東照宮御實紀巻3



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 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御實紀考】
 東照宮御實紀卷一」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御實記卷五 慶長八年二月に始り四月に終る御齡六十二

 慶長八年癸卯二月十二日、征夷大將軍の宣下あり。禁中陣儀行はる。上卿は廣橋大納言兼勝卿、奉行職事は烏丸頭左中辨光廣、弁は小河坊城左中弁俊昌なり。陣儀終て勸修寺宰相光豊卿勅使として已一点に伏見城に参向あり。上卿奉行職事はじめ月卿雲客は轅、その他大外記官務はじめ諸官人は轎にのりてまいる。みな束帯なり。雲客以上は城中玄関にて轅を下り、それ以下は第三門にて轎を下る。この時土御門陽陰頭久脩御身固をつかふまつりて後、紅の御直埀めして午刻南殿に出給ふ。今日参仕の輩、諸大夫以上直垂、諸士は素襖を着す。勅使にまづ御対面ありて公卿宣下を賀し奉る。次に上卿職事辨みな中段にすゝむ。告使中原職善庭上にすゝみ、正面の階下に於て一揖し、声折して御昇進と唱ふる事二声、一揖して退く。次に廣橋勸修寺兩卿は上段第二の間の中程に左右にわかれて着座す。奉行職事參仕の辨等は第三の間に左右に别れ座につく。時に壬生官務孝亮廣庇に伺候す。副使出納左近將監中原職忠征夷大將軍の宣旨を亂箱に入て、小庇の方より持出て官務にさづく。官務これを捧てすゝむ。大澤少將基宥請取て御前に奉る。御拜戴有りて宣旨は御座の右に置き、基宥亂箱をもちて奥にいる。永井右近大夫直勝その箱に砂金二裹入て基宥に授く。基宥是を持出で官務にさづく。官務拜戴して退く。次に源氏長者の宣旨は押小路大外記師生持參し、基宥受取て御前に奉り、箱は基宥とりて奥に入り、直勝砂金一裹を入れ、基宥これを持出で大外記に授け、大外記拜戴して退く。そのさま上に同じ。次に官務氏長者の宣旨持出す。次に大外記右大臣の宣旨持出す。次に大外記官務牛車宣旨持出す。次に隨身兵仗の宣旨大外記持出す。次に淳和弉學両院别当の宣旨官務持いづる。その度ごとに亂箱に砂金一裹づゝ入て賜はる。次に職事辨等座を立つ。次に上卿勅使太刀折紙もて拜謁せられ基宥披露し、次に職事弁以下太刀折紙持出で、三の間長押の內にて拜し、大外記以下は太刀を三間の內に置て廣庇にて拜し、官務出納少外記史も同じ。次に陣の官人召使等太刀は献ぜず。廣緣にて拜して退く。次に右近大夫直勝、西尾丹後守忠永(寬政重脩譜には忠永この時未だ酒井の家に在て主水と稱すとあり)役送し、兼勝卿に金百両、御紋鞍置馬一疋、光豐卿に金五十両。鞍馬一疋遣はされて後奥に入御あり。次に參仕の官人召使等なべて金五百疋づゝ纏頭せらる。抑征夷の重任は日本武尊をもて濫觴とするといへども、文屋綿丸、坂上田村麻呂、藤原忠文等は禁中に召宣下有しなり。

 幕府に勅使をつかはされて宣下せらるゝ事は鎌倉右大將家にもとひす。その時は鶴岡八幡宮に勅使をむかへ、三浦次郞義澄、比企左衛門尉能員、和田三郞宗實、郞從十人甲胄よろひて参りその宣旨をうけとり、幕下西廊にて拜受せられしこそ、この儀の權輿とはすべけれ。足利家代々この職をうけつがれしかど、等持院、寳篋院、鹿苑院三代の間は時いまだ兵革の最中なれば、典礼儀注を講ぜらるゝに及ばず。およそは勝定院のころよりぞ。式法もほゞそなはりけるなるべし。それも応仁よりこのかたは、幕府また亂逆のちまたとなりぬれば、礼義の沙汰もなし。こたびの儀はその絕たるをつぎ廢れしをおこされ、鎌倉室町の儀注を斟酌して、一代の典礼をおこさせ給ひしものなるべし(この日の作法は宣下記幷に勸修寺記。西洞院記にほゞ見ゆるといへども、麁略にして漏脫多し。ひとり出納職忠記詳なれば、今は職忠の記にしたがひてこれをしるし、宣下記、勸修寺記、西洞院記の中にもほゞそのとるべきをとりて補ひぬ。この時の作法は当家典礼の權輿といへども、いまだ全備せしにはあらず。これより世々たびだび沿革ありて、今にいたりて全く大備せしといふべし)。

 次に勅使上卿をはじめ奉行職事辨を饗せられ、三宝院門跡義演准后出座して相伴せらる(三宝院は室町將軍家代々宣下のとき、出座して饗應の席に連る例なりしをもて、けふも召れしとしられたり。この門跡かならずこの式にあづかりしは、滿濟准后の鹿苑院將軍の猶子となられしよりこのかた、代々室町家の猶子ならざるはなし。その中には室町家の実子にて住職せしもあれば、この門跡かの家にては代々一門宗族のちなみにて、かかる礼禮にあづかりし事と見えたり。この外にも室町家出行の時は、三宝院の力者に長刀をもたしめられし事あり。この日出座ありし義演准后といふも、靈陽院の猶子なりしとぞ)。

 この日、越前中將秀康朝臣を従三位宰相にのぼせらる(藩翰譜備考日を記さず。今家忠日記による)。又板倉四郞右衛門勝重は京所司代たるにより、豐臣家の例によりて騎士三十人、歩卒百人を付属せらる。又本鄕治部少輔信富はその家代々室町將軍家につかへ、将軍家の制度儀注にくはしければ、この後伏見に伺候して奏者の役をつとむべしと面命あり。伏見城下に於て宅地をたまふ。信富は世々足利將軍の家人なり。信富にいたり光源院義輝將軍につかへけるが、三好長慶が叛逆の時若狹の国本鄕の所領を沒落し、後に靈陽院義昭將軍につかへその後織田家にしたがひ、去年十月二日召れて采邑五百石を賜はりしなり(將軍宣下記。勸參寺記。西洞院記。中原記。續通鑑。家忠日記。家譜。寬政重修譜)。

 ○十三日、秋元茂兵衛泰朝從五位下に叙し但馬守と改む。この日生駒雅樂頭親正入道讃岐の国高松の城にありて卒す。壽七十八。この親正が先は參議房前に出で、数世の後左京進家廣が時より、大和国生駒の村に住ければ、終に生駒をもて家号とす。家廣が孫出羽守親重始甚助といふ。これ親正が父なり。親正父の時より美濃国土田村に住て織田家にしたがひ、後に豐臣家に属ししばしば軍功ありしかば、天正十四年、伊勢國神戶の城主とせられ三萬石を領し、又播磨国赤穗にうつされ六万石を領し、十五年八月十日、讃岐国に転封せられその国鶴羽浦に住し、また丸亀の城にうつり、このとし堀尾帶刀吉晴、中村式部少輔一氏と共に豐臣家三中老の一人に定めらる。これより先從五位下して雅樂頭と称す。小田原の軍にもしたがひ、朝鮮の役には先手に備へて軍功をはげみたり。文祿四年七月、十五日五千石の地をくはへらる。太閤薨ぜられて後大坂の奉行等。  

 我君をうしなひまいらせんと謀りし時も、親正、吉晴、一氏の三人心を一にしてその中を和らげ御つゝがもわたらせられず。五年、上杉景勝を征し給はんとて奥に下らせ給ふ時、親正は病にふしければ、その子讃岐守一正に軍兵そへて御供せしむ。かゝる所に上方の逆徒蜂起せしかば、又上方へ打てのぼらせ給ふ時、一正は御駕に先立て福島加藤等とおなじく海道を発向し、美濃国岐阜鄕戶等の軍に武功をはげまし、関ガ原の戦にも力をつくしける。父親正は国にありて石田三成が催促に従い、家卒を出して丹後国田邊の城攻めに與力せしかば、関ヶ原御凱旋の後一正は父が本領讃岐国にて十七萬千八百石余を給ひ、丸亀を改めて高松の城にうつりすむ。親正はなまじゐに田邊の城攻めに人數を出しければ、その罪を恐れ高野山に迯のぼり薙髮して謝し奉りける。されど一正旣に軍忠を著はし勸賞蒙る上は、御咎のさたに及ばれず。御免しを蒙りしかば、この後は高松の城に閑居して、一正にはごくまれけふ終りを取しとぞ(家譜。藩翰譜備考。寬政重修譜)。

