皇道派指導者考 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、皇道派指導者を確認する。皇道派指導者として真崎甚三郎・陸軍大将、荒木貞夫・陸軍大将、山下奉文・陸軍大将、小畑敏四郎・陸軍中将を確認する。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【真崎甚三郎・陸軍大将考】 | |
「ウィキペディア真崎甚三郎」その他を参照する。 | |
真崎大将論を廻って論が二分されている。れんだいこが睨むところ、これは丁度ロッキード事件を廻る分裂と似ている。と云うことは、背後に国際ユダヤの陰謀があると云うことになり、そうとすれば非常に手の込んだ冤罪の可能性がある。そういう気づきから「れんだいこ式真崎大将論」に向かうことにする。 方や「私は真崎こそ、日本を敗戦に追いやった元凶であり、今騒がれている所謂A級戦犯の人達よりもよほど罪が重いのではないかと思っています」論がある。方や「真崎大将こそ真の有能軍人であり、彼が葬られた経緯こそ疑惑せねばならない」論がある。この両論のどちらに軍配を挙げるべきやが問われている。 |
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1876(明治9).11.27日 -1956(昭和31).8.31日。日本の陸軍軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。外務省、宮内庁などの官僚で、延べ25年という異例の長期間昭和天皇の通訳を務めた真崎秀樹は長男。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)。 1895.12月、士官候補生。1896.9月、陸軍士官学校へ。1897(明治30).11月、陸軍士官学校第9期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。1898(明治31).6月、 少尉に昇進。歩兵第46連隊附。1899(明治32).5月、対馬警備隊附。1900(明治33).11月、 中尉に昇進。12月、陸軍士官学校附(区隊長)。 1904(明治37).2月、日露戦争に従軍(〜1905.12月)。6月、大尉に昇進。歩兵第46連隊中隊長。「もし生き残って帰ったら、出家して坊さんになろうと思ったくらいで、世に戦争ほど悲惨なものはなし」と書いている。 1907(明治40).11月、陸軍大学校卒業(19期恩賜)。陸軍省軍務局出仕。1908(明治41).10月、軍務局課員(軍事課)。1909(明治42).1月、少佐に昇進。1911(明治44).5月、ドイツ駐在(〜1914.6月)。1914(大正3).6月、歩兵第42連隊大隊長。11月、中佐に昇進。歩兵第53連隊附。 1915(大正4).5.25日、久留米俘虜収容所長。この時代、収容所の環境整備のために努力し、従来禁止していた所内での音楽などを許可した。衛戍司令官・柴五郎中将からなじられると、「ドイツ人にとっての音楽は、日本人にとっての漬物類と同じことで、日常生活の最低不可欠なものであります」と答えて了解を求めた。これとは逆の記述も為されている。それによると、第一次大戦中、日本はドイツ人捕虜を概ね人道的に扱ったにもかかわらず、真崎が所長を務めた久留米俘虜収容所は捕虜側からの評判が最も悪く、真崎は所長在任中の1915.11.15日、ベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件を起こし、捕虜側は捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した云々。どちらの話しが本当なのか、どちらも本当なのか真偽を糺す必要がある。 1916(大正5).11.15日、教育総監第2課長。 1918(大正7).1.18日、陸軍大佐に昇進。 1920(大正9).8.10日、 陸軍省軍事課長。この時代、陸軍機密費の不正蓄積についての感触を得、持ち前の正義感から、機密費の適正な使用と管理について意見を具申したところ直ちに近衛歩兵第1連隊に転出させられている。この当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸相、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮陸軍省高級副官の四人であった。 1921(大正10).7.20日、近衛歩兵第1連隊長。1922(大正11).8.15日、陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。1923(大正12).8.6日、陸軍士官学校本科長。1924(大正13).3月、欧米出張(〜9月)。1925(大正14).5.1日、 陸軍士官学校幹事兼教授部長。 1926(大正15).3.2日、陸軍士官学校校長。この時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。生徒のなかには、新カント派の哲学に影響されて、学校の規則のような他律の拘束には服する必要がないと主張する者がいて、その一人で、後に二・二六事件に連座して処刑された渋川善助を退学処分にした。