2.26事件史その6、鎮圧考1、26-27日 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日
この前は【2.26事件史その5、決起その後考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その6、鎮圧考1、26-27日」をものしておく。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【昭和天皇が鎮圧決断、戒厳令施行を閣議決定】 | ||||||||||
午後8時40分、閣議が開かれ戒厳令施行が閣議決定された。当初警視庁や海軍は軍政につながる恐れがあるとしてこの戒厳令に反対していた。しかしすみやかな鎮圧を望んでいた昭和天皇の意向を受け、枢密院の召集を経て翌27日早暁ついに戒厳令は施行された。この勅令によって戒厳令は施行され、26日から7.18日(叛乱軍将校の処刑後)まで帝都は戒厳令下となった。行政戒厳であった。 午後9時、後藤文夫内務大臣が首相臨時代理に指名された。後藤首相代理は閣僚の辞表をまとめて天皇に提出したが、時局の収拾を優先せよと命じて一時預かりとした。
戒厳令施行については川島(元)陸相が必要なしと主張したのに対し、杉山参謀次長が強く施行を主張した。宮中での川島陸相と杉山参謀次長の対話は次の通り。
この経緯で、統制派が事態収拾の主導権を握ったことになる。 |
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昭和天皇が、川島義之陸相に「速に事件を鎮定すべく御沙汰」をし、閣僚の辞表を捧呈した後藤文夫首相臨時代理にも「速かに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と指示するなどした。しかるに、陸軍の首脳部は青年将校に同調的で、鎮圧に向けてなかなか本腰を入れなかった。それに痺れを切らした天皇は、陸軍出身の本庄繁侍従武官長をなんども呼び出し、早く鎮圧するように指図した。 |
【反乱部隊将校代表5名が軍事参議官と会談】 | |||||||
午後9時、主立った反乱部隊将校の香田、対馬、栗原、村中、磯部の5名が陸相官邸で皇族の宮殿下を除いた荒木、真崎、阿部、林、植田、寺内、西らの軍事参議官と山下少将、鈴木貞一大佐、小藤大佐、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉等立会にて会談したが、
結局は抽象的議論に終り、何ら結論は出なかった。蹶起者に同調的な将校は山下少将、小藤大佐、鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉まず香田があらためて蹶起の趣旨と「陸軍大臣要望事項」を説明し会見は始まった。
参議官側からは荒木が真っ先に質問し磯部が反論している。
さらに村中が皇族内閣不可能説を理路整然と説いた。これには大将連には一言もなかった。磯部に言わせれば「すっかり吾人の国体信念にまいった様子」を見せた。真崎は次のように述べている。
磯部は、遺書となった手記に次のように記している。
夜、臨時の陸軍省、参謀本部がおかれた憲兵本部で、橋本欣五郎大佐が「陛下に直接奏上して反乱軍将兵の大赦をお願いし、その条件のもとに反乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政府を樹立して時局を収拾する」ことを提案すると、石原莞爾大佐はこれを受け入れ、ただちに杉山元参謀次長の了解をうけた。 なお当時、東京陸軍幼年学校の校長だった阿南惟幾は、事件直後に全校生徒を集め、「農民の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と、極めて厳しい口調で語ったと伝えられている。 |
【東京警備司令部が「戦時警備に関する告諭」発令】 | ||||
午後10時25分、東京警備司令部は「戦時警備に関する告諭」を官民両方に対し発した。