 ○十四日、公卿殿上人伏見城に上り將軍宣下を賀し奉る(西洞院記)。
 ○十五日、島津少將忠恒が使の家司拜謁して帰国の暇たまはる(天元實記)。
 ○十九日、朝雨ふり未牌雨やみ。酉刻日蝕するがごとくにして色甚赤し。今夜又月蝕なり。衆人一晝夜に日月蝕す尤珍事とて喧噪す(當代記)。
 ○二十五日、南都東大寺三庫修理成功するにより、本多上野介正純幷に大久保十兵衛長安監臨す。修理の奉行は筒井伊賀守定次幷に中坊飛驒守秀祐これをつとむ。大內よりは勅使として勸修寺右大辨光豐卿、廣橋右中辨總光參向あり。この三庫は聖武天皇の遺物とて、蘭奢待をはじめ紅沈香。麝香。人參。綾羅綿繡。瑠璃。壺印子針。衣服。琴。瑟。笙竿、その外屏風、樂衣等五十の唐櫃●納め、千歲近く收藏して朽敗せず。天朝にも勅封ありて尤秘藏し給ふ所なり。足利將軍家代々一度、蘭奢待を一寸八分づゝ切て寳愛せらるゝ故事となりて、織田右府も切取て秘賞せられしかば、当家にも武家先蹤を追てこれを切たまふべきかと聞えあげしに、聖武天皇よりこのかた本朝の名品とて秘愛せらるゝを切取べきにあらず。たゞし久しく勅封を開かず。庫內朽損漏濕して古物の破壤せむ事思ふべきなりとて、去年六月、正純長安等を監せしめ、定次秀祐等奉行し、勅使參向して勅封をひらき、実物を他所にうつし庫內を修理せしめられ、九月に至る。唐櫃三十は新調して宝物を收貯せしめられしが、このほど告竣に及びしかば、勅使ふたゝび参向ありて宝物を庫內に收め勅封ありしなり(和州寺社記。筒井家記)。

 ○二十七日、三河国鳳來寺護摩堂火あり。又二王堂俄に崩壤す。天狗の所爲なりと流言す。又山中衆徒死亡する者多し(当代記)。是月、井伊万千代直勝正五位下に叙し右近大夫に改む。上杉中納言景勝卿江戶に参覲す。櫻田に於て宅地をたまふ。又諸国の大名より各丁夫をめして、江戶の市街を修治し運漕の水路を疏鑿せしめらる。越前宰相秀康卿を上首としてこれに属する者三人、松平下野守、忠吉朝臣を上首としてこれに屬するもの四人、加賀中納言利長卿を上首としてこれに属するもの四人、上杉中納言景勝卿を上首としてこれに屬する者三人、本多中務大輔忠勝を上首としてこれに屬する者四人、蒲生藤三郞秀行に屬するもの一人、伊達越前守政宗に屬する者一人、生駒讃岐守一正に屬する者十八人、細川越中守忠興に屬する者十人、黑田甲斐守長政に屬する者三人、加藤主計頭淸正に屬する者三人。(以上所屬の徒詳ならず)淺野紀伊守幸長に屬するものは、池田少將輝政、堀尾信濃守忠晴、峰須賀長門守至鎭、山內對馬守一豐、加藤左馬助嘉明、中村一學忠一、池田備中守長吉、山崎左馬允家盛、有馬玄蕃頭豐氏、中川修理大夫秀成、前田主膳正茂勝なり。(淺野家の書上による)

 この役夫すべて千石に一人づゝ課せられければ、世に名けて千石夫とよべり。又この時より市街の名みな役夫の国名を課せて名付しとぞ。又このほど井伊右近大夫直勝が家司木俣土佐守勝拜謁して、舊主直政磯山に城築かんと請置しかど、磯山はしかるべしとも思はれず。澤山城より西南彥根村の金龜山は、湖水を帶てその要害磯山に勝るべしと聞え上しに御けしきにかなひ、さらばその金龜山に城築くべしと命ぜられし上、今の直勝は多病なれば、汝主にかはりてその城を守るべしと命ぜらる。時に守勝又申けるは、直勝多病なりといへども、その弟辨之助直孝とて今年十四歲なるが、父直政が器量によく似て雄畧すぐれて見え候。この者今少し成長して兄直勝が陣代つかふまつらんに、何のおそれか候はんと申ければ、その直孝召つれ來れと仰せあり。守勝かしこみ悅ぶ事斜ならず。速にともなひ見参せしめしに、その面ざし父に似たり。いかさまものゝ用に立べきものぞ。直に江戶へまかりて中納言殿によく仕へよとの仰せを蒙る。又牧野傳藏成里入道一樂ははじめ豐臣關白秀次につかへ、關白事ありて後石田三成に属し、關原の戰に石田が味方にて備しが、石田方大敗に及び家兵十余人ばかり引ぐし、大敵の中を切拔て池田輝政が備に來りしかば、輝政これを播州にともなひ歸り撫育なしをき、この程輝政御夜話に侍しける時この事聞え上しに、その傳藏は剛士なり。我に謁見するにも及ばず。今度井伊辨之助を江戶に奉仕せしめむため、酒井雅樂頭忠世にともなひ江戶へ參るべしと命じたれば、傳藏も同じく江戶へまからせ仕ふまつらしめよと仰せらる。輝政よろこびに堪ず。御けしきうるはしきを幸に、又先に御勘氣蒙りたる近藤平右衛門秀用恩免の事聞え上しに、これもゆへなく御ゆるしあり。一樂はこの後還俗して傳藏と改む。又松浦式部卿法印鎭信は孫壹岐隆信とて時に十一歲なるをともなひ、都にまかり初見の禮をとらしむ。鎭信が子肥前守久信は父に先立てうせければ、鎭信が所領はこの嫡孫にゆづるべしと面命ありて駿馬を給ふ。

 又大納言殿射藝の師範たる佐橋甚兵衛吉久弓頭に命ぜらる。又先に遠江国久野の所領をうつされし松下石見守重綱、暇給はりて常陸新封の地に赴く。久野の城は舊主久野三郞左衛門安宗入道宗庵に給はり、下總の所領千石を合せ、旧領共に八千五百石になされ入城す。森右近大夫忠政この六日、信濃国より美作国に轉封せられたるをもて、信濃国川中島、松城、飯山、長沼、牧の島、稻荷山、五か所の城寨を保科肥後守正光に勤番せしむ。又第十の御子長福丸のかた今年二歲にならせ給ふ。訪諏部平助正勝はじめて其方の小姓とせられ采邑二百五十石たまふ。(家譜。北越軍記。創業記。木俣日記。石谷覺書。寬永系図。寬政重修譜。家忠日記)

