古代ギリシャ哲学史1

(参考文献)
「古代ギリシャの知恵と言葉」(荻野弘之・NHK出版・1997.4.1)

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古代ギリシャ哲学について

 宇宙と自然と人間、社会との相関関係を根源的に問うことができた稀有な事例としてギリシャ哲学史が位置している。凡そ紀元前6−4世紀に盛時となったが、この間多くの思索家がこの討論に参加し、時に孤高の思想家が生まれ、時に火花を散らすかの如くな相対立する思想の衝突と弁論を交叉させた。この間の哲学者達が残した思索の息吹とものの考え方の原型に触れておくことは有益である。ギリシャ哲学史は、こうした諸哲学者の「示唆に富むエキスの宝庫」として位置している。「現代思想」と比べて素朴の趣があるが、逆にいえば気宇壮大に生硬に持論を展開させていたと言う良の面もある。

 イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは「Wisdom of TheWest(西方の知恵)」の中で、次のように述べている。「哲学(フィロソフィー)は、科学(サイエンス)と同じく、誰かがごく一般的な疑問を抱いたときに始まる。この種の好奇心を、最初に民族的な規模で持ったのがギリシャ人であった。現代の我々が知っている哲学と科学は、古代ギリシャ人の創造である。ギリシャ文明とは、この知的な運動の爆発であり、これほども華々しいイベントは歴史上他には存在しない。それ以前にもそれ以降にも、このギリシャ人と比肩しうる知の爆発は起らなかった。2世紀という短い間に、ギリシャ人は芸術、文学、科学、哲学の各分野にわたって、凄まじい量の傑作を創り出したのである。そしてこれらが、その後の西方文明の基礎と体系を形作ることになった」。

 ところで、ギリシャ哲学史に登場する面々を個別にみていくことは気の遠くなる作業となる。そこで、私なりの観点から整序していこうと思う。
この観点のあざやかな樹立者はカール・マルクスとエンゲルスであった。この両名は、「唯物弁証法」という認識論あるいは世界観を獲得し、この観点からそれまでの思想の歩みを唯物論と観念論、機械論と弁証法との対立として整序することに成功した。私は、これに依拠しながらなお且つ私なりの観点をも織り交ぜつつアプローチしていきたいと思う。


 史上、ギリシャ哲学史と云われる契機は紀元前6世紀頃から始まる。その下敷きとしてあったものは、それまでの文明圏エジプト、中近東メソポタミア(バビロニア)、あるいはインド、中国の諸文明であった。その直接的な影響下にあったのはギリシャ神話であったように思われる。この頃までの「知」の特徴は、呪術、神話、宗教、占星術、天文学、自然科学、哲学、思想を渾然一体とさせていたことにある。してみれば、ギリシャ哲学史の功績は、このカオスから哲学・思想を宗教との紐帯から解き放し学的に独立させたことにあるかと思われる。もっとも一挙的にこのことが為された訳ではない。相互に切磋琢磨で揺すりあいながら次第に発酵させ抽出したというのが史実であるように思われる。

 してみれば、ギリシャ哲学史を考察するに当たって先行する「知」の情況を解析しておく必要があるが、確たることは分からない。とはいえ、少なくともギリシャ神話を概括しておく必要があるであろう。ギリシャ神話とは、ギリシャ北方の山オリンポスの麓に集った十二神(オリンポス十二神)の逸話集のことであるが、次のような特徴があった。オリンポス十二神は、それぞれ固有の役割、機能を持ちつつ縁戚関係で結ばれており、なお且つ固有の容貌、年齢、性別を持ち、植物や動物に例えられていた。つまり、人格化された神々であった。これを擬人神観(アントロポモルフィルム)と云う。いわばこの時代は、神話の中に真理が見出されていた時代であった。

 彼らを祀った神社がギリシャのあちこちに見られるが、神々の世界と人間の住む世界は一応は隔絶されていたものの、神々は全く人間界から隔絶した超越神ではなく、人間の世界と密接な交渉を持っている神々であり、その神々は超能力を持っており、人間の運命を背後で操る存在であった。であるが故に、人間の側からは畏敬と祈願の対象となり、儀式と賛歌で遇すべき神々であった。もっとも、こうした神話の形成過程には歴史があり、相当長期において次第次第に確立されてきたものと思われる。これに大きく貢献したのがホメロスの「イリアス」、「オデュッセイヤ」、ヘシオドスの「神統記」などの神話物語であった。

