東照宮御實紀



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 2013.11.01日 れんだいこ拝


【東照宮御實紀考】
 「東照宮御實紀卷一」を転載する。(れんだいこ文法に則り書き改める)
 東照宮御實紀卷一

 かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば、天地ひらけはじめてより五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど、御諱惟仁と申しき。これは文德天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし太政大臣良房の女なり。このみかどを後に淸和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿。常陸大守をへ給ひ桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす經基經主といふ。經基王は淸和のみかどの御孫にて第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。この王はじめて源の氏を賜はり筑前、伊豫、但馬、美濃、武藏、下野、信濃等を歷任し、太宰大貳、左衛門權佐、式部少輔、內藏頭等を累任せられ、鎭守府の將軍に補し、正四位上に叙せらる。これぞ後の世にいふ源氏の武者のはじめなりける。後に神靈をあがめて六宮權現といつぎ祭られ、旧邸の地を蘭若となし、大通寺遍照心院と号す。經基王の御子八人。滿仲、滿政、滿季、滿實、滿快、滿生、滿重、滿賴といふ。長子滿仲朝臣。朱雀、村上、冷泉、圓融、花山、一條の五朝に歷仕し、春宮帶刀の長より兵庫右馬允、兵部少輔、春宮亮、治部大輔、左馬權頭、藏人頭、攝津。越前。伊豫。美濃。武藏。下野。信濃、陸奥等の守、常陸、上總の介に累遷し、正四位上に昇られ、老年の後多田院を造營し、剃髮して多田新發知滿慶と称す。

 滿仲の子六人。賴光、賴親。源。賢賴信。賴平。賴範といふ。第四の子賴信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。從四位上。伊勢。美濃。河內。甲斐。信濃。相摸。下野。伊豫等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬權頭。冷泉院の判官代。鎭守府將軍に補任し內の昇殿をゆるさる。河內國壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕ず。賴信の子賴義。河內。伊豆。甲斐。信濃。武藏。下野。陸奥。出羽。相摸。伊豫等の守。常陸上野介を歷て、左近將監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎭守府將軍になり。正四位下に叙し內院の昇殿をゆるされしが、鎭守府に年をふること九年にして、夷族安倍貞任を征討して功勳世にいちじるし。

 賴義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石淸水の寳殿にして元服せられしかば八幡太郞とは稱せられき。この人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば。東國の武者贄をとりて御家人と稱するもの少からず。正四位下。左衞門尉。左馬頭。左近將監。治部兵部の少輔。武藏。相摸。陸奥。出羽。下野。河內。伊豫等の守を經て鎭守府の將軍たり。弱冠のむかし父賴義にしたがひ奥に下り。九年の苦戰に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のことし。また東奥の任にありて淸原家衡武衡をせめふせて其武威いよいよかゞやけり。

 義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は從五位下。帶刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野国に下り。足利の别莊に幽居し。薙髮して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。季邦とて三人あり。長子義重に新田の庄を讓り。次子義康に足利の庄をゆづられける。新田足利の兩流に分るゝは本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて新田太郞となのり。叙爵して大炊助に任じ。後入道して上西と号し上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國凈海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば、諸國の源氏蜂起するに及びて義家朝臣の曾孫賴朝。伊豆國蛭小島より旗あげして諸國の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故にその招に應ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。これしかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎭守府將軍を贈り給へり。

 入道の子七人。義俊。義兼。義範。義季。經義。義光。義佐といふ。四郞義季は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の鄕德川の邑に住せられしより。その子孫德川世良田を稱する事とはなりぬ。

 義季の子三人。賴氏。賴有。賴成といふ。長子賴氏。始は世良田孫四郞といふ。鎌倉將軍賴嗣幷に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。從五位下三河守に叙任す。世良田長樂寺に寺領寄附の文書を藏せり。賴氏の子經氏。教氏。有氏とす。(大系圖には經氏を江田三郞滿氏とす) 二子教氏は世良田次郞とも又三河次郞とも稱し。また德川を稱し。後に靜眞と號す。(この二世三河守に任じ三河次郞と稱ぜられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徵とすぺし。豈奇遇ならずや) 

 教氏の子を家時とす。世良田又次郞また孫太郞とも稱し父に先だちてうせらる。(長樂寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき) 家時の子を滿義とす。世良田彌次郞また孫四郞ともいふ。新田左中將義貞に屬し。南朝に仕へて忠勤を勵みしが。義貞うせられし後一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田德川の間に隱れ住む。後に宗滿と號す。(世には此滿義を太平記にのせし江田三郞光義とす。又教氏の弟三郞有氏の子江田彈正行氏を光義の事なりともいふ。いづれ是なりや) 滿義の子二人。政義。義秋といふ。(大系圖第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。

 德川系図、新田松平譜、大成記等にのする所も前說のことくなれば今これにしたがふ。三家考に滿義の子義周、その子義時。その子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記大成記にその伝詳にのせず。波合記といへるものには、政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫、宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し、三河にともなひまいらせんとして波合にて討死されたりと見ゆ。德川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永德の頃、新田一門波合にて皆な討死せられしに、新田義宗の子相摸守義陸の討もらされ、後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ、底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし、母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州靈山にて旗擧ありし時、上野の世良田大炊助政義、桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑なく見ゆ) 

 政義の子を修理亮親季といふ。親季の子を左京亮有親とす。有親の子を三郞親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが、京鎌倉より新田の黨類を搜索ひまなかりしかば、この危難をさけんがため故鄕をさすらへ出られ、(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ搜索しきりなれば、父子孫三人東西に立ちわかれ世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども、鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに、小山犬若丸に方人して奥州に下り、新田義陸を大將と守立んとせられしに、その事ならずして新田。小山。田村黨皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに、小山が一亂より搜索嚴なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に來りたまひ、稱名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて、その墳今も稱名寺に存す) 時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび、父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが、宗門のちなみによて三河國大濵の稱名寺に寄寓せられ、こゝにうき年月を送られし間に、有親はうせ給ひしかば、その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。

 又この國酒井村といへるに、五郞左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄唯人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。德太郞忠廣(又小五郞親淸ともつたふ。これ今の世の酒井が家の祖なり)といふ。さて五郞左衞門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに、その頃同國松平村に太郞左衞門信重とて、これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが、いかなるゆへにか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに、今親氏やもめ居し給ふを見て、その女にあはせて家をゆづらんとこふこと頻なり。親氏もとより大志おはしければ、かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆづり、その身は信重が懇願にまかせ松平村に移り、その女を妻としその讓をうけて松平太郞左衛門と名のられけるが、松平酒井兩家ともにきはめて家富財ゆたかなりし程に、貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ、近鄕の旧家古族はいふに及ばず、少しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみをむすばれしほどに、近鄕のものども君父のことくしたしみなつかざるはなし。

 親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後、吾つらつら世の有樣をみるに、元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして應仁以來長祿寬正の今にいたりて、足利將軍家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し、臣は主を殺し子は父を追ひ、人倫の道絕萬民塗炭のくるしみをうくること今日より甚しきはなし。吾また淸和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近国を伐なびけ、民の艱難を救ひ武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば、衆人もとより父母のことくおもひしたしむ事なれば、いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち身に叶へる勤勞をいたすべしとうけがひしかば、兼て慈惠を蒙りたる近鄕のものども、招かざるに集まり來しほどに、まづ近鄕に威をたくまじうする者の方へ押寄せて、降參する者をば味方となし、命にさからふものは伐したがへられしかば、ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも、大畧はその威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける) 卒去有りて松平鄕高月院に葬り、芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりといふ) その跡をつぎて是も太郞左衛門と称せらる。父親氏の志をつぎ、弱をすくひ强を伐て貧を惠み飢をすくはれしほどに、衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。

