2.26事件史その5、公判史考 |
更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).6.17日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、2.26事件を考察する。「あの戦争の原因」、「ウィキペディア2..26事件」、「2.26事件を巡る(上)」、「ニ.ニ六事件を思う」、「皇道派と統制派の対立、二・二六事件」その他を参照する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
この前は【2.26事件史3】に記す。
【2.26事件その後】 |
1936(昭和11)年の「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について) 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。(「あの戦争の原因」) |
【反乱軍将校の裁判】 | ||||
「古屋哲夫書評/須崎慎一著『二・二六事件』―青年将校の意識と心理―(絶筆)」その他参照) | ||||
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 2.28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3.4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。 第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。 3.1日、2.26事件に関する軍法会議の緊急勅令を仰ぐ閣議が行われた。陸軍首脳は、叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰させた。出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとした。「上告なし、弁護人なし、非公開、一審制」による迅速処断が打ち合わせされた。 3.4日午前10時、枢密院本会議にて陛下臨御の下に閣議の軍法会議に関する勅命案の諮問を行い、可決の上、議長より上奏し裁可された。これを経て緊急勅令によって東京陸軍軍法会議が設置された。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。
天皇は本庄侍従武官長に次のように指示している。叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言により決した。
法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいとの議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば後に暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。各部屋ごと完全な防音が施された。4月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた。(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された) 裁判にあたり、匂坂春平・陸軍法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎・陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)以下15名が任命された。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。 裁判の事実上の指揮は陸相が握っていた。当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後、軍内部の粛正をすることになる。陸相の下に公判部と検察部に分けられていた。検察部が被告人の起訴、不起訴を決めるが、大臣指揮下であった。公判部の「司法の独立」は建前に過ぎず、任命権者の陸相の操りでしかなかった。即ち、陸相権限でいかようにも処断できる裁判となっていた。こういう体制下で起訴された将校以下123名が将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、担当裁判官も同じく5組に分けられた上で予審にかけられ、事件に直接参加した将校20名が一ヶ月半で判決が下り処刑された。 陸軍省はさらに応援の法務官20数名を増員して予審からあたらせた。バラック建ての中を幾つかの部屋を分け、各法務官が予審官となり被告一人一人を取り調べをしていった。土日祭も休まずに続けられた結果、直接部隊に参加した将校と主要な下士官(曹長など)の予審が終わったのは4月中旬だった。残った下士官と兵は原隊の兵舎1棟に留置されていて、憲兵と検察官が出向いて一通り捜査しただけで、予審には廻わさなかった。予審が終わると調書を添えて検察官に送る。検察官は検討して容疑者の起訴、不起訴を決定する。ここで起訴が決定されれば軍法会議へ回されることになった。 |
|
【反乱軍将校の処刑】 | ||||||||
