別章【世界の哲学考】

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).9.23日
目次
  

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古代ギリシャ哲学史1
古代ギリシャ哲学史2
古代ローマ哲学
キリスト教哲学
Re別章【イタリア・ルネッサンス
近代西欧哲学
中国の諸子百家史
インド哲学系
科学論





(私論.私見)


http://www.tohgoku.or.jp/~michio/kamoku/tetsugaku.htm<哲学 倫理学 論理学>


 20世紀は「物理学の世紀」とも呼ばれる。「物質を細かく分析すれば、心理に辿り着く」という古代ギリシャに発した自然観で物質の根源に迫った。その成果は、化学や生物学にも波及し、爆発的な生命科学進展の基礎ともなった。

素粒子研究。原子核物理、素粒子物理、


ハイデガー「存在と時間」(1927年)

19世紀末葉にニーチェが西洋文明批判に果敢に向かい、ハイデガーもその意思を受け継いだ。彼の考えでは、西洋と呼ばれる文化圏は、プラトン/アリストテレスの頃から、自然の外に超自然的(形而上学的)な原理−その呼び名はイデア=A純粋形相=A神=A理性=A精神≠ニ様々に変わりはしたが−を設定し、其処にたって自然を見るという特異な考え方、つまり(形而上学的思考様式)を育成してきた。しかし、そうなると、自然は、そうした超自然的原理によって形成される無機質な材料になってしまう。さまり【物質的な自然観】が成立する。こうした思考様式と自然観の上に立つて西洋文化は形成されてきたのであり、現代の技術文明もその必然的な帰結となる。

今や、この西洋文化形成のベクトルを転換せねばならない時期に至っている。この文化形成の原理として働いてきた【形状学的な思考様式】の本質を徹底的に暴露し、もう一度自然を生きておのずから生成するものとして見る自然観を復権しなければならない。ハイデガーの「存在と時間」の背後にはこうした動機があった。

ハイデガーは1933年にナチス政権が成立するとこれに荷担し、いわば汚名を残すことになった。にも係らず、彼が指針した方向の影響力は今なお価値がある。
(木田元)。


 近世哲学の根底にある進歩主義的時間軸に対する実存的な時間軸を展開。




 デカルト(一五九六〜一六五〇)

 フランスの数学者・哲学者で近代哲学の父といわれる。中世にいたってヨーロッパはキリスト教と絶対王制が結びつき、哲学もまたスコラ哲学といわれるように教会主義の神学が支配していた。商品経済の発展と貨幣支配による実権をにぎった近代ブルジョアジーは、政治的には個人の自由と人間の解放を、学術上では個人の学説展開を求めた。それは歴史的には、十四世紀から十六世紀にかけたルネサンス(文芸復興)の大運動がヨーロッパの夜明けとなった時代と結びついた。この時代背景がデカルトの哲学を生みだした。故にデカルトの哲学は、徹底した自由主義、個人主義、そして人間理性第一主義であった。そしてその説く内容はソクラテスであり、道徳こそ人間知性の究極であり、精神と物質の相互関係においては精神こそが第一義的であり、その体系化されたものこそ人間理性であり、この人間道徳によって情念といわれる人間の世界と生活を支配したとき、はじめて理想の世界が出現する、と説く。

 

 〔フランスを中心にしたヨーロッパ啓蒙運動の発展と初期社会主義運動の発生〕

 一七七〇年から一八七〇年にかけてヨーロッパは産業革命の時代に突入する。蒸気機関の発明によって人間の動力から機械による生産活動へ、生産力は飛躍的に発展する。それは近代プロレタリアートを出現させ、中小零細業と家内工業は没落させられていく。貧困化は深まる。あらゆるところに社会的矛盾が激化する。このような時代背景のもと啓蒙(けいもう)運動が登場する。一大思想文化運動であり、それは民衆への教育・啓発運動であり、現体制への批判と否定の運動であり、徹底的な現状破壊と新たな創造の運動であった。当然それは宗教批判、形而上学批判、既存する固定的なものへの容赦なき批判に到達する。そして人間の幸福は来世に求めるものではなく、現世における幸福を闘いとることこそ、現実的な道だとする唯物論的思考方法が公然と登場してきた。