 デルフォイのアポロン神殿に掲げてあった碑文は「汝自身を知れ(グノーティー・セアウトン)」。デルフォイというのはアテナイから70キロぐらい離れた山の中にある古くよりの神社であったが、ソクラテスにより広くしられることになる。

 こうした史的流れの中からギリシャ哲学史が生み出されてくることになる。哲学とは、「フィロソフィー(Philosophy)」の和訳である。「Philosophy」は、ラテン語の「Philosophia」の転化であり、「Philosophia」はギリシャ語の「フィロソフィア」という言葉ににたどり着く。ギリシャ語の「フィロソフィア」は、「フィル」と「ソフィア」の連結語であり、「フィル」は「何かを愛好する」という意味であり、「ソフィア」は「思索する」を意味している。してみれば、その合成語としての「フィロソフィア」は、「思索を愛好する」ということになる。通説は、ソフィアを知恵、賢さとしてフィロソフィアを知恵を愛好すると理解しているが、やや平板的過ぎる。思索するという精神が介在させられなければ正確とは言い難い。


 

 ギリシャ哲学史の功績は、これを「論証」精神によって推し進めたことにあった。この論証精神から近代の科学的精神も汲みだされている事を思えば、はかり知れない影響力をもったことになる。

 こうしたギリシャ哲学史が生み出されることになった物質的な基礎は、当時のギリシャの富にあった。この時代のギリシャは、地形と海洋交通と気候に恵まれ、自由都市と国家を発生、発展させていた。この経済的基盤が文化と学術を向上させていくことにつながった。

 ギリシャ哲学の出発は、まず総体としてのこの世(世界)の究極規定要因つまり万物の原理とは何ものであるのかという探求から始まっていった。やがてその関心は人間学の考察へと向かうことになる。この間今日にも通用する精緻な弁証形式を生み出していくことになった。マルクスは、この流れを通覧して、唯物論的知者と観念論的知者の二系統からアプローチされていたと整序し、この二大潮流が相和し対立し学的発展を牽引したと喝破した。古代ギリシャ哲学の担い手はつぎの人物たちであった。


タレス(BC624―546頃)について

 
ギリシャ哲学史の開祖は、紀元前6世紀の思索家タレスから始まるとされている。その栄誉に冠してタレスはミレトス学派の始祖のみならず「哲学の祖(創始者)」と云われている。なぜタレスが創始者であるかというのは定かではない。紀元前3世紀の哲学者アリストテレスの「形而上学・第一巻第三章」文中にてそのように位置付けられているということ、同じく紀元前3世紀の哲学者ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」もタレスから解き明かしている。タレスはそういう栄誉に輝いていることから今日まで通説として受け入れられてきている。

 タレスは、エーゲ海を挟んだギリシャ本土の対岸、現在はトルコ領のミレトスという町の人であった。ミレトスは、当時は小アジア半島の南西部で商業都市として栄え、東方の先進的文化と接触し、伝統的な宗教的規制からも離れて精神的自由に溢れた活気的な地域であった。歴史家ヘロドトスが、タレスが日蝕を予言したことを伝えている(「歴史」第一巻74節)。タレスは、幾何学をエジプトから初めてギリシャに輸入し、天文学、自然研究一般について様々な発明、発見、知見をしたと伝えられている。その他逸話の多い人でもある。プラトンの「テアイテトス・174A」に、概要「天文学者タレスが夜空を見ながら歩いていてドブにはまってしまったのを、傍にいたトラキア人の老婆が、タレス先生はあんなに遠い星の世界のことが分かるのに、すぐ近くにある遠い星のことが分からないと云って笑った」という話を伝えている。

 このタレスをしてギリシャ哲学史の開祖とさせるに足りる哲学的命題として、「大地は水の上に浮かんでいる」ことからして、「万物の原理(はじまり)は、水である」がある。この命題の最大の功績は、フィロソフィア(愛知)精神によって世界を「観照」したことにあった。「観照」とは、没論証的な神話的観点あるいは功利的観点からひとまず離れて、ただ単に物事自体を純粋にそれ自身として何であるかを見て取っていくロゴス(理性)精神を云う。ギリシャ語では「テオーリア」と云ったが、この「テオーリア」がセオリー(理論)へと発展していくことになる。タレスはこの「観照」精神から具体的に様々な功績を歴史に飾ることになる。

