第9期その3 1972-75 70年代前半の学生運動

 (最新見直し2006.10.15日)

 これより前は、「70年安保闘争後の流動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「1972年―75年までの学生運動」について記す。


【1972年の動き】 「戦後史72年当時」

【中核派と革マル派の機関紙元旦号合戦】
 中核派機関紙「前進」元旦号は、カクマルに対して次のように論じている。これを転載しておく。
 「我々は、警察権力と結託したカクマルのこのような反革命武装襲撃を、革命派内部のいわゆる内ゲバとみることができるであろうか。断じて否である。同志諸君! ロシア革命において帝国主義的白色干渉軍と同盟し、ボルシェヴィキに軍事攻撃を加えたのが、かのロシア・マルクス主義の父・プレハノフとその仲間であったことを忘れてはならない。リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクを虐殺したのが、社会主義者の大臣ノスケであったことを忘れてはならない。亡命地メキシコにまで刺客を派遣して革命家トロツキーを暗殺したのが、ロシア共産党書記長スターリンであったことを忘れてはならない。これらはすべて階級闘争の軍事的発展の反革命的表現であって、いわゆる内ゲバなどでは断じてないのである。

 もしこれらをも内ゲバなどと呼ぶとするならば、プロレタリア階級闘争はすべて内ゲバの歴史である。マルクス主義の階級闘争論は、一見して内ゲバに見えるような事件をも、革命と反革命の関係の中で整序し、敵と味方を区別するのである。反革命は何も遠くからやってくることは限らないのだ。ロシア、ドイツ、フランス、スペインの街頭や荒野を血で染めた30年代の革命と反革命の衝突を考えてみるならば、反革命は警察ゆ軍隊、民間右翼勢力ばかりではなかったことは明白ではないか。

 社会主義の旗を掲げて社会主義に反対するもの、これこそもっとも恐るべき反革命のあり方の一つなのである。いやむしろ、ムッソリーニのファシズムが社会主義運動から登場し、ヒトラーが社会主義に紛らわしい旗を掲げて行進したことをみれば明らかなように20世紀の反革命は、主要には現状変革をかかげて登場するのである。新しい反革命・カクマル武装襲撃集団との闘争は、70年代闘争の内乱的、革命的発展を保障する重要な柱である。この結論をはっきりさせないものは、革命が血の海に沈んだのちに、地獄で反省することになるだろう」。

 革マル派機関紙「解放」元旦号は、中核派に対して次のように論じている。これを転載しておく。

 「ブクロ派を絶滅するための断固たる闘いをさらに推し進めるに当たって、我々は次のような諸点に留意するのでなければならない。① 今我が同盟が労学両戦線にわたって押し進めているブクロ派に対する党派闘争は、大衆運動の組織化の過程、またそのただなかで推進するイデオロギー的・組織的闘い-このような大衆運動の組織化に従属化した党派的闘い(組織的のりこえ)ではなく、あくまでも我が同盟がブクロ派組織そのものに直接的に対決し、それを解体するという、いわば党派闘争の向自的形態に他ならない。従って我が同盟は、ブクロ派を解体するという、明確なる意識的目的<目的-手段の体系(目的-組織-手段)>を構想し、そのもとに闘争を繰り広げてゆくのだ。② それゆえ我が同盟は、ブクロ派を解体するという目的にとってふさわしい手段を選ばなくてはならない。ブクロ派を解体していくために、我が同盟は原則的に党派的なイデオロギー的・組織的な闘いを主要な手段とするのであるが、この闘いの有効な実現を促すものとして暴力をも必要に応じて行使するのである。かかる暴力の子行使は、我々の目的にとって補助的手段をなす」。

 革マル派は、次号「凋落一途をたどる規制左翼をのりこえ日本階級闘争を革命的に牽引引せよ-瀕死のブクロ派を最後的に絶滅せよ」、「ブクロ=中核派の最後的解体のために」を発表し、次のように述べている。

 「プロレタリア的道徳性の片鱗すらもとどめないこの反労働者的徒党を、我々はプロレタリア階級の名において絶滅し尽さねばならない。権力による攻撃にすくみあがっているブクロ派にとってそれ以上の恐怖は、わが革マル派の党派闘争にほかならない。権力は首根っこを押さえているにすぎないけれども、わが革マル派は下の急所を握っているからなのだ。彼ら自身『権力は我々の組織を潰せない。権力ができないことを革マル派がやろうとしている』と正当にも認識している。

 あらゆる意味においてマルクス主義的、左翼的範疇に数ええない今日のブクロ派、武装蜂起主義の13階段をのぼりつめ、首にくいいる縄にもがき苦しんでいるこの政治的動物の速やかな埋葬を我々は急がなければならない。我々の闘いによって一切の退路を断たれたブクロ派を、我々は労学全ての戦線に於いて完全に包囲し絶滅し尽さねばならない」。

 1.3日、日米繊維協定をワシントンで調印。


 1.6日、サンクレメンテで佐藤.ニクソン会談。


 1.7日、日米共同声明で沖縄の本土復帰を5.15日と発表。


 1.12日、明大の和泉校舎で生協問題をめぐりブント情況派と戦旗派の内ゲバ。その後、情況派と戦旗派の内ゲバが続く。


【同志社大学の学費値上げ阻止闘争】
 1.13日、同志社大全学学生大会で学費闘争無期限封鎖を決議しバリケード闘争に突入した。全国の私立大学、また国立大学の学費大幅値上げに対する抗議闘争は一定の盛り上がりを見せたが、いつのまにか萎えつつあった。68年の中央大学では学費値上げの白紙撤回を勝ち取っている。

 2.1日、弾圧。

 2.6日、戦旗派が自衛隊の沖縄派兵阻止全九州総決起集会。


 2月、赤軍派中央委員重信房子が奥平と共にパレスチナ入り。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯共同。


 2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫.永田洋子が逮捕された。群馬県妙義山アジト付近。


 2.19日、連合赤軍メンバー坂口弘ら5名が長野県軽井沢の「浅間山荘」に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にしてたてこもった。 あさま山荘事件発生。警察1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末逮捕した。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。2.28日銃撃戦の末陥落。


 2.21日、ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談、27日米中共同声明を発表。二度目の「ニクソン.ショック」といわれる。


 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。


 3.13日、戦旗派の反帝戦線三戦士、自衛隊西部方面総監部(熊本市)突入戦。


 革マル派対反革マル派ゲバ事件多発。


 民青同12回大会で新日和見主義者処分。


【社青同解放派と革マル派の衝突】
 1972.3.30日、大阪地評青年協集会の場で、社青同解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。4.20日、同じく大阪地評青年部段階で、集会がもたれたが、この集会・デモは何の混乱もなく終った。

 4.21日、東京日比谷公園において、全青協の集会デモがもたれ、この時解放派と革マル派は一触即発状態にあったが、解放派は衝突回避の労をとっていた。が、『革マル派は突然、卑劣にも、水道・反戦・全学連を背後から襲撃してきた』。

 これは、「4.21は、3.30問題を政治的に利用して、地青協・全青協への宗派的敵対の全面化にふみきった」ことを意味する。4.28日沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で解放派と革マル派との衝突が発生、この中で革マル派系の木下氏が死亡するという事件が発生。この事件発生後、革マル派全都の部隊約6百が解放派全学連に攻撃を加え、寮に閉じこもる解放派2百名と対峙状態に入った。結局、革マル派は攻撃をやりきれずに終った。

 4月、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官が来日。「今日米関係は第二次世界大戦後で一番難しい時期にあると言わざるを得ない」。


 4.28日、青解派が大阪三者協集会を襲撃、京都外語大生・木下正人を虐殺、とある。


 4.28日、沖縄デー。中核派集会に反戦自衛官。


【共産同(ブント)戦旗派(反帝戦線)約600名が明大前通りにバリケード。解放区闘争】
 5.13日、共産同(ブント)戦旗派(反帝戦線)約600名が、東京都千代田区神田駿河台の明大通り周辺で「沖縄返還粉砕!派兵阻止、神田武装遊撃戦」で火炎瓶闘争を敢行した。

 この日正午頃、明大91番教室で開かれた反帝学評、ブント系など沖縄共闘主催の「沖縄大討論集会」があり、この日の“解放区闘争”を呼びかけていた。
午後3時40分過ぎ、明大正門から飛び出した赤ヘルメット、覆面姿の学生数十人が「神田カルチェ・ラタン」を叫びながら路上に火炎びんを投げ、驚いて停車した乗用車3台をつぎつぎに横倒しにして火をつけ、大学構内から机などを持ち出してバリケードを築いた。少しはなれた大学院前でも神保町へ抜ける道路いっぱいに、タテ看板や机、イスなどを持ち出してバリケードをつくり、これに火炎びんを投げて放火。同時に国電御茶ノ水駅周辺にも学生数十人が現れ、神田署御茶ノ水派出所や通行中のタクシーに火炎びんを投げ込むなどしてあばれた。東京御茶ノ水駅~明治大学前の駿河台一帯を武装制圧し「御茶の水解放区闘争」と云われている。

 赤ヘルグループは約10分ほどデモを繰返していたが、待機していた機動隊が規制にかかると明大構内に逃げ込んだ。このあと高圧放水車が出動して、まだ燃えていたバリケードの火を消し、機動隊がこれを撤去、「カルチェ・ラタン」もたった20分間で終わった。

 警備側は機動隊600名を出動させ、3個中隊約200名に分け、を4人1組の私服(必ずしも背広ではない)を遊撃部隊にして徹底的に検挙に回った。警備部長は“明大を休校させろ”と怒り、午後5時過ぎ、御茶ノ水の交番に大学側を呼びつけ、強硬に臨時休校を申し入れてOKさせた。機動隊が規制にかかると、学生たちは大学構内などに逃げ込み、騒ぎは1時間たらずで一応静まったが、学生らはその後もすきをみてバリケードを築いたり、散発的に投石などを繰り返し、午後7時頃まで混乱した。投げられた火炎びんは100本以上にのぼった。