 ○三月三日、伏見城にて上巳の御祝あり。烏丸大納言光宣卿。日野大納言輝資卿。廣橋大納言兼勝卿。飛鳥井頭侍從雅宣。勸修寺宰相光豐卿等參賀あり。この日、水野孫助信光死してその子孫助つぐ(勸修寺記。寬永系圖)。
 ○五日、尾崎中務某死してその子勘兵衛成吉つぐ。鎌倉鶴岡社人社僧伏見へ參謁しければ、歸路諸驛の御朱印を下さる(寬永系圖。八幡古文書)。
 ○六日、神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁す(舜舊記)。
 ○十日、中根喜藏正次小姓組に入番す(寬政重修譜)。
 ○十一日、永井右近大夫直勝を勸修寺宰相光豐卿のもとに御使して、御直廬の事を議せらる。よて叡聞に達する所、直廬は內廷に設るをもて規摸とする事なれば、長橋の局をもて御直廬に定らるべしとの內旨を、光豐卿のもとへ廣橋大納言兼勝卿もおなじく参りて兩卿よりつたふ。(勸修寺記、貞享書上)
 ○廿一日、伏見城より御入洛ありて、二條の新御所に入らせ給ふ(去年聚樂の御舘を二條に引遷さる。これを二條の新御所又は新屋敷と稱す。いまの二條城なり)。傳奏その外月卿雲客これを迎へまいらすとて、大佛堂西門邊まで出て拜謁す。廣橋大納言兼勝卿。勸修寺宰相光豐卿に御懇詞を加へらる。この日森右近大夫忠政就封す。忠政は封地美作國鶴山に城築事こふまゝにゆるされしかば。やがて新築して後に名を津山と改む(舜舊記。勸修寺記。作州記)。
 ○廿三日、小出遠江守秀家卒す。その弟五郞助三尹を世繼として采邑二千石を襲しむ。この秀家は故播磨守秀政が二男にて、母は豐臣大閤の外叔母なれば、豐臣家にはよきぬなからひなり。はやくかの家につかへ從五位下に叙し遠江守と稱し庇䕃料千石を授らる。慶長五年、上杉御征伐のとき父秀政は老病に臥ければ、秀家に從兵三百人を加へて御供に侍はしめ、下野国小山にいたる時上方の逆徒蜂起すと聞えしかば、先これを誅せらるべしとて大斾をかへされたるに、秀家も御供す。關原凱旋の後秀家最初より御味方にまいりし功を賞せられ、千石を加へられ二千石になさる。兄大和守吉政は石田三成が催促に応じ、丹後国田邊の寄手に加はりしかども、秀家が軍忠によりて父兄皆な御ゆるしを蒙り、秀家けふ三十七歲にて卒しぬ(秀家が世つぎ三尹が時、姪大和守吉英が所領を分て一万石になさる。秀家は二千石にて終りしなり。すべて万石以下の輩には傳をたてずといへども、秀家は大坂方の身にて最初より二心なく御味方にまいりたる者ゆへ、こゝにその來歷を詳にせざることを得ず)。この日、神龍院梵舜二條御所に出で御氣色を伺ふ(寬政重修譜。舜舊記)。
 ○廿四日、黑田甲斐守長政江戶より上洛し。二條の御所へまうのぼり拜謁す。
 ○廿五日、將軍宣下御拜賀として御参內あり。その行列。一番は雜色十二人。切子棒鐵棒を持て御成を唱ふ。この十二人のうち八人は素襖烏帽子。四人は肩衣袴なり。二番御物。(是は御進献の品なり。)下部是をもつ。公人朝夕十人左右にわかれ警を唱ふ。次に御物奉行。同朋谷全阿彌正次。騎馬侍十人。小結二人。大ころし一人。長刀持一人。龓二人。笠持一人。草履取一人。三番御出奉行板倉伊賀守勝重。騎馬侍二十人。烏帽子素襖。中間二人鞭鞢をもつ。龓二人。笠持一人。長刀持一人。草履取一人。敷革持一人。四番隨身。左山上彌四郞政次。島田淸左衛門直時。高木九助正綱。近藤平右衛門秀用。右は本多藤四郞正盛。渡邊半藏重綱。鵜殿善六郞重長。橫田彌五左衛門某。各金襴の袍。壺垂袴。帶劔。弓箭をもつ。龓二人づゝ。侍はみな馬前に列す。五番白張七人。六番諸大夫。風折直垂。太刀小刀を帶す。(これは帶刀のつとめにあたる)左佐々木民部少輔高和。近藤信濃守政成。松平若狹守近次。戶田采女正氏鐵。石川主殿頭忠總。西尾丹後守忠永。永井右近大夫直勝。三浦監物重成。右は竹中采女正重義。森筑後守可澄。三好備中守長直。三好越後守可正。內藤右京進正成。秋元但馬守泰朝。松平右衛門佐正綱。松平出雲守某。七番御車。(糸毛なり。)牛二疋。牛飼二人。舍人八人。白丁二人。榻持一人。御階持一人。次に本多縫殿助康俊。風折烏帽子。直垂。太刀小刀をさし。馬上に御劔をもつ。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。ひきしき持一人。つぎに布衣侍。左は成瀨小吉正成。安藤彥兵衛直次。榊原甚五兵衛某。阿部左馬助忠吉。豐島主膳信滿。林藤四郞吉忠。高木善三郞守次。朝比奈彌太郞泰重。石川半三郞某。都筑彌左衛門爲政。右は米津淸右衞門正勝。中山左助信吉。柴田左近某。橫田甚右衛門尹松。日下部五郞八宗好。長谷川久五郞某。花井庄右衛門吉高。伊奈熊藏忠政。加藤喜左衛門正次。鳥居九郞左衛門某。八番騎馬。諸大夫二行に列す。左は井伊右近大夫直勝。松平飛驒守忠政。松平玄蕃頭家淸。本多豐後守康重。本多中務大輔忠勝。右は里見讃岐守義高。松平甲斐守忠良。松平出羽守忠政。本多上野介正純。石川長門守康通。各風折烏帽子。直垂。太刀小刀を帶し。烏帽子着廿人。長刀持一人。笠持一人。龓二人。引敷持一人。九番米澤中納言景勝卿。毛利宰相秀元卿。越前宰相秀康卿。豐前宰相忠興。若狹宰相高次。播磨少將輝政。安藝少將正則。此輩各塗輿にのり。舁夫八人。布衣侍四人。烏帽子着三十人。笠持一人。白丁七人。長刀持一人從ふ。遠山勘右衛門利景。山口勘兵衛直友は路次行列の事を汰沙す。  

