
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
この前は、「第1期、戦後初期から(日共単一系)全学連結成とその発展」に記す
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後学生運動第2期は1950年から始まるが、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この経緯を纏めるのは難しい。
1950(昭和25)年初頭、戦後日本革命は流産したと見立てたスターリンは、野坂理論に縛られている徳球系執行部を批判した。「スターリン」批判を廻って党に内部対立が発生し、反主流派が一斉に批判の合唱を開始した。4.30日、党中央委員会が分裂し、党中央所感派は反主流国際派を排除した党組織の再編に向い始める。これを「50年党中央分裂」と云うが、その後の歴史の流れから見て本質的に徳球系と宮顕系の日本左派運動の主導権抗争であり、この時期両派の対立が非和解的な状態に至ったということを意味している。
全学連武井執行部は、既に宮顕派に篭絡されており、党中央に対し国際派を援護射撃する形で「全学連意見書」を提出した。それまでの党中央の引き回し、戦略・戦術上の右翼的偏向、学生運動に対する過小評価に対する公然とした批判を「左」から展開していた。 |
【1950(昭和25)年の動き】(当時の検証資料) |
【コミンフォルム批判】 |
年頭の1.7日、モスクワ放送は「日本の情勢について」を放送し、日本共産党の平和革命式綱領路線に痛烈な批判を行った。露骨に野坂を名指し、マルクス・レーニン主義とは縁の無い路線提唱者であり、野坂式路線からの転換を図るよう指図していた。この批判がスターリン直々の論評であることが判明し、党内は大混乱に陥った。徳球書記長らの不手際が相乗して党中央の責任問題へと発展していき、党の中央委員会内に明確な亀裂が走ることになった。
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1月初旬、北大・山形大・東京女子大・など各大学で進歩的教員に辞職勧告。神戸大、茨 城大で不適格判定問題などレッドパージの動き表面化する 。
1.10日、全学連中執は、世界情勢の変化、極東情勢の緊迫化を受けて、「一切を全面講和闘争に結合」するよう指示して、教育防衛闘争から全面講和と平和擁護闘争へ闘争の中心目標をシフト替えさせた。
1.21日、「国際青年学生植民地闘争デー」が全国各地で催された。
3月、原子兵器の絶対禁止を求めるストックホルムアッピール 。
【「反戦学生同盟(反学同)」結成される】 |
3.10‐11日、全学連の第2回都道府県代表者、新制大学代表者会議が開催され、「反帝平和闘争」に取り組み、全国的規模における統一行動、デモ、ゼネストを組織化させることを決定した。反帝平和闘争の活動家組織「日本反戦学生同盟」(通称:A・G=アー・ジェー、語源・仏語Anti-Guerreアンチ・ゲール)結成の動きが全国化する。
3.23日、九大が全国初の「反戦学生同盟(反学同)」九州大支部結成(守田典彦)。「反帝平和闘争」への決起の狼煙となった。翌1951.6月には第1回全国協議会を開くまでになる。5月、東大支部結成。6月、東京教育大支部結成。11月、反戦学同東海地方委結成。12月、東京都委・関西地方委・九州地方委結成される。
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【全学連中央が、「全学連意見書」を党中央に提出】 |
3月、全学連中央が、「最近の学生運動」と題した論文を党中央に提出した。これを「全学連意見書」という。それまでの党中央の引き回し、学生運動に対する過小評価、戦略・戦術上の誤りに対する公然とした批判を書き連ねていた。この意見書は、宮顕統制委議長の「ボルシェヴィキ的指導」を賛美し、野坂.伊藤律などの所感派の指導を右翼日和見主義であると批判していた。
次のように述べ党中央の指導を批判している。
「戦後、日本共産党が再建されてから47年後半に至るまで、日本の学生運動は、僅かに組織されていた学校細胞や青年共産同盟による個々ばらばらな指導があったのみで、党中央の明確な理論と政策による組織的・系統的指導はほとんどなかった。そのために党は学生層に確乎とした大衆組織を結集し、それを通じて学生連動を指導することができず、つねに分散的闘争をくり返すのみで、厖大な学生層の革命的エネルギーは未組織のまま放置されている状態であった」。 |
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(私論.私見) 「全学連意見書」考 |
「全学連意見書」は、宮顕と呼吸を合わせていた。この時国際派宮顕系は、一見「左」的な反米闘争を志向させようとしていたが、これは徳球系党中央の吉田内閣打倒方針に対する「左からのすり替え」であった。当時の全学連中央はこのからくりを見抜けず、国際派宮顕系の「左」性を評価し、党中央に叛旗を翻すことで革命性の証とした。
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【宮顕派が東大細胞を掌握する】 |
木村勝三氏は、この当時、宮顕派が東大細胞を掌握していたことを「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように証言している。
概要「50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、『ゲハイムニス・パルタイ』(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」。 |
安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
「私たち東大細胞内部での批判活動は急速に結晶して、分派的形態をとるに至った。その名称は、『G・P(Geheimnis Parteiの略称)』を名乗るもので、最初のメンバーは戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、そして私といった顔ぶれで、逐次に竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていった。その上部組織として『E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)』を名乗って力石と武井がいた。この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていたはずであるが、書記長の高橋は宮本について九州に赴いた」、「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」。 |
「メンバーは厳選され、完全な秘密が求められた。‐‐‐ある夜、私(と戸塚もか?)は力石と武井に連れられて一夜、そのメンバーに引き合わされることになった。いかなる人物が姿を現わすか、緊張して待ち受けていた私の前に、小野義彦がにこやかな笑顔で現れた。(その後、小野と同じくアカハタの編集部にいた内野壮児、全金属の西川彦義、そして平沢栄一がそのメンバーであることが判った」。「従来の関係から私たちが最も期待していたのは宮本であるが、百合子夫人も止めたと伝えられた九州への『都落ち』に応じた彼の態度を、武井や力石は『デブ顕』の公式主義、日和見主義と批判していた」。 |
この過程で、東大細胞内で党中央派と反対派の亀裂が深まり、党中央派寄りであったL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたが、夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。 |
【共産党中央委員会書記局が、「当面の学生運動の方針について」を発表】 |
3.17日、共産党中央委員会書記局が、「当面の学生運動の方針について」を発表した。第18回拡大中執委の実践、「その決定を無視乃至軽視する一切の攪乱工作に対して断固闘うこと」、闘争方針として「ストを含む大胆な大衆行動」による日常闘争、地域闘争の展開や「平和の為の集会、平和投票、署名運動等々によって大衆の戦争反対、平和のための輿論を喚起」するよう指針させていた。 |
【早大も「早大意見書」を提出。早大細胞は百家争鳴】 |
4.10日、早大細胞による細胞総会が開かれ「早大意見書」を可決した。提出の理由を次のように述べている。
「圧倒的多数を以て党が右翼日和見主義とブルジョア民族主義への道を辿りつつあることを確認し、中央委員会に意見書を提出することとなった」。 |
当時、早大内の党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)は小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)10名たらずで、圧倒的多数がコミンフォルムの論評を支持し国際派に流れた。いちはやく分派活動を開始したのが、津金に代わって新しく細胞キャップになった都委員会学生対策委員・本間栄二で、志賀意見書を精神的支柱として「国際主義者団」を組織、「早稲田大学細胞意見書」を提出した。
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「早大意見書 日本共産党早大細胞 」は次の通り。
コミンフォルムの「日本の情勢について」と題する論評に接して後、われわれ早大細胞 一同は日本共産党が真に重大なる情勢におかれている事を痛感し、爾後三カ月党の批判前
の活動の欠陥と誤謬についての徹底的なる批判を行うとともに、党の批判以後におけるその克服が何如に行われつつあるかについて、終始真剣なる討議を続けて来たのであるが、四月一〇日の細胞総会の圧倒的大多数を以て党が右翼日和見主義とブルジョワ民族主義への転落の道を辿りつつあることを確認し中央委員会に対し意見書を提出することとなった。
第十九回中央委員会に参集される全国の同志諸君! わが党はマルクス・レーニン主義の原則を堅持して断乎帝国主義者に対する革命的闘争 を行うか、或いは又、誤謬を固執し新なる欺瞞と威嚇をもって偽装とチトーイズムへの転 落の道を辿るか! それはかかって同志諸君の双肩にある。 敢えて浅見短慮を省みて同志諸君の討議をお願いする次第である。 一九五〇年四月一〇日 (一)
