1936(昭和11)年、松飾りもとれて間もない2.26日、帝都を埋めた深雪を血に染めた陸軍少壮将校の率いる反乱があった(二・二六事件)。この頃、兇悪な犯罪が続出し、当時のジャーナリズムはエロ・グロ時代と騒いだ。その翌年秋、上海事変が突発した。軍国主義の暗雲が社会を覆っていた。
1937(昭和12).5.18日、男を殺し、その男の局所(「下腹部」、「急所」と書いた新聞も)を切り取って持ち去った稀代の猟奇事件「阿部定事件」が発生した。19日付け毎日新聞の前身である当時の東京日日新聞朝刊は、初号見出しで「『待合のグロ犯罪』と横組」、「『夜会巻の年増美人情痴の主人殺し」、「滴る血汐で記す『定・吉二人』、「円タクで行方を晦す」と4本4段抜きの派手な記事を載せている。
事件の顛末は次の通り。頻発する兇悪事件未検挙の折柄、荒川区尾久4の1881待合まさきこと正木吾助方に、年齢50位の男と30位の女が5.11日から流連していた。15日の午後待合を出た彼女は上野で肉切庖丁を1丁買い求めた。18日払暁、眠る吉蔵の首に細紐をまきつけ、細紐で絞め殺した。頸部には細紐の二重の傷跡が残り、眼球は飛び出して見るも凄い形相の吉蔵であった。
その日朝8時頃、「水菓子を買いに行く」といったまま帰らない。午後3時頃、女中の伊藤もと(33)が2階四畳半の部屋を明けると、男が蒲団のなかで絞殺されていた。所轄尾久署から傍島署長、警視庁から酒川捜査一課長、中村係長、高木鑑識課長。東京刑事地方裁判所から庄田予審判事、酒井検事が急行検視した。男は枕を窓側にして細紐で絞殺され、顔にはタオルがかけてあった。男の大腿部に「定・吉二人」、「定吉二人きり」と1字3寸角位の太い文字が血汐で描かれていた。被害者の首には赤い細紐がまかれて、そのあたりに血汐が点々としていた。また死体の左腕には『定』と生々しく刃物できざまれてあり局所が切りとられていた。枕許の男の財布はカラになっていた。被害者の身許はかねて捜索願の出ていた中野区新井町五三八、うなぎ屋料理店吉田屋の経営者/石田吉蔵(42)。立派な妻子持ちだった。逃走した犯人は埼玉県坂戸町生れの同家の女中田中かよこと阿部定(31)と判った。
『局所』を持った阿部定はどこに逃げたか。ラジオに号外に帝都はたちまちにしてお定旋風の渦巻となった。翌くる19日。お定の手配は早朝から帝都はじめ近県、熱海、名古屋、大阪方面までかの女の手懸りのあるところほとんど全国に跨り、写真2万枚がバラ撒かれた。その手配を抜書して見る。
「殺人容疑者 本府人 阿部定31 身長5尺位、痩形、色浅黒く面長、頬こけ口大にして、一見水商売風、歯黄く、歯並にすき間あり。著衣。うずらお召、鼠地に銀箔のウロコ形飛模様のついた単衣の襦袢、ちりめん水色無双の長襦袢。帯、薄卵色の竪縞のあるしゅすの昼夜帯。下駄、桐表つき駒下駄、卵色の鼻緒つき。常に用ゆる偽名田中かよ、黒川かよ、阿部かよ、田村加代、吉井昌子。尚、犯人は温泉地その他において、女中酌婦の経験あり、特に温泉地を警戒されたし」。 |
水菓子を買いに行くといって尾久の待合まさきを出てからの彼女の逃走は、巧みに変装、市内を転々として20日午後5時半ごろ品川駅前の旅館品川館で捕われるまで、まる2日半、満都の話題となった。18日深更、名古屋市の野球で有名な私立商業の校長をしている大宮某氏(49)が突如、尾久の捜査本部を訪問している。この校長先生は事件前年の春、お定が名古屋市のさる旅館の女中をしていた頃、花見で知り合った。校長会議で上京した彼は5.15日に品川の夢の里で会い、お定に50円の小遣を渡したが、これがかの女の逃走資金となった。当時は円タク全盛時代。待合を出たかの女は付近から円タクを拾って新宿伊勢丹に行き、さらに下谷区上野町の古着屋で着衣を変えて、着ていた犯行当時の着物を13円50銭で売り、地味なうろこ形の着物を5円で買い変装した。その足でかねてしめし合せた大宮氏と神田万惣果物店で落ち合った。2人はここから日本橋のそば屋に現われてうどんかけを食べている。かの女は大宮氏には吉蔵を殺したことは何一つ話していない。
