東照宮御實紀卷一
かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば、天地ひらけはじめてより五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど、御諱惟仁と申しき。これは文德天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし太政大臣良房の女なり。このみかどを後に淸和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿。常陸大守をへ給ひ桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす經基經主といふ。經基王は淸和のみかどの御孫にて第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。この王はじめて源の氏を賜はり筑前、伊豫、但馬、美濃、武藏、下野、信濃等を歷任し、太宰大貳、左衛門權佐、式部少輔、內藏頭等を累任せられ、鎭守府の將軍に補し、正四位上に叙せらる。これぞ後の世にいふ源氏の武者のはじめなりける。後に神靈をあがめて六宮權現といつぎ祭られ、旧邸の地を蘭若となし、大通寺遍照心院と号す。經基王の御子八人。滿仲、滿政、滿季、滿實、滿快、滿生、滿重、滿賴といふ。長子滿仲朝臣。朱雀、村上、冷泉、圓融、花山、一條の五朝に歷仕し、春宮帶刀の長より兵庫右馬允、兵部少輔、春宮亮、治部大輔、左馬權頭、藏人頭、攝津。越前。伊豫。美濃。武藏。下野。信濃、陸奥等の守、常陸、上總の介に累遷し、正四位上に昇られ、老年の後多田院を造營し、剃髮して多田新發知滿慶と称す。
滿仲の子六人。賴光、賴親。源。賢賴信。賴平。賴範といふ。第四の子賴信。一條。三條。後一條。後朱雀の四朝につかへ。從四位上。伊勢。美濃。河內。甲斐。信濃。相摸。下野。伊豫等の守。上野。常陸の介。刑部民部の丞。左衛門尉。兵部治部少輔。皇后宮亮。左馬權頭。冷泉院の判官代。鎭守府將軍に補任し內の昇殿をゆるさる。河內國壺井の通法寺にをさめ今に祀典絕ず。賴信の子賴義。河內。伊豆。甲斐。信濃。武藏。下野。陸奥。出羽。相摸。伊豫等の守。常陸上野介を歷て、左近將監。兵庫允。左衛門尉。民部少輔。左馬頭。小一條院判官代。鎭守府將軍になり。正四位下に叙し內院の昇殿をゆるされしが、鎭守府に年をふること九年にして、夷族安倍貞任を征討して功勳世にいちじるし。
賴義の子三人。義家。義綱。義光といふ。義家はそのはじめ石淸水の寳殿にして元服せられしかば八幡太郞とは稱せられき。この人世々にこえて弓矢の道にすぐれ。膽略またゆゝしかりしかば。東國の武者贄をとりて御家人と稱するもの少からず。正四位下。左衞門尉。左馬頭。左近將監。治部兵部の少輔。武藏。相摸。陸奥。出羽。下野。河內。伊豫等の守を經て鎭守府の將軍たり。弱冠のむかし父賴義にしたがひ奥に下り。九年の苦戰に勇略をあらはしければ。東奥の夷これを恐るゝ事鬼神のことし。また東奥の任にありて淸原家衡武衡をせめふせて其武威いよいよかゞやけり。
義家の子六人。義宗。義親。義國。義忠。義時。義隆といふ。第三の子義國は從五位下。帶刀長。加賀介。式部大輔。ゆへありて都を出下野国に下り。足利の别莊に幽居し。薙髮して荒加賀入道と称しける。その子義重。義康。季邦とて三人あり。長子義重に新田の庄を讓り。次子義康に足利の庄をゆづられける。新田足利の兩流に分るゝは本源こゝにおこれり。義重幼より新田にありて新田太郞となのり。叙爵して大炊助に任じ。後入道して上西と号し上野國新田郡寺尾の城に住す。この時都には平相國凈海入道すでに薨じ。平氏やゝ衰ふるしるしあらはれしかば、諸國の源氏蜂起するに及びて義家朝臣の曾孫賴朝。伊豆國蛭小島より旗あげして諸國の源氏をつのられしに。上西入道もとより自立の志ありし故にその招に應ぜざりしかば。終に鎌倉幕府に於てもしたしまれず。これしかしながら新田一流の祖なれば。はるか年へだてゝ慶長十六年に鎭守府將軍を贈り給へり。
入道の子七人。義俊。義兼。義範。義季。經義。義光。義佐といふ。四郞義季は鎌倉幕府に給事し。常に供奉の列に候し。右大將家入洛の時も騎馬の隨兵たり。後に髮きり捨て新田大入道と号す。新田庄世良田の鄕德川の邑に住せられしより。その子孫德川世良田を稱する事とはなりぬ。
