第7期その1 1965年 全学連運動史第7期その1
べ平連、反戦青年委員会結成される

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第6期その4、新三派連合結成、民青系全学連の誕生に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第7期は、1965年から始まった。安保闘争の時の新入生は64年で卒業し、ほぼ「安後派」世代になったのがこの65年からである。この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。新たに新三派連合が誕生したことが全学連運動の転回点となった。社青同解放派と反戦青年委員会・ベ平連が誕生したのもこの時期である。

 65年初頭よりの慶応大学の学費値上げ反対闘争はその後に続く私立大学系の同種紛争のハシリとなった。この頃から「マスプロ大学の諸問題」が浮上し始め、学生運動は未経験の闘争に立ち向かっていくことになった。なお、2月にアメリカのベトナム民主共和国に対する爆撃が開始され、いわゆる反戦闘争と日韓会談阻止闘争という政治課題が、安保闘争後の低迷していた学生運動を盛り返させていくことになった。

 この頃既に党派的な運動能力を獲得していたのが革マル・民青同・社学同・社青同・中核派の五派潮流であり、これらのセクトが思い思いの理論と闘争方針を引き下げて以降の運動を組織していくことになった。中でも、後者の新三派系が反戦青年委員会 との統一闘争を獲得しつつ台頭を見せていくことになり、その倍加する勢いで 66年末新三派連合による全学連を誕生させた。こうして自称全学連が三系統確立されることになり、それぞれが競合しつつ学生運動を担っていくという学生運動の転回点に到達するに到った。

 この頃新たに、党の中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場することになり、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

 この65年時点より、闘争が多方面かつ連続して行なわれていくことになる。 これを追跡すれば紙数を増やすばかりとなるのでエポック的な事を経過順に見ていくことにする。なおこの年以降は、学園闘争の流れ及び自治会執行部争奪の動きとその関連、党派の形勢を一くくりにし、政治闘争の流れを区分して見た方が理解しやすいので二部構成とする。



1965(昭和40)年の動き

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1965年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

(自治会執行部の争奪の動きとその関連)
 この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。革マル派全学連は傘下の自治会をいくつか失っている。後の三派系全学連(東京都学連再建準備会、京都府我学連、九州学連−中核派.社学同.社青同)が有力私大の自治会を足掛かりに胎動を見せ始めていた。民青同系全学連が一部の国立大学と地方大学を中心に組織化しつつあった。この年は京大.東大.早大などで民青系が大きく伸びていくことになった。

 1.9−10日、全学連(民青同系)第二回中執会議、機関紙「祖国と学問のために」復刊・第二回全国学生文化会議の三月開催等を決定(30日「祖学」復刊第一号)。


 1.11−12日、全学連(革マル系)第三十九回中央委〔東京〕。


 1.28日、都学連再建準備委・東京地評青婦部・社青同共催・日韓会談粉砕全都労働者学生総決起集会〔日比谷野音〕、学生五百名参加して八重洲口までデモ。


 1.30日、全学連(民青同系)の下部組織としての都学連結成のため東京都学生戦線統一連絡会議結成、三十五自治会代表参加、六月結成を確認。


 1月、慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発した。一挙に3倍近い学費値上げが慶応大生を立ち上がらせることになった。1.30日、「初の」全学無期限スト突入。2.5日終結したが、これが学費闘争の先駆けとなった。この経過には高村塾長の「現在の学生に対する値上げではない。お前達には関係無い」という論理での強権的な遣り方が憤激を促したようである。


 2.1日、都学連再建準備委、原潜第二次佐世保寄港に緊急抗議集会〔日比谷公園〕。


 2.2日、都学達再建準備委、原潜寄港に緊急抗議集会〔日比谷野音〕、五百名結集し外務省に向かおうとして機動隊と衝突・七名逮捕、民青同系千名、国会請願デモ。


【第4インター第1回中央委員会】

 2.3日、西派(革共同関西派)は、最盛期には千名のメンバーを誇っていた三多摩社会主義青年同盟を実質指導していた太田派(ICP)とともに革共同を再統一し、第四インター日本支部を発足させた。

 2.28日、第4インター統一後3ヶ月、第1回中央委員会が開かれた。太田は、次のような議案を提出した。

 「ついに二月七日、米帝国主義は北ベトナム爆撃を開始した。『世界革命』は次のように書いた。『現瞬間の世界情勢の特質は、主導権が米ソから、中国を中心とする植民地革命の側に決定的に移行したという点にあると我々は判断する。これは劇的な一瞬である』。まさにこのような瞬間にこそ、単一の、最高に緊密に団結した、強力な中央指導部の指令のもとに一体となって闘争する革命的前衛党の現存こそが、はかり知れぬ重大な意義を持つのである。このことを予測したがゆえに、我々は六三年秋以来、単一の強力な日本支部の建設を一刻も早く実現したいと、心血を注いで来たのだ。

 我々は二月二十八日、単一の日本支部をついにかちとった。我々は辛うじて間に合ったのだ。我々は危うくも間に合ったのだ。いま始まりつつある政治的激動=均衡の崩壊=革命前的情勢への発展の中で、階級闘争全体の主導権を掌握すべき部隊として、まさに時間切れ寸前にすべり込むことができたのだ」。
 「我々の今日的課題は、現実に日本の労働者階級を導いて政府危機を発展させる政治的機動を実施することである。我々はそれを拠点地区において、拠点単位において、ようやく、端初的形態においてではあるが始めようとしている。我々はゆっくりと構えていることはできない。評論家的に外から眺め、無責任な、高踏的な論評をして満足していることは断じて許されない。我々はいま、まさに時々刻々、革命的前衛としての価値それ自身を問われている」。
 「米軍がダナンに原子砲を配備したという事実は後のワシントンの見解(戦局の焦点はダナンに移るとする見解)と結びつけるならば、恐るべき爆発的な事態が次の一、二ヶ月のうちに展開されるであろうと我々は判断しなければならない」。
 「我々は次の数ヶ月の階級闘争の激化の中で、六・一五をはるかにのりこえるような敵権力との暴力的衝突を指導し得なければならない。 街頭での衝突と、『生産点での闘い』とは正しく弁証法的に統一されなければならない。『労働者階級』がゼネストを整然と打つところ迄成熟し、しかるのちに十分に準備された武力闘争が展開される、というような図式主義を断固として克服しなければならない。労働者は逆に街頭で直接に国家権力と対決する闘いを通じて、企業をこえた=個別資本への憎しみをこえた階級意識へ飛躍する。だからそれが次には企業をこえた政治スローガンのためのストライキの意識を成熟させるのである」。
 「我々はベトナム侵略反対闘争に立つ。アメリカ大使館への抗議行動を市街戦へ転化させねばならない。そして更に米軍基地に対する実力行動のイニシアをとらねばならない」。

 一中委議案は、採択されなかった。東北と関西がこれに反対し、東京は、旧JRをふくめて、議案の立場を基本的には支持したが(東京の旧JRは、街頭行動とストライキの関係についての太田の方針にたいしてだけ保留した)採択に付さず、方針としてはこの内容で関東が実践にうつすことに同意することで妥協が成立した。

 一中委譲案は、数日後に予定されていた三多摩での基地闘争について、同盟の機関決定を得ようとするねらいを、直接にはもっていた。この闘争は五月十八日に行なわれるはずになっており、日本の反戦闘争の新しい地平――米軍と日本の大衆の直接的衝突を切りひらく目的で、立川基地にむけて計画されていたのである。つまりこの議案は、三多摩社青同運動の政治的頂点を意味していた。六三年以降の政治的突出の最高の地点が、五・一八の半武装デモであり、その理論的裏づけが一中委譲案であった。もちろん旧ICPグループは、機関決定にはこだわってはいなかった。しかしこの闘争の成功をテコに、同盟全体を太田路線で獲得していこうとする意欲を議案は宣言していたのである。闘争にむかって、三多摩社青同の内外における政治的緊張は、増大していった。警察権力、社民官僚、同盟内部の論争、そして新たに、社青同東京地本を中心の舞台とする、社会主義協会派との分派闘争がはじまっていた。


【アメリカが本格的な北爆を開始する】
 2.7日、南ベトナム解放戦線が、南ベトナムブレークの米軍基地を攻撃、米兵7名が死亡、多数が負傷した。アメリカは報復戦に乗り出し、以降北ベトナム爆撃(北爆)が日常化した。最初、南ベトナム政府軍の顧問団として、ベトコンにたいする戦闘を展開していたが、北ベトナムにたいして直接的な攻撃をはじめた。アメリカは南ベトナムに地上軍を増派して戦争を拡大させていく。

 2.10日、社会党・総評系の原潜寄港阻止中央集会〔日比谷野音〕に三派連合五百名結集、のちデモで機動隊と衝突・三名逮捕、有楽町駅で坐り込み。


 2.15日、2.17椎名訪韓阻止全都決起集会〔法政大〕、マル戦派五百名結集(16日東大教養に泊り込み)。


 2.17日、都学連再建準備会を中心とする学生が椎名訪韓阻止羽田現地実力闘争に600名参加。東大教養・早大に泊り込んだ三派・革マル系七百名が早朝より羽田街道で機動隊と衝突、39名逮捕・百数十名負傷。


 2.24日、大阪共青、民学同との統一を発表。


 2.28日、民青同第九回全国大会〔世田谷区民会館〕。


 共産同マル戦派・ML派・関西共産同・革共同全国委・長船社研の五団体で日韓会談反対闘争協議会結成。


 この春の京大同学会自治会選挙で民青同系が執行部を掌握した。 民青同系は、3月段階で82大学174自治会を押さえたと報告されている。


 3.28日、新三派(中核派・社学同統一派・ML派・社青同)が全学連結成に向けて全国自治会代表者会議開催。


 3.5日、日韓会談反対闘争協議会主催・日韓会談粉砕労働者・学生決起集会〔中労委会館〕、マル戦派系五百名参加。


 3.5日、民学同全国大会開催、層としての学生運動の指導的中核部隊″と自認、組織強化方針等を決定。 


奥浩平自殺
 3.6日、椎名訪韓阻止羽田闘争で、機動隊により鼻硬骨を砕かれて入院し、退院後10日目、中核派の横浜市立大生・奥浩平がこの日自殺した(享年21歳6か月)。都立青山高校2年の頃、樺美智子の死に影響を受け安保闘争に参加する。横浜市大入学後は革共同の活動家として活発に闘争に加わる。その後の革共同の分裂の際、奥は中核派(1963.7月、マルクス主義学生同盟中核派加盟)、早大生の恋人は革マル派に移行し組織の対立から引き裂かれることになった。

