第2期その2 1951年〜1953年 党中央「50年分裂」期の(日共単一系)学生運動

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 この前は、「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動第2期は1950年から始まるが、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この経緯を纏めるのは難しい。

 1950(昭和25)年初頭、戦後日本革命は流産したと見立てたスターリンは、野坂理論に縛られている徳球系執行部を批判した。「スターリン」批判を廻って党に内部対立が発生し、反主流派が一斉に批判の合唱を開始した。4.30日、党中央委員会が分裂し、党中央所感派は反主流国際派を排除した党組織の再編に向い始める。これを「50年党中央分裂」と云うが、その後の歴史の流れから見て本質的に徳球系と宮顕系の日本左派運動の主導権抗争であり、この時期両派の対立が非和解的な状態に至ったということを意味している。

 全学連武井執行部は、既に宮顕派に篭絡されており、党中央に対し国際派を援護射撃する形で「全学連意見書」を提出した。それまでの党中央の引き回し、戦略・戦術上の右翼的偏向、学生運動に対する過小評価に対する公然とした批判を「左」から展開していた。


【1951(昭和26)年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1951年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.17日、渋谷事件。


 1.18日、早大全学自治組織準備会。


  1.22日、「スターリン賞受賞大山郁夫祝賀集会」(於大隈講堂)が開かれ、境栄八郎が全学協準備会を代表して司会を務める。学生3000人が構内行進。


 1.21日、日本社会党が講和三原則を決定する 。


 1.24日、早大で、「早稲田大学新聞」の記事が反戦的であるとして発禁処分。


 1.26日、関西学連は、この間右翼反対派を退け統一を勝ち取っていたが、この日一斉に平和集会を開催した。


【国際派東大細胞内の査問・リンチ事件】
 2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している。早大細胞が東大生のスパイ=オマタを摘発し、早大細胞キャップの松下清雄氏が東大細胞キャップに連絡し、松下氏立ち会いの上で戦後学生運動の初のリンチ拷問事件を起している。国際派東大細胞の指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられた。最終的に宮顕が介入し査問解除されたが、「スパイ容疑」の真相は未だ解明されていない。これを「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」と云う。国際派東大細胞内査問・リンチ事件」で更に考察する)。
(私論.私見)
 この事件を考察する意味は、これが戦後学生運動の初のリンチ拷問事件となったということと、この時査問された不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったという意味での重要性にある。
(私論.私見) 「東大国際派内査問事件」の発生日について

 ネット検索で「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、「1052年2月14日」は間違いで正しくは「1051年2月14日」であるとの指摘がされている。れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、れんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「なぜ両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。

 2010.4.29日 れんだいこ拝


 2月、早大で、自治会規程、廃止。自治会が非合法化された。(6月以降、学部長指導下の「学友会」が順次組織化されるが定着せず、52年には全学協=全学自治組織連絡協議会という各学友会、学生会の協議機関が結成される)。この頃の闘争課題は、「ダレス請願」、「反植民地デー参加の呼びかけ」、「学友諸君 ! 諸君は授業料を全納しているか !」、「全面講和と反植民地斗争デー参加呼びかけ」、「授業料未納者の追放を反植民地デーで粉砕せよ」、「再軍備、単独講和反対、占領軍撤退の要望.……教育関係法案改悪反対」。


 2.7日、衆議院で、天野貞祐文相が「私はかって共産主義者を学校から追放しようとしたことはない。大学の自治、大学の独立を尊重し、これを守るために独立を阻害する人をやめさせたのだ」(民主党・井出一太郎の質問に答えて)。


 2.9日、都学連が、全面講和締結要求・再軍備三法反対で国会誓願デモ.ダレスあて公開状提出。和締結要求・再軍備三法反対で国会誓願デモ.ダレスあて公開状提出。


 2.21日、植民地闘争デー、各大学自治会は集会禁止令を蹴って強行。


【共産党が、四全協で武装闘争方針を提起】
 2.23日、共産党が四全協を開催し武装闘争方針を提起した。これ以降,国際派と所感派の左派関係が逆転する。宮顕らが四全協の結果を見て全国統一会議を再建していくことになる。

 3月、伊藤.紺野.椎野らの自己批判続く。


 3月下旬、早大に神山分派が結成され、大金ら11名の活動家が神山茂夫のもとへ結集した(→再度の国際批判により5ヶ月たらずで解散)。


 4.2日、早大.平和懇談会、ベルリン・アピールの拡大、京都知事選挙での出隆教授推薦等を決議。国際派が出隆を支持、主流派が加藤勘十・日本社会党候補支持で分裂した。


 4.5日、東大.飯田橋で出隆都知事候補選挙運動中の東大生ら16名が逮捕されている。


 4.11日、マッカーサーが罷免され、後任にリッジウエイが就任した。


 4.27日、リッジウエイは、政府のメーデー皇居前広場の使用禁止を支持。


 4.28日、総評.中央メーデーは中止と決定。


 4.30日、都知事選挙で安井誠一郎当選.出隆惨敗。


 4月、「我が共に告げん」軍事裁判。


 5.1日、総評.芝公園など分散メーデー。


 5.3日、リッジウエイ、公職追放解除。


【日本民主青年団(民青団)が発足】

 5.5日、日本民主青年団(民青団)が発足している。民青団は、党主流所感派の系列で生み出されたものであり、全学連活動家のその多くが連なった。彼らは党の方針を信じ、党の軍事方針の下で工作隊となり、積極的に参加していくことになった。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」・「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。

 今日「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)と総括されている。

 5月、各学部の「学友会」による自治会再建と自治会室閉鎖の解除。文学部自治会再建、一商学生委員会、学友会が全面講和促進運動への参加表明。 出隆候補応援の政令325号違反事件で東大生16名が軍事裁判へ附される(13名釈放) 。


 5〜6月、共産党所感派幹部の自己批判の評価めぐり、国際派内部において、宮本は自己批判を欺瞞とする否定的対応に終始し、春日は肯定的に評価したことから対立が深まり、決別した。


 5.22日、原爆禁止・ストックホルムアピール署名運動開始。


 5.24日、東京都反戦学生同盟早大支部委員会ビラ「東大生十三名釈放さる〜更に三名の救援と平和祭を !」。


 6.13日、全学連中執委、5回大会中止を決定、リッジウエイによる禁止。


【「反戦学同」の全国化組織化】
 6月、反戦学同第1回全国協議会が開催される。組織・運動方針採択(全国委代表山中明=本名富田善朗)。8月、反戦学同全国準備委第2回全体会議。12月、 反戦学同準備委臨時総会、新常任委選出。

【共産党が「51年綱領」を採択】

 8月上旬、共産党.モスクワ会議が開かれ、スターリン.徳球.野坂.西沢.袴田らで「51年綱領」を採択している。こうして中国に渡った徳球指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。この方針は、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようとしたものであった。

 
その狙いは、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われる。「山村根拠地建設」が目指され、 「山村工作隊」・「中核自衛隊」等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させることになった。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。