義季の子三人。賴氏。賴有。賴成といふ。長子賴氏。始は世良田孫四郞といふ。鎌倉將軍賴嗣幷に宗尊親王に仕へ結番衆に加へられ。從五位下三河守に叙任す。世良田長樂寺に寺領寄附の文書を藏せり。賴氏の子經氏。教氏。有氏とす。(大系圖には經氏を江田三郞滿氏とす) 二子教氏は世良田次郞とも又三河次郞とも稱し。また德川を稱し。後に靜眞と號す。(この二世三河守に任じ三河次郞と稱ぜられしも。後に三河にて龍起し給ふ先徵とすぺし。豈奇遇ならずや)
教氏の子を家時とす。世良田又次郞また孫太郞とも稱し父に先だちてうせらる。(長樂寺へ父教氏寄附ありし文書に見えき) 家時の子を滿義とす。世良田彌次郞また孫四郞ともいふ。新田左中將義貞に屬し。南朝に仕へて忠勤を勵みしが。義貞うせられし後一族とおなじく上野國にかへり。新田世良田德川の間に隱れ住む。後に宗滿と號す。(世には此滿義を太平記にのせし江田三郞光義とす。又教氏の弟三郞有氏の子江田彈正行氏を光義の事なりともいふ。いづれ是なりや) 滿義の子二人。政義。義秋といふ。(大系圖第十三にのする所かくのことし。第四には政義をのぞきて義秋のみをしるす。
德川系図、新田松平譜、大成記等にのする所も前說のことくなれば今これにしたがふ。三家考に滿義の子義周、その子義時。その子政義とす。諸說と大に異なり。ゆへに今はこれをとらず)政義は右京亮といふ。(政義のこと家忠日記大成記にその伝詳にのせず。波合記といへるものには、政義南朝の尹良親王(後醍醐天皇には御孫、宗良親王には御子なり)の御子。良王を守護し、三河にともなひまいらせんとして波合にて討死されたりと見ゆ。德川松平の家譜と大同小異なり。鎌倉大草紙に永德の頃、新田一門波合にて皆な討死せられしに、新田義宗の子相摸守義陸の討もらされ、後に相州箱根底倉にて尋出し討たれたりとみえ、底倉記には義陸を脇屋右衛門佐義治の子とし、母を世良田右京亮女とみえたり。又義陸奥州靈山にて旗擧ありし時、上野の世良田大炊助政義、桃井右京亮等をかたらはれしよし見ゆ。ともにこの政義の御事なるは疑なく見ゆ)
政義の子を修理亮親季といふ。親季の子を左京亮有親とす。有親の子を三郞親氏といふ。新田の庄にひそみすまれたりしが、京鎌倉より新田の黨類を搜索ひまなかりしかば、この危難をさけんがため故鄕をさすらへ出られ、(大成記に上杉禪秀が方人せられしゆへ搜索しきりなれば、父子孫三人東西に立ちわかれ世をさけ時宗の僧となられしよし有りといへども、鎌倉大双紙。底倉記。喜連川譜等によるに、小山犬若丸に方人して奥州に下り、新田義陸を大將と守立んとせられしに、その事ならずして新田。小山。田村黨皆々散々に行方しらずとあり。今藤澤寺に存する御願文を合せ考ふるに、小山が一亂より搜索嚴なる事となりしは疑なし。波合記に親季は尹良親王の御供にて討死の列に見ゆ。また親季の御遺骨を有親首にかけ三河に來りたまひ、稱名寺御寄寓の間これを寺內に葬られしとて、その墳今も稱名寺に存す) 時宗の僧となり山林抖藪のさまをまねび、父子こゝにかしこにかくれしのび給ひけるが、宗門のちなみによて三河國大濵の稱名寺に寄寓せられ、こゝにうき年月を送られし間に、有親はうせ給ひしかば、その寺に葬り後に松樹院殿とをくりぬ。
又この國酒井村といへるに、五郞左衛門といひて頗る豪富のものあり。この者親氏の容貌骨柄唯人ならざるを見しり。請むかへてをのが女にあはせ男子を設く。德太郞忠廣(又小五郞親淸ともつたふ。これ今の世の酒井が家の祖なり)といふ。さて五郞左衞門の女はこの男子をうみし後ほどなくうせしに、その頃同國松平村に太郞左衞門信重とて、これも近國にかくれなき富豪なり。たゞ一人の女子ありしが、いかなるゆへにか婚嫁をもとむる者あまたありしをゆるさで年をへしに、今親氏やもめ居し給ふを見て、その女にあはせて家をゆづらんとこふこと頻なり。親氏もとより大志おはしければ、かの酒井村にて設け給ひし忠廣に酒井の家をゆづり、その身は信重が懇願にまかせ松平村に移り、その女を妻としその讓をうけて松平太郞左衛門と名のられけるが、松平酒井兩家ともにきはめて家富財ゆたかなりし程に、貧をめぐみ窮を賑はすをもてつとめとせられ、近鄕の旧家古族はいふに及ばず、少しも豪俊の聞えある者は子とし聟としちなみをむすばれしほどに、近鄕のものども君父のことくしたしみなつかざるはなし。