 1965.2.17日、椎名悦三郎外相の訪韓阻止羽田闘争の際に警官隊に警棒で殴られ、鼻硬骨を砕かれ入院することになる。退院後、致死量をはるかに超えるブロバリン(睡眠薬)を服用しカーネーションを握り締めて自室で自殺した。1965.10月、死後刊行された奥の遺稿集「青春の墓標」(文藝春秋社)はロングセラーとなった。劇作家のつかこうへい(1948〜2010)のペンネームは、奥の名から借用したという。 

 3.7日、アメリカが地上部隊を投入し、南ベトナム全土で米軍主体の本格的な戦闘を開始した。以降、投入兵力が急増し、二年後には50万人を超えることになった。


【ML派の一部と独立派の共同による社学同統一派結成】
 3.13日、社学同第六回都大会が開かれ、64年にマル戦派、ML派、独立派、関西派に4分解していたが、東京社学同が、ML派の一部と独立派の共同による社学同統一派を結成する。統一は、その後労働者グループを加えブントの統一推進フラクを形成する。統一派に参加しなかったML派の一部は毛沢東主義への傾斜を深めていき、68年にML同盟(学生解放戦線)を結成する。

 3.17−18日、社青同第1回学対部長・学生班長合同会議、内部対立公然化。


 3.19日、第2回全国学生文化会議が開かれた。


 3.26日、都学連再建準備委、日韓会談粉砕で米大使館・外務省に抗議デモ。


 3.26日、マル戦派、社学同全国委結成(委員長・須田桂一)。


 3.26日、ベトナム侵略反対・改憲阻止・春闘勝利全国青年婦人学生統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に民青同・全寮連千名参加、八重洲口までデモ。


 3.28日、共青都学生委・大阪学生委と民学同全国委で単一学生同盟結成のための全国代表者会議開催〔大阪〕、平和共存・反独占民主主義をめざす単一学生同盟結成を決議。


 3.30日、都学連再建準傭委・京都府学達主催・日韓会談粉砕・ベトナム侵略反対全国総決起集会〔法政大〕、構政派を除く反日共系各派参加、中核・マル戦派は七月都学連・全学連一挙再建を主張、革マル派反対で紛糾、日韓・ベトナム・原潜で共闘を決議。


【社青同解放派が結成される】
 3.30日、社会党の青年組織である「社会主義青年同盟」の戦闘的分子分派が社青同解放派を結成している。この頃社青同学生班協議会は、 東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されるという経過となった。社青同解放派は、その後67.10月、政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、同年12月、傘下の学生組織として反帝学評をつくることになる。(社青同学協班内分派として解放派結成(4月10日機関誌「解放」創刊))

 もともと社青同は、日本社会党が60年安保闘争後に、学生パワーに目を付けて党の若返りをはかって創設されたものであるが、ここへ戦闘的な過激学生がどんどん加入してきて、社青同内部で解放派を結成したというのが史実のようである。解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。「社青同解放派」は、その後政治団体として「革命的労働者協会」、傘下の学生組織として「反帝学評」を結成する。

 3月、山陽特殊鋼が戦後最高の500億円の負債をかかえて倒産した。


 4.3−4日、全学連(革マル派系)第四十回中央委〔東京〕。


 4.7日、都学連再建準備委が。日韓会談粉砕・ベトナム侵略反対決起集会〔清水谷公園〕に250名(400名ともある)結集、デモで米大使館に向かおうとして機動隊と衝突、4名逮捕。


 4月、アメリカで、ベトナムからの撤退を要求する反戦運動が盛んになっ。この日、ワシントンで1万人の反戦デモが行われ、「ベトナム即時停戦、米軍撤退」が叫ばれ、各地で反戦デモが拡大していった。ベトナム反戦と並んで、人種差別に反発する黒人暴動も発生した。


 4.13日、高崎経済大で、「有力者の口添えと地元優先を理由に無試験入学」させる大学当局の遣り方に反発した学生が、不正入学反対無期限ストに突入している。


 4.15日、全学連(民青同系)主催・インドシナ侵略反対・日韓会談粉砕・大学の危枚突破全国統一行動、中央集会〔芝公園〕に千名参加、日比谷公園までデモ。


 4.16日、都学連再建準備委、日韓会談粉砕・ベトナム侵略反対全国総決起、中央集会〔芝公園〕に千名結集、特許庁前坐り込みで十二名逮捕。


 4.18日、日本平和委・原水協等主催・ベトナム侵略反対・日韓会談粉砕統一行動〔日比谷野音〕に民青同系三千名参加。


 4.22日、全学連(民青同系)ロストウ来日阻止羽田デモ、空港内ロビーで3000名動員し「ロストゥ帰れ」デモ。機動隊に排除さる。


【「ベ平連」結成】
 日本政府は、アメリカのベトナム戦争を支持し、ベトナム戦争のための在日米軍基地の使用を認めていた。国際的な反戦機運のなか、最大の補給基地である日本においても、大衆的な反戦運動が当然高まった。

 4.24日、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合、10月にベトナムに平和を!市民連合に改称)が初のデモ行進。 発起人は、小田実、鶴見俊輔、開高健、掘田善衛、高橋和己・篠田正浩など。事務局長古川勇一氏。ベトナム戦争反対、既成政党や組織に属さない無党派市民による反戦平和活動組織「べ平連」を立ち上げ、清水谷公園で集会が開催された。この頃から セクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。 

(私論.私観) べ平連運動の評価について

 このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信している ことが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。

 ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「『正』成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「『負』の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえた筈の見識であったと思われる。

 とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の「一般市民参加型」運動の限界ということになるのであろう。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。


 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め、「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系、民青同系、新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。


 4.26日、社会党・総評系のベトナム侵略反対統一行動に呼応して反日共系各派2千名、日比谷野音に結集、特許庁前坐り込み、夜千名が労働者とともに特許庁前で椒動隊と乱闘、25名逮捕。


 4.28日、都学連再建準備委、日韓会談粉砕・ベトナム侵略反対全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に千名結集、清水谷公園までデモ・二名逮捕、全学連(民青同系)統一行動、中央集会〔芝公園〕に千名参加、米大使館前で四・二二デモ指揮者一名逮捕。


 4月、関西社学同の塩見孝也氏が統一ブント系社学同機関誌・赤光に「政治闘争、社会政治闘争−第三期学生運動論」を発表。「「関西ブント」/赤軍」がサイトアップしており、転載しておく。
政治闘争、社会政治闘争―第三期学生運動論

 (1)現在二つの集会が開催され春の大衆Mの基調を形成しようとしている。

 一つは京都府学連―都学連再建準備委員会主催の八・二〜三グループによる日韓闘争を基軸にした全国活動家集会(三・三○・東京にて)であり、いま一つは全国大学生活協同組合連合会の招請による教育環境ゼミナール(三・二四、二五、二六)である。後者は一昨年以来昂まってきた学内諸闘争を集約し、Mの全国的連帯を回復しようとするものである。
 
 日本資本主義の対外政策に対する闘いを、他方での学生の社会生活から呼び起こされる学内闘争を、如何なる方向性でもって統一してゆくかは活動家の現実的な問題になりつつある。しかもこの両闘争がどちらかに一面化されていく傾向は情勢の複雑さそのものに起因している。東京の新左翼諸派の日韓闘争による一点突破全面展開方式に要約される指導性を支える認識の根底には、昨年全自代の諸発言にも見られた如く、日本資本主義の過剰生産の成熟→ 四・一七への発現→その流動の延長としての原潜闘争の巨大な流動化H=即ち職場での危機の発現と政治闘争へのナダレ込み→階級闘争の昂揚というモチーフが存在する。それ故にこそ、彼等は諸学内闘争を自治会の任務として設定することは出来ても、その闘争に独自的な政治性を発見することに失敗している。極端に言い切るならば学内諸闘争の切捨て、ないしはその闘争の政治闘争への利用の域を出ていないのである。

 他方教育ゼミを主導する共青―フロントの諸君は、言うまでもなく彼等の国家独占資本主義論―国家論からの学内の構造改革のhegemonyの確立→市民社会の影響→政治闘争という考え方をもっていることは衆目の一致するところであるが、それが極めて現在の局面―― 政治闘争がダイナミックな発展性を有しない限界性と学内闘争の昂揚―に照応しているが故に彼等は学生M の新たな発展の芽を学内闘争に一元化しようとしている。だがこのことは、東南アジアの危機を軸にした国際的な反革命と日本資本主義のそれへの協調政策とこの外交政策粉砕の闘いによる日本資本主義の心臓部での矛盾を暴露することから鋭角的な政治意識の形成をネグレクトすることになる。更に学内闘争の限界性は今後の政治過程へ大衆を参加せしめることに失敗し、学内主義に転落してしまうだろう(現在もそうかもしれないが)。しかもこのことは極めて重要であるが、現在の学内闘争は彼等の信ずるドグマを受け付けない性格のものである。このことについて後程述べる。

 現在米帝国主義を軸とした国際的反革命連合群の動向は、イギリス、日本などの交渉― 中立化要請を押し切った米帝によって、一九度線を越えて北べトナムの侵略を意図するものにかわりつつある。更に日韓会談はこの流動に対処する米帝、朴政権の早急の要請として日本ブルジョアジーを突き動かしている。日韓会談の急速な進展は参院選挙を迎えながらもそのテンポは変わらないだろう。

 他方高度成長政策の生み落したインフレ、そして労働者階級の労働強化―合理化―賃金抑圧、更に中小企業、農民の危機は巨大な社会不安を捲き起こし 、社会生活闘争とも言われる性格のMを提起しつつある。

 我々が遭遇している所の春からの政治闘争―学内闘争とは、正に前者が上記の状況への対応として、後者が上述の社会生活闘争の外延的表現としての、"闘争"への対応として現われている。

 労働評論家、清水慎三(『現代の眼』三月号「独占の国民支配と革新勢力」)は、「いまの世界のいまの日本の中では、革新政治指導にあたる人達は一方では国際情勢に機敏に対応して街頭行動を組織する力量をもつと同時に、他方では国家独占資本主義の政治的経済的文化的支配の全戦線にスキ間をあたえぬ戦略配置を行って持久戦を遂行する両面の備えが必要である。そして通常の場合、この二正面の闘いには機械的に結合できない独自の領域があり、そこに目論上のむずかしさがあると同時に、そのこと自身が"いまの世界"といまの日本の統一的把握を鈍らせ、闘争の全面展開を可能にする戦略的環を見失なわせる危険が常に伏在することに十分注意しなければならない。またそのことは政府危機が体制の政治危機に発展する日本的条件を見究める習練ともなりうるのである」と、彼の"反米社会主義革命"の戦略目標はともかくとして、いみじくも政治闘争と社会政治闘争との統一した指導の難しさと情勢の複雑さを鋭く指摘している。

 我々は東京の新左翼諸潮流の諸君の如く現在の情勢(主体的な問題まで含めて)を評価するわけにはいかない。更に現在共青―フロント、新左翼諸派、総じての学生M の政治諸潮流に共通していえることとして、昨年来我々が指摘した第二期階級闘争の解体と再編、そのことを引き起こしている所の日本資本主義の推移とそこに生起する諸階級―諸階層の第二期の矛盾から第三期への矛盾の変質と新たな高度でかつ深い矛盾の形成に対応しての第三期の指導性の創出に対して全く無認識―無思想状況であることである。