 この闘争で128人が凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕された。これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになった。共産同中間派の荒派でも、「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立して行くことになる。
 「連載No30 1972年5月 明大前通り解放区闘争 No2」は、次のような内容の「「過激派殲滅作戦」―公安記者日記―」を記している。
 「5月13日 (前略)ブント戦旗派を中心に、御茶ノ水駅近く、明大前で火炎びん投げ納めの解放区闘争。『きょうの神田・御茶ノ水は第1ラウンドやらせて第2ラウンドで包囲してとる方針』と警備でいっていたが、130人もの大量検挙で方針どおり。警備側勝利の秘密は出動させた機動隊600人のうち、3個中隊約200人を4人1組の私服―必ずしも背広ではないー遊撃部隊にして徹底的に検挙に回ったこと。現場で見ていても、どれがパクッていて、どれがパクられているのかわからない場面が多かった。警備部長は“明大を休校させろ”と怒ったが、午後5時過ぎ、御茶ノ水の交番に大学側を呼びつけ、強硬に臨時休校を申し入れてOKさせたとの報告が警備1課に。

 神田・御茶ノ水というのは警備当局の鬼門。学生が多く、地理的に狭いので、いわゆる部隊運用が効果的にできないのがこれまでの“敗因”という。2ケタの検挙例もすくなく、3ケタは異例の大量検挙。『修羅場への機動隊員の私服出動ははじめてだったが、大成功。公安の私服と違って機動隊員は逃げないからね。100人突破の検挙で部長の大喜びだ。戦旗派は13日に火炎びんを投げられないと5・15式典突入だとかいっていたが、これだけの大量逮捕は連中も予想外だったろう。』と、警備1課大部屋は大勝利ムード。(後略)

 5月17日 13日の御茶ノ水での「戦旗派」大量検挙で、公安1課ブント班に『これで戦旗派は壊滅ですな。つぶれますな。』といってみると『いや、MLのようにはいかない。伝統があるし、それに全国組織だからな。』 神田・御茶ノ水では警備・公安ともこれまでの数多くの失敗例を教訓に、綿密な計画を練ってきたわけだが、学生側はすべて代がわりして経験不足の者ばかり。たとえば公安1課では課長は前の九機隊長だし、次の主席管理官は日大闘争のときに学生に相当痛めつけられた経験の持ち主。戦旗派からの押収品の中にあったというが、武田信玄の『甲陽軍艦』なぞを読んで、付け焼刃で“鶴翼の陣”なんかやっても勝てるわけがない。(後略)』」。

 5月、田中派結成。東京.柳橋の料亭いな垣に佐藤派81名が結集。


 5月、北方民族研究所が、アイヌ共和国の独立の機運を促進するために創設された。


【日本赤軍3名がイスラエルのテルアビブ国際空港で乱射事件】
 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で日本赤軍3名が乱射事件。24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。

【佐藤首相が引退声明】
 6.17日、佐藤首相が引退声明。機密文書。「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持つていない。彼の素養が最も不明である」。以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートが発信されていった。特徴は、「コンピューター月ブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、そうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。

 6.23日、「6.23闘争」が取り組まれたものの、中核派と第4インターとの党派的政治ブロックが解消された。第4インターは、中央政治局声明「わが同盟と中核派との政治ブロックの解消について」を「世界革命7.1日号」に発表した。


 6月、情況派、政治闘争から撤退。     


 7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催。第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった。この結果、攘夷二人の決選投票になり、田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。


【全国社研がマルクス主義労働者同盟(マル労同)へ改称】
 7月、全国社研がマルクス主義労働者同盟(マル労同)へ改称。

 この経過につき分かりやすくまとめた一文があるので掲載しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)

 ブントはセクト的な分裂と統一、離合と集散を目まぐるしく繰り返しながら、全共闘運動や反戦青年委員会運動などとも結び付き、日韓闘争、ベトナム反戦、学園闘争、70年安保、沖縄闘争、三里塚闘争などを繰り広げてきた。しかし、彼らやってきた運動は60年ブントの急進主義的な政治闘争をいっそう急進化させた『革命ごっこ』以上のものではなかった。それは社共の平和主義的、民族主義的、民主主義的な政治(労働組合運動では組合主義や経済主義)の水準を本質的に一歩も超えるものではなかった。彼らの運動はせいぜいのところ、ブルジョア的な腐敗と堕落を深める社共の日和見主義に対する“左”からの“罰”、あるいは補完物としての意義を持ったに過ぎなかった。

 70年代半ばにさしかかるや、彼らはその空虚な急進主義の生命を使い果たした挙げ句、一方ではマンガチックな連合赤軍による浅間山荘銃撃事件に行き着いたこと、そして革共同両派や社青同解放派が陰惨な内ゲバ、テロルにのめり込むに至ったこと、さらに最近では第四インターやブント戦旗派の諸君が情けなくも完全に市民主義者の尻尾に成り下がってしまったこと――これこそ新左翼運動の不毛性と破産を最終的に暴露するものでなくて何であろう。

 レーニンはロシアの革命運動を始めるにあったって『正しい革命理論なくして、革命運動はありえない』と喝破し、終生それを強調したが、社共はもとより、ブントの、そしてブントの亜流の新左翼運動の破綻はマルクス主義的な革命理論を軽視したことの報いである。そして、これこそは戦前、戦後を通じての日本社会主義運動百年の歴史が繰り返しわれわれに教えている貴重な教訓でもある。

 (全国社研以来)この10年近くに及ぶ集団的研究の成果は七二年に結成されたマルクス主義労働者同盟(マル労同)の綱領となって結実した。そして、ここに日本の社会主義運動史上初めて真にマルクス主義的な革命理論と現実の科学的な分析の上に立脚した綱領を持つ労働者の革命的政治組織が誕生したのであった。

 マル労同は「左右の日和見主義反対!」のスローガンのもと(すなわち社共の右の日和見主義はもちろんのこと、急進派の左の日和見主義にも反対して)、工場・職場、地域において、また労働組合運動をはじめとする労働者の大衆運動のなかで、労働者階級の現実的な利益を守る闘いの先頭に立つとともに、機関紙誌を武器に宣伝、扇動、組織化の粘り強い闘いを展開していった。

 それとともにまた、結成二年後の七四年、参議院選全国区に候補者に立てて闘ったのを皮切りに、その後も、七七年参院選、八〇年衆参同日選挙に参加。資本と日和見主義者の政治と具体的に切り結ぶなかで、彼らを徹底的に暴露し、公然たる革命的社会主義的な呼びかけを貫徹していった。議会選挙を利用して労働者の階級的自覚と組織化を促す闘いもまたブルジョア民主主義国家の下で、それに適応した労働者党の革命的政治闘争の重要な一環であることはいうまでもあるまい。

 一九八四年、労働者大衆といっそう緊密に結びついた労働者政党の建設をめざしマル労同を発展的に改組して結成された社労党(社会主義労働者党)のもとでも労働者大衆の中で機関紙誌を軸とした原則的な闘いを推し進めるとともに、引き続き地方選や国政選挙への参加が積極的に取り組まれ、確認団体として参加した八六年および八九年の参院選挙では、比例区で一五万票を獲得した。

 社労党は組織的には今だ眇(びょう)たる存在でしかない。しかし、社会党の消滅、共産党の底知れないブルジョア的な堕落の深化、新左翼運動の退廃と衰滅といった現状を見るならば、労働者階級とその幾多の先駆者たちが営々として築いてきた日本社会主義運動百年の歴史の大道に立っているのが誰であるかは明白であろう。

【第一次田中内閣発足】
 7.7日、第一次田中内閣発足。橋本幹事長、竹下副幹事長。事実上の竹下幹事長であったと云われている。福田に入閣を求めたが、福田は拒否した。

 7.12日、戦旗派の日本反帝戦線第3回大会が九州大学学生会館で開催される。7.15北熊本現地闘争に向けた決起集会でもあるが、記録上もっとも長寿な台風(昭和47年台風第7号)により、首都圏などから九州へ向かう列車は乱れに乱れ、疲労困憊のなか開催された。大会とは別に、各地区指導部のみ集めて「4人委員会問題」の報告が行われた。後に、「足立商会」グループはこれを「怪文書」と呼ぶ。


 7.15日、自衛隊の沖縄派兵阻止!北熊本現地闘争。


 8月、旧ML同盟系を中心に、解放委員会結成。


 8.6日、「ベトナムに戦車を送るな!米軍相模補給廠前に座り込み。テント村闘争」始まる。


 8.25-26日、札幌医大に於ける日本民族学会・日本人類学会第26回連合大会総合シンポジウムが、「北方圏の人類学と民族学-その現状と展望」と題して開催された。席上、アイヌ解放同盟(太田龍、アイヌ解放同盟代表・北海道ウタリ協会理事・結城庄司、北方民族研究所代表・新谷行ら)が公開質問状を読み上げ、演壇を占拠し続ける挙に出た。主催者側の「後で必ず発言させる」と約束した為、演壇を降りた。


 8.31日、ハワイで田中.ニクソン会談。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。


 9.4日、反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。


 9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に、29日調印。「日中国交回復」。日中国交回復に反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。


 10.4日、太田龍、アイヌ解放同盟代表・結城庄司、北方民族研究所代表・新谷行の3名が、東京の明治大学大学院で講義を始めようとしていた祖父江孝男明大教授(8.25日の札幌医大に於ける日本民族学会・日本人類学会第26回連合大会総合シンポジウムの座長)に対し、1時間にわたり質問と公開討論を敢行した。祖父江教授は、9.1日付け北海道新聞紙上での「彼らの云うことにも一理はあるが、そのやり方はいささか小児的」と記したこと、本多勝一・朝日新聞記者の「あの言葉はむしろ太田竜氏に対して自分が云った言葉であって、解放同盟全体に対して向けられたものではない」発言に対して釈明の詫び状を差しだしている。