 禁廷唐門に公卿出迎られ、眤近衆は直に從ひて長橋にいらせらる。御降車の時勸修寺右大辨宰相光豐卿御簾をかゝげ、四條左少將隆昌御沓を奉り、大澤少將基宥御劔をとり、長橋の局もて御直盧代とせらるれば、こゝにて御衣冠にめしあらため給ひ御拜賀あり。主上も殊に龍顏うるはしく、本朝百有餘年の兵革を撥正し、四海太平の基を開く事、ひとへに將軍の武德によると詔あり。天盃たまはらせ給ひ、舞踏拜謝してまかむで給ふ。けふ進らせ給ふ品々は、主上へ銀千枚、幷に小袖 親王へ百枚、女院へ二百枚、幷に小袖。女御へ百枚、幷に新大典侍の局へ三十枚、權典侍に三十枚、長橋局に五十枚、すけの局大乳人へ三十枚づゝ、新內侍の局へ廿枚、伊よの局へ十枚、おこやおまみの局へ五枚づゝ、末の女房五人十五枚、女孺四人へ十二枚。非司二人へ二枚。御物師二人へ六枚。帥の局。お乳の人。やゝのおかたへ五枚づゝ。右衛門督の局へ三枚。おみつ御料人へ卅枚なり。この時池田三左衛門輝政。福島左衛門大夫正則は少將にのぼり。加藤主計頭淸正。黑田甲斐守長政。田中筑後守吉政。堀尾信濃守忠氏。蜂須賀阿波守至鎭。山內對馬守一豐。井伊右近大夫直勝ともに從四位下に叙し。淸正は肥後守。長政は筑前守。一豐は土佐守。忠氏は出雲守と改む。從五位下に叙する者十七人。板倉四郞右衛門勝重は伊賀守。松平次郞右衛門重勝は越前守。松平五左衛門近次は若狹守。三好久三郞可正は越後守。三好助三郞長直は備中守。佐々木藤九郞高和は民部少輔。松平長四郞正綱は右衛門佐。松平文三郞重成は志摩守。近藤七郞太郞政成は信濃守。加藤孫次郞明成は式部少輔。石川宗十郞忠總は主殿頭。西尾主水忠永は丹後守。松平源三郞勝政は豐前守。內藤四郞左衛門正成は右京進。松前甚五郞盛廣は若狹守。相良四郞次郞長每は左兵衛佐。遠山勘右衛門利景は民部少輔。山口勘兵衛直友は駿河守と稱す。森左兵衛可澄。赤井五郞作忠泰從五位下に叙し。可澄は筑後守と改め。千石加恩たまひて千五百石になさる。忠泰は豐後守にあらたむ。(將軍宣下記。行列記。家忠日記。紀年錄。續通鑑。寬永系圖。西洞院記。舜舊記。武德大成記。成功記。進上記。貞享書上。大三河志。武家補任。家譜。藩翰譜備考。寬政重修譜)。
 ○廿六日、こたび叙任せし四位五位の武家拜賀のため参內す(將軍宣下記)。
 ○廿七日、八條式部卿智仁親王、伏見中務卿邦房親王、九條關白兼孝公、一條前關白左大臣內基公、二條前左大臣昭實公、近衞左大臣信尹公、鷹司左大將信房卿はじめ、公卿殿上人二條の御所に參向ありて今度の宣下を賀せらる。攝家親王は上段、それ以下は下段にて御対面あり。この日江戶にて內藤修理亮淸成、靑山常陸介忠成公私領の農民へ令せしは、御料私領の農民等、その地の代官幷に領主を怨望してその地を迯去る時は、代官領主よりその事を注進するとも、みだりに還住せしむべからず。迯散の年貢未進あらば、奉行所に於て隣鄕の賦稅をもて各算勘し、その事終るまで何地にも居住せしむべし。領主の事をうたへんと思ふ者は、あらかじめその地を退去すべく思ひ定めて後うたへ出べし。さもなくてみだりに領主の事を目安を以てうたへ出る事停禁たるべし。免相の事近鄕の賦稅に准じてはからふべし。年貢高下の事、農民直に目安をさゝげば曲事たるべし。すべて目安を直に捧る事嚴禁なり。しかりといへども人質をとられ、やむ事を得ざる時はこの限りにあらず。代官幷に奉行所に再三目安をさゝぐると雖ども、承引ざるにをいては其時直にさゝぐべし。もしその事を代官奉行所にうたへずしてさゝぐる者は成敗せらるべし。代官に非義あるに於ては、その旨を告うたふるに及はず直に目安をさゝぐべし。みだりに農民を誅する事嚴禁なり。たとひ罪科ありともからめ取て奉行所に出し、上裁をへて定め行ふべしとなり(將軍宣下記。制法留)。
 ○廿八日、禁中方々の女房より、將軍宣下を賀して二條御所へまいらせものあり(西洞院記)。
 ○二十九日、諸門跡二條御所へ參賀せらる。江戶に於て大納言殿、佐野修理大夫信吉が家人蛻庵に時服三かづけらる。これは蛻庵能書の聞えあるをもて。硯箱印籠に描繪せしめらるゝ詩を書せ給ひしゆへとぞ(西洞院記。慶長年錄。慶長見聞書)。
 ◎是月、細川幽齋法印玄旨は足利家代々につかへければ、その身文武の才藝すぐれたるのみならず、武家の故実典礼にくはしく、当時有職のほまれ高かりしかば、永井右近大夫直勝もて、幽齋につきて武家法令典故を尋問はしめられ、今より後禮法議注を定制せらる。幽齋足利家の礼式を考て、今の世の時宜にしたがひ、家伝礼式三卷をえらびて献ず。又曾我又左衛門尙祐といへるが、これも足利家代々につかへ右筆の事をつかさどり、筆札の故実に精熟せしかば、これより先めして御內書以下の書法を定めらる(家譜。藩翰譜。明良洪範)。
 ◎是春、關西の諸大名は次第を追て江戶へ参り、大納言殿に拜謁す。伊達越前守政宗が子虎菊伏見より江戶に参り、大納言殿に拜謁し、守家の御刀、眞長の御脇差をたまふ。時に五歲なり。この頃江戶彌大都会となりて、諸国の人輻湊し繁昌大かたならず、四方の游民等身のすぎはひをもとめて雲霞の如くあつまる。京より国といふ女くだり、歌舞妓といふ戱塲を開く。貴賤めづらしく思ひ、見る者堵のごとし。諸大名家々これをめしよせその歌舞をもてはやす事風習となりけるに、大納言殿もその事聞し召たれど一度もめされず。衆人その嚴格に感ぜしとぞ(創業記。寬永系圖。當代記。慶長見聞書)。
 ○四月朔日、日蝕することあり(節蝕記)。
 ○二日、醫官片山與安宗哲法眼に叙せらる(寬永系圖)。
 ○三日、神龍院梵舜二條御所へまうのぼり拜謁す(舜舊記)。
 ○五日、二條御所にて猿樂催さる(舜舊記)。
 ○七日、猿樂催さるゝ事五日におなじ。この時進藤權右衛門とて山科の農民、森田庄兵衛とて京の商人なり。この両人そのわざ堪能なればとて觀世召具してまかり、權右衛門は脇をつとめ、庄兵衛には笛を吹せたるに、とりどり妙手なりければ、殊に御けしきにかなひてともに觀世座に列せしめらる。庄兵衛は時に十六歲にて、こと更笛音雲井をひゞかしければ、是より子笛とて常に召れしとぞ(舜舊記。傳記)。
 ○十日、智積院に御朱印をたまふ。その文にいふ。學業のため住山の所化廿年にみたずして法幢を立べからず。坊舍幷に寺領私にうりかふべからず。所化等能化の命令を用ひずひがふるまひせは、寺中を追放つべしとなり(武家嚴制錄)。
 ○十三日、石野新藏廣光死して、その子新藏廣次づく。廣光は長篠の戦に高名し、今は菅沼小大膳定利が家士を引具し、この年頃忍城を勤番せり(寬政重修譜)。
 ○十四日、神龍院梵舜二條城にのぼり拜謁し、三光双覽抄の事御尋問あり(舜舊記)。
 ○十六日、二條より伏見城へかへらせ給ふ(御年譜。西洞院記)。
 ○十七日伏見城にて將軍宣下御祝の猿樂催さる。けふ雨宮平兵衛昌茂死して、その子權左衛門政勝家をつぐ(當代記。慶長年錄。寬政重修譜)。
 ○十九日、諸國の大名伏見城へまうのぼり。太刀馬代幷に酒樽をさゝげ將軍宣下を賀し奉る(当代記。慶長年錄)。
 ○廿二日、豐臣大納言秀賴卿正二位內大臣に昇進せらる。よて廣橋大納言兼勝卿、勸修寺宰相光豐卿大坂へ參向あり。秀賴卿には此時十一歲なり。江戶よりは靑山常陸介忠成を大坂につかはされ任槐を賀せらる(西洞院記。家譜。當代記)。
 ○廿八日、御妹●田姬君逝し給ふ。こは大樹寺殿の御女にて、御母は平原勘之丞正次が女なり。長澤の松平上野介康忠に嫁し給ひ、源七郞康直、源助直隆、隼人直宗、この外にも女子二所まうけ給ひ、けふ五十七歲にてうせ給ふ。後の御名をば長廣院とをくりて、三河国法藏寺におさめられしとぞ(或は長光又長康に作る)。この日藤澤の淸淨光寺遊行伏見に参り拜謁す。夜中地震して後また天地震動すること甚し(家譜。西洞院記。當代記。慶長見聞書)。
 ◎是月、池田少將輝政、その二子藤松に備前国たまはりしを謝して江戶に参り物多く奉る。大納言殿御感淺からず。酒井雅樂頭忠世を御使せられ、滯留の料として粮米を下され、こと更營中に召て御みづから御茶を給ひ、辭見に及びて御刀及虛堂墨跡、幷に鳳凰麒麟と名付られたる駿馬二疋下され、帰国の時は大久保加賀守忠常、安藤対馬守重信をして箱根の関までをくらせたまふ。その優待恩榮人の耳目を驚かすばかりなり。輝政は帰路又伏見に參り拜謝して、藤松ことし五歲なり。成長するまでの間は兄新藏利隆に、備前の国務をとらせまほしき旨を請て御ゆるしを蒙る(寬永系圖。寬政重修譜)。
 ◎この春、江戶に参覲せし關左の諸大名辭見して伏見に参る。又長崎の地は天主教の淵藪なればとて、天正十六年、豊臣家の頃は、鍋島飛驒守某といへる者に所管せしめられ、文祿元年より寺澤志摩守廣高に所治せしめらる。しかりといへども邪風彌盛にしてやまず。こたび改て小笠原爲信入道一庵をその地の奉行に仰せ付けられ、法印に叙せらる。これ長崎奉行の權輿とぞ聞えし、よて與力十人付らる。又大村の處士奥山七右衛門、薩摩の處士八山十右衛門をもて町使役とせらる。これ長崎町使役の濫觴なりとぞ(年錄。長崎記)。
 東照宮御實紀卷六 慶長八年五月に始り九月に終る

