自由民主党論

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).9.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 最近つくづく思うことがある。戦後政治の責任与党として君臨してきた自民党を評する角度において、戦後左派運動はなべて公式主義に過ぎやしなかったか。マルクス主義的な権力批判に傾斜して批判していさえすれば飯の種になるという精神構造が安逸過ぎやしなかったか。自民党の果たしている政治的役割と責任を客観化させ、政府自民党権力が孕(はら)む内部矛盾に対して我々はもっと関心を持つべきだったのではなかろうか。以下、自民党が党的生命を溶解しつつある故に見えてきたものをあぶり出して見ようと思う。

 結論から述べれば次のように云えるだろうか。その一は、自民党は、万事において責任を負う立場に居ることを好み、その対価としての権益あるいは権力を求め、であるが故に与党政治を引き受けることを目指すという高等な能力を持つ人士が寄った政党であったのではなかろうか。そうした自民党的精神とあからさまな対極に位置するのが万年野党を好んだ社共運動ではなかったか。社共運動の特質は、自民党政治の権力及び利権体質に対するケチ付け批判運動、体制修繕運動に終始することにある。してみれば、この両者は深層の底流において補完しあっているのではなかろうか。

 このことは何を意味するか。「万事において責任を負う立場に居ることを好み、その対価としての権益あるいは権力を求め、であるが故に与党政治を引き受けることを目指す人士が寄った政党」としての左派運動が、日本政治史上に未だ生まれていないということを示唆している。社共運動の不毛に食傷した者が向かうべき針路は、自民党政治とは又違う権力掌握運動となるべきではなかろうか。

 その二は、自民党とは、その一の流儀を踏まえてなお且つ戦前型保守本流と戦後型保守本流とが無理やり結合して生まれた政党であり、この両者間においては結党時より深刻な対立を孕んでおり、それを時に相和し時に死力を尽くした闘いを経由しながら辛うじてバランスを保ってきた政党なのではなかろうか。この争いに官僚派と党人派との抗争が絡んでいる。そういう意味で、自民党政治の胎内にある矛盾は他のどの諸党よりそも政治的であり、智者の政治足りえているように思われる。

 その三は、自民党は、その一とその二を踏まえてなお且つそういう内部事情を日本的な感性と論理様式でマッチングさせてきたという意味において、極めて日本主義的な高い統治能力を保持してきている(過去保持していた)政党なのではなかろうか。であるが故に、単に金権力によってではなく日本教的な情緒性によってもかなり広範囲に心底支持されてきたのではなかろうか。我等の左派運動はこの辺りを到底理解できないし、する気もないようである。付言すれば、日本教的なものの考察は興味有る課題である。これを知ろうとしない左派運動家は本人の自惚れとは別に単純に暗愚なのではなかろうか。

 その四は、そうした自民党が目下溶解しつつある危機に直面している現在、恐らくこれを打開する能力を持っていないという意味で、正真正銘の危機を迎えているのではなかろうか、つまり出涸(が)らし状態に陥っているにも関わらず解決策を持っていないことを確認したい。

 これらのことを解明してみたい。かく問題を設定すれば、自民党に替わる勢力がどのような党を、ないしは情緒をないしはイデオロギーをないしは政治運動上の流儀を創出すべきかという課題が見えて来る。この課題の研究は、下手な左翼党の研究で心身を磨り減らすよりもはるかに生産的であるように思われる。万年野党の気楽な稼業とどこが違うのかが透けて見えて来るだろう。政治が如何にしんどい仕事にして有能さが問われているのであるのかが判明してくるだろう。

 2002.7.15日 れんだいこ拝


関連サイト 戦後政治史検証 田中角栄論
民主党の研究

 目次
歴代首相と自民党総裁相関図
議会制民主主義について
日本社会主義論の一定の根拠考
別章【自民党の党史検証
自民党のイデオロギ―について
自民党の規約(党則)、組織論について
自民党の内部矛盾について
別章【派閥考
Re戦後保守本流ハト派論、ハト派とタカ派の政策的違いについて
自民党の「総裁・幹事長分離論」について
自民党の党的能力について
自民党の党的危機について
歴代首相の首相時の年齢と学歴、在職日数
自民党の首相国葬、内閣葬、党葬論考
新責任政党はどうあるべきかについて
人物論
疑獄事件考
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参考文献




(私論.私見)