2.26事件史その6、鎮圧考1、26-27日


 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日

 この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その6、鎮圧考1、26-27日」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【昭和天皇が鎮圧決断、戒厳令施行を閣議決定】
 午後8時40分、閣議が開かれ戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。この勅令によって戒厳令は施行され、26日から7.18日(叛乱軍将校の処刑後)まで帝都は戒厳令下となった。行政戒厳であった。

 午後9時、後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。
 緊急勅令
 朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項に依り一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ

 御名御璽 昭和十一年二月二十六日

 戒厳令施行については川島(元)陸相が必要なしと主張したのに対し、杉山参謀次長が強く施行を主張した。宮中での川島陸相と杉山参謀次長の対話は次の通り。
杉山  「それは次官の申すとおり、この場合は戦時警備令だけでは不充分です。どうしても戒厳令までいかねばなりません」。
川島  「貴官は戦時警備上奏の時、これで十分目的を果たせると言っていたではないか」。
杉山  「情勢の変化もあります。同時に戒厳を令すれば、警察、通信、集会その他行政権を掌握するという便利があります」。
川島  「・・・・そうかな」。

 この経緯で、統制派が事態収拾の主導権を握ったことになる。
 昭和天皇が、川島義之陸相に「速に事件を鎮定すべく御沙汰」をし、閣僚の辞表を捧呈した後藤文夫首相臨時代理にも「速かに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と指示するなどした。しかるに、陸軍の首脳部は青年将校に同調的で、鎮圧に向けてなかなか本腰を入れなかった。それに痺れを切らした天皇は、陸軍出身の本庄繁侍従武官長をなんども呼び出し、早く鎮圧するように指図した。

【反乱部隊将校代表5名が軍事参議官と会談】
 午後9時、主立った反乱部隊将校の香田、対馬、栗原、村中、磯部の5名が陸相官邸で皇族の宮殿下を除いた荒木、真崎、阿部、林、植田、寺内、西らの軍事参議官と山下少将、鈴木貞一大佐、小藤大佐、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉等立会にて会談したが、 結局は抽象的議論に終り、何ら結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校は山下少将、小藤大佐、鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉まず香田があらためて蹶起の趣旨と「陸軍大臣要望事項」を説明し会見は始まった。 参議官側からは荒木が真っ先に質問し磯部が反論している。
荒木  「大権を私議するようなことを君らが云うのなら我輩は断然意見を異にする、お上がどれだけ御軫念になっているか考えてみよ」。
磯部  「何が大権私議だ。この国家の重大の時局に、国家のためにこの人の出馬を希望するという赤誠国民の希望がなぜ大権私議か。君国のために真人物を推すことは赤子の道ではないか。とくに皇族内閣説が幕僚間に蔓延している時、もし一歩過らば、国体を傷つける大問題が生じる瀬戸際ではないか」。

 さらに村中が皇族内閣不可能説を理路整然と説いた。これには大将連には一言もなかった。磯部に言わせれば「すっかり吾人の国体信念にまいった様子」を見せた。真崎は次のように述べている。
 「緒官は自分を内閣の首班に期待しているようだが、第一自分はその任ではない。またかような不祥事を起こした後で、君らの推挙で自分が総理たることはお上に対して強要となり、臣下の道に反しておそれ多い限りであるので、断じて引き受けることはできない」

 磯部は、遺書となった手記に次のように記している。
 「(この時の様子を、)親が子供の尻ぬぐいをしてやろうという『好意的な様子を看取できた」。
 「この会見はまったくウヤムヤに終わってしまい、どちらもたいした意見を言えず単なる顔合わせになってしまったのは、へきとうの荒木の一言が有害であった。『陛下』『陛下』でおさえられてお互いに口が利けなくなってしまったのだ。もし、同席してた山下少将や満井、鈴木の内誰か一人が奇策をもってこの会見を維新的に有利に導くことが出来たら、天下はこの一夜で決まったのだ・・・」。

 夜、臨時の陸軍省、参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。

 なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。

【東京警備司令部が「戦時警備に関する告諭」発令】
 午後10時25分、東京警備司令部は「戦時警備に関する告諭」を官民両方に対し発した。
 師戦警第一号
 歩兵第三連隊長は本朝より行動しある部隊を併せ指揮し担任警備地区を整備し、治安維持に任ずべし。但し歩一の部隊は適時歩三の部隊と交代すべし。

 師戦警第二号
 歩兵第一連隊長は朝来行動しある部下部隊及歩兵第三連隊、野重砲七の部隊を指揮し、概ね桜田門、日比谷公園西北側角、議事堂、虎ノ門、溜池、赤坂見附、平河町、麹町四丁目、半蔵門を連ぬる線内の警備に任じ、歩兵第三連隊長は其他の担任警備地区の警備に任ずべし。