「第二次世界大戦及びそれに続く時期により招来された国際情勢には根本的変化が生じ た。これらの変化の特徴的様相は世界場裡に相互作用する政治の新しい均衡、第二次世界 大戦の勝利者であった国家間の関係の変動、その再評価である。 戦争が継続した限り日独と戦った連合軍は同一歩調ですすみ一体であった。それにも拘 らず戦争中既に連合軍陣営内に戦争目的、戦後の目標或いは世界組織に関して差異が存在 した。 ソ同盟及び民主主義国は戦争の主要目的はヨーロッパ内の民主主義の再建と強化、ファ シズムの清算、ドイツによる可能な侵略防止であり、更に進んでヨーロッパ諸国民間の全 体的、永続的協力の達成であったと信じた。米国と同じく英国はその戦争目的を別の目標 ――世界市場に於ける競争(ドイツ及び日本)の排除及びその支配的地位の強化においた。 戦争目標及び戦後目的の定義のこの相異が戦後の時期に深くなり始めた」(コミンフォル ム結成宣言) しかるに、第四回、第五回党大会はアメリカ占領軍を解放軍と規定する明白なる誤謬を 犯している。すなわち、「どの被圧迫民族と雖も、帝国主義の所謂『援助』のもとで真の 解放と独立を獲得することができず、真の民族独立と解放は如何なる帝国主義の好意的贈 与や誠意ある援助にも期待し得ない。こういう幻想は極端な錯誤であり害毒である」(劉 少奇)という事を当時の日本共産党は全く理解していなかったのである。さればこそ、「 日本の情勢について」がこの点に関し痛烈に指摘しているのであるにも拘ず、何ら自己批 判は行われていない。しかしのみならず、統制委員会議長椎野悦朗の「日本共産党の歩ん だ道」に至っては第二次大戦中の反ファッショ連合戦線内に於ける戦争目的の相異につい ては一言も触れず、戦争終了の翌日からこれら二つの陣営に分裂したことについても、更 に又日本帝国主義打倒に果したソ同盟軍事力の役割についても全然評価していないのであ る。従って日本占領のアメリカ軍隊が日本をアジアにおける資本主義的競争の地位から転 落し、自己の全一的支配を確立するという目的から行った帝国主義的諸政策をありもしな い「反ファッショ戦線の共同の敵に対する共同行動の一環に外ならなかった」などと称し 遂に占領軍を解放軍であったと強弁セン動して、スターリン、モロトフを引用している。 これはまさに、マルクス・レーニン主義を帝国主義美化の理論たらしめようとの企図であ るといわなければならない。朝鮮共産党平南地区委員会の自己批判に関する引用も全くの 誤りであることは朝鮮祖国統一戦線結成大会の報告に徴しても明かである。この様な二つ の陣営への分裂とその間に於ける闘争との無視並びにソ同盟と帝国主義との同一視こそわ が党の中に反帝闘争を回避し、中立主義、協調主義、平和革命論を生んだ根本的原因であ る。 (二) 第一の項目に於て明かになった如く、アメリカ帝国主義者の計画は帝国主義軍隊の進駐 により絶対主義天皇制権力の背骨を解体させることによってその地歩を築いたのである。 彼等は日本の絶対主義権力の階級的支柱の一つであった日本独占ブルジョワジーと結合す ることによって新たなブルジョワ独裁を打ち立て日本ブルジョワジーを従属下におき、か くて国際批判の鋭くも指摘した「日本の一切の政治経済面の采配をふるい日本経済は完全 にアメリカ独占資本の手中にありアメリカ帝国主義の侵略計画に奉仕」させられるに至っ たのである。現在はかくて反帝闘争の政治コースこそ、日本共産党にとって戦後とるべき 唯一の原則的に正しい政治コースなのである。然るにこの政治コースは国際批判後に開か れた第十八回中央委員会総会でも依然として明かにされておらず、反帝闘争を回避し、そ れを反政府闘争にすりかえている。即ち、徳田書記長一般報告の第五「わが党の政策」の 中で次の如くのべられている。「だから単独講和とこれを実行しつつある民自党吉田内閣 を打倒することが当面の重点的仕事でなければならない」これは依然として権力の存在を 不明確にし、帝国主義に対する革命的闘争をわき道にそらす右翼日和見主義的偏向の拡大 再生産されたものである。従って第二次大戦後のアメリカ帝国主義による軍事占領のもと に於て革命の平和的発展の可能性が存在していた等という同志野坂の第四回中央委員会総 会に於ける報告は全くの誤謬である。 この革命の平和的成長と転化に関する理論は一方議会主義の理論と放れ難く結合してい る。同志野坂は「国会を軽視することも、又国会万能主義におちいることも誤りである。 国会は国会内外の闘争の成果を制度化するものである。この意味において平和的方向によ る革命の完成は最後的には国会を通じて行わねばならぬ」(第四回中央委員会に於ける報 告)又政治局員同志伊藤律は「権力を握るのに何も武力を使う必要はない。国会の活動と 広い総ての大衆闘争とを結びつけ、国会で多数をとれば革命を行うことができる。これが 今日の事情に於て革命の正しい方向である」(何を読むべきか一九五〇年)と云っている。 この議会主義の理論は議員(共産党員)は議会破壊を容易ならしめ、かつ敵をバクロす るため労働者階級の先頭司令部たる党から派遣されることを見失った社会民主主義的日和 見主義の理論である。
北京人民日報はこの点について次のように指摘している。 議会は「敵をバクロする演壇としてのみ利用出来ない。このマルクス・レーニン主義的 立場は或る便宜的戦術をとって敵をあざむくためと雖も修正してはならぬものである」
(三) 歴史は今や日本のプロレタリアに対し、万国のプロレタリアートの最も緊急な諸任務の 中でも最も革命的な緊急任務を提起している。この任務の実現、アジアのみならず全世界 の最も強力なソ同盟、並びに中国に対する攻撃路としての、又東南アジアに於ける城サイ の破壊は、日本のプロレタリアートをして、国際プロレタリアートの前衛とするであろう。 日本に於けるプロレタリアートはアメリカ帝国主義と日本独占ブルジョワジーの二重の抑 圧下に特に多くの交通、鉱山業その他主要産業は、アメリカ帝国主義と直接関係があり、 その圧制のもとにあって、彼等は生存のため決然たって闘争する。然もその闘争はアメリ カ帝国主義及び、日本独占ブルジョワジーと衝突するが故に経済闘争はすこぶる速に政治 闘争へと発展する。 アメリカ帝国主義軍隊の重大なる軍事占領の下にあって、日本プロレタリアは国際的、 国内的に異常に緊急な歴史的任務を負担している。 これらの事実は日本のプロレタリアが万国のプロレタリアと固く団結することの必要を 示す。これら事実は日本プロレタリアは、農民及びインテリゲンチャの階級的同盟を確保 し幾百万大衆を自己の周囲に引きよせプロレタリアート独裁の樹立に向って進まざるを得 ないし、又これを行う客観的条件の存在することを示す。これらの事実は日本プロレタリ アートが先ず自己の陣営を統一し革命の原動力となるために、今や帝国主義となれる右翼 社会民主主義者の罪悪を徹底的にバクロし、これを断乎として克服しなければならないし、 その条件の存在することを示す。 これらの事実はプロレタリアの前衛党たる日本共産党とその党員の行うプロレタリア指 導の諸任務の重大性をあます処なく示す。しかるにこれらの課題を成功的に遂行していな いのみならず、これを回避し、圧殺し、日本プロレタリアをアメリカ帝国主義者に事実上 売渡したことは事実が示している。 アメリカ帝国主義の日本支配という重大事実の無視は日本共産党にイデオロギー的混乱 を与え、その革命的宣伝を弱めざるを得なかった。特に人民日報にも指摘する如く、特に 中国革命に対する同情を表明する点でそうであった。いわんや万国のプロレタリアの国際 的団結の精神は省り見られず、植民地の日本に於て本国に於けるアメリカ帝国主義に対抗 する英雄的アメリカプロレタリアートとの闘争との結合は殆ど見られず一九四八年七月二 十三日の米進歩党結成大会に於ける即時対日講和要求に対しても積極的活動は行なわなか った。フランスとベトナムに於ける如く労働運動と帝国主義打倒の闘争に於ける共同は遂 に問題とならないのである。更に最も重大かつ犯罪的事実はソ同盟のプロレタリアとの団 結が全然問題とならず徳田書記長の如きは「現在に於ても将来に於てもソ同盟とは無関係 なことを明言」(第五回大会)し、今日に至るもこの態度とこの言葉は公式には撤回され ていないのであって、これらの主要な責任は日本共産党の負うべきものである。 当面する革命の主力軍として日本プロレタリアをプロレタリア独裁の理論で武装し決定 的な闘いに準備することの無視は必然的に労働者階級を敗北的気分に陥し込み、又プロレ タリア同盟軍に関する戦略的指導の無視はプロレタリアを孤立に導き、更に党に対する不 信頼の念をおこさしめることによって、党とプロレタリアとの結合を弱めた。 かくて党の革命の指導者としての力を弱め現下の重大な情勢下帝国主義者の召使たる客 観的任務をよく果した。即ち一九四六年六月十三日の社会秩序保持声明の出た後はこの命 令に従い、従来の生産管理を排してゼネストの方式をとった。一九四六年九月一四日の国 鉄ゼネスト中止及び、一九四七年一月三一日の二・一ゼネスト中止命令が出た後は、この 命令に従い地域人民闘争の方式をとってこれを一九四七年十二月二十一日の第六回党大会 の分科結語で定式化した。即ち、二・一ゼネストの誤った自己批判に基き日本プロレタリ アの闘争に於て経済的闘争と政治的闘争との結合に対する意識的努力をサボタージュし共 産主義と労働運動の結合という革命的党の意義とその役割を無視し「人民闘争の条件の揃 うまで待って」しかもスト中止命令が出れば以上の任務を放棄したまま、これに従うべき ことを教え、然してアメリカ帝国主義打倒の闘争を無視して、単なる反政府の議会主義的 右翼日和見主義の「地域人民闘争論」を革命的戦術として日本プロレタリアに教え込んだ のである。 その後も日本プロレタリアはこの重圧下によくケツ然と立ち上った。一九四八年三月の 全逓のプロレタリアを中心とする全官公の「地域」スト(何んと痛々しい名称ではないか! !)。及び、これに対する三月三十一日のマーカットのスト中止命令。 その後の一九四八年五月、私鉄総連「波状」スト。(この年の六月二十六日全国大学高 専の学生がゼネストを行った)。一九四八年八月に於ける北海道国鉄を初めとする全国鉄 の革命的昂揚等がこれである。 然るにこれらの闘争を指導するに当って特に一九四八年八月に於ける全国鉄の闘争に当 っては「職場放棄」という方式をとり、プロレタリアの最も意識的部分である日本国鉄の プロレタリアを農村に個々バラバラに送り込みその行く先で「人民闘争」をまきおこさん としたのである。日本の国鉄はアメリカ帝国主義及び日本ブルジョワジーの支配の動脈で ある中枢をなし、且つそこに向って最も意識的なプロレタリアは団結していた。この国鉄 のプロレタリアを敵の中枢から引き放し、然り!! 革命運動から遠のかせ農村に於けるプ チブルの包囲の中に階級的団結を解いた個々プロレタリアを送り込んだのである。果して 人民闘争は起ったであろうか? 否、断じて起り得る筈もないのである。プロレタリアー トの国際的国内的闘争の展開によって始めて農民は「引き離せ」られるのであり、党はこ れを指導することによって、戦略的指導の任務を遂行するのである。