東照宮御実紀卷二 弘治二年に始り天正五年に終る
竹千代君御歳十五にて今川治部大輔義元が元におはしまし御首服を加へ給う。義元加冠をつかうまつる。関口刑部少輔親永(一本義広に作る)理髮し奉る。義元一字を参らせ、二郞三郞元信と改め給ふ。時に弘治二年正月十五日なり。その夜、親永が女をもて北方に定め給う。後に築山殿と聞えしは、これ御事なり。
二月には義元がはからひにて三河国日近の城を攻めんと、君の御名代には御一族東条の松平右京亮義春をして差し向けしに、城将奥平久兵衛貞直よく防ぎて義春討ち死にす。この城は三尾の国境なり。かくて尾州より三州を侵掠すべしとて福釜に新塞を構え、酒井大久保をはじめ宗徒の御家人を添えて守らしむ。織田上總介信長これを聞き、柴田修理亮勝家を将として攻めさせけるに、御家人等力を尽し防げれば、勝家深手負て引き返す。義元大に御家人等の武勇を感じぬ。
君、義元に向かはせ給ひ、それがし齢既に十五にみち、未だ本国祖先の墳墓にも詣でず、願はくば一度故鄕に帰り祖先の墳墓をも掃ひ、亡父の法事をも営み、故鄕に残せし古老の家人へも対面仕りたしと仰せらる。義元も御志のやむごとなきをもて、やむことを得ずしばしの暇参らせければ君御悅びなゝめならず、急ぎ三河へ立ちこえ給い、御祖先の御墓に詣で給ひ御追善ども営なませ給ふ。
この時、岡崎には今川の城代とて山田新右衛門など云う者本丸に住み居るけるに、君仰せけるは、吾いまだ年若し、諸事古老の異見をも請くべければ、そのまゝ本丸にあるべしとて、御身はかへりて二丸におはしたり。義元も後にこれを聞き、さてさて分别あつき少年かなと感じけるとぞ。為に鳥居伊賀守忠吉とて先代よりの御家人、今は八十に余れる老人なり。その身今川が命を受け岡崎にて賦稅の事を司りしが、忍び忍びに粮米金銭を庫中に蓄え置く。こたび君御帰国ありて、譜代の人々対面し奉りよろこぶ事限りなき中にも、忠吉は君の御手を取り、年頃積み置きし府庫の米金を御覧にそなへ、今よりのち我が君良士をあまた召し抱え給い、近国へ御手をかけ給わんため、かく軍粮を儲け置き候なりと申しければ、君御涙を催されその志を感じ給いぬ。又義元三河を押領し年頃諸方の交戦に我が家人をかりたてゝ、譜代の家人どもこれがために討ち死する者多きこそ、何よりの嘆きなれとて、更に御涙を流し泣きくどかせ給いける。古老の御家人らこれを見聞し、御年のほどよりも御仁心の類なくわたらせ給ふさま、御祖父淸康君によく似させ給うことゝて、感歎せぬはなかりけり。
翌年の春に至り駿府へ帰らせ給ひぬ。御名を蔵人元康と改め給う。これ御祖父淸康君の英武を慕わせられての御事とぞ聞えける。弘治も四年にて改元あり永祿となりぬ。君再び義元の許しを得給い三州にわたらせられ、鈴木日向守重教が寺部の城を攻め給ふ。これ御歲十七にて御初陣なり。この軍中にて君古老の諸将を召され御指揮ありしは、敵この一城に限るべからず、所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先ず枝葉を伐ち取りて後本根を断つべしとて城下を放火し引きとり給ふ。酒井雅楽助正親、石川安芸守淸兼など云えるつはものどもこれを聞きて、吾々戦場に年を経るといへども、これほどまでの遠慮はなきものを、若大将の初陣よりかゝる御心付けせ給う事、行々いかなる名将にかならせ給うらんと落涙してぞ感じける。
又義元も初陣の御振る舞いを感じて、御旧領のうち山中三百貫の地を返し参らせ腰刀を参らせたり。そのちなみに織田方にかゝへたる広瀨挙母伊保等の城を攻め、石が瀨にて水野下野守信元と戦い給ふ。軍令指揮その機を得給いし生智の勇略、古老の輩感服せざるはなし。この頃、岡崎の老臣等駿府に行きて、元康既に人となり帰城するからには、駿府より置かれし城代その外人数をば引き取り給ひ、旧領返し給はりなむやと請けれど、義元我れ明年尾州へ軍を出さむとす。そのちなみに三州へも赴き境目を查検して旧領を引き渡すべし、それ迄は先ず預かり置くべしとあれば、岡崎の老臣どもゝせん方なく、密かに憂憤してむなしく月日を送りたり。
二年三月、北方駿府にて男御子を生ませ給ふ。後に岡崎城を譲らせ給い、三郞信康君と称し給へるはこれなり。この頃、織田信長は父信秀の箕裘をつぎ、兵を强くし国を富ますの謀をめぐらし、美濃伊勢を切りなびけ駿遠三を押領せむと、鳴海近辺所々に砦を設け兵をこめ置くと聞く。今川義元大に怒り、さらば吾より先をかけて尾州を攻めとり直に中国へ旗を立てんと、これも国境所々に新寨を設け兵をこめし中にも、まづ大高城へは一族鵜殿長助長持を籠め置きしが、この城敵地に迫り軍粮を運ぶたよりを得ず。家の大人どもを集め評議しけれども、この事為し得んと請けがふ者一人もなし。しかるに君は僅かに十八歲にましましけるが、甲斐甲斐しく請けがひ給い、敵軍の中を押し分け難なく小荷駄を城內へ運び入れしめられければ、敵も味方もこれをみて、天晴れの兵粮入れかなと感歎せずと云うものなし。これぞ御少年御雄略のはじめにて、今の世まで大高兵粮入れとて名誉のことに申しならはしける。