親氏ある時親族知音を會し宴を催しもてなされて後、吾つらつら世の有樣をみるに、元弘建武に皇統南北に别れてより天下一日もしづかならず。まして應仁以來長祿寬正の今にいたりて、足利將軍家政柄を失はれし後海內一統に瓦解し、臣は主を殺し子は父を追ひ、人倫の道絕萬民塗炭のくるしみをうくること今日より甚しきはなし。吾また淸和源氏の嫡流新田の正統なり。何ぞよく久しく草間に埋伏し空しく光陰を送らんや。今より志をあはせ約を固めて近国を伐なびけ、民の艱難を救ひ武名を後世にのこさむとおもふはいかにとありしかば、衆人もとより父母のことくおもひしたしむ事なれば、いかでいなむものゝあるべき。いづれも一命をなげうち身に叶へる勤勞をいたすべしとうけがひしかば、兼て慈惠を蒙りたる近鄕のものども、招かざるに集まり來しほどに、まづ近鄕に威をたくまじうする者の方へ押寄せて、降參する者をば味方となし、命にさからふものは伐したがへられしかば、ほどなく岩津。竹谷。形原。大給。御油。深溝。能見。岡崎あたりまでも、大畧はその威望に服しける。(当家発祥その源はこの時よりと知られける) 卒去有りて松平鄕高月院に葬り、芳樹院殿と謚せり。親氏の子を泰親とす(一說御弟なりといふ) その跡をつぎて是も太郞左衛門と称せらる。父親氏の志をつぎ、弱をすくひ强を伐て貧を惠み飢をすくはれしほどに、衆人のしたがひなびく事有しにかはらず。
その頃、洞院中納言實熙といへる公卿、三河國に下り年月閑居ありしに、(世には實熙三河に左遷ありしよし伝ふるといへども、應仁より後は都争乱の巷となり。公卿の所領はみな武家に押領せられ、縉紳の徒都に住わびて、ゆかりもとめ遠國に身をよせたる者少からず。この卿も三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし) 泰親この卿の沉淪をあはれみ懇に扶助せられ、すでに帰洛の時も國人あまたしたがへ都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後公武に請ひて泰親を三河一国の眼代に任ぜられしかば、これより三河守と称せらる。この時岩津岡崎に兩城を築き、岩津にみづから住し、岡崎にはその子信光を居住せしめらる。
泰親の子六人。長子信廣に松平鄕をゆづりろ、松平太郞左衛門と称す。(今三河の鄕士松平太郞左衛門が祖なり) 二男は和泉守信光。殊更豪勇たるをもて嗣子と定めらる。三男は遠江守益親、四男は出雲守家久、五男は筑前守家弘、六男は備中守久親とす。泰親卒去ありてこれも高月院に葬り、良祥院殿とをくらる。信光家繼て岩津岡崎の兩城主たり。この人螽斯の化を得て男女の子四十八人までおはしければ、この時よりぞいよいよその一門は國中に滋蔓し、ますます近国近鄕その威望かくれなく、国人歸降するもの多かりき。先嫡男は左京亮守家(これを竹谷松平といふ。松平哲吉守誠等今その後なり)、二男は右京亮親忠。これを嗣子とし岩津の城をゆづらる。三男光直は釋門に入りて安穩寺昌龍と号す。四男佐渡守興副(形原の松平と云ふ。今紀伊守信豪が祖)五男紀伊守光重。(大草の松平といふ。壹岐守正朝志摩守重成等この孫なりしが、この筋今は絕えたり) 六男八郞左衛門光英。七男彌三郞元芳。(御油の松平といふ。深溝の松平といふもこの筋なり。今圖書頭忠命等は御油の統。主殿頭忠侯は深溝の統なり) 八男次郞右衛門光親。(能見の松平といふ。次郞右衛門光福。河內守親良等の祖なり) 九男美作守家勝。十男修理亮親正。十一男源七郞親則(長澤の松平といふ。この統は嫡家絕て今松平伊豆守信祝この筋とす)。この外はその名つまびらかならず。
この時、畠山加賀守某が安祥の城を攻め拔かれ、その外所々攻め取りて三河国三分一を領せらる。(蜷川親元記に松平和泉入道と見えしは信光の事にて、かの書に入道をして三州の反徒を征せしむる足利家の奉書を載す。(岩津の信光明寺をいとなみ、卒して後こゝに葬り崇岳院殿とをくりぬ。二男親忠その跡をつがる。子九人。太郞親長は岩津を領せられ。二男源次郞乘元(後加賀守)大給を領す。(大給の松平といふ。和泉守乘完等の祖) 三男次郞長親をもて家督と定めらる。四男彌八郞親房(後玄蕃助)。五男は釋氏に歸し超譽と號し知恩院の住職たり。六男刑部丞親光(西福釜の松平といふ)。七男左馬助長家安祥と稱す)。八男右京亮張忠。九男加賀右衛門乘淸瀧脇の松平といふ。監物乘道。丹後守信德等が祖)。
明應二年十月の頃、三河國上野城主阿部孫次郞。寺部城主鈴木日向守。擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせけるに、親忠一門家兵を引率し井田の鄕に出張し、わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし、敵の首五十餘級を討とらる。この後は西三河の国人大半は歸降し勢いかめしく聞えける。この合戰に討死せし敵味方の骸をうづめ、額田郡骸鴨田といへる地に大樹寺を到建せらる。後に家を三子長親に讓り入道して西忠と号せらる。卒去の後大樹寺に葬り松安院殿と贈りなせり。(大樹寺を香火院とせらるゝ事こゝにおこる)