 10月、鉄の戦線派、蜂起派へ改称。


 10.21日、国際反戦デー。全国百ケ所で集会とデモ。


 10.23日、アイヌ民族の英雄シャクシャインが松前藩士に謀殺された命日のこの日、北海道旭川市の常盤公園と、札幌の北海道大学で同時に二発の時限爆弾が爆発した。


【早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」発生】
 11.9日、早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」が発生した。東京.本郷の東大構内付属病院前にパジャマ姿の川口氏が放置されていた。した意には全身アザだらけの殴打の跡があり、骨折した腕から白い骨がのぞいていた。革マル派による早大文学部2年生の川口大三郎(20才)君を中核派とみなしたリンチ殺害事件であることが判明した。以後、早稲田解放闘争始まる。

 革マル派は、事件に対し、「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない---一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。
 1972年11月8日、川口大三郎(かわぐち・だいざぶろう)(早稲田大生 狭山差別裁判糾弾集会などに参加)が、早稲田大文学部構内でカクマルに拉致・監禁され、両手首を椅子に針金で縛られタオルで目隠しされ、角材、バット、竹ざおなどで7時間以上残忍な集団リンチを受け虐殺さる(享年20歳)。  

 11.19日、明治大学で48年度学費改訂反対闘争(~翌年1月)。


12.22日、第二次田中内閣発足。


 12.31日、森恒夫が、「塩見孝也宛書簡」と「板東国男宛書簡」を書き上げる。


 1972(昭和47)年の内ゲバ事犯による死傷者数は340人、うち,死亡者2人[50]


【1973年の動き】 「戦後史73年当時」

 1.1日、連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺。


 1.19日、早稲田大・早大新聞会出身 革共同中央労働者組織委員会の竹森昌伸(たけもり・まさのぶ)。東京都池袋の前進社近くの喫茶店でカクマルの鉄パイプ襲撃を受け頭蓋骨陥没の重傷、頭蓋骨3分の2がプラスチック 闘病生活中の1993年3月6日、胃がんと20年前の傷の後遺症で逝去(享年56歳)。


 1.27日、米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。


 2.11日、ベトナム連帯・紀元節粉砕全国行動。


 3月、赤軍東京都委員会派、赤軍派第一回臨時総会を開催。臨時総会派結成。


 4.2日、早大入学式に黒ヘル乱入。


 4月、前衛派、共産主義者党に改称。


 4月、「共産同」中間派の荒岱介派でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立し、一部が「国際主義派」を名乗って分裂する。


 4.27日、ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展。


 5月、赤軍武装路線堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)と赤軍派再建準備委員会派に分裂。


 5.15日、戦旗派が東京・日比谷野外音楽堂で「沖縄返還1年・侵略反革命体制粉砕闘争」。 


 5.30日、戦旗派の早稲田大学解放闘争、対革マル戦つづく。~6.4


 6.15日、東京・明治公園で田中政権打倒闘争。 


【戦旗派分裂】
 6月、「戦旗・共産主義者同盟」(後のアクティオ・ネットワーク)戦旗派の第12回中央委員会が紛糾し、日向派(荒派)、西田派(両川派)、プロレタリア戦旗派(本多派)、国際主義派に分裂する(1973年 「戦旗派」の分裂参照)。西田派(両川派)の命名は指導者の両川敏雄(別名:西田輝)による。機関紙は「戦旗」で、これらが党派名の由来となっている。本部(戦旗社)を東京都足立区に置き、主に首都圏や山口県や福岡県を活動拠点とする。
 6月、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。その後、日向派(荒派)は1980年2月、「戦旗・共産同」と改称し、1986年、時限式発射装置から皇居に向け火炎弾を発射したゲリラ事件を起こすなどしたが、1997年、共産主義革命と武装闘争路線を放棄し、人権と環境をテーマに行動するNGOとなり、BUND(ブント)と改称した。さらに2008年1月、組織名称を「アクティオ・ネットワーク」に変更。荒岱介は引退した模様。西田派(両川派)は1975年12月、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲するなどしたが、現在も共産主義者同盟(統一委員会)としてデモや集会などの活動を続けている。

 7.4日、革マル派が、東京池袋で、中核派アジト4ケ所を攻撃。


【日航機乗っ取り、ドバイ空港を経てベンガジ空港着陸、爆破事件】
 7.20日、日本時間午後11時55分ごろ、テルアビブ事件1年2ヶ月後、日本赤軍丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が、日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、期待を爆破。
 ハイジャックされたのは、パリ発東京行きの日航機404便(乗客123人、乗務員22人)が、アムステルダム(オランダ)の北方海洋上を飛行中、「被占領地域の息子たちと日本赤軍」と称する日本人1人を含む5人のアラブゲリラによって乗っ取られた。犯人らは、翌21日午前7時45分ごろ、アラブ首長国連邦のドバイ空港に同機を着陸させ、「日米帝国主義、ドイツ・ファシズム、イスラエル・シオニズムに対する戦闘行為として日航機をハイジャックした」旨アピールする一方で、外部からの説得や申し入れには一切応ぜず、また、政治的、金銭的要求も行わないまま、空港に滞留し続けた。

 こう着状態が続く中で、日本では、23日午前11時ごろ、「被占領地域の息子たち」の名で「7月23日午後6時20分までに身の代金約40億円を用意し、拘留中の赤軍派2人をドバイ空港まで連れて来なければ、日航機を爆破する」旨の英文タイプによる脅迫状が日航本社あてに郵送されてきた。直ちに現地と連絡をとり、犯人らに脅迫状との関係を尋ねたところ、犯人らはこれを否定した。

 その後、同機は、24日午前5時ごろになって約69時間ぶりにドバイ空港を離れ、午後3時ごろ、リビアのベンガジ空港に着陸した。犯人らは、乗客及び乗務員全員を降機させた後、機体を爆破し、その直後、リビア国軍隊によって逮捕された。

 本件事案の発生に伴い、警察は、被害機の着陸に備え、かつ、同種事案の再発を防止するため、国内における重要空港、報復攻撃が予想される外国公館等に対する警戒を強化した。更に、極左暴力集団各派に対する視察を強化するとともに、ICPOを通じて日本人犯人の割り出しに努めた。その後、事件に遭遇した乗務員、乗客からの事情聴取や関係各国から入手した捜査資料により、日本人犯人は、「テルアビブ事件」の共犯者として指名手配中のAであるという容疑が濃厚と判断された。また、日航本社に届いた脅迫状は、東京中央郵便局ないしはその付近で投かんされた形跡が出てきた。目下、警察は、真相究明のためアラブゲリラと連帯行動をとっているセクト及び個人の解明を急いでいる。

 本件の日本人犯人と考えられるAは、昭和47年5月30日に発生した「テルアビブ事件」の共犯者として殺人罪で指名手配されていた。もともと、大阪の「浪人べ平連」の活動家で、京都の予備校に在籍中は、C(ペンネーム滝田修)の指導する京大パルチザン・グループにも加わっていたとみられる。その後、「テルアビブ事件」の中心人物であるDの一派からの働きかけを受け、昭和47年4月出国してベイルートに渡り、アラブゲリラの訓練に加わっていたが、同事件以後、所在不明となっていた。

 Aのベイルート入りの橋渡しをしたのは、赤軍派創設当時(昭和44年9月)からの「女闘士」Sであるとみられている。同人は、昭和46年2月、「世界同時革命」達成のための「国際根拠地」づくりを企図し、Dと偽装結婚の上、ベイルート入りした。しかし、その後、赤軍派による「日航機よど号ハイジャック事件」が国際根拠地づくりに結びつかなかったこと、「連合赤軍事件」の発生によりその活動に失望したことなどから、次第に赤軍派との連絡を断ち、アラブゲリラとの連帯による「国際ゲリラ戦」を志向するようになっていった。

 「日航機乗っ取り爆破事件」の発生後、Sは、テレビのインタビューに答えて、本件が「獄中からの兵士奪還と活動資金獲得」のために敢行されたことを明らかにするとともに、本件と日航本社あて脅迫状との関連性を強調した。同じころ、「世界革命戦線情報センター」の責任者もパリで記者会見し、同趣旨のことを述べている。国内には、「世界革命戦線情報センター」のほかにも、「VZ58」、「8.25共闘会議」などと称する組織がアラブゲリラ支援の活動を行っており、今後、この種黒へルグループとアラブゲリラとの連帯動向が注目される。(「日航機乗っ取り爆破事件」参照)

 7.31日、ワシントンで田中.ニクソン会談。


 8.8日、金大中氏拉致事件発生。


 8.22日、ロジャーズ米国務長官辞任、ヘンリー.キッシンジャーが後任。


【青解派が、神奈川大で革マル派2名を虐殺】
 9.15日、青解派が、神奈川大で革マル派の金築寛(東大生)と清水徹志(国際基督教大生)君を虐殺。その経緯は次の通り。9.14日未明、反帝学評約50名が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、翌15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派約150名が鉄パイプで襲撃し、相互に多数の負傷者が出た。この間、反帝学評約20名がレンタカーで動向視察していた革マル派2名(東大生の金築寛、元キリスト教大生)を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。これ以後、反帝学評(社青同解放派)も革マル派との抗争を開始した。

 9.15日、戦旗派が横須賀臨海公園でミッドウェー横須賀母港化阻止闘争。 


【革マル派が、国電鶯谷駅構内で、中核派を襲撃】
 9.17日、革マル派が、国電鶯谷駅構内で、中核派を襲撃(「国電鶯谷駅内ゲバ事件」)。「警視庁 1974」は次のように記している。
 「9月17日午前7時30分ごろ、都下国電鶯谷駅構内に中核派約150人が集合していたところ、突然鉄パイプで武装した革マル派約80人がこれに襲いかかった。このため、駅構内及び線路上で乱闘となり、山手線、京浜東北線の一部が数分間電車の運行を中止した。この間、双方合わせて7人が負傷し、救急車で付近の病院へ収容されたほか、ホームにいた乗客が巻き添えになった」。