 このことに適応するところのM の指導性は、共産主義者同盟―安保全学連の立脚したところの永久革命論そのものの否定を通じてこそ獲得されるべきものである。

 「周知のように、旧国際派理論による八中委九大会路線は現実の階級闘争の中で労学提携と先駆性理論を内容とする転換路線へと転化したのであった。そしてその過程は同時に、学園フラクが永久革命論の徒となる過程であった。何故ならばこの段階における学生M は戦闘的街頭行動として展開され、かつ労働者階級のM も又、生産性向上=合理化にみあって、合理化に妥協し、若干の賃上げを資本の許容する範囲でかちとるという経済闘争と、そのような経済闘争の弱さを補完するものとして街頭的政治闘争として展開され、かくして労働者と学生が『市民』 として平等に街頭上で共闘するというスタイルが存在していた。そして学生は、この労働者階級の弱さに対して、街頭行動を徹底化させることによって流動化をもたらし、もって権力に肉迫しようとしたのであった。しかしこのような闘争をいかに徹底化してみても、街頭行動に止る限りは真の労働者階級の姿を見せるものではない。にも拘らず、このような街頭上の徹底した闘争は労働者階級に権力の実態を部分的であれ、バクロし、M の飛躍を形成することができ、更に生産点での闘争に還流する可能性を有していた。ブンドがめざしていたものは、正にこのような形のM の発展であった。つまり市民的政治闘争の中での最左派(小ブル急進主義=ジャコバン主義)のへゲを連続的にプロレタリアートのへゲモニーに移行させようとしたのであった。これは正に永久革命論であった」(『戦士』No.5主張「第三の転換点と我々の課題」)。しかしこれ等の永久革命型のM は五○ 年代の市民的政治闘争と戦闘的組合主義の全面開花としての安保―三池闘争での敗北でもって終熄し、組合主義一般の、小ブルジョアジー一般の、市民主義一般の敗退に連なったのであった。この敗退を契機にして、五○ 年代中期以降進行しはじめた生産性向上と合理化と職制支配の強化は成熟し、資本による労働者の分断と縦断的縦深的な職場の末端までのおそろしく細分化された現場末端体制を量産し、それを軸に企業忠誠・企業奉仕集団をかき集め、他方で疎外された大群の「職場要求」を分散させて「階級的統一」に厚いカベを築く結果として、「政治的無関心層」の作為的進出をはかる等々密度の高い新タテ割り体系が続々と作り出されてきた。更に新工場建設も地域住民の利害関係を分断し、古い地域社会を寸断し、「縦割り」地域創設を行ない、しかも資本の市民社会への直接の支配は、直接雇用する労働者だけではなく、広汎な諸階層の中に現在の利害と将来の生活設計を武器にキメ細かい支配領域を造出した。

 このような労働者階級の縦深的分断支配と市民社会の資本の直接支配の進行は、総評民同の組織的弱体化と資本への協調策としての全労化、社会党―護憲完全実施の空洞化と民社―同盟会議の一体化を生み落とし、永久革命型の母体である全学連―総評―原水禁の市民的ブロックの解体を余儀なくされた。

 一見資本の堅固な支配体制が確立されたかの如くあった、かかる支配の様式の中から、労働者階級―諸階級=諸階層の新たな矛盾の累積が同時的に形成され、それはインフレ、労働強化=合理化、基底部分の過剰生産として顕在化し、更に中小企業、農民の危機を呼び起こし、昨年四・一七の経済闘争に等質性をもった社会―経済政治闘争が展開され始めた。

 我々の永久革命型のM の止揚という問題意識は、ブンド残党の労働M への介入という方向で模索され、他方学生M の指導の実践性の中で追求されてきた。

 市民的ブロックの解体は直接的に学生M の先駆的機能の喪失とその裏返しとしての学生M のダイナミックな発展を疎外させてきた。

 かかる全国的―全社会的M から地域的―分断的M への停滞状況故に大衆の政治意識が分散化され、稀薄化している間隙を突いて、資本の支配の願望と対外競争能力強化に対応すべき大学の直接支配を基軸にしての攻撃は学生大衆を体制内化させてきている。

 にも拘らず、かかる停滞状況を突き破っての一昨年以来のゆるやかな"新しい波"の昂まりが確認される。

 日韓―原潜に見られるM の一定の昂揚は、日韓情勢の激動に対応せざるを得ない日帝の対外政策の急速な進展にあり、それは安保以降停滞した左翼部分の大衆を結集させるのに一定程度成功させた。
 
 しかし注目しなければならぬのは、かかる政治闘争がいまだ全大衆のものになり切らず、左翼と大衆との間に分断状況が存在することである。

 そして原潜闘争で明らかになった如く、一○・二四全国闘争が啓蒙のM として全国的に展開されながら、実力闘争の局面突入の突破口としての一一・七横須賀闘争が契機となり、それが大衆を一段高い段階へ引き上げ、合わせて原潜寄港阻止の現地闘争が大衆の参加を迫るものが、それは部分的な流動を生み出したにとどまり、全体としては無関心から批判的でさえあった。我々は批判的であったことをことさらに取り上げて横須賀闘争を批判する気はさらにないが(何故なら一一・七闘争はあの局面において断乎として推進されねばM の突破口は要請されなかったから)、問題はかかる批判的な部分まで捲き込んで、そのことを通じて実力阻止のM を展開させるだけの、我々の主体的展望がどこにも存在しなかったこと、そしてM は一一、一二、一三と縮小再生産され、一九日、二七日と日を追うごとに大衆はM から遠ざかっていった。この闘争の過程で確認されねばならないのは一貫してM に連続性と発展性が喪失し、言わば戦術の連続的徹底性の中で権力に肉追していくところの生産力は全体として不在であり、活動家は闘争の環を追う毎に大衆から分離し、官憲の集中的弾圧を受け分散化させられていったことである。

 京都では東京と相違し大衆的自治会機能の実質的な保持の上に展開されたが故に、かつ京都という地方性も加えて、M の発展を追う毎に大衆と活動家との分離が現出し、空洞的状況が生まれた。

 最早一個の戦術の鋭角的な展開によって学生大衆をも集約し、合わせて労働M への影響を与えるという戦術が即ち永久革命型の指導性がM の局面において必要にも拘らず有効性を喪失していることをはっきりと物語っている。そのことの裏面には、勿論政暴法闘争以降初めて社会党―総評がハッスルし労働者階級の流動が形成されたとはいえ、安保以降の労働者階級の権力の支配の強固さを物語ることが指摘されねばならない。

 だがこのことを確認したところで、何ら解決の方向にはならない。"先駆性理論を放棄するか否か"等の不毛な論争を断ち切って、さしあたって我々が確認しなければならぬのは、先駆性の有効性は喪失したものの、その先駆的能力は喪失しておらずこれを徹底的に追求すること、更にそのことによって"空洞化"した状況を生み出さないだけの言わば街頭闘争を支える大衆の後方からの支持を獲得するところの現実的方策である。

 このことは単に技術的対応によって切り抜けられるものではなく、我々のM の指導性=永久革命型のM の止揚としての思想的立場の確立にある。

 東京の諸潮流の諸君にはこのような認識の欠如とそこからくる政治闘争を後方から支える大衆の支援のない単純な永久革命型のそれも"焦り"の表現としての、単に街頭闘争至上主義の矮小化した日韓一点突破全面展開方式は早晩矛盾が押しよせてくることを付言しておこう。

 そして他方での新しい波を構成するM は学生大衆の基底辺から立ちのぼってくるところの学内でのM である。

 本年一月の東京でのバス代値上げ反対闘争に参加した東京都下一○万人に及ぶ"歩け歩けM"、そして慶応大学のほとんど全大衆を捲き込んだところの授業料闘争、そして静大での試験中にも拘らず一見些細にも見える寮の炊事婦の生活負担問題が学生大会からストライキにまで発展した一連の事実は、一昨年以来の全国的に分断されて展開され続けてきた学生の社会政治闘争が新たな局面を画し始めたということである。

 これ等に共通なことは大衆的な性格を帯び異常な生命力を持っている事実である。

 このような学生大衆の一連のM は深部に労働者階級の労働強化―人口理化―賃金cutに及ぶ生活難とInfla による収奪の二重の生活への圧迫の外延性としての学生の生活の危機を基盤に置くものの直接の契機は、大学の工場化とも言われるべき教育資本或いは文部官僚・教育官僚と独占資本の癒着による資本の学問研究の直接の利用とそれを通じての学生大衆の体制内化と適切な労働力の生産を目的とする独占資本+教育資本(或いは文部官僚)の工場の職制支配と賃金抑圧に匹敵する所の学生の資本、国家の直接の掌握と収奪の政策に対しての学生の不満の累積が教育行政政策と収奪政策に対して爆発しているのである。

 従ってかかる闘争は今後構造的に再生産され、社会的性格を有するものであり、言わば一九五○年代の教育二法(五四)教育三法(五六)― 勤評(五七―八)― 大管法(六二)に見られる、戦後階級闘争の昂揚の中で勝ち取った憲法と教育基本法の理念に表現される、大学制度の一定の進歩性と独自性に対しての国家権カの丸抱え的なる反動的文教政策に対する憲法理念を対置したM ではなく、このような性格の闘いは五七―八年頃から始まり六二年頃から全面化した大学の資本の直接支配と合理化―職制支配ともいえるべき大学の支配体制の変化より起ったものであり、言わば資本の政治的攻撃と経済的攻撃が一体化して展開され、それへの学生の政治的経済的対応も一体化して対応するが故に、そこでの対決は明確な資本の存在を意識させていくのである。このような闘争は正に社会政治闘争とも言えるものである。このような資本と学生との対応関係の中で学生の意識は自己の現在―未来に亙って資本主義社会そのものの評価が不断に直接的に問い続けられる。

注 五〇年代の学生の政治闘争、経済闘争(余り存しなかったが)への関わり合いは、資本主義を前提的なものとして認識し、その上に立って資本主義の諸矛盾=その総体としての労働化に対し、「民主主義防衛」闘争を展開した。そのことは資本主義の復活期での余裕と市民としての政治行動を許しながらも全体として統治していく資本主義の深化の段階であった。又労働者の反応もそれに等質性をもつ組合主義的労働Mの枠を置いての経済闘争―市民としての政治闘争であった。