 その頃、洞院中納言實熙といへる公卿、三河國に下り年月閑居ありしに、(世には實熙三河に左遷ありしよし伝ふるといへども、應仁より後は都争乱の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ、縉紳の徒都に住わびて、ゆかりもとめ遠國に身をよせたる者少からず。この卿も三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし) 泰親この卿の沉淪をあはれみ懇に扶助せられ、すでに帰洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後公武に請ひて泰親を三河一国の眼代に任ぜられしかば、これより三河守と称せらる。この時岩津岡崎に兩城を築き、岩津にみづから住し、岡崎にはその子信光を居住せしめらる。

 泰親の子六人。長子信廣に松平鄕をゆづりろ、松平太郞左衛門と称す。(今三河の鄕士松平太郞左衛門が祖なり) 二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親、四男は出雲守家久、五男は筑前守家弘、六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り、良祥院殿とをくらる。信光家繼て岩津岡崎の兩城主たり。この人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ、この時よりぞいよいよその一門は國中に滋蔓し、ますます近国近鄕その威望かくれなく、国人歸降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家(これを竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今その後なり)、二男は右京亮親忠。これを嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釋門に入りて安穩寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信豪が祖)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが、この筋今は絕えたり) 六男八郞左衛門光英。七男彌三郞元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今圖書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり) 八男次郞右衛門光親。(能見の松平といふ。次郞右衛門光福。河內守親良等の祖なり) 九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郞親則(長澤の松平といふ。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす)。この外はその名つまびらかならず。

 この時、畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ、その外所々攻め取りて三河国三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて、かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す。(岩津の信光明寺をいとなみ、卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その跡をつがる。子九人。太郞親長は岩津を領せられ。二男源次郞乘元(後加賀守)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乘完等の祖) 三男次郞長親をもて家督と定めらる。四男彌八郞親房(後玄蕃助)。五男は釋氏に歸し超譽と號し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光(西福釜の松平といふ)。七男左馬助長家安祥と稱す)。八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乘淸瀧脇の松平といふ。監物乘道。丹後守信德等が祖)。

 明應二年十月の頃、三河國上野城主阿部孫次郞。寺部城主鈴木日向守。擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせけるに、親忠一門家兵を引率し井田の鄕に出張し、わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし、敵の首五十餘級を討とらる。この後は西三河の国人大半は歸降し勢いかめしく聞えける。この合戰に討死せし敵味方の骸をうづめ、額田郡骸鴨田といへる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に讓り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)

 長親ゆづりを受て出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郞三郞信忠。二男右京亮親盛(福釜の松平といふ)。 三男は內膳正信定(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖)。 四男甚太郞義春(東條の松平といふ)。 五男彥四郞利長(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寳等が祖)。長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば、衆よくなびきしたがふ。

 この頃、今川修理大夫氏親駿遠兩國を領し、三河も過半はその旗下に屬しけるが、近來西三河はいふまでもなし。東三河の国士どもやゝもすれば今川を去りて長親にしたがはむとする樣なるを見て大に驚き、その所屬北條新九郞入道早雲を將とし一萬餘の兵を率して、永正三年八月廿日庶兄太郞親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討つて出、岩津の後詰して早雲が大軍を迫ひ拂はる。この勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば、いまだ壯の齡にてかざりをおろし道閱と号し、長子忠信に家をゆづられ、所領悉く庶子にわかちさづけ、風月を友とし連歌をたのしみ、八十あまりの壽をたもち、曾孫廣忠卿の御時までながらへて、天文十三年八月廿一日、終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿といへり。

 信忠家をつがれし後藏人また右京と稱せらる。子三人。長子は次郞三郞淸康君、二男は藏人信孝(三木の松平といふ)、三男は十郞三郞康孝(鵜殿の松平といふ)、信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ、新降の國人共やうやうそむきけるほどに、譜代の郞黨にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば、信忠其機を察せられ、何事も殘り多き齡ながら、僅十三になり給ふ淸康に世をゆづり、頭おろし春夢と號し大濵の稱名寺に閑居ありしが、四十に一二餘りしほどにて享祿四年七月廿四日、父道閱入道に先立てうせられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。その太郞淸康君、これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日、十三歲にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず萬にいみじくわたらせ給へば、御內外樣のともがらもこの君成長ましまさば、終に中國に旗擧し給ふぺしと末賴母しく思ひ、なびきしたがふ事父祖にもこえ、信忠の御時に離散せし者どもゝ、ふたゝび來りて旗下に屬するやから少からず、岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は、信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに、淸康君十四歲にてこれをせめんとて、元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ、難なく山中城を攻拔かれ、猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに、昌安入道敵しがたくおもひ、をのが最愛の女子をもて淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば、これをゆるされ、その女をむかへて北の方となされ、岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが、信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ、昌安入道までこゝにありしが、このとき再此城本家に歸せしなり) 世には安祥の三郞殿と稱しその武威を恐れける。

 享祿二年五月の頃 三河はみな御手に属しければ、これより東三河を打ち従え三州を一統せられんとの御志にて、牧野伝藏信成が吉田の城を乘とらんとて、安祥を打立ち給ふ。信成終にかけまけて、兄弟をはじめ主従悉く討死す。かくて淸康君は直に吉田川の上の瀨を押し渡し吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば、淸康君その城に入て人馬のいきを休め、一両日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戶田彈正少弼憲光大におそれ、これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒すすめ奉る。淸康君はこの勢に乘じ近辺の城々に押し寄せ攻め抜き給ふ。破竹のことき勢に辟易して、牛久保の牧野新次郞貞成、設樂の設樂神三郞貞重、西鄕の西鄕新太郞信貞、二連木の戶田丹波守宜光、田峰野田の菅沼新八郞定則、その外山家、三方、築手、長間、西郡の輩風を望みて歸降す。

 享祿二年、尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎野呂(一に科野につくる)を攻めぬき、おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。天文二年、廣瀨の三宅寺部の鈴木等と戰て敵みな敗走し、その冬信州の大軍を迫拂はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三郞信光、美濃の國士数十人かたらひ、淸康君へ志をはこび、もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。淸康君もとより望所の幸なりと、一万余の軍勢にて、天文四年十二月、尾州へ発向し給はむと、まづ森山へ着陣あれば、美濃の国士共もみなこゝにまいり、贄をとりて拜謁し、やがて信秀を淸洲より引出さんと、謀をめぐらし近鄕を放火せらる。しかるに叔父內膳正信定もとより腹黒き者なりしが、いつしか志を変じ織田がたに內通し、安祥の虛をうかがひ本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ、淸康君も酒井大久保などいへる旧臣等の諫にしだがひ、まづ軍をかへさるべきに定りぬ。その頃、阿倍大藏定吉といへる、御家に年ふるおとななりけるが、この者織田に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大におどろきその子彌七を近よせ、我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。我もし不慮に誅を蒙るとも、汝はいかにもして世にながらへ、父が寃をすゝぐべしとなくなく庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外騷動す。 

 淸康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ、木戶を閉よ取迯すなと指揮し給へる御声を聞て、かの彌七は父大藏唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。淸康君の立給ふ御うしろに走り寄て、御肩先より左の脇の番をかけ、たゞ一刀に切り付けたり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者ども、だゞあきれはてたるより外の事なし。扈從に植村新六郞とて十六歲の若者、御刀とりて御かたはらにひかへしが、その御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切ふせたり。衆人この時にいたりかの大藏をとらへ糺問するに、定吉ありし事どもかくさずものがたり、吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも、君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて、首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば、聽人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閱入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虛に乘じ追討せんは必定なれば、いそぎ君の御なきがらを守護し、軍を全くして一時もはやく歸國せむにはしかずと、衆軍俄に周章狼狽し、鎧の袖を淚に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ伝えしはこの時の事なりとぞ。 

 淸康君はじめには昌安入道が息女(春姬と申せしなり)をむかへ北方と定め給ひしかど、琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず、後近鄕の鄕士靑木築後守貞景が女をもて北方となさる。この腹に贈大納言廣忠卿生れさせ給ふ。これ東照宮の御父なり。この北方は御產後にとくうせ給ひしかば、又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河內左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郞秀成にはかりあはせたまひむかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河內氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。淸康君逝去は天文四年十二月五日、忠政の死は同十二年七月十二日なれば、淸康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ) 

 かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立帰り、そのほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ、御骨をば大樹寺におさめ、善德院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。隨念寺記に菅生丸山に御火葬して、その地に御塚ありしゆへ、烈祖永祿四年、隨念寺をその地に造營し給ふと見え、又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。淸康君御事ありし後、御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば、今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて、三所に葬りたるものなるべし) この君時に廿五歲、さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを、おしみてもなをあまりある御事なり。三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき、上下たゞ火をけちたる如く驚歎して、ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人、かの大藏が事を入道に申て御下知を乞しに、入道なくなく仰せけるは、彌七が大罪全く狂氣のいたす所なれば、父大藏が罪にあらず、大藏は舊にかはらず忠勤をつくすぺしと仰せければ、定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。  

 廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし、御家人をのをのかしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ、今年はわづかに十歲にならせたまふ。御弟二人御妹一人あり。その一人は源次郞信康、その次は釋門に入て後に大樹寺の住職となり成譽と号す。御妹ハはじめ、長澤の松平上野介康高の妻となり、後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。

 さて天文五年二月のはじめ、織田信秀は淸康君の御事を聞定め、今は岡崎も空虛なるべし、西三河を併呑せん事この時にありと、八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども、さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと、宗徒の輩血をすゝつて誓をなし、井田鄕にをいて敵をむかへて决戦し、おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林植村高力などいへる究竟のともがら四十人余戦沒す。かの內膳信定は淸康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが、淸康御事ありし後また奸計をめぐらし、老父の入道へしきりにこびへつらひて、今は幼君の後見となり、岡崎の政務を專らにし、何事もおもふまゝにふるまへば、御家人等もせん方なくいまは信定を尊敬する事主のごとく、敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましきふるまひ多きを見て、かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて、ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戶城主東條右兵衛督持廣は、淸康君の御妹聟なれば、定吉、幼主を持廣に賴みしばし神戶にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたはり、こゝにて首服をくはへ、をのが一字をまいらせ、二郞三郞廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病沒し、その子上野介義安は父の志を背き織田方に內通し、廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば、定吉大におどろきまた廣忠卿をともなひ神戶を迯出て、遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り、その身駿河に行て今川治部大輔義元をたのみ、廣忠卿御帰国の事をこふ。

 義元もとより近国を併呑し終には中国に旗を立んとの素志なれば、速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郞兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を尽しける。御叔父藏人信孝、十郞康孝、その外林、大原、成瀨、八國、大久保党等これに応じ、若君当家の正統にましませば、国に迎へ奉らん事を議しあひ、今川義元は廣忠卿を帰国せしめ、岡崎をはじめ三州一円をのが旗下に屬せしめん下心なれば、東三河與力の士をかり催して、先ず廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ、廣忠卿に陪從せし御家人等を先鋒とし、織田方旗下に屬したる東條の城主吉良左兵衛佐義鄕を攻しめ義鄕も討死す。信定これを聞おどろき、若君を国に入しめじと樣々心がまへせしかど、普第の御家人一致して天文六年五月朔日、終に廣忠卿を岡崎に迎へ入奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感狀今林肥後守忠英が家に存せり) 信定も今は力をよばず又老父入道にたよりて、廣忠卿へ降參しいく程なく病沒せり。この後岡崎には藏人信孝、十郞三郞康孝兩叔父を後見とし、大藏定吉等おもふまゝに軍国の事をとり行ふ。淸康君後の北方(華陽院殿御事なり)、いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(伝通院殿御事なり)。定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり、廣忠卿の北方となし奉る。

 天文十一年十二月廿六日、この御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ当家の烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳來寺峰の藥師に御祈願ありて、七日滿願の夜藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより、身重くならせ給ふなど、日光山の御緣起にも記されし事多し) 石川安藝守淸兼蟇目をなし。酒井雅樂助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後、その子下野守信元は今川方を背き織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ、吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に內通する信元が緣に結ぼふるべきにあらずとて、北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歲なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。

 さてその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて、北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは、わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り來りたりと聞ば、定めて憤りて一々切りて捨らるゝか。又は髮を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず、左もあらんにはわらはこそ緣盡て兄のもとにかへさるゝとも、竹千代を岡崎にとゞめをけば、岡崎のものを他人とは思はず、そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば、終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて、いかに申せども聞入れ給はねば、御送りのともがらもせんかたなく、その所の民どもに御輿をわたし御暇は申しけれど、猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに、はたして刈屋より混甲二三十人出來たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに、御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして、岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ帰りしが、今程ははや岡崎へや至りつらん、追かけても及ぶまじと仰せければ、刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姊君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが、家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに、我又水野が緣につらなるべからずとて、その妻をも刈屋に送り帰したりしに、信元大に怒りて送りのもの一人も殘さず伐て捨つ。こゝに於て後までも、廣忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取とよばれ給ふ名將の母君ほどましまして、いみじき御思慮かなと世にも聞き伝えて感歎せぬはなかりけり。 

 廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元、後に康元、生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多刧姬と申す。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郞忠吉にあはせ給ひ、その後また保科彈正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に正光に降嫁ありし烈祖の御妹は、傳通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり) その次は市塲殿とて荒川甲斐守賴持(又義虎)に嫁し給ひ、後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姬と申し、長澤の源七郞康忠に嫁したまひき。廣忠卿にはこの後田原の城主戶田彈正少弼康光の女をむかへ給ひしかど、この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郞信乘が子兵庫の頭親良といへるも、桑谷の右京大夫忠政といへるも、內藤豐前守信成といへるも、実はこの卿の御子なりしともつたへたり。

 十四年弥生の頃、御家人岩松八彌何のゆへもなく、御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり(隣国より賴まれて刺客となりしといふ)。御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ、のがさじと追出給ひしかど、御股の疵痛ませ給へば追付給はず、この時も植村新六郞外のかたより来ながら、おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ、共にからぼりの中におちいり、終に組敷て八彌を伐はたす。この植村さきに淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ、今度また八彌をもその座をさらず首をとり、二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と、感じうらやまぬ者ぞなかりける。このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに、三州にても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井將監忠尙等をはじめ、ここに內応する徒もすくなからず。こゝに又藏人信孝は廣忠卿を翼立せし功により、その威権肩をならぶる者なかりしかば、縱恣のふるまひ多かりしを、大藏定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し、信孝が矯逸そのまゝにすてをかれば、昔の內膳信定がふたゝび生せしごとくならんと、よりよりに廣忠卿をもいさめたり。

 十六年正月頃、卿御病惱にわたらせ給へば、御名代として信孝を今川がもとへ歲首の御使に赴かしめ、その跡にて信孝が三木の領地を沒入しければ信孝帰りて大におどろき、吾翼立の功ありて罪なし、何の故にかく所領を沒入せられしぞ、これは定て吾をにくしと思ふ大藏等が讒訴のいたす處ならむとて樣々陳謝すれども、これをとりつぐ者もなければ、終に憤りにたへずしてこれも織田方に內応の志を抱きけり。このほど道閱入道殿もうせ給へば、織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責め落し、その子三郞五郞信廣をこめ置く。渡理筒針に砦をかまへ、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井將監忠尙を置きて掎角の勢を張れば、もとの信定が子內膳淸定、山中の權兵衛等もこれに応じ、岡崎孤城となりて甚危し。国中大に乱れてあけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時、筧平三郞重忠は岡崎の御家人なりしが僞て忠倫に降参し、したしみつよて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば、岡崎がたは大に悅び織田方は援助を失ひしに、信秀大に怒り、さらばみづから大軍を率し三州に出陣し、岡崎を攻めぬかんと用意する由聞えしかば、岡崎にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく、今川がもとへ援兵をこはる。