 このような運動の先頭に立った人物たちはルソーであり、そのほかにはモンテスキュー、ボルテール、ディドロ、ダランベールなどがおり、さらにはメリエ、モレリ、マブリ、のような共産主義者もいた。彼らは一七五一年に啓蒙思想を集約したものとして『百科全書』を出版した。彼らはここで何を訴えたのか。彼ら啓蒙思想家たちはまさに封建勢力と闘う近代プロレタリアートと進歩的なブルジョアジーの利益の代表者であり、表現者であった。同時に、悩める人びとの助言者であり、協力者であり、革命的な勢力の先導者であった。そして事実、この思想を導きにして一七八九年のフランス大革命はおこったのであり、この思想を導きにして偉大な『人権宣言』が発せられたのである。まさにヨーロッパ啓蒙思想はフランス大革命の先導者であった。啓蒙思想はフランス大革命に開花した。一七八九年七月十四日、パリ市民のバスチーユ牢獄破壊にはじまり、人権宣言の発表、封建的特権の廃止をへて、ついに君主制の撤廃、国王の処刑にいたり、農民と都市市民階級の独裁を実現、貴族・高僧の反抗、および外国反動政府の干渉にうちかった輝かしい大革命であった。フランス大革命は後に裏切られたが、啓蒙思想はさらに前進した。すなわちこの啓蒙思想をもとにして、フランス社会主義は発展したのであり、マルクス主義的社会主義もまたここから出発して前進したのであった。まさに『近代社会主義は……その理論的形態からすれば、最初はまず、十八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちによって立てられた諸原則をさらにおし進めたものとして、そのより徹底的な発展として現れる』(エンゲルス『反デューリング論』)のであった。

 ジャン・ジャック・ルソー(一七一二〜一七七八)

 スイスに生まれ、フランスで活躍した。フランス啓蒙運動の核心的人物。「百科全書」やその著書「社会契約論」「人間不平等起源論」「告白録」など多くの出版物を通じて、あるいはあらゆる言論活動を通じて、人間の自由と平等、そのための私有財産制の廃止を訴え、財産とは泥棒だと主張した。そして個人は社会と一定の契約を結ぶ階級のない平等の国家と社会を求めた。小説「エミール」は自分をモデルにしたもので、一人の少年の生涯を通じて新しい教育論を展開し、人間にはみなそれぞれの個性があり、特性があり、これをのばして社会の中で役立てるような教育こそが本来の教育であると説いた。これは自由教育論として多くの方面で注目された。

 サン・シモン(一七六〇〜一八二五)

 フランスの社会主義思想家。フランス貴族の名門に生まれ、少年時代に啓蒙思想にふれ感激した。自由主義者となり、アメリカ独立革命に際しては「自由のための闘い」に感激し、友人たちとともにアメリカに渡り、戦列にくわわった。一七八九年のフランス大革命のとき貴族だった彼の財産はすべて没収されてしまったが、彼はこの革命をよろこび「いっさいの貴族、僧、身分的特権を排し、各人はその能力に応じて職につくべきこと」をとなえた。そして彼は社会主義としてつぎのような理想をかかげた。すなわち、人間の社会活動の目的は人びとの生活に有用なものをつくりだして供給し、共に分かち合うことである。しかるに現存社会では生産者と非生産者の二つの階級が存在している。それはあたかもミツバチとキバチに似ている。前者は自分の労働と財産によって生活する工場主・商労働者・商人・農民・科学者・芸術家、などであり。後者は他人の労働と財産によって生活する貴族・僧・特権的官吏や司法官・および無為徒食する地主や金利生活者である。しかも現存社会はこのような非生産者が特権をにぎっている。このような社会を改造して、生産者すなわち「産業階級」自らが支配する「産業社会」をうちたてなければならない。そして社会は一大工場のごとく組織され、各人はその能力に応じて仕事をあたえられ、各人はその能力に応じた労働の報酬をうけとる。政権は特権階級の手から産業者の手に渡される。これがサン・シモンの社会主義であった。

 ロバート・オーエン(一七七一〜一八五八)

 イギリスの空想的社会主義者。スコットランドにある自分の紡績工場の経営で、実験的に社会主義と共産主義を実現しようとした。工場労働者、その家族、まわりの住民の生活を豊かにし、公平な分配をし、無知、野蛮、道徳的堕落を一掃することに努め、人間改造を通じて社会改革をはかった。人間らしい生活環境をつくり、労働時間を短縮し、子供の教育を高め、人びとの思想改造が進めば必ず社会主義は実現する、と考えた。だがこれは成功せず、アメリカに渡って同じことをやろうとしたがそれも失敗した。しかし彼は最後まで労働組合法、協同組合法の立法化などに努め、生涯を社会主義のためにささげた。