 ○五月四日、小笠原越中廣朝死して、その子權之亟某家つがしめらる(寬政重修譜)。
 ○五日午刻、三河国雪雹ふる。山中尤甚し。名藏山は木葉悉く墜落し蛇蝎死する者多し(當代記)。
 ○七日、下野国烏山城主成田新十郞重長、父左衛門尉長忠に先立て卒す(斷家譜)。
 ○十九日、大內より廣橋大納言兼勝卿、勸修寺宰相光豐卿御使として薰袋五十進らせらる。この日神龍院梵舜伏見城にのぼり拜謁し、神祇道幷に日本紀の事ども尋とはせ給ふ(舜舊記)。
 ◎是月、もとの北條の臣山角紀伊定勝卒す。こは小田原の北條につかへて、督姬君小田原へ御入輿のとき御媒しまいらせし御ゆかりをもて、北條滅て後千二百石たまはりしかど、定勝年老たりとて辭退し山林に世をさけて。ことし七十五歲終をとりしなり。ゆへに采邑をばこれより先其子刑部左衛門政定をはじめ子孫等に分ちて、兼て奉仕せしめられしなり。佐竹右京大夫義宣出羽國秋田に新城を築く。毛利黃門輝元入道宗瑞江戶に參り大納言殿に拜謁す(寬永系圖。寬政重修譜)。
 ○六月二日、瀧川久助一時采邑に有て病篤よし聞えければ、納言殿本多三彌正重を御使としてとはせたまふ。正重いまだその地にいたらずして、一時は死したる事を注進する使に逢て。かへり來り其よし聞え上しに、勇士の子孫なればこと更拔擢あるべきを、不幸にして世を早くせりとておしませたまふ(寬永系圖。寬政重修譜)。
 ○六日、武田五郞信吉君(御五男)の老臣等より藤澤の道塲へ制札をたつる。その文にいふ。寺中に於て屠殺するか、竹木斬伐するか、門內にて蹴鞠相撲等すべて狼藉のふるまひするに於ては嚴科に處すべしとなり。その連署の老臣は帶金刑部助君松。河方織部永養。近藤傳次郞吉久。宮崎理兵衛三樂。馬塲八右衞門忠時。万澤主稅助君基といふ(鎌倉古文書)。
 ○九日、貴志兵部正成死す。その子助兵衞正久は普請奉行となり。次子彌兵衛正吉は大番にて各别に采邑たまはりしなり。正成は北條氏照が臣なりといふ(寬政重修譜)。
 ○十一日、戶澤九郞五郞政盛始て就封の暇たまはり時服を下さる(寬政重修譜)。
 ○十五日、長福丸の方伏見城にて髮置の式行なはる(紀藩古書)。
 ○十八日、長谷川甚兵衛重成死して子四郞兵衛重次家をつぐ(寬政重修譜)。
 ○廿二日、吉田二位兼見生絹の帷子三。神龍院梵舜團扇二柄奉る(舊舜記)。
 ○廿五日、大津より御船にめして近江國志那の蓮花を御覽にならせらる。(西洞院記。志那は大津より湖上三里。吉田村の北にありて品津浦又は品村といふ。品村より守山まで一里半。蓮花多くして夏日は遊人常に絕ざる所といふ近江輿地誌)。
 ◎この月、大納言殿の北方(崇源院殿の御事)御長女千姬君をともなひ御上洛あるべしとて、その御首途に先靑山常陸介忠成が許へわれしかば、大納言殿にもおなじくならせられ、忠成にも茶入丸壺硯屏など若干ものたまはり。終日御遊ども數をつくされてかへらせ給ふ。北方姬君はその夜忠成がもとにとまらせたまひ、夜明てかへらせ給ひぬ。やがて江戶をいでたゝせ給ひ、伏見につかせ給ひて御對面ありければ、姬君大坂へ御入輿のためなり。北方このほどは身おもくわたらせ給ひけれど、いとけなき姬君一人を京へのぼせ給はむを、あながちに御心もとなく思召給へば、御身のわづらはしきを忍びてさしそひのぼらせ給ひしとぞ(寬政重修譜。家譜。家忠日記。溪心院文)。
 ○七月三日、伏見より二條へわたらせたまふ(御年譜。西洞院記)。
 ○五日、神龍院梵舜二條へまうのぼり拜謁す(舜舊記)。
 ○六日、一條前關白內基公。照高院門跡道澄。准后聖護院門跡興意法親王。妙法院門跡常胤法親王。飛鳥井宰相雅庸卿。西洞院宰相時慶卿二條城へのぼり拜謁せられ。御宴ありて御物語數刻に及ぶ(西洞院記)。
 ○七日、觀世宗雪江戶にまかりしかば。この日江城にて猿樂催さる(當代記)。
 ○八日、大阪より尼孝藏主をはじめ女房等を二條城にめされ。猿樂催され饗應せられ。藏主及び長野局等は止宿す。これ姬君御入輿の事議せらるゝためなるべし(西洞院記)。
 ○十日、神龍院梵舜まうのぼり御けしきうかゞふ(舜舊記)。
 ○十二日、又おなじ(舜舊記)。
 ○十四日、大番井出三右衛門正勝伏見にてうせぬ。其子三右衛門正吉時に六歲。父が家つぎて直に拜謁せしめらる(寬永系図)。
 ○十五日、二條より伏見城にかへらせたまふ(御年譜。家忠日記)。
 ○廿四日、連歌師里村紹叱沒す。歲は六十五。紹巴が死せしのちは、新治筑波の道にをいて海內の宗匠と仰がれ、柳營年々の御會にも必召れし所なり(寬永系圖)。
 ○廿五日、諸大夫以上の輩登營して拜謁す。近江国膳所の城主戶田左門一西今年六十二歲なりしが、居城の櫓にのぼり顚墜して頓死せりとぞ(重修譜は寬永系圖にしたがひ、一西が死を慶長七年の事とす。しかるに其家譜は八年とす。當代記にも八年とあり。又家忠日記六年に膳所たまはる事をしるし。膳所にある事三年にして終に死すとある文にも符合すれば、今家譜にしたがひ、重修譜の說はとらず)。その子采女正氏鐵に遺領三万石つがしめらる。この一西は吉兵衛氏光が子、天正三年五月、三河国吉田にて武田勝賴と御合戰のとき、敵將廣瀨鄕左衛門と鑓を合せ、また武田左馬助信豐が陣をつき破る。長篠の戰には酒井忠次等と共に鳶巢山の要害をせめぬき、その九月には遠江國小山の圍を解てかへらせたまふ時の殿し、敵追來るを引返しつきやぶる。十二年、小牧山にては。仰により丸山の御陣塲を撿點し。十八年、小田原御陣には、靑山虎之助定義とおなじくすゝみ戰て功あり。關東にうつらせ給ふ時、武藏國鯨井にて五千石の采邑をたまわり、慶長五年には山道の御供して、信濃の上田城責に大納言殿御前にをゐて聞え上たる軍議を。後に御聞に達し御旨にかなひ、このとし從五位下に叙し近江國大津の城主になされ、二万五千石加へられ三万石たまわり、そのとき蓮花王の茶壺を下さる。六年、(寬永系圖及び重修譜のみ七年とす。家忠日記以下諸記みな六年なり)大津の城は山口近くして要宮の地にあらずとて、新に同國膳所崎に城きづかしめて。一西これが主たらしめられしなりとぞ(西洞院記。當代記。寬政重修譜。藩翰譜。 家譜には一西致仕のよししるすといへども。諸書にその證なければとらず)。
 ○廿七日、將軍塚鳴動すること二聲(西洞院記)。