(大高送粮の事異說區々なり。その一說尤も審なり。そのゆへは信長寺部挙母広瀨の三城へ兵をこめ置きて、今川より軍粮を大高城へ入ることあらんには、鷲津、丸根両城へ牒し合せて遮りとめんと設けたり。烈祖早くその機を察せられ、先ず鷲津、丸根両城を捨て寺部の城下を放火し、その城へ攻めかゝらん躰を示し給へば、鷲津、丸根の両城は寺部を救わむ用意するその暇に、難なく軍粮をば大高城へ運送し給うと云う。これ是なるがごとし)
この後も義元の指揮によって寺部、梅津、広瀨等の城々を攻め給ひ、又駿府へ帰らせ給ふ。あくれば三年、義元用意既に整いしかば、駿遠三の軍四万余を引具し尾州表へ発行す。君もその先隊におはし給ひ、先ず丸根の城を攻め落し給い、やがて鷲津も駿勢攻め落す。義元大高城は敵地に迫り大事の要害なればとて、鵜殿に代えて君をして是を守らせ、その身は桶峽間に着陣し陣中酒宴を催し勝ち誇りたるその夜、信長暴雨に乗じ急に今川が陣を襲ひけるにぞ。義元あえなく討たれしかば、今川方大いに狼狽し前後に度を失ひ逃げ帰る。
君はいさゝかもあはて給はず、水野信元より義元討れし事を告げ進めらせて後、静かに月出るを待てその城を出給ひ、三河の大樹寺まで引きとり給ふ。岡崎城にありし今川方の城番らは、義元討死と聞きて取るものもとりあへず逃げ去りければ、そのまま城へ入らせ給ふ。君八歲の御時より駿府に質とせられ、他の国に憂き年月を送らせ給ひ、ことし永祿三年五月廿三日、十七年を経て誠に御帰国ありしかば、国中士民悅ぶ事限りなし(義元よりかねて武田上野介、山田新右衛門等を岡崎の城代に置きしが、今度尾州出軍に及びまた三浦飯尾岡部等をして岡崎を守らせけるに、義元討死を聞きこの輩みな逃げ去りければ、難なく御帰城ありしとなり)。
君の御母北方は岡崎より刈屋へ帰らせ給ひて後、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝が元に住みつかせ給ひ、こゝにて男女の子あまた設け給ひしが、君は三の御年别れ給ひし後は御対面も絕えはてし故、とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず、御母君もこの事を常々嘆かせ給ふ由聞えければ、幸に今度尾州へ御出陣まします。ちなみに、阿古屋へ立ち寄らせ給わんとて懇に御消息ありしかば、御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。この久松は水野が旗下に属し織田方なれど、御外戚紛れなき事なれば何か苦しかるべきとて、その用意して待ち設けたりしに、君やがてその館にましまして御母子御対面ましまし、互に年頃の御思ひのほどくつし出給ひて、泣きみ笑ひみ語らせ給ふ。その傍に三人並び居りし男子を見給ひ、これ母君の御所生なりと聞こしめし、さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつらになさる。これ後に因幡守康元、豊前守康俊、隱岐守定勝と云う三人なり。
信長は義元を討ち取りて後は、君にも織田方に組し給うらめとはかりし所に、君は岡崎へ帰らせ給ひて後も、挙母梅津の敵と戦い拂楚坂石瀨鳥屋根東条等にて織田方の勢と攻め合い力を尽し給えば、信長も思ひの外の事とぞ思はれける。義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長に恨みを報ずべきてだてもなさず、寵臣三浦など云へるものゝ侫言をのみ用ひ、空なしく月日を送るをみて、信長は君を味方となさんとはかり、水野信元等によりて詞をひきくし礼をあつくして語らはれけるに、君も氏眞終に国を滅ぼすべきものなりとをしはかりましまし、終に信長の請いに従わせ給へば、信長も悅び斜めならず。かくて君淸洲へ渡らせ給へば信長もあつくもてなし、これより両旗をもて天下を切りなびけ、信長もし天幸を得て天下を一統せば、君は旗下に属し給うべし。君もし大統の功をなし給はゞ、信長御旗下に参るべしと盟約をなして後、あつく饗応参らせて帰し奉る。
これは永祿四年なり。東条の吉良義昭今はまたく御敵となり、しばしば味方の兵と戦てやまざりしが、その弟荒川甲斐守賴持兄弟の中よからねば御味方となり、酒井雅楽助正親を己が西尾の城に引き入れしかば、吉良も終には利を失ひ味方に降参す。味方また今川方西郡の城を攻めて鵜殿藤太郞長照を生けどる。長照は今川氏眞近きゆかりなれば、氏眞これを愁る事甚しき樣なりと聞きて、石川伯耆守数正謀を設け、かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて、若君を伴い岡崎に帰りしかば、人皆な数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。