 これによれば、叛乱部隊は、占拠している地区を警備司令部とともに一括して警備の任にあたらせるお墨付きを得たことになる。この命令によって蹶起部隊は一時的とは言え賊軍(叛乱軍)ではなく官軍になった。ここまでは蹶起部隊にとって事態の進行はまことにもって順調だった。蹶起将校の中には気をよくして歩一連隊長に対し、全面的に指揮下に入らず独自の権限を求めるという自信ぶりを示したりしていた。この情況が戒厳令を境に一変することになる。

2.27日

【叛乱軍の村中と磯部らの方針対立】
 午前1時過ぎ、石原莞爾作戦課長、満井佐吉中佐、三月事件、十月事件の立案者である橋本欣五郎大佐(野戦重砲第二連隊の連隊長)が帝国ホテルに集まり、玄関応接室で善後処置を協議した。橋本は事件発生の報を受けて直ちに旅団長に上京の許可を貰い、この帝国ホテルにやってきた。事態収拾の方策が検討され、「陛下に石原が直接上奏して叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件の下に叛乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政権を樹立し収拾する」方針で意思一致させた。後継内閣について議論が分かれ、石原が皇族の東久邇宮を推し、橋本は建川美次中将、満井は真崎を推した。妥協案として橋本が山下英輔海軍大将を推し、「まぁそれでいいだろうと」他の二人も納得した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見を一致させた。

 山下への工作を行うとともに叛乱軍の村中を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せて撤退を勧告し、村中はこれを了承して帰った。村中が帰って同志らに「皇軍相撃ちはとにかくいけない」云々の説得をするが、磯部らが大反対した。「皇軍相撃ちがなんだ。同士討ちは革命の原則じゃないのか」などと激しく反論し、この案は蹴られた。一方、石原も憲兵隊司令部に帰り、協議の内容を杉山参謀次長に報告したが「陛下に陸軍よりかくの如き事項を要望書に奏上するは断じて不可なり」と一蹴されている。結局この密談は何の成果ももたらさなかった。

【戒厳令敷かれる】
 午前2時40分、宮中聞かれた枢密院(すうみついん)会議で戒厳令の施行が決定され、陛下に奏上し裁可をいただいた。午前3時50分、緊急勅令によって公布された。これにより、東京全市が、治安維持のため軍事力による警戒・管理の下におかれることになった。侍従「くれぐれも叛乱軍に悪用されないように慎重に行って欲しいとの陛下のお言葉です」。枢密院会議とほぼ同時刻、岡田内閣が正式に内閣総辞職を決定した。後藤内相兼臨時首相代理が閣僚の辞表をとりまとめて天皇に奉呈し、聖旨により後継内閣組閣まで政務を続けることになった。

 天皇は、一番重い責任がある川島陸相の辞表文が他の閣僚とほぼ同内容であることを指摘し、虎ノ門事件の責任者後藤新平の例をとって激しく非難した。この一件は、天皇に陸軍を不信させ、陸軍が事態を収拾できないなら、自ら近衛師団を率いて鎮圧するという決意を固めさせたと思われる。これは重臣の大反対で実現されなかったが、遠藤喜一海軍侍従武官(後の二代目総力戦研究所長)が次のように回想している。遠藤は、昭和10年春から三年間侍従武官として側近に奉仕していた。
 「事件が起こりました当時、先輩の武官は御差遣のため不在中であり、海軍武官として私一人が宮中に留まっておりました。非常に重大な事件でありますので、私どもはまことに「恐懼措く所を知らず」という状態で、折に触れて御用を奉仕するため、御側に出たのであります。今上陛下は、平素はまことに穏やかな御方で在らせられる。しかし、その時は私どもはある戦慄きを感ずるような、雄々しい凄味を帯びた御姿でありました。私どもは、陛下は神ながらの天職を犯す者に対する熱烈真剣な御気持をお有ちになっていると拝した次第であります」。
 午前3時、戒厳令が発令され、九段南の憲兵司令部に戒厳司令部が設立された。手狭なため、午前6時、九段の軍人会館(現・九段会館)に移動した。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固かった。この時点で、警視庁はまだ反乱軍に占拠されていた。そのため、反乱軍の制圧は軍と憲兵隊の担当とし、警察は治安維持に専念する。
 午前4時40分、「戒厳司令部作戦命令第1号」が発布され、警備司令部はそのまま戒厳司令部となった。戒厳司令官は香椎中将、安井参謀長もそのまま戒厳参謀長となった。参謀本部の石原莞爾作戦課長なども戒厳参謀となり、統制派による事態収拾第一歩が刻まれた。