長親ゆづりを受て出雲守と称し安祥に住せらる。子五人。長子を次郞三郞信忠。二男右京亮親盛(福釜の松平といふ)。 三男は內膳正信定(櫻井の松平といふ。遠江守忠吉が祖)。 四男甚太郞義春(東條の松平といふ)。 五男彥四郞利長(藤井の松平といふ。伊賀守忠優。山城守信寳等が祖)。長親また慈愛深く武勇も卓絕なりしかば、衆よくなびきしたがふ。
この頃、今川修理大夫氏親駿遠兩國を領し、三河も過半はその旗下に屬しけるが、近來西三河はいふまでもなし。東三河の国士どもやゝもすれば今川を去りて長親にしたがはむとする樣なるを見て大に驚き、その所屬北條新九郞入道早雲を將とし一萬餘の兵を率して、永正三年八月廿日庶兄太郞親長が籠りたる岩津の城を攻めかこむ。長親これを救はむと安祥より討つて出、岩津の後詰して早雲が大軍を迫ひ拂はる。この勢に恐怖して東三河の輩多くその旗下にしたがひける。さるに長親ははやく遁世の志ありしかば、いまだ壯の齡にてかざりをおろし道閱と号し、長子忠信に家をゆづられ、所領悉く庶子にわかちさづけ、風月を友とし連歌をたのしみ、八十あまりの壽をたもち、曾孫廣忠卿の御時までながらへて、天文十三年八月廿一日、終をとらる。大樹寺に葬りて掉舟院殿といへり。
信忠家をつがれし後藏人また右京と稱せらる。子三人。長子は次郞三郞淸康君、二男は藏人信孝(三木の松平といふ)、三男は十郞三郞康孝(鵜殿の松平といふ)、信忠はすこしおちゐぬ心ばへにおはしければ、新降の國人共やうやうそむきけるほどに、譜代の郞黨にいたるまでもふさはしからずおもふさまなりしかば、信忠其機を察せられ、何事も殘り多き齡ながら、僅十三になり給ふ淸康に世をゆづり、頭おろし春夢と號し大濵の稱名寺に閑居ありしが、四十に一二餘りしほどにて享祿四年七月廿四日、父道閱入道に先立てうせられしかば、これも大樹寺に葬り安栖院殿とをくりき。その太郞淸康君、これ東照宮の御祖父に渡らせ給ふ。永正八年九月七日御誕生。大永三年四月四日、十三歲にて世をつがせ給ふ。幼より武勇膽略なみなみならず萬にいみじくわたらせ給へば、御內外樣のともがらもこの君成長ましまさば、終に中國に旗擧し給ふぺしと末賴母しく思ひ、なびきしたがふ事父祖にもこえ、信忠の御時に離散せし者どもゝ、ふたゝび來りて旗下に屬するやから少からず、岡崎幷に山中の兩城主松平彈正左衛門信貞入道昌安は、信忠の時よりそむきまいらせ自立の威をふるひしに、淸康君十四歲にてこれをせめんとて、元老大久保左衛門五郞忠茂入道源秀が謀を用ひ給ひ、難なく山中城を攻拔かれ、猛威に乘じ終に岡崎をせめられしに、昌安入道敵しがたくおもひ、をのが最愛の女子をもて淸康君を聟とし城をまいらせんとて和を乞ひかしば、これをゆるされ、その女をむかへて北の方となされ、岡崎の城を受取りて御身は猶安祥におはしける。(岡崎城はじめ泰親の築給ひし城なりしが、信光の時五男紀伊守光重にゆづり給ひ、昌安入道までこゝにありしが、このとき再此城本家に歸せしなり) 世には安祥の三郞殿と稱しその武威を恐れける。
享祿二年五月の頃 三河はみな御手に属しければ、これより東三河を打ち従え三州を一統せられんとの御志にて、牧野伝藏信成が吉田の城を乘とらんとて、安祥を打立ち給ふ。信成終にかけまけて、兄弟をはじめ主従悉く討死す。かくて淸康君は直に吉田川の上の瀨を押し渡し吉田の城に攻めよせ給ふ。城兵一防にも及はず落ち行けば、淸康君その城に入て人馬のいきを休め、一両日の後田原の城にをし寄給ふ。城主戶田彈正少弼憲光大におそれ、これも忽に降参す。本多縫殿助正忠はをのが伊奈の城にむかへて酒すすめ奉る。淸康君はこの勢に乘じ近辺の城々に押し寄せ攻め抜き給ふ。破竹のことき勢に辟易して、牛久保の牧野新次郞貞成、設樂の設樂神三郞貞重、西鄕の西鄕新太郞信貞、二連木の戶田丹波守宜光、田峰野田の菅沼新八郞定則、その外山家、三方、築手、長間、西郡の輩風を望みて歸降す。