 ○廿八日、千姬君(時に七歲)この日內大臣秀賴公大阪城に御入輿あり。伏見より御船にて大阪にいたらせ給ふ。御供船數千艘引つゞく。この間十里ばかり兩岸の堤上、東方は辻堅として關西の諸大名とりどり警衛し、西岸は加賀中納言利長卿の人數のみ戒嚴專ら整備し、立錐のすき間もなし。細川越中守忠興は備前島邊を警衛す。こと更黑田甲斐守長政は弓鐵炮のもの三百人づゝ出して戒嚴し。堀尾信濃守忠氏は歩卒三百人に耜鍬もたせて出し、御船に先立て水路の巖石をうがち游滓を通じ、御船の澁滯なからしめしかば、この事後に聞召て、忠氏心用ひのいたりふかきを感じ思召れけるとぞ。御船大橋に着てのぽらせたまふ。大坂城にては大久保相摸守忠隣御輿を渡し、淺野紀伊守幸長これを請とる。この時城中の諸有司。大手門より玄關までに疊をしき、其上に白綾をしきて御道にまうけんと議しけるを、片桐市正且元聞て、將軍家は專ら儉素をこのみ華麗を惡みたまへば、さる結搆ほとんど御旨にそむくべしと制しとゞめしとぞ。江原與右衛門金全は姬君に附られ執事役命ぜらる。この頃大坂にては、今度姬君御入輿ありてはますます將軍家より秀賴公を輔導せられ、後見聞え給ひ、四海いよいよ靜謚たるべしといへども、將軍家の威德年を追て盛大になり。ことに將軍の重職を宣下ありて。諸國の闕地はことごとく一門譜第の人々を封ぜられ、天下の諸大名はみな妻子を江戶に出し置て其身年々參覲す。これをおもふに天下は終に德川家の天下となりぬ。さりながら故大閤數年來恩顧愛育せられ、身をも家をもおこしたる大小名、いかでその深恩を忘却し。豐臣家に對して二心をいだかば。天地神明の冥罰を蒙らざるべきと會議して、故大閤恩顧の大小名を城中に會集し、今より後秀賴公に對し二心いだくべからざる旨盟書を捧げ、血誓せしむ。この事は福島左衛門大夫正則がもはら申行ひたる所とぞ聞えし。これ終に後年に至り豐臣氏滅亡の兆とぞしられける。この日、信濃國郡代朝日壽永近路死して、その子十三郞近次家つぎ後に大番になる(創業記。家忠日記。西洞院記。寬政重修譜。武德編年集成)。
 ○廿九日、山城國常在光寺の事により相國寺に御朱印を下さる。その文にいふ。山城国東山常在光寺の寺地山林の替地として、朱雀西院の內にて百石寄附せらる。永く進止相違あるべからずとなり(國師日記)。
 ◎是月、大納言殿北方伏見城におゐて平らかに女御子むませたまふ。これを初姬君と申しまいらす。この北方御身おもくわたらせたまひしかど、千姬君ひとり洛陽にのぼせ給ふを御心もとなく思召て、つきそひのぼらせられ、御入輿の事どももはらあつかひ聞え給ひしに、月も次第にかさなれば江戶にかへらせ給ふもいかゞなりとて、いまだ伏見にましましながら御子うませ給ひしなり。故京極宰相高次が後室常高院尼は、北方の御姉君におはしければ、こたび生給ひし女御子をばまづこの尻のもとに引とり、御うぶ養よりして沙汰せられ、後にその子若狹守忠高にそはせたまひしはこの姬君なり。このころ佐渡の國人等訟ふる旨あるにより、銀山の吏吉田佐太郞は切腹し、合澤主稅は改易せられ、中川市右衛門忠重、鳥居九郞左衛門某、板倉隼人某、佐渡國中を撿視せしめらる(家忠日記。溪心院文。佐渡國記)。
 ○八月朔日、たのもの御祝として、大內へ御太刀折紙を進らせ給ふ。在京の諸大名まうのぼり當日を賀し奉る。石見国の土人安原傳兵衞おがみ奉る事をゆるさる。傅兵衛さきに國中の銀鑛を搜得て大久保石見守長安にうたへしかば、長安これをゆるして堀らしむるに、年々に三千六百貫、あるは千貫二千貫を堀出て上納せしかば、長安大によろこび其事聞えあげしにより、けふ召て見えしめらる。傳兵衛は一間四面の洲濵に銀性の石を、蓬萊のかたちに積あげ車にて引てさゝぐ。ことに御感ありて參謁の諸大名にも見せしめらる。衆人奇珍なりとて稱歎せざるものなし(御陽殿上日記。銀山記。世につたふる所傳兵衛((一に田兵衛に作る))。備中早島の產なりしが、年頃銀山を搜索しけれど尋得ざりしかば、おもひくして同国淸水寺の觀音に參籠して祈請丹誠をこらしける。七日にみつる夜不思議の異夢を蒙り、鍵を授らるゝとみて立かへり、その後銀山を求得て其時金銀山奉行大久保石見守長安にうたへ、公の御ゆるしを蒙りて堀はじめしに、銀の出ることおびたゞしく年々公にみつぎすること若干なり。故にこの年頃石州の銀山に諸國の者あつまり來り、山中の繁昌大方ならず、京堺にもおとらぬ都會となり、傳兵衛が家は甚富をなし、召つかふ家僕千余人に及べりといへり。この時銀性の石を車につみ御覽にそなへ御感を蒙りしをもて、今も石見の国より大坂城の府庫に納る稅銀は、車をもて引事を佳例に傳へたりとぞ(銀山記)。
 ○二日、大內より御たのむの御返しとて物進らせらる。この日、三河国室飯郡豐川村辨財天祠の别當三明寺に御朱印をたまふ。その文にいふ。三河國室飯郡馬塲村のうち二十石、先例にまかせて寄附せらるれば、神供祭禮等怠慢すべからずとなり(御湯殿上日記。可睡齋書上)。
 ○三日、小堀新助正次御使として、石見の安原傳兵衛が積年銀鑛の事に心用ひしを褒せられて、備中と名のらしむべきよし大久保石見守長安に仰せ下さる(銀山記)。
 ○五日、遠山民部少輔利景に美濃国志那土岐兩郡に於て六千五百三十一石六斗余の采邑をたまわる。安原備中改稱を謝し奉り伏見へまうのぼる。御前に召て着御の御羽織御扇を賜はる。備中頓首して落淚におよぶ(貞享書上。銀山記)。
 ○十日、伏見城に於て第十一の男御子むまれ給ひ鶴千代君と名付らる。後に水戶中納言賴房卿と申けるは是なり。御生母はお萬の局といふ。この局は安房の里見が家の老にて、上總の勝浦の城主正木左近大夫邦時入道環齋が女なりしを、入道勝浦の城を退去する時に、小田原の北條が被官䕃山長門守氏廣にあたへたりしかば、氏廣これを養女にしてみやづかへにまいらせたり。これよりさき長福丸のかたを設け、又引つゞきこの御子をもうみ進らせらる。この御子後に勝の局御母代にて養ひまいらせき、勝の局は後に英勝院尼ときこえしなり。この日、神龍院梵舜伏見城へ●うのぼる(家忠日記。以貴小傳。舜舊記)。
 ○十一日、堀田若狹守一繼より千姬君婚禮を賀し進らせければ、大納言殿より一繼に御書をたまふ(古文書)。
 ○十四日、下總國關宿城松平主因幡守康元卒す。その子甲斐守忠良に遺領四萬石を襲しめらる。この康元は久松佐渡守俊勝が二子にて、はじめ三郞太郞と稱す。母は傳通院殿なり。永祿三年五月十八日、(重修譜は寬永系圖により三月に作る。今は大成記。家忠日記。家譜にしたがふ。)久松が尾張國智多郡阿古居の家にはじめてわたらせたまひ、御母君に御對面ありしとき、御母君俊勝がもとにて設たまひし三人の子どもみな見參せしめられしかば、御座近くめして、我兄弟少し。今より汝等三人等をして同姓の兄弟に准ずべしとの御事にて、三郞太郞、源三郞、長福三人みな松平の御家號をゆるされ、三郞太郞御諱の字たまはり康元となのらせらる。五年、三河國西郡の城を父俊勝にたまわりしかど、俊勝は常に岡崎にありて御留守の事を奉りしかば、康元西郡の城をあづかる。元龜三年、三方が原の役には、其身苦戰し士卒死傷する者多し。其後長篠高天神等の役に御供し。天正十年、甲斐國に御進發の時從ひ奉りて駿河国沼津の城を守り、又尾張国床奈郡の城を攻落し、長久手の役には床奈郡の城代をつとめ、十八年、小田原の軍にも從ひたてまつり、北條亡びて後其城を警衛し、仰せをうけて北條が累代の家人武功の者を搜索して家臣とす。この年、下總國關宿の城主になされ二万石をたまふ。十九年、陸奥國九戶の役に、騎士百五十歩卒一千餘人をひきゐて、下野國小山にいたりしかば、その多勢を御感ありて、かへらせたまひし後二万石を加へて四万石になされ、是年叙爵して因幡守と稱す。慶長五年、關原の役にはとゞまりて江戶城を警衛し。七年、傳通院殿の御ためにとて關宿の地に佛宇をいとなみて充岳と号す。ことしけふ五十二歲にて卒せしなり。又御弟三郞五郞家元卒せらる。これは大樹寺殿御湯殿女房の腹にま●け給へる御子なりしが、十三歲の時より足なへて行歩かなわせられず、外殿にも出まさずしてけふ卒せらる。五十六歲なりし、法號を正元院といへりとぞ(寬永系圖。寬政重修譜。大樹寺記。薨日記。この人の葬地も詳ならず。又法號も康元と同じく見ゆ。疑なきにあらず)。