君、今年御名を家康と改め給ふ(永祿四年十月の御書に元康とあそさばされ、五年八月廿一日の御書には家康とみゆ)。六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かく結ぼふれたる御中とならせ給えば、今川方にはこれを憤り所々の戦い止む時なしと云えども、今川方いつも敗北して勝つ事を得ず。これほど小坂井牛窪辺の新寨に粮米をこめ置きけるゝに、御家人等佐崎の上宮寺の籾をむげに取り入れたるより、一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに、譜代の御家人等これに与する者少からず。国中騷擾せしかば、君御自ら攻め討たせ給う事度々にして、明る七年に至り門徒等勢衰えて、御家人どもゝ罪を悔い帰順しければ、一人も罪なひ給はず、有しながらに召しつかはる。この騒ぎに時を得て吉良義昭、荒川賴持、松平三蔵信次、松平監物家次、松平七郞昌久等又反逆してをのが城に立てこもりしかど、かたはし攻め落されき。されども吉田城には今川氏眞より小原肥前守鎭実をこめ置きて岡崎の虚をうかゞへば、これに備えられんがため、岡崎よりも喜見寺糟塚等に寨を構えさせ給う。
その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもて守りけるに、氏眞吉田を救はむがため二万の軍をもてこの寨を攻め囲む。君かくと聞こし召し三千の人数にて一宮の後詰し給はむとて出馬し給う。老臣等これをみて、敵の人数は味方に十倍し、その上後詰を防がせむとて武田信虎備えたり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諫めけれど、君は家人に敵地の番をさせて置きながら、敵寄せ来ると聞きて救けはそらんには、信も義もなきと云うものなり。万一後詰をし損じ討ち死にせんも天命なり。敵の大軍も小勢も云うべき所にあらずとて、もみにもんで打ち立たせ給ひ、信虎が八千の備えを蹴散らして一宮の寨に入り給ふに、今川が軍勢道を開きて手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし、翌朝、信俊を召し具せられ、将卒一人も毁傷なく敵勢を追立々々難なく岡崎城へ帰らせ給ふ。これを一の宮の後詰とて天下後世までその御英武を感歎する所なり(後年、豊臣大閣のもとに烈祖をはじめ諸將会集ありし時、誰にかありけん古老の者烈祖に対し奉り、先年一宮の後詰こそ今に御武名を唱え、天下に美談と仕り候と申し上げければ、烈祖否々それも若気の所爲なりと宣ひ、微笑しましましけると伝へき)。
小原鎭実も吉田の城を開き、田原御油等の敵城も皆な攻め落され、東三河、碧海、加茂、額田、幡豆、室飯、八名、設楽、渥美等の郡皆な御手に属しければ、吉田は酒井忠次に給わる。これ当家の御家人に始めて城主を命ぜられたる濫觴とぞ。八年には牛窪の牧野、野田の菅沼、西鄕、長篠、筑手、田嶺、山家、三方の徒も皆な氏眞が柔弱を疎み、今川方を去りて当家に帰順しければ、今は三河の国一円に平均せしにより、本多作左衛門重次、高力左近淸長、天野三郞兵衛康景の三人に国務並びに訟訴裁断の奉行を命せらる。これを岡崎の三奉行と云う。(世に伝うるところは、高力は温順にして慈愛深く、天野は寬厚にして思慮厚し。本多は常に傲放にして思いのまゝに云いたき事のみ云う人なれば、志慮あるべしとも見えざりしに、国務裁断に臨み万に正しく果敢明断なりしかば、その頃三河の土俗ども、仏高力鬼作左とちへんなしの天野三兵と謠歌せしとぞ。その生質異なるを一処に集めて事を司どらしめ給いしは、剛柔互いにすくひ寬と猛と兼ね行はせられしところ、よく政務の大躰を得給ひしものなりと、世上にもこの時既に感称せしとぞ)
九年十二月廿九日、叙爵し給ひ三河守と称せられ、十年、信長の息女御入輿ありて信康君御婚礼行はる。十一年正月十一日、君又左京大夫をかけ給ふ。この頃、京都には三好左京大夫義継並びにその陪臣松永弾正忠久秀反逆して、将軍義輝卿を失い参らせしかば、都また乱逆兵馬の巷となる。将軍御弟南都一乗院門主覚慶織田信長を頼まれ都にうつて上らるゝに及び、信長よりの頼みをもて、当家よりも松平(藤井)勘四郞信一を将として御加勢差し向け給ひしに、信一近江の箕作の城攻めに拔群の働きして敵味方の耳目を驚ろかしければ、信長も信一小男ながら肝に毛の生たる男かなと称美し、着したる道服を脫て当座の賞とせられしとぞ。
