別章【徳川家康】

 更新日/2023(平成31.5.1日より栄和改元/栄和4).1.20日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、徳川家康を確認する。

 2013.08.11日 れんだいこ拝


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 目次
れんだいこの家康論
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別章【東照宮御實紀巻
東照宮御實紀巻1(1、2)
東照宮御實紀巻2(3、4)
東照宮御實紀巻3(5、6)
東照宮御實紀巻4(7、8)
東照宮御實紀巻5(9、10)
東照宮御實紀巻5(10)
金地院崇伝vs南光坊天海/考
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参考文献
情報ストック





(私論.私見)

【大坂冬の陣とは】
1603年、江戸に幕府を開いた徳川家康は、豊臣家をほろぼす機会をねらっていた。1614年、豊臣家が方広寺大仏殿を再建した際、鐘に「国家安康」と「君臣豊楽」という文字が刻まれた。家康は、これを「自分の名前を切り離しているので無礼である」と言いがかりを付け、20万の大軍を率いて、豊臣家が立て籠もる大坂城を攻めた。しかし、大きな堀に護られた大坂城を容易に攻め落とすことは出来なかった。大砲の弾により侍女が死傷する事態となってパニック状態に陥った淀殿が和睦へと傾き、家康は堀の埋め立てを条件としてこれを認め、即座に実行させた。

【大坂夏の陣とは】
堀の埋め立てが終わるや家康は、豊臣家に大和か伊勢への国替を伝えた。豊臣家の拒否を口実に、再び家康は20万の大軍をもって、大坂城を包囲した。堀の埋め立てによってその防御機能を失った豊臣方はもはや城外に討ってでるしかなかった。真田幸村らの奮戦も空しく、大坂城は火焔に包まれて灰燼と化し、淀殿と秀頼が自害して豊臣家は滅亡した。

襲われた大坂城下民衆の悲惨さも記録されている。