このために党はプロ レタリアートの前衛たるのみならず、その組織の最高形態のものとして、即ち、戦闘の最 高形態のものとして、即ち戦闘の最高司令部としてその先遣隊をあらゆる階級あらゆる階 層に派遣するのである。その先遣隊が敵の中に送られるとき、それは或は国会議員として 帝国主義のバクロの任にあたるのであろう。それがプロレタリアートの指導に当る時は、 これを団結せしめてその勢力を結集し(団結をといたりその勢力を分散したり農民の中に スッポリ出したりして人民闘争の遊戯にふけるのではなくて)政治的にこれを準備し、革 命の決定的瞬間と決定的場所にその全力を集中してその打撃力を発揮させるであろう。そ れが学生の中におけるときは層としての学生を把握しプロレタリアートの統一的闘いに於 ける同盟軍としての任務を果すであろう。その先遣部隊が農村に派遣されたときは、分散 している農民を農村細胞の周囲に結集し、プロレタリアートの同盟軍たらしめるであろう。 党とはこのようなものであり、革命党のプロレタリア指導とはこのようなものである。地 域における各階級・層に結びつけんとする「地域人民闘争」がいかに誤りであるか、又そ の典型的な表現である「職場放棄」というような方式がいかに日本のプロレタリアートを 誤らせるものであるかは自ら明らかであろう。これこそプロレタリア団結破壊の理論であ る。そして万国のプロレタリア団結せよとのマルクスの教えに真向から対立するものであ る。しかもこの地域人民闘争は社会主義と結びつくことによって醜悪な「自治体社会主義 」(レーニン)を復活せしめるに及ぶ。即ち以上の如くして地域の「労働者、農民、及び その他の市民」を結集させ地方権力をマヒせしめ、上に向かせ以って現在の政府の足をす くい国会を通じて「権力」を(笑ってはいけない!)「権力」を平和的に奪取するという のである。権力とは何か。権力とはレーニンが「国家と革命」において懇切丁寧に教えて くれるが如く「刑務所その他の施設をもつ特殊な武装した部隊」がその実体である。国家 という外見、神秘的ヴェールをはぎとった後の国家権力とはこういうものである。 そうしてみると日本の国家権力とは何であろうか。それは「刑務所その他の施設をもつ アメリカの日本占領軍であり日本の警察軍」である。そうしてみると地方自治体に、即ち 都議会や市議会や区や町に権力はあるだろうか。ない! 確かにそれは国家機関(行政機 関)ではあるが、それには国家権力は一かけらといえどもないのである。現在の日本は階 級支配の社会でありその支配はブルジョワ独裁である。従ってこれに打撃を与えるために はプロレタリア独裁を樹立してプロレタリアートが日本を支配し、ブルジョワの権力であ る軍隊を解散し、旧いブルジョワ国家機関を破壊して新しい人民の軍隊と人民の国家機関 を以ってこれらに代えなければならない。従って国家機関を民主的にするということは、 即ちプロレタリアの民主的中央集権を確立しうるのは、革命の初めではなくして革命の終 りである。従って地方自治体に上に向かせ政府の足をすくうという方式が全くの誤りであ ることは極めて明白であり革命的戦術とは縁もゆかりもないものである。レーニンはこれ を評して「蠅をとらえて、その後に蠅取粉をふりかけようとする」ものであり、政治的白 痴病と言っている(国会と選挙)。しかも以上に明らかな如く、議会は権力を持たないも のであり、このことは議会でいくら共産党が議席をとったとしても、それだけでは日本人 民は解放されないのみならず、だまされるだけであることを示す。従って日本共産党の「 地域人民闘争」の方式を一貫してとってきたことは、一、アメリカ独占資本と日本独占資 本の階級支配とその権力に対する闘いを「芦田」とか「吉田」とかいう権力でもない内閣 に対する攻撃にそらしてプロレタリアートの重大な打撃力をあらぬ方にそらしたことを意 味する。二、プロレタリアートに議会主義的、革命の平和的発展の幻想を植えつけてプロ レタリア独裁の理論によって武装させることをしなかったために重大なストにおいていつ もアメリカ帝国主義とぶつかりながら退却せねばならなくなり、それを又教え込んだこと を意味する。三、その結果、日本のプロレタリアートを敗北感に導き、革命の原動力であ るという階級意識を失わせ、又意識的に市民の中に投げこむことによって革命的プロレタ リアートをブルジョワ的プチブル的包囲にさらし、その影響を強化したことを意味する。
最後に革命運動における党の役割。労働運動を共産主義と結合し、プロレタリア独裁と プロレタリア革命の勝利に向ってこれを導くという革命的党の任務を放棄したことを意味
する。 (四) 我々がプロレタリア国際主義の立場に立ち、マルクス・レーニン主義の立場に立って日 本の革命運動をとらえるならば、民族独立のための闘争を階級闘争から切りはなして考え
ることは明白な誤りである。 ビエルートはポーランド労働者党・社会党合同大会(一九四八年十二月)で次の如くい っている。「労働者党は、プロレタリアートの権力のための闘争が民族解放のための闘争
と緊密に結びついた特殊的な情勢のもとで、プロレタリアートのイデオロギーの実現のた めに闘った。労働者党は民族解放のために闘いつつも、プロレタリアートの権力のための
闘争を捨てはしなかった。のみならず、まさに、反対に、労働者党はプロレタリアートの 権力のための闘争を民族解放の闘争と結びつけた唯一の党であった。党内の若干の同志の
偏向は、これら二つの問題をきり離し、民族解放闘争に基本的な問題をそれに従属させた ことである。これは一種の日和見主義の現れであり、レーニン主義の立場からの逸脱であ
る。」この原則的立場から逸脱するならば、それは必然的にブルジョワ民族主義に転落す ることは明らかである。 従って同志伊藤律は前衛四四号「一歩下がって二歩前へ」の中で「これは最早大資本、
中小資本の問題にとどまらない。独占資本も含め民族の独立か否かで決定的な線がひかる べき事態となった」と述べていることは明白なる誤謬である。 更に、日本共産党第十五回拡大中央委員会総会に於ける「講和問題に関する決議」では、
厳正中立をスローガンとし、更に一九五〇年一月一日のアカハタ紙上に発表された「講和 綱領」においても又、「中立」のスローガンをかかげているにも拘らず、未に撤回もされ
ず又自己批判もなされていない。同志野坂に至っては「今日迄日本共産党は日本が厳正中 立を宣することを主張して来た。現下の情勢ではこれ以外の方法は有害である」とまで云
っている。これは、全くマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない見解であり、ブル ジョワ民族主義的立場に立っているばかりでなく、人民を欺瞞する虚言であると言わなけ
ればならない。 同志劉少奇はこのような見解を痛烈に批判して次の如く述べている。「この側にも立た ず、またあの側にも立たず中立を実行することは不可能である。現下世界のかかる緊張し
た形勢の下に於ては正に同志毛沢東が指摘せる如く、所謂中立はただ一種の人を欺瞞する 虚言である。君の主観に人を欺瞞する意志があるにせよ、ないにせよ」、さればこそコミ
ンフォルム批判がこの点について「日本が帝国主義及び帝国主義的諸同盟と手を切り、民 主主義と社会主義の立場に立ち、平和的発展と諸民族間の平和の強化の線に止まる場合に
のみ日本は立上り、偉大な独立国になることができる」と鋭く指摘したのであった。この 誤謬と欺瞞はソヴィエト同盟並びに中国に対する態度に於て特に甚しいものがある。
スターリンは述べている。「注文をつけず、ためらうことなく、無条件にソ同盟を守ろ うとするものが国際主義者である。何故ならば、ソ同盟は世界革命運動の基礎であり、ソ
同盟を守らずして、この革命運動を前進させ、守ることは不可能である。ソ同盟にそむき、 これをわきにおいて革命運動を守ろうとするものは、革命に反対するものであり、きまっ
て革命の敵陣営におちこむものである」。 このスターリンの教えについて、ルーマニヤ労働党書記長同志ゲオルギー・デジは次の ように述べている。「今日、この我々の偉大な教師の言葉は何と切実にひびくであろう。
階級闘争の弁証法はカシャクのないものである」と。真の国際主義の見地とはかくの如き ものである。 これに反して、同志徳田は第五回党大会における一般報告において次の如く述べている。
「次にソ同盟との関係であります。現在我々はなんらソ同盟と関係を持っておりません。 以前においてもソ同盟と我々の党との間にはなんらの関係がないことは、しばしば云った
とおりであります。もちろん過去におきまして、国際共産党が成立していました時には、 全世界の共産党が一つの組織になっていたことは事実でありまして、その意味において国
際共産党に関係していたボリシェヴィキ党と関係があったことは事実でありますが、これ は党と党との関係でありまして決してソ同盟そのものと関係していたのではないのであり
ます。現在におきましても、又将来におきましても決して我が党はソヴェト同盟と関係を もつことはないであろうことをここに明言したいと思います」このような見解は、全くブ
ルジョワ民族主義的チトー的見解であって、ソ同盟と中国の革命を擁護し、侵略戦争に対 して闘った日本共産党の革命的伝統に泥をぬるものである。 (五)
以上において、党の過去におけるマルクス・レーニン主義の原則より逸脱しており、し かもそれが批判後においても依然として克服されていないどころか、新たなる欺瞞を以っ
てそのブルジョワ民族主義への転落を覆いかくそうとしていることは、「悪意なく」読ま れるならば何人にも明白であろう。 就中、自己批判に代るに弁解と欺瞞とを以ってしている点に対して、われわれは最も大
なる誤謬を認めるものである。一月十日の関東活動家会議に於ける同志志田がコミンフォ ルムの批判に関し「前半の情勢については、現在の党中央の見解と一致している。従って
これはよろしい。しかし後半の同志野坂に関する部分は酷である」という意味の発言を行 っている事実、又、同志徳田の前衛四七号「たたかいは人民の信頼のもとに」における、
コミンフォルム及び中共の批判よりの全くの得手勝手の引用、更に又、統制委員会議長で ある同志椎野の「日本共産党の歩んだ道」に現われている強弁と欺瞞等々。同志スターリ
ンはこのような帝国主義者に奉仕して人民を欺瞞し、党を日和見主義とブルジョワ民族主 義の泥沼に追いやるやり方に対して、次のように述べている。 「革命的理論は、大衆の実践的革命闘争とは全然無関係な、一束の、辻褄の合わぬ命題
や切断の理論にとりかえられ、老ぼれたドグマに代えられた。一見した所、指導者たちは、 マルクスの教理に準拠するかのごとくであった。が、彼等は、マルクシズムからその革命
的心髄をぬいてしまったのである。もはや、そこには、何らの革命的方針は見られなかっ た……。 自己を教育しようとも、又自己の過失から学び、それによって発剌たる革命的戦術を苦