これによれば、叛乱部隊は、占拠している地区を警備司令部とともに一括して警備の任にあたらせるお墨付きを得たことになる。この命令によって蹶起部隊は一時的とは言え賊軍(叛乱軍)ではなく官軍になった。ここまでは蹶起部隊にとって事態の進行はまことにもって順調だった。蹶起将校の中には気をよくして歩一連隊長に対し、全面的に指揮下に入らず独自の権限を求めるという自信ぶりを示したりしていた。この情況が戒厳令を境に一変することになる。 |
2.27日 |
【叛乱軍の村中と磯部らの方針対立】 |
午前1時過ぎ、石原莞爾作戦課長、満井佐吉中佐、三月事件、十月事件の立案者である橋本欣五郎大佐(野戦重砲第二連隊の連隊長)が帝国ホテルに集まり、玄関応接室で善後処置を協議した。橋本は事件発生の報を受けて直ちに旅団長に上京の許可を貰い、この帝国ホテルにやってきた。事態収拾の方策が検討され、「陛下に石原が直接上奏して叛乱軍将兵の大赦を請願し、その条件の下に叛乱軍を降参せしめ、その上で軍の力で適当な革新政権を樹立し収拾する」方針で意思一致させた。後継内閣について議論が分かれ、石原が皇族の東久邇宮を推し、橋本は建川美次中将、満井は真崎を推した。妥協案として橋本が山下英輔海軍大将を推し、「まぁそれでいいだろうと」他の二人も納得した。山本英輔内閣や蹶起部隊を戒厳司令官の隷下にいれることで意見を一致させた。 山下への工作を行うとともに叛乱軍の村中を陸相官邸から帝国ホテルに呼び寄せて撤退を勧告し、村中はこれを了承して帰った。村中が帰って同志らに「皇軍相撃ちはとにかくいけない」云々の説得をするが、磯部らが大反対した。「皇軍相撃ちがなんだ。同士討ちは革命の原則じゃないのか」などと激しく反論し、この案は蹴られた。一方、石原も憲兵隊司令部に帰り、協議の内容を杉山参謀次長に報告したが「陛下に陸軍よりかくの如き事項を要望書に奏上するは断じて不可なり」と一蹴されている。結局この密談は何の成果ももたらさなかった。 |
【戒厳令敷かれる】 | |
午前2時40分、宮中聞かれた枢密院(すうみついん)会議で戒厳令の施行が決定され、陛下に奏上し裁可をいただいた。午前3時50分、緊急勅令によって公布された。これにより、東京全市が、治安維持のため軍事力による警戒・管理の下におかれることになった。侍従「くれぐれも叛乱軍に悪用されないように慎重に行って欲しいとの陛下のお言葉です」。枢密院会議とほぼ同時刻、岡田内閣が正式に内閣総辞職を決定した。後藤内相兼臨時首相代理が閣僚の辞表をとりまとめて天皇に奉呈し、聖旨により後継内閣組閣まで政務を続けることになった。 天皇は、一番重い責任がある川島陸相の辞表文が他の閣僚とほぼ同内容であることを指摘し、虎ノ門事件の責任者後藤新平の例をとって激しく非難した。この一件は、天皇に陸軍を不信させ、陸軍が事態を収拾できないなら、自ら近衛師団を率いて鎮圧するという決意を固めさせたと思われる。これは重臣の大反対で実現されなかったが、遠藤喜一海軍侍従武官(後の二代目総力戦研究所長)が次のように回想している。遠藤は、昭和10年春から三年間侍従武官として側近に奉仕していた。
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午前3時、戒厳令が発令され、九段南の憲兵司令部に戒厳司令部が設立された。手狭なため、午前6時、九段の軍人会館(現・九段会館)に移動した。東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官に、また参謀本部作戦課長で早くから討伐を主張していた石原莞爾大佐が戒厳参謀にそれぞれ任命された。しかし、戒厳司令部の命令「戒作命一号」では反乱部隊を「二十六日朝来出動セル部隊」と呼び、反乱部隊とは定義していなかった。「皇軍相撃」を恐れる軍上層部の動きは続いたが、天皇の鎮圧の意志は固かった。この時点で、警視庁はまだ反乱軍に占拠されていた。そのため、反乱軍の制圧は軍と憲兵隊の担当とし、警察は治安維持に専念する。 | |
