古代ギリシャ哲学史2 |
汝自身を知れ(Enkenne dich selbst!) |
(参考文献)
「古代ギリシャの知恵と言葉」(荻野弘之・NHK出版・1997.4.1)
「人民戦線Top」
ソフィストについて
ここまでは主として世界の究極規定要因を尋ねる思索であったが、紀元前5世紀頃よりもう一つ大事な思想の潮流が起ってくることになる。それは、一言で言うならば、「自然から人間への関心の転換」でもあった。ソフィストと云われる人たちの登場がこれを推進した。。ソフィストは詭弁家とも訳されているが、元もとの原義であるソフィステスは、詩人、音楽家、料理人など、それぞれの分野での専門技術において卓越した名人で専門技術の修得を指導するといった意味であったようである。ソフィストたちはこれを教えるのに授業料を受け取っていたので職業的教師的色合いを帯びていた。その実態は、プラトンの「プロタゴラス」に生き生きと表現されている。
ギリシャは各地にポリスと呼ばれる都市国家を形成しており、それらがみな、政治体制を異にして独立の国家体制を造っていた。紀元前490年から約10年間に及ぶ東の大国ペルシャとの戦争(ペルシャ戦争)を勝ち抜き、この戦争においてアテナイが中心的な役割を果たした。ポリス同士が安全保障条約(デロス同盟)を結んで、政治的、経済的、文化的繁栄を極めていくことになった。特に、紀元前460年から約30年間、ペリクレスという大政治家の下でアテナイには民主政治が開花した。
ソフィストの登場は、こうした民主政治の下でもたらされることになった。18歳以上の男子であれば誰でもが議会で演説の機会を持つことが出来、くじ引きとか投票によって政治上の役職に就くことができるようになった。裁判の陪審員として法廷に参加する機会も与えられた。こうなると弁舌の能力が問われることになり、こうした社会の時代的要請としてソフィストと呼ばれる一群の人たちが登場してくることになった。彼らが主として教えたのは、弁論術(レトリック)と修辞学と人間学であった。
ソフィストの哲学史的功績は、それまでの自然哲学者達が自然界のアルケーを尋ねて苦闘してきたのに対し、むしろ人間界の事柄について深く弁証を重ねていったことに認められる。その結果、プロタゴラスの「人間は万物の尺度」との言葉に象徴されるように、相対主義の観点を確立していくことになった。それはアルケー論に含意されていた絶対的な原理探索の旅からの「知の旋回」を生むことになった。この相対観は古い因習的伝統、儀式を打破する批判的精神を芽生えさせていくことになった。このことがポリス(都市国家)の秩序と衝突することになった。
こうしたソフィストの相対主義精神は、やがて懐疑主義を派生させていくことになった。その代表的論者はゴルギアスであった。ゴルギアスの有名な言葉として、「何ものもあらぬ、あったとしても知りえない」が遺されている。
ソクラテス(前四七〇〜前三九九)
古代ギリシャの哲学者で観念論哲学の元祖とみなされている。半生を市民の道徳意識の改革にささげた。問答を通じて人びとによく生きることを教え、市民にその無知を自覚させ、徳の探求を求め、知識の向上を要求し、こうすることによって正義と平和と愛の人間社会の実現を訴えつづけた。やがて人心を迷わすものとして権力から告発、投獄されついに毒杯をあおいで獄死した。
ソクラテスが生きていた紀元前5世紀のポリスにはソフィスト達が活躍していた。こうした時代にソクラテスも街頭、市場、体育場などにおける問答を通じて相手にその無知を自覚させ(汝自身を知れ)、このような自覚から出発し、あい携えて真の認識に到達しようと努めた。ソクラテスの哲学史的功績は、ソフィスト達の安易な相対主義を否定し、人間の中の潜められている普遍的なるもの(真理)を探求せんとしたことにあった。悪妻クサンチッペとの逸話。
真の認識とはソクラテスにおいては、実践的能力(徳)そのものを意味し、知行一致こそが最高の徳とした。人間の魂は神からあたえられたものであり、それは「徳」である。これに乱れがおこるとき悪が生まれる。真の人間社会は「徳」の育成と、知行一致によってのみなりたつ、というのである。