4.28日、事件の二ヵ月後、第1回公判が開かれ、将校グループ23名の審理が始まった。公判(裁判)は連日行われ、多いときは被告人が40人ほども法廷に入った。一人一人尋問している時間がないので、代表者に応答させ、異論があれば挙手で他の被告人に発言させるという形式をとった。被告人には弁護人が居らず且つ非公開という不利な中で問答無用式に審理が進められた。磯部の獄中文書では「自分らの証人の証言は全て棄却され、発言の機会もほとんどない。これほど不公平な裁判があるか」と憤慨している。また裁判中に磯部は、「川島、香椎、堀、山下、村上は青年将校と同罪である。大臣告示及び戒厳命令に関係ある全軍事参議官も同様ならざるべからず」と主張している。 7.5日、事件から3ケ月のスピード審理で、「第1次処断」として栗原安秀、安藤輝三、安田優たち青年将校17名の死刑、無期禁錮4名、禁錮4年1名の判決が宣告された。 死刑は、「首魁」で、村中孝次・元歩兵大尉(37期)、磯部浅一・元一等主計(38期)。「叛乱罪(首魁)」で、香田清貞・歩兵大尉(第1旅団副官、37期)、安藤輝三・歩兵大尉(歩兵第3連隊第6中隊長、38期)、栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)。「叛乱罪(群衆指揮等)」で、竹嶌継夫・歩兵中尉(40期)、対馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)、中橋基明・歩兵中尉(近衛歩兵第3連隊、41期)、丹生誠忠・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)、坂井直・歩兵中尉(歩兵第3連隊、44期)、田中勝・砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、中島莞爾・工兵少尉(46期)、安田優・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附)、46期)、高橋太郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、46期)、林八郎・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)、渋川善助・。 「無期禁錮」は「叛乱罪(群衆指揮等)」で、 麦屋清済・歩兵少尉、常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)。「禁錮4年」 は今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期)。 7.12日、宣告1週間後、代々木の陸軍刑務所内北西に設置された刑場で5名の銃殺刑が執行された。当日の銃殺刑執行に当たって、隣の代々木練兵場では空砲を使った射撃練習を行い、刑執行の銃声を消した。刑の執行は五人一組で行われ、
の十五人の刑が執行された。元歩兵大尉の村中孝次と元一等主計の磯部浅一は北一輝、西田税の裁判で重要証人となっていたため刑の執行が延期され、北らの裁判が結審し死刑が確定した8.19日に北、西田らと共に銃殺刑が執行された。 井伏鱒二の「荻窪風土記」は、2・26事件について次のように記している。
死刑囚の遺骸について、「二.二六事件と興国山賢崇寺」が次のように記している。
処刑は陸軍省発表で報じられた。それまで民衆は審理経過を一切知らされぬまま、突如この発表を見て大いに驚いた。血盟団事件、5・15事件、相沢事件の裁判は公開で、連日新聞報道されたが、今回は事件鎮圧後何の音沙汰もないままに、いきなりの死刑執行の発表となった。 7.29日、「第2次処断」として禁錮刑が宣告された。無期禁錮は、「叛乱者を利す」で 、山口一太郎・歩兵大尉(歩兵第1連隊中隊長)。「禁錮6年」は、「司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る」で、新井勲・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、鈴木五郎・一等主計(歩兵第6連隊)、「禁錮4年」は、「叛乱者を利す」で、柳下良二・歩兵中尉(歩兵第3連隊)。「叛乱予備」で、井上辰雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校)、塩田淑夫・歩兵中尉(歩兵第8連隊)。 1937(昭和12).1.18日、「第一次背後関係処断」の判決が宣告された。禁錮5年は、菅波三郎・歩兵大尉(37期)、斎藤瀏・予備役少将(12期)。禁錮4年は、大蔵栄一歩兵大尉(羅南歩兵第73連隊、37期)、末松太平・歩兵大尉(39期)。禁錮3年は、満井佐吉・歩兵中佐(26期)、志村睦城・歩兵中尉、志岐孝人・歩兵中尉、福井幸、町田専蔵。禁錮2年は越村捨次郎。禁錮2年(執行猶予4年)は加藤春海。禁錮1年6月は宮本正之。禁錮1年6月(執行猶予4年)は、佐藤正三、宮本誠三、杉田省吾。 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 8.14日、「第二次背後関係処断」の判決が宣告された。死刑は、「叛乱罪(首魁)」で、北輝次郎(一輝)(52歳)、西田税・元騎兵少尉(34歳)。無期禁錮は、「叛乱罪(謀議参与)」で、亀川哲也。禁錮3年は、「叛乱罪(諸般の職務に従事)」で、中橋照夫。 その他判決 は次の通り。死刑は、水上源一(27歳)。禁錮15年は、中島清治・予備役歩兵曹長(28歳)、宮田晃・予備役歩兵曹長(27歳)、宇治野時参・軍曹(歩兵第1連隊、24歳)、黒田昶・予備役歩兵上等兵(25歳)、黒沢鶴一・一等兵(歩兵第1連隊、21歳)、綿引正三(22歳)。禁錮10年は、山本又・予備役歩兵少尉(42歳)。 8.19日、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも処刑は銃殺刑であった。 |
【2.26事件裁判記録】 | |||||||||||||||||
判決は、「謀者17名死刑、69名有罪」となった。
自決は、野中四郎・歩兵大尉(歩兵第3連隊第7中隊長、32歳)、河野寿・航空兵大尉(所沢陸軍飛行学校操縦科学生、28歳)の2名。田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した。 |
【処刑囚の呻吟】 |
叛乱軍の首謀者の一人・磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。 |
【皇道派将校の免官処罰】 |
2.29日、反乱軍の20名の将校が免官となった。3.2日、山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。3.10日、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち荒木、真崎、阿部、林の4名が予備役に編入された。3.30日、陸軍大臣であった川島が予備役となった。4月、侍従武官長の本庄繁が、女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、予備役となった。7月、戒厳司令官であった香椎浩平中将が予備役となった。皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。