かの今川氏眞は日にそひ家人どもにも疎まれ背くもの多くなりゆくをみて、甲斐の武田信玄入道情なくも甥舅のちなみを捨てゝ軍を出し、駿河の国は云うまでもなし、氏眞が領する国郡を侵し奪はんとす。氏眞いかでか是を防ぐ事を得べき。忽に城を出で砥城の山家へ逃げ隠れしに、朝比奈備中守泰能は心ある者にて、をのが遠江の国懸川の城へ迎えとりてはごくみたり。
これより先、信玄入道は駿府に攻め入らんにハ、後を心安くせずしてはかなふべからずと思ひ、先ず当家に使い進めらせ、大井川を限り遠州ハ御心のままに切りおさめ給ふべし、駿州は入道が意に任せ給はるべしと云はせければ、君もその乞に任せ給い、さらば遠江の国を切り従え給はむとて岡崎を御出馬あり。菅沼新八郞定盈がはからひにて、井伊谷の城早く御手に属し、同国の士ども多く従いしに、信玄入道家士秋山伯耆信友見付の宿に陣し、当国の者共を武田が方へ引き付けんとはかるよし聞こし召し、かくてハそのはじめ入道が誓の詞違いたり、早くその所を退かずば御自ら伐ちて出で誅せらるべしとありて、はや御人数も走りかゝる樣をみて、信友かなはじと思ひ信濃の伊奈口に逃げこみたり(信玄陽には当家に和して、大井川を限り遠州をば御心に任せ給えと言いながら、陰には当家を侵し遠州をも併呑せむ爲、信友遠州へ出張して遠州の人数を募り国士を招きしなり。この後山県昌景をして御勢を侵さしめしも、みな僞謀の致すところなり)。
遠州の国士等多半御味方に参りければ、懸川の城外に向城をとりたてゝ氏眞を攻め給ふ。十二年に至り懸川城しばしば攻められ力尽しかば、和睦して城を開き去らんとするに及び、君はかの使いに対し、我れ幼より今川義元に後見せられし旧好いかで忘るべき。それゆへに氏眞を助けて義元の讎を報ぜしめんと、意見を加ふること度々に及ぶと云えども、氏眞侫臣の讒を信じ我が詞を用ひざるのみにあらず、かへりて我をあだとし我を攻め伐たんとせらるゝ故、止む事を得ず近年鉾盾に及ぶと云えども、更に本意にあらず。既に和睦してその城を避らるゝに於ては、幸い小田原の北条は氏眞叔姪のことなり、我また北条と共にはかりて氏眞を駿州へ還住せしめんとて、松平紀伊守家忠をして氏眞を北条が許へ送らしめられける。北条今川両家のもの共もこれを見て、げに徳川殿は情ある大将かなと感じたり。かくて懸川城をば石川日向守家成に守らしめらる。
これより先、三河一国帰順の後は本国の国士を二隊に分け、酒井忠次、石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが、家成今度懸川を留守するに及び、旗頭の任は甥の数正に譲り、その身は大久保松井等と同じく遊軍に備え、本多、榊原等は御旗下を守護す。大井川を境とし遠州は御領たるべき事は、かねて信玄入道盟約のことなれば、この五月、御領境を御巡視あるべしとて、五六百人の少勢にて御出馬ありしをみて、入道が家士山縣三郞兵衛昌景と云へる者行すぎがてに御供人といさかひし出し、それを頼りに御道をさへぎり留めむとす。御勢いかにも少なきが故いそぎ引き退かんとし給う。山縣勝ちに乗じ是を追討せんとひしめく所に、御供の中より本多平八郞忠勝一番に小返しゝて、追りくる敵を突き崩す。榊原小平太康政、大須賀五郞左衛門康高等追々に返し来りて突戦すれば、山縣も終に勝ちがたくや思いけむ、早々駿州へ逃げ入りたり(これ入道兵略軍謀古今に卓絕し、世の兵家師表と仰ぐ所と云えども、その実は父を追て家を奪い姪を倒し国をかすむ。天倫たへ人道既に失へり。隣国の盟誓を背く如きは怪しむにたらず)。世にも是を聞きて入道が詐謀を誹りしかば、入道やむ事を得ず罪を山縣に帰して蟄居せしむと云えども、天下皆な入道が姦をそしらざる者なし。
君にはさすがに今川が旧好をおぼし召し、氏眞が愚にして国を失へるを憐れみ給ひ、山縣昌景が駿府の古城を守り居たるを追落とし給い、北条と牒し合せられ氏眞を駿府に帰り住ましめんと、城の修理等を命ぜられたり。この経営未だ整わざる間に信玄入道かくと聞きて大に驚き、また駿府城に攻め来り、城番の岡部など云える今川の士を味方に招きその城再び奪ひ取る。氏眞は兎角かひがひしく力を合わする家人もなければ、後には小田原にて北条がはごくみをうけて年を送りしが、北条氏康卒して後氏政が時に至り、小田原をもさまよひいでゝ浜松に来り、当家の食客となりて終りける。これより先、遠江のくに引間の城を西南の勝地に移され浜松の城と名付けらる。