午前4時40分、「戒厳司令部作戦命令第1号」が発布され、警備司令部はそのまま戒厳司令部となった。戒厳司令官は香椎中将、安井参謀長もそのまま戒厳参謀長となった。参謀本部の石原莞爾作戦課長なども戒厳参謀となり、統制派による事態収拾第一歩が刻まれた。 |
【安藤隊が麹町地区警備隊に編入される】 |
早朝、安藤隊が、 戒作命第一号により麹町地区警備隊に編入される。麹町地区警備隊長となった小藤第一連隊長の指揮下に入り、その命令で現・国会議事堂(当時はまだ工事中)へと移動した。事態は決起将校らに有利に働いているように見え、安藤もそのように考えていた。が、事態は安藤らの与り知らぬところで、昭和天皇の強い意志によって封じ込め、然る後に鎮圧に動き出そうとしていた。 |
【岡田首相が官邸から救出される】 |
早朝、岡田啓介首相の生存を知った首相秘書官らは、首相を弔問客に変装させて官邸から救出に向かった。午後1時過ぎ、憲兵によって岡田首相が官邸から救出された。葬式の弔問客にまぎれて首相官邸から脱出することに成功した。 |
【昭和天皇が奉勅(ほうちょく)命令親裁】 | |
午前8時20分、参謀本部の杉山次長が拝謁し、奉勅(ほうちょく)命令が上奏され、昭和天皇は即座に裁可した。
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【昭和天皇と本庄繁侍従武官長の問答13回】 | ||||||||||||||
本庄繁侍従武官長は、拝謁奏上の折、昭和天皇と次のような問答をしている。
本庄日記には次のような一節を記している。
奉勅命令は翌朝5時に下達されることになっていたが、天皇はこの後何度も鎮定の動きを本庄侍従武官長に問いただし、本庄はこの日だけで13回も拝謁することになった。 本庄繁侍従武官長は、本庄日記に次のように記している。
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奉勅命令をきっかけに事態が一気に緊迫していく。決起部隊は、天皇の裁可により自分たちが反乱軍と位置づけられたこと、陸軍上層部が頼りにならず見放されたことを知った。 |
【警視庁が神田錦町署に本部を設置】 |
午前9時半、警視庁は神田錦町署に本部を設置した。結果的に、警察は電信も電話も機能させることができた。これが治安維持に役立った。 |
【真崎大将が青年将校たちが占拠している陸軍大臣官邸で問答】 |
午後、陸軍皇道派の中心人物・真崎大将が、青年将校たちが占拠している陸軍大臣官邸を訪れた問答している。真崎大将が首相となって新しい内閣をつくってくれるものと信じ込んでいた青年将校たちは言った。「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見としてご上奏お願い申したい」。ところが真崎大将は、こう答え、部隊の退去をほのめかすそぶりさえ見せた。「君らがさよう言ってくれることはまことに嬉しいが、いまは君らが連隊長の言うことを聞かねば、なんの処置もできない」。真崎大将の支持をあてにしていた青年将校たちの当てが外れた。 真崎はこの青年将校との話し合いについて次のように論(さと)したと、川島陸軍大臣に報告している。「戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反する時は錦旗(きんき)に反抗することとなる。万一しかる場合においては、自分は老いたりとはいえども陣頭にたってお前たちを撃つぞ」。 以降、青年将校たちの計画が随所で瓦解して行くことになる。 |
【安藤と同期生の宇多中尉問答】 | |
同期生の宇多中尉が「安藤大尉と会う」。
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【昭和天皇が川島陸相に鎮圧指令】 |