 9.21日、中核派が、革マル派の学生・労働者の闇討ち襲撃を開始、とある。二重対峙段階から反攻への転換となった。


 9月、蜂起派から、蜂起左派分裂。「右田派」も、1972.5月の「自衛隊西部方面総監部爆弾事件」や同年7月の「自衛隊市ケ谷駐屯地火炎車事件」の総括をめぐって紛糾を続け、翌1973.9月には、「誤りの責任は非公然軍事指導部にある」とする右田昌人議長派に反対する佐藤秋雄派が「蜂起左派」を名乗って分裂したほか、中間派も存在し、現在、三つのグループに分れている。


 10.2日、韓国・ソウル大学の学生らが朴政権打倒に決起。


 10月、「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。


 10.8日、革マル派が「前進」を印刷中の毎夕新聞社を襲撃。


 10.14日、タイで学生と軍が衝突、タノム政権崩壊。


 10月初旬、「10.15日付け号の前進」に「革命的対峙段階の戦取にむけて」が掲載された。「本論文は、一九七三年十月一五日号『前進』に発表された。九・二一の偉大なたたかいをうけつぎ、発展させ、革命的対峙段階の戦取を訴えた歴史的文献である」と評されている。


 10.17日、第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。


【革マル派が東京・横浜・大阪・京都の中核派拠点12ヶ所を一斉襲撃】
 10.20日、革マル派約170名が、東京・横浜・大阪・京都の中核派拠点12ヶ所を一斉襲撃(「中核派アジト襲撃事件」)。「警視庁 1974」は次のように記している。
 「10月20日午前4時ごろ、東京、横浜、京都、大阪の各地で革マル派約200人がいっせいに中核派のアジト12箇所を鉄パイプ、竹ざお、木槌、ガスバーナー等で襲撃し、双方合わせて13人が負傷した」。

 10.21日、戦旗派が桧町公園で国際反戦闘争。戦旗派両派の別行動により分裂が公然化する。


 10.22日、中核派が国学院大の女子活動家をバールで襲撃、とある。


【日共第12回党大会】
 「民主連合政府綱領案」提案。決定。上田耕一郎。  
○期日.会場.代議員数について  10.24-30日第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。
○大会の眼目  大会の眼目は、
○採択決議について
○新執行部について  
 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員  は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本.幹部会員に野坂.宮本.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮本.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。   宮本-袴田体制の継続確立   宮本体制確立 70年当時の党の方針の特質と要点 ○〈本党大会までの執行部評価〉について  
①〈世界情勢に対する認識〉について   
②〈国内情勢に対する認識〉について  
③〈党の革命戦略〉について
④〈党の革命戦術〉について
⑤〈党の具体的な運動方向〉について  
⑥〈党の大衆闘争指導理論〉について  
⑦〈党の機関運営〉について  
⑧〈左翼陣営内における本流意識〉について  
⑨〈この時期の青年戦線.学生運動〉について  

【川口君虐殺1周年闘争】
 11.8日、川口君虐殺1周年、早大で、反革マル派学生が機動隊と衝突。
 1973年11月8日、前田友広(まえだ・ともひろ)(龍谷大生 全国部落青年戦闘同志会書記次長兼糾弾対策本部長 革共同大阪地区委員長 ペンネーム中岡仁)が、11・8川口大三郎君虐殺1周年全関西総決起集会後のデモで機動隊の暴行を受け虐殺さる(享年25歳)。

 11.25日、革マル派と反帝学評が、横浜駅ホームで乱闘。


 11月、重信房子が、機関紙「序章」13号で「闘うあなたーアラブより招請状 」を発表。


 12月初旬、第二次ブント戦旗340号(1973年12月5日号、戦旗社)の「七三年日向カクマル主義者の組織的脱落に関する声明」論文発表される。


 12.10日、革マル派が、目黒区内の中核派拠点を襲撃。 


 1973(昭和48)年の内ゲバ事犯による死傷者数は575人、うち死亡者2人。


【1974年の動き】 「戦後史74年当時」

 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。なおこの頃から、押されぎみであった中核派が攻勢に乗り出す。


 1.8日、韓国・朴政権が「大統領緊急措置」発動。


 1.13日、 検察・警察が、勾留中の革マル派全学連の熊本商大生・松永憲治を架空の事実をふきこむ精神的拷問により、死に追い込む、とある。


【革マル派が、破防法弁護団会議襲撃】
 1.14日、革マル派が、1969.4.28破防法弁護団会議を襲撃。中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上を襲撃し、本多書記長、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられる。井上正治氏が重傷を負う。これについて筆者は思う。この事件の全容は開示されていない。この局面で、中核派幹部ではなく何故に弁護人の井上氏が集中乱打されているのか解せない事件となっている。

 これに対し、羽仁五郎、小田切秀雄、杉浦明平、針生一郎、松岡洋子ら40氏連名の革マル派批判声明が発表された。革マル派は、機関紙「解放」紙上に、声明賛同者の氏名、住所、電話番号の一覧表を載せ、「この人々は、殺人鬼放火魔集団の公然たる擁護者で、非文化的、反知性的な文化人であるから、全労働者人民は徹底的に糾弾せよ」と呼びかけ「ナーバス(神経)作戦」を実行した。
 2.16日、本多書記長の「一・一四弁護団襲撃弾劾、破防法裁判闘争勝利集会発言」(「三 カクマルの一・一四弁護団襲撃を弾劾する」より転載)を転載しておく。
 集会に参加された労働者、学生、市民のみなさんにたいし、四・二八破防法裁判の被告団のひとりとして、心から連帯のあいさつを送ります。反革命カクマルによる今回の弁護団会議への武装襲撃は、断じて許すことができない反人民的な暴挙であり、あらゆる手段をつくして弾劾しつくさねばならない犯罪行為であります。

 第一には、かれらの今回の行為が、ひとかけらの道理ももっていないことであります。もともと七一年暮の十二・四反革命を皮切りにしてはじまった反革命カクマル分子のK=K連合とそのもとでの白色武装襲撃の総路線は、辻、正田、武藤、川口の四同志にたいする虐殺をはじめとするそのたび重なる罪状からも明らかなように、帝国主義権力やその諸党派にたいしてむけられたものではなく、つねに国家権力とたたかう革命的党派にたいする暴力行使の権利なるものを積極的に主張するものであり、それじしんきわめて反人民的で反革命的なものであります。ところが、いまやかれらはその総路線のみじめな破産をおしかくすために、反人民的で不正義の暴力を直接に革命党とそのメンバーにむけるだけではなく、人間の自由と解放のためにたたかうすべての人民にまで絶望的におしひろげはじめ、いっそう反階級的で、いっそう卑劣な道をころげおちはじめたのであります。われわれは、それによって生まれる事態がどんなに深刻なものであろうとも、断じて反革命分子の脅しに屈することなく、人間の真の自由と解放のためにたたかいつづけなくてはならないのであります。
 第二には、かれらの今回の行為が、破防法弾圧粉砕、破防法裁判闘争勝利を願い、そのために思想的立場や政治的党派をこえた共同の戦線をつくりだそうとする正義の努力そのものに敵対し、権力と一体となって、破防法弾圧のゆきづまり、破防法裁判の緒戦の敗北を暴力的に突破しようとするものだということであります。

 もともと、権力のK=K連合の政策、そのもとでの反革命カクマルの白色襲撃は、権力による破防法弾圧のゆきづまりを民間反革命の武装的動員という内乱的手段を使ってつき破ろうとしたものであります。ところが、いまやかれらは、破防法攻撃の核心をなす革命党への内乱鎮圧型弾圧の激化とならんで、破防法裁判闘争そのものへの反人民的な敵対の道を歩みはじめたのであります。われわれは、このたたかいがどんなに困難なものであろうとも、断じて確信をゆるめることなく、あらゆる創意を生かして、破防法弾圧粉砕、破防法裁判闘争勝利の共同のたたかいをおしすすめなくてはならないのであります。
 第三に、かれらの今回の行為は、労働者人民が人間の真の自由と解放をかちとっていくためには、権力にたいして非妥協の内乱的対峙の陣形をつくりあげていくとともに、権力と呼応して人民の内部で帝国主義の政治をすすめようとする反革命カクマルにたいしても、断固として非和解的な対峙の陣形をつくりあげ、それを発展させていかなくてはならないということであります。

 もとより、反革命カクマルにたいする労働者人民の階級的たたかいは、あらゆる方面からあらゆる方法をもって発展していくのは当然のことであります。しかし、権力がK=K連合の政策をやめ、反革命カクマルが白色襲撃の総路線をすてないかぎり、こうした内乱的対峙の中核に断固として武装した革命勢力の発展がすすめられなくてはならないのであります。武装した力をもってみずからの武装を守り、武装した力をもってみずからの組織を守る前衛的たたかいの真の発展なしには、人間の自由と解放をめざす共同のたたかいの真の発展もまたありえないのであります。

 われわれは、こみあげる激しい怒りととぎすまされた冷徹な決意をもって、つぎのことを断固として宣言する。
 第一に、われわれは、革命的前衛党の責任において、権力のK=K連合の政策とそのもとでの反革命カクマルの白色襲撃を徹底的に粉砕し、その完全な勝利の日まで断固として非和解的なたたかいをおしすすめるであろう。権力の弾圧をはねかえし、おいつめられ、悲鳴をあげ、逃げまわる反革命白色襲撃者どもをひとり残らず粉砕しつくし、確実に歴史的勝利の基礎をうち固めるであろう。