心して編み出そうとしなかった。厄介な手に負えぬ問題は、その解決に真シな努力の必要 とされる限り、慎重に回避された。それらも又、体裁みたいに、時に討議に提出されはし
たが、最後には伸縮自在な決議でごまかされるのを常とした」(レーニン主義の基礎より ) コミンフォルムの批判に接して、その後の党のこれに対する態度は、全くマルクス・レ
ーニン主義と縁もゆかりもないものである。自己批判を恐怖し、自己の過失を隠蔽し手に 負えぬ問題を胡摩化そうとすること、内幕が全く無欠である振りをするやり方、これらに
対して、レーニンは「共産主義左翼小児病」において、次のように述べているではないか ! 「自己の犯せる過失に対する党の態度は、党の誠意の有無、またどれだけ彼らの階級及
び勤労大衆に対して、彼らの義務を遂行することができるか、かかる能力の有無をしらべ るための、最も確実な規準となるものである。過失を公然と認め、その原因を発見し、そ
れを生んだ事情を分析し、その過失を改める手段を考究すること――これこそ、真面目な 党の表徴であり、またその義務の遂行であり、更にそれは階級および大衆の教育ともなる
ものである」自己の過失を発見したり、党が自己批判したりすることは、敵にそれを利用 される恐れがあるから危険だということが、幾多の人によって口にされる。しかし、レー
ニンはかかる暴論を重要視しなかった。この問題についてレーニンは「一歩前進、二歩退 却」のなかでいっている。それは一九〇四年、その党が未だ小さくて微力であった頃、か
かれたものである。 「われわれの敵、即ちマルキストの敵は、われわれの論争を見て雀踊りする。彼らが、 われわれの党の欠点や欠陥を批判した私の小冊子の中から、幾つかの章句を引き出し、そ
れを自分たちの目的に利用しようとするのは当然である。けれども、ロシアのマルキスト たちは、かかる針でつつかれること位いは無視していいほど、すでにずっと前から砲火を
投じている。彼らはかかることを無視して自己批判をつづけるだろう。彼らは遠慮なく自 己の弱点を暴露しつづけて行くだろう。そしてかかる弱点は、労働階級の運動の強大とな
るとともに、不可避的に消失するものである」 今や党はまさに、重大な岐路に立っている。 光輝ある党の革命的伝統を擁護し、全世界のプロレタリアートに伍し、勇敢な革命的闘
争の展開のために、この意見書について徹底的なる検討と批判を、重ねてお願いする次第 である。 (日本共産党早大細胞) |
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4月、島成郎が東大駒場に入学。
【反イールズ闘争】 |
4月頃より全学連は反イールズ闘争に立ち上がっている。イールズは、CIE教育顧問であったが、49.7月、新潟大学の講演を皮切りに全国各地の大学で「共産党の合法性を認めず」、「共産主義者の教授を大学から追放すべきである」という講演をして歩いていた。各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて廻っていたが、その講演会を中止に追い込む戦果を挙げている。
4.10日、九大.イールズ講演会、学生の追求で混乱、秘密会議となる。
4月、早大.文学部401教室でイールズ声明反対の学生大会。
5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。
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5.3日、マ元帥が憲法記念日声明で共産党の非合法化を示唆。
ストックホルム・アッピール署名の国際的運動始まる 。
5.4日、日比谷で、都学連が中国学生の反軍閥闘争を記念する「5.4記念アジア青年学生蹶起大会」を開催、1000名が結集した。この時、本間の「われわれはトルーマンの傭兵になるな!」のプラカードが敵に弾圧する機会を与えたとされた。この挑発プラカードと意見書が党中央主流派による早大細胞解散の理由となる。
【党中央が国際派の拠点東大細胞、早大第一細胞に対し解散命令を下す】 |
5.5日、党東京都委が、「国際派」支持の中心勢力であった全学連書記局細胞、東大細胞に対し解散命令を下す。分派活動、挑発的行動をしたというのが解散処分の理由であった。以降、全学連内部に国際派と所感派の対立が強まり、所感派が指導権奪取に向かうことになる。
5.6日、党東京都委が、同じく「国際派」支持の中心勢力であった早大第一細胞に対し解散命令を下す。
5.7日、早大細胞による細胞総会が出席者111名で開催され、圧倒的多数で「解散反対」を決議(解散賛成=2、保留4)した。大金氏の発案で、党中央の要請に応えて「再登録」に応じ、再建委を組織しようとした藤井、水野、横田らが逆に除名された。大金らは、教育学部党員らを教室より追放、それに抗議した戸口(露文)もその場から追放した。
大金久展氏の「神山分派顛末記」は当時の事情を次のように述べている。
「たしか、五月六日の午後、新宿地区委員長の岩崎貞夫(のち小河内山村工作隊で活動中病死)が一号館の地下にあった細胞の部屋にやってきて口頭でこれを伝えた。私(大金)と津金が応対したが、早口で理由をのべると脱兎のように窓から飛び出していった。(ドアのカギはしめられていた)。解散処分という事態に対処するための緊急細胞総会が開かれたのは五月七日のことで、百余名が出席して圧倒的多数で『解散反対』を決議し、『再登録』に応ずるとした藤井たちを逆に除名した。除名を提案したのは私で藤井たちに『出ていけ』とドナったそうだが、よく覚えていない。この『解散反対細胞』は五月二一日(日)の細胞総会で分裂した。本間たちのグループが『独自の途を歩む』と宣言して退場していったのである。
この日の討論での最大の争点は、本間たちグループの分派活動だった。雑誌『真相』に掲載された早大細胞意見書の表紙は細胞総会で配布され、全部が回収されたものとは明らかに違うもので、ひそかに本間たちが全国にバラまいたものだった。解散理由の一つになった『挑発ビラ』も本間たちが細胞指導部の討議を経ずに独断でつくったものだった。また、吉田たちの自治会中執にたいしても『帝国主義者の手先』呼ばわりをするなど、その極左的行動が問題になった。結果として早大細胞は『再建細胞』、『団』と『解散反対細胞』の三つに分裂することになったのである」。
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大金氏は、「早稲田通信第3号」(2004.8月)の「松下清雄の書き下ろし小説『三つ目のアマンジャク』について」で、次のように記している。
旧制新潟県立長岡中学から海兵(昭和20年4月入学の78期)を経て1948年第二早大露文
科に進んだ松下清雄のことはたいていの人が記憶していることだろう。1950年5月に 解散処分を受けた旧早大細胞最後のLCの一人で、全学連書記局にも出ておおいに活躍
していた。 |
5.9日、アカハタ紙上に「東大細胞、早大第一細胞、全学連書記局の解散について」の東京都委員会の声明を発表した。
5.11日付け東大新聞は、党中央による東大細胞に対する「細胞側見解」談話を発表した。
「解散しても、マルクス・レーニン主義とその下にある日本共産党を支持し、再建東大細胞を支援する、‐‐‐分派活動はやるべきではないし‐‐‐、必ず復党の日をもたらすことを確信している」。 |
以降反党中央派は、反戦学生同盟という大衆的活動家団体に結集しつつ、活動していくことになった。安東氏の「戦後共産党私記」では、この時期(3,4月頃)宮顕との接触が頻繁に為されていたことを明らかにしている。
「宮本との接触がいつ、どのように回復されるようになったかは分からない。だが力石と武井が宮本と連絡を取り始めたことは明らかであった。『デブがこう言っていた』という言葉がしばしば聞かれるようになった。それと共に分派闘争の否定、正規の党内闘争ということが俄かに強調されるようになった」。
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つまり、別党コースに向かうのではなく、党にとどまって党中央攻撃をもっとやれと煽っていたということになる。
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5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させ、のち帝国主義打倒など決議。他方、東京.日比谷では都学連が5000名を集めて「自由擁護都青年学生蹶起大会」を開いた。この集会で初めて「全占領軍の撤退」、「帝国主義打倒」、「イールズ声明反対図」などアメリカ帝国主義に公然と反対するプラカードを掲げてデモ行進した。モスクワ放送、新華社電が「日本最初の反帝デモ」と評価し、詳しく報道した。
【全学連第4回臨時全国大会】 |
5.20日、反米闘争の高まりの中で、全学連が第4回臨時全国大会を開いた。120校、代議員202名、評議員131名、その他オブザーバーが参加していた。全学連執行部はこの大会で、先の共産党の除名処分に対し、自分たちの意見こそが正しく、共産党中央委員会の多数派は右翼日和見主義に陥っているとみなし、執行部の下での全学連の団結を訴えた。
大会は、中央執行部の提案を圧倒的多数で支持し、「全面講和締結、占領軍撤退を宣伝のスローガンから行動のスローガンに発展させる。学生自治会を平和と民主主義と独立のための行動的組織とする。レッド.パージ反対闘争を強力に展開する」運動方針を採択し、中執の反帝平和路線を信任した。「平和擁護闘争」の歴史的意義を確認し、第二次世界大戦後の新しい世界情勢における第一義的な大衆闘争とする視点の確立は、全学連中央の理論的功績であり、先駆的役割を果たした。この大会で「労学提携」も打ち出されており、「平和擁護闘争」とともに戦後学生運動の到達点を証左している。
この時、「身の回り主義と地域人民闘争主義を最終的に粉砕した」として、共産党中央の指導に対抗する姿勢を明確にさせた。全学連指導部と共産党機関との対立は、はじめは学生運動の戦術上の意見の対立であったが、コミンフォルムの批判を契機として、政治方針上の対立になり、遂には組織上の対立になり、党機関の側では全学連の活動家を「極左的跳ね上がり」、「挑発分子」として攻撃し、全学連の側は党機関の方針を「身の回り主義の右翼日和見主義」、「ブルジョア選挙党への転落」と罵倒し、敵対的な抗争にまでなっていた。こうして、当初は戦術上の意見の対立であったものが政治方針上の対立に進み、そこにコミンフォルムの指摘が重なり、事大主義的傾向も発するというまことに複雑な条件の下での「不幸な対立」となっていくことになった。 |
5.25日、早大11中委で吉田嘉清(法学)委員長を「合法性獲得の最後のライン」として選出。