 ○十八日、三河国大濵の長田八右衛門白吉死す。壽八十四。その子喜六郞忠勝はこれより先别に采邑をたまふ。白吉は大樹寺殿このかた奉仕せる者なりしが、天正十年六月、和泉國堺に御座ありし時、明智光秀が謀反により伊賀路をへて伊勢国白子に着御あり。この時兄平右衛門重元と共に船を催して迎へ奉り、白吉が大濵の宅におゐて饗し奉りしとぞ。この日神龍院梵舜伏見城にまうのぼる(貞享書上。寬政重修譜。舜舊記)。
 ○廿日、三河国額田郡妙心寺室飯郡八幡に小坂井村のうちにて九十五石、天王社に篠塚村にて十石。財賀寺に財賀村にて百六十一石余、東漸寺に伊奈村にて二十石。賀茂郡龍田院に高橋の庄瀨間村にて七石五斗。遠江国長上郡神立神明に蒲鄕にて三百六十石、豐田郡八幡宮に中泉村にて十七石、敷智郡應賀寺に中鄕にて三十八石、淸源院に中鄕にて十七石。各社領寺領を寄附したまふ(寬文御朱印帳)。
 ○廿一日、遠江國府八幡宮に同國豐田郡にて社領二百五十石をよせられ、御朱印をたまふ。(寬政重修譜)
 ○廿二日、三河國碧海郡長岡寺に中島村にて十石の御朱印をたまふ。(寬文御朱印帳)
 ○廿四日、美濃衆高木權右衛門貞利死して、その子平兵衛貞盛家をつがしめられ。庇䕃料三百石をあはせて二千三百石余になる(寬政重修譜)。
 ○廿六日、三河國額田郡萬松寺舞木八幡宮に山中舞木村にて百五十石、室飯郡西明寺本宮に長山村にて二十石。華井寺に牛窪鄕中村にて三十六石。富賀寺に宇利庄中村にて二十石。渥美郡常光寺に堀切鄕にて二十六石七斗。幡豆郡妙喜寺に江原村にて十六石二斗の御朱印をたまふ(寬文御朱印帳。世につたふる所、西明寺はもと㝡明寺と書たり。この日住僧御前にめして、㝡明寺はことさらの靈跡といひ、鷺坂の軍に寺僧等も力をいれて忠勤せしかば、寺領境內悉く寄附したまふべし。その上に汝が寺の本尊彌陀佛は、こと更その由緖をもしろしめしたれば、この後西明に改むべしと面命ありて、御印書にも西明としるし下されたりといへり。寺傳)。
 ○廿七日、島津少將忠恒薩摩国より、宇喜多前中納言秀家。その子八郞秀親に、桂太郞兵衛幷に正與寺文之といへる僧をそへ、大勢護送して伏見にいたる。よて秀家庚子逆謀の巨魁なれば、大辟に處せらるべしといへども、忠恒があながちに愁訴するのみならず、その妻の兄なる加賀中納言利長無二の御味方なりし故をもて、その罪を减じ遠流に定められ、先ず駿河國に下して久能山に幽閉せしめらる。やがて八丈が島へながさるべきがためとぞ聞えし。この秀家は關原にて大敗せしかば、伊吹山に迯入しかども、從卒みな迯失てせんかたなく、やうやうと饑餲を忍び薩摩国へ落くだり、島津をたのみ露の命をかけとめたり。その時宇喜多が家人に進藤三左衛門正次といふ者あり。かれはかねてしろしめされしかば、秀家が踪跡を尋させられしに、正次答けるは、秀家敗走の後三日ばかりしたがひしかど、その後は主從わかれかれにかくれ忍で行衞をしらずとなり。これは正次君臣の義を重んじ、その隱る所を申さぬに疑なしとて、かへりてその忠志を感ぜられ、金十枚を給ひ御旗下にさし留らる。この時秀家が秘藏せし鵜飼國次の脇差いかゞなりけむかと御尋ありしに、正次關原の邊にて搜得て奉る。こたび秀家薩摩より召のぼせられしにより、本多上野介正純、德山五兵衛則秀をして正次がことを尋られしに、正次伊吹山中にて秀家を深く忍ばせ置し事、五十日にあまれりといふ。先に正次は三日附添たりと申し、その詞符合せずといへども、その主を思ふ事厚きがゆへに、己が美を揚ずと感じ給ふ事なゝめならず。正次には采邑五百石給ひ御家人に加へられしとぞ(創業記。家忠日記。貞享書上。宇喜多記。寬政重修譜。正次がこと浮田家記。落穗集。東遷基葉。板坂卜齋覺書等の說大同小異なるがゆへ、今は寬永系圖、重修譜によりて其大畧を本文にのせたり。たゞし二譜共に正次に采邑賜はりしを慶長七年十月二日とすといへども、秀家が薩摩より召のぼせられしはこの日なれば、采邑賜はりしもこの後ならざる事を得ず。よて本文その年月はのぞきて書せず)。
 ○廿八日、三河国加茂郡妙昌寺に山田村にて廿石、碧海郡犬頭社に上和田宮地村にて四十三石、引佐郡方廣寺に井伊鄕奥村にて四十九石餘、幡豆郡龍門寺に下町村にて十一石、遠江國周知郡一宮に一宮鄕にて五百九十石、社領寺領を御寄附あり(寬文御朱印帳)。
 ○廿九日、伏見より御上洛ありて知恩院へならせたまひ、御建立の事仰せ出さる。知恩院はかねて親忠君の五子超譽住職せられし地なり。かつ当家代々の御宗門淨土宗の本山なればなるべし(舜舊記)。
 ◎この月、伊達越前守政宗江戶より暇給はり就封し、去年新築したる仙台の城にうつる。よて鷹幷金若干を賜はる。又瀧川久助一時が遺領二千石を其子久助一乘に賜はる。しかりといへども一乘幼稚の間は、その家士野村六右衛門後見すべしとの命を本多佐渡守正信、大久保相摸守忠隣、靑山播磨守忠成よりつたふ(貞享書上。寬永系圖)。
 ○九月朔日、神龍院梵舜伏見に登り御けしき伺ふ(舜舊記)。
 ○二日、山口駿河守直友より島津龍伯入道に書を贈り。宇喜多中納言秀家この日伏見より護送して駿河国久能山に下らしむ。彌死罪を减ぜられ身命を全くせしめらるれば安心すべき旨を告る(貞享書上)。
 ○三日、豐後國臼杵城主稻葉右京亮貞通卒しければ、長子彥六典通に遺領五万六千石をつがしむ。この貞通は故伊豫守良通入道一鐵が子にて、父と共に織田家につかへしばしば軍功あり。織田右府本能寺の事ありて後豐臣家に属し、太閤の軍にしたがひ又戰功少からず。天正十五年の冬從五位下侍從に叙任し、美濃の郡上に新城を築き住す。太閤薨ぜられし後、慶長五年の秋、大坂の奉行等が催促に隨ひ、我身は犬山の城を守りしが關東に通じ、東軍尾張国にいたると聞て、井伊直政本多忠勝がもとに使立て御味方に參るべきよし申す。八月廿日、かくともしらで遠藤金森等の人々貞通が郡上の城を攻ると聞て、子典通と共に鞭鐙を合せて馳かへり、遠藤が陣を散々に打やぶり、その後貞通かねて關東の御味方に參りたり。されども猶合戰の勝負を决せられんとにやといはせければ、遠藤金森も同士軍に及ぶべきにあらねば和睦して立かへる。このよし聞えければ、貞通旣に御味方に參るといへども、をのが城攻られたらんは言甲斐なし。この度のふるまひ神妙なり、さりながら郡上の城は遠藤が累代傳領の地なれば、下し賜ふべきよし已に仰せ下されしにより、貞通には别に所領たまはるべきとて、十二月、今の城たまはり、所領の地加へて五万六千石を領し、この日京の妙心寺中智勝院にありてうせぬ。歲は五十八とぞ。この日また松平長四郞正永初見す(寬政重修譜。家譜)。