 シャルル・フーリエ(一七七二〜一八三七)

 フーリエはフランスの空想的社会主義者。彼はフランス啓蒙主義を乗りこえ、克服し、社会主義と共産主義を唱えた。彼によれば、啓蒙主義の誤りは理性の勝利を啓蒙活動だけにたよったところにある。それは漫画にすぎない。社会の政治的諸制度の基礎はその経済的構造にある。フランス革命は階級闘争であった。階級闘争によって経済制度を社会化し、こうして人びとの考えを改造し、特権階級が支配する国家を廃止し、共同管理と生産指導のための平等の機関をつくるべきである、と考えた。彼の思想はマルクスに受け継がれて、国家の消滅と共産主義的実務機関の創設となっていった。だがマルクスが克服したフーリエの弱点は、プロレタリア独裁という、権力ぬきにそれらのことが実現できるかのように考えたところにあった。エンゲルスは『空想から科学への社会主義の発展』のなかで「たとえ空想であったにせよ、それは当時の未熟な資本主義とプロレタリアートの未発達が生み出した弱点であってやむをえなかった。彼らのあらさがしは文筆小売り商≠ノまかせておけばよい。われわれはその天才的な思想の萌芽(ほうが)をたかくたたえる」と書いている。同時にまたエンゲルスは『反デューリング論』のなかでつぎのように書いている。『初期に発生した共産主義思想−とくに空想的社会主義者たちすべてに共通していることは、彼らがこの期間、歴史的に生み出されたプロレタリアートの利害の代表者として現れなかったことである。啓蒙家たちと同じように、彼らは特定の一階級ではなく、全人類を解放しようとする。啓蒙家たちと同じように、彼らは理性と永遠の正義との国を実現しようとした。しかし彼らの国は自分たちの考えているものとは天地のへだたりがあった。すべては階級闘争とプロレタリア独裁が決定するのだ』と。

 

 〔ドイツ哲学からマルクス・エンゲルスの近代唯物論、弁証法的歴史観の完成へ〕

 フランスに社会主義と共産主義が芽生えているとき、ドイツでは古典哲学のなかから唯物論と弁証法が芽生えていた。ドイツ哲学、それはヨーロッパ哲学の結果であった。そしてその旗手はカント、ヘーゲル、フォイエルバッハであった。

 イマヌエル・カント(一七二四〜一八〇四)

 カント哲学は観念論哲学の貯水池といわれる。カント以前の哲学がカントに流れこみ、カント以後の哲学はカントを源流にしている、からである。そのカント哲学の基本理念はつぎのようにいう。人間の理性、人間の感覚、思索、思考力、これが一切の基礎であり、これがすべてを決定していく。外的素材や実践や経験は単に補助的なものでしかない。世界をつくるのは人間の思考力であり、その最大の体現者は神である。神は万能であり、宗教は最大の道徳である。

 カントの哲学的観念は幼時にして形成されたものである。彼の父は実直な皮具匠で、母は深く敬虔(けいけん)派に帰依し、しばしばカントを町の外につれていって神への祈りと、恍惚(こうこつ)の世界に引き入れ、神の全能と知恵とについて語り聞かせ、万物の創造主に対する深い崇敬の念を心につちかわせたという。

 ゲオルグ・ウイルヘルム・ヘーゲル(一七七〇〜一八三一)

 カント哲学をひき継ぎ、発展させた。ヘーゲルはベルリン大学の教授、のちに総長となった。彼の主張はつぎのとおりである。外界、自然界は不変、不動、そして単純なくりかえしである。だが人間の精神、思考、感覚はつねに変化している。その変化は弁証法的方法によって発展し、成長する。正・反・合という三段階法則である。すなわち思考と観念の世界における対立物の闘争、論争、議論、これが三つの段階を通じて成長・転化するのである。その思考と観念の成長と発展の最高のものこそ国家であり、法律であり、人間の心の表現者が宗教であり、最高の英知は神である。そして、人間の思考、感覚、精神の変化が社会の発展と変化を促すのだ。ゆえにすべて精神が起源である。