午後0時45分、天皇は、拝謁に訪れた川島陸相に対して、「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」、「朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮定に当たらん、馬を引け」と強い意志を表明し、暴徒鎮圧の指示を繰り返した。御意を受け、戒厳令が公布されることになった。皇道派の香椎浩平陸軍中将が戒厳司令官に任命された。決起部隊に原隊復帰が命ぜられ、2万4千名の兵力で反乱軍を包囲する事態となった。奉勅命令はまだ叛乱部隊に伝わっていなかったが、「皇軍相撃」を恐れる陸軍首脳や反乱部隊の将校らも駆け引きを活発化させた。 |
【決起部隊と海軍軍令部の密談】 | |
午後1時、安藤隊が新国会議事堂附近に移動し待機する。待機中、 安藤大尉に対して、二名の憲兵が来て、一刻も早く 下士官兵を帰隊させることを求めたが、安藤大尉はこれに応ぜず次のように反駁している。
前聯隊長井出大佐 ( 現参謀本部軍事課長 ) が訪れる。安藤と会談中、傍にいた小河軍曹がいきなり大佐を射殺するといい出し大尉に止められる一幕があった。 |
【決起部隊と海軍軍令部の密談】 | ||||
午後2時。海軍軍令部の電話が鳴った。電話の相手は、クーデターを企てた決起部隊だった。決起部隊は、なぜ海軍に接触してきたのか。実は、海軍の内部にも、決起部隊の考えに同調する人物がいた。小笠原長生、元海軍中将。小笠原は天皇を中心とする国家を確立すべきだと常々主張し、皇室とも近い関係にあった。事件発生直後、小笠原は、軍令部総長・伏見宮を訪ね、決起部隊の主張を実現するよう進言している。海軍は、天皇の鎮圧方針に従う裏で決起部隊ともつながっていた。軍事史を研究・防衛大学校
名誉教授・田中宏巳氏は次のように評している。
海軍に接触を試みてきた決起部隊は、“ものの分かる”海軍将校に決起部隊の拠点に一人で来るよう求めた。派遣されたのは海軍・軍令部の中堅幹部・岡田為次中佐。岡田がそこで語った言葉が極秘文書に記録されている。
岡田中佐は、決起の趣旨を否定せず、相手の出方を見極めようとしていた。決起部隊と面会を続けた岡田為次中佐は、以下の文面の交渉決裂報告をしている。
このときすでに天皇の命令を受け、鎮圧の準備を進めていた海軍。その事実を伏せたまま、このあとも決起部隊から情報を集めていく。決起部隊は、期待を寄せていた海軍とも交渉が決裂し、絶望的な状況へと追い込まれていく。鎮圧に傾く陸軍と海軍。決起部隊との戦いが現実のものとなろうとしていた。
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【陸相官邸で真崎、西、阿部の軍事参議官が反乱軍将校と会談】 | |
午後2時、陸相官邸で真崎、西、阿部ら3人の軍事参議官が反乱軍将校と会談を行った。真崎大将をもって事態を収拾しようとした叛乱軍は「真崎大将に陸相官邸に来てもらいたい」と申し出て、真崎が赴こうとすると、「真崎大将単独で行くのは後日紛議の種になる」と阿部、西の両大将が同行したことにより三者となった。叛乱軍将校ほぼ全員と山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉を加えて会見が始まった。 この直前、反乱部隊に北一輝から「人無シ。勇将真崎有リ。国家正義軍ノ為ニ号令シ正義軍速カニ一任セヨ」という「霊告」があった旨連絡があり、反乱部隊は事態収拾を真崎に一任するつもりであった。野中大尉は、「事態の収拾を真崎大将にお願いします。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致意見としてご上奏願いたい」と述べた。 これに対し、真崎大将らは「時局収拾の道は維新部隊が速やかにご統率のもとに復帰するにあるのみ。戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反するときは、錦旗に反抗することになるぞ・・・。早く撤収あるのみだ」、「我々軍事参議官は、お上のご諮問ありてはじめて働くものにして他に職種なし。ただ軍の長老として座視するに忍びず道徳的に働くのみである。事態の収拾には努力する」と述べ、青年将校らに原隊復帰をすすめた。相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と返答している。磯部の獄中文書は次のように記している。