5月、東大除名組、解散命令に抗議しつつも、GPの下部組織としての反戦学生同盟(AG=反学同)を組織。「『全面講和と全占領軍の撤退』を基本目標にかかげた当時の全学連の核たるべく組織された反戦学生同盟」とある。
5月、東大で、この頃武井・力石と宮顕が連絡。
5.30日、「5・30人民決起大会」。民主民族戦線東京準備会主催、全面講和をかかげ、4万余の労働者、学生、婦人を集めて、使用禁止令を蹴って皇居前の人民広場で決起大会。この時8名の青年.学生.市民が逮捕検束され、即日軍事裁判にかけられた。
概要「マッカーサーを(弾圧に)踏み切らせたのは、米軍の将校・兵がデモに参加した労組員に殴られた事件であった。ほとんど即決といってもいい軍事裁判によって被告全員が有罪となり、重労働十年から五年の刑に処せられた」。 |
6.1日、党が、都委員会声明「全党員及び学生に訴える」でトロツキスト全学連中央追放を発表。
6.2日、警視庁が都内での集会・デモを6.5日まで禁止すると発表した。
【全学連が労学ゼネスト】 |
6.3日、労学ゼネストト、青年祖国戦線参加を決定。早稲田、東大、外大、都立大など8校がスト。但し、党の切り崩しにあって不発となったと言われている。
この経過について、春日庄次郎は次のように述べている。
「この学生闘争を労働者及び一般人民大衆の反戦平和の闘争と結合し、強力に発展せしめるのではなく、むしろ学生の闘争を孤立せしめるような指導が行われた。たとえば、実質上学生運動の全国的な闘争の指導の中心をなしていた全学連中央執行委員会および書記局を、スパイ挑発者の手によっておどらされているものとし、我が党中央指導部及び東京都委員会は無責任な非難を公然とあびせ、又、全労連と全学連との共同闘争を拒絶せしめるように全労連グループに指示を発した。
更に学生闘争が全国的に高まってきつつあるこの重要な時に、しかも全国学生闘争の中心となりつつあった東京大学、早稲田大学細胞、全学連書記局細胞の解散をおこない、客観的にはこれらの細胞を弾圧せんとして虎視眈々としていた当局と協力し、学生運動の高まりを阻害した。かくて学生運動をほかの人民層の闘争に結合発展することを妨害したのである。勿論学生運動の中には極左冒険主義的傾向のものがあることは事実である。しかしイールズ闘争以後急速に高まってきた学生運動が、当面の平和、反戦、反米の民族解放の全体の闘争の上に占める重要な意義を過小評価し、これを全体の人民闘争と結合発展せしめることを阻止するが如きは、完全な誤謬であった」。
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【マッカーサーが日共党中央委員24名全員の公職追放を指令】 |
6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日共党中央委員24名全員の公職追放を指令した。これを「6.6追放」と云う。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。これを予見していた党中央所感派幹部は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置された。 |
【「6.6追放」直後の全学連活動家除名処分】 |
「6.6追放」直後、学生運動の中心的な活動家の除名処分がおこなわれた。統制委員会の山辺健太郎は「これらの人たちは党内に分派組織をつくろうとしている」という除名理由を説明した。「なんとしても学生と分派主義者を切りはなさなければ、党の分裂は拡大する」という考えを強調していた。(「スパイ・トロツキストの除名」といわれている)
参考までにこのときの除名者を付記すると総数33名、東大12名、早大10名、中大6六名、工大5名、その他5名である。
〈東大〉 |
学生細胞指導部 |
戸塚秀夫、高沢寅男、安東仁兵衛(文京地区委員)、木村勝造、林重太、 |
学生評論班 |
力石定一、沖浦和光 |
全学連書記局細胞 |
武井昭夫、熊倉啓安、富塚文太郎 |
都学連書記局細胞 |
家坂哲男、横 瀬郁夫 |
早大〉 |
〈早大第一細胞指導部 |
本間栄二、坂本尚、猿渡新作、大金久展、今井哲夫、西山一郎 |
全学連書記局細胞 |
七俵博 |
都学連書記局細胞 |
水野邦夫 |
その他 |
鈴木雄、堀越稔 |
〈中大〉 |
中大学生細胞 |
盛田勇之進、清水伸夫、坂井一郎、加瀬仁三、亀田虎雄、平松昭二 |
〈工大〉 |
工大学生細胞 |
渡辺昇、大沼正則、杉浦俊夫、今井元、本間正雄 |
〈商大〉 |
都学連書記局細胞 |
手島三郎 |
〈法大〉 |
法大学生細胞 |
長徳連、遠藤茂、嵐呂昭 |
〈教大〉 |
教大学生細胞 |
飯島侑 (著者は社会運動研究家) |
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【全学連は党中央派と反主流各派に分裂する】 |
全学連もこの煽りを受け、党中央派と反主流各派に分裂する。ちなみに、当時の派閥は次の通りである。党中央派は、徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は、宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日庄派。その他中西派、福本派。
全学連武井執行部派は宮顕派と一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞が宮顕系により掌握されたのに比して、当時の早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。
大金久展氏の「神山分派顛末記」は次のように述べている。
概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。 |
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6.6日、早大.文学部学生30名、共産党中央委員追放・集会禁止に抗議して学内デモ。
6.7日、アカハタ編集幹部17名が追放された。
6.7日、全学連中執委、声明「反帝闘争を阻害する者に断乎抗議す」を発して、日共「6.1声明」に反駁。東大.学生1500名が抗議集会。
6.11日、学生自治会と早大細胞室への警察の不当捜索(40名) 。
6.12日、自治会声明「健全な学生運動発展のために極左、極右の過激行動を是正し、統 一的な全学自治会に結集せよ」、「大学自由擁護委員会」を提唱。代表者会に16
団体約50名が参集する。
6.13日、天野貞祐文相が、「最近の学生の政治活動について」談話を発表する。
6.17日、「学生の政治・集会・デモの禁止」の次官通達が出された。
6.22日、早大で、当局の集会禁止命令を蹴って自由と平和を守る会強行。東大でも平和請願集会が挙行された。この頃
GHQと日本警察による反戦言論の取り締まり。主に在日朝鮮人、共産党員、学生対象。逮捕者500人以上。
【朝鮮動乱勃発】 |
6.24日、朝鮮動乱勃発。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。
「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけ、北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。
北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8日、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。 |
6.26日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの30日間停刊指令。朝鮮動乱の勃発で東アジアは一気に緊迫し、マッカーサーが、いわゆるレッドパージを開始した。警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令し、労働組合内でも「民同派」が中心になって日共系産別会議に対抗する総評が結成された。
この頃、徳球系党中央系所感派の主要幹部は中国に逃れ、北京機関と称される指導部を構築し、国内の「臨中」と呼吸を合わせた。
国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていった。
6.27日、本共産党臨時中央指導部が学生運動の指導的幹部38名除名する。東大教養学部、 目黒区地区委が解散させられる 。
6.28日、全学連中執委が「ストックホルム・アッピール 8.15日までに目標200万を突破せよ」を発表し、署名運動を始めた。
7.2日、東大で、反全学連組織である学生運動総協議会が結成され、5大学6組織が加盟した。
7.3日、早大.東京都平和擁護大会。約1千名参加。平和投票コンクールで5万6千票集まる。
7.8日、マッカーサーが、警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令。
7.11日、労働組合内の「民同派」が中心になって、産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。総評の結成は、戦後労働運動の主流を形成した産別指導との訣別を意味していた。社会党とともに「朝鮮問題不介入」の方針をとった。
7.13日、全学連、都学連など全国50カ所一斉捜索。戦後最初の全国的規模に及ぶ全学連傘下の大学の家宅捜査となった。東大、早大などで前夜相当量の書類を焼いた痕跡があったと報道された。〃軍事基地の実態を見よ
!〃の勅令311号違反容疑であった。
7.18日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの無期限発行停止指令。
この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。この頃党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳球計執行部党主流派(所感派)は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。この党中央分裂が全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。
共産党機関誌「前衛」8月号で、藤尾守が「当面の学生運動の重点」を発表し国際派批判を展開した。
「反ファッショ民主民族戦線の拡大強化、党と大衆との真の離れがたい結合の強化という闘争の一環の他の表現であり、これこそ全党、従って学校細胞にとっても重大な任務」。 |
8.10日、警察予備隊令公布 。早大消費生活協同組合設立。