また、軍人の一般教養の低下を憂慮し、軍事偏重であった士官学校の課程を改正した。 1927(昭和2).3.5日、陸軍中将に昇進。 8.26日、第8師団長。弘前に単身赴任。この時代、思想問題を研究し、北一輝の『日本改造法案大綱』はロシア革命におけるレーニンの模倣で、それを基にした国家改造は国体に反するとし、大川周明の思想は国家社会主義であって共産主義と紙一重の差である、と結論づけた。そして軍人が参加して革新運動をやると軍隊を破壊するだけでなく日本の国を危うくすると認識し、そういう思想の持ち主を注意人物とし、軍人が彼らに近づくことを警戒していた。 1929(昭和4).7.1日、第1師団長。この時代、1931年に三月事件が起こり、師団参謀長・磯谷廉介からクーデターの計画を聞くと、軍事課長の永田鉄山に警告した。さらに、警備司令官に対して、「もし左様な場合には、自分は第一師団長として、警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも、逆に自分が征伐するかもしれんから、左様ご了承を」と通告して、計画を阻止した。 1931(昭和6).8.1日、台湾軍司令官。本来なら真崎が関東軍司令官に任命される順番であったが、本庄繁が任命され、真崎は台湾軍司令官に任命された。 1932(昭和7).1.9日、参謀次長。参謀次長兼軍事参議官に就任。国家革新の熱病に浮かれた軍部の幕僚連が理想の国家を満州に作り、そこから逆に日本に及ぼして日本を改造するために満州事変を引き起こしたと見なしていた真崎は、事変不拡大、満州事変は満州国内でおさめることを基本方針として収拾にあたった。上海事変の処理では、軍の駐留は紛争のもととして一兵も残さず撤兵した。熱河討伐では、軍の使用は政府の政策として決定し、天皇の裁可を経てから実行されるという建前から、有利な戦機を見逃して二カ月以上も出動を押さえた。万里の長城を越えて北支への拡大を断固として押さえた。そのため拡大派や国家革新推進派から非難された。 荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。 1933(昭和8).6.19日、陸軍大将に昇進。軍事参議官。 1934(昭和9).1.23日、教育総監に就任(軍事参議官との兼任)。天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し、率先して天皇機関説を攻撃。天皇機関説を葬り、国体を明徴にせよという運動が次第に強くなり、右翼、在郷軍人、ついには現役軍人に及んでくるようになると、三長官(大臣、参謀総長、教育総監)協議の上、陸軍大臣が訓示するのが当然で適切であるが、大臣訓示は閣議を経なければならず、また政府はすでに二回も声明を出しているから、時間がかかるので、現役軍隊だけなら教育総監の訓示でも可なりと決定され、教育総監の真崎が国体明徴の訓示を行った。 1935(昭和10).7.16日、 陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任の岡田啓介内閣の林銑十郎陸軍大臣とその懐刀である軍務局長・永田鉄山少将が、「陸軍三長官」の一つである教育総監を、陸軍将官の人事決定は三長官の合意の上でなければやらないという規定を破り、教育総監の意志を無視して二長官だけの決議で罷免し、後任に渡辺錠太郎を据えた。これにより教育総監を罷免、軍事参議官となった。高宮太平の「軍国太平記」によれば、真崎は教育総監という陸軍三長官の一員でありながら党派的、政治的行動にて勢力伸張をはかり、これを危惧した林陸相が閑院宮の庇護のもと真崎を教育総監から軍事参議官に追いやった云々と記されている。 8月、この人事に統帥権干犯だと反発した皇道派の相沢三郎陸軍中佐が永田鉄山を殺害した。これを「相沢事件」と云う。 |
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【2.26事件の際の真崎大将の立ち回り】 | |
1936(昭和11).2.26日、陸軍の改革に反発した皇道派の若手将校により二・二六事件が起きた。蹶起を知った際、連絡した亀川に「残念だ、今までの努力が水泡に帰した」と語ったと云う。2.26日の昼ごろ、大阪や小倉などで「背後に真崎あり」というビラがばらまかれ、準備周到なる何者かの陰謀ではないかと真崎は述べている。真崎は軍事参議官、軍の長老として、強力内閣を作って昭和維新の大詔渙発により事態を収拾しようと行動する。 この時の真崎大将のとった行動が「真相は藪の中」になっている。反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであるが、事件関係者と真崎の証言が齟齬している。26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。このことから真崎の事件関与が指摘されている。他方、当時真崎の護衛であった金子桂憲兵伍長の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。 |
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【真崎公判の様子】 | |