【安藤隊が麹町地区警備隊に編入される】
 早朝、安藤隊が、 戒作命第一号により麹町地区警備隊に編入される。麹町地区警備隊長となった小藤第一連隊長の指揮下に入り、その命令で現・国会議事堂(当時はまだ工事中)へと移動した。事態は決起将校らに有利に働いているように見え、安藤もそのように考えていた。が、事態は安藤らの与り知らぬところで、昭和天皇の強い意志によって封じ込め、然る後に鎮圧に動き出そうとしていた。

【岡田首相が官邸から救出される】
 早朝、岡田啓介首相の生存を知った首相秘書官らは、首相を弔問客に変装させて官邸から救出に向かった。午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。葬式の弔問客にまぎれて首相官邸から脱出することに成功した。

【昭和天皇が奉勅(ほうちょく)命令親裁】
 午前8時20分、参謀本部の杉山次長が拝謁し、奉勅(ほうちょく)命令が上奏され、昭和天皇は即座に裁可した。
 「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊(師団長)ノ隷下ニ復帰セシムベシ」(決起部隊を占拠地から撤収させ、もとの部隊に帰せ、との意)。

【昭和天皇と本庄繁侍従武官長の問答13回】
 本庄繁侍従武官長は、拝謁奏上の折、昭和天皇と次のような問答をしている。
 二十七日午後、本庄武官長を召された天皇は、これについて彼の意見を求められている。
本庄  「動をおこしました彼らの行為は陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、統帥権を犯すの甚だしきものと心得ます。その罪もとより許すべからざるものなるも、その精神にいたりては君国(くんこく)を思うに出でたるものにして、必ずしも咎(とが)むべきにあらず。せめて決起した将校の精神だけでも何とか認めてもらいたいと存じます。戒厳司令官においても武官長と同意見であろうと考えます」。
天皇  「彼らは朕(ちん)ガ股肱(ここう)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、その精神ニ於テモ何ノ恕(ゆる)スベキモノアリヤ。朕が最も信頼せる老臣をことごとく倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」。
本庄  「仰せの如く 老臣殺傷は軍人として最悪の行為であることは勿論でございまするが、しかし、たとへ彼らの行動が誤解によって生じたものとしても、彼ら少壮将校としては、かくすることが国家のためなりとの考えに発するものと考えます 」。
天皇  「もし、そうだとしても、それはただ、私利私欲のためにせんとするものにあらずといいうるのみ。戒厳司令官が影響の他に及ぶことを恐れて、穏便にことを図ろうとしていることはわかるが、時機を失すれば取りかえしのつかぬ結果になるぞ、直ちに戒厳司令官を呼んで朕の命令を伝えよ、これ以上躊躇するならば 朕みずから近衛師団を率いて出動する 」。
本庄  「 そのように御軫念をわずらわすことは恐れ多き限りでございます。早速、戒厳司令官に伝えて決断を促すように致します 」。

 本庄日記には次のような一節を記している。
 「この日、陛下には鎮圧の手段実施の進捗せざるに焦慮(しょうりょ)あらせられ、『朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定に当たらん』と仰せられ真に恐縮にたえざるものあり」。

 奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。

 本庄繁侍従武官長は、本庄日記に次のように記している。
「戒厳司令官はかくして武力行使の準備を整えしも、なお、なるべく説得により鎮定の目的を遂行することに努めたり」と記している。
 奉勅命令をきっかけに事態が一気に緊迫していく。決起部隊は、天皇の裁可により自分たちが反乱軍と位置づけられたこと、陸軍上層部が頼りにならず見放されたことを知った。

【警視庁が神田錦町署に本部を設置】
 午前9時半、警視庁は神田錦町署に本部を設置した。結果的に、警察は電信も電話も機能させることができた。これが治安維持に役立った。

【真崎大将が青年将校たちが占拠している陸軍大臣官邸で問答】
 午後、陸軍皇道派の中心人物・真崎大将が、青年将校たちが占拠している陸軍大臣官邸を訪れた問答している。真崎大将が首相となって新しい内閣をつくってくれるものと信じ込んでいた青年将校たちは言った。「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見としてご上奏お願い申したい」。ところが真崎大将は、こう答え、部隊の退去をほのめかすそぶりさえ見せた。「君らがさよう言ってくれることはまことに嬉しいが、いまは君らが連隊長の言うことを聞かねば、なんの処置もできない」。真崎大将の支持をあてにしていた青年将校たちの当てが外れた。

 真崎はこの青年将校との話し合いについて次のように論(さと)したと、川島陸軍大臣に報告している。「戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反する時は錦旗(きんき)に反抗することとなる。万一しかる場合においては、自分は老いたりとはいえども陣頭にたってお前たちを撃つぞ」。
 