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【海軍の連合艦隊第一艦隊主力が東京湾お台場沖に待機】 |
午後4時。戦艦長門をはじめとする連合艦隊第一艦隊の主力が東京湾お台場沖に到着した。「鎮定されない場合は、遺憾ながら国会議事堂に砲撃を加えよ」。この命令のもと、長門の主砲の照準は国会議事堂に定められた。 |
【反乱部隊の宿所】 |
午後4時25分、反乱部隊は首相官邸、農相官邸、文相官邸、鉄相官邸、山王ホテル、赤坂の料亭「幸楽」を宿所にするよう命令が下った。 |
【秩父宮が弘前より上京、上野着】 | |
午後5時、秩父宮が弘前より上京、上野着。コレニツキ、「秩父宮は決起軍の安藤からの要請で上京したのではないか? その動きを海軍が傍受し、それを平泉に伝え、上野で秩父宮を足止めさせたが、このときに、(秩父宮を諦めさせるために)ある条件が出されたのではないか?」トイワレテイル。 | |
「NHKが二二六事件で、海軍が事件の一週間前から陸軍の決起部隊の動静を傍聴していた事実を公開。海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしたとも」ガツギノヨウニシルシテイル。
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【決起将校首脳部が、陸相官邸で真崎、阿部、西の三人の軍事参議官と会談】 | |
この頃、決起将校首脳部は、陸相官邸で、真崎、阿部、西の三人の軍事参議官と会談した。ここで野中四郎大尉が、「事態の収拾を真崎将軍に御願ひ申します。この事は全軍事参議官の全青年将校との一致として御上奏を御願ひ申したい」と述べた。しかし、真崎の答えは「君らが左様云つてくれることは誠にうれしいが、今は君らが聯隊長の云ふことをきかねば何の處置もできない」。このような調子で結局会談はさして成果の上がらぬまま終わった。後に磯部は次のように述懐している。
事実、この時すでに事態は討伐へと向かっていた。というのは、陸軍の長老(荒木、真崎など)とは別に、参謀本部、特に石原莞爾や武藤章などは最初から決起部隊には強硬姿勢であり、杉山参謀次長も荒木、真崎らとは違った意見を持っていた。決起部隊のこの時の踏ん張りの弱さが形勢を損じて行くことになる。 |
【安藤中隊が赤坂幸楽に宿営】 | ||
午後6時、陸相官邸で開催された軍事参議官会議の情報が入ってきた。事態は蹶起部隊に有利に展開中とのことに安藤大尉は満面に笑みをたたえて喜んだ。安藤輝三大尉は部下中隊に訓示と命令を次のように下達した。
安藤中隊長を先頭に、中隊はラッパを吹きながら新国会議事堂から出る。安藤中隊は粛々として首相官邸の坂を山王下へ下って行った。 6時30分、料亭幸楽 に入る。日枝神社の側にあるこの料亭はすでにほとんどの従業員が避難しており、女将と少数の者だけが残っていた。幸楽へは決起の趣旨に賛同した様々な人が激励に訪れ、差し入れなども行われた。この夜は何事もなく、極めて平穏―決起部隊にとって穏やかな時を過ごした。 大広間において安藤大尉が次のように状況説明している。
午後7時、戒厳部隊の麹町地区警備隊として小藤指揮下に入れとの命令(戒作命第7号)があった。 |
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「赤坂の料亭幸楽に陣どった安藤中隊は闘志もっとも旺盛だった。幸楽に続々同志将校があつまって強硬派の牙城となった。近く戦闘が予想せられる幸楽はあたかも決戦場のような様相を呈していた。事件以来部外にあって愛国団体を動員するはずの渋川善助は前日から安藤部隊にもぐり込んでいた」。 |
【昭和天皇の苛立ち】 |
天皇が事態の収束が進まないことにいら立ち、陸軍に鎮圧を急ぐよう求めた。陸軍上層部が新たな動きを見せる。 |
【昭和天皇の怪電話?】 |