 第二には、われわれは、二重対峙・対カクマル戦の激烈な発展を戦略的基軸として、七〇年代革命の勝利、内乱・内戦――蜂起の総路線の勝利にむかって、七〇年代中期の大高揚、帝国主義国における武装闘争の真の創造的発展のために、プロレタリア英雄主義を発揮してたたかいぬくであろう。内外する情勢の発展は、われわれの飛躍の条件を日に日に成熟させ、われわれの主体的努力の発展を日に日に強めているのであります。

 第三には、われわれは、思想的立場、政治的党派のちがいをこえて、すべての人びとと誠実な共闘をかちとり、破防法弾圧粉砕、破防法裁判闘争勝利のたたかいの真の前進のために、いっそう真剣な努力をはらうであろう。いっさいの困難をねばり強くつき破り、闘争勝利の真の展望と情勢をたたかいとるために、あらゆる英知を結集してたたかいぬくであろう。

 集会に参加された労働者、学生、市民のみなさん!二重対峙・対カクマル戦においても、またそれを戦略的基軸とする階級闘争の七〇年代的発展においても、そしてまた、破防法裁判闘争においても、勝利の前進は幾多の反動的逆流を生みだすでありましよう。しかし、このような密集した反革命の登場は、私たちの前進のための試練にほかなりません。権力の大弾圧の政治、反革命カクマルの白色襲撃に屈せず、勇気をもって前進しよう。勝利は、かならずやわれわれとともにあります。(『破防法研究』第二一号一九七四年五月に掲載)

 次のように解説されている。
 「七三年九・二一戦闘を転機とする二重対峙・対カクマル戦の戦略的防御から戦略的対峙への段階的移行は、またたくうちに反革命党派カクマルを戦争的、政治的、イデオロギー的な窮地に追いつめていった。打開の方途を失った黒田・カクマルがおかした最大の反人民的暴挙の一つが、七四年一月一四日の破防法弁護団襲撃という前代未聞の犯罪行為である。弁護団会議に出席していた本多書記長を狙って襲撃をしかけたのみならず、同席した井上正治弁護団長をはじめ参加者全員にみさかいのない蛮行をふるい、重軽傷をおわせたのである。この事件のうちにカクマルという党派の反人民性、ファシスト性、帝国主義者の先兵としての性格のいっさいが凝縮されていた。本稿は、同年二月一六日におこなわれた「一・一四弁護団襲撃弾劾、破防法裁判闘争勝利集会」での本多書記長の発言である」。

 1.15日、中核派が、革マル派の九州地方委員会議長・吉川文夫を襲撃、瀕死の重傷を負わす、とある。


 1.19日、何者かが革共同議長黒田宅に放火、バール一本を遺棄、とある。


【中核派が横浜国立大学の食堂で革マル派1名を虐殺】
 1.24日、 中核派が、横浜国立大学経済学部の食堂で革マル派の神奈川大生・矢崎知二(24歳)を虐殺(「横浜国大内ゲバ殺人事件」)。止めに入った一般学生数人も負傷。「立花隆 1975, 下巻」は次のように記している。
 横浜国大でも革マル派活動家の矢崎知二君が六人の中核派に襲撃された。矢崎君は、おりからの昼食時で満員の学生食堂に逃げ込んだ。しかし、そこで追いつかれて引き倒された。そして、約三百人の学生が遠巻きに見守るなかで、一人が矢崎君の上に馬のりになって押さえつけ、他の二人が一メートルものバールをクワのようにふるって後頭部を打ちくだいたほか、前進をメッタ打ちにした。

 この日、世田谷区内でも引越し中の東大生革マル派活動家4名を襲撃、宮山隆、四宮俊治を虐殺。中核派の革共同通信が、この事件を中核派の「偉大なる戦果」とし、次のように記している。

 「一・二四の偉大なる戦果を実現したわが同盟と、そのもとに結集するたたかう全人民の志気はいよいよ高まり、その精神はいよいよ純潔である。(略) わがたたかう人民は、暴力革命と革命的暴力の鉄火のなかで自己を実現し、自己を清めていくのである」。

 1.27日、京都大学レーニン研と解放委員会が統合し、マルクス主義青年同盟(準)結成。


 1.31日、日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。


 2.6日、パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。


【中核派が、琉球大学で一般学生を革マル派と誤認し虐殺か?】
 2.8日、中核派が、琉球大学で授業中の教室に乱入し、一般学生・比嘉照邦を革マル派と誤認し虐殺(琉球大自治会長安室を襲撃(「琉球大学内ゲバ誤認殺人事件」)。応戦した琉球大生が死亡、ともある。革マル派の機関紙「解放」は次のように伝えている。
 中核派の殺し屋八人は(略)七十余名の学生が講義(物理学概説)を受けていた教養Aの教室に後方から突如として乱入した。そして、『自治委員長の安室はいるか!安室はどこだ!』とヒステリックに叫び、(略)その時、一人黒板の方向に走って退避せんとした比嘉君を、殺し屋どもはその顔を何ら確かめることもなく『あれが、安室だ!殺れ!』と口ぐちにわめきながら、バール、鉄パイプなどの殺人用武器をふりかざして、背後から襲いかかり、彼、比嘉君の後頭部に狙いを定めてメッタ打ちにしたのである。
 中核派は次のように述べている。
 二・八は琉大カクマル幹部安室某に対する断固たる制裁として、またその革命的制裁活動に反動的敵対をなしたカクマル分子比嘉某の徹底的せん滅として圧倒的にうちぬかれたのである(立花隆 1975, 下巻)。

 3月、第2次ブント(第二次共産主義者同盟)の幹部だった竹内陽一を中心に共産主義者同盟プロレタリア派が結成された。このため竹内ブントという通称をもつ。但し、竹内陽一は80年代前半に同派を離脱している。
 Wikipedia/共産主義者同盟プロレタリア派
 https://ja.wikipedia.org/wiki/

 労働運動では江東区・墨田区のローカル組合に一部影響力がある。なお労働者組織の「首都青年労働者社会主義研究会」は共産主義者同盟の赤軍派に比較的近い位置にあった左派グループを中心に組織された。機関紙:『プロレタリア』。学生組織:反帝学生戦線。労働者組織:首都青年労働者社会主義研究会。拠点校:明治大学二部文学部、中央大学。ヘルメット:赤。前面に白で「反帝学戦」「駿台文学会」、横に「AISF」、後ろに「明大」。

 4.3日、韓国民青学連事件=緊急措置4号発動、金芝河氏らを逮捕。 


 4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。


 4.7日、パリの米大使館邸で、田中.ニクソン会談。


 5.7日、革マル派の拠点・早大第一学生会館を、社青同解放派が襲撃。


【法政大会戦】
 5.13日白昼、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」とある。法大裏の東京都千代田区の法政大学から出て国鉄市ヶ谷駅に向かう外濠土手下の路上で戦闘となり、中核派の墨田区職員である革共同東京東武地区委員長(38歳)が死亡(中核派5人目の死者)、他に25名が重傷(「第一次法政大会戦」)。「警視庁 1975」は次のように記している。
 「中核派数十人と法大から出たところを待ち伏せ中の革マル派に襲撃され、鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した」。
 1974年5月13日、前迫勝士(まえさこ・かつし)(都職、東京東部地区委員長)が、法政大会戦でカクマルと集団戦、鉄パイプにより虐殺さる(享年37歳)。  

 5.15日、戦旗派が東京渋谷・山手教会で沖縄返還粉砕2周年総決起集会。


 5.23日、狭山差別裁判糾弾で、日比谷公園に開放同盟、支援学生ら1万8千名が結集。


 5.30日、三里塚世直し大集会が東京の日比谷公会堂で開かれ、三里塚芝山空港反対同盟委員長の戸村一作さんが参院選出馬を表明した。


 6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生(軍事責任者ともある)・小野正裕(武司)を虐殺、とある。「警視庁 1975」は次のように記している。「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した」。


 6.20日、中核派が、権力の情報提供にもとづき革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、とある。


 6.25日、広島大出身、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎で寄せ場解放闘争に身を投じていた船本洲治(ふなもと・しゅうじ)が、沖縄米軍嘉手納基地第2ゲート前で「皇太子訪沖阻止」を叫び焼身自殺(享年29歳)。


【第二次法政大会戦】
 6.26日午前4時30分、法政大学に泊まり込んでいた中核派20名と学外から合流した50名の計70名を、法政大学内に潜んでいた革マル派50名が襲い、中核派と革マル派が、法大構内でヘルメット姿の両派約100名が鉄パイプ、旗竿で乱闘し、内ゲバ史上最大の激戦といわれる2時間半にわたる大激突となった。機動隊が導入され97名が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。死者は出ていない(第二次法政大会戦)。

 6.30日、警視庁第四機動隊河尻中隊が、革マル派の機関紙「解放」を印刷していたホヲトク印刷に投石。中核派を偽装した謀略の開始、とある。


 7.4日、革マル派の解放社の車が放火される。事件後現場に来た本庁公安の望月某が偽装のため鉄パイプを置く、とある。


 7.7日、共産同(戦旗派)政治集会が東京渋谷区・代々木八幡区民会館で開かれる。いわゆる「血債・猛省」集会で、戦旗派第2期建設の始まりとなる。基調報告は日向翔。1973年分裂からおよそ1年、苦難の再出発だった。


 7.11日、革マル派の国学院大生の下宿が黒装束・黒塗り竹竿の異様な集団に襲撃される、とある。


 7.13日、襲撃指令中の中核派調査隊キャップ倉石庸が革マル派に反撃される。革マル派が、奪取した権力「柳田」との密通メモを公表、とある。


 7.15日、日航機が愛知上空でハイジャック。塩見らの釈放を要求。


 7.20日、中核派が東京目黒区で無党派の教育労働者を誤爆、とある。


 7.29日、権力と連携した中核派が革マル派の創造社を襲撃。マサカリが初めて使用される、とある。


 7月、パリで赤軍派の山田が逮捕された。


 8.3日、権力の全面支援のもとに、中核派が反戦集会からの帰途にあった早大生の隊列を襲撃、とある。


 8.5日、中核派が九州の革マル派の学生を襲撃、とある。


 8.5日、ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。


 8.5日、情況派より左派分裂。游撃派結成。


 夏頃、全国委員会派より、全国委マルクス・レーニン主義派が分派。


 8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。


 8.15日、権力が″面割り″した革マル派の早大生を中核派が襲撃、とある。


 8.18日、戦旗派が狭山現地調査で埼玉県狭山市に入る。石川一雄さん宅を訪問、ご両親からお話をうかがい、「物証」とされる万年筆が発見されたという鴨居を見せていただき、石川さんの無実への確信を深める。8.31日、埼玉県狭山市内で狭山差別裁判糾弾のハンストに突入する。