享祿二年、尾張の織田備後守信秀がかゝへたる岩崎野呂(一に科野につくる)を攻めぬき、おなじく三年に熊谷備中守直盛が宇野の城をおとしいれ給ふ。天文二年、廣瀨の三宅寺部の鈴木等と戰て敵みな敗走し、その冬信州の大軍を迫拂はる。これを聞て甲斐の武田大膳大夫信虎使者を進らせ隣好をむすぶ。この猛威に恐怖して織田信秀が弟孫三郞信光、美濃の國士数十人かたらひ、淸康君へ志をはこび、もし尾州へ御出勢あらんには先鋒たらん事をこふ。淸康君もとより望所の幸なりと、一万余の軍勢にて、天文四年十二月、尾州へ発向し給はむと、まづ森山へ着陣あれば、美濃の国士共もみなこゝにまいり、贄をとりて拜謁し、やがて信秀を淸洲より引出さんと、謀をめぐらし近鄕を放火せらる。しかるに叔父內膳正信定もとより腹黒き者なりしが、いつしか志を変じ織田がたに內通し、安祥の虛をうかがひ本家を奪はむと姦計をめぐらすよし聞えければ、淸康君も酒井大久保などいへる旧臣等の諫にしだがひ、まづ軍をかへさるべきに定りぬ。その頃、阿倍大藏定吉といへる、御家に年ふるおとななりけるが、この者織田に內通するとの流說陣中に紛々たり。定吉大におどろきその子彌七を近よせ、我不幸にしてかゝる飛語をうくる事死ても猶恨あり。我もし不慮に誅を蒙るとも、汝はいかにもして世にながらへ、父が寃をすゝぐべしとなくなく庭訓せり。その翌五日の朝陣中に馬を取放し以の外騷動す。
淸康君これを制し給はんと外のかたに立ち出給ひ、木戶を閉よ取迯すなと指揮し給へる御声を聞て、かの彌七は父大藏唯今誅せらるゝ事とやおもひけん。淸康君の立給ふ御うしろに走り寄て、御肩先より左の脇の番をかけ、たゞ一刀に切り付けたり。鬼神をあざむく英傑もあえなくうたれて倒れ給ふ。そこらつどひあつまれる者ども、だゞあきれはてたるより外の事なし。扈從に植村新六郞とて十六歲の若者、御刀とりて御かたはらにひかへしが、その御刀の鞘をはづしあやまたず彌七を切ふせたり。衆人この時にいたりかの大藏をとらへ糺問するに、定吉ありし事どもかくさずものがたり、吾にをいてはたとひ寃罪をもて誅を蒙るまでも、君に二心をいだくものならず。しかしながら愚昧の彌七君を弑する大逆無道。その父の定吉かくて有べきにあらずとて、首をはねらるべしと思ひ切て詞をはなてば、聽人もさすが定吉を誅するにも及ばず。ともかくも道閱入道殿の御沙汰にまかすべし。敵またこの虛に乘じ追討せんは必定なれば、いそぎ君の御なきがらを守護し、軍を全くして一時もはやく歸國せむにはしかずと、衆軍俄に周章狼狽し、鎧の袖を淚に沾しながら引返す。後の世まで森山崩れといひ伝えしはこの時の事なりとぞ。
淸康君はじめには昌安入道が息女(春姬と申せしなり)をむかへ北方と定め給ひしかど、琴瑟の和し給はざる故やありけむ。中むつましからず、後近鄕の鄕士靑木築後守貞景が女をもて北方となさる。この腹に贈大納言廣忠卿生れさせ給ふ。これ東照宮の御父なり。この北方は御產後にとくうせ給ひしかば、又三州刈屋の水野右衛門大夫忠政が離婚せし。大河內左衛門尉元綱が女をめとりたまふ。こは尾州宮の城主岡本善七郞秀成にはかりあはせたまひむかへとらせ給ひしとぞ。(世にこの大河內氏を水野忠政が寡婦なりとしるせしもの多し。淸康君逝去は天文四年十二月五日、忠政の死は同十二年七月十二日なれば、淸康君におくるゝ事九年にして死せしなり。忠政が未亡人にあらざる事明らけし。玉輿志に忠政が離别の婦と有をもて實とす。今これにしたがふ)
かくて御家人等深く御喪を秘して岡崎に立帰り、そのほとり菅生の丸山にをいて烟となしまいらせ、御骨をば大樹寺におさめ、善德院殿とをくり奉る。(大樹寺の記かくのごとし。隨念寺記に菅生丸山に御火葬して、その地に御塚ありしゆへ、烈祖永祿四年、隨念寺をその地に造營し給ふと見え、又大林寺の記にははじめの北方春姬。御離婚の後も貞操を守り二度他へ嫁せず。淸康君御事ありし後、御骨をその香火院なればとて大林寺に葬りしかば、今も御夫婦の御墓大林寺に存するよししるす。今おもふに御荼毘の後御分骨ありて、三所に葬りたるものなるべし) この君時に廿五歲、さしも軍謀武略世にすぐれかしこくわたらせ給ひしを、おしみてもなをあまりある御事なり。三河にては祖父の入道をはじめ聞召おどろき、上下たゞ火をけちたる如く驚歎して、ものもいはれずなきしづみたるもことはりなり。森山よりかへりし御家人、かの大藏が事を入道に申て御下知を乞しに、入道なくなく仰せけるは、彌七が大罪全く狂氣のいたす所なれば、父大藏が罪にあらず、大藏は舊にかはらず忠勤をつくすぺしと仰せければ、定吉は蘇生をしたるごとく深くその恩に感ぜしとぞ。かくてもさのみはいかゞとて。
廣忠卿その頃はいまだ仙千代とていとけなくおはしけるを主となし、御家人をのをのかしづき御成長をぞ待にける。この卿は大永六年四月廿九日生れ給ひ、今年はわづかに十歲にならせたまふ。御弟二人御妹一人あり。その一人は源次郞信康、その次は釋門に入て後に大樹寺の住職となり成譽と号す。御妹ハはじめ、長澤の松平上野介康高の妻となり、後に酒井左衛門尉忠次の妻となる。