【共産党の武装闘争に対する全学連の対応】
 学生党員は、共産党の新方針によって、これを支持する党中央系と宮顕の指導する国際派に分かれていくことになった。
(私論.私見)
 党中央所感派が武装闘争に転換するや、それまで党中央を右翼日和見主義として批判してきていた国際派が途端に日和見始める。宮顕派は、党中央所感派が武装闘争を呼号し始めるやそれまでの「左性カムフラージュ」が剥げ落ち、右翼日和見主義し始めた。武井系全学連中央派はそれに追随した。このことが様々な軋轢を生むことになる。党の新方針によって、党中央派学生党員は急進主義化したが、逆に宮顕派の指導する全学連武井派が穏和化していくという逆転構図となった。

 8.10日、共産党.コミンフォルム機関紙「恒久平和」が4全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を支持的に報道、続いて14日には第4回全国協議会の決議を掲載した。この結果、最左派=国際主義者団が降伏し、団結派も解散大会開催。統一協議会も解散と自己批判を余儀なくされた。統一派=春日はゴマスリ的自己批判をし、宮顕は抵抗しつつ復党したとされている。こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳球派の圧倒的多数の人々は徳球派に屈服することを余儀なくされた。これにより、日共党中央の全学連中執派のメンバーは非常に衝撃を受け、これを契機に再び多くの学生活動家は党中央の指導に服していくようになった。


 しかし、全学連委員長武井ら20数名は国際派の首領格であった宮本顕治グループと行動を共にする道を選んだ。本来であれば、その論に忠実であれば、武井系全学連は武装闘争路線への転換を歓迎する立場であった筈であるが、今度は平和闘争への転換に逃げ込み始める。どこまでいっても顕系との一蓮托生組でしかなかったことが判明する。この両者の縁が切れるのは、1955年の六全協で宮顕系が党中央に登壇しその右翼的本質を満展開することによってである。それ故に今暫くは蜜月振りを見せられることになる。

 8.26日、全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括し、分裂主義者にたいする決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択している。武井委員長が再選された。


 9.8日、サンフランシスコ平和条約、安保条約が締結された。


 大金氏は、「早稲田通信第3号」(2004.8月)の「松下清雄の書き下ろし小説『三つ目のアマンジャク』について」で、次のように記している。
 1951年夏の再度のコミンフォルム批判で学内での活動拠点を失った松下は東大の安東仁兵衛や柴山健太郎などとともにその年の秋頃、山口武秀率いる常東農民組合でオ ルグ生活に入った。その活躍ぶりは伝説的で流石の安仁が「松下の真似はとてもでき ない」と完全に脱帽していた。


 9.8日、サンフランシスコ平和条約、安保条約が締結された。


【早大細胞政経班会議が新綱領(51年綱領)支持表明】
 9月中、早大細胞は、上石神井にて早大細胞政経班会議を開いた。細胞キャップ・松本哲男は、新綱領草案(=日本共産党の当面の要求=日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いである)を提示、新方針による分派の完全粉砕と党の統一をうたった。この時新綱領=51年綱領を全員が支持を表明したと伝えられている。

【Yのこと】
 党が軍事方針にそって動きだしたとき、早稲田でも「一に忠誠、二に体力、三、四がな くて、五に度胸」という資質をもったものがリクルートされ、Yに編成された。結成時の荻窪会談では、上部機関のものより「これからは目的のためには手段を選ばず、火付け、 強盗、なんでもやる覚悟でのぞめ」と訓示された。同時期早稲田以外にも東大、一橋大、明治、お茶の水大などにもつくられ、それぞれ目標が与えられたが、早稲田は市ヶ谷総司令部ときまった。この攻撃はメモリアル・デーで休みになる日を選び、五・三〇記念に決行される新宿の集会に対する陽動作戦として実行された。(由井説六・二五は誤りか)この〃快挙〃は上部も高く評価し、「論功行賞」として三八銃一丁が「下賜」されるということであったが、これは空手形におわった。
 

 五・八事件のとき最初主導的に動いたのはYである。東大に本富士署のスパイが潜入し、 学生に摘発されたというニュースがもたらされ、早稲田にも入って来ているに違いないと いうことで、事件の二日ほど前から〃学内パトロール〃なるものを実行していた。「怪し い奴」と思い、誰何したら、相手も誰何してきて、同じパトロール隊員と判明したという 笑い話みたいなこともあったが、結局は摘発に成功したのである。しかしその後の展開は 予測もしない方向に向かい、遂にあの惨劇になってしまったのである。われわれは〃プロ 〃として、「必ず弾圧があるから、今のうちに逃げろ」と忠告していたのだが、純粋な心 情をもつ、座り込み学生には結局聞いてもらえなかったのである。その意味で五・八事件はわれわれにとっては後味の悪いものに終わった。 早稲田での私のYとしての最後の〃仕事〃は当時の悪名高い自治庁通達反対運動に関連 したものである。細胞は九月(五三年)に開かれる「通達撤回全都学生総決起大会」に向 けて反対運動を盛り上げていった。大会の前の晩上部機関も交えて当日のYとしての戦術会議が開かれた。そこで決定されたのは一番多い早稲田のデモ隊を先頭にする、その最前 部をYでかためる、デモが自治庁の正門前にさしかかったとき、「自治庁の前に座り込も う」とデモに呼びかけ、正門前に誘導しよう、というものであった。当日、大隈講堂前で 例によって出発前の勢ぞろいをしていたところ、カバンを抱えた学生が多く混じっている ことに気づいた。これは〃素
人さん〃(一般学生)が多いこと、従ってデモ参加者が多く なることを予感させた。出発時の歌は「国際学連」でもインターでもなく、「都の西北」 となり、人数も最終的に一〇〇〇名位にまでふくれあがった。デモは永田町を過ぎ日比谷 方面に向かい、いよいよ自治庁(旧)正門前にさしかかったが、前夜打合せした「学生諸 君、自治庁に突っ込もう」というその一声が、何故かどうしてもでなかった。結局何事も なくデモ隊列は粛々と過ぎ、最終地日比谷公園に向かってしまった。「これは大失態をや らかした」という思いと「五・八のように犠牲者を出さなくてよかった」という思いが交 錯したのを今でも鮮明に覚えている。上部機関からのお咎めを覚悟していたが、何故か何 の音沙汰もなかった。今から思えばこれはやはり〃政治〃と〃軍事〃のはざまで起きたこ となのだろう。 それから、一ヵ月も経たないうちに、私は〃学生運動家の墓場〃(由井説)〃山〃に入 った。何となく運動も自分自身も転換点をむかえたことをさとったからである。(国際労働運動研究協会)

【全学連執行部内の所感派と国際派の指導権争い】

 51年秋から、党中央は、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。51年の暮れから52年を迎える頃には、全学連内の対立は国際派から所感派へ優位が移行していった。安東氏は次のように証言している。