 8.24日、権力から「襲撃計画書」をもらいうけ、中核派が革マル派の日大生の下宿を襲撃、とある。


 8.30日、東アジア反日武装戦線が、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。


 9.5日、中核減が在日朝鮮人・徐ひろ子を誤爆事攣。「十日開戦争」と称する中核派の独自襲撃は、8.27日、北海道大学附属放射線技師学校講師、8.27日、愛大農構の女子学生、8.31日、佐賀大など誤爆に終始、とある。


 9.10日、中核派の「中央武装勢力」隊員(郵便局員、25歳)が革マル派に東京荒川区内ビルで襲撃され6日後に死亡。「警視庁 1975」は次のように記している。
「アパート自室で就寝中、乱入してきた数人に鉄パイプ等で殴打され翌日死亡した」。
 1974年9月10日、高橋範行(たかはし・のりゆき)(全逓東京中郵分会役員、革共同東京中部地区委員会)が、狭山闘争に決起しようとする朝、カクマルの襲撃を受け危篤、6日後の16日逝去(享年25歳)。

 9.13日、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


 9.21日、ワシントンで田中.フォード会談。


 9.23日、革マル派の全学連委員長・前川健ら二名がマサカリで襲われる、とある。


【革マル派が、守口市で中核派の「関西上京団」の3人を襲撃】
 9.24日、革マル派が、大阪守口市で中核派の「関西上京団」の3人を襲撃。中核派大阪市立大生(25歳)が2週間後に死亡。「警視庁 1975」は次のように記している。
 「守口市中央観光バス前で、革マル派数人に鉄パイプで殴打され、入院中2週間後に死亡した」。
 中核派は、同派の労働者を襲撃した革マル派に対し、「無差別報復テロ」を実行すると記者会見で宣言した。
 1974年9月24日、中山久夫(なかやま・ひさお)(大坂市大生 関西部落研指導部)が、大阪府守口市で9月狭山決戦の上京バスに交渉中、カクマルの襲撃で頭部を狙われ重態。10月6日病院で逝去(享年25歳)。  

 9.26日、狭山差別裁判糾弾闘争が東京・日比谷公園(小公園)で開かれる。


 9.26日、狭山闘争解散過程の革マル派全学連・反戦青年委員会の部隊が東京神保町で襲撃され、自治体労働者・笠掛正雄が実質上虐殺される【神保町事件】、とある。


 9月、赤軍派の武装堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)を中心に赤軍派日本委員会結成。


 10.3日、中核派が、革マル派の全逓荏原支部書記長・山崎洋一(30歳)を襲撃し死亡さす。「」は次のように記している。

 品川公会堂付近を歩行中、後方から追いかけてきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した。

 10.7日、川崎市内で革マル派の日大生が襲われる。襲撃者の一人はこの日大生の動向を嗅ぎ回っていた成城署のデカときわめて似ていた、と母親が証言、とある。


 10.8日、大阪で革マル派全学連・反戦青年委員会の闘争解散過程をつけねらっていた私服警官を中核派が誤爆襲撃、とある。


 10.9日、横浜市で革マル派の戦闘的労働者と通勤経路が同じ会社員・長野健一氏が誤爆される、とある。


 10.14日、大地の牙が、三井物産ビル(東京都港区西新橋)を爆破する。16名が重軽傷を負う。


 10.15日、革マル派全学連が、東京代々木駅付近で、集会帰りの中核派を襲撃し労働者1人が死亡。革マル派は、「中核派に送り込まれた権力のスパイ分子を代々木で打倒。権力はこの男の氏名秘匿に狂奔」と発表。「」は次のように記している。
 「代々木駅付近を歩行中、後方から革マル派数人に鉄パイプで殴打され、同日死亡した」。
 1974年10月15日、佐藤和男(さとう・かずお)(全逓労働者 神奈川県反戦)が、革共同政治集会の帰途、東京都新宿区でカクマルの鉄パイプ襲撃を受け虐殺さる(享年23歳)  

 10月、中核派の「共産主義者26号」に「戦略的総反攻――その勝利の展望 」論文が掲載された。


 10.17日、広島で革マル派の革命的労働者が襲撃される、とある。


 10.19日、革マル派の機関紙「解放」を印刷していた秋田印刷(板橋区)が契約解除の翌日に襲撃される、とある。


 10.25日、大阪の革マル派の戦闘的労働者が襲われ重傷、とある。


 10.26日、日韓連帯集会。


 10.31日、狭山差別裁判で、東京高裁(寺尾裁判長)が石川一雄氏に有罪「無期懲役」判決。狭山差別裁判糾弾闘争が東京・日比谷公園(小公園)で開かれる。


 10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。


 「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(通称「京浜安保共闘」)は、連合赤軍事件以後、わずかに残った救対関係の活動家を中心に組織の再建が図られ、一時は30~40名の勢力にまで回復したが、74年頃から結党以来の活動家グループと新規加入の活動家グループとの間に感情的な対立が生じ始めた。10月、組織の指導者川島豪が保釈出所したものの健康がすぐれず、岐阜県大垣市の実家に引き籠ったこともあって組織の統制が乱れ、再建活動が頓挫する。折からの「三つの世界論」問題が発生し、獄中組の主要活動家が一斉に組織から離反したことも、川島豪に大きな精神的打撃を与えたといわれている。こう同派は、74.5月以降共産同蜂起派と共闘関係を深めて組織の建て直しを図ってきたが、その成果が現れず、以降の活動は全く低迷状態にある。


 10月、赤軍・プロレタリア革命主義派結成。


 「共産同」右派の「情況派」では、1972.6月以降、街頭闘争への取組みを避けていたが、こうしたことが組織の低落を招く原因だとし、行動する党への転換を図ろうとする古賀暹らが指導部内で次第に力を強め、遂に1974.10月、高橋良彦議長ら主要幹部を組織指導部から追い出して、自らは「游撃派」を名乗るようになった。


 11.4日付け中核派の革共同通信42号が「反革命カクマルの総路線的破産」を発表する。


 11.6日、国学院大構内で革マル派が二十数名の襲撃部隊を撃退。権力は重傷の襲撃者を警察病院に秘匿、とある。


 11.8日、愛知大学名古屋校舎で革マル派系社研部室が襲われ、女子学生が重傷、とある。


 11.15日、革マル派の横浜市立大生と東京外語大生が襲われる、とある。


 11.17日、戦旗派が東京渋谷・宮下公園で米大統領・フォード来日阻止集会開催。


 11.18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談。戦旗派が東京大田区・中蒲田公園でフォード来日阻止闘争。 


 11月、内閣官房長官(田中内閣)


【八鹿(ようか)高校事件】
 11.22日、部落解放同盟の同盟員が、兵庫県立八鹿高等学校で、集団下校中の教職員約60名を学校に連れ戻し、約13時間にわたって監禁・暴行し、教師48名が負傷、内29名が重傷、1名が重体となったとされる八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)が発生した。部落解放同盟と日共の根深い対立が絡んでいた。

 11.25日、狼隊が、帝人中央研究所(東京都日野市)を爆破する。


 11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。


 後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の最低で三木が指名された。


 11.27日、福岡で中核派が警察の援助下で革マル派学生を襲撃するも、撃退される、とある。


 12.1日、中核派が、革マル派の関西秘密最高指令本部など3ヶ所を同時襲撃。幹部12名が襲われ、革マル派元高校教諭(30歳)が死亡、4名重体。「」は次のように記している。

 西区のアパート自室で就寝中、乱入してきた中核派数人に鉄パイプ、ハンマー等で殴打され、同日死亡した。

 12.16日未明、中核派が、都内3ヶ所のマンションで革マル派を襲撃。この年、内ゲバで6人死亡、297人重軽傷を負う。


 12.9日、三木内閣発足。


 12.10日、大地の牙が、大成建設本社(東京都中央区銀座)ビルを爆破する。


 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組。20単産。


 12.23日、さそりが、鹿島建設PH工場(東京都江東区)を爆破する。


 「関西派」は、1974年に入ると、それまで中央指導部が大衆闘争路線を重視してきたことに反発する動きが、首都圏委員会と東北地方委員会の一部に現われ、これが「共産同マルクス・レーニン主義派」を名乗って分派行動に走った。


 1974(昭和49)年のゲバルト事犯による死傷者数は618人、うち死亡者11人。そのほとんどが革マル派と中核派の抗争であった。ゲバルトは従来大学内で発生することが多かったが、昭和49年には大学内84件、学外202件となった。東京121件、大阪32件、神奈川21件、福岡17件、広島14件、沖縄14件と地方165件で、地方での発生が目立った。この年後半から学生に代わって職場労働者が抗争の主力となった。かつては、集会の主導権や自派の組織力を誇示するため、旗ざお、ゲバ棒で殴り合うといったケースが多かったが、昭和48年後半から個人へのテロへと傾斜した。74年の第二次法政大会戦までは、集団戦では鉄パイプで武装した革マル派が中核派・解放派を襲撃し圧倒するケースが多かった。中核派・解放派は特殊部隊で革マル派のアジトを襲い死傷させる個人テロ戦術をとるようになった。「武装遊撃隊・人民革命軍」(中核派)、「全学連特別行動隊(JAC)」(革マル派)、「プロレタリア突撃隊(後に革命軍)」(解放派)などの非合法・非公然部隊を組織し、標的の動静を徹底的に調査し奇襲。マンションの隣室に回覧板と偽って侵入して土足のまま駆け抜けベランダから相手の部屋に突入したり、屋上から縄ばしごを使ってベランダ越しに部屋に侵入した例もあった。革マル派はナーバス作戦と称し、犬や鶏の生首等を送りつけるなどの心理作戦も実行した。