【全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令】 |
8.30日、全学連は、緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発し、全国の学生に直ちに大学に戻り、闘争態勢につけ、と呼びかける。共産党も戦後初めての半非合法下におかれ、指導部が分裂したままで地下にもぐってしまった状態で、闘いを起こすどころの状態ではなかった。全学連の指導部は、悲壮感を顕わにしながら孤立した闘いを覚悟、学生運動こそが警鐘乱打し世に訴える使命があると考えていた。この間の5−6月の闘いによって、「反帝」の闘いの先頭を自分たちが担わなければならないと自負していた。
9.1日、天野文相が教職員のレッドパージ表明。全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。9.2日、早大学生自治会中執が「全早稲田の学生諸君に訴う」、追放反対の署名運動開始する。
島・氏が次のように証言している。
期末試験ボイコット闘争へ
8月末、全学連中央執行委員会は緊迫した情勢をアピールし、全国の学生に直ちに大学に戻り、闘争態勢につけ、と呼びかける。すでに日本共産党のヘゲモニーがなくなっていた労働運動は、朝鮮戦争の勃発にも「反共」のスローガンを掲げ、ほとんど政治的闘いを放棄している状況で、また当の「共産党」も戦後初めての半非合法下におかれ、指導部が分裂したままで地下にもぐってしまった状態で、闘いを起こすどころの状態ではなかった。全学連の指導部は、悲壮感を顕わにしながら孤立した闘いを覚悟、学生運動こそが警鐘乱打し世に訴える使命があると考えていたのである。そして、5月、6月の闘いによって、「反帝」の闘いの先頭を自分たちが担わなければならないと自負していた。
この全国闘争の展開の中で、東大駒場は、つねに拠点の位置を担わされ、ここで突破口を開けと、全学連、東大のオルグが連日のように、現われていた。そして9月、学期が始まるとともに闘いの日々が始まったのである。
危機感と使命感という学生運動にとっては必須の条件はあったが、所詮学生である。最大の関心は、9月末から始まる学期末試験である(2学期制であるから、9月末から試験になり、その後、中間休みとなる)。しかし、学園レッドパージは10月初めに行われるという見通しから、闘争目標はその前に行わねばと、10月6日のゼネストが呼びかけられている。
細胞も8月ごろには50名以上になっていたが、党員でもやはり学生である以上、試験は大問題で、学期が始まった頃は、日頃勉強していないために試験に頭を奪われ、指導部の焦りにも拘らず、なかなか思いきった闘争方針が決まらない曰々が続いたようだ。
私自身も、4月以来の闘争疲れと、喘息(島さんの持病・・・管理人注)の季節、父の病気などが重なって、9月半ばには、一時病床に臥す状態であった。そしてまた、夏休みの間の活動上の問題で、委員長である大野明男が問題を起こし、細胞内で「活動停止」の処分を受けていることもあり、自治会の運営は、常任委員会3人男といわれた島・斎藤・丸山が中心となってやらざるをえない日々が続いた。
そうした中で繰り返された細胞総会で、9月半ば近くなり「この闘いを行うためには試験をボイコットして闘う以外にはない」との指導部の方針をめぐって、重苦しいしかし切羽詰った討論が続いた結果、断固ボイコット闘争へと踏んぎりがついたのである。
この細胞の決定はすぐAG(この頃すでに100名を超えた組織となっていた。)〔再建反戦学生同盟のこと。・・・管理人注〕の総会に提案され、了承されるや、文字通り戦闘態勢に入ったのであった。これからの1ケ月間駒場は全学ルツボの状況におかれる。
私たちも、試験ボイコットをする以上、自分たちが進学をあきらめなければならず、しかも今度は大量処分を免れないと、それぞれ容易ならない決意をしなければならなかった。
大衆的運動の力学というものは、いつも思わぬ展開をするものである。この9月の駒場の学生の動きは、まさにその好例であり、私自身のその後の考え方に大きな足跡を与えた。9月上旬のあの重苦しい、息づまるような空気は、久野一郎、佐藤隆一らの細胞指導部の思いきった決断と、それを受けて立った党員たちのふんぎりで一変し、それからは、堰を切ったように、流れはほとばしったのである。
駒場は、文科一類、二類、理科一類、二類と4つの科があり、それぞれ約50名のクラスが7〜10ある。それぞれのクラスから自治委員が2名、代議員が4〜5名選出され、自治委員会、代議員大会が構成される。代議員大会が最高議決機関であるが、ストライキなどの重要事項は全学投票で決定される。執行部である15名の常任委員は自治委員会で、正副委員長は代議員大会で選出される。
細胞→反戦学生同盟の活動家集団で決定された試験ボイコットの方針は、約2週間の間、各クラス・自治委員会と、激しい討論が決行された。自治会執行部は、スト後の処分に備え、6名に「縮小」する臨戦態勢として、この下に各クラスから「闘争委員」をおくことにした。
駒場の特徴は旧制一高時代の伝統である寮にある。全寮制は新制移行に伴いなくなったが、明寮・中寮・北寮と残された寮には、なお500名以上の寮生が生活している。各部屋は、各種サークル、部毎に分かれ、共同生活を営んでいる。旧制以来の寮完全自治の精神がまだ残っており、全寮委員会が全権をもっている。この寮が駒場学生運動の拠点となり、9月の選挙で細胞員である前田知克が全寮委員長になる。この寮が存在しなかつたら、あの10月の大闘争は不可能であったろう。この寮の故に駒場は全国学生運動のメッカと呼ばれ、また「不沈空母」とも称せられることになったといえよう。
全学連・都学連も、全国闘争のために合同の闘争委員会を作り、この駒場寮に本部をおき、連日連夜、全都からの代表者を集め、闘争態勢を整えていく。武井昭夫、安東仁兵衛、高沢寅男らの当時の全学連の猛者の面々が常駐、指揮をとっている姿に、私たちも日々接するようになる。
最初どうなるかと思っていた私たちも、日一日と盛り上り、スト決定が行われる代議員大会では圧倒的勝利の雰囲気となり、全学投票も実に大差のもと、試験ボイコット方針を信任する。しかし学校側も必死となって、矢内原学部長を先頭に直接学生に呼びかけ、「断固試験を続行する、勇気をもって試験を受けよ」と檄を飛ばし、いよいよスト当日の前夜には、両者の物々しい対立の様相が学内のアチコチに見られる。 |
お祭りのようなアイディアが
それまでの大学のストライキはせいぜい1日だけであったのだが、こんどは「試験」ボイコットという特別な形態なので、ボイコット派も反対派も学校側も、それなりに必死であった。自分たちの将来にまで影響しかねない、ということで、マナジリを決してといってもよい真剣さがあった。しかしこれだけ盛り上がって雪だるま式に参加学生が増えてくると、なにかお祭り気分のような楽しさも出てくるのか、「戦術論議」も次々と創意ある奇抜なものが続出してくる。ボイコット第1日、ともかくこの日が決戦場と、前夜から賛成派をできるだけ多数寮に泊まりこませることにした。その数は約800に上った。ともかくスト破りを防ぐことが肝腎と、前夜から、学校中の門を点検し、すべてにピケット・ラインを敷き、実力で試験場にいくことを阻止することにしたが、駒場の駅からの道に面している塀は低い生垣のようなもので、ここから入ろうとすればすぐ入れる。これにもピケットを張らねば…。門をすべて閉じてしまうと、警官隊が出動するのではないか、その口実を防ぐために、裏門からの道だけは開けて、人垣で道を作って全部食堂に誘導して、さらに「監禁」してしまえ…など戦争ゴッコのような戦術論議を夜明けまでした。
運動部の連中も、山岳部、空手部などが元気よく、スト破りは俺らにまかせておけ、と物騒な話まで出る有様。学校側の動きを知る必要があると、機械に詳しい者たちは、全く密かに地下道(寮から本館をつなぐ地下道があった)から忍びこんで電話を盗聴する仕掛けをつくって「特別情報室」を作る。また、それでも試験を受ける奴に備えてと特別遊撃隊を作り、学内各教室を回って見付けたら直ちに「行動」を起こす。
時計台を占拠して、てっぺんに反戦旗(当時はフランス国旗に近い赤白青の3色の地に、平和の鳩をデザインした反戦旗が闘いの旗であった)を翻すために特別行動隊ができる。音感合唱研究会が中心に、当時のテーマソング「国際学連の旗」「青年よ団結せよ」「ワルシャワ労働歌」などで鼓舞する「音楽隊」は大切な役割だ。少なかった女子は文二中心に、医療、救援班が組織される。…お祭り騒ぎで湧きかえっている。そして、試験第1日の9月29日。早朝7時、寮のマイクから闘争委員長・大野明男の闘争宣言が流れ、前夜から泊まりこんだ学生たちが起き出し、寮の前に整列し、歌声と共にデモを組み、学内を一巡した後、正門・裏門をはじめ、所定の位置に配置され、ピケットを張る。
私は、この朝の光景を見て「勝った」と思った。試験でもあるので、帝都線(京王井の頭線)の駅から通学生が続々と降りてくる。ボイコット派はすぐピケに加わる。三重四重のピケットにあきらめた学生たちを「裏門へ裏門へ」と誘導する。裏門からピケットにはさまれた学生たちは、食堂内に誘導されてしまう。そこでまた、次々とアジ演説が行われ、教師を含めて激烈な討論となるが試験場にはいけない。大学側もほとんどの教官が早朝から集まって、教授会を開き、学生を説得にいき、また試験を行う教室にいく。生垣など乗りこえたり、どこからか入り込んだ学生が、各教室に5〜6名でひっそりと試験を受けている。それを見つけた行動隊が入り口から入り込み、あるいは窓から飛びこみ、彼らを囲んで一斉にスクラムを組み歌をうたいだす。暴力はふるわないが、受けているものもたまつたもんじゃない。最中、泣き出しながら「私はもう試験を受けない」と叫んで答案用紙を自分で破ってしまうものも出た。
私は明寮前に設けられた闘争本部席に陣取り、各部署からの伝令の報告を受け、情勢をつかみながら待機している行動隊に指示を出す役割を担った。第1日、完全に勝利を確認して、また戦術会議の連続。試験は1週間続くのだから、同じようなことをしていたら疲れてしまう。大学側の動き、学生の力量を見ながら、またまた様々な「アイディア」が続出する。「各教室に布団を運んで、皆そこで寝てしまえ」「各教室ごとに椅子と机でバリケードを作れ」etc。 しかし第2日目はもう一度正攻法でいこうと正門前を中心に今度は完全ピケットを張ることになる。警官隊導入。しかし学生は、入らなかった。スト2日目。ピケットに参加する学生は更にふくれ上がり、100名以上になる。正門も裏門も、五重六重の人垣で完全に固められる。