 それ故にこそ労働者階級の、"企業意識"と等質性をもつ意識が存在し、その意識を乗り越えることによってこそ初めてこれ等の社会政治闘争は実質的な勝利を勝ち取ることが出来る。これ等の闘争の性格は労働者階級の反合理化―賃上げに等質性と類似性をもち、労働者階級の場合それが主体の未形成故に合理化のシワ寄せとして片面的に経済闘争にのみ現われており、階級関係のブルジョア的総括としての国家の総資本的立場からの諸階級の抑圧政策への闘い=政治闘争に対し分断され、かつ賃上げ、合理化過程からの一元的な闘いの発展としての政治闘争は大衆的闘争として潰滅に近いが学生M の場合はいまだ自治会のhege.の強力さ故に資本の直接的な一体性をもった政治的―経済的攻撃に対してそれを結合して闘う力量を有し、更に学内政治経済闘争の等質的な反帝性を政治闘争に於ける反帝性と統一して大衆に認識させることが出来る。

 先程から提起しているところの永久革命型の指導性の、否定の否定としての止揚の問題は、現在的にはこれ等の社会政治闘争的な学内闘争と日韓阻止、ベトナム戦争反対の政治闘争との統一した指導性と大衆の中での内在的に統一された反帝の政治意識の形成を問われ、そのことは、先駆性理論の有効性の喪失の中でも先駆的な政治闘争の展開過程でも後方の大衆の中での空洞化と分離を克服し、全体としての政治的集約の可能性を開示しているのである。

 勿論、現在に於て、これ等政治闘争と社会政治闘争が現実的に結合し、政治闘争から社会政治闘争へ、社会政治闘争から政治闘争に発展融合する等と馬鹿げたことをいっているのではない。ただ今後の大衆の中での政治的へゲモニーの確立は社会政治闘争を抜きにしても、又政治闘争を捨象しても語り得ず、両者の独自的な徹底的展開と両者に存在する反帝性が両者の独自的徹底性を抜きにしては形成され得ないのである

 この問題は、本質的に革命的昂揚期に於けるグラムシやローザが遭遇したところの現代革命の「改良と革命」の統一した指導性の確立の内容を提起している。

 さてこの問題に対しての統一した原理的構成の試みについては最後に述べることにして、これ等の政治闘争、社会政治闘争の根底に於ける連関性とその等質的な反帝性の存在を情勢を概括することによってみてみよう。

 ( 2 )情勢に入る前に日共や東京の新左翼諸派の日韓一点突破全面展開方式に於ける情勢評価の基本的過ちを付言しておこう。

 「確かに鉄鉱・造船・石油・化繊・セメント・電機等ほとんどあらゆる分野で過剰生産がいちじるしくなり、そろそろ減産体制への切り換えが動き始めているのが現状だから」(経済セミナ「破綻に近づく日本資本主義」大内力)等の指摘するのは事実である。それは相当の日本資本主義の行詰りが、だがそのことをもってして日共の如く過剰生産恐慌論から直線的に展開し「資本主義世界体制の腐朽と衰退の深化」(『前衛』3 月号)に結論する事態ではない。花形産業部門にみられる設備過剰―在庫増加の問題は事実上存在し、更にたとえば耐久消費材部門の五八年以後投資率三○%台を続けてきたものが六四年には九・一%になっている。しかしこれ等は総資本からみれば景気寄与産業としては斜陽化した存在の処理の対象でしかない。

 日本国家独占資本主義はそのなし崩し的な労働者階級の分断的縦深的支配と総評民同の全労化から一躍民社―同盟会議を育成することによって解消しながら次の景気主導産業を開発することに乗り出しつつある。政府中期経済計画の主たる意図は重化学工業部門及び住宅建設部門を経済発展の主導部門として、体制が着々として推しすすめられ、いわば「社会開発」はこうした次のブルジョア的発展の政管理論である。中期経済計画は単に高度成長路線の継続による中央突破(力石定一)だけであるのではなしに、その「ひずみ」部門を企業の自己責任によって押しつぶしながら新経済体制をねらうところのものである。民間資本に対しては、生産過剰とシェヤー競争に対して、減税し、社八万開発をたてに、公団、事業団の拡充、行政機構の大規模化とならんで利子補給制度の確立を軸になし崩し的に建てなおしをはかっている。

 以上でもってしても全面的過剰生産→対外膨張(=資本輸出)、社会的危機の全面化→ 日韓一点突破全面展開方式の評価の過ちは明らかである。

 我々は春以降全力をあげて日韓闘争に取り組むが、だからといって東京の諸君の如く日韓闘争による大衆M の爆発的展開を期待することはできない。我々はかかる鋭角的目的意識的な闘いを展開する過程で日韓闘争、諸政治闘争の積み上げから、日本資本主義の膨張と反革命の諸政策の進行と諸矛盾の集約点としての第三次安保阻止の政治意識の形成をめざすであろう。我々が昨年来指摘した情勢の今後の特徴点として「国際政治経済情勢が国内情勢に直接反映し、更に国内の政治闘争―経済闘争が結合して発展する時代に日本資本主義が突入した」という情勢の把握の根底性は否定すべくもない。しかしそのことを現在の局面に於て機械的直接的に適用することは出来ない。朴政権と米帝からの日韓会談促進の要請、原潜の日本配置等一連の日本ブルジョアジーの対外政策は、深部に過剰生産―設備→海外市場獲得の要求を持ちながら、直接的にはべトナムの流動を基軸とした極東から東南アジアに及ぶ民族解放闘争の新たな流動に対しての国際ブルジョアジーの反革命強化の協調路線から呼び起こされているものである。

 べトナムでのアメリカを支柱にしたところの反革命連合軍の後退は現在の情勢では、いわゆる"将棋倒し"的な民族解放から急速な革命化の方向=SEATO 諸国の危機を招来せしめるが故に、べトナム戦争を環とした戦争は――現在第二次朝鮮動乱の様相を帯びつつあるが―水続的な戦争の性格を示すものである。現在の局面に於て鋭く対外政策を衝き動かしている要因が日本資本主義の内的諸矛盾の直接的全一的解消としての膨張性と東南アジアから極東への反革命性の一体性にあるのではなく、むしろ後者に直接的要因を置いているということは今後展開される対外政策をめぐる諸闘争の性格を決定する。

 後進国に軸を置いた国際的激動への日常の対応に対して諸階級―諸階層は漠然とした社会不安を持ちながらも政治的意識にまで昂まり切れない状況、即ち国際情勢が国内情勢へ反映する場合一定程度分断され遮断されてから、初めて国内情勢に投影する状況―従って大衆の内在的発展性をもちながらもそれが容易にM化されないこと、それ故に急進化した左翼的大衆を把えても全大衆を包括し得ない、極めて局度な目的意識的闘争(一面に於て恣意的な側面をもつ)として展開されざるを得ない要因は、先進帝国主義の市場再編の新たな段階での危機の同時性の回復下での日本国家独占資本主義の矛盾の成熟の段階と支配の様式に起因するものである。

 一九六四年度の情勢は激動の中に展開された。世界資本主義の矛盾の深化と正統派国際共産主義内部の矛盾の激化がその中心であった。この二極のM は各々独自に展開されながらも、内部で深く関連している。即ち国際共産主義M 内部の分裂は、究極的にはまだ完成されていない世界革命によるものであり、特に今日では世界資本主義の関連で展開されている。そしてその世界資本主義は、一九五八年自由化段階への突入と共に、戦後の資本のM が蓄積してきた矛盾を顕在化しつつある。国際通貨制度の危機にその矛盾は集約されている。ドル危機から始まり、ポンド危機に至る国際通貨制度の危機は、結局は戦後世界資本主義の発展の結論である。

 アメリカに対するEEC諸国、日本の劣勢挽回、そこでの世界資本主義の不均等発展は要約され、その生産力=競争力発展により、アメリカからの金の流出、ドル危機が顕在化した。国際通貨の崩壊とは何か。それはブロック経済を意味し、国際貿易の決済機構の破壊を意味する。侵略的な植民地政策とその上でのブロック経済が僅かに生産の発展を支え、植民地市場の争奪をかけて帝国主義戦争がその特徴である。そして国際経済は広域性にかけ(アメリカを除いて)インフレーションを必然化させ国内市場を狭める方向に働く。階級情勢の激化は帝国主義戦争に対する闘いとともに、革命闘争に発展する。

 以上の如き歴史的な論理をもつ国際通貨制度の崩壊に対し、今日の兵器の発展(生産力の発展)ともあわせて、国際ブルジョアジーは商品競争と共に協力をも支配の手段とせざるを得ない。国際的な国家独占資本主義の機構、それがIMF に集約され、通貨制度の危機を引き延ばそうとしている。にも拘らずポンド救済がEEC諸国にとり、自国へのイギリスの競争力強化を招くとあっては、この協力は、その本質にはずれる苦痛に充ちたものとならざるを得ない。国際通貨制度の危機は、はげしい内部矛盾をもっている。

 このような世界資本主義の苦痛に満ちた矛盾の引き延ばしは、各国の国家独占資本主義の基本的特徴になっている。即ちそこではなし崩し的な矛盾の顕在化により階級的激突が一点に集約することをずらせる国内統治がとられている。にも拘らず世界資本主義の弱い環=慢性的国際収支の赤字及びインフレに悩む後進国にとっては、このような矛盾の引き延ばしは不可能である。民族ブルジョアジーによる民族国家の樹立も容易に安定されず激動の中にある後進諸国は、帝国主義諸国間の支配の圧力故に「南北問題」といわれる如き世界的な底辺としての問題を抱え、世界的な階級闘争の激動の中にある。かくて現段階における階級闘争は、これ等後進諸国と国際独占体のなし崩し的政策のもたらす矛盾の集中的な爆発点、各国内部における後進部分とに顕在化している。アメリカの黒人の闘い、東南アジアの闘い、フランス農民の闘い、日本の中小企業、或いは石炭産業労働者の闘いなどが同一軌道にある。

 以上の如き世界的な資本主義の弱い環に於ける矛盾の顕在化と階級闘争の発展は現在ますます広がりつつある。例えば日本の例をとっても、現在の中小企業の倒産、農業問題の深刻化は、すでに社会不安として種々に政治過程に反映している(公明党の結成など)。だが、我々が現在の階級闘争の中軸を見通す視点は、単に以上の如き弱い環にのみあるのではない。それは恰も自由化段階への資本主義の突入のもたらした、世界的な階級闘争の昂揚(必ずしも経済的危機とは結合していなかったところの、即ちフランスのアルジェリア闘争、反ドゴール闘争、イタリアの反ネオファシズム闘争、ベルギーのコンゴ問題と全国的ゼネスト、日本の安保闘争など)に匹敵するような世界的な新たな階級闘争の昂揚にこそある。

 今日の世界資本主義を共通して貫く矛盾は、クリーピング・インフレーションと呼ばれる、なし崩し的なインフレ政策が与える労働者人民の圧迫が無視しえぬものになっていること、他方国際競争への対応がもたらしている労働強化による圧迫の増大、更に部分的に顕在化しつつある過剰生産である。このような基本的な諸矛盾と他方での弱い環の矛盾とが結合するとき国家独占資本主義のなし崩し的政策は重大な困難に陥るだろう。かかる矛盾へと引火する階級闘争が昂揚するということは、それが国際通貨体制に直結する時、全世界的に波及する矛盾の顕在化という展開をすらもつものである。