 義元聞て人質をこひけれは、竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを、駿州に質子たるべしとの事にさだまり、石川與七郞數正、天野三之助康景、上田萬五郞元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郞忠正、江原孫三郞利全等すべて廿八人。雜兵五十余人。阿部甚五郞正宣が子德千代(伊豫守正勝なり)六歲なりしをあそびの友として御輿に同じくのせてつかはさる。こゝに田原の戶田彈正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば、この御ゆかりをもて、陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し、西郡より吉田へ入らせ給ふ所を、康光ハその子五郞政直とこゝろをあはせ、御供の人々をいつはりたばかり船にのせて尾州熱田にをくり、織田信秀に渡しければ、信秀悅び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預け置きしとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て、幼息竹千代は我膝下に預り置きたり。今にをいては今川が與国をはなれ我かたに降参あるべし。もし又そのことかなはざらんには、幼息の一命たまはりなんと申し送りたり。卿その使に対面し給ひ、愚息が事は織田がたへ質子にをくるにあらず。今川へ質子たらしむるに、不義の戶田婚姻のよしみをわすれ、中途にして奪い取て尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ、義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば、信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置きて、勤番きびしく付け置きしとぞ。今川義元も卿の義心に感じ、さらば援兵つかはすべしとて、遠江幷に東三河の勢をさしむけ、三州小豆坂にて織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。藏人信孝織田方へ內通すといへども、三左衞門忠倫うたれし後は同志のともがら衰落するを憤り、みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ、權兵衛重弘も山中城より落うせしかば、織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば、岡崎にも防戦の用意専らにすといへども、織田方は大軍岡崎は小勢なれば、いかがはからはんと上下心をなやます。その中に廣忠卿には去年以来御心地例ならずましまししが、日にそひおもらせ給ひ、天文十八年三月六日、廿四歲にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを、一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松応寺の旧記をあはせ考るに、この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて、ふたゝび今川へ加勢を請たまふ最中、廣忠卿逝去ましましけるゆへ、御家人等この事織田方へ聞えんことを恐れ、その頃ふかく御帰依ありし法藏寺教翁和尙と內話し、岡崎近き大林寺にて後のわざし、能見の原に內葬して後、今川へもその旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり。松応寺これなりといふ)。  

 慈光院殿とをくり又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年、大一統の後にぞ、大納言ををくられ大樹寺殿と号したまふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし、岡崎の兵をくはへて二万余騎、織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ、本丸を殘しその外二三の丸まで攻おとし、今川がたの總將雪齋和尙がはからひにて、信廣と竹千代君と人質替の事を申し送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家継しが、もとより勇銳の大將なれば、庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窘困すると聞きて、これをすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが、安祥旣に陷ると聞て引返さんとする處に、今川が使者至り人質替の事を申ければ、信長も悅て約を定め十一月十日、三河の西野笠寺まで竹千代君を送りまいらすれば、こなたよりも大久保新八郞忠俊などいへる岡崎普代のつはもの出むかへ受け取て、信廣をば織田方へ引渡す。  

 君は天文十六年六歲にて尾州の擒とならせられ、八歲にしてことしはじめて御帰国あれば、御家人はいふまでもなし岡崎近鄕の土民までも君の御帰国をよろこぶ所に、今川義元岡崎の老臣等に、竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申し送り。十一月廿二日、竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少將宮町といふ所に君を置きまいらせ、岡崎へは駿河より城代を置きて、国中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも每度合戦の先鋒に用ひたり。  

 君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる。その間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に、廣忠卿うせ給ひ、竹千代君いまだ御幼稚なれば、敵国の間にはさまりとても独立すべきにあらず。織田方に降参せんといふもあり。又は今川は旧好の與国なれば、今川に従はんこそ旧主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に、義元いちはやく岡崎へ人数をさし向け城を勤番させければ、岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。これ說これなるに似たり)
 東照宮御實紀卷二 弘治二年に始り天正五年に終る

 竹千代君御とし十五にて今川治部大輔義元がもとにおはしまし御首服を加へたまふ。義元加冠をつかうまつる。關口刑部少輔親永(一本義廣に作る)理髮し奉る。義元一字をまいらせ、二郞三郞元信とあらため給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜親永が女をもて北方に定めたまふ。後に築山殿と聞えしは、これ御事なり。

 二月には義元がはからひにて三河国日近の城をせめんと、君の御名代には御一族東條の松平右京亮義春をしてさしむけしに、城將奥平久兵衛貞直よく防ぎて義春討ち死にす。この城は三尾の国境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞をかまへ、酒井大久保をはじめ宗徒の御家人を添えて守らしむ。織田上總介信長これを聞き、柴田修理亮勝家を將として攻めさせけるに、御家人等力をつくし防ければ、勝家深手負て引きかへす。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。

 君義元にむかはせ給ひ、それがし齡すでに十五にみち、いまだ本国祖先の墳墓にも詣です。願はくば一度故鄕に帰り祖先の墳墓をも掃ひ、亡父の法事をもいとなみ、故鄕にのこせし古老の家人へも対面仕たしと仰せらる。義元も御志のやむごとなきをもて、やむことを得ずしばしの暇まいらせければ、君御悅なゝめならずいそぎ三河へ立ちこえたまひ、御祖先の御墓に詣給ひ御追善どもいとなませ給ふ。

 この時、岡崎には今川の城代とて山田新右衛門などいふもの本丸に住居けるに、君仰せけるは、吾いまだ年若し。諸事古老の異見をも請べければ、そのまゝ本丸にあるべしとて、御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれをきゝ、さてさて分别あつき少年かなと感じけるとぞ。為に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人、今は八十にあまれる老人なり。その身今川が命をうけ岡崎にて賦稅の事を司りしが、忍び忍びに粮米金錢を庫中にたくわへ置く。こたび君御帰国ありて、普第の人々対面し奉りよろこぶ事かぎりなき中にも、忠吉は君の御手をとり、年頃つみ置きし府庫の米金を御覧にそなへ、今よりのち我君良士をあまためしかゝへたまひ、近国へ御手をかけたまわんため、かく軍粮を儲置候なりと申しければ、君御淚を催されその志を感じたまひぬ。又義元三河を押領し年頃諸方の交戦に我家人をかりたてゝ、普第の家人どもこれがために討死する者多きこそ、何よりのなげきなれとて、更に御淚をながしなきくどかせたまひける。古老の御家人らこれを見聞し、御年のほどよりも御仁心のたぐひなくわたらせ給ふさま、御祖父淸康君によく似させたまふことゝて、感歎せぬはなかりけり。

 翌年の春にいたり駿府へかへらせ給ひぬ。御名を藏人元康とあらためたまふ。これ御祖父淸康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。弘治も四年にて改元あり永祿となりぬ。君ふたゝび義元のゆるしを得たまひ三州にわたらせられ、鈴木日向守重教が寺部の城をせめ給ふ。これ御歲十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸將をめされ御指揮ありしは、敵この一城にかぎるべからず、所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先ず枝葉を伐取て後本根を断つべしとて城下を放火し引とり給ふ。酒井雅樂助正親石川安藝守淸兼などいへるつはものどもこれを聞て、吾々戦塲に年をふるといへども、これほどまでの遠慮はなきものを、若大將の初陣よりかゝる御心付せたまふ事、行々いかなる名將にかならせたまふらんと落淚してぞ感じける。

 又義元も初陣の御ふるまひを感じて、御旧領のうち山中三百貫の地をかへしまいらせ腰刀をまいらせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる廣瀨擧母伊保等の城をせめ、石が瀨にて水野下野守信元と戦い給ふ。軍令指揮その機を得たまひし生智の勇略、古老の輩感服せざるはなし。この頃、岡崎の老臣等駿府に行て、元康旣に人となり帰城するからには、駿府より置かれし城代その外人数をば引き取り給ひ、旧領かへしたまはりなむやと請けれど、義元我明年尾州へ軍を出さむとす。そのちなみに三州へも赴き境目を查撿して旧領を引きわたすべし。それ迄は先あづかり置くべしとあれば、岡崎の老臣どもゝせん方なく、ひそかに憂憤してむなしく月日を送りたり。