 「グランド地下の隣の都学連の部屋は既に所感派の諸君に占領されていた」。

 10.6日、都学連において国際派執行部が辞任させられ、反対派に指導権を渡した。しかし、この時点では、全学連中執は国際派が掌握していた。10月頃より、武井派が排斥され始め、武装闘争に向う徳球系党中央派の学生党員が指導権を握っていった。


 10.16日、早大の大隈小講堂で学生生協設立総会。


 10.26日〜 明大.全国主要自治会代表者会議。


 11月、都学連が「〃学生戦線の統一.全国学生の要求31項目」を発表。この時、全学連中執排除を決議している。


 11.7日、「第一回京都人民解放物故者慰霊祭」が開かれたがこの時「水谷長三郎代議士宅襲撃事件」が発生している。これは、約1000名のデモ隊に参加していた京大、立命、同志社大の民青団系の学生が、水谷長三郎邸前を通ったとき「山宣を裏切った水長を倒せ」と野次りながら乱暴狼藉を働いた事件であった。


 11.12日、京大で、京大学友会が天皇への公開質問状を突きつけ、約一千の学生が天皇裕仁の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃するという事件が発生した。これは京大細胞=所感派の準備と指導で取り組まれた。この事件に対する二つの見解が発生し、全学連中執は、概要「京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いである」とした。日共主流は、概要「天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけるべし」とした。


 11.12日、徳球系党中央派の学生党員京大細胞の準備と指導により、約一千の学生が天皇の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃した(「天皇事件」)。この事件に対する見解が対立し、全学連中執=京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いであるとした。日共主流=天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけて宣伝した。

 これにより京大同学会は解散させられ、京都の学生戦線に露骨な弾圧が始まった。こうした状況下で、11月、同志社に民主青年団同志社班が組織された。


【都学連が武井系全学連中執を批判し、絶縁宣言声明】
 11.23日、東京都学生自治会連合執行委員会(都学連)は、武井系全学連中執を批判し、絶縁宣言を声明した。「全学連中央執行委員会不信任決議(案)」を可決し、〃反帝闘争偏重、出隆かつぎだし、青年祖国戦線へのヒボーなど全学連中執の独善的指導にたいする非難.絶縁宣言〃をしている。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。

 「千原靖雄/朝鮮戦争下の〃戦士たち〃―五十一年から五十三年の回想記― 」参照。

 「国際派は当時の主流派に屈伏し、路線闘争は終息し、強引ではあったが党の統一は実現した。たまたま五一年十一月に開かれた都学連大会で傍聴席から怒号する全学連中執の安東(仁)氏、これに対抗する主流派の面々、そして全学連中執不信任決議の採択という歴史的場面に私は立ち会った」。

 11月、共産党.このころ「球根栽培法」「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行し、11月共産党はこのころより山村工作隊を組織し始めた。


 12.2日、都学連.新執行部による大会を開き、全学連中執不信任案、可決。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。


 12.10日、早大で全学学生協議会が発足。昭和27年に、全学協=全学自治組織連絡協議会という、各学友会、学生会の協議機関(理工学部を除く)が結成されたが、念願の公認問題を解決できなかった。


【反戦学生同盟(反戦学同)の結成】

 12.15日、武井派の音頭で反戦学生同盟全国準備委員会総会が開催された。全国委員32名、評議員・オブザーバー30余名が出席し、民青団による反戦学生同盟の解体提案をめぐって議論を白熱させた。民青団の提案は、当時の共産党中央徳球系指導による武装闘争路線を背景にしており、1・革命的情勢に応じて学生も武装闘争に参加しなければならない、2・反戦学生同盟の存在は分裂的であり、解体させ民青団に合同させねばならない等々と主張していた。当時の学生運動の危機的な分裂状態を背景にしていたことになる。採決の結果、賛成4、反対18、保留2の多数決で否決した。これにより、反戦学生同盟(反戦学同)が結成されることになった。

 
この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」と学生の闘争エネルギーを過小評価しているのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより、社会的影響力を持つ一勢力として独自的に認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。


 12.24日、早大.社研、小河内村に農村調査隊派遣。この年の暮れから正月かけて全党のトップをきるように早大の社研グループが小河内の農村調査にいった。


【1952(昭和27)年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1952年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 武井全学連委員長は、新年メッセージで、「我々の間の思想、信仰の幾多の相違にも拘らず、相互の理解を一層深め団結をかたくし、我々の共通の目的がより有効に勝ち取られるよう、最大限の誠意と努力とを、以前のどの年よりもはらうよう」と述べた。  

 51年の暮れから52年を迎える頃には、全学連内の対立は国際派から所感派へ優位が以降していった。「グランド地下の隣の都学連の部屋は既に所感派の諸君に占領されていた」と安東氏は証言している。


 1月、「白鳥警部射殺事件」発生。


 1.12日、全学連中執会議が開かれ、激しい論争が為された。


 1.26日、都学連.全国自治会代表者会議が開かれ、63校が集まり、「学校当局、警察権力の弾圧に対して徹底的闘うことなくして、経済的諸要求はかちとれない」ことを決議、全学連中執不信任が決議された。


 2.17日、津金の指揮する日本共産党早大傘下の中核自衛隊が、早朝より牛込警察署長官舎を襲撃。


 2月、早大の津金、由井ら20名ほどが党の山村工作隊を名乗って(小河内に)乗り込む。


【東大でポポロ座事件発生】

 2.20日、東大でポポロ座事件が発生した。劇団「ポポロ座」の演劇発表会に警視庁本富士警察署の私服警官数名が潜入していることが判明、事件となった。多数の学生が取り囲み一部暴力もふるわれ、警察手帳を奪った。押収した警察手帳には学生・教職員・学内団体の思想動向と活動に対する内偵の内容が記されていた。手帳押収に際して暴行があったとして学生が起訴された。

 (元東大学生自治会中央委員会議長、現日本平和委員会常任理事)吉 川 勇 一「全学連OB健在なり」(『文藝春秋』1965年5月号に掲載)は次のように記している。

 「簡単にいうと、数年にわたつて東大に入りこみ、学生自治会やサークルの活動家はもちろん、教授の思想傾向や交友関係までもスパイしていた三名の本富士警察署員が学生に摘発され、その警察手帳に記されてあった戦前の特高警察そこのけの内容が.バクロされ、果ては衆参両院にまでとりあげられて重大な社会問題になった事件がそれである。

 ところが、学問の自由と学園の自治をふみにじった当の警察官は罰せられず(それどころか、そのうちの一人は出世(!)して警視庁勤務となった)、この憲法違反を摘発した学生が、何と「暴力行為等処罰にかんする法律違反」の名で逮捕され、十一年のちの今まで延々と裁判が続けられているのである。

 幸い一審、二審とも無罪となり、そこでは刑法学上にもよく引用されるほどの「名判決文」が出されたのだったが、それでも検察庁はあきらめきれず、最高裁へと上告した結果が、現在の公判なのである。(中略)この事件は、「第一東大事件」、「ポポロ座事件」あるいは「警察手帳事件」といった方が判りやすいかもしれない」。