【1975年の動き】 「戦後史75年当時」

 1.1日、中核派機関紙・前進新年号論文「七五年決戦で総反攻を完遂せよ」が発表された。


 2.28日、さそり、狼隊、大地の牙が、間組本社ビル爆破。


 3.1日、戦旗派が朝鮮独立決起56周年、日韓連帯集会開催。


 3.5日、スウェーデン.ストックホルムのレバノン大使館付近で、赤軍派メンバー西川.戸平の2名が逮捕され、日本へ送還された。逮捕の際日高敏彦は逃走に成功した。


 3.6日、革命マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭(33歳)が、東京渋谷区内の路上で中核派のテロにより殺された。「」は次のように記している。

 被害者ほか2人が荷物発送作業中、車2台で追尾してきた中核派数人に鉄パイプで殴打され、同日1人が死亡した。

【中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡】
 3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。
 同日夕方、革マル派は解放社(公然拠点)で記者会見を開き、革マル派全学連委員長土門肇が次の声明を読み上げた。
 今朝、わが全学連戦士たちは、反革命の頭目、本多延嘉に対して、階級的怒りの鉄槌を振りおろしました。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曽有の反革命集団に対して振りおろした怒りの鉄槌であります。

 わが全学連の戦士たちは、午前0時40分に本多が東川口の戸塚荘というアパートに、防衛隊と車で帰ってくるところから捕捉していました。そして、わが戦士たちに本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し、人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度を示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人を賞揚していた男が、本質的には小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士に対する対応の中でバクロしたのです。

 我々は血を血であがなう戦いをよしとするものではありません。本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです。
今朝、わが全学連戦士たちは、反革命の頭目、本多延嘉に対して、階級的怒りの鉄槌を振りおろしました。これは、産別戦争と称して、無差別無制限のテロを労働者に加えるという、世界革命史上、前古未曽有の反革命集団に対して振りおろした怒りの鉄槌であります。

わが全学連の戦士たちは、午前0時40分に本多が東川口の戸塚荘というアパートに、防衛隊と車で帰ってくるところから捕捉していました。そして、わが戦士たちに本多が面と向かったときに、彼が発した唯一のことばは、“人殺し、人殺し”と叫ぶことでしかないという、革命家として未熟な態度を示したのです。“完全せん滅”のことばのもとに、殺人を賞揚していた男が、本質的には小心者で、自分では殺人なんかできない男であることを、わが戦士に対する対応の中でバクロしたのです。

我々は血を血であがなう戦いをよしとするものではありません。本多に対して鉄槌を加えたのも、殺害が目的ではありませんでした。彼が死に至ったのは、全学連戦士の燃えたぎる階級的怒りが、鉄槌の一ふり一ふりにおいて表現されたことの結果であるということです[6]
 革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、次のように犯行を認めた。
 わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった。
 中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。(本件につき「中核派党史1、結党から本多虐殺まで」で別途考察)
 1975年3月14日、本多延嘉(ほんだ・のぶよし)(早稲田大・早大新聞会出身、革共同書記長)が、二重対峙・対カクマル戦を陣頭指揮するさなか、埼玉県川口市で手斧、ナタ、ハンマー、鉄パイプなどで武装したカクマル白色テロ部隊十数人による虐殺目的の襲撃を受け防戦、手斧やナタで頭部を割られ虐殺さる(享年41歳)。  

 3.20日、中核派が、荒川区の全逓東部アジトを襲撃。革マル派郵便局員2名(25歳、28歳)が死亡。「」は次のように記している。「マンション2階の自室で就寝中、鉄のはしごを利用して室内に侵入してきた中核派数人に鉄パイプ、バール、スコップ等で殴打され、1人が即死、1人は翌々日死亡した」。


 「革命的左翼という擬制」が次のように記している。

 「(3.14日から)十日ほど経ってのこと、革マルの根本仁から電話があった。「小野田、どう思うか」。ぼくは声が出なかった。続いて、「これによって多数の死者が出ることになるが、革マルからの殺しは本多書記長をもって打ち止めにする。二ヵ月間、組織討論して決定したことだ」(『』)。」。

 3.27日、川崎市職員・西田はるみ(26歳)が職場近くで襲撃を受け死亡。初めての女性犠牲者(革マル派、13人目の死者)。川崎市役所では約40人の反戦系労働者がおり、内訳として半分が中核派、6人が革マル派、残りが他セクトだったという。「警視庁 1976」は次のように記している。「被害者が川崎市役所裏出入口から外に出てきたところ、鉄パイプを所持して待ち構えていた中核派3人に頭部等を殴打され、同日死亡した」。


 3.28日、革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。


 4.1日、東京・墨田区の喫茶店で、革マル派元全学連中央執行委員、千葉県委員長・船崎新(27歳)が襲撃を受け死亡。(革マル派、14人目の死者)。「」が次のように記している。「被害者が喫茶店内で電話中、店内に乱入してきた中核派3人に鉄パイプで頭部等を殴打され、同日死亡した」。


 4.19日、戦旗派が東京六本木・桧町公園で日韓連帯集会。 


 4.26日、東京・新宿区西新宿の喫茶店で、中核派が革マル派政治局員ら(32歳、23歳)を殺害。「」は次のように記している。「被害者が喫茶店内で飲食中、店内に乱入してきた中核派7,8人に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日、1人が翌日死亡した」。


 4月、ベトナム戦争終結。解放戦線がサイゴンに無血入城した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。


 4月、韓国産業研究所(東京都銀座)、オリエンタル研究所(尼崎市)、間組作業所(千葉県市川市)が爆破される。5月、間組の京成線江戸川橋工事現場が爆破される。


 5.7日、中核派により鹿児島県内の革マル派アジトが襲撃を受け、革マル派高校教諭(41歳)が死亡。「」は次のように記している。「被害者を含む4人がアパートで就寝中、室内に乱入してきた中核派数人に頭部等を殴打され、1人が同日死亡した」。


 5.19日、東アジア反日武装戦線の佐々木則夫、大道寺将司ら8名逮捕、うち斎藤和は取調室で青酸カリ自殺。桐島聡ら2名を指名手配。これにより、東アジア反日武装戦線は壊滅させられる。


 5.25日、岡山大で、マル青同が岡山大学学生寮を襲撃し、ノンセクトの岡山大生(18歳)を殺害、16名負傷。「警視庁 1976」は次のように記している。「被害者を含む岡山大ノンセクト約60人が、岡山大オルグのためマイクロバスで乗り込んできたマル青同約300人と対峙中、マル青同が、マイクロバスを突込んできたため轢死した」。5月、マル青同分裂。


 5月、全国委員会派分裂。全国委ボリシェビィキ派結成。


 5月、赤軍臨総派、赤軍派プロ独編を結成。


【リッダ(テルアビブ)空港襲撃闘争】
 1972年5月30日、奥平剛士(おくだいら・つよし)(京都大生、京大パルチザン・後の日本赤軍)が、安田安之、岡本公三とともにPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と連携しイスラエルのリッダ(テルアビブ)空港襲撃・銃撃を敢行、死傷者99人(110人ともいわれる)を出す。警備隊に射殺さる(享年26歳)  
 1972年5月30日、安田安之(やすだ・やすゆき)が、奥平剛士、岡本公三とともにPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と連携しイスラエルのリッダ(テルアビブ)空港襲撃・銃撃を敢行、死傷者99人(110人ともいわれる)を出す。手榴弾で自爆(享年25歳)。

 6.4日、大阪市立大教養学部前で革マル派35名人が集会中、鉄パイプを持った中核派学生10数名が乱入。革マル派の大阪経済大生3名(21歳、24歳、25歳)が死亡、4人重傷。「」は次のように記している。

 革マル派30数人が大阪市立大教養部内に入り、芝生でたむろしていたところ、中核派約40人に鉄パイプ等で襲撃され、2人が同日、1人は翌日死亡した。

 6.15日、戦旗派が6.15安保─日韓闘争開催。東京・清水谷公園からデモ。


 6.19日、東京・品川区の路上で、革マル派郵便局員、全逓の蒲田藤盛(22歳)が中核派の襲撃を受け死亡。「」は次のように記している。「路上を通行中、中核派3人に襲われて、鉄パイプで頭部等を殴打され、翌日死亡した」。


【】
 6.24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で戦闘。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26歳)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。「警視庁 1976」は次のように記している。
 「被害者を含む反帝学評系10数人が、歌手加藤登紀子の別荘に就寝中、室内に乱入してきた革マル派(人数不詳)に鉄パイプで頭部等を殴打され、1人が同日死亡した」。
 1975年6月24日、石井真作(いしい・しんさく)(九州大出身、革労協(社青同解放派)総務委員、同福岡県委員長)が、静岡県伊東市でカクマルの襲撃を受け虐殺さる(享年26歳)。   

【「革共同両派への提言」(「6・27提言」)】
 6.27日、秋山清、井上光晴、色川大吉、遠藤忠夫、久野収、対馬忠行、中井英夫、中村宏、埴谷雄高、平野謙、藤本進治、もののべながおき氏らの12名の発起人、石井恭二、石堂清倫、白井健三郎、鈴木市蔵、関根弘、田中吉六、中野重治、西田勲、藤森司郎、丸山邦男、吉留路樹の11名の賛同人による「革共同両派への提言」(「6・27提言」)による内ゲバの停止声明が出される。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。革マル派は前向きに評価し、機関紙「解放」紙上でキャンペーンを張った。これに対して、中核派は「100%拒否」を声明、提言の署名者を追及して自己批判所を書かせ、機関紙「前進」紙上に発表した。 「検証内ゲバ」は次のように記している。(「別章2」に記す)
 「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」。