 二年三月、北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ、三郞信康君と称したまへるはこれなり。この頃、織田信長は父信秀の箕裘をつぎ、兵を强くし国をとますの謀をめぐらし、美濃伊勢を切なびけ駿遠三を押領せむと、鳴海近邊所々に砦をまうけ兵をこめ置くと聞く。今川義元大に怒り、さらば吾より先をかけて尾州をせめとり直に中国へ旗を立んと、これも国境所々に新寨を設け兵をこめし中にも、まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠置しが、この城敵地にせまり軍粮を運ぶたよりを得ず。家のおとなどもをあつめ評議しけれども、この事なし得んとうけがふ者一人もなし。しかるに君はわづかに十八歲にましましけるが、かひがひしくうけがひたまひ、敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城內へはこび入しめられければ、敵も味方もこれをみて、天晴の兵粮入かなと感歎せずといふものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて、今の世まで大高兵粮入とて名誉のことに申ならはしける。

 (大高送粮の事異說區々なり。その一說尤審なり。そのゆへは信長寺部擧母廣瀨の三城へ兵をこめ置きて、今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには、鷲津丸根両城へ牒し合せて遮りとめんと設たり。烈祖はやくその機を察せられ、先鷲津丸根両城を捨て寺部の城下を放火し、その城へせめかゝらん躰を示し給へば、鷲津丸根の両城は寺部を救わむ用意するそのひまに、難なく軍粮をば大高城へ運送したまふといふ。これ是なるがごとし)

 この後も義元の指揮によつて寺部梅津廣瀨等の城々を攻め給ひ、又駿府へ帰らせ給ふ。あくれば三年、義元用意旣にとゝのひしかば、駿遠三の軍四万余を引具し尾州表へ発行す。君もその先隊におはし給ひ、先丸根の城をせめ落したまひ、やがて鷲津も駿勢せめおとす。義元大高城は敵地にせまり大事の要害なればとて、鵜殿にかへて君をして是を守らせ、その身は桶峽間に着陣し陣中酒宴を催し勝ほこりたるその夜、信長暴雨に乘じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなくうたれしかば、今川方大に狼狽し前後に度を失ひ逃かへる。  

 君はいさゝかもあはて給はず、水野信元より義元討れし事を告進らせて後、しづかに月出るを待てその城を出給ひ、三河の大樹寺まで引とり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番らは、義元討死と聞て取ものもとりあへず逃げ去りければ、そのまま城へ入らせ給ふ。君八歲の御時より駿府に質とせられ、他の国に憂き年月を送らせ給ひ、ことし永祿三年五月廿三日、十七年をへて誠に御帰国ありしかば、国中士民悅ぶ事かぎりなし。

 (義元より兼て武田上野介、山田新右衛門等を岡崎の城代に置きしが、今度尾州出軍に及びまた三浦飯尾岡部等をして岡崎を守らせけるに、義元討死を聞きこの輩みな逃げ去りければ、難なく御帰城ありしとなり)

 君の御母北方は岡崎より刈屋へかへらせ給ひて後、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ、こゝにて男女の子あまた設け給ひしが、君は三の御年别れ給ひし後は御対面も絕はてし故、とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ、幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに、阿古屋へ立よらせたまはんとて懇に御消息ありしかば、御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。この久松は水野が旗下に屬し織田方なれど、御外戚紛れなき事なれば何かくるしかるべきとて、その用意して待ち設たりしに、君やがてその館にましまして御母子御對面ましまし。互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて、なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に三人並居し男子を見給ひ、これ母君の御所生なりと聞しめし。さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。これ後に因幡守康元、豊前守康俊、隱岐守定勝といふ三人なり。

 信長は義元を討ち取て後は、君にも織田方に組したまふらめとはかりし所に、君は岡崎へかへらせ給ひて後も、擧母梅津の敵とたゝかひ拂楚坂石瀨鳥屋根東條等にて織田方の勢と攻あひ力をつくしたまへば、信長も思ひの外の事とぞおもはれける。義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず、寵臣三浦などいへるものゝ侫言をのみ用ひ、空なしく月日を送るをみて、信長は君をみかたとなさんとはかり、水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに、君も氏眞終に国をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし。終に信長のこひにしたがはせ給へば、信長も悅なゝめならず。かくて君淸洲へ渡らせたまへば信長もあつくもてなし。これより両旗をもて天下を切なびけ、信長もし天幸を得て天下を一統せば、君は旗下に属したまふべし。君もし大統の功をなしたまはゞ、信長御旗下に参るべしと盟約をなして後、あつく饗応まいらせて帰し奉る。

 これは永祿四年なり。東條の吉良義昭今はまたく御歒となり、しばしば味方の兵と戦てやまざりしが、その弟荒川甲斐守賴持兄弟の中よからねば御味方となり、酒井雅樂助正親を己が西尾の城に引入れしかば、吉良も終には利を失ひ味方に降参す。味方また今川方西郡の城をせめて鵜殿藤太郞長照を生どる。長照は今川氏眞近きゆかりなれば、氏眞これを愁る事甚しき樣なりと聞きて、石川伯耆守數正謀を設け、かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて、若君をともなひ岡崎にかへりしかば、人みな数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。  

 君ことし御名を家康とあらため給ふ(永祿四年十月の御書に元康とあそさばされ、五年八月廿一日の御書には家康とみゆ)。六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば、今川方にはこれを憤り所々のたゝかひやむ時なしといへども、今川方いつも敗北して勝つ事を得ず。これほど小坂井牛窪邊の新寨に粮米をこめ置るゝに、御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげにとり入たるより、一向專修の門徒等俄に蜂起する事ありしに、普第の御家人等これにくみするもの少からず。国中騷擾せしかば、君御みづからせめうたせたまふ事度々にして、明る七年にいたり門徒等勢をとろへて、御家人どもゝ罪をくひ帰順しければ、一人もつみなひ給はず。有しながらにめしつかはる。この騒ぎに時を得て吉良義昭、荒川賴持、松平三藏信次、松平監物家次、松平七郞昌久等又反逆してをのが城に立こもりしかど、かたはし攻おとされき。されども吉田城には今川氏眞より小原肥前守鎭実をこめ置きて岡崎の虛をうかゞへば、これにそなへられんがため、岡崎よりも喜見寺糟塚等に寨をかまへさせたまふ。その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもてまもりけるに、氏眞吉田を救はむがため二万の軍をもてこの寨をせめかこむ。

 君かくと聞き召し三千の人数にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等これをみて、歒の人数は味方に十倍し、その上後詰を防がせむとて武田信虎備たり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諫めけれど、君は家人に敵地の番をさせて置きながら、敵よせ来ると聞て救はそらんには、信も義もなきといふものなり。万一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて、もみにもんで打立せ給ひ、信虎が八千の備をけちらして一宮の寨に入り給ふに、今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし、翌朝信俊を召し具せられ、將卒一人も毁傷なく敵勢を追立々々難なく岡崎城へ帰らせ給ふ。これを一の宮の後詰とて天下後世までその御英武を感歎する所なり。
 (後年、豊臣大閣のもとに烈祖をはじめ諸將会集有し時、誰にかありけん古老のもの烈祖に対し奉り、先年一宮の後詰こそ今に御武名をとなへ、天下に美談と仕候と申上ければ、烈祖否々それも若氣の所爲なりと宣ひ、微笑しましましけると伝へき)

 小原鎭實も吉田の城をひらき、田原御油等の敵城もみな攻おとされ、東三河、碧海、加茂、額田、幡豆、室飯、八名、設樂、渥美等の郡みな御手に属しければ、吉田は酒井忠次にたまはる。これ当家の御家人に始て城主を命ぜられたる濫觴とぞ。八年には牛窪の牧野、野田の菅沼、西鄕、長篠、筑手、田嶺、山家、三方の徒もみな氏眞が柔弱をうとみ、今川方を去りて当家に帰順しければ、今は三河の国一円に平均せしにより、本多作左衛門重次、高力左近淸長、天野三郞兵衛康景の三人に国務幷に訟訴裁斷の奉行を命せらる。これを岡崎の三奉行といふ。(世につたふる所は、高力は溫順にして慈愛ふかく、天野は寬厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にしておもひのまゝにいひ度事のみいふ人なれば、志慮あるべしとも見えざりしに、国務裁断にのぞみ万に正しく果敢明断なりしかば、その頃三河の土俗ども、佛高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謠歌せしとぞ。その生質異なるを一處にあつめて事を司どらしめたまひしは、剛柔たがひにすくひ寬と猛とかね行はせられし所、よく政務の大躰を得給ひしものなりと、世上にもこの時旣に感称せしとぞ)