 この事件に対して、「大学の自治」を強調して「不法に入場した警官にも責任がある」とする見解と、「いかに学内であっても、暴行を受ければ警察権を行使するのは当然だ」とする田中栄一警視総監談話を廻って各方面に論争が繰り広げられることに鳴った。そういう意味で問題となった事件であった。

 第一審・第二審はともに被告人の行為は大学自治を護るための正当行為に当たるとして無罪判決。しかし最高裁は原判決を破棄、大学の学問の自由と自治は直接には教授をはじめとする研究者の研究・発表・教授の自由とそれらを保障するための自治であると限定的に解釈した上で、当日の集会は「真に学問的な研究と発表のためのものでなく」、大学の学問の自由と自治の範疇外にあるから警官の行為は違法でないとした。


【東大農学部拡大中執で、所感派による国際派追放大会】
 3.3日、全学連の全学連第1回拡大中央委員会(拡大中執)が東大農学部で開かれ、所感派による国際派追放大会が開催された。高沢、家坂、力石らの「君子豹変」。土本、安東、柴山、二瓶、下村らが〃国民の敵〃として非難、追放され、新しい中執が選出された。これにより、1948年の全学連結成以来日本学生運動の反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部は辞任することとなった。武井派は、「学生戦線統一の観点から辞任することとなった」と、総括している。指導権を握った所感派は、中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。早大、東大、お茶大らに軍事組織が結成され、火炎瓶闘争を実践していくことになる。

 全学連第一回拡中委「全学連第一回拡大中央委員会を終るに当り、全国学生に訴える」は次のように述べている。
 「過去二年間に亘って学生戦線を分裂させ、学生を他の国民諸階層から切りはなすことに躍起になっていた中執内部の一部悪質分裂主義者は、全国各地の代表によって徹底的に批判され遂に学生戦線から追放され、全学連は全国学生の要求によって、全学生と全国民の手にとりもどされた」。
(私論・私観) 武井執行部の辞任について
 この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが、れんだいこはそうは見ない。この頃武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。 

 3月、早大細胞が畠中山村工作隊へ。


 3月、破防法国会提出。この頃、破防法反対闘争なども取り組まれている。


 3.19日、早大で第3回全学学生自治組織協議会が開催され、全学自治会の再建を確認する。  


 3.28日、非合法機関紙「平和と独立」の印刷所、配布先など全国1850ヶ所が捜索された。


 3.29日、山村工作隊の一斉手入れ。小河内村・山村工作隊23名(早大で津金、由井ら)が検挙された。政府が破壊活動防止法案要綱を発表する。
【武井グループの四散】
 4月、全学連の安東、柴山、松下らが常東農民組合へ。武井は文芸評論を志す。「文学のブの字も口にしたことのなかった武井昭夫は『文学の批評でもやってみたい』といって私をおどろかせた」とある。

 4月、早大の由井が学内で中核自衛隊「民族解放早稲田突撃隊」(.隊長=由井.各学部の党員10人ほど)の編成に着手。早大からの学生工作隊は弱まりながらも続き、延べ千人近くに及んだという。


 4.12日、総評が破防法反対のゼネスト(破防法反対第一波スト)を展開。強力な実力闘争を展開した。


 4.18日、破防法反対第二波スト。


 4.20日、早大の「全学自治組織連絡協議会」規約草案まとまる。各組織検討へ。


 4.27日、サンフランシスコ講和条約発効、破壊活動防止法反対反対闘争に取り組む。


 4.28日、講和条約(サンフランシスコ平和条約、日米安保条約)が発効した。「GHQ」の廃止が発表され、実質的にアメリカ帝国主義の全面軍事占領であったものが終結し、軍事基地が要衝に残置された。


 4.30日、東大内にあった全学連事務所の強行閉鎖が行われた。


【「第23回血のメーデー事件」発生】

 5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは「流血メーデー」となり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。

 1952.5.1メーデーは、全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーでは、「講和、安保二条約粉砕」、「民族の独立を闘いとれ」、「朝鮮即時休戦」、「破防法反対」などのスローガンが掲げられていた。復刊されたアカハタ第1号が配布された。由井らが岩田英一の指示によりメーデー会場にて赤旗を販売、とぶように売れた。

 デモ隊の一部から誰言うともなく「人民広場に行こう」の声があがり、数万のデモ隊が人民広場に向かっていった。この時、デモ隊の一部が暴徒化していたとも云われているが前後の絡みが不明である。「メーデー事件は、党の軍事方針にもとづく計画的騒乱だというのは考えられな い」とする見方が正確のようである。

 これに対し、警察当局は、デモ隊を広場へ引き入れた後数千人の武装警官隊によって襲撃させた。戦後初めての公権力によるデモ隊襲撃の阿修羅図となり、デモ隊も応戦して「まるで市街戦のような真昼の流血」となった。労働者.学生2000名の応戦も激しく4時間にわたる大乱闘の白兵戦となったと云われている。

 翌5.2日、田中警視総監は、「警察官の重傷68名、軽傷672名」と発表している。5.6日、木村法務総裁が「外国人の負傷は13名、暴徒側の負傷者は200人と推定、デモ側に死者1名、奪われたピストル3丁、焼失した米軍車両14台、損傷した車両101台」であることを確認している。最高検察庁は、騒擾罪を適用して、1100名の大検挙を行った。

 法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、300名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。最高検察庁は、騒擾罪を適用して、1100名の大検挙を行った。 早大生は夕方から夜にかけて200名ばかりで演説会を行い、学内をデモ行進、早大から千人近く参加。キャンバスは騒然とした雰囲気であった。包帯を顔に巻いた学生たちが集会を開いていた、とある。

 予想外の大事件の勃発に対して、総評指導部は、「共産分子が行った集団的暴力行為」、「メーデーを汚した反労働者的行為である」と激しく非難した。党が武装闘争方針を明確にしていたことから党の軍事組織がこれを計画し実行したかのように受け取られたということである。

 党は、徳球書記長が地下から「最も英雄的行為、日本における革命運動の水準がいかに高いかを示した」と機関紙で評価し、「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」(組織者6.1日第11号社)では、大衆の革命化が党の組織的準備を上回っており、党の実践のほうがむしろ立ち遅れているとみなした。党中央は、この群衆のエネルギーのなかに、武装闘争を推進させる条件が存在していると判断し、火炎ビン闘争を推進した。それは党にとっての史上初の武装闘争の道であったが、当然当局の取締り強化とのせめぎ合いであり、いかんせん党内でさえ足並みが揃わぬままの突っ走りとなったこともあり、結局は徳球党中央を自壊させる道となった。

(私論・私観) 「血のメーデー事件」の背景について
 今日なお、「血のメーデー事件」の背景が見えてこない。はっきりしていることは、1・数千人の武装警官隊があらかじめ配置されていた。2・党中央の軍事方針にもとづく計画的騒乱ではなかった、の二点だけである。この間隙を埋めるのは、3・急進派の用意周到な裏工作に拠る挑発、4・当局スパイ派に拠る挑発、のどれかであろう。