 ならばかかる基本的な諸矛盾と弱い環としての後進部分のM (後進国、国内をとわず) を結合させ、国際通貨危機に直結させる展望は、現在の日本階級闘争に於て如何なる内容として認識されねばならぬのか。

 (3)国家独占資本主義の基本矛盾と後進性からくる弱い環の矛盾との結合の深化は、国際通貨危機を招来させ国際的な階級闘争の展望を切り開く可能性を有していることを指摘したが、にも拘らず顕在化しつつある過剰生産等これ等諸矛盾に対する闘争は、まだ部分的にしか現われてきていない。否それのみではなく、独占ブルジョアジーの支配は、この部分的な闘いに対して全面的な労働組合の体制内化、抱え込みの政策を推し進めてきたのである。巨大企業に対する巨大組合の対応の中で、露骨な資本弁護論的な労働組合幹部が育成されてきた。新たな闘いの担い手は、これ等官僚的幹部との闘いを通じてのみ登場しようといっても過言ではない。

 国内的な、国家独占資本主義の支配の強固さは、今日の矛盾を国際的な舞台においてのみ顕在化させている。日本における国内独占の支配体制もこの例外ではない。

 昭和三○年代の設備投資を中軸とする日本経済の高度成長は、同時に民間大企業の労務管理(近代化)の確立であり、労働過程に於ける職制を通じての資本支配の強化であった。この内的体制をもってしてはじめて勤務の二交代制、フル回転の高度成長は可能であった。日本の独占ブルジョアジーが安保闘争の昂揚を、既成指導部の無指導に助けられながら乗り切り、直後に所得政策を掲げたのも、このような民間独占企業体における支配(三池の孤立化の成功)と公共企業体、労働組合への国家権力による弾圧(スト権禁止)であった。だが復興から膨張への転換を激動を通じてなしとげ、所得政策よろしく国家独占資本主義の延命力(成長力)を誇った日本独占ブルジョアジーも、はやくも今日所得政策より賃金政策への転換を唱え始めた。即ち戦後植民地喪失の条件の下で国内市場を主対象とする経済成長に成功し、鉄綱の生産世界第三位にまで到達した日本国家独占資本主義は開放経済体制の名の下にその基幹部分に過剰生産を内包しつつある。

 それは生産の拡大による雇用の増加が支えてきた国内市場をして、耐久消費財の過剰生産化に応じる鉱鋼需要減に対しての鉄鋼生産の過剰化などの関連を通じて現われてくる。

 しかも生産の増大と国際収支との宿命的な悪循環とあいまって、今日再び日本資本主義は"市場"問題を歴史的に回顧せざるをえない。東南アジアこそは日本帝国主義の要であったことを。

 以上の如き基調を含みながらも、ゆるやかな好況の中にある世界資本主義市場の拡大という条件は、六四年の日本経済の困難をアメリカへの輸出増加により切り抜けてきた。そしてこの輸出ののびにより、過剰生産を部分的なものとしてのみ顕在化させるにとどめることに成功している。

 にも拘らず、今年度春闘のエネルギーを内的に形成せしめた日本独占資本主義下の国際的なクリーピング・インフレーションの現われとしての、今日の消費者物価値上げの波は、高度成長の消費生活面への現われ、或いは労働強化面への現われに対する労働者の不満を大きく喚起している。そしてこれをとりまくものとして中小企業の記録的な倒産や農村の行きづまり(米価引き上げのはねかえり)がある。

 以上を見るならば、四・一七闘争、原潜シードラゴン号入港阻止闘争は日本独占資本主義の矛盾を深く結合する地点よりもあがりつつあること、しかもこの両方の闘争が結合しない所にこそ、独占の支配の要があることも明らかである。

 (4)四・一七闘争の特徴は、一方においてその闘争のエネルギーが国家独占資本主義の搾取と収奪に対する巨大な抵抗、生活防衛の意識からでたものであること、そして他方ではそれにも拘らず日共の犯罪的な裏切りに助けられながら、民同が依然として闘争のもりあがりをボス交の手段として圧殺している所にある。そしてこの民同指導と大衆闘争昂揚との矛盾は今や顕在化しつつある所から、資本家階級は今日の情勢の中心にあって同盟会議一本化に見られるが国際的な資本の競争過程における企業合同などを通じ、市場支配を維持強化しながら賃金政策をその中心にすえようとしている。

 そして成長率鈍化の圧迫をなし崩し的に部分的に転化し国内的な支配を保ち、様々な市場政策を展開しようとしているのである。この問題に関しては(2)の情勢分析の項で述べたところの五○年初頭からの主導産業としての鉄鋼・機械・造船・繊維等による成長と五六―七年項の過剰生産化、それを化学合繊、電機、自動車、石油等に主導産業を切り換えて六○年代高度成長を現出させ、更にそれが過剰生産に陥る現時点にあって公共事業部門(特に住宅)そして第二回目の主導産業部門の減税―国家の直接的融資政策、又国内市場の一層練密な開拓等による手なおしを基調にして、建て直すこと、新たな発展の方向、池田内閣より佐藤内閣への継承は国内的には経団連がはじめて、賃金政策について言及するが如き、或いは国際通貨の危機とも合せて、今日の過剰生産の中の大きな不安をもつ独占ブルジョアジーの要求にもみられるが如く一つの転換を意味することは確かである。

 また国際面でも彼等にとって中国の核実験、インドネシアの核武装宣言、ベトナムの流動等、東南アジアの流動は、必ずしも東南アジアへの進出への途が容易でないことを示している。

 六四年末闘争より六五年の春闘への途は国家権力の弾圧をもってしても未だ支配され尽さぬ公労協労働者の闘い、民間過剰生産部門・中小企業労働者の戦闘性と、闘う基盤は蓄積されていく。

 現在の対外膨張政策等の基調は確認したが如く、直接的には東南アジアの流動を機軸にした反革命連合の性格として合わせてアメリカの一定の後退の中で、これを通じて日帝の戦略的な意味での政治的軍事的hege.の東南アジアへの確立を目ざすものである。しかし国際的な資本の名の下にすすめられる後進諸国の新支配(市場争奪)、先進国間の低開発部門淘汰はしかし大きな抵抗を呼ぶだろう。

 かくして(3)項で確認したところの基本矛盾と後進的矛盾との結合を求めるべき階級闘争の基本的な性格及び要は、帝国主義の対外政策に対する闘いと国内における階級闘争の結合におかれねばならない。にも拘らず日本国家独占資本主義の生成する矛盾とその矛盾のなし崩し的解決の生み出す新たな矛盾の累積としての人民の矛盾が抵抗の芽を処々において生み落し、部分的に顕在化し新たな社会政治闘争の波を形成しながらもその闘いが、対外政策への政治闘争と深部に置いて深く結合しながらも、現在的には常に分離し、そこにこそ独占の支配の要が置かれている要因は、第一に日本国家独占資本主義のなし崩し的部分的解決等が彼等の支配力の強固さと相まって成功し、全体としていわゆる社会開発型の主導産業の切り換えと第二回目の戦略産業の新たなテコ入れが不十分とは言え成功しつつあること。第二に既成指導部の体制内化の進行の中で労働者その他諸階級、諸階層が戦闘性をもちながらも資本の下に掌握され釘付けにされている、主体の未成熟にある。

 さてこの傾向が現在的に突き破られる可能性は、第一に国際通貨体制の危機、第二に先進国労働者階級の昂揚がたとえ一国的規模でも展開されることを通じての新たな全世界的なM の昂揚、ことに米国の鉄鋼ストを契機にして一応は予想される。第三に日本ブルジョアジーの転換としてのインフレからデフレ政策への転換である(まず考えられない)。とするなら、いわば清水慎三氏の述べる所の"独自の領域"の存在とは以上二点に起因する所の国家独占資本主義の(支配の強固さを含めての)堅固さとそれ故国際的激動が国内的には社会政治闘争と政治闘争が深部において結合する要因を持ちながらも、日本国家独占資本主義の世界情勢との位相が二重底的であるということによるものであることが一つの主要な要因であるだろう。だがこのような国家独占資本主義の矛盾のなし崩し的引き延ばしと政治闘争と経済闘争の分離による支配の方策は、そのこと自体が新たな高度にして深い矛盾を形成せずにはいない。それは明白に将来の憲法―安保闘争の深さと広さを構成していくのである。さてこのことを確認して、再び政治闘争=社会政治闘争の統一と将来における結合の方向とその指導性に移ろう。(5)安保三池以降の全左翼の分裂の下にあっては戦闘的な闘いは三池闘争型としてのみ可能であった。それは学生M に京都府学連の戦闘的独走体制を全国化する闘いであったし、又今日の企業合同の中での独走体制を中心にする全産業統一闘争を志向する三菱長船労組社研の闘いのそれであった。だが独走体制への国家権力=資本の集中攻撃で三池以降の闘いは、常に全国的統一闘争への発展という課題を要求されてきた。労働M 、学生M の大衆闘争としての全国化は全国的な政治指導の確立、全国的な政治組織の確立をあわせて要求する。この課題は今日の労働者が、組合ごとに体制内化され、或いは学生も又産学協同の中で体制内化されつつあることを思えば、決定的に重要である。

 我々 はかかる状況にあって第二期階級闘争を総括しながら、同時に全国に散在する戦闘的革命的左翼を結集することにより第三潮流を形成することを目標に、学生M にあっては第三次の社学同の結成と反帝統一戦線全学連の再建による自らが第三の潮流を実現していくことを試みた。しかし、問題はかかる路線を不断の現在の困難な大衆の状況の中で実現していくところの指導性であるし、個々の大衆における反帝的な実態的な政策であった。

 そして我々が現在問題にしているところのそれは、単に机上の空論としての永久革命型M の指導性の克服の問題ではなく、極めて現実の要請から導入されるところの、即ち、第一に政治闘争の決定的な実力的な闘いが要請されるにも拘らず、M の上向きの兆候が現われたとはいえ、全体としての階級闘争の停滞故に、その先進的な闘いが発展性をもたず逆に大衆との一定の分離をもたらす状況、第二に、学生大衆における体制内化が進み、資本・国家の大学の直接支配が、職制とも言われるべき資本の学生大衆の掌握が非常に非常に緻密な型で深化し、学生M の中枢といえるべき学生大衆の生活に質的な変化をもたらしつつあること、第三に、だが一つの前進的な要素として確認される所の、現在の社会生活の危機を基底に置いての、大学の資本の支配の強化と収奪への矛盾の累積として一体化した教育資本と独占資本、国家権力に対して大衆的な反逆が開始され始めたことである。又漸次ではあるが政治闘争が上向く傾向を持ってきていること、これ等与えられた条件の中で現在的な問題として日韓闘争、学内社会政治闘争を(現在では全く両者はそれ自体独立しており、個別的に推し進めねばならないが)如何に統一していくか、この問題は技術的に対処するならばいずれか一方に一面化されてしまうが、そのことは質として今後、これ等と同様の質としての政治闘争と社会政治闘争との統一した指導性にあるが、かかる問題としての永久革命型M の思想性の止揚である。