 7.1日午前10時20分頃、東京・北区の東京外国語大学の1号館1階廊下で、革マル派の学生が、女性1人を含む数人の学生に囲まれ、鉄パイプで殴られ、全治1か月の怪我を負った。襲撃した男女は生協門から逃走した


 7.3日午後0時45分頃、港区芝公園の区営グラウンドで野球をしていた都営地下鉄車掌(当時28歳)が、突然4人組の男に鉄パイプでメッタ打ちにされ重傷を負う。この車掌は革マル派のシンパで、現場に残された鉄パイプは中核派のものだった。


 7.5日午後0時半頃、千代田区神田駿河台の中央大学二号館前中庭で、学生2人がビラを配っていたところ、鉄パイプを持った8人に殴られた。この乱闘で、ビラ配付の1人が頭を殴られ重態。襲ったグループは全員スーツ姿だった。


 7.9午後1時15分ごろ、千代田区紀尾井町の上智大学構内で、革マル派系の学生約30人が機関紙を配ったり演説をしていたところ、約15人が鉄パイプで殴りかかった。この乱闘で3人が重軽傷を負った。


 7.11日午後0時10分ごろ、新宿区西早稲田の早稲田大学の13号館(生協)と14号館(社会科学部)の通路付近で、学生と見られる3人が負傷して倒れているのが発見され病院に運ばれた。1人が意識不明の重態。目撃者の話によると、鉄パイプを持ったグループがあらわれ、乱闘をおこない逃走したという。さらにこの直後、10号館付近でも学生同士の乱闘事件が発生している。警視庁公安部と戸塚署は革マル派による中核派襲撃と断定した。


 7.12日、皇太子訪沖阻止闘争。戦旗派反主流派の4名が皇太子夫妻に火炎瓶攻撃。


 7.15日午前8時20分ごろ、東京・小金井市本町の小金井公会堂2階ドア付近に、茶色の紙に包まれた不審物があるのを用務員の女性が見つけ、出勤してきた責任者に知らせた。通報を受けた小金井署員が駆けつけ、不審物を公会堂南側の空地に移し、警視庁爆弾処理班に出動を要請、様子を見ていたところ、9時23分に爆発した。付近には鉄クギなどが飛んだが、怪我人は出なかった。公会堂では、この日の朝に革マル派全学連の第38回全国大会が開かれることになっており、爆弾の時限装置はこの時間にセットされていたらしい。内ゲバに爆発物が使われたのは初めてだった。


 7.17日、皇太子ご夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200人が、新橋駅山手線内回りホームで衝突。投石などを行い、同駅を通る京浜東北線など各線がストップした。この衝突で1人が死亡、多数の怪我人が出た。怪我人の中には付近にいた一般人もおり、無差別攻撃が行なわれていた。136人が暴力行為の現行犯で逮捕されている。


 7.17日、戦旗派が東京大田区・本蒲田公園で皇太子訪沖阻止羽田現地闘争。 


【皇太子明仁夫妻のひめゆりの塔事件】
 7.17日、1972.5.15の沖縄返還から3年目、日本政府は沖縄で海洋博を行い、皇太子明仁夫妻が、天皇裕仁の名代にして且つ沖縄海洋博の名誉総裁として、皇族として戦後初の沖縄訪問した。その初日、皇太子夫妻がひめゆりの塔に向かっていたところ、白銀病院前を通過する車列に対し火炎瓶や石、鉄骨等を投げつけられた。これを白銀病院事件と云う。この時の戦旗西田派の活動家として白銀病院事件を起こした内の一人が川野純治氏である。その後、皇太子夫妻がひめゆりの塔に到着し慰霊の献花をした。その瞬間、近くのガマ(洞窟)に潜んでいたふたり組の新左翼活動家が現れ、一方が放った火炎瓶が皇太子の近くで燃え上がる事件が発生した。皇太子、美智子妃、関係者に大きな怪我はなかった。日本反帝戦線の菊池新一議長は17日夕に那覇市内の与儀公園で会見し、「沖縄解放同盟、日本反帝戦線、沖縄反帝戦線の共同闘争で行った」と発表した。

 事件は新左翼系の沖縄解放同盟準備会(沖解同)と共産主義者同盟(西田戦旗派)の共同闘争によるものであった。沖縄解放同盟準備会(沖解同)は、「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げて、「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「十五年戦争における大日本帝国による侵略・植民地主義弾劾」、「沖縄戦における日本軍による住民虐殺弾劾」、「その最高責任者である戦争犯罪人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定した。その前段闘争として、6.18日に摩文仁の丘の日本軍慰霊塔に「日本軍の残虐行為を許さないぞ」、「皇太子沖縄上陸決死阻止」、「大和人は沖縄から出て行け」、「皇太子帰れ」などとペンキで落書きをしていた。最終的に7.10日に「ひめゆりの壕に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの知念功(黒ヘル)、と西田戦旗派のメンバー(赤ヘル)が、7.11日に壕に潜入した。知念は後に、「この闘争は、皇太子および同妃の暗殺や殺傷が目的ではなく、皇太子及び皇族を裁判闘争に引き摺り出して天皇制の戦争責任を追及することが最終目的だった」と主張している。知念の判決は2年半の懲役刑。沖解同は知念の服役中、事実上消滅した。
(私論.私見)
 天皇制、昭和天皇論、皇太子夫妻をこのように位置づけることしかできない稚拙な理論で、皇太子夫妻を殺損傷させたとしたら取り返しのつかない歴史的愚行だったことになる。幸いなことに大きな事件にはならなかったようである。ちなみに、れんだいこは、美智子妃殿下を「現代の卑弥呼、天照大御神」、平成天皇を本来の天皇制のあり方において機能しようとしているとして高く評価している。本事件は、左翼内の天皇制理論の貧困が為した愚行であり汚点と評している。

 2017.7.18日 れんだいこ拝

 7月、警察当局は、国際刑事警察機構(ICPO)に対し、「日本赤軍は思想犯ではなく、刑事犯である」と国際手配を要請、同8月末、ICPOは、日本赤軍メンバー重信房子はじめ、和光晴生、奥平純三、吉村和枝、丸岡修の5名を加盟120ヶ国に国際手配した。その後、国際手配は16名となった。


 7.19日、反日武装戦線が、北海道警察本部爆破。


 7.22日午前8時45分ごろ、静岡県下田市の路上を歩いていた東京・昭島市の小学校職員の男性(当時34歳)が、3人組に鉄パイプで襲われ、重傷を負った。この男性は研修旅行中で、以前にも内ゲバ事件で襲われたことがあった。


 7.17日、新橋駅ホームで中核派と革マル派が衝突。1人死亡、44人が重軽傷。321日が逮捕される。


 8.2日、戦旗派が東京大田区・本蒲田公園で三木首相訪米阻止羽田現地闘争。


【日本赤軍によるクアラルンプール事件発生】
 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。

 8.5-6日、ワシントンで三木.フォード会談。


 8.10日、戦旗派政治集会。東京・代々木八幡区民会館。


 8.28日、戦旗派が記日米軍事首脳会談粉砕闘争。東京六本木・桧町公園。


 8月、赤軍派プロ革分裂。赤軍マルクス・レーニン主義派結成。


 8月、釜ケ崎共闘会議が、「序章」16号で、「人民ただ人民のみが歴史を動かす原動力である!」を発表。 


 1975年9月4日、山本道有(やまもと・みちあり)(元私鉄労働者 革共同東京西部地区委員会出身 人民革命軍・武装遊撃隊隊員)が、神奈川県横須賀市不入斗(いりやまず)町緑荘で、天皇ヒロヒト訪米阻止をめざして活動中、消火器爆弾の暴発により他の2人とともに死亡(享年31歳)。同アパート階上に住んでいた佐藤みどりさん、けい子ちゃん母子が死亡。  
 1975年9月4日、稲葉昌生(いなば・まさお)(元豊島区役所労働者 革共同東京北部地区委員会出身 人民革命軍・武装遊撃隊隊員)が、神奈川県横須賀市不入斗町緑荘で、天皇ヒロヒト訪米阻止をめざして活動中、消火器爆弾の暴発により他の2人とともに死亡(享年29歳)  
 1975年9月4日、小松慶子(こまつ・けいこ)(革共同千葉県委員会出身、人民革命軍・武装遊撃隊隊員)が、神奈川県横須賀市不入斗町緑荘で、天皇ヒロヒト訪米阻止をめざして活動中、消火器爆弾の暴発により他の2人とともに死亡(享年27歳)。 

 9.14日、戦旗派が日韓閣僚会議粉砕闘争。多摩川緑地公園からデモ。


 9.24日、叛旗派から、三上治離脱。のちに乾坤社設立。


 9.30日、天皇訪米阻止闘争。羽田周辺に数千名が集会とデモ。戦旗派が多摩川緑地公園で集会。


 10.12日、三里塚空港粉砕総決起集会。戦旗派が三里塚第二公園で鉄塔決戦準備集会。


 10.27日、反帝学評系十数人が、東大教養学部生協食堂前で情宣活動中革マル派を襲撃し、東大生(22歳)を殺害。「」は次のように記している。
 「石田は私の知らなかったいくつかの事実を教えてくれた。駒場寮では同室にもう一人、梅田順彦という学生がいたが、彼もまた1975年10月に大学の学生会館の前で社青同の手で頭蓋骨を割られ、惨殺されたこと」。

 10.31日、狭山上告審闘争。東京・日比谷公園からのデモ。


 11.15日、第一回サミット(主要先進国首脳会議)がフランスのランブイエ城で開催。


 これより後は、「70年代後半の学生運動(1976-79)」に記す。





(私論.私見)