 5.7日、由井ら「民族解放早大突撃隊」が、騒乱罪適用で萎縮した活動家たちにむけ(上部の勧告により)軍事組織の存在をアピールするため「武器をとって戦おう-民族解放早大突撃隊」の隊員募集ビラを作成配布した。

 「我が隊は民族解放の為に、米帝売国奴と死を賭して闘う軍事組織である。我が隊はこの輝かしい5.1を記念して、巨大な闘いを更に発展させ世界の平和と民族の解放を闘いとるため諸君の入隊を期待する」。

【「第2次早大事件」発生】
 5.8日、早大で第2次早大事件が発生した。神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁。救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。9日午前1時過ぎ、武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちの再結集.都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会。メーデー参加者逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察500名と衝突、学生に多数の負傷者がでた。負傷者100名余、26名逮捕される。

 5.9日、午前1時すぎ武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちが再結集し、都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会を開いた。党は「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判。メーデー参加者を逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突。学生の負傷。

 浅沼稲次郎ら、仲裁に入る。「昭和二十七年,早稲田大学事件というのがありまして、例の警官隊が乱入して大変な騒ぎになったときであります。私も夜遅くまで校庭に残って、仲間と一緒に『警官帰れ』、『警官帰れ』と言って声を嗄らしていた一人でありましたが、あのとき、川崎秀二代議士や、石田博英代議士や先輩の代議士が来られて、『感情的になるな』、『暴力を振るうな』、『話し合いできちっとしろ』と、いろいろお諭しを受けたことを覚えております。そして、『早稲田大学の校歌を歌って帰れ』と言われて、帰ったことも思い出します」(海部総理大臣演説集,618−632)。


 この時のことは、次のように回顧されている。
 「昭和二十七年,早稲田大学事件というのがありまして,例の警官隊が乱入して大変な騒ぎになったときであります。私も夜遅くまで校庭に残って,仲間と一緒に『警官帰れ』、『警官帰れ』と言って声を嗄らしていた一人でありましたが、あのとき、川崎秀二代議士や、石田博英代議士や先輩の代議士が来られて、『感情的になるな』、『暴力を振るうな』、『話し合いできちっとしろ』と、いろいろお諭しを受けたことを覚えております。そして、『早稲田大学の校歌を歌って帰れ』と言われて、帰ったことも思い出します」(海部総理大臣演説集,618−632)。

 総長先頭に全学的抗議集会。大学側が次第に軟化、喧嘩両成敗的妥結。これを第二次早大事件と云う。

 5.14日、同志社大で、破防法反対共同闘争委員会が結成される。以降、京都を「破防法反対」の全国的中心地にたらしめる闘いを繰り広げていった。


 5.28日、同志社大が、全額学生大会で全学連への加入を決議する。


 5.30日、全国各地で「5.30記念集会」。新宿,早大,東大,お茶大らの軍事組織がはじめて火炎瓶闘争。「破防法粉砕総蹶起大会」。「三方向から各10人ぐらい、一人2本ずつの火炎瓶。〃私のあずかり知らない火炎瓶闘争が新宿駅を皮切りに出現した〃」とある。


【党中央青年学生対策部が「学生運動の方針(案)」を発表】

 5月、「学生運動の方針(案)」が共産党中央青年学生対策部によって発表され、直後の全学連第5回大会の指導方針となった。


 6.7日、破防法反対第三波スト。


 6.9日、早大一法「学友会」が発足する。芹澤委員長を選出する。9.17日、学生大会。9.10日、「破防法粉砕 全都学生総決起大会」、於早稲田、4000名。大学当局禁止措置。この日、東大でも「破防法粉砕全都労働者、市民、学生総決起大会」 を開催し6000名参加。1000名が参議院へ陳情。9.18日、早稲田大学教授有志(113名)が破防法に反対声明。


 6月中旬、早大.土本ら3人の活動家、除籍、退学処分。


 6.10日、全国統一行動。早大.破防法反対総決起大会、10月争以来はじめて全都の学生4千結集。


 6.17日、再度全国統一行動。


 6.20日、日本共産党早大細胞が「〃6千5百の学生・市民を結集し破防法粉砕全都総決起大会、教授有志による破防法反対声明文、日本共産党学生運動テーゼ発表〃」とある。


 6.25日、早大細胞軍事組織が、朝鮮戦争勃発2周年で、地区委員会と共同して米軍司令部にテルミドール爆弾を投擲した。この頃、早大理工学部党員らが在日米軍総司令部(市ヶ谷)襲撃を計画。テルミット法を研究し、「米軍総司令部への攻撃を指示された」とある。(梅雨の切れ目のある日)理工学部屋上で中核自衛隊の緊急会議が開かれ、地区より「パルチザン闘争=独立遊撃隊」の提起と「隊員供出」の指令が有り、地区内の各隊からひとりずつ5人で編成、6月に出発することとなった。早大から由井,小林.Kが参加した。「私は市ヶ谷の米軍総司令部への攻撃など、当時の極左路線から惹き起こされたほとんどの事件にかかわってきた札付きの武闘派であった」とある。目標のドラム缶の集積が空で失敗、その夜小林勝が新宿駅周辺の衝突で逮捕。小林は改造モデルガンを所持、30人逮捕。


 6.25日、吹田事件。


【全学連第5回大会】
 6.25〜27日、全学連.第5回大会が2年ぶりに開かれた。54大学の代議員197名、20大学のオブザーバーら400名が参加し、所感派が国際派から指導権を奪い取ることになった。武井ら旧中執20数名の除名追放が決議された(この除名決議は55.11月になって、誤った措置として取り消されることになる)。

 大会は、「反ファッショ行動組織」の結成を訴え、結語として「国会の即時解散、吉田政府打倒、民主的日本政府樹立」を宣言した。反戦学生同盟の解散決議、「27名の国民戦線からの追放」(武井委員長、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫、山中明ら旧中執系20数名の除名追放)が決議された(この除名決議は、六全協後の55.11月になって、誤った措置であったとして取り消されることになる。

 大会は、新たに委員長・玉井仁(京大)、副委員長・妹尾昭(東京外大)、早川正雄(立命大)、書記長・斉藤文治(東大)らを選出した。つまり、国際派に占拠されていた全学連中執を党中央系が奪い返したことになる。こうして党内の大激震下で徳球系執行部を支持する所感派学生党員は、52年の全学連第5回大会で武井委員長ら旧執行部を追放し主導権を握った。(武井、安東、柴山らの東大グループ、吉田、松下、石垣らの早稲田グループが「国民の敵」として追放された)


 玉井新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになっ た。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。この間、国際派学生党員グループは、自己批判し武装闘争に向った者、反戦学同的運動を継承しつつ主に平和擁護闘争を取り組んだ者、自己批判を拒絶して戦線離脱した者という具合に分岐したようである。留意すべきは、どちらの動きにせよ党指導下のそれであったことであろう。