2人は午前11時ごろ西巣鴨2の1989緑屋旅館に現われて、2階4号室に落ちついた。お定は洗い髪を夜会巻にするため、ピンとヘヤーネットと打紐を買ってもらった。注文の品を持って女将が二階の部屋の襖をあけると、お定が泣いていたので間が悪くなって帳場にそそくさと帰った。階下に降りてきたお定はお風呂を焚いてくれと頼んだが、手がないからと断ると金はいくらでも出すからと風呂を焚かせて入浴。その時かの女は部屋が気に入ったから下宿に置いてくれと頼んでいる。追手をのがれて大宮氏としばしの愛の巣と考えたのだろう。女将は賄つき月25円だが、空間がないから断っている。その休憩料を5円札で払い2円20銭、1円をチップに出している。貨幣価値を300倍とか400倍といっても当時の5円札は値打ちのあったものだ。ここを出てから大宮氏は文部省の校長会議に出ている。大宮氏は捜査本部でことの真相を知り教育者として自責の念に堪えず早速電報で辞表を出し退職した。後にお定は公判廷で『大宮さんは清らかな人でした。あの方の同情で私は心から更生の道をたどろうとしたのに……あの方にご迷惑をかけました』と泣いて詑びていた。
この日午後3時ごろ芝区新橋六の四古着屋あずまこと中島忠作方に現われた。2度目の変装である。このころ尾久の捜査本部や各警察署にはお定らしい人相の女が現われたという電話が幾度かかかってくる。猟奇の殺人犯もいよいよ網の眼がせばめられた。ここでは鼠色縞の金糸菊花模様の名古屋帯、黒地に茶の堅縞の横条のセルの単衣、羽二重絞りの帯揚の3点を12円で買った。お定は古着屋の奥の一間をかりて着換えて横浜へ行くとそそくさと出て行ったと妻女のあきさんが近所の交番に届け出た。その時の模様を妻女はこう語っていた。「普通の束髪をしたキリッとした人でした。……鼠色の風呂敷包を大事そうにして、着換えの時にも『いじらないでネ』と大切にしていた」。この風呂敷包こそ吉蔵の局所を包んだものだった。仕事の済むまでたばこをふかしていたが、すぐ前向の味噌屋さんの若夫婦の働らくのをながめながら、『若夫婦は朗らかですネ……』とうらやましそうにいうので、『あなただって若いでしょう』といったら、かの女は淋しく眼を落して笑ったという。19日の夜は浅草の安宿に泊った。すぐにも検挙と気負いこんだ捜査本部はかの女のためにさんざんに"ほんろう"された。まだ高飛した気配はない。必ず市内に潜伏しているという捜査本部の捜査方針は正しかった。事件発生後約3日目の20日午後5時半ごろ、省線品川駅前芝高輪南町76旅館品川館に潜伏中を高輪署の安藤部長刑事が逮捕した。お定は19日午後5時すぎに旅館に来て、『すこし休ませてくれ』といって部屋にはいった。かの女はさすがに焦悴の色が見えた。宿の番頭に頼んで眼帯を買った。右の眼が痛いといってかけてから、東京の新聞を全部見せて下さいといって、しばらく社会面に眼を通していたが、お定事件満載の記事を見て『まア、大事件がありますね』と独り言のようにつぶやいて宿帳に筆を取った。ここでも早、逃れられないと覚悟して、かの女は遺書5通を認めた。
|