3.10日、陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における維新断行のための大詔渙発、戒厳令施行の促進などを図ったことが決起部隊に対する利敵行為とみなされ、予備役編入され、事実上解雇された。7月、拘留され、憲兵隊本部の取調べを受けた。 12.21日、匂坂法務官は真崎大将に関する意見書、起訴案と不起訴案の二案を出した。 1937(昭和12).1月25日、事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、反乱幇助で軍法会議に起訴されたが事件関与を否認した。9.25日、論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年。9.25日、無罪判決が下る。彼自身は晩年、自分が二・二六事件の黒幕として世間から見做されている事を承知しており、これに対して怒りの感情を抱きつつも諦めの境地に入っていたことが判明している。 二・二六事件のとき参内して、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏し、なんとしても真崎を有罪にするか、官位を拝辞させなければ、天皇を騙したことになり、陸軍大臣としての立場がなかった寺内寿一大将は、大将拝辞を条件に不起訴にすることを真崎の家族に伝えたが、家族は頑として断った。真崎を取り調べる軍法会議の議長であり、起訴後は裁判長であった寺内は、真崎銃殺の意図をもって裁判を進めていたが、支那事変が起って最高司令官として北支へ転任となり、磯村年大将を真崎裁判の判士長にする際には、「何でもかまわぬから、真崎は有罪にしろ」といった。磯村は戦後、「ああ、あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。なお、荒木貞夫は判決文について、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。 一方、真崎甚三郎の取調べに関する亀川哲也第二回聴取書によると、相沢公判の控訴取下げに関して、鵜沢聡明博士の元老訪問に対する真崎大将の意見聴取が真の訪問目的であり、青年将校蹶起に関する件は、単に時局の収拾をお願いしたいと考え、附随して申し上げたと証言している。鵜沢博士の元老訪問に関するやりとりのあと、亀川が「なお、実は今早朝、一連隊と三連隊とが起って重臣を襲撃するそうです。万一の場合は、悪化しないようにご尽力をお願い致したい」と言うと、「もしそういうことがあったら、今まで長い間努力してきたことが全部水泡に帰してしまう」とて、大将は大変驚いて、茫然自失に見えたという。そして、亀川が辞去する際、玄関で、「この事件が事実でありましたら、またご報告に参ります」と言うと、真崎は「そういうことがないように祈っている」と答えている。また、亀川は、真崎大将邸辞去後、鵜沢博士を訪問しての帰途、高橋蔵相邸の前で着剣する兵隊を見て、とうとうやったなと感じ、後に久原房之助邸に行ったときに事実を詳しく知った次第であり、真崎邸を訪問するときは事件が起こったことは全然知るよしもなかった、ということである。 結局、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)は「叛乱者を利す」容疑を問われていたが無罪となった。また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。 推理作家松本清張は「昭和史発掘」で、「26日午前中までの真崎は、もとより内閣首班を引きうけるつもりだった。彼はその意志を加藤寛治とともに自ら伏見宮軍令部総長に告げ、伏見宮より天皇を動かそうとした形跡がある。 真崎はその日の早朝自宅を出るときから、いつでも大命降下のために拝謁できるよう勲一等の略綬を佩用していた。(略)真崎は宮中の形勢不利とみるやにわかに態度を変え、軍事参議官一同の賛成(荒木が積極、他は消極的ながら)と決行部隊幹部全員の推薦を受けても、首班に就くのを断わった。この時の真崎は、いかにして決行将校らから上手に離脱するかに苦闘していた」と主張している。 磯部は、5.5日の第5回公判で、「私は真崎大将に会って直接行動をやる様に煽動されたとは思いません」と述べ、5.6日の第6回公判で、「特に真崎大将を首班とする内閣という要求をしたことはありません。ただ、私が心中で真崎内閣が適任であると思っただけであります」と述べている。磯部の獄中手記には、「…真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので…云々」と書かれている。また村中は「続丹心録」の中で、真崎内閣説の如きは吾人の挙を予知せる山口大尉、亀川氏らの自発的奔走にして、吾人と何ら関係なく行われたるものと述べている。 |
