補足(論評) 戦後日本をどう規定すべきだったか

 (最新見直し2008.7.7日)

 今日から評するのに、「戦後日本をどう規定すべきだったか」と云う問題がある。れんだいこは、戦後日本左派運動は早くもここで重大なミステークをしたと考えている。そして、この遺風が未だに続いているとみなしている。どういうことか、以下解析する。

 1945(昭和20).8.15日、大日本帝国は、連合国軍の「ポツダム宣言」を受け入れ降伏した。これにより日本帝国主義が解体され、連合国軍(「GHQ」)の統制下に入った。米太平洋方面陸軍総司令官ダグラス.マッカーサーが「連合国軍最高司令官」に任命されたことから明らかなように、戦後日本は米国の指揮権下に組み入れられつつ社会改造されていくことになった。 

 超規的権力として君臨したGHQは、当初ニューディーラー派に担われ、「ポツダム勅令」に基いて「日本国の再戦争遂行能力の徹底除去」、「日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化」、「日本国民の自由に表明せる意志に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府の樹立」を目的として「上からの革命」に着手する。

 こうして、「上からの革命」が戦勝国の権利として押し付けられることになったが、このことの真の問題性は、この「上からの革命」が、近代−現代世界を牛耳る国際金融資本に操作された「ネオ・シオニズム・シナリオ革命」であったことに問題がある。このように見たられることが少ない。

 それはともかく、GHQは、1・帝国軍隊の解体。2・帝国主義関連団体の解散。3・皇国史観イデオロギーの一掃。4・戦前的反体制運動の犠牲者として獄中に捕らわれていた主義者の解放。5・労働組合運動の公認化。6・財閥解体。7・農地改革。8・天皇の人間宣言等々に象徴される日本改造諸政策。それらの総纏めとしての9・憲法改正指令を矢継ぎ早に導入した。

 1946(昭和21).11.3日、新憲法が「日本国憲法」として公布され、1947(昭和22).5.3日より施行された。この経緯については、「戦後憲法考」(daitoasenso/sengodemocracy_kenpo.htm)に記す。

 特筆すべきは、この憲法をどう看做すかにある。戦後憲法は、「上からの革命の果実」としてもたらされたものであることは間違いないが、問題は、この果実の中身である。れんだいこが見立てるところ、「日本国憲法」は、米ソ対立を踏まえて戦後日本を米国側に取り込むためにと思われるが摩訶不思議なほどに、米国憲法及びソ連邦憲法及び第1次世界大戦後の敗戦国ドイツに導入されたワイマール憲法よりもなお民主主義的な理念と制度を導入していた。

 これをどう評するかの眼力が問われていたが、当時の社会科学、歴史科学の水準は、資本主義対社会主義の対立と云ういわばステロタイプ的な公式主義的マルクス主義理論の見地から評するばかりで、これを当時の歴史情況に於いて相対的に論ずると云う真っ当な評価を為すことができなかった。

 今日判明する事は、「日本国憲法」に結実した理念及び制度は、資本主義対社会主義の枠に納まらないそれ自身価値を放つ極めて先進的な良質憲法ではなかったか。その由来は、この時期のGHQの政策推進主体であったニューディーラー派の見識に負う。れんだいこが見立てるところ、当時のニューディーラー派の見識は、これまたこの時代限りに許容されていた「ネオ・シオニズム左派」ではなかったか。

 そういう事情により、れんだいこは、この時期の戦後日本憲法秩序ないし社会を、世にも珍しいルネサンスが花開いた時代と認識している。これを日本人民大衆から見れば、戦前的統制が外され、今日のネオコン式ネオ・シオニズム的悪政に侵される前のルネサンス的息吹を詠う、いわば健全な時代のアメリカン民主主義が生硬に移植され、スターリニズムに歪曲されたソ連邦的社会主義実験史に比較してもなお人民民主主義的な蓮華社会が創出されていたと見直している。れんだいこは、「プレ社会主義」とみなしている。

 人民大衆は故に、これを歓迎し、戦後復興に勤しむこととなった。しかるに、左右両翼の主義者運動の大部分がそれぞれ公式主義的な理論を弄び、世にも珍しい戦後憲法秩序として尊ばねばならないのに、これの批判に向かうと云う逆対応インテリジェンスを発揮する事になった。こうして、「戦後日本プレ社会主義」を護持せんとする人民大衆と、その否定に向かう主義者運動と云うボタンの掛け違いのまま政治、思想、宗教運動が進んでいく事になった。

 但し、かく美化するだけでは足りない。もう一つ念押しで補足しておく。戦後日本には、敗戦国の悲哀として、戦前的支配秩序に代わってネオ・シオニズムが公然と侵入し、戦後的支配秩序を彼らが企図するままに敷設していく事となった、ことに注意を喚起しておく。他方、戦後的下克上による土着的な新支配秩序も生まれ始めた。結局のところ、この両者が併行してそれぞれの戦後を創っていくことになる。こう見立てなければ、戦後の政治構図が動態的に捉えられない。

 両者がそれぞれ定向進化し、やがてぶつかり、ネオ・シオニズム派が完全制覇する結節点が1976年のロッキード事件であり、それまでの今しばらくは両面からの考察が必要と思われる。戦後学生運動の巻頭論評に当たって、これらのことを指摘しておきたい。




(私論.私見)