 一つは、「世界の究極規定要因」を極力「思弁的」に尋ねようとした姿勢にあった。思弁的とは、この場合非先験的非宗教的にという意味に解するのが至当である。実証的な科学的精神と云い替えてもよい。一つは、生成変化する自然現象の大本に位置するものの「原理的実体」(アルケー)を解明しようとした姿勢にあった。「世界の究極規定要因」と「原理的実体」とは相からんでいるのだが、概念上区別され得るので敢えて別立てにした。この二つの功績は、「変転して止まぬあるいは千差万別の諸事象世界が、実は究極的にはある一から成り立っている、その一から始まり一へ回帰する循環相となっている」ものとして世界を観たという功績に言い換えることができる。

 タレスはこの観点から、「それは水である」と認識した。この「万物の原理(はじまり)は、水である」というタレス論が、その後の哲学史上の論争の発火点となった。そういう意味において、論争の火付け役としてのタレスの功績をも見て取ることができる。なお、タレスの哲学史上の位置付けとして、万物の「実体」をして「水」という物質的な質量に規定したことも見過ごせない。しかも、究極的に「水」という単一のものを規定したことにあったことも見過ごせない。アリストテレスは、賢くも「世界の根本原理は水であるというタレス規定」に対して、「最初の哲学者達は質量(素材)という仕方でだけ、万物の原理を考えた」と、総括している。


 アリストテレスのこの質量規定論は、補足せねばならない。「世界の根本原理は水であるというタレス規定」は、単に物質としての「水」を世界の究極規定・原理に措定したのではない。タレスは「万有は神々に充ちている」(「霊魂論」第一巻5章)と述べているように、自然を「生命を持ったもの」として認識していた。これを哲学上は「物活論(ヒュロゾイズム)」と云うが、この認識が備わった上での質量規定論であったことを見なければ史実に合わない。ちなみに、「物活論(ヒュロゾイズム)」の発展系に「汎神論(パンテイズム)」がある。「汎神論(パンテイズム)」とは、自然全体に神々しい神的な原理が充満しているとする観方を云う。


 
 表記の言葉の次に二つの言葉が続く。
「一番やさしいことは、他人に忠告すること」
「一番楽しいことは、目的を遂げること」


ミレトス学派について

 以上のタレスの功績を思えば、タレスを祖とするミレトス学派の功績はやはり師のそれには及ばない。タレスの弟子であったアナクシマンドロス(紀元前610年頃−540年頃)は、タレスの「水」規定に対して、「無限なるもの(ト・アペイロン)」を主張していた。アナクシマンドロスによれば、世界の究極規定且つ原理的要因を特定の物質に求める必要は無い。むしろ、一切の限定を持たないものではないのかとして、、「無限なるもの(ト・アペイロン)」を措定したことになる。アナクシマンドロスの言葉として、「存在者にとってその生成が、そこから来たるところへとまた消滅していく。必然に従って。なぜなら、時の定めに従って、お互いに不正の償いをするのだから」(断片)が遺されている。

 このアナクシマンドロスの弟子であったアナクシメネス(紀元前586年頃−?年頃)は更に、それは「空気」であるとした。あらゆる物質の中で、「空気」こそが最も限定されておらず、濃くなったり薄くなったりすることによって、水、火、土といった原理物質が生成されるのであり、それを思えば「空気」こそが大本であると認識したようである。

 ミレトス学派の功績は、「物質の究極にある構成要素とは一体何ものであるのか」を追及した学的態度にあり、それは今日まで影響を与えつづけている。今日の物理学においても、原子論、原子核論、素粒子論といったより究極の実体解明に向かっての研究が続けられており、ある意味ではミレトス学派精神と言い換えることも可能である。


ビタゴラス及びビタゴラス学派について

 ミレトス学派に少し遅れて紀元前6世紀の半ば頃、ギリシャ本土から見ると西のほうの南イタリアに別の学派が誕生した。開祖ビタゴラスにちなんでビタゴラス学派と呼ばれる。ピュタゴラス自身はおろか、ピュタゴラス派についても、詳細な記録は残されていない。したがって、アリストテレス等が残している断片からその姿を想像するほかはない。