さて天文五年二月のはじめ、織田信秀は淸康君の御事を聞定め、今は岡崎も空虛なるべし、西三河を併呑せん事この時にありと、八千の人数をして三河に発向せしむ。岡崎がた小勢なりといへども、さすが故君の御居城を敵の馬蹄にかけん事口おしと、宗徒の輩血をすゝつて誓をなし、井田鄕にをいて敵をむかへて决戦し、おもひの外に切勝て織田勢大に敗走す。しかれども味方にも林植村高力などいへる究竟のともがら四十人余戦沒す。かの內膳信定は淸康君の御時より叛心をいだき織田方へ內通しけるが、淸康御事ありし後また奸計をめぐらし、老父の入道へしきりにこびへつらひて、今は幼君の後見となり、岡崎の政務を專らにし、何事もおもふまゝにふるまへば、御家人等もせん方なくいまは信定を尊敬する事主のごとく、敢てその命にそむくものなし。阿倍定吉は信定がめざましきふるまひ多きを見て、かくては幼君の御ため終にあしかりなんとて、ひそかに仙千代君をともなひ岡崎を逐電す。こゝに伊勢神戶城主東條右兵衛督持廣は、淸康君の御妹聟なれば、定吉、幼主を持廣に賴みしばし神戶にしのび居たり。持廣夫婦は仙千代君を我子のごとくいたはり、こゝにて首服をくはへ、をのが一字をまいらせ、二郞三郞廣忠君とぞなのらせたり。しかるに持廣いく程なく病沒し、その子上野介義安は父の志を背き織田方に內通し、廣忠卿を生取て織田方へ人質にせんと聞えしかば、定吉大におどろきまた廣忠卿をともなひ神戶を迯出て、遠州懸塚の鍛冶が家にしばらく忍ばせ奉り、その身駿河に行て今川治部大輔義元をたのみ、廣忠卿御帰国の事をこふ。
義元もとより近国を併呑し終には中国に旗を立んとの素志なれば、速に定吉がこふ所をゆるしたり。定吉が弟四郞兵衛忠次も兄と志を同じくして遠近をかけめぐり。岡崎の御家人等をひそかにすゝめて心を尽しける。御叔父藏人信孝、十郞康孝、その外林、大原、成瀨、八國、大久保党等これに応じ、若君当家の正統にましませば、国に迎へ奉らん事を議しあひ、今川義元は廣忠卿を帰国せしめ、岡崎をはじめ三州一円をのが旗下に屬せしめん下心なれば、東三河與力の士をかり催して、先ず廣忠卿を三州牟呂の城に入まいらせ、廣忠卿に陪從せし御家人等を先鋒とし、織田方旗下に屬したる東條の城主吉良左兵衛佐義鄕を攻しめ義鄕も討死す。信定これを聞おどろき、若君を国に入しめじと樣々心がまへせしかど、普第の御家人一致して天文六年五月朔日、終に廣忠卿を岡崎に迎へ入奉る。(この時軍功の輩に賜りし御感狀今林肥後守忠英が家に存せり) 信定も今は力をよばず又老父入道にたよりて、廣忠卿へ降參しいく程なく病沒せり。この後岡崎には藏人信孝、十郞三郞康孝兩叔父を後見とし、大藏定吉等おもふまゝに軍国の事をとり行ふ。淸康君後の北方(華陽院殿御事なり)、いまだ水野忠政がもとにおはしける頃設給へる御女あり(伝通院殿御事なり)。定吉はじめ酒井石川等のおとなどもの計ひにてこの御女をむかへとり、廣忠卿の北方となし奉る。
天文十一年十二月廿六日、この御腹に若君安らかにあれましける。これぞ天下無彊の大統を開かせ給ふ当家の烈祖東照宮にぞましましける。その程の奇瑞さまざま世につたふる所多し。(北方鳳來寺峰の藥師に御祈願ありて、七日滿願の夜藥師十二神將の寅神を授け給ふと見給ひしより、身重くならせ給ふなど、日光山の御緣起にも記されし事多し) 石川安藝守淸兼蟇目をなし。酒井雅樂助正親胞刀を奉る。御七夜に竹千代君と御名参らせらる。こゝに御母北方の御父水野忠政卒して後、その子下野守信元は今川方を背き織田がたにくみせられぬ。廣忠卿聞給ひ、吾今川の與國たることは人もみなしる所なり。然るに今織田方に內通する信元が緣に結ぼふるべきにあらずとて、北方を水野が家に送りかへさるゝに定まりぬ。これは竹千代君三の御歲なり。御母子の御わかれをおしみ給ふ御心のうちいかばかりなりけむ。
さてその日になれば金田阿倍などいへる御家人等をそへられて、北方を御輿にのせて刈屋へをくりつかはさる。北方途中に於てをくりの人々に仰せけるは、わが兄下野殿はきはめて短慮の人なり。汝等我を送り來りたりと聞ば、定めて憤りて一々切りて捨らるゝか。又は髮を剃て追放し辱しむるか。二の外には出べからず、左もあらんにはわらはこそ緣盡て兄のもとにかへさるゝとも、竹千代を岡崎にとゞめをけば、岡崎のものを他人とは思はず、そのうへ下野殿と竹千代とは叔姪の中なれば、終には和睦せらるべし。下野殿今汝等を誅せられんに於ては後に和睦のさまたげとなるべし。とくわらはを捨てかへるべしとて、いかに申せども聞入れ給はねば、御送りのともがらもせんかたなく、その所の民どもに御輿をわたし御暇は申しけれど、猶心ならねば片山林のかげに身をひそめうかゞひ居たりしに、はたして刈屋より混甲二三十人出來たり。