「ヒロヒト、ヒロヒト……の怪電話」。 |
昭和天皇が情報収集のため、騒動のさなかに麹町署(現・千代田区)に電話をかけたという驚くべき証言が存在する。それは、27日の夜8時のことだった。署長室の非常電話が鳴ったので、たまたま28歳の青年巡査、大串宗次が受話器を取った。すると、「ヒロヒト、ヒロヒト……」という声がした。なにをいっているのだろう。大串は理解できず、「もしもし……どなたですか」と繰り返し訊ねたが、電話が切れてしまった。数秒後、ふたたび電話が鳴ったので取ると、別人の声で、「いま、日本で一番偉いお方がお出になる。失礼のないように」という。大串は「この非常時に何を」といささかムッとなりながら、さきほどの声の人物からの質問に答えた。「鈴木侍従長は生きていますか」。「ハイ生きています」。「[岡田啓介]総理はどうしていますか」。「多分、生きているでしょう」。大串は、電話の相手がまさか昭和天皇だとは思わなかったらしい。ところが、受話器の向こうから、「チンは誰と連絡をよればよいのか」、「チンは一体、誰に聞けばよいのか」というつぶやきが漏れ聞こえてきた。チン? あっ、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗」の「朕」……。つまり、電話主は天皇だ!ようやく事態を把握した大串は、全身に冷水を浴びせられたような戦慄を覚えた。そうとは知らず、昭和天皇はそのまま電話を続けた。「それではチンの命令を伝える。総理の消息をはじめとして情況をよく知りたい。見てくれぬか」。大串はさきほどまでのように対応できず、名前を訊かれても「麹町の交通でございます」と答えるのが精一杯だった。なお、このエピソードには後日談がある。1950年、大串が警部に昇進して皇居に赴いたおり、昭和天皇から「このなかにコウジマチコウツウはいないか」と訊ねられたという。できすぎな気がしないでもなく、『昭和天皇実録』にも採用されていないが、証言のひとつとしてここに紹介しておく。 (以上、週刊文春編集部「天皇の庶民体験」『昭和天皇の時代』より) |
【陸軍・真崎大将と石原莞爾大佐の秘密会談】 |
午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍・軍令部員から重要な情報が飛び込んできた。決起部隊が、クーデター後、トップに担ごうとしていた陸軍・真崎甚三郎大将が、満州事変を首謀した石原莞爾大佐と会い、極秘工作に乗り出したという情報だった。二人が話し合ったのは、青年将校らの親友を送り込み、決起部隊を説得させるという計画だった。戒厳司令部は、この説得工作によって事態は収束するという楽観的な見通しをもっていた。そして、万一説得に従わない場合は、容赦なく切り捨てることを内々に決めていたことも明らかになった。「要求に一致せざる時は、一斉に攻撃を開始す」。 |
夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、我々が昭和維新をしてやる」と言った。 |
【決起部隊の磯部が陸軍・近衛師団の山下誠一大尉に秘密折衝】 | ||||||||||||||||||
攻撃準備を進める陸軍に、決起部隊から思いがけない連絡が入る。
決起部隊の首謀者のひとり、磯部浅一が、陸軍・近衛師団の山下誠一大尉との面会を求めてきた。磯部の2期先輩で、親しい間柄だった山下。山下が所属する近衛師団は、天皇を警護する陸軍の部隊だった。追い詰められた決起部隊の磯部は、天皇の本心を知りたいと、山下に手がかりを求めてきたのだ。
天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないと答えた磯部。しかし、磯部は、鎮圧するというなら反撃せざるを得ないとも述べた。山下は説得を続けるものの二人の溝は次第に深まっていく。もはやこれまでと悟った山下。ともに天皇を重んじていた二人が、再び会うことはなかった。 |
【幸楽、山王ホテルの食料調達】 | |