 「祖国と学問のために」創刊。農山村工作、就職闘争、平和擁護運動、国際連帯・軍事基地反対闘争、サーク ル活動、うたごえ運動の発展へ向かう。これにより浅間山闘争、妙義山闘争、内灘闘争に向かう。日経連「赤い学生の就職拒否」方針を打ち出す。
 1970.3.22付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」では、概要「国際派系代議員は、人民警察隊と名乗る所感派系の中核自衛隊の学生党員に鉄棒、焼きゴテなどによる凄惨なテロ、リンチを加えられた」とあるが、真偽不明。

【全学連.立命館地下室リンチ事件】

 6.26日、全学連第5回大会の最中で、全学連による立命館地下室リンチ事件が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。自己批判と「スパイ系図」作成が強要された、と伝えられている。この時、反戦学生同盟員だった立命館大学の学生/松本忠明君は「帝国主義者のスパイ」として赤色リンチを受け、1957年に「*行う」を書き上げたに自殺しているとのことである。

 
この事件に関して、山中明・氏は、次のようなことを明らかにしている。

 「ちなみに彼らの示した『CIC のスパイ系図』なるものには宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫の各氏が中心人物にすえられてあった。これはいまでこそ噴飯ものにすぎぬことであったが、当時そのことが血で血を洗う事件となり、皮肉なことだが、党内闘争は『武装闘争』の如き観を呈していたのである。この13校27名にわたる追放リストには武井昭夫、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫の諸氏及び山中明が含まれていた」。

 「渡辺恭彦/広松渉の思想、と実践(上)一戦後E本における学生運動の軌跡をたどって一」が次のように記している。
 「広松はこの時期、九州に活動の拠点を置き、党内部の国際派に沿った行動をとっていたようである。この時期の共産党は、所感派と国際派とが対立しており、全国に先駆けて反戦学生同盟の結成を呼び掛けていた九大の学生と接触があったことなどから広松は国際派と腕まれ、その結果、党から除名処分にあっている。平松自身は、『まあ要するに考え方がよろしくないというんでクピになった形で、すね、形式上はね』 と回想しているように、国際派よりの考えを持っていたことを認めている。また、1964年の『東大学生新開』での回想、でも、『日本の学生運動』を執筆した1956年当時も旧国際派路線に固執していたと述懐しており1950年の体験は後の理論形成にも影響を残すことになったようである」。
 「そして、高校を退学処分、党を除名処分になった広松は、1951年11月に当時発足したばかりの大検に合格した後、1952年には東京学芸大学数学科に一時籍を置いている。そしてこのとき、広松が巻き込まれるのが、『現代版寺田屋騒動』といわれるテロ・リンチ事件である。1952年、武井全学連中執委員長の意留に反して、前衛的な学生の大部分は、極左冒険主義の志向を持つようになったと云う。 そうした学生の動きが起こったのと同時期に、当時の吉田内簡は、3月27日、特別治安立法として破壊活動防止法案要綱を発表する。これは、日米軍事同盟に沿うための、国内の反体制運動に対する露骨な干渉を意味していたとされる。この破防法反対のために各大衆団体は闘争に立ち上がるが、大衆のエネルギーは破防法反対闘争だけに向けられたわけではなく、各地で挑発的な闘争が巻き起こっていった。このように、極左冒険主義が全国で展開されるなか、1952年6月初日、広松は東京学芸大の代議員として全学連第五回大会が行われる京都へと赴いた。そこでリンチ事件が起こったので、ある。事件は26日夜発生し、五回大会期間中、三日二晩にわたった。26日大会開催当夜、まず関大、立命館大の反戦学生問盟が『人民警察隊』と自称する日共(京都)府県委員会の指導する学生党員たちのため、立命館大の地下の一室に監禁された。三日ニ晩殆んど絶食状態におかれ『スパイ系図』など、気狂いじみた内容の自白を強要され、皮バンド、直径二糧の鉄棒、焼きごて、荒なわなどを使用してなぐる、けるの暴行を加え、それは言語に絶した。リンチ事件発生の翌日の朝、彼らは手に手に鉄棒をたずさえ反戦学生同盟員の寄宿先の個人宅を襲い、大挙して部屋に乱入し、大立ちまわりとなった。『現代版寺問屋騒動』 といわれる所以である。このあとさらに立命館大、名大、東京学芸大の三名がリンチを加えられ、各々縛られたり、自かくしをされて、『帝国主義者のスパイ』 であるとの自白をせまられ、拒否し続ける関盟員になぐる、けるの暴行が続けられた。…しかし、彼らはテロ・リンチによって反戦学生同盟を屈服させることはできなかった。ここにみられる『東京学芸大』の学生が広松渉である。後年、このことを広松は、『僕はねえ、逮捕歴はないんだ。リンチされたことはあるんだけどねえ』と笑って述べたという。その後、広松は九州lに帰り受験勉強をしたのち、1954年には東大に入学している。一年休学して九州に戻っているが、翌日年には再び東京に上京し、旧国際派の残党が多くいる東大教養学部歴史研究会に入っている。同じ年の7月に日本共産党第六回全国協議会(通称六全協)が開催された際には、旧国際派の無条件の復党が認められ、広松も復党したのだった。このことを庚松は、後年の1964年6月17日、『東京大学新聞』でのコラムで55年の六全協について説明しており、『旧国際派を復権した点で画期的なものである』と高く評価している」。
 注/このとき廃松は反戦学向には加盟していなかったようだが、次の資料から分かるように、事実上、同盟員と悶じ扱いを受けている。f1952年6月26日から28日の3日間にわたって、第五回全学連大会が京都で開かれた。この期間中に日本共産党立命館大学級胞によって大会の正式代議員、評議員及び傍聴者として京都に集った反戦学生同盟員、教育大学飯島倍以下11名、並びに非同盟員で、ある東京学芸大学の広松渉君に対して皮バンドその他の道具を用いて集団的暴行が加えられた。これは第五回全学連大会で採択された『反戦学生同盟解散支持決議』及び武井昭夫旧全学連執行委員長以上27名の同盟員、非同盟員を『学生戦線より追放する』決議の裏付けをするため反戦学生同盟が共産党の分派組織であり、旦つ帝国主義者の意識的スパイとして学生戦線分裂の策動を行ってきたという『自白』を強要して行われたものである。JW資料・戦後学生運動第3 巻~ (三一書房、1969年)、77頁。(資料によって庚松が広松と表記されていることがあるが、以後特に注記せずママとする)
(私論・私観) 「CIC のスパイ系図」について
 この事件の重要性は、「スパイ系図」にある。山中明氏の著作「戦後学生運動史」(青木新書、1967年)を参照すると、この時指摘された「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫」スパイ説の根拠と当否は今に至るまで検討されていない。というか、今日この時の「CIC のスパイ系図」が完全に闇に葬られている。