御送りの者ことごとく討て捨よと下野守殿仰をうけてきたりしに、御送りの岡崎士等はいづかたにあるやといぶかる。北方御輿の中よりかれらをめして、岡崎のものどもははやくわらはをすてゝ帰りしが、今程ははや岡崎へや至りつらん、追かけても及ぶまじと仰せければ、刈屋のものども力なく御輿を守護して刈屋へかへりたり。この北方の姊君は形原の紀伊守家廣の妻なりしが、家廣も廣忠卿すでに北方を御離婚ありしに、我又水野が緣につらなるべからずとて、その妻をも刈屋に送り帰したりしに、信元大に怒りて送りのもの一人も殘さず伐て捨つ。こゝに於て後までも、廣忠卿の北方は女ながらも、海道一の弓取とよばれ給ふ名將の母君ほどましまして、いみじき御思慮かなと世にも聞き伝えて感歎せぬはなかりけり。
廣忠卿の御子は竹千代君の外に男子君一人女君三人おはしたり。御男子は家元、後に康元、生涯足なえて世に出で人にも交り給はず。後に正光院とをくりまいらす。女君は多刧姬と申す。櫻井の松平與一忠政に嫁せられ、後にその弟與一郞忠吉にあはせ給ひ、その後また保科彈正忠光に降嫁せらる。(藩翰譜に正光に降嫁ありし烈祖の御妹は、傳通院殿。久松がもとにて設け給へる所といふは誤なり) その次は市塲殿とて荒川甲斐守賴持(又義虎)に嫁し給ひ、後に筒井紀伊守政行にとつぎ給ふ。その次は矢田姬と申し、長澤の源七郞康忠に嫁したまひき。廣忠卿にはこの後田原の城主戶田彈正少弼康光の女をむかへ給ひしかど、この御腹には御子もましまさず。福釜の甚三郞信乘が子兵庫の頭親良といへるも、桑谷の右京大夫忠政といへるも、內藤豐前守信成といへるも、実はこの卿の御子なりしともつたへたり。
十四年弥生の頃、御家人岩松八彌何のゆへもなく、御閑居の御傍によりて御股を一刀つき奉りて門外へ迯いでたり(隣国より賴まれて刺客となりしといふ)。御かたはらの者共おどろきあはてゝ追かくる。卿も御はかせとらせ給ひ、のがさじと追出給ひしかど、御股の疵痛ませ給へば追付給はず、この時も植村新六郞外のかたより来ながら、おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ、共にからぼりの中におちいり、終に組敷て八彌を伐はたす。この植村さきに淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ、今度また八彌をもその座をさらず首をとり、二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と、感じうらやまぬ者ぞなかりける。このほど織田信秀は尾州より三州を併呑せんと頻りに謀をめぐらしけるに、三州にても上和田城主三左衛門忠倫、上野の城主酒井將監忠尙等をはじめ、ここに內応する徒もすくなからず。こゝに又藏人信孝は廣忠卿を翼立せし功により、その威権肩をならぶる者なかりしかば、縱恣のふるまひ多かりしを、大藏定吉はじめ老臣共兼てむつましからず互に猜忌し、信孝が矯逸そのまゝにすてをかれば、昔の內膳信定がふたゝび生せしごとくならんと、よりよりに廣忠卿をもいさめたり。
十六年正月頃、卿御病惱にわたらせ給へば、御名代として信孝を今川がもとへ歲首の御使に赴かしめ、その跡にて信孝が三木の領地を沒入しければ信孝帰りて大におどろき、吾翼立の功ありて罪なし、何の故にかく所領を沒入せられしぞ、これは定て吾をにくしと思ふ大藏等が讒訴のいたす處ならむとて樣々陳謝すれども、これをとりつぐ者もなければ、終に憤りにたへずしてこれも織田方に內応の志を抱きけり。このほど道閱入道殿もうせ給へば、織田信秀よろこび大方ならず。今は三州を侵掠せむこと心やすしとまづ安祥を責め落し、その子三郞五郞信廣をこめ置く。渡理筒針に砦をかまへ、上和田に三左衛門忠倫、上野に酒井將監忠尙を置きて掎角の勢を張れば、もとの信定が子內膳淸定、山中の權兵衛等もこれに応じ、岡崎孤城となりて甚危し。国中大に乱れてあけても暮ても互の争戦やむ時なし。この時、筧平三郞重忠は岡崎の御家人なりしが僞て忠倫に降参し、したしみつよて忠倫をさし殺す。今度反逆の首長忠倫うたれしかば、岡崎がたは大に悅び織田方は援助を失ひしに、信秀大に怒り、さらばみづから大軍を率し三州に出陣し、岡崎を攻めぬかんと用意する由聞えしかば、岡崎にも是を防がむとすれども衆寡敵しがたく、今川がもとへ援兵をこはる。