 さて再度詳しく学内闘争の性格をみてみよう。これは基本的に五○年代に展開され六二年大管法に結実した反動文教政策に対しての民主主義理念の反応としての、即ち生活の実態性、それは個人の内部に存在する幻想共同性と階級性の対立抗争を極限化させ、そのことは国家の幻想性を払拭し、国家の階級対立の非和解性の産物として、それ故にこそ被抑圧者にとって外在化した疎遠なブルジョアジーの支配の暴力性を本質とした産物であることの認識への萌芽として、そしてその萌芽は個人の社会関係の総体への認識に至らしめ、その根底は自己の解放を生産関係の即ち私有財産制の廃絶か否かに迫るところの本質性を内包しているが―その実態性が市民としての国家の幻想共同性の中に内面化された上での疑似的な、即ちブルジョア社会を前提にしての、それ故に憲法的な価値尺度もあって、ブルジョアジーの価値への破壊に対しての奪還的反応としての市民的闘争であったものが、団体・社会の緊張関係の新たな質への転化とその外延性としての資本への不断の直接的学問研究の利潤追求への功利性としてのみ要請されるとき、そこで生活するところの学生大衆は資本から疎外され、依存と反発が内的疎外意識、あたかも生産関係に寄生した労働者の疎外と等質性をもったものが形成される。それは未来の生活の展望をも直接的に内包しているが故に資本への学生の依心性が強い。そのこと自身は生活の実態性を有しているが故にその疎外の反発は本質的には資本を突き抜けて、その政治的社会的権力としての国家への批判へと突き進むものである。

 かかる抽象性の現象は教授会の理事会・文部官僚への屈服協調理事会・文部官僚の政策を支持するところの教授陣の輩出と国家・独占の財政的援助を受けての研究―ゼミの展開と学生大衆のそれへの結果を通じての教授―独占資本の学生の未端での集約、又これ等の支配の根軸を通じての学内諸団体の自立性の喪失と変質による大学市民社会の国家資本の直接的支配と大学の疑似工場化と合理化の進展として現われているが、これ等の反逆は国家の分身的機能としての社会性と、資本の大学への社会的権力への対決と一定の政治意識は形成されるものの、いまだ国家の政治的権力への闘いに政治闘争が展開されない限り、それは決定的に不十分であり、又政治権力のみへの対決は、学生大衆の中枢での支配を許しているが故に部分的戦闘的左翼の結集に限定されてしまう。だが第三期の新たな緊張関係の質、いわばレーニンの「革命的昂揚」の内在性の形成は、そのことは資本の職場支配を国家の支配性の等質的結合による職場の末端からの抵抗の等質的結合に基づく政治闘争への発展の可能性、更に、政治闘争の同一の事からの資本との闘争への進転化、深まりとの同一の可能性を有しているが故に、社会的権力と政治的権力の同時的統一的認識の可能性を内包しているのである。このことの認識は我が同盟の公労協での不断の反合理化賃金闘争と政治闘争の展開の困難な状況から獲得したものであるが、我々はその政治闘争、社会政治闘争の統一した実態的表現形態として、即ち大衆の核としての分散性と部分性に対して、一切の諸闘争をプ口レタリアート全体の階級的行動へと発展させ、大衆の要求を社会的―政治的解放に向けて貫き、現存の政治―社会権力の対極にプロレタリアートの自己権力―プ口レタリア民主主義の潜在的表現、機能としての意識性、組織性、全体性を与えるものとして労働者政治組織を見出したのであるが、正に公労協での我々の同志が遭遇したところの問題は等質性をもって学生M にも適応されるべきものである。

 更にこのことについては『戦士』No.4の「ドイツ革命の敗北とローザ」(八木沢二郎)によって的確に表現されているが、「工場におけるところの権利の拡大を徹底させ、そのことによって国家権力の衝突へと発展し、個別資本と国家権力との同一性が認識されねばならない。ローザが革命の第二段階はストライキによる経済闘争であるとしたのは、経済主義ではなく現代革命の法則である。更にこのようにブルジョアジーの動揺にも拘らず市民社会において再生産を行い得るという事情が生じたのである。正に現代革命は工場における労働者の組織、レーテを基底においてしか達成し得ないのである」。更に彼は結論として「現代革命は永久革命論の提起したダイナミックな戦術によるMの急進化=ジャコバン主義、第二インターの提起したブロレタリアートの独自性=組織戦の統合として、分離された党による政治的な宣伝、扇動と共に改良闘争」による工場での権利拡大、革命情勢における大衆ストライキからレーテへと必然的に発展するのである。一方における改良のつみ重ねのみでは革命には決していたらないし、他方改良闘争を通じての工場における権利の拡大を抜きにしては、単なる、官僚集団となるか又は権力に粉砕されるかのいずれかである。ローザを信奉している社青同の諸君、このことは重大だ!

 我々はさしあたってかかる新たに獲得された指導性の下に今後社会的な政治闘争による大学―市民社会へ長期的な政治的経済文化的hegemony の確立を徹底した資本=国家の直接の支配と収奪に対しての闘いを通じて獲得することと同時に、並行して非合法的な日韓阻止、べトナム戦争反対の政治闘争を展開するだろう。それ等の闘争の徹底的深化の中で憲法―安保闘争を闘い抜いていくだろう。このことの思想性を獲得し、政治闘争の内的関連軸を把握することなしに政治主義、学内主義を批判してみても不毛である。

 5.3日、社学同マル戦派第一回全国委員会〔東大〕、日韓会談粉砕五・二一全国スト等運動方針決定。


【春日(庄)派と志賀派が社会主義統一有志会結成】
 5.3日、共青東京都委員会、共青大阪府学生委員会、民学同全国委員会の代表者が「単一学生同盟のための全国代表者会議」を開催。構改派学生運動の結合を目指した動きであり、後の自治会共闘結成へ繋がる。
 5.10日、日本のこえ派が反代々木派の結集を呼びかけ、これに社革が呼応。
 5.11日、統社同内でも春日や原が日本のこえ派の呼びかけに呼応して社会主義統一有志会を結成。

 5.4日、都学連再建準備委主催・全国学生活動家会議〔明大〕、日韓会談粉砕五・ニー全国スト、七月都学連再建等を決定(構改系自治会、九州学連等不参加)。


 5.15日、全学連(革マル派系)、中国核実験抗議で華僑総会にデモ。


 5.20日、全学連(民青同系)ベトナム侵略反対全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に五千名参加、八重洲口までデモ、関西三府県学連(反日共系)も集会・デモ。


 5.21日、反日共系各派が、ベトナム侵略阻止・日韓会談粉砕全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に全都五千名結集、外務省・米大使館にデモ。


 5.25日、米原潜佐世保寄港に全国各地で緊急抗議行動、東京:東大教養・早大・法政大等四有名、外務省前坐り込み・八名逮捕、鳥取:鳥取大二百名、原潜寄港阻止・中国核実験反対の学内集会、鹿児島:鹿児島大百五十名、自民党県連本部前抗議集会。


 5.25日、共産同マル戦派主催・社会主義労働者戦線結成記念・日韓ベトナム政治集会〔教育会館〕に五百名参加、革共同全国委・長船社研・浜野哲夫等挨拶。


 6.4日、関西三府県学連主催・米北爆反対・日韓会談粉砕全関西総決起集会〔円山公園〕に三千名結集、東本願寺前までの市内デモで機動隊と衝突、三名逮捕。


 6.9日、社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、約7万名が参加。民青同系全学連は1万名結集。新三派系昼夜で8000名が抗議デモ。 反日共系各派三千名、日比谷公園に結集・外務省デモ、再度日比谷に戻り社会党系集会に合流、各所で機動隊と衝突・十三名逮捕、全学連(民青同系)四千名、集会〔芝公園〕・日比谷までデモ、日共系集会に合流。京都府学連五百名、集会〔同志社大〕・円山公園までデモ、途中河原町で機動隊と衝突・四名逮捕、平民学連集会に介入、分裂集会を弾劾。


【全学連各派の日韓闘争】
 6.22日、日韓会談が妥結した。この日、民青同系全学連は6000名結集し、集会と外務省・米大使館にデモを行なった。新三派系も日韓条約本調印阻止闘争、決起集会〔芝公園〕に二千五百名結集、首相官邸に向かうも機動隊に阻止され激しい投石で抵抗・十七名逮捕。昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系 も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料がないので割愛する)。
 1965年6月22日、和井田史朗(わいだ・しろう)(日本大生、マル学同中核派)が日韓条約調印阻止デモで警察が不当逮捕、右大腿部を骨折させ治療せず勾留、右足切断となり1年以上闘病、翌年7月19日逝去(享年19歳)。

 6.25日、大阪大自治会・神戸大自治会・立命館大一部学友会(構改系)、連名で各大学自治会へ統一全学連実現のための緊急アピール発す。


 6月、南ベトナムにグエン・カオ・キ政権が擁立される。


【新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成】 
 7.8日、都学連再建第14回大会が開かれ〔全電通会館〕、新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成し、呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図した。法政大(経.文).東大(医).早大(二法.二政).東工大など11大学の26自治会から76代議員、約300名の学生が結集した。中核派が全学連即時再建を強く主張し、これに反対する革マル派が二日目の途中から退場し、構造改革派は代表を送らなかった。革マル派はこれを第二全学連のための陰謀として、都学連再建は「無原則的な野合」だと厳しい批判を浴びせた。日韓条約批准阻止闘争に対する全国学友へのアピールなどの決議と闘争スローガンを採択、大会宣言を発した。

 委員長に山本浩司(早大.二法)、副委員長に吉羽忠(東工大)、書記長に斎藤克彦(明大)、財政部長に山口紘一(法政大.経)を選出した。結成後アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、 米大使館へ400名がデモ。新三派系は折からのベトナム反戦闘争に最も精力的に取り組んでいくことになり、この時点では動員が少ないものの次第に勢いを増していくことになる。時代の気分をいち早くキャッチし取り組んだということになる。もっとも民青同系全学連も、4.22日アメリカ国務省政策企画委員長ロストゥ来日反対闘争に取り組み、羽田空港に3000名動員、抗議デモを行った。引き続いて来日したロッジに対しても連続してアメリカ大使館などに抗議行動を行った。