この日、幸楽では10数人の中国人コックが逃亡したため、てんやわんやの忙しさとなった。午後、大量の酒が届くと、兵士は飲めや歌えの大宴会を始める。夜6時頃、部隊はどこかに引き揚げていった。深夜、背広姿の男達がやってきて80円を渡し、「国会議事堂の部隊は何も食べていないので、弁当を至急作ってくれ」と注文があった。今からでは無理だと断ると、そのうちの1人が20円持って出て行き、まもなく米俵3俵を手配してきたため、やむなく注文を受けた。幸楽同様、27日の晩に兵士が乗り込んできた山王ホテルでは、28日も大量のおにぎり作りをしていたた。山王ホテルの女給の証言が残っている。
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【新井中尉が安藤大尉を訪問、安藤隊偵察】 | |
午後10時頃、歩三の新井中尉が安藤大尉を訪問、安藤隊偵察。
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歩三の新井中尉が来て安藤に撤退をすすめるのに香田がいかって、「 奉勅命令がどうしたというんだ! そんなものはにせものだ、くだらんことをいうな! 」と叱りつけた。渋川は「幕僚が悪いんだ、彼らをやっつけてしまわねばダメだ」と怒号する。そんな空気のところへ野中大尉が入ってきた。野中はさきに部隊を代表して軍事参議官の最後の回答を求めに行ってきたのである。野中は人々の興奮を尻目に、至極おちついていた。「一切を委せて帰ることにした」。「委せてかえる----それはどうしてですか」。渋川が鋭く詰めよった。「兵隊がかわいそうだから」と野中の声は低かった。渋川はなおも二言三言くってかかっていたが、「何もかも幕僚が悪いのだ! 幕僚ファッショをやっつけてしまわねばダメだ」と再び怒号した。 この十数人の集まった幸楽の応接間は激怒と悲憤のうずまきだった。村中はちょうどここに居合せて、じっとこの様子を見ていた。彼はこうなりゃ決裂だ、戦争だ戦争だと叫びながら部屋を飛び出して陸将官邸にかえった。そして磯部に、「磯部やろう、安藤も坂井も絶対に退かんといっている。安藤部隊の気勢はあがっている、団結は固い。幸楽附近は敵の攻撃をうけそうな気配だ、もう、こうなったら後へは引けん、やろう」。磯部は二つ返事で賛成した。そして首相官邸に走った。こでは栗原も幸楽からかえっていて、お互いにやりましょうと闘志をはっきりした。磯部はもう討死の覚悟だった。田中部隊それに栗原から一小隊をかりてみずから閑院宮邸附近に進出して、この台地の一角をおさえた。夜にな入ると、磯部は常盤、鈴木両部隊とともに陸相官邸を守った。坂井と清原の部隊が陸軍省と参謀本部附近、栗原、中橋が首相官邸、安藤が幸楽、丹生が山王ホテル、野中と村中は予備隊として新議事堂にそれぞれ位置してすっかり戦闘態勢を整えた。 この日の夕方頃には幸楽、山王下附近には物見高い群衆も集まって雑とうをきわめていた。栗原中尉が乗用車の上から大声で市民に演説していた。「 諸君、私たちは わが国の現状を見るにしのびず 止むなくたち上ったのであります。この非常時局に元老、重臣、官僚、政党、財閥等の いわゆる特権階級が私利私慾をほしいままにし、国政をみだり国威を失墜している。われわれは真に一君万民たるべき皇国本然の姿を顕現せんがために特権階級の打倒に立ったのであります。諸君、わが国の軍隊は天皇陛下の軍隊であり、同時に国民の軍隊であります。私たちは国防の第一線に立って笑って死にたいのであります。それには何よりも後顧の憂いをとり除かなくてはなりません。それがどうでしょう、農村漁村はいまや窮乏のどん底にあります。こんなことでは兵隊たちは安心して死んでいかれません。われわれは立ち上がりました。今こそわれわれは昭和維新を実現しなければなりません。われわれはこれがための挺身隊であります」。群集は拍手を送る。麻布三聯隊万歳、大日本帝国万歳のどよめきが群衆の中に湧き上がっていた。こうして、彼らはこの一戦に討死を期して敵の攻撃を待った。 だが、この間、なお説得がつづけられていた。一触即発の険悪な情勢の中に、冬の夜は更けていった。(大谷敬二郎「二・二六事件」から) |