ソクラテス自身は著作を遺していない。良く知られているのがプラトンの対話扁によってであり、ほぼ同年代のギリシャ最大の喜劇作家アリストファネスの書いた「雲」という作品、軍人クセノフォンの著作「ソクラテスの思い出」、アリストテレスの言及によってである。しかしそれらのソクラテス論はまるで対照的なソクラテスを描いており、真実のソクラテスは一層分からなくなるという奇妙さを見せている。アリストファネスは恰好の喜劇の題材として変人として捉え、クセノフォンは立派な道徳家として捉え、プラトン派哲学者の原型として捉えた。
プラトン説ソクラテスに従えば、「ソクラテスの弁明」がこれをもっともあざやかに語っている。「人間としての知恵、人間並みの知恵」
ソクラテスをソクラテスとして知らしめる所以の有名なものに「無知の知」論がある。。ある時よりソクラテスはアテナイ中の知者と思われる人物を探し求めていくことになった。その過程で次のことに気づいた。「この人は、確かに多くの人から知者と思われ、自分でもそう思い込んでいるが、分かっていない事に対して分かっていると思い込んでいる面がある。それに対して、自分は、分かっていないことは分かっていないと認識している。この僅かの点で、自分はこの知者よりもより知者である」。つまり、「知らないことを知らないと認識している」知という反語的知の認識に辿り付くことにより、ソフィスト達の思い込みの知者ぶりを揶揄した。
ソクラテスはアポロン神殿に掲げられていた「汝自身を知れ」を生涯の課題として自覚していた。「ソクラテスの弁明」の最後のほうで、「人間にとっては徳その他のことについて毎日議論を重ねることこそが最大の善であり、吟味のない生活は人間の生きる生活ではない」と言い切っている。ソクラテスの「無知の知」論は、この「汝自身を知れ」を通じて、「人が、人間として最も大切な徳(アレテー)について何も知らない」ことを指摘し、人としてどう生きるべきか論を追及した。その手法として「産婆術」を生み出した。これは人との対話(議論)を通しての共同作業で有徳の知あるいは真理を生み出す手法であった。ソクラテスは、アテナイの広場でこれを実践した。
「有徳の知」とは、「魂を善いものにする正しい知を身に付ける」ことであり、それは同時にポリスでの理想的な生き方にも繋がるものでなければならなかった。ソクラテスはこのことを命題としていたので、死刑判決を受けた以上は逆らうこともせず獄死することを選んでいる。
しかし、こうしたソクラテス的知の対話は、無知を知らされた論者の憤激を生んだようである。権力からは異端視され、国家の認める神々を認めないという宗教上の罪、青年をまどわせ堕落させるという教育上の罪で告発される身となった。紀元前399年アテナイの法廷で死刑を宣告された。弟子達は国外への逃亡を勧めたが、「悪法もまた法なり。法に従って生きている以上、例えそれが納得できないものであっても、守らなければならない」と法治主義を率先垂範して毒を服し獄死した。
クセノフォン(430−354B・C)
ソクラテスの高弟
プラトン(前四二七〜前三四七)
哲学者であり、ソクラテスの弟子であった。プラトンもまたポリスにおける人として生き方、観念の重要性を指摘した。
プラトンをプラトン足らしめるものに「イデア」論がある。ソクラテス的真の知は何かを追及したプラトンは、事象の本質に「イデア」を観て、それこそ「事柄を事柄足らしめる真実在」であるとした。肉体的感官の対象たる個物は真の実在ではなく、霊魂の目でとらえられるものが真の実在であるとした。「肉眼によってでは無く、理性によって認識している像こそイデアであり、本来の存在である」とした。「イデア」は永遠に変わらない事物の本質と規定された。こうした認識は、哲学史上観念論と呼ばれる。
プラトンは、そうしたイデアの優劣の判定にも向かい、最上のイデアを「善(美)のイデア」とした。「善(美)のイデア」は太陽に例えて、「現実在を影とし、その影を発生させる太陽をイデアとした場合、そのイデアすらも照らしてしまう絶対的な太陽である」と説明している。