 7.8−9日、都学連(民青同系)結成大会〔世田谷区民会館〕、二十二大学四十四自治会代表参加(委員長・沢井洋紀)。


【革マル派が第22回大会開催】
 7.9−12日、革マル派が第22回大会開催(委員長・根本仁)。124自治会から151代議員が参加したと発表されている。委員長には根本氏が留任。早大一文を中心に、札幌医大.秋田大.金澤大.奈良女子大.鹿児島大.東外大等が結集していた。日韓条約批准阻止を中心とした運動方針を決定。

【民青系全学連の動き】

 7.10日、民青系都学連結成大会が開かれ、22大学.39自治会の代議員と400名の傍聴者が参加。委員長に沢井洋紀(東大.文)、副委員長に田熊和貴(東経大)と植田稔(早大.一法)、書記長に金子博(東大.教)を選出した。

 7.23−25日、民青同系全学連委員長・川上徹)が、大阪で再建後の第1回大会を開催。68大学・142自治会、約1500名参加。去る日の全学連第15回大会が暴力によって流会を余儀なくされたという歴史的事情を踏まえて、この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した。

 この大会では、学生の身近で切実な要求実現、学園民主化闘争を引き続き闘うこと、政治課題として10.5日の臨時国会開会へ向けて日韓条約批准阻止闘争に全力をあげて取り組んでいくことを決議した。この頃私立大学の学費値上げ反対闘争、反動的寮規則撤廃闘争も取り組まれた。委員長に川上徹(東大教育)、副委員長に梓沢和幸(一橋大法)と山本巨人(大阪外大)、書記長に亘理純一(岩手学大)を選出した。


【第4インターの内部抗争】

 7月、第4インターの三多摩の旧ICPの指導的メンバー、徳川、中曾根によって「第四インターナショナルを脱退し、新しいインターナショナルをめざしてたたかおう」と題する文書(「徳川・中曾根提案」)が発表された。この文書は「第四インターナショナルは、死産であった」との主張を展開して次のように述べていた。

 「第四インターナショナルは、ロシア革命がヨーロッパ革命に引きつがれるという展望のもとで組織された。だが現実の世界革命は、ヨーロッパの方向にむかうのではなく、中国革命を突破口としてアジア=植民地革命の方向へ発展した。第四インターナショナルは、革命のこの転進に根づくことができず、土台を失なってしまった。このため、その生誕は一個の死産にすぎなかった。よってわれわれは、第四インターナショナルを脱退すべきだ」

 「徳川・中曾根提案」 は、同盟内部、とくに三多摩の同盟に、巨大なショックを与え、論争は、単なる太田の政治方針の是非をめぐるものから、太田を先頭とする党堅持派と、提案者達の解党派との論争という性格のものに急速に変った。「提案」を太田は大喜こびで利用した。彼は、5.18闘争の失敗を論争の片隅に押しやり、解党主義攻撃を通じて自らの権威を再確立しようとした。

 太田のこうした路線は、八月の第二回全国大会で粉砕された。二回大会前夜、宮城代議員団は、「提案」の問題提起は、同じ問題意識をもつものとして歓迎し、継続討論に付すべき性格のものであること、しかしその結論についてはいったん撤回する必要があること、また大会の討論の中心を、この間の政治方針、政治闘争の総括にうつすべきことを、徳川、中曾根に申し入れ、意志統一をはかった。

 その後の経緯について次のように記されている。

 第4インター2回大会は、東京に反太田派が生れたことによって、一中委とはちがった力関係になっていた。太田の起草した議案は、中執会議によってその矛盾を追求された。すなわち議案の全体が「米中戦争不可避論」でつらぬかれており、これは「ポサダス派」の主張と同一だが、「ポサダス派」を支持するのか、と詰問されて、太田は、「私はパブロを支持する」とこたえた。中執は、議案を採択にかけないことを決定し、討論の素材として太田が提起するだけのものとなった。大会の討論では、議案にたいする反対が、旧JRの部分から激しく展開されたが、旧ICPは太田擁護の論陣を張らず、沈黙を守った。

 大会は「徳川・中曾根提案」を継続討論に付すことを決定し、この問題で反撃のチャンスをつかもうとした太田の計画は挫折した。さらに第三の打撃が加えられた。太田の婦人メンバーにたいする誤った個人的指導がスキャンダルとして暴露され、はげしい糾弾を受けたのである。太田を査問せよという要求がつきつけられた。ここにおいて太田は、一切の役職からの辞任を表明した。大会はこれを受け入れ、太田を査問会議に付すことを決定するとともに、権限をもたない書記として太田を活動の場につけることを決定して閉会した。

 二回大会で逆転劇が演じられた直後から、太田の分派行動が開始された。旧ICPグループの一部が、太田の行動と路線を擁護し、太田派(のちに、BL派=ボルシェビキ・レーニン主義派と自称)を結成した。統一大会から丁度半年で、同盟は新たな分裂・分派闘争の時代に足を踏み込んだのである。新たに選出された中執は、BL派と反BL派との論争の場になった。統一した政治方針や戦術決定は得られなくなった。こうしたなかで、秋の日韓闘争が展開されていった。

 皮肉なことに、分裂が不可避的に進行していった六五年の秋は、東北と関西の加入活動が大きく前進し、そこでつくり出された杜青向の隊伍が、中央闘争において、三多摩を中心とする東京の社青同の隊列と始めて合流したときであった。国会前の闘争で、しばしば、宮城の社青同と三多摩社青同は、となり合わせに坐り込んだ。だが一方は、まさに上り坂にあり、意気軒昂の部隊であり、他方は、壁につき当たり、指導部が混乱し対立して、方向感覚を失ないつつあった。全国的な「政治的機動」が、はじめく可能になったこのときに、「単一の、緊密に団結した中央指導部」か、おそろしい早さで崩壊していったのてある。

 7.29日、沖縄の米軍嘉手納基地からB2爆撃機30機が、直接ベトナムへ海洋爆撃に向かう。


 7.31日、社学同統一派が、都学連再建(委員長・山本浩司)直後、社学同再建全国大会を東京で開催し、第二次ブント構想の下に統一派と関西ブント社学同を統一し、共産同党一委員会を結成する。


 中核派の高校生組織・反戦高協結成


 8.1日、8.1実行委(反日共系諸党派)、都学連(三派系)共催・日韓条約批准阻止全国労働者学生総決起集会〔九段会館〕、労働者・学生千名参加。


 8.6日、第三回国際反戦集会〔赤坂公会堂〕、革マル派労働者・学生八百名参加。


 8.6日、8.6広島反戦集会〔広島〕、中核派系学生・労働者百数十名参加。


 8.7日、広島学生平和集会〔広島労働会館〕、三派系学生四百名参加。


 8.8日、ベトナム侵略反対・日韓条約批准阻止関西労働者学生集会〔京都〕、関西共産同系労働者・学生参加。


 8.14日、沖縄駐留の米海兵隊第一師団が南ベトナム中部に出撃。


 8.14日、べ平連主催の「戦争と平和を考える徹夜集会」。


 8.15日、第二回八・一五反帝平和集会〔四谷公会堂〕、社学同ML派系学生二百五十名参加、大久保公園までデモ。


 8.19日、復帰協主催・佐藤首相来島抗議県民大会に琉球大学生会参加、深夜まで一号線路上で坐り込みで抗議、警官隊の実力行使で学生三名を含む十六名逮捕。


 8.29日、全学連(民青同系)主催・南朝鮮学友支援・日韓条約批准阻止緊急統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に七百五十名参加、日比谷公園までデモ。


 8.30日、社会党・総評・社青同等の呼びかけでベトナム戦争反対・日韓条約批准阻止のための青年委員会(反戦青年委)結成、全学連(革マル系)・都学連(三派系)等オブザーバーで参加。


【社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)結成】
 8月、社学同統一派(共産主義者同盟統一委員会)が結成された。これは社学同内のマル戦派とML派に参加しない独立派の勢力が増大し、これと関西ブントとが統一して結成されたものであった。

【反戦青年委員会結成】

 8.30日、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。参加組織は、上記三団体のほか国労、全逓、全電通など総評系労組14単産の青年部が結集していた。

 反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の歴史に重要な貢献をしていることがもっと注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には「日共」系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかり の新三派系都学連も加入していた。
「日本の声」派も運営委員団体として加入していた。

 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区・職場・学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日本共産党を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、これらとの「熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集」が革命的左翼の任務であるとするに至り、遂には社会党・総評の統制が及ばないことになった。

 この経過につき、高見圭司氏の「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。

 「六・七月は参議院選挙があり、社共総評は選挙にいっさいを注ぎ込み、ベトナム反戦闘争も、日韓条約批准阻止闘争も大衆闘争としてとりくまず、七月参議院選挙が終って、社会文化会館で党青少年局の諮間機関である青年対策委員会をひらく。当時の青少年局長は楢崎弥之助氏であり、青年対策委員長は前川参議院議員であった。この青年対策委員会は青少年局の書記局員、社青同の中執、総評青対部、全日農青年部などの党員で構成していた。

 この初の会議で、社会党、共産党、総評が日韓条約批准阻止にむけて何ら具体的なとりくみを行なっていないことに、それぞれの立場から強い批判の声があがった。この討論の結果“ベトナム戦争に反対し、日韓条約批准を阻止するための青年委員会”(略称、反戦青年委員会)をあらゆる“民主的青年諸組織”に呼びかげてつくり、全国各地に組織することが確認された

 私は、社青同中央敗北いらい久方ぶりの大衆闘争に取り組むことができることに強い意慾を燃やした。ここで第一期反戦ははじまり八月三〇日に“全国反戦青年委員会”は結成された。その指導を担う事務局は総評の山下勝君、社青同の立山学君それに私の三人であった。この三事務局員は運動の飛躍的前進のなかで感動にふるえながらチームワーク良く活動した。全逓中央本部の結成当初からの下部青年労働者の弾圧、日共・民青の反トロキャンペーンなどは、一一月日韓闘争の全体的退潮とみじめったらしい敗北のなかで全国反戦に結集する青年労働者、学生の戦闘的エネルギーの日ごとの高揚の前に問題ではなかった」

 「国際革命文庫」の「日本革命的共産主義同盟小史」は次のように記している。

 概要「日韓闘争を通じて、社青同内部の社会主義協会派と左派〔第四インター派と解放派の連合戦線)との対立が、東京を中心に激化し、一部では、暴力的な衝突さえも起きはじめた。社青同の分派闘争は一方的に進んでいった。都労連と結合した東京社青同のデモ隊列から、協会派は同盟員を召還し、東京の社青同部隊は、左派だけの構成になっていった。

 日韓闘争のなかで、全国反戦青年委が結成された。ここには、多くの新左翼セクトも席を与えられた。とりわけ東京反戦は、戦闘的な青年労働者と学生の共闘の場となった。協会派は、過激派に開かれたこの東京反戦にたいしても、労組機関を通じて統制をはかろうとした。社青同内部の分派闘争は、こうして、外にまで広がっていった。