永祿十三年に号また改まりて元亀と称す。浜松の城規摸宏麗近国にすぐれければこの正月より移り給ひ、岡崎城をば信康君に譲り住ませ給ふ。ことし弥生、信長越前の朝倉左衛門督義景を討たんと軍立ちせられ、又援兵を望まれしかば、君にも遠江三河の勢一万余騎にて、卯月廿五日、敦賀と云う所に着き給ふ。やがて織田と旗を合せ手筒山の城を攻め破る。なを深く攻め入りて金が崎の城に押し寄せらるゝ所に、信玄のいもと聟近江の浅井備前守長政、朝倉に与し、織田勢の後ろを取り切る由注進する者ありしかば、信長大に驚き、とるものもとりあへず、当家の御陣へは告げもやらず、急に朽木谷にかゝり尾州へ逃げ帰る。
木下藤吉郞秀吉に僅か七百余の勢をつけて残されたり。秀吉は君の御陣に来たり、しかじかの由を申し救を請いしかば、快よく請がひ給い、敵所々に遮りとめんとするを打ち破り打ち破り通らせ給ふ。されど敵大勢にて小勢の秀吉を取り囲み、秀吉既に危く見えければ、㝡前秀吉が賴むと云いしを捨て行かむに、我れ何の面目ありて再び信長に面を合わすべき、進めや者どもと御下知ありて、御自ら眞先に進み鉄砲を撃たせ給えば、義を守る御家人いかで力を尽さゞらん。敵を向の山際までまくり付き、風の如くに引きとり給う。椿峠までのかせ給ひしばし人馬の息を休め給ふ御馬前へ、秀吉も馬を馳せ来り、もし今日御合力なくば甚危きところ、御影にて秀吉後殿をなしえたりとて謝しにけり。
かくて信長は淺井父子が朝倉に一味せしを憤る事深かりしかば、さらば先ず浅井を攻め亡ぼして後朝倉を誅すべしとて、また御加勢を請われしかば、この度も又御自ら三千余兵を従えて御出陣あり。五月廿一日、近江の橫山の城へは押さえを残し小谷の城下を放火す。浅井方にも越前の加勢を請えば、朝倉孫三郞景紀を将として一万五千余騎着陣し、六月廿八日、姉川にて戦あり。はじめ信長は朝倉に向かえば、君には浅井と戦い給へとありしが、曉にいたり信長、越前勢の大軍なるをみて俄に軍令を改め、我は浅井を討つべし、徳川殿には越前勢へ向かい給えと申し進めらせらる。御家人等これを聞き、只今に至り御陣替然るべからずと否む者多かりしかど、君はたゞ織田殿の命のまゝに、大軍の方に向かわんこそ、勇士の本意なれと御返答ましまし、俄に陣列を改め越前勢に向かい給う。
かくて越前の一万五千余騎、君の御勢に打ってかゝれば、浅井が手の者八千余騎、織田の手にぞ向かいける。御味方の先鋒酒井忠次をはじめえい声あげてかゝりければ、朝倉勢も力を尽しけれども遂にかなはず、北国に名を知られたる眞柄十郞左衛門など究竟の勇士等あまた討たれたり。浅井方は磯野丹波守秀昌先手として織田先陣十一段まで切り崩す。長政も馬廻りを励ましてかゝりければ、信長の手の者もいよいよ騒ぎ乱れ旗本もいろめきだちぬ。
君はるかにこの樣を御覧ありて、織田殿の旗色乱れて見ゆるなり、旗本より備を崩してかゝれと下知し給えば、本多平八郞忠勝をはじめ、ものも云わず馬上に鎗を引き提げて浅井が大軍の中へおめいてかゝる。誇りたる浅井勢も徳川勢に橫を打たれ防ぎかねてしどろになる。織田方是にいろを直してかへし合わせければ、浅井勢も共に敗走して小谷の城に逃れ入りぬ。信長思いのまゝに勝軍してけるも、またく徳川殿の武威による所なりとて、今日大功不可勝言也、先代無比倫、後世誰爭雄、可謂当家綱紀、武門棟梁也との感書に添えて、長光の刀その外様々の重器を進らせらる(これを姉川の戦とて御一代大戦の一なり)。
この後も佐々木承禎入道、朝倉浅井に組し、近江野洲郡に打ちて出るよし聞きて信長より加勢を請われしかば、又本多豊後守康重、松井左近忠次に二千余の兵を率して救わしめ給う。この頃、越後国に上杉謙信入道とて、軍略兵法孫吳に彷彿たるの聞え高き古つわものあり。今川氏眞が媒にてはじめて音信をかよはし給う。入道悅なゝめならず。当時海道第一の弓取りと世に聞こえたる徳川殿の好通を得るこそ、謙信が身の悅びこれに過るはなけれとて、左近忠次まで書状を進めらせ謝しけるが、これより御音問絕せず。この八月廿八日、若君十三にて首服を加へ給い、信長一字を進めらせ二郞三郞信康と名のらせ給う。
二年正月五日、君は従五位上に登り給ひ、十一日侍従に任ぜらる。三年閏三月、金谷大井川辺御巡視ありしに、この頃信玄入道は当家謙信入道と御合躰ありと云うを聞き大に患ひ、しからば早く徳川氏を除き後をやすくせんと例の詐謀を案じ出し、はじめ天龍川を境とし両国を分領せんと約し進めらせしを、などその盟を背き大井川まで御出張候や、さては同盟を変じ敵讎とならせ給ふなるべしと使いして申し進めらせければ、君も聞こしめし、我は前盟の如く大井川を隔てゝ手を出す事なし、入道こそ前に秋山、山縣等をして我を侵し、今また前盟に背きかへりてこなたをとがむ。これは入道が例の詐謀の致すところなりと怒らせ給いしが、これより永く通交をばたゝせ給ひけり。信玄はこれより彌姦謀を恣にして、しはじは三河遠江の地に軍を出し城々を攻めうつ事やまず。神無月、山縣昌景を先手として五千余騎、入道自ら四万五千余の大軍を具して遠江国に討ち入り、多々良、飯田など云える城々攻め落し浜松さしてをしよする。この入道あくまで腹黒にて詐謀姦智の振る舞いのみ多けれど、兵術軍法においてはよくその節制を得て、越後謙信と相並び当時その右にいづる者なし。