プラトンは、「現実世界(この世)にあるものは、全てイデアの世界にあるイデアが分かれて出来たものである」としていた。いわば本体がイデアであり、現象はそのコピーであると云ったことになる。コピーは常にイデアに憧れ、これを「エロス(恋慕)」と認識していた。イデアを求めようとするエロスこそあらゆる事物の衝動であり、人間もまたその本性としてこれを持っているとした。ちなみに、キリスト教で云うところの「アガペー」は、上のもの(神)が人間に与える愛のことを云う。もう一つ、「エロス」に現代的な性の意味を加えたのはフロイト以降である。フロイトは、人間の根源的エネルギー源に性欲を観、生きることへの根源的な欲求に性欲を観た。死ぬことの欲求を「タナトス」と云った。
プラトンは、魂を理性・意志・欲望の3部分に分けて「魂の三部説」を説いた。そして、「理性はイデアの世界から来たもので、意志と欲望は肉体(現実在)につながれている」とした。さらに、理性とはイデアを直視する能力(イデアは理性でしか感知できない)、欲望は肉体の衝動的行動、意志は理性と欲望の仲介役で、理性が欲望を押さえる際に理性を助けるもの、とした。つまり、プラトン的よりよき生とは、理性がイデア、特に善のイデアを正しく認識して、それに基づいて意志と欲望とをうまくコントロールできている状態とした。この状態のとき、理性・意志・欲望が完全体となっていて、理性の部分は知恵の徳を、意志は勇気の徳を、欲望は節制の徳を備えた。この三つの徳が三つ揃って正義の徳という。知恵・勇気・節制・正義の四つの徳を最も根源的な徳として「四元徳」と呼んだ。
プラトンは、この魂の三分説を国家にも応用した。国家も統治者、軍人、生産者の三階級に分け、それぞれがそれぞれの知恵・勇気・節制の徳を発揮するとき、その国家は正義の国家になるとした。ここから、統治者は国家の命運を左右する重責を担っていることからして、知恵の得を備えた哲学者がなるのが相応しいとした。つまり、哲人政治を理想とした。
霊魂の不滅を主張(霊・肉二元論を説く)。このイデア(神があたえた人間の心のなかにある徳)にもとづいて人間と世界をつくりあげ、理想国家の出現を説いた。また、天体は球形であり、運動しており、太陽が地球のまわりをまわっているのだ(天動説)と説いた。
代表作「饗宴」の「人間は自分の別れた半身を探している」という次の会話が面白いので掲げる。
人間は昔、今の姿と異なる姿をしていました。それは、ふたりの人間が背中合わせにくっついて、ひとりの人間として存在していたのです。ですから、当然手は4本、足も4本、あったわけです。また、人間には3つの種類がありました。ふたりの男がくっついた”男男”、ふたりの女がくっついた”女女”、男女がくっついた”男女”です。ところで、人間は昔、かなり思い上がっていました。しまいには、いい気になって神にまでたてつこうとするではないですか!そこで神は考えた。人間を今の半分の姿にしてしまえば、その能力も半分になるのではないかと。そしてさっそく実行する。人間の体を半分に割き、傷口の皮をお腹のところで結びました。これが”へそ”になりました。首も今と反対側の向きを向いていたのですが、それを逆向きにします。そして、今の人間のような形になった。こうして、神のねらいどおりに人間はすっかり無力な生き物になった。しかし、もともとはふたりでひとつの生き物でした。だから、切り離されてしまった相手を求めてさ迷うのです。その相手こそが夫や妻であるわけです。しかし、最初にいったように人間には3種類ありました。自分が”男男”だった(男の)人は、半身であった男を求めるわけです。”女女”だった(女の)人は、半身であった女を求めます。そして、”男女”だった人は異性を求めるのです。元々ひとつであった自分の別れた半身−−だから、自分の夫や妻のことを"better half(わがよき半身)”という。
アリストテレス(前三八四〜前三二二)(BC384〜BC322)
ソクラテス、プラトンと並ぶ古代ギリシア三大哲学者の一人。哲学者、プラトンの弟子であった。自然は運動であり、その本性は内環運動であり、地上の物質は土、水、火、空気の四つの元素からなりたっており、その混合物によって地球は形成されていると説いた。エンゲルスはこの説を古代弁証法のすぐれた説として高く評価し、自然発生的な弁証法である、といった。近代の学問と科学の祖でもある。