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1941(昭和16)年、 佐賀県教育会長に就任。 1945(昭和20).11.19日、終戦後のこの日、A級戦犯として逮捕命令が発令され巣鴨プリズンに入所し、2年間収監された。皇道派に属していたというだけの嫌疑であった。他の被告は弁護士を頼んだが、真崎は弁護士をつけなかったという。第1回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12.2日、第一ホテルで行われた。以降3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。梨本宮殿下を除いて軍人では一番先に釈放された。同裁判の真崎担当係であったロビンソン検事は満洲事変、二・二六事件などとの関わりを詳細に調査し、「真崎は軍国主義者ではなく、戦争犯罪はない」、「二・二六事件では真崎は被害者であり、無関係」という結論を下し、そのメモランダムには、「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」とある。 真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん、自動車運転手間にも信望があった、と証言をしている。 1956(昭和31).8.31日、死去。 遺言書では、第一に「日本の滅亡は主として重臣、特に最近の湯浅倉平、斎藤実、木戸幸一の三代の内大臣の無智、私欲と、政党、財閥の腐敗に因る」としている。また巣鴨在監日記の12月23日(1945年)には、「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設せられんことを祈る」と記している。 葬儀は9.3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。天皇からの祭祀料が届けられた。 1989.2.22日、二・二六事件で真崎黒幕説を唱えた高橋正衛は、その説に異を唱える山口富永に対し、末松太平の立ち会いのもとで次のように述べている。
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真崎大将論につき「★阿修羅♪ > カルト10」の♪ペリマリ♪氏の2013.2.24日付け投稿「太田龍 二・二六事件の真相、全面開示」、2013.3.6日付け投稿「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」がある。これを確認しておく。♪ペリマリ♪氏は、「太田龍『226真相全面開示』には一部重大な誤りがあります」で次のように述べている。(れんだいこ文法に則り現代文に書き直す。構成も変える。当然ながら文意の改変はしない)
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【荒木貞夫考】 | |
1877(明治10)―1966(昭和41)。大正・昭和期の陸軍軍人(大将)、政治家、男爵。
参謀本部のロシア班、第一次大戦中のロシア従軍武官などを歴任し、陸軍内のロシア通として知られる。 1918(T7)シベリア出兵に際して特務機関長、派遣軍参謀として反革命軍を援助。憲兵司令官・陸大校長・第6師団長・教育総監部本部長・31(S6)犬養内閣の陸相を歴任。陸軍内派閥の皇道派の中心人物として、5・15事件後も斎藤實(7-1-2-16)内閣の陸相に留任し、国内体制のファッショ的な改革と対ソ戦争の準備を推進。33陸軍大将、翌年軍事参議官。 36 2・26事件では反乱軍に同情的な態度をとり、事件後予備役。38第一次近衛内閣の文相となり、徹底した軍国主義教育を推進。39内閣参議。敗戦後、極東裁判でA級戦犯として終身刑を宣告されたが、病気で仮出所し、その後釈放された。
*妻である荒木錦子は、日本赤十字社篤志看護婦人会幹事、大日本国防婦人会副会長、陸海軍将校婦人会幹事長、東洋婦人教育会理事、柏葉婦人会評議員などを歴任した。
*大将に昇進した荒木貞夫が男爵に叙されたのは、犬養・斎藤両内閣の陸相を務めた後の昭和10年の暮れ。華族となっても東京・幡ケ谷の自宅はみすぼらしく小さな二階屋のままだった。
長男である荒木貞發氏は2002年で93歳になるが回想で以下のように言っている。
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【山下奉文考】 |
「マレーの虎、山下奉文履歴考」に記す。 |
【小畑敏四郎考】 | |
1885(明治18).2.19日―1947(昭和22).1.10日。日本の陸軍軍人。陸軍中将。高知県出身。いわゆる皇道派の中心人物とされる。妻は第24代衆議院議長・元田肇の娘。その妹は第56代衆議院議長船田中の妻。陸軍三羽烏の一人。 1885(明治18)年、元土佐藩士にして土佐勤皇党の男爵・小畑美稲の三男として生まれる。兄は男爵小畑大太郎。学習院を経て、京都府立第一中学校、大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。少尉任官後、近衛歩兵第1連隊、歩兵第49連隊、真岡守備隊長を経て、1911年(明治44年)に陸軍大学校を卒業(23期優等)。1913年(大正2年)、大尉任官、参謀本部勤務。 1915(大正4)年、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。モスクワ、キエフなどに観戦武官として派遣された。軍務局課員、参謀本部員を経て、1920(大正9)年、ロシア大使館付武官。しかし日本軍がシベリア出兵中であったために入国できず、ベルリンに滞在。 