当家は上下心を一つにし力を合わする事、子の父に仕え手の首をたすくるにことならず。仁者は必ずといひけん勇気さへすぐれたれば、さながら王者の師と云うべし。されど寡は衆に敵せざるならひなれば、十二月廿二日、三方が原のたゝかひ御味方利を失い、御うちの軍勢名ある者共あまた討れぬ。入道勝ちに乗り諸手を励まして襲い奉れば、夏目次郞左衞門吉信が討ち死にするそのひまに、辛うじて浜松に帰りいらせ給ふ(夏目永祿の昔は一向門徒に組し、御敵して生け取りとなりしが、松平主殿助伊忠、この者終に御用に立つべき者なりと申し上げしに、その命助けられしのみならず、その上に常々御懇に召しつかはれしかば、この日御恩に報いんとて、君敵中に引き帰し給うを見て、手に持ちたる鑓の柄を持て御馬の尻を叩き立て、御馬を浜松の方へ押し向け、その身は敵中に向かい討ち死にせしとぞ)。
その時、敵ははや城近く押し寄せたれば、早く門を閉めて防がんと上下ひしめきしに、君聞こし召し、必ず城門を閉る事あるべからず。跡より追々帰る兵ども城に入のたよりを失うべし。また敵大軍なりとも我れ籠る所の城へ押し入る事かなふべからずとて、門の內外に大篝を設けしめ、その後奥へわたらせ給ひ御湯漬を三椀まで召しあがられ、やがて御枕を召して御寢ありしが、御高鼾の声閫外まで聞えしとぞ。近く侍ふ男も女も感驚しぬ。敵も城の躰いぶかしくや思いけん、猶予するところに、鳥居、植村、天野、渡邊等の御家人突きて出で追い払う。その夜、大久保七郞右衛門忠世等は間道より敵の陣所へ忍びより、穴山梅雪が陣に鉄砲撃ちかけしかば、その手の人馬犀が磯に陥り踏み殺さるゝ者少なからず。入道もこの躰をみて大に驚き、勝ちても恐るべきは浜松の敵なりと驚歎せしとぞ(これ三方原戦とて大戦の二なり)。
また武田が家の侍大將馬塲美濃守信房と云う者入道に向かいて、あはれ日の本に越後の上杉入道と徳川殿ほどの弓取り未だ侍らじ。このたびの戦に討たれし三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。その屍こなたに向かいたるはうつ伏し、浜松の方に伏したるはのけざまなり。一年駿河を襲い給ひし時、遠江の国をまたく徳川殿に参らせ、御ちなみを結ばれて先手を頼み給ひなば、この頃は中国九国までも手にたつ人なく、やがて六十余州も大方事行きて候はんものをと云いけるとぞ。勝ちいくさしてだにかく思いし程なれば、入道続きて城を囲まんとせざりしもことはりなるべし。
元亀も三年に天正と改まる。信玄はいよいよ軍伍を整え、正月、三河の野田の城に押し寄せ激しく攻めて、終に菅沼新八郞定盈城兵に代わりて城を開き渡すに及びて、たばかりてこれを生取りしが、山家三方の人質にかへて定盈再び帰ることを得たり。この城攻めの時、入道鉄炮の疵を蒙り、四月十二日、信濃国波合にてはかくなりぬ。
君は信玄が死を聞しめし、今の世に信玄が如く弓矢を取り進めすもの又あるべからず。我れ若年の頃より信玄が如く弓矢を取りたしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悅ばず惜しむべき事なりと仰せられしかば、これを聞く者ますますその寬仁大度を感じ、御家人下が下まで信玄が死は惜しむべきなりと御口眞似をせしとぞ。
この弥生頃、信康君御甲胄はじめありて、松平次郞右衛門重吉これを着せ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて、田嶺のうち武節の城を攻め給ふに、城兵旗色をみるよりも落ちうせ、足助の城兵も逃げ失せしかば、御初陣に二の城を落とし入り給ひ目出たしとて御帰城あり。やがて酒井忠次、平岩七之助親吉を大将にて遠江国天方、三河の国可久輪、鳳来寺、六笠、一宮等の城々攻め落す。信玄が失せしよりはや武田が兵勢弱りて、六か所の城々一時に攻ぬかれたりと世にも謳歌したりける。
二年正月五日、君正五位下に移り給ふ。二月八日、次郞君生れ給う。後に越前中納言秀康卿と云へるは是なり。信玄が子の四郞勝賴血気の勇者なりければ、父にもこえて万にゆゝしく振る舞いしが、去年、長篠の城を攻め取られしを憤り、高天神の城を攻める事急なり。君これを救はせ給はんとて、信長の援軍を請わせ給ふ。勝賴、徳川織田両家の軍勢後詰すと聞きて、城主小笠原與八郞長善(また氏信)駿河の鸚鵡栖にて一万貫の地を与えむとこしらへて降参せしめ、引き続き浜松を攻めむとしばしば遠州へ働き、九月には二万余の軍勢にて天龍川まで出張す。こなたも浜松より御出勢有て備をはらせ給えば、勝賴も謀ありと見て引き返す。