 以降、青年将校たちの計画が随所で瓦解して行くことになる。

【安藤と同期生の宇多中尉問答】
 同期生の宇多中尉が「安藤大尉と会う」。
 「(27日)赤坂幸楽の門に入って行った。門の両側には軽機を据えて雪の中に二等兵が伏射ちの姿勢で構えていた。私はツカツカと進むと、『 安藤中隊長の同期生宇多中尉が、けさ香港から帰ったと伝えてくれ』」 と 申し出た。しばらく待たされる間もなく伍長が迎えに出てきた。幸楽の中は大変だった。だがそれは暗い恐怖にみちたなうなものではなく、秋季演習か大演習の後で我々がかつて大料亭に宿営したときのような混雑であった。前垂れがけの女中が大勢、牛肉の大皿を持って右往左往しているという風景であった。私は玄関右わきの応接室に通されて、何ともいえぬ感慨でそれを見やっていると、『 よお、帰ったか?』と 安藤が軍装のままでヌッと入って来た。軍刀は脱しているが、双眼鏡、拳銃をつけて昨暁事件遂行時のそのままの服装である。ものおだやかな安藤の眼が、さすがに少し興奮の色を浮べて、赤銅ブチのメガネの中から私を見つめた。そしてイスにかけた。『 どうしたんだ』。われながらかすれた声で私が尋ねると、『 いや、とうとうやった。仕方がなかったんんだ・・・・・・』。沈痛な語調で安藤はボソリといった。『 それで、どうするんだ?貴様らの今後は ? 』。『どうもこうもあるもんか。 おれたちは満州の守備に行く。 後はチャンとなるだろう・・・』。安藤大尉のことばには、嘘、いつわりも誇張もミジンも感じられなかった。彼は自分たちの行動が、大御心にそい得ていることを確信している風で、熟慮断行の後の落着きをもって、『 こん夜、秩父宮もご帰京になる。弘前、青森の部隊も来ることになっている・・・・』と、ことば少なに模様を語るのであった」。

【昭和天皇が川島陸相に鎮圧指令】
 午後0時45分、天皇は、拝謁に訪れた川島陸相に対して、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」、「朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮定に当たらん、馬を引け」と強い意志を表明し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。御意を受け、戒厳令が公布されることになった。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命された。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。

【決起部隊と海軍軍令部の密談】
 午後1時、安藤隊が新国会議事堂附近に移動し待機する。待機中、 安藤大尉に対して、二名の憲兵が来て、一刻も早く 下士官兵を帰隊させることを求めたが、安藤大尉はこれに応ぜず次のように反駁している。
 「 陛下の赤子を使用することは申しわけないが、今回の蹶起は鳥羽伏見の戦いと同じで最後の一兵までやる覚悟である。ここは何トンの爆弾が落ちても平気である。将校も兵も一心同体なのだ」。

 前聯隊長井出大佐 ( 現参謀本部軍事課長 ) が訪れる。安藤と会談中、傍にいた小河軍曹がいきなり大佐を射殺するといい出し大尉に止められる一幕があった。

【決起部隊と海軍軍令部の密談】
 午後2時。海軍軍令部の電話が鳴った。電話の相手は、クーデターを企てた決起部隊だった。決起部隊は、なぜ海軍に接触してきたのか。実は、海軍の内部にも、決起部隊の考えに同調する人物がいた。小笠原長生、元海軍中将。小笠原は天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にあった。事件発生直後、小笠原は、軍令部総長・伏見宮を訪ね、決起部隊の主張を実現するよう進言している。海軍は、天皇の鎮圧方針に従う裏で決起部隊ともつながっていた。軍事史を研究・防衛大学校 名誉教授・田中宏巳氏は次のように評している。
 「海軍は支持してくれる。部隊ごとに協力してくれるという錯覚を反乱側は持っていたのではないかと思います。(決起部隊は)ゆくゆくは天皇が自分たちの味方をしてくれたらそれで決まるわけですが、天皇が味方になってくれるという裏には、小笠原の存在は私は多分幾分かあったと思います」。

 海軍に接触を試みてきた決起部隊は、“ものの分かる”海軍将校に決起部隊の拠点に一人で来るよう求めた。派遣されたのは海軍・軍令部の中堅幹部・岡田為次中佐。岡田がそこで語った言葉が極秘文書に記録されている。

 「君たちは初志の大部分を貫徹したるをもって、この辺にて打ち切られては如何」。

 岡田中佐は、決起の趣旨を否定せず、相手の出方を見極めようとしていた。決起部隊と面会を続けた岡田為次中佐は、以下の文面の交渉決裂報告をしている。

 「交渉の結果は、決起部隊の主旨と合致することを得ず。決起部隊首脳部より『海軍をわれらの敵と見なす』との意見」。

 このときすでに天皇の命令を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍。その事実を伏せたまま、このあとも決起部隊から情報を集めていく。決起部隊は、期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。

