補足(コメント) | 汝自身を知れ |
(最新見直し2008.8.16日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
以下の学生運動史から浮かび上がることは、活動家自身が自己の立位置の相対化を為しえていないことではなかろうか。これについては、「汝自身を知れ」に記す。 数多くの学生運動論が出されているが、れんだいこから見れば殆ど逆転評価で構成されている。こういうものは、学んで知れば知るほど馬鹿になる。これについては、「逆転倒錯評価を許すな」に記す。 以下の学生運動史を紐解くに当たり、れんだいこは、戦後左派運動が戦後日本の現状規定をそもそも誤ったと考えている。これについては、「補足(論評)戦後日本をどう規定すべきだったか」に記す。理論の過ちにより必然的に実践の過ちを生じる。故に、掛け声だけは革命的ながら空振りに終わってしまう。これについては、「補足(論評)戦後日本左派運動の陥穽考」に記す。 2008.1.10日、2008.8.10日再編集 れんだいこ拝 |
【汝自身を知れ考その1】 | |
「汝自身を知れ」は、古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれているとか聞かされている。れんだいこは、この名言を味わえば、つくづく神言であるように思う。我々は、一人一人我々でいて自分自身である我々を知らない。足下を照らして自身が何者であるかを知る事から始めよ、と云われているような気がしてならない。恐らく、人の一生というのは、汝自身を知らぬまま、愚頓と混迷のうちにその生を終える。それで良いのかも知れないし良くないのかも知れない。見えすぎると困るというか却って自在な動きが取れにくくなることもあろうから。
れんだいこならずとも「不世出の戦後政治家」と称される第64代首相・田中角栄の学生運動活動家を見る眼差しは、かく温かかった。それに比して、日共のそれは邪鬼を見るように手厳しかった。日本の近代−現代政治史にはこういう倒錯が垣間見える。それはともかく、時の政権支配者が、こういう眼差しで学生運動を見ていたところに、当時の戦後学生運動家は感謝せねばなるまい。「親の心子知らず」では、ろくな運動が展開できまい。 以上を踏まえて以下、戦後の敗戦の荒廃と不戦の誓い、鳴り物入りで導入された戦後民主主義の理念と諸制度、国家再建の歩みの中から生み出された青年、学生運動の経過を追跡していきたい。まだまだ資料と私の能力が乏しく咀嚼しきれていない。どうぞ諸賢の力を貸していただきたい。そして、現代、次代の青年子女に読ませたい。ここから生み出される知恵は必ずや明日の社会づくりに有益に資するものがあると思うから。 補足。今我々が確認せねばならないことは次のことである。なぜこの運動が潰れたのか、潰されたのか。その原因を尋ねずんばなるまい。れんだいこが考えるのに、一貫して横たわっているのは「理論の大いなる貧困」これである。これを踏まえずに、左派戦線のかような無惨な落ち込み期に旧左翼であれ新左翼であれ、今なおしたり顔して人様に説教ぶるなどという痴態を許してはならない。その種の厚顔無恥な連中を跳ね除けて一路新理論の創造に向かわねばならない。これが肝要であるように思われる。 2008.1.5日再編集 れんだいこ拝 |
【汝自身を知れ考その2】 |
我々は、「汝自身を知れ」をどう受け止めるべきだろうか。れんだいこは、若い時の分別と還暦後の分別の二通りに分けて考えた方が良いのではなかろうかと考えている。実際には、その中間項として、若い時の分別を主として還暦後の分別を加えた分別が有り、次第に移行する。 若い時の「汝自身を知れ」は、それまで培った個人的感性、知性に基くものにしかならず、その汝自身を原資にして活動に取り組むのが流れとなる。青年はこれにより体験、経験を積み重ね、理論を吸収しながら切磋琢磨或いは享楽する。これが流れに逆らわぬ成長の仕方であり、それで良いのではなかろうか。これを仮に「青年期汝自身智」と命名する。 問題は、「青年期汝自身智」からいつ脱却するかであろう。その後の分別を仮に「還暦期汝自身智」と命名する。「青年期汝自身智」と「還暦期汝自身智」は、どのように変化転化して行くのだろうか、これを愚考したい。 ここでは、「青年期汝自身智」の考察を措き、「還暦期汝自身智」の側から考察したい。「還暦期汝自身智」は「青年期汝自身智」に比べ、次のような出藍ぶりを見せるのではなかろうか。 「還暦期汝自身智」は次第に己の出自の民族的宗教的紐帯を嗅ぎ分けるようになる。これは、「青年期汝自身智」にはなかなか備わらない智ではなかろうか。「民族的宗教的紐帯」とは、社会的アイデンティティーとも言い換えることができよう。仕事を持ち、家庭を持ち、様々に履歴しながらな体験、経験を積み重ね、理論を吸収しながら切磋琢磨或いは享楽する。れんだいこは、そのように自己変革してきた。これが一般化するのかどうかは分からないが、れんだいこ的変化は普遍性を持つと考えている。 「還暦期汝自身智」は更に、「民族的宗教的紐帯」に気がつくと同時に、これの受容の仕方を廻って千種万別の態様を見せる。中には、れんだいこのように「いわば正しい民族的宗教的紐帯への覚醒」をも呼び込むのではなかろうか。れんだいこは、そのように自己変革してきた。これが一般化するのかどうかは分からないが、れんだいこ的変化は普遍性を持つと考えている。 「青年期汝自身智」と「還暦期汝自身智」の違いは、青年期のそれが学びから急に否定へと進み、流行理論を追っかけるのに比して、還暦期のそれは、「民族的宗教的紐帯」を認め、但し、青年期に培った批判精神を媒介させる事により「新たな質としての民族的宗教的紐帯」を探ろうとするところに認められる。それは、当局お仕着せの御用公認的な「民族的宗教的紐帯」ではなく、古より流れるDNA的「民族的宗教的紐帯」をも踏まえつつ、時代変化に合わせると云う課題を認識するようになる。 この過程を「成人」と云う。成人とは、身体の成人的変化のみならず精神の成人的変化をも云う。後者の変化を辿らない成人は、未成人と云われて然るべきだろう。その基準をどこに置くべきかが問われるが、絶対的基準というものはなく、相対的に判断されるべきであろう。 今、この未成人が多過ぎる世の中になりつつあるのではなかろうか。この未成人が社会的権力を持たない限りは大過ない。問題は、このような手合いが社会の要職、中枢にのさばり、良からぬ事をし始めたら掣肘せねばなるまい。そうしなければろくな世の中にならない。現下の政治貧困は、この辺りに起因しているのではなかろうか。 「還暦期汝自身智」は、己の社会的責任を嗅ぎ分け、身の回りを処理し、仕事をこなし、地域や職場や団体での唱和協調と指導能力を磨き、良き後継者を育成せんとし始める特徴を持つ。田中角栄が「次第に重心が低くなる」とは、このことを述べているように思われる。もっとも、その手法もこれまた人により千差万別で、事大主義から改良主義、変革主義までいろんな型がある。人様に極力迷惑をかけない限りに於いては、そのいろんな型が認められるのが健全であろう。 本来はこのように発育して行くのが自然なところ、現代人は妙なほどに「汝自身を知ろうとしない」。社会が健全に発達していたと考えられる時点に於いては、いつでも上下問わず人は皆、この弁えが有る。逆の場合には、弁えを欠く。れんだいこは、これは偶然ではなく、政策的にもたらされていると考えている。 とりあえず、気づいた以上のことを書き付けておく。 2008.8.16日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)