義元聞て人質をこひけれは、竹千代君わづかに六歲にならせ給ふを、駿州に質子たるべしとの事にさだまり、石川與七郞數正、天野三之助康景、上田萬五郞元次入道慶宗、金田與三右衛門正房、松平與市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郞忠正、江原孫三郞利全等すべて廿八人。雜兵五十余人。阿部甚五郞正宣が子德千代(伊豫守正勝なり)六歲なりしをあそびの友として御輿に同じくのせてつかはさる。こゝに田原の戶田彈正少弼康光は廣忠卿今の北方の御父なれば、この御ゆかりをもて、陸地は敵地多し。船にて我領地より送り申さんと約し、西郡より吉田へ入らせ給ふ所を、康光ハその子五郞政直とこゝろをあはせ、御供の人々をいつはりたばかり船にのせて尾州熱田にをくり、織田信秀に渡しければ、信秀悅び大方ならず。熱田の加藤図書順盛がもとへ預け置きしとぞ。かくて信秀より岡崎へ使を立て、幼息竹千代は我膝下に預り置きたり。今にをいては今川が與国をはなれ我かたに降参あるべし。もし又そのことかなはざらんには、幼息の一命たまはりなんと申し送りたり。卿その使に対面し給ひ、愚息が事は織田がたへ質子にをくるにあらず。今川へ質子たらしむるに、不義の戶田婚姻のよしみをわすれ、中途にして奪い取て尾州に送る所なり。廣忠一子の愛にひかれ、義元多年の旧好を変ずべからず。愚息が一命は霜臺の思慮にまかせらるべしと返答し給へば、信秀もさすがに卿の義心にや感じけん。竹千代君をうしなひ奉らんともせず、名古屋萬松寺天王坊に押し込め置きて、勤番きびしく付け置きしとぞ。今川義元も卿の義心に感じ、さらば援兵つかはすべしとて、遠江幷に東三河の勢をさしむけ、三州小豆坂にて織田勢と合戦し、織田方終に引き返す。藏人信孝織田方へ內通すといへども、三左衞門忠倫うたれし後は同志のともがら衰落するを憤り、みづから大明寺村に打て出あえなくうたれ、權兵衛重弘も山中城より落うせしかば、織田方にはいよいよ大軍を起し岡崎へ乱入せんとすれば、岡崎にも防戦の用意専らにすといへども、織田方は大軍岡崎は小勢なれば、いかがはからはんと上下心をなやます。その中に廣忠卿には去年以来御心地例ならずましまししが、日にそひおもらせ給ひ、天文十八年三月六日、廿四歲にてうせ給ふ。三十にさへみちたまはで引つゞきかくならせ給ふを、一門御家人等なげきかなしまぬ者もなし。やがて大樹寺におさめ進らす。(大樹寺大林寺松応寺の旧記をあはせ考るに、この時織田方は岡崎をせめ亡さんとする事急にて、ふたゝび今川へ加勢を請たまふ最中、廣忠卿逝去ましましけるゆへ、御家人等この事織田方へ聞えんことを恐れ、その頃ふかく御帰依ありし法藏寺教翁和尙と內話し、岡崎近き大林寺にて後のわざし、能見の原に內葬して後、今川へもその旨告やり大樹寺に葬礼を行ひぬ。年へて後能見の原御密葬の地にも一宇を造営あり。松応寺これなりといふ)。
慈光院殿とをくり又瑞雲院殿とも申し、慶長十六年、大一統の後にぞ、大納言ををくられ大樹寺殿と号したまふ。今川義元こゝに於て大軍をおこし、岡崎の兵をくはへて二万余騎、織田信廣がこもりたる安祥へをしよせ、本丸を殘しその外二三の丸まで攻おとし、今川がたの總將雪齋和尙がはからひにて、信廣と竹千代君と人質替の事を申し送りける。織田も備後守信秀この春病沒し長子信長家継しが、もとより勇銳の大將なれば、庶兄信廣が安祥にて今川勢にかこまれ窘困すると聞きて、これをすくはんため尾州を発し鳴海まで出陣せしが、安祥旣に陷ると聞て引返さんとする處に、今川が使者至り人質替の事を申ければ、信長も悅て約を定め十一月十日、三河の西野笠寺まで竹千代君を送りまいらすれば、こなたよりも大久保新八郞忠俊などいへる岡崎普代のつはもの出むかへ受け取て、信廣をば織田方へ引渡す。
君は天文十六年六歲にて尾州の擒とならせられ、八歲にしてことしはじめて御帰国あれば、御家人はいふまでもなし岡崎近鄕の土民までも君の御帰国をよろこぶ所に、今川義元岡崎の老臣等に、竹千代いまだ幼稚のほどは義元あづかりて後見せむと申し送り。十一月廿二日、竹千代君また駿府へおもむきたまひしかば、義元は少將宮町といふ所に君を置きまいらせ、岡崎へは駿河より城代を置きて、国中の事今は義元おもふまゝにはかり、御家人等をも每度合戦の先鋒に用ひたり。
君かくて十九の御歲まで今川がもとにわたらせらる。その間の嶮岨艱難言のはのをよぶ所にあらざりしとぞ。(伊東法師がしるせし書に、廣忠卿うせ給ひ、竹千代君いまだ御幼稚なれば、敵国の間にはさまりとても独立すべきにあらず。織田方に降参せんといふもあり。又は今川は旧好の與国なれば、今川に従はんこそ旧主の遺旨にもかなはめといふもありて群議一决せざる間に、義元いちはやく岡崎へ人数をさし向け城を勤番させければ、岡崎の御家人等は力及ばず。何事も義元が下知に属したりと見ゆ。これ說これなるに似たり) |