 「海軍当局としては直ちに芝浦に待機中の約三ヶ大隊を海軍省の警備につかしめたり」。

【陸相官邸で真崎、西、阿部の軍事参議官が反乱軍将校と会談】
 午後2時、陸相官邸で真崎、西、阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。真崎大将をもって事態を収拾しようとした叛乱軍は「真崎大将に陸相官邸に来てもらいたい」と申し出て、真崎が赴こうとすると、「真崎大将単独で行くのは後日紛議の種になる」と阿部、西の両大将が同行したことにより三者となった。叛乱軍将校ほぼ全員と山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉を加えて会見が始まった。

 この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。野中大尉は、「事態の収拾を真崎大将にお願いします。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致意見としてご上奏願いたい」と述べた。

 これに対し、真崎大将らは「時局収拾の道は維新部隊が速やかにご統率のもとに復帰するにあるのみ。戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反するときは、錦旗に反抗することになるぞ・・・。早く撤収あるのみだ」、「我々軍事参議官は、お上のご諮問ありてはじめて働くものにして他に職種なし。ただ軍の長老として座視するに忍びず道徳的に働くのみである。事態の収拾には努力する」と述べ、青年将校らに原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と返答している。磯部の獄中文書は次のように記している。
  「この会見がとりとめのないものに終わったのが維新派敗退の大きな原因だった。吾人はなんとしても正義派参議官に食いつき、真崎、川島、荒木などにダニのごとく喰いついて離れなければよかったのだ」。

【海軍の連合艦隊第一艦隊主力が東京湾お台場沖に待機】
 午後4時。戦艦長門をはじめとする連合艦隊第一艦隊の主力が東京湾お台場沖に到着した。「鎮定されない場合は、遺憾ながら国会議事堂に砲撃を加えよ」。この命令のもと、長門の主砲の照準は国会議事堂に定められた。

【反乱部隊の宿所】
 午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。

【秩父宮が弘前より上京、上野着】
 午後5時、秩父宮が弘前より上京、上野着。コレニツキ、「秩父宮は決起軍の安藤からの要請で上京したのではないか? その動きを海軍が傍受し、それを平泉に伝え、上野で秩父宮を足止めさせたが、このときに、(秩父宮を諦めさせるために)ある条件が出されたのではないか?」トイワレテイル。
 「NHKが二二六事件で、海軍が事件の一週間前から陸軍の決起部隊の動静を傍聴していた事実を公開。海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしたとも」ガツギノヨウニシルシテイル。
 「実は昭和天皇の実子と、秩父宮の実子は同年生まれで、前者は12月23日生まれ、後者は11月25日生まれだった。事件直後、この東京湾の海軍の艦隊が、ある人物(まだ少年)をバチカンまで運んでいる。その人物は、バチカンに残されていた、ビザンチン帝国の亡命政権の最後のローマ皇帝になり、ヒトラーを第三帝国の総統に指名していた。その名前は、ツグノ宮和仁(カズヒト)。私は、この話を、上智出身でバチカンで17年学んだ、中山法元氏から聞いた。その人物はアインシュタインともにアメリカに亡命し、プリンストン大学で学び、その最後は、現上皇の明仁陛下が即位した翌年、平成二年にアメリカから帰国し、大宰府にいったあと大分で亡くなった。別の知人たちがいうには、比叡山の飯室不動山の酒井阿闍梨によって永代供養に処されたという。裕仁を海軍は、圧倒的に支持していた。それに対し、北一輝の「国家改造法案」に刺激され「昭和維新、尊皇斬奸」を叫び「天皇中心、天皇の親政による国家」を求めたのが、陸軍青年将校で、彼らにとっては昭和天皇は物足りない存在だったのだろう」。

【決起将校首脳部が、陸相官邸で真崎、阿部、西の三人の軍事参議官と会談】
 この頃、決起将校首脳部は、陸相官邸で、真崎、阿部、西の三人の軍事参議官と会談した。ここで野中四郎大尉が、「事態の収拾を真崎将軍に御願ひ申します。この事は全軍事参議官の全青年将校との一致として御上奏を御願ひ申したい」と述べた。しかし、真崎の答えは「君らが左様云つてくれることは誠にうれしいが、今は君らが聯隊長の云ふことをきかねば何の處置もできない」。このような調子で結局会談はさして成果の上がらぬまま終わった。後に磯部は次のように述懐している。
 「この会見は極めて重大な意義をもつていたのに全くとりとめのないものに終つた事は、維新派敗退の大きな原因になつた。吾人はシッツカリと正義派参議官に喰ひついて幕僚を折伏し、重臣元老に対抗して戦況の発展を策すべきであつた。真崎、阿部、西、川島、荒木にダニの如くに喰ひついて脅迫、扇動、如何なる手段をとつてもいゝから之と離れねばよかつたのだ」。