 九年十二月廿九日、叙爵し給ひ三河守と称せられ、十年、信長の息女御入輿ありて信康君御婚礼行はる。十一年正月十一日、君又左京大夫をかけ給ふ。このごろ京都には三好左京大夫義繼幷にその陪臣松永彈正忠久秀反逆して、將軍義輝卿をうしなひまいらせしかば、都また亂逆兵馬の巷となる。將軍御弟南都一乘院門主覺慶織田信長をたのまれ都にうつてのぼらるゝにおよび、信長よりのたのみをもて、当家よりも松平(藤井)勘四郞信一を將として御加勢さし向給ひしに、信一近江の箕作の城攻に拔群の働きして敵味方の耳目をおどろかしければ、信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと称美し、着したる道服を脫て當座の賞とせられしとぞ。かの今川氏眞は日にそひ家人どもにもうとまれ背くもの多くなりゆくをみて、甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみをすてゝ軍を出し、駿河の国はいふまでもなし、氏眞が領する国郡を侵し奪はんとす。氏眞いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ迯かくれしに、朝比奈備中守泰能は心ある者にて、をのが遠江の国懸川の城へむかへとりてはごくみたり。

 これよりさき信玄入道は駿府に攻入らんにハ、後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ、まづ当家に使い進らせ、大井川を限り遠州ハ御心の儘に切おさめ給ふべし、駿州は入道が意にまかせ給はるべしといはせければ、君もその乞にまかせたまひ、さらば遠江の国を切したがへたまはむとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郞定盈がはからひにて、井伊谷の城はやく御手に属し、同国の士ども多くしたがひしに、信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し、当国のもの共を武田が方へ引付んとはかるよし聞し召し、かくてハそのはじめ入道が誓の詞たがひたり。はやくその所を退かずば御みづから伐て出で誅せらるべしとありて、はや御人数も走りかゝる樣をみて、信友かなはじと思ひ信濃の伊奈口に逃こみたり。(信玄陽には当家に和して、大井川を限り遠州をば御心にまかせたまへと言ながら、陰には当家を侵し遠州をも併呑せむ爲、信友遠州へ出張して遠州の人数をつのり国士をまねきしなり。この後山縣昌景をして御勢を侵さしめしも、みな僞謀のいたすところなり)

 遠州の国士等多半御味方にまいりければ、懸川の城外に向城をとりたてゝ氏眞をせめ給ふ。十二年にいたり懸川城しばしばせめられ力尽しかば、和睦して城をひらきさらんとするに及び、君はかの使いに対し、我幼より今川義元に後見せられし旧好いかで忘るべき。それゆへに氏眞をたすけて義元の讎を報ぜしめんと、意見を加ふること度々におよぶといへども、氏眞侫臣の讒を信じ我詞を用ひざるのみにあらず。かへりて我をあだとし我を攻伐んとせらるゝ故、止事を得ず近年鉾盾に及ぶといへども、更に本意にあらず。すでに和睦してその城を避らるゝに於ては、幸小田原の北條は氏眞叔姪のことなり。我また北條と共にはかりて氏眞を駿州へ還住せしめんとて、松平紀伊守家忠をして氏眞を北條が許へ送らしめられける。北條今川両家のもの共もこれを見て、げに德川殿は情ある大將かなと感じたり。かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。

 これより先三河一国帰順の後は本国の国士を二隊に分け、酒井忠次、石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが、家成今度懸川を留守するにおよび、旗頭の任は甥の數正にゆづり、その身は大久保松井等と同じく遊軍にそなへ、本多榊原等は御旗下を守護す。大井川を境とし遠州は御領たるべき事は、兼て信玄入道盟約のことなれば、この五月御領境を御巡視あるべしとて、五六百人の少勢にて御出馬ありしをみて、入道が家士山縣三郞兵衛昌景といへるもの行すぎがてに御供人といさかひし出し、それをたよりに御道をさへぎり留むとす。御勢いかにもすくなきが故いそぎ引退かんとしたまふ。山縣勝に乘じ是を追討せんとひしめく所に、御供の中より本多平八郞忠勝一番に小返しゝて、追くる敵を突くづす。榊原小平太康政、大須賀五郞左衛門康高等追々に返し来りて突戦すれば、山縣も終に勝がたくやおもひけむ。早々駿州へ迯入りたり。(これ入道兵略軍謀古今に卓絕し。世の兵家師表と仰ぐ所といへども、その実は父を追て家をうばひ姪を倒し国をかすむ。天倫たへ人道旣に失へり。隣国の盟誓をそむく如きはあやしむにたらず) 世にも是を聞て入道が詐謀を誹りしかば、入道やむ事を得ず罪を山縣に帰して蟄居せしむといへども、天下みな入道が姦をそしらざる者なし。  

 君にはさすがに今川が旧好をおぼし召し、氏眞が愚にして国を失へるをあわれみ給ひ、山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追おとしたまひ、北條と牒し合せられ氏眞を駿府にかへりすましめんと、城の修理等を命ぜられたり。この経営いまだとゝのはざる間に信玄入道かくと聞て大に驚き、また駿府城にせめ來り。城番の岡部などいへる今川の士を味方に招きその城ふたゝび奪ひ取る。氏眞は兎角かひがひしく力をあはする家人もなければ、後には小田原にて北條がはごくみをうけて年を送りしが、北條氏康卒して後氏政が時に至り、小田原をもさまよひいでゝ浜松に来り、当家の食客となりて終りける。これより先遠江のくに引間の城を西南の勝地にうつされ浜松の城と名付らる。

 永祿十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規摸宏麗近国にすぐれければこの正月より移り給ひ、岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ。ことし弥生、信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ、又援兵を望まれしかば、君にも遠江三河の勢一万余騎にて、卯月廿五日、敦賀といふ所につき給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城をせめやぶる。なをふかく攻入て金が崎の城に押よせらるゝ所に、信玄のいもと聟近江の淺井備前守長政朝倉にくみし、織田勢のうしろをとりきるよし注進するものありしかば、信長大におどろき、とるものもとりあへず、当家の御陣へは告もやらず、急に朽木谷にかゝり尾州へ迯帰る。

 木下藤吉郞秀吉にわづか七百余の勢をつけて残されたり。秀吉は君の御陣に来たりしかじかのよしを申救をこひしかば、快よく請がひたまひ、敵所々に遮りとめんとするをうちやぶりうちやぶり通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取かこみ秀吉旣に危く見えければ、㝡前秀吉が賴むといひしを捨て行むに、我何の面目ありて再び信長に面を合すべき。進めや者どもと御下知有て、御みづから眞先にすゝみ鉄砲をうたせたまへば、義を守る御家人いかで力を尽さゞらん。敵を向の山際までまくり付き、風の如くに引とりたまふ。椿峠までのかせ給ひしばし人馬の息をやすめ給ふ御馬前へ、秀吉も馬を馳せ来り。もし今日御合力なくば甚危きところ、御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。かくて信長は淺井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば、さらば先淺井を攻亡ぼして後朝倉を誅すべしとて、また御加勢をこわれしかば、この度も又御みづから三千余兵をしたがへて御出陣あり。
 五月廿一日、近江の橫山の城へはをさへを殘し小谷の城下を放火す。淺井方にも越前の加勢をこへば、朝倉孫三郞景紀を將として一万五千余騎着陣し、六月廿八日、姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉にむかへば、君には淺井とたゝかひ給へとありしが、曉にいたり信長越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め、我は淺井をうつべし。德川殿には越前勢へむかひたまへと申進らせらる。御家人等是をきゝ、只今にいたり御陣替然るべからずといなむ者多かりしかど、君はたゞ織田殿の命のまゝに、大軍のかたにむかわんこそ、勇士の本意なれと御返答ましまし、俄に陣列をあらため越前勢にむかひたまふ。