 れんだいこから見て、「『CIC のスパイ系図』なるものには宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫の各氏が中心人物にすえられてあった」とはかなり貴重な資料になり得るように思われる。これを明らかにしている山中氏自身が「噴飯ものにすぎぬ」としているが、れんだいこはそうは見ない。それは余程の確証によった作成されたものではなかろうか。貴重なこの「CIC のスパイ系図」の具体的中味を更に知りたいがこれ以上は分からない。

 付言すれば、武井昭夫、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫(飯島、教育大)、山中明らはいずれも、宮顕の息の掛かった学生グループであり、宮顕が党中央を簒奪するや順繰りに切り捨てられていった面々である。

 5回大会以後、全学連は極左的傾向を漸次改め、内灘、妙義、浅間などのアメリカ軍事基地反対闘争に取り組み、浅間闘争では東大でクラス討論を重ねて3000名の学生を動員して戦った。


 52―53年頃の東大本郷は、「吉川勇一、武藤一羊、中島武敏の3人衆により指導されていた」とある。


 7.4日、破防法成立。


 7月、全学連が各地で農村調査工作活動を開始する。


 7.17日、早大.滝沢林三、榊原喜一郎、破防法粉砕全都蹶起大会、早大責任者として、無期停学。


 7月、「大須騒擾事件」発生。


 8.6日、アサヒグラフが原爆記事掲載。


 8月、党はこの夏、井汲塾スタート。常連は上田兄弟,力石ら。 


【1953(昭和28)年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1953年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 2.21日、反戦学生同盟第2回全国委員会開催。


 3.15日、スターリン没。


 3.16日、東京都学生自治会連合執行委員会ビラ「総選挙に際し全都の学友諸君に訴える」、〃アピールと裏面に選挙対策会議への招請状〃。


 3月、反戦学同第2回拡大全国委開催される。6月、反戦学同第3回全国委、自治庁通達(選挙権は郷里)に反対決議。


 3月、早大法学部の戒能通孝教授が「諸君の不勉強に飽きた」と辞職、波紋を呼ぶ。


 4.19日、第25回総選挙で共産党当選1名。革新政党前進。


 4月、沖縄で、米民政府のルイス民政官が日本留学生(契約学生)で赤化した者は解約すべきとの書簡。


 4月、早大全学協の「国民的課題のための体制と活動」 が打ち出される。*基地対策委員会(浅間妙義演習地反対闘争支援) *水害対策委員会(九州・中国地方水害救援活動)。全学協が戒能問題を協議。第二学部中心の単一学部制運動の支援。


 5.17日、早大.一政学友会ら18名、3日間にわたり図書館前でハンスト。経済闘争と政治闘争の対立。


 5.19日、早大.一政学友会の全学協加盟を満場一致で決定(第2回総会.全学協加入を決議)。「大学のPTA」構想問題に反対 各地に高まる機知反対運動―全学協、妙義・浅間基地問題等協議 全学協28年度第一回全学学生協議会―活動方針と役員改選 *議長・芹澤(一法) 副議長・孫(一政) 総務・高橋(一商) 会計・阪 田(二政) *活動方針の柱―平和の擁護、民主主義の擁護、学生生活の擁護と向上(賛成8 学部、保留1・教育)。


 6.9日、日本共産党早大細胞ビラ新聞「日刊真理 No.2」.〃重ねて六・一〇ゼネストを訴う〃。


【全学連第6回大会】
 6.11日、全学連第6回大会開催。70大学140自治会の代議員165名とオブザーバー500名が参加した。この頃基地反対闘争が中心課題となっていた。委員長に阿部康時(立命館大)、副委員長・大橋伝(横浜国大)、松本登久男(東大)、書記長・斎藤文治(東大)が選出された。

 大会
は、「学園解放のための当面の綱領」を採択。基地反対闘争を中心として「反吉田反再軍備統一政府の樹立」を闘いとることを宣言し、「学生は民族解放の宣伝者になろう」が強調された。この大会決議に基づいて、大会後全学連は、進歩派教授と協力して、憲法改悪反対の講演会を開き、夏休みには一斉に「帰郷運動」で農村に入った。 

 6.13日、内灘座り込み闘争開始。6.15日、早大が内灘闘争報告。軍事基地反対国民大会。


 6.15日、この日より金沢市郊外の内難村海岸で米軍の試射演習が開始された。これは52.11月に米軍より申し入れがあり、村民の反対にも関わらず12.2日政府は施設提供を閣議決定していたことによる。反対派住民は浜辺に小屋を建てて座り込み抵抗闘争に入った。いわゆる内難基地闘争と云われる。結局、政府は試用期間を3年以内とし、住民には補償金を出すことで収拾した。


 6.18日、自治庁通達「学生の選挙権を原則として郷里におく、止宿先きにはない」が地方選挙管理委員会に通達され、学生が反発して問題化。通達に基づき茨城大生123名の氏名を名簿から削除、問題が表面化する。全学協反対声明。


 6月、各大学で平和祭、全面講和請願集会開催。


 7.4日、早大で、全学協軍事基地対策委員会発足。


 7月上旬、学生帰郷運動(農村調査工作活動)開始。


 8.12日、コミンフォルムが第4回全国協議会支持論文を発表する。これにより国際派党員が復党へ向かう。日本共産党主流派が「新綱領(51年テーゼ)」を採択。その影響のもとに早大社会科学研究会が小河内へ農村調査隊派遣。都学連委員長(主流派)・伝裕雄が 全学自治会(全学協)再建準備運動の取り組みを始める。


 8.18日、全学連中執が開かれ、自治相通達反対を決議し、「選挙問題対策委員会」の組織化と宣伝署名活動の開始を指令した。


 9.3日、早大で、学生選挙権につき全学協議長声明。「以後1年半の運動。54.10の最高裁判決をもって全面勝利。左派活動家の政治路線との対立」。


 9.4日、全学連拡大中執が開かれ、自治相通達反対闘争の推進を決議し、反対署名運動、労組・文化人への働きかけを行うことを確認した。東京都学連が学生選挙権についての抗議集会を開いた。MSA受諾反対、再軍備体制反対で清水谷公園に都内各大学学生2千名が東京駅八重洲口までデモをかけた。


 9.4日、全学協基地対が、夏期中の九十九里、砂川、内灘、浅間、妙義における活動を総括する。


 9.7日、早大全学協議長声明、クラス・サークル反対決議 一文、二文、一商、二政、二法の五学部―全学協に執行権委譲。全学連、都学連が共闘呼び掛け、「国民運動展開の気運」。


 9.8日、対日平和条約、日米安全保障条約締結(10月、国会承認)。


 9.12日、早大全学協総会が基地対策委を正式承認、基地の影響を討議する。


 9.14日、東京 都学連が「自治相通達撤回学生決起集会」を開いた。MSA受諾反対、再軍備体制反対で清水谷公園に都内各大学学生2千名が東京駅八重洲口までデモをかけた。 9.22日早大.大隈講堂.学生選挙権問題についての全学一体の集会.参加2500名。警察の反対を押し切り清水谷公園「自治庁通達撤回全都学生総決起大会」へ。