 事実、この時すでに事態は討伐へと向かっていた。というのは、陸軍の長老(荒木、真崎など)とは別に、参謀本部、特に石原莞爾や武藤章などは最初から決起部隊には強硬姿勢であり、杉山参謀次長も荒木、真崎らとは違った意見を持っていた。決起部隊のこの時の踏ん張りの弱さが形勢を損じて行くことになる。

【安藤中隊が赤坂幸楽に宿営】
 午後6時、陸相官邸で開催された軍事参議官会議の情報が入ってきた。事態は蹶起部隊に有利に展開中とのことに安藤大尉は満面に笑みをたたえて喜んだ。安藤輝三大尉は部下中隊に訓示と命令を次のように下達した。
 「 小藤大佐の指揮下に入り、中隊は今より赤坂幸楽に宿営せんとす・・・・」。
 
 安藤中隊長を先頭に、中隊はラッパを吹きながら新国会議事堂から出る。安藤中隊は粛々として首相官邸の坂を山王下へ下って行った。

 6時30分、料亭幸楽 に入る。日枝神社の側にあるこの料亭はすでにほとんどの従業員が避難しており、女将と少数の者だけが残っていた。幸楽へは決起の趣旨に賛同した様々な人が激励に訪れ、差し入れなども行われた。この夜は何事もなく、極めて平穏―決起部隊にとって穏やかな時を過ごした。

 大広間において安藤大尉が次のように状況説明している。
 「去る二月二十六日蹶起した各部隊は、夫々の場所において当初の目的を達成した。これから秩父宮が上京され 上層部に説明を行われるので、事態は益々よくなるから全員心配せず任務を続行してもらいたい 」。

 午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。
 「赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。幸楽に続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。事件以来部外にあって愛国団体を動員するはずの渋川善助は前日から安藤部隊にもぐり込んでいた」。

【昭和天皇の苛立ち】

 天皇が事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に鎮圧を急ぐよう求めた。陸軍上層部が新たな動きを見せる。


【昭和天皇の怪電話?】
 「ヒロヒト、ヒロヒト……の怪電話」。
 昭和天皇が情報収集のため、騒動のさなかに麹町署(現・千代田区)に電話をかけたという驚くべき証言が存在する。それは、27日の夜8時のことだった。署長室の非常電話が鳴ったので、たまたま28歳の青年巡査、大串宗次が受話器を取った。すると、「ヒロヒト、ヒロヒト……」という声がした。なにをいっているのだろう。大串は理解できず、「もしもし……どなたですか」と繰り返し訊ねたが、電話が切れてしまった。数秒後、ふたたび電話が鳴ったので取ると、別人の声で、「いま、日本で一番偉いお方がお出になる。失礼のないように」という。大串は「この非常時に何を」といささかムッとなりながら、さきほどの声の人物からの質問に答えた。「鈴木侍従長は生きていますか」。「ハイ生きています」。「[岡田啓介]総理はどうしていますか」。「多分、生きているでしょう」。大串は、電話の相手がまさか昭和天皇だとは思わなかったらしい。ところが、受話器の向こうから、「チンは誰と連絡をよればよいのか」、「チンは一体、誰に聞けばよいのか」というつぶやきが漏れ聞こえてきた。チン? あっ、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」の「朕」……。つまり、電話主は天皇だ!ようやく事態を把握した大串は、全身に冷水を浴びせられたような戦慄を覚えた。そうとは知らず、昭和天皇はそのまま電話を続けた。「それではチンの命令を伝える。総理の消息をはじめとして情況をよく知りたい。見てくれぬか」。大串はさきほどまでのように対応できず、名前を訊かれても「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だった。なお、このエピソードには後日談がある。1950年、大串が警部に昇進して皇居に赴いたおり、昭和天皇から「このなかにコウジマチコウツウはいないか」と訊ねられたという。できすぎな気がしないでもなく、『昭和天皇実録』にも採用されていないが、証言のひとつとしてここに紹介しておく。
 (以上、週刊文春編集部「天皇の庶民体験」『昭和天皇の時代』より)

【陸軍・真崎大将と石原莞爾大佐の秘密会談】
 午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍・軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。決起部隊が、クーデター後、トップに担ごうとしていた陸軍・真崎甚三郎大将が、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出したという情報だった。二人が話し合ったのは、青年将校らの親友を送り込み、決起部隊を説得させるという計画だった。戒厳司令部は、この説得工作によって事態は収束するという楽観的な見通しをもっていた。そして、万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていたことも明らかになった。「要求に一致せざる時は、一斉に攻撃を開始す」。
 夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った。

【決起部隊の磯部が陸軍・近衛師団の山下誠一大尉に秘密折衝】

 攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。

 「本日午後九時頃 決起部隊の磯部主計より面会したき申込あり」
 「近衛四連隊山下大尉 以前より面識あり」

 決起部隊の首謀者のひとり、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきた。磯部の2期先輩で、親しい間柄だった山下。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。