 かくて越前の一万五千余騎、君の御勢にうつてかゝれば、淺井が手のもの八千余騎織田の手にぞむかひける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい聲あげてかゝりければ、朝倉勢も力をつくしけれどもつゐにかなはず。北国に名をしられたる眞柄十郞左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。淺井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切崩す。長政も馬廻をはげましてかゝりければ、信長の手のものもいよいよさはぎ乱れ旗本もいろめきだちぬ。

 君はるかにこの樣を御覧ありて、織田殿の旗色みだれて見ゆるなり。旗本より備を崩してかゝれと下知したまへば、本多平八郞忠勝をはじめ、ものもいはず馬上に鎗を引提て淺井が大軍の中へおめいてかゝる。ほこりたる淺井勢も德川勢に橫をうたれふせぎ兼てしどろになる。織田方是にいろを直してかへしあはせければ、淺井勢もともに敗走して小谷の城に逃入ぬ。信長おもひのまゝに勝軍してけるも。またく德川殿の武威による所なりとて、今日大功不可勝言也。先代無比倫、後世誰爭雄、可謂當家綱紀、武門棟梁也との感書にそへて、長光の刀その外さまざまの重器を進らせらる。(これを姉川の戦とて御一代大戦の一なり)

 この後も佐々木承禎入道朝倉淺井に組し、近江野洲郡に打て出るよし聞て信長より加勢をこはれしかば、又本多豐後守康重、松井左近忠次に二千餘の兵を率してすくはしめたまふ。この頃越後国に上杉謙信入道とて、軍略兵法孫吳に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏眞が媒にてはじめて音信をかよはしたまふ。入道悅なゝめならず。当時海道第一の弓取と世にきこえたる德川殿の好通を得るこそ、謙信が身の悅これに過るはなけれとて、左近忠次まで書狀を進らせ謝しけるが、これより御音問絕せず。この八月廿八日、若君十三にて首服を加へたまひ、信長一字を進らせ二郞三郞信康となのらせたまふ。

 二年正月五日、君は従五位上にのぼり給ひ、十一日侍從に任ぜらる。三年閏三月、金谷大井川邊御巡視ありしに、この頃信玄入道は当家謙信入道と御合躰ありといふを聞き大に患ひ、しからばはやく德川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し、はじめ天龍川を境とし両国を分領せんと約し進らせしを、などその盟をそむき大井川まで御出張候や。さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使して申し進らせければ、君も聞こしめし、我は前盟のごとく大井川をへだてゝ手を出す事なし。入道こそ前に秋山山縣等をして我を侵し、今また前盟にそむきかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀のいたすところなりといからせたまひしが、これより永く通交をばたゝせ給ひけり。信玄はこれより彌姦謀を恣にして、しはじは三河遠江の地に軍を出し城々を攻うつ事やまず。神無月、山縣昌景を先手として五千余騎、入道みづから四万五千余の大軍をぐして遠江国にうちいり、多々良飯田などいへる城々せめ落し浜松さしてをしよする。この入道あくまではらぐろにて詐謀姦智のふるまひのみ多けれど、兵術軍法においてはよくその節制を得て、越後謙信と相ならび当時その右にいづる者なし。 

 当家は上下心をひとつにし力をあわする事、子の父につかへ手の首をたすくるにことならず。仁者はかならずといひけん勇気さへすぐれたれば、さながら王者の師といふべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば、十二月廿二日、三方が原のたゝかひ御味方利を失ひ、御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝ちにのり諸手をはげましておそひ奉れば、夏目次郞左衞門吉信が討死するそのひまに、からうじて浜松に帰りいらせ給ふ。(夏目永祿のむかしは一向門徒に組し、御敵して生取となりしが、松平主殿助伊忠、この者終に御用に立べき者なりと申上しに、その命たすけられしのみならず、その上に常々御懇にめしつかはれしかば、この日御恩にむくひんとて、君敵中に引かへしたまふをみて、手に持たる鑓の柄をもて御馬の尻をたゝき立て、御馬を浜松の方へをしむけ、その身は敵中にむかひ討死せしとぞ)。その時敵ははや城近くをしよせたれば、早く門を閉て防がんと上下ひしめきしに、君聞こし召し、かならず城門を閉る事あるべからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりをうしなふべし。また敵大軍なりとも我籠る所の城へをし入事かなふべからずとて、門の內外に大篝を設けしめ、その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀までめしあがられ、やがて御枕をめして御寢ありしが、御高鼾の声閫外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくやおもひけん。猶豫するところに、鳥居、植村、天野、渡邊等の御家人突て出で追い払う。その夜大久保七郞右衛門忠世等は間道より敵の陣所へしのびより、穴山梅雪が陣に鉄砲うちかけしかば、その手の人馬犀が磯に陷りふみ殺さるゝものすくなからず。入道もこの躰をみて大におどろき、勝てもおそるべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ。(これ三方原戦とて大戦の二なり)

 また武田が家の侍大將馬塲美濃守信房といふもの入道にむかひて、あはれ日の本に越後の上杉入道と德川殿ほどの弓取いまだ侍らじ。このたびの戦にうたれし三河武者、末がすゑまでもたゝかはざるは一人もなかるべし。その屍こなたにむかひたるはうつぶし、浜松の方にふしたるはのけざまなり。一年駿河をおそひ給ひし時、遠江の国をまたく德川殿にまいらせ、御ちなみをむすばれて先手をたのみ給ひなば、このごろは中国九国までも手にたつ人なく、やがて六十余州も大方事行て候はんものをといひけるとぞ。勝いくさしてだにかくおもひし程なれば、入道つゞきて城をかこまんとせざりしもことはりなるべし。

 元亀も三年に天正とあらたまる。信玄はいよいよ軍伍をとゝのへ、正月三河の野田の城にをし寄はげしく攻て、終に菅沼新八郞定盈城兵にかわりて城を開渡すに及て、たばかりてこれを生取しが、山家三方の人質にかへて定盈ふたゝび帰ることを得たり。この城攻めの時入道鉄炮の疵を蒙り、四月十二日、信濃国波合にてはかくなりぬ。  

 君は信玄が死を聞しめし。今の世に信玄が如く弓矢を取進すものまたあるべからず。我若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悅ばずおしむべき事なりと仰られしかば。これを聞ものますますその寬仁大度を感じ、御家人下が下まで信玄が死はおしむべきなりと御口眞似をせしとぞ。

 この彌生頃、信康君御甲胄はじめ有て、松平次郞右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて、田嶺のうち武節の城を責給ふに、城兵旗色をみるよりも落うせ、足助の城兵も迯うせしかば、御初陣に二の城をおとし入給ひ目出たしとて御帰城あり。やがて酒井忠次、平岩七之助親吉を大將にて遠江國天方、三河の国可久輪、鳳來寺、六笠、一宮等の城々攻め落す。信玄がうせしよりはや武田が兵勢よはりて、六か所の城々一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。

 二年正月五日、君正五位下にうつり給ふ。二月八日、次郞君生れたまふ。後に越前中納言秀康卿といへるは是なり。信玄が子の四郞勝賴血氣の勇者なりければ、父にもこえて万にゆゝしくふるまひしが、去年、長篠の城を攻とられしを憤り、高天神の城を攻る事急なり。君これを救はせたまはんとて、信長の援軍をこわせ給ふ。勝賴、德川織田兩家の軍勢後詰すと聞て、城主小笠原與八郞長善(また氏信)駿河の鸚鵡栖にて一万貫の地をあたへむとこしらへて降参せしめ、引きつゞき浜松を責むとしばしば遠州へはたらき、九月には二万餘の軍勢にて天龍川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせたまへば、勝賴も謀ありと見て引返す。