 
ビタゴラスは、元来はイオニア地方サモス島の出身であった。青年期になるや知識欲に燃えて故郷を後にし、エジプト、クレタ島などを遍歴して、様々な密儀宗教の門を潜り、奥義を究めたと伝えられている。やがて、南イタリアに移住し、そこに弟子達を集めて宗教教団を開くことになった。この教団は、独特の戒律と生活上の規律を守って持ち物共有制の共同生活をしていた。いわば出家修行者たちの集団的趣があった。

 ビタゴラス教団の教義の特徴は、霊魂の不滅とその魂の輪廻転生を信仰していたことにあった。我々の生命について、霊魂と肉体の合体したものとして捉え、肉体は脱ぎ捨てられていくが、霊魂は生き通しであるという観念に立った。つまり、人間の魂は不滅であり、生まれかわり、死にかわりして、永久に苦しみながらも生きつづけるであろう、死とは肉体を取り替えていくに過ぎないとみなした。してみれば現世とはどういう意味を持つのかと問えば、結局のところ、良く死ぬための準備期間であるとなった。良く死ぬためには霊魂を尊び、それをまつり、浄めが必要とされ、それを達成する手法として様々の戒律が講じられた。こうして、ビタゴラス学派にあっては、魂の救済こそが眼目となった。

 ビタゴラス学派は数学を重視し、「世界の根源は数であり、一切は偶数と奇数から成ると考え」、この了解の下に数学上の神秘の解明に拘った。こうして、「完全な数」と宇宙(あるいは世界)との関係の解明に向かうことになった。これを哲学的には「数的神秘思想」と云う。ビタゴラスの定理と云われる数学定理もその成果の一例である。ビタゴラスの定理とは、直角三角形の斜辺の上の正方形の面積は、他の二辺の上の正方形の面積の和に等しい=「三角形の面積は、底辺×高さ÷2」という有名な発見のことを云う。こうしたビタゴラス学派の数の神秘的認識は、ユークリッドの幾何学、アウグスティヌスの教学にも影響を与えている。

 こうした数の不可思議な解析を通じて、この数と音楽における音律のハーモニーの調和の原理等々を通じて、「数の比こそが真実世界を規定している」という認識を持っていた。「数の比」のうちに「この世の秩序に理的な神秘と調和」を観た。ちなみに、「数の比」ことをギリシャ語でロゴスと呼んだ。ロゴスには、言葉、説明、理論、理法という意味もあるが、何らかの「筋道だった法則」を媒介させている。ビタゴラス学派は、この「筋道だった法則」を解明するために、世界のあらゆる事象(天文学、数学、音楽、デザイン、医学等々)の解析に向かった。このことが哲学史上におけるビタゴラス学派の功績を位置付けることになった。

 こうして、
ピュタゴラス派は、「『数』こそが真の実在であり、全て存在するものは、『数』をその始原にもつ」という観点に立った。この考えがプラトンの「イデア論」に影響を与えることになる。プラトンの場合は存在するものにそれぞれイデアが対応したのに対して、ピュタゴラス派の場合には、「数」が唯一絶対の、いわゆる「イデア」だったとも云える。ピュタゴラス派は、無限ともいえる「数」のなかでも、特に「十」を「完全な数」と考え、きわめて重要な概念にしていた節がある。「十という数が、『なにか完全であり、数の本性全体をそれ自身のうちに含んでいた』というピュタゴラス派の信仰」、「すなわち、彼ら(ピュタゴラス派)には、十が完全(teleion he dekas)であり、数の本性全体を包含すると考えたので、天空で運行しているものも実際十であると、主張するが、知られているのは九であるから、その第十番目のものとして、対地球(antichthon)なるものを作り出した」(アリストテレス『形而上学』)と述べられている。恐らく、「十」が音楽や幾何学の「原埋的なもの」を含んでおり、それが「完全性」を示す要素であると考えたのではないか、と推測されている。


  ビタゴラス学派は、政治的な理由で迫害を受け始め、5世紀になるとイタリアを追われギリシャの各地に分散していくことになった。この思想が後にプラトンに影響を与えていくことになる。


