延長となる。全国で反安保デモ、77万4000名参加。東京では147件で史上最高のデモ届数。新左翼系2万名結集。逮捕者10名。反安保毎日デモは30日まで延長をきめる。70年安保闘争はセレモニーで終わった。

【ブント内紛】

 6.23日の反安保デモの際、ML同盟は「国立劇場前爆弾事件」をひき起こして幹部活動家が大量に検挙され、その総括をめぐって紛糾し、組織は壊滅状態に陥った。

 6月、ブント第7回拡大中央委員会が開催され内紛発生。軍事闘争を強調する左派グループに反対し、大衆運動の強化を主張する右派グループの「情況派」と「叛旗派」が分裂した。


【華青闘の新左翼批判】

 7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会を開催、4千名(うちべ平連550名)結集。席上、華青闘が、69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を通じて、日本階級闘争のなかに被抑圧民族問題を組み込むことを定着させなかったとして新左翼を批判した。中核派がこれを真剣に受け止めることになる。華青闘の新左翼批判の内容は次の通り。猛獣文士氏により「七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。 

 http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm  http://www.chunichi.co.jp/anpo/
 一人の男が壇上から八千人の学生らに叫んだ。通名・猪八戒。
七・七集会における華青闘代表の発言

 七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。

 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日芦溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。

 今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つの分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。

 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。

 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

(中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)


【中核派の革マル派活動家リンチ・テロ殺人事件発生】
 8.4日、厚生年金病院前で東教大生・革マル派の海老原俊夫氏の死体が発見され、中核派のリンチ・テロで殺害されたことが判明した。この事件は、従来のゲバルトの一線を越したリンチ・テロであったこと、以降この両派が組織を賭けてゲバルトに向かうことになる契機となった点で考察を要する。

 両派の抗争の根は深くいずれこのような事態の発生が予想されてはいたものの、中核派の方から死に至るリンチ・テロがなされたという歴史的事実が記録されることになった。私は挑発に乗せられたとみなしているが、例えそうであったとしても、この件に関して中核派指導部の見解表明がなされなかったことは指導能力上大いに問題があったと思われる。理論が現実に追いついていない一例であると思われる。

 この事件後革マル派は直ちに中核派に報復を宣言し、8.6日、中核派殲滅戦宣言、8.14日、中核派に変装した革マル派数十名が法政大に侵入し、中核派学生を襲撃十数人に残忍なテロを加え報復した。以降やられたりやり返す際限のないテロが両派を襲い、有能な活動家が失われていくことになった。

【京浜安保共闘が交番襲撃し失敗】

 12.18日、京浜安保共闘が、拳銃奪取の為、東京・上赤塚交番を襲撃、一人が警官に射殺され、二人が重傷を負う。


【70年安保闘争考察とその後概略】
 70年安保闘争以降の諸闘争を追跡していくことが可能ではあるが、運動の原型はほぼ出尽くしており、多少のエポックはあるものの次第に運動の低迷と四分五裂化を追って行くだけの非生産的な流れしか見当たらないという理由で以下割愛する。

 ここまで辿って見て言えることは、戦後余程自由な政治活動権を保障されたにも関わらず、左翼運動の指導部が人民大衆の闘うエネルギーを高める方向に誘導できず、「70年安保闘争」以降左派間抗争に消耗する呪縛に陥ってしまったのではないかということである。この呪縛を自己切開しない限り未だに明日が見えてこない現実にあると思われる。

 他方で、第二次世界大戦の敗戦ショックからすっかり立ち直った支配層による戦後の再編が政治日程化し、左翼の無力を尻目に次第に大胆に着手されつつあるというのが今日的状況かと思われる。「お上」に対する依存体質と「お上」の能力の方が左翼より格段と勝れている神話化された現実があると思われる。

 問題は、本音と自己主張と利権と政治責任を民主集中制の下に交叉させつつ派閥の連衡戦線で時局を舵取るという手法で戦後の社会変動にもっとも果敢に革新的に対応し得た自民党も、戦後政党政治の旗手田中角栄を自ら放逐した辺りから次第に求心力を失い始め、90年頃より統制不能・対応能力を欠如させているというのに、この流れの延長にしからしき政治運動が見あたらない政治の貧困さにあるように思われる。

 ここまでの学生運動史を検証してみて気づいたことを書き留めておく。必要だった事は、統一戦線運動と共同戦線運動の識別ではなかっただろうか。理論が正しい場合には統一戦線運動は有効に機能する。そうでない場合には、主観的意思とは別に足かせ手かせでしかなくなるだろう。真に必要なのは、便宜的意味ではなく原理的な意味での共同戦線運動ではなかろうか。これについては「統一戦線と共同戦線の識別考」に記す。

 これより後は、「9期その2、70年代前半期の諸闘争 」に記す。



(私論.私見)