学校側も大変だったらしい。矢内原学部長は信念の人、試験はなんとしても行うと宣言し、自ら正門のところにきてマイクで学生に直接よびかける。自治会も大野委員長が堂々と応酬する。試験派の学生も続々と正門ピケットの前に集まり、両者対峙しながら、学校と自治会の論戦に聞きいる。時々列を組んでピケを突破しようとするが、すぐはねかえされてしまう。両者とも暴力はふるわない。このときである。寮からの特別伝令が走ってきて、メモを大野委員長に渡す。大野が顔色を変えている。「学校側は遂に警官隊を要請しました。まもなく警官隊が到着する知らせがありました。諸君スクラムを固めよ」と興奮した調子でいいながら、矢内原学部長に食ってかかる。矢内原氏も応酬し、「私は呼んでいない、早くピケを解きなさい」と逆に激しくいう。
そのうちに、ヒューというサイレンが聞こえる。警官隊を満載した車だ。学内中が大騒ぎになる。寮内にいたスト反対派も含めて大勢が「警官隊がきたぞ」と正門にかけつける。一高以来の伝統がまだ生きている。警察は一歩も入れてはいけない。理屈もない警官アレルギー。遂に渋谷署長を先頭に、警官隊が整列し、学生たちにピケを解くように警告を発する。「友よ肩を組め、団結高く〜」と歌声が一段と高くなり、罵声が飛びあう。何度かの警告の後、警官隊がピケ解除に飛びこむ。抵抗はするが、実力行使にはかなわない。この頃はゲバ棒もないし投石もない。何度か列を組み直すが、やがて、一角のピケは破られ狭い道が開けられてしまう。
矢内原学部長は学生たちに再度、学内に入って試験を受けるよう訴える。ところがである。この有様を見ていた試験強行派の学生たちは、坐りこんで動かないのである。何度うながされても動かない。「僕たちは、警官によって開けられた門を通つてまで試験を受ける気持ちはない!」と泣くような声で門内に入ることを拒否したのである。それまで、寮内で最後までボイコットに反対だった保守派の前・寮委員長まで「私は学校側を今まで信頼していた。しかし、今この事態を見て反省する。今から自治会の方針のもとに闘う」と宣言した(後に共産党に入った田口富久治である)。
もうこうなっては雪崩のようなもので、学校側も覚悟を決めた。矢内原さんは、本日の試験中止を宣告した。闘いの意外な展開に、大喜びの自治会、警官隊の出動に怒りに燃えている学生。駒場中の学生、おそらくこれだけの学生が一場に会したのは稀有のことであろう。時計台の前の広場に全員が集まって勝利を確認、学校へ抗議するとともに、10・5レッドパージ、全学ストへの闘いを誓いあったのだった。緊急教授会も開かれ、試験の無期延期を決め、直ちに休校を宣言した。細胞も自治会も、闘争委員会のもとに会し、参加した厖大な活動家を集めて、駅頭へ、都内各大学へ宣伝隊を組織し、また全国にオルグを派遣する。
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レッドパージ勝利、そして学生処分
そして10月5日全都のスト。本郷の東大へ全都大学の学生が集結し、大会を開くことになる。大学は門を全部閉ざし開けなかったが、これを内外からぶち壊し1万名に上る学生が安田講堂前に結集する。戒厳令のような状態でのこの学生の大規模闘争は、連日社会面のみならず政治面をもにぎわし、この中で天野文相は当時言明していた政令62号によるレッドパージは行わないと言明せざるをえなかった。労働界で残されていた電産、公務員、新聞、報道機関と続いた50年のレッドパージは、この闘いによってストップをせざるをえなかった。大学教員のパージは見送られたのである。闘いは、「勝利」として高らかに謳歌された。10月17日、全学連の呼びかけで、早大構内で再度、全都集会が行われた。学校の禁止を蹴って行われたこの集会に大量に動員された警官隊が襲いかかり、200名近くの学生が検挙された。東大をはじめ各大学で異例の早さで学生の大量処分が発表された。
反共の旗を掲げていた労働界の主流「総評」はもちろん、この10月の英雄的ともいえる学生の闘いを公然と支持した組織はなかった。日本共産党は、「分派・トロツキスト」全学連のハネ上がり、利敵行為と、終始非難・攻撃の先頭に立っていた。社会党も、「学生らしい行動を!」といってストを非難していた。わずかに支持を寄せたのは、首を覚悟に発言した少数の教授、インテリゲンチャだけであったといってもよい。しかし「単独講和」による米ソ対立の激化、朝鮮戦争にかこつけた日本再軍備の進行、「反共」一色の抑圧の態勢が急ピッチで進められているのに危機感を感じながら、公然と闘おうとしない社共、労組の指導にあきたらなかった人々は、この学生に大きく影響され、これを期にさまざまな運動がひろく展開されるようになる。この社会的影響も大きかつたが、なによりもアメリカの反ソ戦略を真っ向に据え、孤立にもめげず闘ったこの10月闘争は、戦後学生運動史だけでなく、大衆運動史の中でも際立った闘いとして記録されたのであった。
しかし闘いがきらびやかであっただけに、その後の沈滞期は惨めである。お祭り騒ぎに続く「宴のあと」の淋しさと苦しさは、その渦中にいたものが最も味わわなければならない。10月13日、駒場でも13名の処分が発表された。発足以来初めての学生処分である。大野明男以下10名の退学。私以下3名は無期停学。
長い闘いの疲れと、休み、再試験の開始という条件の中で、もう力はつき果てていたといってもよいか。それでも、「反撃を」という全学連幹部の意見で、「再試験ボイコット」の方針が細胞から出されたが、この「特攻隊」的方針に学生はついていかなかった。しかも、わずか数名だった日共再建派細胞がこれ幸いと息を吹きかえし、「分派」の極左方針を批判して、自治会委員長を選挙に押し立て、反戦学同と細胞推薦の候補を破って当選してしまったのである。処分反対闘争も空しく不発に終わった。もちろん、学内の雰囲気は大きく変わった。11月、初めて行われた学園祭はその後、駒場祭と名付けられたが、この10月闘争の余燼さめやらぬ中で盛大に行われる。しかし、闘いの中心にいた人々の苦悩は大きかった。 |
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【早大の「反レッド・パージ闘争」】 |
大金久展氏の「神山分派顛末記」は、早大における「反レッド・パージ闘争」の特質を次のように述べている。
「東大と違って早稲田は宮本系一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって反レッド・パージ闘争に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから『早稲田民族主義』とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう」。
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概要「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない、と坂本尚が発言していたが、これが反レッド・パージ闘争を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか」。 |
「本間たちが去ったあとの解散反対細胞指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の『革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう』というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた」。 |
「一九五〇年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)」。 |
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【全学連内に主流派(反党中央派)と学連内反対派(党中央派)の対立発生】 |
国際派全学連の反レッド・パージ闘争に対して、日共中央指導下の学連内反対派は「反ファッショ民主民族戦線」を対置して敵対した。当時の所感派理論を代表する藤尾論文は次のように述べている。
「今や分派の反帝闘争はマルクス・レーニン主義と縁もゆかりもない一種の経済主義に堕した。そしてまた、今こそ中共の教えるように、党と大衆との結合、多数者のかくとく、民主統一戦線の強化をはかり、党を守り、自治を守るために、この分派を容赦なく粉砕することは、緊急の任務になっている。……画一的闘争による鋭利な刃物のような闘争ではなく、鉛のように統一して力量ある闘争を組むことが重要であること、真に大衆とともに、教室やサークルで、党員が日常的生活の中で直面する諸問題を基礎にして学生を組織することが偉大な力となること」(藤尾守「当面の学生運動の重点」『前衛』50年8月) |
これに対して、全学連主流派は「層としての学生運動論」を堅持し、「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」(武井昭夫『学生評論』50年10月)をもって全面的な反論を加えた。学生運動はこの戦闘的指導理念のもとで、更なる飛躍の姿勢を表明した。
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9.6日、全学連代表、CIE ルーミス課長と会見。
9.16日、早大で反戦学同(Anti-Guerre)結成される。政経自治委員会室で約60名が参集する。
9.17日、第2回新制大学協議会が開かれ、全国40数校100名の代表者によって全国ゼネストによるレッド・パージ闘争を圧倒的多数で決議した。少数の「右翼反対派」は、日常闘争、地域権力闘争論を主張し、北海道学連、関西学連を中心に全学連の改組を要求していた。
9.20日、早大.自治会、反レパ闘争に蹶起を呼びかけるアピール〃全早稲田の学生諸君に訴う〃を発す。この頃東大でも試験ボイコット闘争に入る。
9.24日、早大細胞、9・3建議に基づき細胞各派、一堂に会し、建議を全面的に承認、委員を選出。中執の石垣ら、レッド・パージ闘争の具体的戦術を提案、満場一致確認。
9.25日、法政大学が試験ボイコットに突入した。
9.26日、早大.中執委員長、吉田嘉清、レッド・パージについての意見交換を島田総長に申し入れ。
【全学連中執が「緊急事態宣言」を発しレッドパージ反対秋季闘争を開始】 |
9.26日、全学連中執は、「緊急事態宣言」を発し、「いま、躊躇し、拱手することは6.26以来本年6.3闘争に至る日本学生の愛国的伝統を自ら放棄し、自らを戦争の魔手に委ねることに他ならない、即刻決起せよ、全力をレッド・パージ計画粉砕へ!」と檄を飛ばした。 |
9.27日、天野文相が、「教職員のレッド・パージは、10月旬、政令62号によって行う」と談話発表。
【早大で全学学生蹶起大会開催】 |