三年二月頃、御鷹狩りの道にて、姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧ぜらる。これは遠州井伊谷の城主肥後守直親とて今川が旗本なりしが、氏眞奸臣の讒を信じ直親非命に死しければ、この兒三州に漂泊し松下源太郞と云うものゝ子となりてある由聞こし召し、直に召してあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが井伊兵部少輔直政とて、国初佐命の功臣第一と呼ばれしはこの人なりき。
その頃、長篠の城は奥平九八郞に賜はりて是を守りけるに、勝賴は、当家の御家人大賀彌四郞と云える者等を密に語らい、岡崎を乗っとらんと謀りしも、その事あらはれて大賀等皆な誅せられしかば、ますます怒り止むときなく、長篠城を取り返さんと二万余騎にて取り囲む事急なりと云えども、九八郞よく防ぎて落とされず。君これを救わせ給はんと軍を出し給えば、信長もこれを助けて、両家の勢都合七万二千にて五月十八日、君は高松と云う所に御陣を立てられ、信長は極楽寺山に陣せられしが、廿日の夜、酒井忠次が手だてにより、鳶の巣山に備えたる武田が後陣を襲はしめらる。折ふし五月雨強く降りしきりたる夜にまぎれて広瀨川を渡り、廿一日の明仄、敵寨に火をかけ燒立ちしに、長篠城よりも城門を押し開き、九八郞城兵を具して切りて出前後より捲り立てれば、武田勢は散々になりて信玄が弟兵庫頭信実も討たれ、祖父山君が伏床久間山等の敵の寨ども悉く攻め落されたり。信長は今日武田が勢共をば練雲雀の如くなすべしとて、君と謀を合わせられ、備えの前に堀をうがち壘を築き栅を二重三重に構え、老練の輩をして鉄砲数千挺を打ち立てしむ。
血気の勝賴夜中より勢を繰り出すをみて、御家人大久保七郞右衞門忠世、治右衛門忠佐兄弟、今日の軍は、当家は主戦織田方は加勢なるに、織田勢に駆け遅れては我輩の恥辱この上あるべからずと語らい、一同に栅より外に進みいづ。武田方にも山縣昌景、小幡上總貞政、小山田兵衛信茂、典廐信豊、馬塲美濃信房、その外眞田、土屋、穴山、一条等の名ある輩入れかわり栅を破らんと烈戦すると云えども、両家の鉄砲厳しく打ち立て人塚を築くほど打ち殺せば、勇みに勇む甲州勢も面むくべき樣もなくさんざんに破られで、さしも信玄が時より名を知られたる山縣、內藤、土屋、眞田、望月、小山田、小幡など云える者死に狂ひに戦いて討ち死す。
馬塲は長篠の橋際に手勢廿騎ばかりまとめて、勝賴は落ちて行き大文字の小旗の影見ゆるまで見送りして取りて返し、一足も引かず討ち死にす。この時、高坂弾正昌信(又虎綱)海津の城を守りてありしが、勝賴血気の勇に誇り必ず大敗せん事を察し、勢を途中に出して迎へ護りて甲州まで送り返す。武田が家にて老功の家人どもこの戦に数を尽して討ち死にせしかば、これより甲州の武威は大に劣りしとぞ。この日、両家に討ち取り首一万三千余級。その中にも七千は当家にて討ち取れしなり。又味方の戦死は両家にて六十人には過ざりしとぞ。岡崎三郞君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮し給うさまをみて、勝賴も大いに驚き、帰国の後その家人等に語りしは、今度三河には信康と云う小冠者のしやれもの出来り、指揮進退の鋭さ、成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ。
また奥平九八郞、六町にもたらざる搔揚にこもり、数万の大軍に囲まれながら、終に一度の不覚なく後詰を待ちゑて勝軍せしは、古今稀なる大功なりと、信長より一字を授られ、これより信昌と改めたり(世には九八郞はじめ貞昌と云いしが、この時信昌と改たむと云う。されど貞昌は曾祖の諱なり。その家伝には定昌と書しと云う)。君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領を添えて給ふ。又信昌が妻はそのかみ武田が家へ質子としてありけるを、勝賴磔にかけし事なれば、こたび第一の姬君を(亀姬と申す)信昌に賜り御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし、信長今より我は濃州に残りし武田が城を攻めとるべければ、君は駿遠を平均し給ふべしと約せられ帰陣あり。
君は岐阜におはしまして信長援助の労を謝し給う。信長様々饗せられ、長篠軍功の御家人等へかづけものそこばく行はる(これを長篠の戦とて大戦の三とするなり)。かくて後は二股、高明、諏訪原等の武田の城々を攻められしにこの城々も力おとし、あるは逃げさりあるは攻め破らる。諏訪原の城は高天神往來の要路、しかも駿州田中持船とは大井川一流を隔て、尤も要阨の地なればたやすく守りがたし。松井左近忠次進み出で、吾一命にかへてこの城を守るべしと請う。その忠志を御感ありて御家号並びに御一字を賜り、松平周防守康親と改む(松平周防守康任が祖。寬永系図にはこの人御家号賜りしは、永祿六年、東条の城給ひし時の事とす。孰これなりや)。