 拡大し深化する社青同分派闘争の一方で、同盟の分裂が進行し、新中執は機能麻痺におちいりつつあった。加入活動の発展のなかでの同盟の危機、これが六五年を特徴づけたものであった」。

 川上徹・氏の「学生運動」は、この動きを次のように評している。

 「新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入った」とか、「社会党が『ひさしを貸 して母屋を取られる』ことになった」とか、「『反戦青年委員会』の結成は、こう してトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」。
(私論.私観) 
 果たして川上氏のように受けとめるべきであろうか。こういう総括の仕方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から、「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ日共及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきでは無かろうか。

 なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。私には、 「愛される社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。

 8月、米国のロサンゼルスで黒人暴動が起き、死者34名、負傷者132名を出す。ストクリー・カーマイケルをリーダーとするブラックパワーが台頭し、米国内で黒人解放運動とベトナム反戦闘争が絡み始める。


 9.2日、都学連(三派系)・京都府学連共催・全国自治会代表者会議〔明大〕、構改系を除く反日共系各派参加、日韓批准阻止実力闘争展開を申合わす。


 9.3日、都学連(三派系)等中心に、山形大処分撤回九・三全国学生総起集会〔山形〕開催。


 9.3日、安保反対青学共闘の再開実現を目ぎす青学代表者会議〔東京〕、全学連(民青同系)・全寮連・民青同等三十五団体参加。


 9.3−4日、全学連(革マル系)第四十一回中央委〔本町区民館〕、革命的反戦闘争展開・日韓条約批准阻止等を決定。


 9.11日、反戦青年委第一回全国代表者会議〔東京〕、ベトナム反戦・日韓批准阻止闘争方針を決定。


 9.12日、全国中央実行委(日共系)主催・日韓条約批准阻止等全国統一行動、中央集会〔晴海埠頭〕に全学連(民青同系)五千名参加、東京駅までデモ。


 9.14日、反日共系各派、日韓条約批准阻止全国統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に千名結集、日比谷公園までデモ、機動隊と衝突し八名逮捕。


 9.21日、高崎経済大学で学費値上げ反対闘争。9.22日、お茶の水女子大で新学生寮管理規定に反対のストライ キ突入等全国的に学園闘争が発生している。寮闘争−山形大.お茶の水大、学館闘争−同志社.長崎大.群馬大.徳島大.早大.中大、学費値上げ−慶応大学他私大、私学移行反対闘争−高崎経大、移転反対闘争−東北大、公金横領事件−法政大。


 9.22日、日中友好協会主催・日中国交回復・日韓条約批准阻止等全国総決起集会〔日比谷野音〕、全学連(民青同系)千八百名参加、東京駅までデモ。


 10.5日、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。日韓条約反対闘争では、安保反対国民会議が再開されず、社共の共同闘争も成らず、全国的統一運動は組織されなかった。

 全学連(革マル系)・都学連(三派系)共催・日韓条約批准阻止全国統一行動、中央集会〔芝公園〕に二千名結集、清水谷公園までデモ、社青同系労働者と合流し国会デモ、参院議面前坐り込みで二十名逮捕、集会中、三派・革マル両派衝突くり返す。新三派系の労・学3000名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を 手に並進していくことになった。

 全学連(民青同系)は、日韓条約批准阻止等全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に四千六百名参加、国会請願デモ。


 10.12日、全国実行委(社会党系)主催・日韓条約批准阻止等全国統一行動、中央集会〔明治公園〕に三派系中心に学生二千五百名結集、国会議面前で反戦青年委とともに坐り込み、十九名逮捕。


 10.13日、東京青学代表者会議主催・日韓条約批准阻止等全都青学決起集会〔日比谷野音〕、民青同系千五百名参加、国会請願デモ。


 10.15日、全学連(革マル系)・都学連(三派系)共催・日韓条約批准粉砕全国統一行動、集会〔日比谷野音〕に千五百名結集・国会デモ。夜、反戟青年委主催の決起集会に合流。反戦青年委員会結成後初の全国青年総決起行動。新三派系2600名を始め、1万7700名が国会議面前坐り込み闘争展開、ジグザグデモで17名逮捕。京都府学連決起集会〔円山公園〕に千名結集し市内デモ、三名逮捕17 都学連(三派系)・京都府学連共催・全国自治会代表者会議〔同志社大〕、一〇・二九全国ゼネスト方針決定、実行委を結成。


 10.29日、日韓条約批准粉砕全国統一行動。都学連7500名が国会へデモ。


 10.22日、韓国が、南ベトナムに、最精鋭部隊「猛虎師団」を派遣。アメリカの要請によりベトナム派兵した国は、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンなど7カ国に登った。中でも韓国は最大規模の約5万人を派兵した。


 10.25日、全学連(革マル系)・都学連(三派系)共催・日韓条約批准阻止全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に三千名結集・国会議面前坐り込み、京都府学連決起集会〔円山公園〕に千名結集・市内デモ。


 10.29日、10.29全国ゼネスト実行委主催・日韓条約批准阻止全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に三千五百名結集・国会デモ等、全国二十一カ所で八千名参加、三十六名逮捕


 10.30日、全国実行委・反戦青年委共催・日韓条約批准阻止統一行動〔日比谷野音〕、社青同系学生三百名参加、八重洲口までデモ


 11.1日、全学連(民青同系)日韓条約批准阻止全国統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に四千名参加、国会請願の後、中央実行委主催の集会に合流。


 11.5日、反戦青年委主催の日韓条約批准阻止首都青婦学生総決起大会〔日比谷野音〕、都学連(三派系)中心に三千名結集(1万7千名ともある)、昼夜にわたり国会デモ・参院議面前坐り込み、一部は議面内に突入し四十二名逮捕。京都府学連決起集会〔円山公園〕に千名結集、市役所前等で坐り込み・四名逮捕。


 11.5日、全学連(日共系)三千五百名、日韓条約批准反対で国会詩碑デモ。


 11.6日、全学連(革マル系)・都学連(三派系)、日韓条約衆院強行採択に緊急抗議行動、三千名が日比谷野音に結集・国会デモ、各所で機動隊と衝突、夜、全国実行委主催の集会に合流、再度国会デモで逮捕者三十三名。


 11.6日、中央実行委主催・緊急抗議集会〔清水谷公園〕に全学連(民青同系)四千名参加、国会請願デモ。


 11.9日、日韓条約強行採決の暴挙に抗議して社共の一日共闘が実現し、全国329カ所で23万人を動員する。東京では1 8万人の大集会とデモ。民青同系1万5000名が結集した。三派系中心に四千名が、民青同系のピケを突破し独自集会、国会デモで51名逮捕。連日万余の数で国会デモ展開。


 11.9日、日本私立大学協会が、翌66年度の各私立大学の学費を平均13%値上げすると発表。


 11.11日、全国実行委主催・緊急抗議行動、中央集会〔日比谷野音〕に三派系中心に二千名結集・国会デモ、解散地束京駅から再びデモ、鍛冶橋付近で機動隊と衝突・二十名逮捕。


 11.12日、全学連(革マル系)・都学連(三派系)、日韓条約衆院強行採決抗議集会〔日比谷野音〕に二千五百名参加、国会デモ、のち国労支援闘争で東京駅プラットホーム坐り込み・集会、二十名逮捕。


 11.13日、日韓条約批准阻止・社共統一行動、中央集会〔明治公園〕に民青同系八千名、反日共系各派二千名参加、国会デモ・七名逮捕。


 11.14日、青学代表者会議主催・日韓条約批准阻止決起集会に民青同系二千五百名参加、国会請願デモ。


 11.26日、日韓条約批准阻止・社共統一行動、中央集会〔明治公園〕に民青同系二千名、反日共系各派千五百名参加、国会デモ・七名逮捕。


早大で「学館闘争」が燃化
 11月、この頃から早大で学生会館の管理権問題として学館闘争が燃化していくことになった。この頃早大では、3派鼎立時代を迎えていた。三派とは、革マル派と社青同解放派と民青同派であり、革マル派が一文.二文を、民青同系が教育.一法を、その他は社青同を中心とした三派系が自治会執行部を掌握していた。各自治会と文化団体連合会.サークル協議会.生協.早稲田祭実行委などによって「学館共闘」が結成された。議長には大口昭彦(第一政経.社青同解放派)が就任した。

 11.30日、本部前抗議集会がもたれ、ここから本格的な闘争が開始されていくことになった。これより先同志社大でも学館闘争が勃発していたが、大学当局の譲歩に拠り妥結していたが、早大大浜学長以下の理事会当局側は強圧的であり、学生側も急進主義的に対応してこじらせていくことになった。12月になると団交決裂→座り込み→機動隊導入へと発展していった。

 そうした事態の中、冬休みを前にした12.20日、学費の大幅値上げが決定され、大浜学長は、記者会見の席上「授業料の値上げは新入生からであり、諸君とは関係無い」、「学生諸君全員が反対しても、授業料は値上げする」と声明した。早大当局の発表した値上げ案は大幅なものであり、入学金、施設費、授業料等で平均57%の値上げ率となっていた。翌66年早々から早大は紛争のるつぼになって行く。

 12.3日、反日共系各派五百名、国鉄運賃値上げに反対して東京駅構内で集会・デモ、四名逮捕。


 12.4日、日韓条約批准阻止社共統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に民青同系二千名参加、反日共系各派五百名、国会デモで三名逮捕。


 12.6日、青学代表者会議主催・日韓条約批准阻止中央決起集会に民青同系五百名参加。


 12.7日、反戦青年委主催・日韓条約批准阻止統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に反日共系各派六百名結集、国会議面前坐り込みで十九名逮捕。


 12.11日、自民党と民社党が、参議院で、日韓条約批准を強行採決。


 12.17日、都学連(三派系)批准書交換阻止全都緊急行動、萩中公園に七百名結集、羽田街道で機動隊と衝突、六名逮捕。椎名訪韓実力阻止闘争が取り組まれ、羽田空港付近で1000名が機動隊と衝突。


 12.18−19日、都学連(三派系)・京都府学連共催・全国自治会代表者会議〔明大〕、六百名参加、日韓闘争の敗北を確認、構改系不参加・革マル系途中退場。


 12月、民青系が名古屋で学生集会。180大学、350自治会から2500名が参加。


 この年、好況だった日本経済が一時的に不況におちいった。この年のGNP実質成長率は5.1%と60年代前半の平均成長率11.7%と比較して大幅に落ちこんだ。政府は戦後初めての赤字国債を発行し、財政主導により不況をきりぬけた。その後、60年代をつうじて重工業製品の輸出主導により、日本経済は第二次の高度成長をつづける。


 65年11月、日本テレビに「11PM」が登場し気番組になる。


 これより後は、「第7期その2、全学連の転回点到来に記す。





(私論.私見)