9.28日、早大で、全学学生蹶起大会「レッドパージに反対し、早稲田の伝統を守る集い」開催。都下5千(早稲田3500名、東大、法政大、都立大ら1500名)の学生参加、集会の後の学内デモに警官隊800名が乱入、9名逮捕。戦後最初の警官の学園への侵入となった。警官隊と衝突。開会宣言、柳田謙十郎、宇野重吉、山本薩夫の挨拶.パージ粉砕など3項目を決議後、津金(政経自治会議長)の動議を採択、学内デモにうつる。この日、早大全学共闘は、武井昭夫全学連委員長らの指導介入を拒絶。 |
9.29日、東大.全都学生蹶起大会。参加4500名。出隆教授メッセージの朗読。
9.29日、早大.政経学部学生大会.潜入した戸塚署私服.田中警部を摘発。
9.30日、東大教養学部で矢内原学部長警官を導入、学生の団結粉砕される。
9.30日、早大.文学部自治会が闘争宣言、150人の闘争委員会を選出、バリケードを作る。
10.1日 「学生評論」第7号が武井委員長の「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」掲載。学生運動に於ける右翼偏向の克服を指針させ、先の前衛8月号の藤尾論文を批判していた。
10.1日、全学連都道府県代表者会議が開かれ、10.5ゼネスト方針を確認。
10.3日、全学連中執委が10.5、10.17、10.20ゼネスト闘争宣言を発表した。
10.4日、天野文相が談話発表。10.5日、参議院において「職をとしても、レッド・パージは一カ月内に行う」。
10.5日、都学連は、デモが禁止されたため東京大学構内で「全都レッドパージ粉砕総決起大会」を開いた。都学連11大学がストに入り約40校、約4000名が参加、
これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。この時の大会に対して装甲車を先頭とする約千五百の警官隊が学内侵入を試み、東大正門で吉田嘉清のひきいる1千の早大生と激突。吉田金治負傷、十月闘争の山場となった(真偽不明とのこと)。この日天野文相は、参議院文教委員会で全学連の解散に団体等規制令の適用を法務総裁に申請した。が、実施には至らなかった。
10.5日、早大全学集会の直後、全学連中執は都下主要大学の活動家を全国オルグとして各地方大学へ派遣。早大より大金、由井ら北陸へ、柴田詔三、早坂茂三ら関西へ。
10.6日、全学連の中央闘争委員会は、「全国遊説隊」、「民族解放目覚まし隊」の編成を決定し、順次各要員が送り出されていった。
10.8日、天野文相、島田総長会談。文相、早大自治会の全学連脱退と自治会非合法化を要望。早大自治会活動家会議.再建細胞が授業料問題を闘争目標とせよと主張、早くも対立。共産主義者団の諸君は10.17日まで、ほとんど学内に現れなかった。
10.12日、共産党臨時中央指導部が「学生運動の新しい段階」を発表した。反レッド・パージを打ち出し、「全学連を貫く反戦反ファッショ反帝の統一戦線を、広範な民主民族戦線、地域の闘いの中で結成し、実力を以て闘い抜く決意」を学生に求めていた。全学連内の「悪質分派」を糾弾し、その指導理論の克服を求めるなど全学連中央批判を展開していた。
10.17日、全学連はゼネストを決行せよ指令を出した。
【「第1次早大事件」発生】 |
10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連は波状ゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。
この経過は次の通り。学生大会開催中に、全学連中執(東大・武井、力石)らの意をうけた高沢、戸塚、木村、熊倉、不破=レポ係、早大は吉田嘉清ひとり)が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議し、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕のため大学本部の占拠を決定した。早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議ののち文学部校舎に籠城を主張(中島誠は全学連中執支持)。吉田は、第二執行部・石垣(吉田証言)を用意して本部に向かう。本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続。坂本、井川、岩丸ら囮のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労におわる。12時頃からの座り込み集会に、朝鮮学生同盟メンバーに引率された朝鮮小中学生、朝鮮語で〃にくしみのるつぼ〃を歌って激励。
200名の学生が学部長会議開催中の本部をとりまいていたところへ、早大当局の要請で出動した約900名の警官隊と衝突、双方で20数名の重軽傷者が発生した。東大活動家群は木村の合図に一斉に逃げた。143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は〃手錠をかけられて背中に番号を書かれて〃バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。
この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。 |
10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖。86名除籍処分。これを第一次早大
事件と云う。 |
10.18日、全学連緊急中闘委が10.20スト戦術転換し、全国ゼネストを中止、全都集会中止、各大学で抗議集会開催への切り替えを発表し戦術転換を全国に指示した。
10.19日、関西の大阪市大がストに入る。
10.20日、全学連中執は、緊迫した情勢の分析の結果、急遽この日のゼネストの中止を指令、こうして10月反レッド・パージ闘争は幕を閉じた。この間の闘いは、モスクワ・北京の両放送のみならず、世界の通信報道機関により日本の学生闘争として伝えられた。
10.20日、早大.数千の警官の包囲下にあって文学部闘争委員会は50名のデモを敢行。
10.21日、京都大学でスト決議。
【当局の活動家学生の大量処分攻勢始まる】 |
この間、各大学で活動家学生の大量処分攻勢が始まっていた。10.12日、中大10名、10.16日、法政大31名、10.17日、東大2名(武井委員長ら)、早大25名、10.28日、早大86名という風に根こそぎの徹底処分が見舞われた。 |
10.28日、立命館大学の二部がストライキに入る。
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安東氏の「戦後共産党私記は次のように記している。
「10月闘争の終焉とともに東大細胞は沈滞期に入る。それは沈滞期と言った静的な感じのものではなく、精魂を使い果たした疲労といっても良い。だが、11月に入ってから掘れ惚れの活動は重かった」。
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11.8日、レッド・パージに反対する全京都学生総決起大会が開催される。
11.13日、兄弟の学生20名が、井上電気の闘争に参加して警官隊と衝突する事件が発生している。
【京大前進座事件】 |
11.22日、京大演劇部、文学同好会が、前進座の河原崎国太郎を招いて前進座と語る会を開催しようとして、約40名の学生が吉田分校新徳館に集まっていたところ、この集会は大学の許可を得ていたが、川端署が勅令311号に抵触する恐れありとして田代補導部長、角南学生課長を招いて解散を言い渡した。これに反発した学生が、散会後の夕方、田代部長等と改憲中だった川端署長に解散理由を聞き質そうとした頃から騒ぎとなり、警ら方面隊約70名が大学に出動、学生側は大学自治の侵害を抗議するという前進座事件が勃発した。11.25日、全学抗議大会が開かれ、その後、水口春喜委員長を代表とする抗議団約150名が川端署に押しかけ、警ら隊100名と押し合い、学生5名が逮捕された(2名は釈放、3名は公務執行妨害で送庁)。11.26日、告示14号で、放学/水口春喜委員長、停学/松岡健一代議員会議長、中塚明副委員長その他32名の処分が発表された。この事件はその後も尾を引いた。(福家崇洋「1950年前後における京大学生運動(上)」参照) |
11月、東大.駒場時計台下.ケルン・メンバー集合.戸塚、沈滞した武井を批判、武井の謝罪.終始無言の吉田嘉清。
11月、全学連中央、右翼反対派も、所感派地下指導部の指令により、突如左旋回、一揆的闘争に走り出す。
【京都円山事件】 |
12.9日、全官公が越年総決起大会を円山公園で開催し、約800名が波状デモを行った。市公安委員会が許可しなかったため、京大生及び自由労組約400名が知恩院山門前広場で警官隊約500名と衝突し多くの逮捕者が出た。これを丸山事件と云う。京都同学会の水口委員長ら10数名が検束されたことにより、京都同学会が抗議活動を開始した。(福家崇洋「1950年前後における京大学生運動(上)」参照) |
この年、全学連は、10月の反レ・パ闘争の成果をうち固めるために第5回大会開催を予定した。しかし、日米支配階級は占領政策違反を口実にして大会開催を禁止した。全学連大会が合法的に開催されるのは、1年半後の1952.4月の単独講和発効後となる。
【早稲田大の松下清雄、津金佑金らが居酒屋「酒の店〃自由学校」をオープン】 |
12月、レッドパージ反対闘争で除籍処分された早稲田大の松下清雄、津金佑金ら数名が、闘争資金捻出目的で新宿南口和田組マーケット内に居酒屋「酒の店〃自由学校」をオープンさせている。この時の開店ビラは次の通り。
『酒の店〃自由学校〃生徒募集』 智に仂けば角がたつ、情に棹さしや流される。自由を求めて家を出た五百助は駒子の下へ! だが五百助の自由は果して僕らの求める自由だろうか?自由の早稲田の傳統を発展的に受け継いで、今回、新宿、武蔵野館裏マーケツト内に、 酒の店〃自由学校〃が被処分学生有志の手によつて創立された。若い世代の五百助、駒子よ、大いに飲み、楽しく語り、たくましく手をくんで〃自由学 校〃に通おう。 *本学は男女共学です。 二階に六疊の部屋があります。少なくともお茶の水橋下 よりも立派な部屋です。コンパ其の他に、どうか自由に利用して下さい。なお、本学は無試験入学ですが、不都合の行為ありたる場合は、学則により除籍処分に致します。
酒の店〃自由学校〃理事 レッドパージ反対斗爭被処分学生有志 |
この店へ東大哲学科の学生を称するオマタという男が現れ常連化し始め、店に出入りする活動家の動静を探るような不審な行為が見られたので,東大細胞に照会するとニセ学生だとわかったところから、不破哲三らのスパイ査問事件へと繋がる。そういう意味で歴史的運動的に見て大変意味のある居酒屋となった。 |
この後は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。



(私論.私見)