また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。 |
【下士官兵の悲劇】 |
以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事・社会党衆議院議員)がいる。 |
【公判記録隠匿の怪】 | ||
民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。 軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。1988年、匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が、遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされた。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は次のように反論している。
田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。 匂坂春平はのちに次のように語っている。
匂坂はひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。 公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988.9月になって判明した。1993年、研究目的で一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し(撮影・複写が禁止されているため)、1998年に出版した。 |
【7.12日処刑の様子証言考】 | ||
「2・26事件介錯人の告白」が処刑の様子を次のように証言している。証言者は、15名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生の進藤義彦(陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で少佐)で「運命の介錯人」を務めた。平成3年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表した。
「観音像」も次のように伝えている。これを要約しておく。
|
【二・二六事件死没者慰霊碑考】 | |
2・26事件を記念し死没者を慰霊する碑が東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。代々木練兵場の跡地で、2・26事件の首謀者である青年将校・民間人17名の死刑執行が行われた所で「二十二士の墓」がある。旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がある。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。 慰霊像の横にある碑文には次のように書かれている。碑文は、客観的な記述を心がけ、重臣や殉職警察官に対しても、慰霊が込められている。
毎年2.26日と7.12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。年2回の法要のうち、2.26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されている(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もある。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っている。池田少尉(求刑は死刑)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心。 佛心會とは、2.26事件で刑死した青年将校の遺族会であり、代表の河野司氏は、自決した河野大尉の実兄。戦後、2.26事件関係の資料を精力的に集め公刊している。毎年、賢崇寺(けんそうじ、東京都元麻布1-2-12、佐賀鍋島家の菩提寺)で合同慰霊式を行っている。神奈川では、牧野前内務大臣を襲撃した湯河原町宮上の旅館・伊藤屋の別館「光風荘」が、現在地元有志によって資料館となって公開されている。襲撃を指揮し病院で自決する河野大尉の遺言、殉職した巡査の焼けただれた万年筆、当時の新聞のコピーなど多数を展示されている。山口では、下関市出身で渡辺教育総監を襲撃した田中勝陸軍中尉の長男への遺言(複写)、写真など十数点を、山口県下関市にある忌宮神社が展示した。青森では、栗原隊として首相官邸を襲撃した対馬中尉の96歳となった実妹のインタビューが新聞に掲載された。「波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」」と述べている。 |
黒幕の陸軍首脳部の取り調べ。まず、香椎浩平戒厳司令官が取り調べを受けた。香椎が黒幕でないにしろこの事件を計画した一味の人間ではないかという疑惑であった。さらに、荒木・真崎両軍事参議官を叛乱幇助の容疑で逮捕。青年将校を擁護する行動をとったことの責任が問われた。だが、結局、香椎は不起訴と決定された。 真崎・荒木らは裁判にまわされたが、無罪判決であった。「陸軍大将が叛乱関係で実刑をうけたとあっては陸軍の名誉にかかわる」という面子を守るためだったと思われる。村中の遺書には、「新井法務官曰く、北、西田は今度の事件には関係なんだね、しかし殺すんだ。死刑は既定の方針だからやむを得ない・・・」との一節がある。 常人班(軍人外)担当裁判長の吉田法務少将は次の書簡を残している。
法的に審理・裁判して、法に基づいて決められたはずの刑量が、実は本省の指示で決定されていた証拠であろう、とある。 |
この後は【皇道派名将録考】に続く。
(私論.私見)