 三年二月頃、御鷹がりの道にて、姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが、氏眞奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ、この兒三州に漂泊し松下源太郞といふものゝ子となりてあるよし聞召し、直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが井伊兵部少輔直政とて、國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。

 そのころ長篠の城は奥平九八郞に賜はりて是を守りけるに、勝賴は、當家の御家人大賀彌四郞といへる者等を密にかたらひ、岡崎を乘とらんと謀りしも、その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば、ますますいかりやむときなく、長篠城をとりかへさんと二万餘騎にて取かこむ事急なりとへども、九八郞よくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば、信長もこれをたすけて、両家の勢都合七万二千にて五月十八日、君は高松といふ所に御陣を立られ、信長は極樂寺山に陣せられしが、廿日の夜、酒井忠次が手だてにより、鳶の巢山にそなへたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨つよくふりしきりたる夜にまぎれて廣瀨川を渡り、廿一日の明仄、敵寨に火をかけ燒立しに、長篠城よりも城門を押開き、九八郞城兵を具して切て出前後より捲り立れば、武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信實もうたれ、祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ども悉く攻おとされたり。信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて、君と謀をあわせられ、備の前に堀をうがち壘を築き栅を二重三重にかまへ、老練の輩をして鉄炮数千挺を打立しむ。

 血気の勝賴夜中より勢をくり出すをみて、御家人大久保七郞右衞門忠世、治右衛門忠佐兄弟、今日の軍は、当家は主戦織田方は加勢なるに、織田勢にかけおくれては我輩の恥辱この上あるべからずとかたらひ、一同に栅より外にすゝみいづ。武田方にも山縣昌景、小幡上總貞政、小山田兵衛信茂、典廐信豐、馬塲美濃信房、その外眞田、土屋、穴山、一條等の名あるやから入かわりわり栅を破らんと烈戦するといへども、両家の鉄炮きびしく打立て人塚を築くほど打殺せば、いさみにいさむ甲州勢も面むくべき樣もなくさんざんにやぶられで、さしも信玄が時より名をしられたる山縣、內藤、土屋、眞田、望月、小山田、小幡など云るもの死狂ひにたゝかひて討死す。馬塲は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて、勝賴は落て行大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取てかへし、一足もひかず討死す。この時高坂彈正昌信(又虎綱)海津の城を守りてありしが、勝賴血気の勇にほこりかならず大敗せん事を察し、勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送りかへす。武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討ち死にせしかば、これより甲州の武威は大におとりしとぞ。この日両家に討取首一万三千余級。その中にも七千は当家にて討ち取れしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郞君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて、勝賴も大に驚き、帰国の後その家人等にかたりしは、今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出來り、指揮進退のするどさ、成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。また奥平九八郞六町にもたらざる搔揚にこもり、数万の大軍にかこまれながら、終に一度の不覚なく後詰を待ちゑて勝軍せしは、古今稀なる大功なりと。信長より一字を授られ。これより信昌とあらためたり(世には九八郞はじめ貞昌といひしが、この時信昌とあらたむといふ。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には定昌と書しといふ)。  

 君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを、勝賴磔にかけし事なれば、こたび第一の姬君を(亀姬と申す)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし、信長今より我は濃州にのこりし武田が城をせめとるべければ、君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。  

 君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝したまふ。信長さまざま饗せられ、長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる。(これを長篠の戦とて大戦の三とするなり) かくて後は二股、高明、諏訪原等の武田の城々をせめられしにこの城々も力おとし、あるは迯さりあるは攻やぶらる。諏訪原の城は高天神往來の要路、しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔て、尤も要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次すゝみ出で、吾一命にかへてこの城を守るべしとこふ。その忠志を御感ありて御家号幷に御一字をたまはり、松平周防守康親とあらたむ。(松平周防守康任が祖。寬永系図にはこの人御家号たまはりしは、永祿六年、東條の城給ひし時の事とす。孰是なりや)

 君はこの勢に乘じ引つゞき小山の城を責め給ひしに、勝賴城々責とらるゝと聞て、ふたたび兵をつのり小山の後卷すと聞えしかば、前後に敵をうけん事いかゞなりとて、本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば、城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時、三郞君あながちに乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。君は上の臺まで乘上給ひ後をかえりみ給ひ、信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝賴十万騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ、諏訪原の城に入たまふ。勝賴が勢も伊呂崎の岸までいたりしかども、長篠の大敗後は新に募求めし新兵ゆへ軍令もとゝのはねば、高坂が諫にしたがひ小山の城へ引入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻とられしかば、この城をば大久保七郞右衛門忠世に給ふ。

 四年正月廿日、濵松の城にて、甲胄の御祝連歌の莚をひらかれいははせたまふ(家忠日記。この二儀ものにみへし始なるべし)。この彌生勝賴また遠州へ発向す。橫須賀は高天神の押として大須賀五郞左衛門康高が守る寨なりしを、烈しく責ると聞たまひ、君浜松より後卷したまへば、今度も高坂が强て諫め賴勝も引かへしけるが、瀧坂鹽買坂邊に松平康親備を張るゆへに、高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ、高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へかへる。

 これより先、上杉謙信入道酒井忠次に書簡を送り、君と謀を合せて勝賴を攻めんと聞えしかば、七月、遠州乾の城をせめられんとて先樽山の城を責おとし、勝坂の砦を責らるゝ時、天野宮內右衛門景貫乾の城より打て出、潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時をまちて討てかゝる。味方からうじて是を追入る。この城小といへども地嶮にしてたやすくやぶりがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり、大筒を城中に打いるゝ事雨のごとし。天野が兵たまり兼て城を迯出鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を勞したまわんこと御心うく思し召して、一先御馬を納めたまひしが、景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ迯去る。かくて後も勝賴はしばしば遠州にはたらきて、浜松を襲はんとする事しばしばなりしといへども、さしてし出したる事もなし。信長卿はことし大納言より內大臣に昇られ兵威ますます盛なり。

 五年十二月十日、君も四位の加階ましまし。その廿九日右近衛の權少將に任じたまふ。(当時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭將軍を翊戴し、三好松永を降参せしめ、佐々木六角を討ち亡し、足利家恢復の功をなすにいたり。强傲專肆かぎりなく䟦扈のふるまひ多きを以て、義昭殆どこれにうみくるしみ、陽には織田殿を任用するといへども、その実は是を傾覆せんとして、ひそかに越前の朝倉、近江の淺井、甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姊川の戦おこるゆへんなり。その明證は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。またその後にいたり甲州の武田、越後の上杉、相摸の北條は関東北国割據中最第一の豪傑なるよし聞て、この三国へ大和淡路守等を密使として、信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。

 しかれば織田氏を誅伐せんには、当時德川家與国の第一にて、織田氏の賴む所は德川家なり。故に先、德川家を傾けて後尾州へ攻入て織田を亡し、中国へ旗を挙げんとて、信玄盟約を背き無名の軍を興し、遠三を侵掠せんとす。これ三方原の大戦おこるゆへんなり。勝賴が時にいたりまた義昭より、北條と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるゝ。その使は眞木島玄蕃允なり。この文書又勝光院につたふ。これ勝賴がしばしば三遠を襲はんとする所にて、長篠大戦のおこるゆへんなり。義昭ついに本意を遂ず。後に芸州へ下り毛利をたのまる。これ豐臣氏中国征伐のおこる所之。しかれば姊川三方原長篠の三大戦は、当家において尤も險難危急なりといへども、その実は足利義昭の詐謀におこり、朝倉武田等をのれが姦計を以て、また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院將軍よりこのかた、室町家は人の力をかりて功をなし、その功成て後また他人の手をかりてその功臣を除くを以て、万古不易の良法として国を建し余習。十五代の間その故智を用ひざる者なし。終にその故智を以て家国をも失ひしこと豈天ならずや)













(私論.私見)