イオニア学派について

 紀元前6世紀の初頭に、ギリシャ本土から見れば東方、エーゲ海をはさんで対岸のイオニア地方に、一種の自然科学を中心とする学問が生まれた。やがてアリストテレスによって集大成されていくことになるが、この流れをイオニア学派という。イオニア学派は、自然(フィシス)を自覚的に対象化させ、学問したことに功績を持っている。いわば自然科学のさきがけとなった。この態度は、神話的な思考(ミュトス)に対置されることに意義がある。


ユークリッドの幾何学について

 ユークリッドは英語読みであり、ギリシャ語ではエウクレイデスと云う。ユークリッドは紀元前3世紀頃「幾何学原論」を著し、ギリシャにおける論証幾何学の集大成をした。
このユークリッド幾何学が哲学史上重要な地位を占める所以は、思索する上での「論証」の構造を解析したことにある。「論証」に当たってはまず為しておかねばならないこととして、定義、公準(要請)、公理(共通概念)を明確にしておくことを要件とした。これらの前提を基として、そこから推論を繰り返すことによって行われる一連の過程から「定理」を導き出すという論理作法を確立した。その他矛盾律、排中律をも生み出した。こうしたユークリッド幾何学によって作法化された論証によって得られる知識は、ギリシャ哲学史に他に比類の無い弁証の精密さをもたらすことになった。この系譜から、アリストテレスの「分析論」が生み出されることに夏タ。「分析論」は、論証や説明の構造を精密に研究し、我々の推理や推論の形式にはどのようなものがあるのか、どういった場合に推論が誤って間違った結論を導いてしまうのか(誤謬推理)を明らかにし、その後19世紀に至るまで不動の高度な論理学の体系として下敷きにされることになった。

 既述したが、ユークリッドはビタゴラス学派の数の認識の影響を受けていたことが注目される。『幾何学原論』は、第七巻定義二十三(「数論」)において、「なぜなら、六という数は、自らの諸部分、すなわち、(六の約数である)六分の一・三分の一・二分の一である、一・二・三から完全となる第一の数であり、総計において六が生ずることになるもの」、「完全な数(teleios arithmos)とは自らの諸部分の和に等しいものである」と述べている。この認識は、「完全な数」が存在の始原であるという思想につながる。この「六」認識については、アウグスティヌスも拘りを見せ、神による「天地創造」が、六日で行われたあるいは完成したということについて、「『六』の神秘に言及している。この認識は、「数的完全さ」が世界を規定しているという認識につながる。数に対するこうした認識は、ケプラーの「高貴なる数」と立体観にも影響を与えている。ケプラーは、「六」・「十二」・「六十」を、「高貴なる数」であるとした。ケプラーは、間接的にではあるが、宇宙(世界)に対する、「数の優位性」を考えていた。簡単にまとめれば、六個の惑星軌道を基礎づけているのが「五つの正立体」であり、さらにその正立体を基礎づけているのが、「高貴なる数」であるとした。こり考え方は、ピュタゴラス派に端を発する「数的神秘思想」の、表面的には最後の展開形であった。してみれば、「完全な数」と世界との関係を考察することは奥行きが深いということになるかと思われる。


ヘラクレイトスについて

 ヘラクレイトスは、紀元前6世紀の540年頃に生まれて、480年頃まで活躍していた、小アジア半島のイオニア地方、エフォソスという町の出身であった。現在トルコ領のエフォソスは、この当時小アジア州の中心都市として栄えていた。「新約聖書」にも、パウロの「エフェソの信徒への手紙」が収められていることからも分かるように、大変古い伝統の町としてローマ時代にも繁栄していた。ヘラクレイトスはこの地の王族の一員であったと伝えられている。ヘラクレイトスはそうした世俗的な地位を捨て、山中に篭もり思索の人となった。今日短い断片の形で130ほどの言葉が遺されている。

 「同じ川に二度、足を踏み入れることはできない。なぜなら、流れは常に変わっているから」。

 ヘラクレイトスは、イオニア自然学の系譜を受け継ぎ、万物の原理について考察し、アルケーを「火」とした。但し、ヘラクレイトスの哲学史上不朽の功績はそのことではなく、「万物は流転する(ギリシャ語で「パンタ・レイ」)」という認識を確立したことにある。日本でも、鴨長明が「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水ににあらず。よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)は‐‐‐久しくとどまりたるためし無し」(方丈記)とあるが、生生流転の認識をした。