 9.22日、早大の大隈講堂で、学生選挙権問題についての全学協主催・「自治庁通達撤回要求学生大会」(大隈講堂)が参加2500名で開かれる。警察の反対を押し切り清水谷公園「自治庁通達撤回全都学生総決起大会」へ。同日午後、早大全学協主催・「自治庁通達撤回全都学生総決起大会」 (於清水谷公園)約3500名、四列整然デモ、代表団6名の自治庁への抗議交渉 「通達」への批判、抗議広範に広がる。早大学内教授こぞって反対する。


 9.29日、自治庁再通達「再度“生活本拠”強調」。全学協が10万人署名運動を開始する。


 9月、早大でスクールバス値上げ反対闘争。


 10.2日、池田・ロバートソン会談(自衛力漸増の共同声明) 。


 10月、日本共産党第5回全国協議会が開催され、山村工作隊、中核自衛隊(武装闘争)へ向かう。


 10月、第25回総選挙。独立後の日本の防衛と再軍備、基地問題が争点となる。


 10.5日、日本共産党早大細胞が「本当の敵がわかった、警視庁、全学協代表に始末書書かす〃」。


 10.8日、全学協―全国大学へアッピール(全文「学生運動資料集」)。  


 10.13日、早稲田大学全学々生協議会ビラ「妙義周辺基地化反対・現地学生センター建設について」。


 10.14日、共産党の徳田球一が北京で没(享年59歳)。


 10.14日、日本共産党基地対策委員会・横川細胞ビラ「裏切り者に大会を運営させるな・基地絶対反対はこうすればできる」、〃アメリカ占領軍、吉田内閣、農協組合長非難〃。


 10.25日、早大.芹澤ほか4人、警視庁の呼び出し.詫び状提出.以降、全学協と早大細胞の軋轢。日本共産党早大細胞.〃ここで負けたら徴兵だ ! !、伊藤律夫人について〃。


 10.28日、全学連.四谷公園.豪雨のなか、「学生選挙権を守る全国学生大会」。北海道、九州の代表を含め約5千、日比谷公園脇までデモ。10. 共産党.「前衛No.85」不破論文=独占資本重視.のちに批判をあびて転向.(安東・続-102)。


 10月、共産党.「前衛No.85」不破論文=独占資本重視、のちに批判をあびて転向。


 11月、京大天神橋事件。


 11.1−3日、第一回統一早稲田祭。


 11.5日、選挙人名簿縦覧はじまる。選挙失格学生が続出する。


 11.6日、早稲田大学復興会議準備会。


 11.8ー12日、日本学園復興会議の開催(於京都) *芹澤議長「学園復興会議から学んだもの」(早大新聞) 。都学連が1日ゼネスト計画呼び掛け、10クラス参加決議 。


 11.24日、全学協と学生選挙権擁護全学対策委員会。12・1スト同調方針を確認。二理に学友会結成の気運高まる。


 11.26日、早大新聞会主催「各学部の学生代表機関とみられる責任者の意見交換会」が開かれ、「速やかに自治組織を」一商中心の全学連絡協議会運動。11月、早大で全学協発足準備体制成る。仮議長に堀田一成(一商)が選出される。


11.29日、早大生協(組合員・7000余名)が第1回総代会を開催する。


 12.1日、都学連.ゼネスト.四谷外堀公園.「自治庁通達撤回要求、再軍備、徴兵反対全都学生大会」議長=芹澤、金沢、松本(東大).学生約5千.国会請願デモ。。早大で通達粉砕全学大会、商学部前広場、300名。「最後まで闘う」決議、後、都学 連大会に合流。


 12.2ー4日、全日本女子学生大会―女子学生の会結成。  


 12.5日、選挙制度調査会が、学生の選挙権は居住地にあると答申し、自治省はこの答申を受けて立法化した。こうして自治省通達反対闘争は、全学連の勝利に帰している。


 12.7日、大山郁夫帰国歓迎大会(早大生4000デモ)。


 12.10日、茨城大生が、学生選挙権での自治庁通達に反対して水戸地裁に提訴。自治庁が、「学生選挙権は現住所へ」に向けて公職選挙法改正の動きを始める。


 12.11日、早稲田大学全学学生協議会(全学協)結成される。芹澤寿良議長、境栄八郎副議長、堀田一成副議長、米川良夫会計に就任、8学部参加。芹澤議長談話が早大新聞 「成立過程と性格について」と題して 発表される。


 12.19日、再軍備と反共を掲げた「学生運動協会」がスタートする。


 (この時期の学生運動、日本共産党との関係)

 1950年初頭の全学連運動は、依拠する党中央の分裂により股裂きされた。ここまで急進主義的に全学連運動を指導してきた武井系執行部派は宮顕派に篭絡され、あまりにも密接に付随した。

 東大細胞と早稲田細胞の反応差が興味深いので触れておく。東大細胞主流派は国際派の頭目・宮顕派に追従した。宮顕指導の結果、東大細胞間に秘密機関「ゲハイムニス・パルタイ」(通称ガー・ペー)が組織され、これが東大細胞の指導権を握った。その上部組織に「E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)」に力石と武井が据わり、安東・戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていた。この過程で、東大細胞内で党中央派と反対派の亀裂が深まり、党中央派寄りであったL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。後釜に戸塚が座るが、戸塚は後に「スパイ容疑」で査問されることになる。

 早大細胞はむしろ百家争鳴的であった。基本的には所感派と国際派の二つに分かれたが、国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色にはならなかった。他にも国際主義者団、神山グループ、その他多様なグループが存在し、それぞれが自己主張していた。当時早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。

 朝鮮動乱の直前に非合法に追いやられた徳球−伊藤律系党中央は中国へ亡命し北京機関を創設する。徳球−伊藤律党中央は、「51年綱領」により野坂式平和革命路線を放棄し武装闘争路線に転じた。この時、武井系執行部派は宮顕の意向に従い、それまでの急進主義の主張を引き込めて日和見的態度を取りはじめ、いわゆる反戦平和闘争に逃げ込み全学連運動全体の指導責任を放棄する。急進主義派に転じた党中央派は武井系執行部派を追い出し、武装闘争路線に呼応する玉井仁新執行部を誕生させた。

 しかし、武装闘争は線香花火に堕しことごとく失敗した。徳球が北京で客死し、伊藤律が幽閉されるに及び徳球−伊藤律系党中央は指導者を失い漂流し始める。志田派が伊藤律派を駆逐しながら党内支配権を掌握する。この志田派が宮顕派と通謀し、党中央再建に向っていくことになる。この間、徳球−伊藤律系党中央に従ってきた全学連急進主義派は茫然自失し始める。

 かく情況が推移していったのが1950年から54年末までの全学連運動であった。分かりやすく云えば、この時期全学連運動は手綱を失い、日共の政争に振り回されることになった。いずれも「日共指導偏重による歪み」と考えられよう。「日共のチグハグ指導と変調指導に対する進発」、これがこの後の全学連運動に対するキーワードとなる。

 この後は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊に記す。





(私論.私見)