磯部 「何故に貴官の軍隊は出動したのか」。
山下 「命令により出動した」。
山下 「貴官に攻撃命令が下りた時はどうするのか」。
磯部 「空中に向けて射撃するつもりだ」。
山下 「我々が攻撃した場合は貴官はどうするのか」。
磯部 「断じて反撃する決心だ」。
山下 「我々からの撤退命令に対し、何故このような状態を続けているのか」。
磯部 「本計画は、十年来熟考してきたもので、なんと言われようとも、昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」。

 天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないとも述べた。山下は説得を続けるものの二人の溝は次第に深まっていく。もはやこれまでと悟った山下。ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。


【幸楽、山王ホテルの食料調達】
 この日、幸楽では10数人の中国人コックが逃亡したため、てんやわんやの忙しさとなった。午後、大量の酒が届くと、兵士は飲めや歌えの大宴会を始める。夜6時頃、部隊はどこかに引き揚げていった。深夜、背広姿の男達がやってきて80円を渡し、「国会議事堂の部隊は何も食べていないので、弁当を至急作ってくれ」と注文があった。今からでは無理だと断ると、そのうちの1人が20円持って出て行き、まもなく米俵3俵を手配してきたため、やむなく注文を受けた。幸楽同様、27日の晩に兵士が乗り込んできた山王ホテルでは、28日も大量のおにぎり作りをしていたた。山王ホテルの女給の証言が残っている。
 「大広間の方では、みんなお酒を飲んで、大きな声でいろんな歌を歌っていました。そのうち、『思いが通らなくて、俺たちはいよいよ帰らなければならない』と言って、みんながボロボロ涙をこぼしてしまったのはビックリしました」(「二二六事件画報」より、伊藤葉子さんの証言)

【新井中尉が安藤大尉を訪問、安藤隊偵察】
 午後10時頃、歩三の新井中尉が安藤大尉を訪問、安藤隊偵察。
 「(27日)夜の十時頃であろう。わたくしは幸楽の安藤中隊の模様を見に行くよう、聯隊長から命令を受けた。今井町から福吉町までは電車通り沿い、それから左に切れて暗い道を真直に山王下に抜け、再び赤坂見附へ出る電車道路を幸楽に歩いて行った。事件勃発後かれらと顔を合わすのは、わたくしはこれが初めてである。

 幸楽
 門の所には衛兵所があったが、わたくしは案じたことのほどもなく通過できた。同行者には学校配属将校の一大尉がいた。安藤と会ったのはソファーのある応接間である。「 やあ、御苦労さん 」。安藤は機嫌がよかった。そしてかれの口から鈴木侍従長殺害の場面が語られた。「 どうだ新井、聯隊では俺らを凱旋将軍のように迎えるだろうな 」。わたくしは苟且にも虚言はつけなかった。「 そんな考えでいては間違いですよ。現に安藤さんの部隊では地区隊と云ってますが、わたくしの方では占拠部隊と云ってます。勿論 占拠部隊と云っても、敵じゃないことは聞いてますが・・・・・でも地区隊の方が友軍であるのはハッキリしています」。わたくしは何の気なしに云ったのだが、これで安藤の態度がガラッと変わった。かれは気魄で軍を引摺ろうとする、もとのやり方に帰ったのである。「 近衛師団のやつらが俺の方に機関銃を向けている。不届きだ。中隊の者、みんな聞け。われらの希望達成の為には、われわれは飽く迄頑張らにゃならん。動作はもっと機敏に、言語はもっと活潑厳正に、一以て百にあたるの気概が必要である 」。安藤はわたくしの見ている前でこんな注意を部下に与えた。「 安藤さん、そういきり立っても仕方がないじゃありませんか。それよりも地区隊の小藤大佐の命令を守ることじゃありませんか 」。わたくしの言葉に、安藤はキョトンとしている風であったが、それが何の為かはわたくしにはわからなかった。同行した天野大尉は、陸軍大臣の告示を盾に、もう帰らないかと説得したが、之以外は大御心に俟つとある以上それにはあたらぬ説得であった。