 ヘラクレイトス哲学の功績のその二は、多なる世界が一になるものへと還っていくというイオニア自然学にあって、その一もまた流転しているという相を認識した点で発想上の飛躍を為したことにある。ヘラクレイトス哲学の真意は相対主義にあったものと思われる。更に云えば、諸事象のそうした相対主義の背後にあるロゴスをさぐろうとしたやも知れぬ。

(人民戦線資料)  

ヘラクレイトス(前五三五〜前四七五)

 古代唯物論者であり、弁証法を説く哲学者であった。万物は原質である火の変成したもので、永遠の生滅、変化の過程にあり(万物流転)、一切の動と生とは対立物の相克によって存する(戦いは万物の父)、この相克の根底に調和と理法とが隠されている、と説いた。


パルメニデスについて

 パルメニデスは、推定紀元前515年頃に生まれた南イタリアのエレアという町の出身。かなりまとまった分量の叙事詩を遺している。ソクラテスがまだ若い頃、このパルメニデスの薫陶を受けたことをプラトンが「パルメニデス」で明らかにしている。パルメニデスは存在の定義にこだわり、この世界には生成消滅や運動変化というものは無いということをパラドックス風に説いた。ちなみに、パラドックスとは、パラとドクサの合成語で、パラは「反対する」、ドクサは「そのように我々に思われること」という意味の言葉である。従って、パラドックスとは、我々が当然のことと思っている諸事実や現象に異を唱え、ロゴス(議論)を矛盾化させることを意味する。和訳として「逆説」、「逆理」、俗語で屁理屈。

 
パルメニデスの有名な命題は、「アキレスと亀」論であった。「アキレスと亀」論とは、アキレウス(ギリシャの代表的な伝説上の英雄で足が速かった)と亀が競争した際に、後方より出発したアキレスはどんなに足が速くても、亀に追いつけないという議論のことを云う。なぜなら、アキレスが亀に追いつくためには、亀がもといた地点までたどり着く必要がある。ところが、アキレスが辿り付いた時には亀はその先に進んでいる。その差はどんどん詰まるかも知れないが、いつまでたっても亀はアキレスの先にいる筈であるというパラドックス論であった。

エレア派について

 パルメニデスの教えを受け継いだ人たちをエレア派と云う。このエレア派の代表者にゼノンがいる。ゼノンの哲学史的功績は、パルメニデスの認識を擁護するために、その論難者の論理に耳を傾け、一種の問答形式で相手の議論を否定していくという論駁の形式を確立したことにある。このエレア派の鋭い問答や議論は、相手方により厳密な論証を義務付けたという反面教師的意味において、貢献した。


エンペドクレスについて

 エンペドクレスは、紀元前493年生まれ、南イタリアのシケレア島(地中海に浮かぶかなり大きな島、エトナ山の火山噴火で今も知られている)のアクラガスという町の出身。医者であり、詩人であり、政治家であり、弁論家であった。

 エンペドクレスは、ミレトス学派、イオニア学派の伝統を受け継いだ上で、ヘラクレイトスの流転思想をも経過させていた。従って、「絶えず変化してやまないこの世界は、土、水、空気、火という四元素から成り立っており、生成とか消滅とかは習慣によってそのように呼ばれているのであって、本当の意味での誕生とか死滅といえるものではない。本当のところは、この四元素が混合したり分離することによって、様々な現象を発生させている」と論じた。エンペドクレスは、この「地水火風」を「根」と呼んだ。これらに潤滑油的な作動要因として愛と憎しみを観た。

 エンペドクレスの哲学上の功績は、「地水火風」の四元素を究極の規定要因としたことによって、それらの循環回帰思想を樹立したことに認められる。

 医学の祖と云われるヒポクラテス(前470頃−375年頃)に影響を及ぼしているとされており、ヒポクラテスは著作「人間の本性について」の中で、概要「人間の体を構成している四つの体液を挙げ、血液、粘液、黄胆汁、黒肝汁が人間の体内にあってバランスよく混合することによって健康が生まれてくる。反対に、これらの体液がそれ自体として凝固してしまってうまく混合しないときに、様々な病気が生じてくる。そして、これらの体液のうちどれが優劣かによって、人間の様々な性格気質が決まってくるとみなした。例えば、血液が優勢な場合には気が短くて怒りっぽいとか、黄胆汁が優勢な場合には沈着冷静であるとか、黒肝汁が優勢な場合には憂鬱で一人物思いにふけるという、一種の芸術家的な気質が生まれてくるとみなした
」。これが体液理論の基礎的見解となった。