 ○六日、吉良左兵衛佐氏朝入道卒す。この氏朝が家は足利左馬頭義氏が二男左馬頭義繼三河國吉良の庄を領せしより吉良と号す。その十一代の孫左兵衛佐成高武藏國世田谷村に住し、これより世田谷の吉良と號す。成高が子左兵衛督賴康、その妻は北條左京大夫氏綱が女之。その子氏朝にいたるまで北條にしたがひてありしが、北條亡びてのち上總國生實に迯る。關東やがて當家の御領となりければ、天正十八年八月朔日、江戶へうつらせ給ひし時、氏朝江戶に參り初て見參す。その子源太郞賴久に上總國長柄郡寺崎村にて千百二十石餘の采邑を賜はりしかば、氏朝は入道して世田谷に閑居し、年頃老を養てけふ六十二にて終をとりぬ(寬政重修譜)。
 ○九日、伊勢慶光院に御朱印を下さる。伊勢兩宮遷宮の事先例にまかせとり行ふべしとなり。これは應仁このかた四方兵革の中なりし故、伊勢兩宮荒廢きはまる事百年に過たり。天正十三年十月、慶光院の開基淸順尼。豐臣家にこひて造替の事はかりし先蹤をもて、この時もかく令せられしなるべし(武家嚴制錄。續通鑑)。
 ○十一日、武田五郞信吉君卒去あり。こは第五の御子にてはじめ萬千代君と申まいらす。御生母は甲斐の武田が一族秋山越前守虎康が女おつまの局、後には下山の方と称す。外戚のちなみによりて武田を名のらせられ、天正十八年下總の小金にて三万石たまはり、文祿元年、同國佐倉の城主になされ四万石を領せらる。天性わづらはしく病多かりしかば、つねに引こもりおはしけるが、慶長七年十一月、常陸國水戶に轉封せられ十五万石賜ひ、けふ廿一にてうせ給ふ。淨鑑院と法號して水戶城內の心光寺に納めらる(延寳七年九月十一日に中納言光圀卿にいたり。瑞龍山の葬地に引うつされ、向山に於て淨鑑院をいとなみ香火院とせらる)。世つぎなければ封地は收公せらる。よて伏見江戶に在勤の諸大名出仕して御けしきをうかゞふ。又三河國額田郡龍海院に御朱印を給ふ。その文にいふ。三河国額田郡妙大寺村の內、寺家門前一の橋より西は田畔下宮まで、南は下宮吉池の辻まで、東は六所の谷境、北は門前一の橋限り先規のことく寄附せられ、竹木諸役免許せらる。佛事勤行懈怠あるべからずとなり。又同国渥美郡興福寺にも、吉田鄕のうち二十石の御朱印を下さる(この龍海院は淸康君御夢を卜したる圓夢が寺にて、世にいはゆる是の字寺といふ是なり)。この日、長田金平白勝はじめて奉仕す(御年譜。家忠日記。藩翰譜。康長年錄。寺傳。寬永系圖)。
 ○十六日、大井石見守政成卒してその子民部少輔政吉つぐ(寬政重修譜)。
 ○十九日、遠江國敷智郡普濟寺に濵松寺島村にて七十石。大通院に濵松庄院內門前の地。長上郡龍泉寺に蒲東方飯田鄕にて三十石。龍秀院には有玉村にて二十五石六斗餘。甘露寺には万解村にて二十石餘。宗安寺に市柳村にて十三石六斗餘。引佐郡龍潭寺には井伊谷祝田宮日のうちにて九十六石七斗余。濵名郡金剛寺に中鄕にて五十石。藏法寺に白須賀村にて十三石。豐田郡寳珠寺に岡田鄕にて三十二九斗餘。三河國渥美郡龍根寺に吉田村にて二十五石餘。幡豆郡法光寺に法光寺村にて十三石寺領を下され御朱印を給ふ(可睡齋書上)。
 ○廿一日、遠江國榛原郡平田寺に相良庄平田村にて五十石の御朱印を下さる(可睡齋書上)。 
 ○廿三日、安藤次右衛門正次目付を命ぜられて伏見に赴く(寬永系圖)。
 ○廿五日、三河國室飯郡上谷寺に牛窪村にて廿石。遠江國豐田郡光明寺に二俣山東村一圓。佐野郡㝡福寺に原谷村にて廿五石餘。靑林院に原谷村にて十七石。大雲院に垂木村にて十七石。長福寺に原谷村にて十四石。旭增寺に原谷村にて十二石。永源寺に名和村にて十二石。山名郡海江寺に堀越村にて十六石。福王寺に西貝塚村にて十二石餘。松秀寺に笘野村にて十二石。圓明寺に柴村にて十八石。豐田郡積雲院に友長村にて二十四石。雲江院に小出村にて十五石。一雲齋に野邊村にて十五石。玖延寺に二俣鄕珂藏村にて二十石。增參寺に向坂村にて十三石。學圓寺大寳寺に高岡捴領方村にて八石餘。赤地村にて五石八斗。合て十三石八斗餘。天龍寺に野邊村にて九石。周知郡崇信寺に飯田村にて十五石。雲林寺に中田村にて十二石寺領を寄附し給ふ。(寬文御朱印帳。世に傳ふる所は、天正四年、光明山に御在陣の時、光明寺虗空藏菩薩に御祈願をこめられしは、もし思召まゝに天下を平均し、萬民水火の苦をすくはせたまひなば、當村●圓にこの寺に寄附し給ふべしとて、又其時の住僧高繼にも其よし御物語あり。天下平均せばこの旨うたへ出よと仰せ下されしとぞ。よて高繼この度伏見へのぼり其事聞えあげしかば、御宿願の事とて山東村一圓御寄附ありしといふ。又三河の定善寺も其むかし御宿陣の地なりしかば、今度御朱印を下されしに、定善を上善としるしたまはりしかば、この後上善寺と改めしとぞ。貞享書上。牛窪記)。この日後藤長八郞忠直死して子淸三郞吉勝つぐ(寬政重修譜)。
 ○晦日、島津龍伯入道へ御書を給ふ。入道使もて砂糖千斤献ぜしが故なり(貞享書上)。
 ◎是月、一尾小兵衛通春始て拜謁して奉仕す。通春は久我大納言通堅卿の孫にて父は三休といふ。母は大友宰相義鎭入道宗麟が女なり。通春久我を稱せしがこれより一尾と改む。又武田五郞信吉君につかへたる松平加賀右衛門康次、成瀨吉平久次召返されて再び御家人に列し、康次は目付になる。又江戶芝浦內藤六衛門忠政が宅地を轉じて、その地の高邸に愛宕權現の祠を搆造せしめ、石川八左衛門重次をしてこれを奉行せしめらる。これは天正十年六月、泉の堺浦より閑道をへて三河にかへらせ給ふとて、大和路より宇治信樂にいたらせ給ひ、土豪多羅尾四郞右衛門光俊が宅にやどらせ給ふ。その時光俊が家に傳へし愛宕權現の本地佛將軍地藏の靈像を献ず。こは鎌倉右大將家護身の本尊にて我家につたへたり。いつも戰塲にもたらして尊信するに、危難をまぬかれずといふ事なし。ゆへに今度御歸路守護のためこの靈像を献じ進らすべしと申ければ、その志御感ありてこれを受納め給ふ。幸に神證といふ僧常に多羅尾が家に來れば、この像奉祀のためにこの僧をも召具せられかへらせ給ひしなり。その後年頃神證をして奉祀せしめられしに、今度その祠を造營せられ、神證が居所をも作らしめられ、遍照院といふ。今の圓福寺これなり(寬水系圖。寬政重修譜。多羅尾家譜。圓福寺記。林鍾談)。
 ◎是秋、大河內喜兵衛政綱歸り參り再び御家人となる。慶長四年、末子平次郞政信が緣者大久保庄右衛門某を切害し、信濃国へ迯去しをもて、政信も大納言殿御憤を恐れしばらく退去して有けるに、伏見より御免を蒙り今度帰参せしとぞ。又藤堂佐渡守高虎が長子大助高次、伏見にて初見の禮をとり、左國弘の御脇差を賜ふ。時に三歲なり。五島淡路守玄雅が子孫次郞盛利、花房志摩守正成が子彌左衛門幸次、根來右京進盛重が子小左次盛正、杉原四郞兵衛長氏が子四郞正永(于時八歲。)初見し奉る。松田勝左衛門政行が養子善衛門勝政初て奉仕す。(時に十四歲) この頃は公武日々に伏見へ登城し群聚するにより、奸賊ひそかに城中に忍び入て鉛刀をかくし。諸大名諸士の持參る良刀と引かへ盜去る事度々なりしを、中山雅樂助信吉その賊を見とがめ速に搦取たりしかば、御感ありて金二枚褒賜せらる(寬政重修譜。寬永系圖。貞享書上)。














(私論.私見)