2.26事件史その9、公判史考1 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日
この前は【2.26事件史その6、鎮圧考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その9、公判史考1」を考察する。「二・二六事件 東京陸軍軍法会議録」その他を参照する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【2.26事件その後】 |
1936(昭和11)年の「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について) 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままにできる立場になる。(「あの戦争の原因」) |
【反乱軍部隊の改編】 | ||||||||||||
反乱軍を出した各部隊等では、指揮官の交代等が行われた。近衛・第1師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に待命、予備役編入された。また、各連隊長も、1936年(昭和11年)3月28日に交代が行われた。
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【反乱軍将校の裁判】 | ||||
「古屋哲夫書評/須崎慎一著『二・二六事件』―青年将校の意識と心理―(絶筆)」その他参照) | ||||
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 2.28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3.4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。 特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、1・裁判官の忌避できず、2・弁護人なし、3・非公開、4・上告なしの一審制、という過酷で特異なものであった。極力秘密裡に且つ急いで厳罰を下し事件の影響を雲散させようとする思惑が反映されたものだった。この暗黒裁判のあり方に青年将校たちも憤懣やるかたなかったと云う。 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。 第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。 3.1日、2.26事件に関する軍法会議の緊急勅令を仰ぐ閣議が行われた。陸軍首脳は、叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰させた。出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとした。「上告なし、弁護人なし、非公開、一審制」による迅速処断が打ち合わせされた。 3.4日午前10時、枢密院本会議にて陛下臨御の下に閣議の軍法会議に関する勅命案の諮問を行い、可決の上、議長より上奏し裁可された。これを経て緊急勅令によって東京陸軍軍法会議が設置された。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。
天皇は本庄侍従武官長に次のように指示している。叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言により決した。
法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいとの議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば後に暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。各部屋ごと完全な防音が施された。4月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた。(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された) 裁判にあたり、匂坂春平・陸軍法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎・陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)以下15名が任命された。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。 裁判の事実上の指揮は陸相が握っていた。当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後、軍内部の粛正をすることになる。陸相の下に公判部と検察部に分けられていた。検察部が被告人の起訴、不起訴を決めるが、大臣指揮下であった。公判部の「司法の独立」は建前に過ぎず、任命権者の陸相の操りでしかなかった。即ち、陸相権限でいかようにも処断できる裁判となっていた。こういう体制下で起訴された将校以下123名が将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、担当裁判官も同じく5組に分けられた上で予審にかけられ、事件に直接参加した将校20名が一ヶ月半で判決が下り処刑された。 陸軍省はさらに応援の法務官20数名を増員して予審からあたらせた。バラック建ての中を幾つかの部屋を分け、各法務官が予審官となり被告一人一人を取り調べをしていった。土日祭も休まずに続けられた結果、直接部隊に参加した将校と主要な下士官(曹長など)の予審が終わったのは4月中旬だった。残った下士官と兵は原隊の兵舎1棟に留置されていて、憲兵と検察官が出向いて一通り捜査しただけで、予審には廻わさなかった。予審が終わると調書を添えて検察官に送る。検察官は検討して容疑者の起訴、不起訴を決定する。ここで起訴が決定されれば軍法会議へ回されることになった。 |
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この後は【2.26事件史その8、公判史考2】に続く。
(私論.私見)