 幸楽を出たわたくしは、帰宅する天野大尉とその門前で別れた。聯隊本部への道すがら、山王ホテルの丹生中尉とも、わたくしはこの際連絡をとろうと立ち寄った。かれらの警戒は非常に厳重であった。「 歩三の同期生の新井中尉が来たと、丹生中尉に伝えてくれ 」と 歩哨に申し入れると、「 暫らく待て 」と 言残して一名が中に這入って行った。その態度は軍の兵卒が将校に対する態度ではない。その上後に残った二名の歩哨までが、着剣した銃をわたくしに擬しているのである。将校としてわたくしは屈辱を感じた。「 無礼者 」と 叫びたい気持ちで、胸の中がワクワクした。しかし怒ってしまっては連絡の任務も果せぬと思い、暫らく二人の歩哨の間に立たされていた。五分程経ったろう、中から下士官が迎えに来て、わたくしは立派な応接間に通された。ものの一分とも待たぬうちに、何処からともなく丹生中尉が姿を現した。かれは士官学校の同期生だが、十月事件にも関係せずこうした事をする人間とは、わたくしは殆ど思わなかった。「 やあ、どうだい 」。同期生の気安さで、二人はこんな挨拶から始まった。自分は部下中隊を指揮して福吉町に来ているが、それは行動部隊を敵として来ているのではなく、同じ第一師団長の隷下にある旨を告げ、なお今後も連絡を密にする必要があると語った。そして最期に冗談を混えてこう云った。「 貴様らは随分贅沢だな。ホテルや料理屋に宿営して・・・・・」。「 まあそう云うなよ。地区隊命令でこうやっているのだから・・・・」。「 それは知っている。俺の方は電話局だよ 」。「 うんそうか、気の毒だな。共産党の蜂起に備えているんだが、左翼は何もできまい 」。先刻安藤の所で何気なしに聞いていたが、かれらは共産党の蜂起に備え、警備を命ぜられていたのである。これは事件関係の将校以下殆ど全員がそう信じていたのである。かれらがこのことに疑問を持ち始めたのは二十八日の夜半からである」。
 歩三の新井中尉が来て安藤に撤退をすすめるのに香田がいかって、「 奉勅命令がどうしたというんだ! そんなものはにせものだ、くだらんことをいうな! 」と叱りつけた。渋川は「幕僚が悪いんだ、彼らをやっつけてしまわねばダメだ」と怒号する。そんな空気のところへ野中大尉が入ってきた。野中はさきに部隊を代表して軍事参議官の最後の回答を求めに行ってきたのである。野中は人々の興奮を尻目に、至極おちついていた。「一切を委せて帰ることにした」。「委せてかえる----それはどうしてですか」。渋川が鋭く詰めよった。「兵隊がかわいそうだから」と野中の声は低かった。渋川はなおも二言三言くってかかっていたが、「何もかも幕僚が悪いのだ! 幕僚ファッショをやっつけてしまわねばダメだ」と再び怒号した。

 この十数人の集まった幸楽の応接間は激怒と悲憤のうずまきだった。村中はちょうどここに居合せて、じっとこの様子を見ていた。彼はこうなりゃ決裂だ、戦争だ戦争だと叫びながら部屋を飛び出して陸将官邸にかえった。そして磯部に、「磯部やろう、安藤も坂井も絶対に退かんといっている。安藤部隊の気勢はあがっている、団結は固い。幸楽附近は敵の攻撃をうけそうな気配だ、もう、こうなったら後へは引けん、やろう」。磯部は二つ返事で賛成した。そして首相官邸に走った。こでは栗原も幸楽からかえっていて、お互いにやりましょうと闘志をはっきりした。磯部はもう討死の覚悟だった。田中部隊それに栗原から一小隊をかりてみずから閑院宮邸附近に進出して、この台地の一角をおさえた。夜にな入ると、磯部は常盤、鈴木両部隊とともに陸相官邸を守った。坂井と清原の部隊が陸軍省と参謀本部附近、栗原、中橋が首相官邸、安藤が幸楽、丹生が山王ホテル、野中と村中は予備隊として新議事堂にそれぞれ位置してすっかり戦闘態勢を整えた。

 この日の夕方頃には幸楽、山王下附近には物見高い群衆も集まって雑とうをきわめていた。栗原中尉が乗用車の上から大声で市民に演説していた。「 諸君、私たちは わが国の現状を見るにしのびず 止むなくたち上ったのであります。この非常時局に元老、重臣、官僚、政党、財閥等の いわゆる特権階級が私利私慾をほしいままにし、国政をみだり国威を失墜している。われわれは真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために特権階級の打倒に立ったのであります。諸君、わが国の軍隊は天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。私たちは国防の第一線に立って笑って死にたいのであります。それには何よりも後顧の憂いをとり除かなくてはなりません。それがどうでしょう、農村漁村はいまや窮乏のどん底にあります。こんなことでは兵隊たちは安心して死んでいかれません。われわれは立ち上がりました。今こそわれわれは昭和維新を実現しなければなりません。われわれはこれがための挺身隊であります」群集は拍手を送る。麻布三聯隊万歳、大日本帝国万歳のどよめきが群衆の中に湧き上がっていた。こうして、彼らはこの一戦に討死を期して敵の攻撃を待った。

 だが、この間、なお説得がつづけられていた。一触即発の険悪な情勢の中に、冬の夜は更けていった。(大谷敬二郎「二・二六事件」から

 この後は【】に続く。




(私論.私見)