 ルードウィヒ・フォイエルバッハ(一八〇四〜一八七二

 彼ははじめ神学を学んだがのちにベルリン大学に移り、ヘーゲルに学んだ。やがてヘーゲル学派のなかで重きをなし、宗教を批判したため迫害されつづけた。一八四一年『キリスト教の本質』を著して宗教界と徹底的に対立した。マルクスもエンゲルスもこの本によってキリスト教批判の目を開かれた。彼は唯物論をとなえ、神というものは人間がつくりだしたものであると主張する。世界とは人間自身の世界のことである。この人間は生産し、生活し、集団で社会をつくっている。このような人間が土台であり、基礎となっていて、ここから宗教が生まれてきたのだ。宗教の最高形態が神である。だから神とは人間のつくりだした精神上の理念である。したがって、神とはまた人間の思考、感覚、理念の最高の表現であるがゆえに、尊いものであり、けだかいものなのである。このように主張するフォイエルバッハは最後には、結局は唯物論をとなえながらもやはり神の前に頭を下げ、観念論にもどってしまう。

 フランスに空想的社会主義があり、ドイツにヘーゲルの弁証法とフォイヘルバッハの唯物論があったころ、マルクスが歴史の舞台に登場する。そのころヨーロッパはブルジョア民主主義革命の風が吹きまくっていた。偉大な頭脳をもったマルクスという人間によって、やがてドイツの古典哲学は徹底的に止揚され、弁証法的唯物論としてマルクス主義哲学が完成する。そしてフランスの空想的社会主義もマルクスによって徹底的に止揚され、科学的社会主義として完成されていくのである。人類は歴史上その最高の英知としてここにマルクス主義を手にするにいたった。(おわり)


〔世界の四大聖人〕

 釈迦(しゃか)

 紀元前七〜六世紀、ヒマラヤ山麓のネパールに釈迦族の王子として生まれた。二十九歳にして人間とは何か、人間にまつわる苦悩について探究をはじめ、修業生活に入った。その苦行は激烈を極め、生死の境をさまよったうえ、ついに菩提樹(ぼだいじゅ)のもとで悟りを開いた。そのときから「悟った人」(すなわちブツダ−仏陀)となった。日本でいう「ほとけ」とはこのことである。この悟りとは、慈悲≠ナあり、無我≠ナある。我利・我欲を捨てよ、我執と自己中心を捨てよ、寛容と心の平静こそ悟りである、と説く。八十歳にしてサーラ樹(沙羅双樹−さらそうじゅ)の下で入滅(死)した。その遺骨(仏舎利)は弟子たちによってまつられ、そこに塔が建てられた。仏教の教典はみな弟子たちが作ったものであり、釈迦が直接執筆したものはない。そして弟子たちによって仏教の開祖として位置づけられていった。

 孔子(紀元前五五二〜同四七九)

 中国の春秋時代(紀元前七二二〜同四八一)に活躍した学者、思想家であり、儒教の祖。その思想と言行を弟子たちがまとめたものが『論語』であり、儒教の教典となった。その中心的思想は「仁」であり、その道徳は「信」であり、国家と政治の理念は「近親の愛と孝、君臣の忠と義、長幼の礼と誠、近隣の徳と智」である。そしてこの儒教は長く中国、朝鮮、日本の政治と社会を支配し、権力の支配思想として活用された。

 ソクラテス(前四七〇〜同三九九)

 

 キリスト(紀元前七〜後三〇年)

 イエス・キリストとしてイスラエルのナザレに住むユダヤ教徒の大工ヨセフの子として生まれた。当時のイスラエルは他国と他民族に支配され、国は滅び、民族は迫害され、人びとは貧困に苦しみ、ユダヤ教に失望するという時代であった。キリストはそのなかで新たな生活と生きる道をさがし求めつつ、ユダヤ教から脱却して、神のもとでの真の自由と平等と博愛を説き、人びとに自らの罪を認めさせ、こうすることによって人間社会の愛と平和を求めた。同時に生涯を社会的弱者の救済にささげた。それはまたローマ帝国にとっては異端者であり、やがてエルサレムで十字架の刑に処せられた。彼の死後弟子たちはキリストこそ神の子だとしてその教えを守り、広めることにつくした。こうしてキリスト教が世界に広まった。


「絶対矛盾の自己同一」(I identify A with B by C)