君はこの勢に乗じ引き続き小山の城を攻め給ひしに、勝賴城々攻めとらるゝと聞きて、再び兵を募り小山の後卷きすと聞こえしかば、前後に敵をうけん事いかゞなりとて、本道にかゝり伊呂崎を経て引きとり給えば、城兵これを喰留んとて打って出る。御勢大井川の向こうに至る時、三郞君あながちに乞はせ給いて自ら殿をなし給う。君は上の台まで乗り上げ給ひ後をかえりみ給ひ、信康が後殿のさま天晴れなれ。あの指揮のさまにては勝賴十万騎なりとも恐るるにたらずとよろこばせ給ひ、諏訪原の城に入り給う。勝賴が勢も伊呂崎の岸まで至りしかども、長篠の大敗後は新に募り求めし新兵ゆへ軍令も整はねば、高坂が諫めに従い小山の城へ引き入りぬ。十二月には二股の城も味方に攻めとられしかば、この城をば大久保七郞右衛門忠世に給ふ。
四年正月廿日、浜松の城にて、甲胄の御祝連歌の莚を開かれ祝はせ給う(家忠日記。この二儀ものにみへし始めなるべし)。この弥生、勝賴また遠州へ発向す。橫須賀は高天神の押として大須賀五郞左衛門康高が守る寨なりしを、烈しく攻めると聞き給い、君浜松より後卷し給えば、今度も高坂が强いて諫め賴勝も引き返しけるが、瀧坂鹽買坂辺に松平康親備えを張るゆへに、高天神に軍粮運送を得ざるを患ひ、高坂に命じ椿原郡相良に新城を築かせ粮をこめて甲州へ帰る。
これより先、上杉謙信入道酒井忠次に書簡を送り、君と謀を合せて勝賴を攻めんと聞えしかば、七月、遠州乾の城を攻められんとて先樽山の城を攻め落し、勝坂の砦を攻めらるゝ時、天野宮內右衛門景貫乾の城より打て出、潮見坂の嶮岨に伏兵を設け時を待ちて討ちてかゝる。味方辛うじて是を追入る。この城小と云えども地嶮にしてたやすく破りがたし。大久保忠世搦手石が峰によぢのぼり、大筒を城中に打ちいるゝ事雨の如し。天野が兵たまりかねて城を逃げ出で鹿が鼻の城にこもる。君もさのみ人馬を労し給わんこと御心うく思し召して、一先御馬を納め給いしが、景貫は遂に乾に城を守ることを得ずして甲斐へ逃げ去る。かくて後も勝賴はしばしば遠州に働きて、浜松を襲はんとする事しばしばなりしと云えども、さしてし出したる事もなし。信長卿はことし大納言より內大臣に昇られ兵威ますます盛なり。
五年十二月十日、君も四位の加階ましまし。その廿九日、右近衛の權少將に任じ給う。(当時天下の形勢を考るに織田殿足利義昭将軍を翊戴し、三好松永を降参せしめ、佐々木六角を討ち亡ぼし、足利家回復の功をなすに至り。强傲専肆限りなく䟦扈の振る舞い多きを以て、義昭殆どこれにうみ苦しみ、陽には織田殿を任用すると云えども、その実はこれを傾覆せんとして、密かに越前の朝倉、近江の浅井、甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ姉川の戦い起るゆへんなり。その明証は高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。またその後に至り甲州の武田、越後の上杉、相摸の北条は関東北国割據中最第一の豪傑なる由聞きて、この三国へ大和淡路守等を密使として、信長誅伐の事を頼まれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。
しかれば織田氏を誅伐せんには、当時徳川家與国の第一にて、織田氏の賴む所は徳川家なり。故に先ず徳川家を傾けて後尾州へ攻め入りて織田を亡し、中国へ旗を挙げんとて、信玄盟約を背き無名の軍を興し、遠三を侵掠せんとす。これ三方原の大戦起るゆへんなり。勝賴が時に至りまた義昭より、北条と謀を同じくして織田を滅ぼすべき事を頼まるゝ。その使は眞木島玄蕃允なり。この文書又勝光院に伝う。これ勝賴がしばしば三遠を襲はんとする所にて、長篠大戦の起るゆへんなり。義昭遂に本意を遂げず。後に芸州へ下り毛利を頼まる。これ豊臣氏中国征伐の起る所之。しかれば姉川、三方原、長篠の三大戦は、当家において尤も険難危急なりと云えども、その実は足利義昭の詐謀に起り、朝倉武田等をのれが姦計を以て、また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院将軍よりこのかた、室町家は人の力を借りて功をなし、その功成りて後また他人の手を借りてその功臣を除くを以て、万古不易の良法として国を建し余習、十五代の間その故智を用ひざる者なし。終にその故智を以て家国をも失ひしこと豈に天ならずや) |