アナクサゴラスについて

 アナクサゴラスは、エンペドクレスとほぼ同じ時代、東のイオニア地方、クラゾメナイの町に生まれ、紀元前480年ペルシャ戦争の最中にアテナイへ移住した。この地で有力な政治家ペリクレスと30年にわたる親交を結んだ。晩年には無神論者として告発され、アテナイを去る身となった。断片が20ほど遺されている。

 アナクサゴラスは、エンペドクレスのように四元素説を採らず、「無数の無限種類の極限小粒子のような種(彼はスペルマタと呼んだ)」を措定した。無限の元素は全て入り混じって全く一様な状態であったが、そこにヌース(知性)という別の精神的原理がやってきて最初の一撃を与える。そのことによって世界全体に回転運動が始まった。そうすると、その回転運動に引きずられて、少しづつ、まんべんなく一様に行き渡った世界に、多様性というか、差異が現れてくる。これが我々が目にしている感覚世界の多様さである。その際、それぞれの場所における最も優勢な種の持っている性質がその場に発現してくるとした。


デモクリトスについて

 デモクリトスはソクラテスより10年ほど後輩。驚くほど多方面にわたって才能を発揮し、膨大な著作を残した。今日では断片しか伝えられていない。デモクリトスは、エレア派の不詳不滅の存在の原理を守りながら、しかしどうやってこの多様な感覚的世界の現象を説明するかということに認識の視点を置いた。そこで原子(アトム)という概念を作り出した。この説はレウキッポスがまず唱え、その弟子であるデモクリトスがこれを受け継いだというのが実際であるが、二人の見解のどこからどこまでがレウキッポスの論であり無いのか判然としない。「アトム」とは、ギリシャ語の否定を表す接頭詞アと、分割を表す動詞「テムネイン」からきた「トム」を合成させて、分割することのできないもの、これ以上分けることの出来ない最小単位という意味とした。アナクサゴラスのスペルマが様々な感覚的性質を持たせていたのに対して、原子論者たちは、もはや一切の感覚的性質を持たない最小単位として原子を措定した。原子は、形、向き、並び方(配列)の三つだけによってお互いに区別されるとした。この原子の異なりによって世界の様々な運動変化が説明されてくるとした。

 アトムそのものは充実体で、決してそれ自身は生成消滅することはないとエレア派的観点に立っていた。但し、エレア派との違いとして、空虚もまた同様に存在する、つまり無もあるとした。なぜなら、空虚が無ければ、アトム同士の間に隙間が無ければアトムは動くことが出来ないとした。世界の実相は運動するアトムと空虚だけから成るとした。唯物論的見解。

 原子論(アトミズム)は不可分割性を前提にしていた。不可分割性のラテン語はインディビドゥームで、これが個人と訳されていくことになる。インディビドュアリズムと云えば個人主義となる。アトミズムインディビドュアリズムは、不可分割性という意味において通底しており、ギリシャ語悌とラテン語の違いだけで、同じ意味を持っていることになる。

 デモクリトス(前四六〇〜前三七〇)

 古代唯物論者であり、古代原子物理学者であった。万物はすべて物質であり、原質は微粒子(原子)、すなわちアトムからなっている。そして万物は運動しており、永遠に不滅である。そういう意味で、すべての物質は同一であり、色や味が違うのは人間の感覚の問題である、と主張した。マルクスとエンゲルスは古代唯物論者としてのデモクリトスを非常に高く評価した。


 ここまでを踏まえてアルケー論者を整理すると次のようになる。

人名 アルケー
タレス
アナクシマントロス ト・アペイロン(無限に無規定な物)
アナクシメネス 空気
ピタゴラス
ヘラクレイトス
パルメニデス 有るもののみがあり、それは永遠不滅
エンペドクレス 土・水・空気・火の四元素
デモクリトス 原子
アナクサゴラス

同質素・精神





(私論.私見)