プラトンは、ソクラテスの弟子として、ソクラテスの「ポリスにおけるより善き生き方」を考究した。その結果、「イデア論」に辿り付いた。しかし、このプラトンの弟子であったアリストテレスは、プラトンの教えと反対の視点に立つことになった。プラトン的「イデア論」を斥け、「真実在は個々の事物に本質として内在している」とした。専門用語としては「形相(エイドス)は質量(ヒューレー)に内在する」と云うことになる。ヒューレーとは、事物を作り上げている材料のことである。エイドスとは、各事物の中にあって、そのものをそのものたらしめているものという意味であり、プラトンのイデア論の唯物論的転換であった。
アリストテレスによれば、エイドスはヒューレーに内在するので現実界に存在することになる。この姿勢の違いが、プラトンの理想主義、アリストテレスの現実主義と言われるようになる根拠である。
アリストテレスは、ヒューレーとエイドスの関係において、いろんな可能性を持って内在しているのがヒューレーで、現実の形に持っていくのがエイドスであるとした。いわば目的(原因)と手段の関係に近く、目的論的であったということになる。
この当時の哲学上の難問(アポリア)に、「変化と定常。どちらが真理なのか」という問題があった。どういうことかというと、「真理という物が絶対である以上変化という属性は持たないはずである。では定常かというとそうはいかない。なぜなら世界は変化しているから。ではどっちなんだという哲学上の難問であった。これに対し、アリストテレスは、変化も定常もどちらも入れた概念であるエイドスとヒューレーによって解決させた。アリストテレスの「エイドスとヒューレー」論は、この問題で功績を遺している。
さて、アリストテレスも、プラトンの哲学上の課題であった「よく生きる」問題に取り組んでいる。アリストテレスは、「善」を考察し、「現実の生活における個々の行為の目的になっているもの」とした。且つ、「善にはいろいろな種類がある」として、「数多ある善の中で目的のための手段にならずに、それ自身が最終的な目標であるものを最高の善、つまり「最高善」とした。「最高善以外の善というものはすべて最高善に向かうための手段となるが、それ(=最高善以外の善)だけでは最高善にはならない」とした。そして、「最高善は幸福である」と観た。ここでいう幸福とは、俗っぽい意味ではなく、むしろ俗とは逆で「理性によって純粋に真理だけを探求し認識して生きる『観想的生活(テオリア)』」の事を指している。
では、テオリアの境地に達するにはどうすればよいのかというと、「知性的徳」と「習性的徳」が必要とした。この「知性的徳」とは知性、理性のことで教育によって習得されるもの、「習性的徳」とは行動のことで日頃からの習慣で身につくものとした。
習性的徳は、というと山ほどあります。勇気・節制・温和・誠実・正義・友愛などなど…。そういった徳は習慣的なものとするならば、どういう状態であるように心がければよいのかとの問いに対して、それは「中庸」で行くことだと云う。「中庸」とは両極端を足して2で割る、といった機械的なものではない。それぞれにとって適度な状態のことを言う。例として「勇気」の徳を考えると、勇気の徳が極端になれば無謀になる。勇気がなかったら臆病になる。その中を取った状態が勇気なわけであるが、では軍人に求められる勇気と商人に求められる勇気は同じレベルかというと、商人と軍人では望まれている勇気がちがう。こうしたことを考えると、中庸を得る為には知性的徳が必要となる。知性的徳は、思慮の徳と知恵の徳の二つからなる。知恵の徳は真理を認識するものであるから最高の徳である。思慮の徳はこれこそが感情を制し、中庸を保たせるために働きかける部分である。つまり、人は感情と意思を思慮に従わせて中庸を選ぶ、ということになる。
プラトンが「魂の三部説」を国家に応用したように、アリストテレスも自分の考えを国家論に応用し、「人間はポリス的(政治的、社会的)動物であり、テオリアはポリスの中でのみ満たされる」とした。このあたりは、ポリスを大切にしてきたソクラテスの流れを確実に受け継いでいる。その上で、アリストテレスは、ポリスを成立させる原理は「正義の徳」と「友愛の徳(フィリア)」であるとした。このうち友愛の徳、とは人間がお互い、損得勘定抜きで仲良くやっている状態を指す。正義のほうはちとややこしく、2つの種類に分かれている、とした。一般的正義と特殊的正義です。一般的正義とはプラトンの言うところの正義の徳と同じですべてが完璧な状態です。つまり、アリストテレスは正義の徳というものをいくつかの徳の集合体ではなく、それ自身がまだひとつの徳、と考えたわけですが、プラトンの弟子だけあって、すべての完成という意味での正義との便宜的区別が必要だったというわけですね。
では特殊的正義。特殊的正義とは個人個人の関係の中で成り立つ正義で、配分的正義と調整的正義があります。配分的正義とは恩賞のように個人個人によってニーズの違う正義です。一方、調整的正義とは個人差を考えるこなく、利害得失が公平に調整されるための正義です。ここではポリスの法律をいいます。つまり、金持ちでも貧乏人でも王族でも農民でも全員に平等に扱われる正義です。アリストテレスは国家というものは正義とフィリアがそろって初めて理想的な国家ができる、と考えた。
アルキメデス(前二八七〜前二一二)
古代物理学者、数学者であった。円、球、楕円、放物線およびそれらの回転体の求積法、アルキメデスの原理(個体の全部あるいは部分を流体中に浸すと、それが排除すると考えられる流体の重さに等しいだけ、見かけの重さが減ずるという法則)を発見した。
以上が古代ギリシャ文明と古代ギリシャ哲学の成り立ちであった。ギリシャは紀元前三三八年、北隣のマケドニアとの戦いに敗れ、国は滅びた。だがギリシャ文明はそのまま、つぎの時代、すなわちローマ帝国へとひきつがれていくのである。
ギリシャ哲学史は、エピクロス・ストア両学派で完結する。一般にヘレニズム思想といわれている。ヘレニズム思想は、当時のギリシャ以外の大国(オスマン・トルコとか)の台頭によりポリスがどんどん衰退していき、ポリスを大前提にしていたソクラテス・プラトン・アリストテレスの思想をそのまま継承させることが出来ず、ポリスに対する不安感・孤独感から個人の魂の救済と平安を求めていくことになった。そこで、2つに路に分かれエピクロス・ストア両学派が生まれることになった。個人主義的倫理と世界主義的倫理が分裂したことに特徴が認められる。ヘレニズム思想の共通点はまず魂の安息を求めたことと、脱ポリスという点です。相違点としてはエピクロス学派は感情重視の快楽主義、ストア学派は理性重視の禁欲主義であることとエピクロス学派が単なる個人主義的倫理であるのに対しストア学派は世界市民主義を説いている点でただの個人主義とはちょっとちがいます。
エピクロス学派はその名のとおりエピクロスから始まりました。彼らの最大の特徴は快楽主義です。エピクロス学派は最高善は幸福とした上で幸福とは精神的快楽(アタラクシア)と定義する。真の快楽とは瞬間的快楽ではなく、永続的で静かな快楽で「腹いっぱい、のど潤って、温暖快適」ではなく「飢えない、乾かない、寒くない」という状態で魂において乱されないこと、とされた。この「魂において乱されない」の追求は、人と交わって自分が変わってしまうより現状維持が一番とすることになり、「隠れて生きよ」といい人里はなれたところに「エピクロスの園」をつくり、一人孤独に自給自足の生活をすることになった。
ギリシャ哲学史の最後はストア学派となる。ストア学派はストア…ではなくゼノンから始まる。彼らの特徴はエピクロス学派とは対照的で禁欲主義です。彼らも最高善は幸福とした上で幸福とは自制心をもって、理性にしたがって生きること、とした。その状態をアパテイアといいます。このアパテイアとは情念を意味するパトスからの自由、という意味です。この「パトス」はあの「残酷な天使のテーゼ」のパトスです。ちなみに現代に言う「ストイック」という単語はこのストア派からきています。ストイックって言ったらなんか冷たい感じのある語ですがもともとは禁欲って言う意味。
さて、つまり彼らはアパテイアの状態を妨げるものは感覚から引き起こされる激情や欲望、としたのです。そして、「自然と一致して生きる」ことを理想としています。ここでいう自然とは神の摂理を写し、万民共通のロゴスのことです。
ここで、彼らはひとつの飛躍をしました。この理性というものは世界共通のものだ、としました。ここから次のような考えが出てきました。「万人は理性を共有するものとして、世界国家の一員であり平等である」。こういった考え方をコスモポリタニズム(世界市民主義)といいます。
(私論.私見)