1921(大正10).10.27日、ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足を止めていた小畑敏四郎少佐は、陸士同期であるスイス駐在武官・永田鉄山、岡村寧次少佐と共に、ドイツのミュンヘンの西南のドイツボーデン湖の近くに「バーデンの森」の中の温泉地バーデン=バーデンに集まった。発案者は岡村で、「現状打破はいかにすれば可能か」を話し合った。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はたちまち賛成し、それならスイスにいる永田も呼ぼうということになった。徒党を組むよりも自力独行をモットーとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得に負けてバーデンバーデンにやってきた。三人とも37,8歳、男真っ盛りの少壮中堅将校で、常に主席を歩みつつ清濁併せ呑む人間的な魅力をもつ永田と、それに類する頭脳を持つ小畑、そしてその間に性格的にふくよかで、協調性に富む岡村の力強いトリオあった。陸士16期は「俊秀雲の如し」と呼ばれた。 互いに情熱的に論じ立てた。第一次大戦という史上例を見ない大戦争の結果、もはや国防という大事を単に軍事面からみていられない時代が到来している。にも拘わらず陸軍の現状は、陸相・山梨半造、参謀総長・上原勇作、教育総監・秋山好古の3巨頭をいただき、長州中心の藩閥に固められている。この体制を打破しないことには次代の国防に対応できない。我ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。第一次大戦におけるドイツ敗戦の教訓も語り合った。戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ国防を全うできないとして、戦争技術の高度化、複雑化、学問化、国民の必要を語り合った。ロシア革命問題も議論した。明治40年の「帝国々防方針」の決定によって、陸軍の仮想敵となったソビエトが今や軍事大国として現れた。必然的に満蒙には暗雲が漂い始めた。そればかりでなく思想敵としても影響力を及ぼしだしていた。新たな世界情勢認識でもあった。こうした内外ともに切迫した状況下にありながら、陸軍首脳は日露戦争勝利の夢を貪り、感状とか金鵄勲章とかの精神的誇りにのみ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようとする意欲を失っている。かく3人の意見は一致し、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行なったという。 1922(大正11)年、参謀本部員。次第に対ソ戦略家として知られるようになる。1923年(大正12年)、中佐に進級、陸大教官。1926年(大正15年)、参謀本部作戦課長。1927年(昭和2年)、大佐に進み、岡山歩兵第10連隊長。このときの部下として、作家の棟田博がいる。聨隊長としての小畑は、初年兵への私的制裁を徹底的に禁止する一方、軍規には厳しく、どしどしと違反者を営倉に送ったため、「営倉聯さん」というあだ名がついたという。1929年歩兵学校校長をつとめ、歩兵マニュアルの改訂に努力した。 1930年(昭和5年)、陸軍歩兵学校研究部主務。陸大教官を経て、1932年(昭和7年)、再び参謀本部作戦課長。同年少将任官し、近衛第10連隊長、参謀本部第三部長。1933年(昭和8年)、近衛歩兵第1旅団長。陸大幹事から校長を経て、1936年(昭和11年)、中将。皇道派の中心人物の一人として、永田鉄山ら統制派と激しく対立する。 二・二六事件後、辞表を提出した。これは当時の軍人官僚にまず見られない潔い姿勢である。粛軍により予備役に編入される。日中戦争にあたって留守第14師団長となったが、健康上の問題で召集解除となった。 第2次大戦のドイツ東部戦線の敗退について、ドニエステル川を突破されたら、ハンガリー平原まで後がない、と極めて的確な評を行った。第1次大戦のレチツキーとシェルバシェフの突破を想起したと思われる。 1945年(昭和20年)9月2日の太平洋戦争降伏文書調印式に、陸軍参謀総長の梅津美治郎が出席を渋って居るのを見て、「今更敗けた陸軍に何の面目があるのだ。降伏の調印に参謀総長が行くのが嫌なら、陸軍の代表として私が行っても良いぞ」と梅津を叱り飛ばし、梅津に降伏調印式出席を納得させたという。 近衛文麿の推薦で東久邇宮内閣で国務大臣を務める。1945/10/05 東久邇宮内閣総辞職。 1947(昭和22).1.10日、死去。満61歳没。 |
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小畑は昭和天皇の批判に対し反論を残している。これは細川護貞に語ったものとされる(『日本陸軍英傑伝』 岡田益吉 光人社 1972)。「満井は、誰も抑えるものがいないので自分が引き取って厳重に戒告していたのだが、満井を相沢中佐の裁判に引き出したのは、陸軍次官古荘幹郎であり、あとで満井は自分に詫び状をよこしている。また、満井は、陸軍大学校長(小畑)に抑えさせますと上奏したのは自分ではなく、あるいは陸軍大臣がしたのではないか」。 | |
荒木貞夫 (元陸相) の次のような評がある。
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【北一輝 考】 |
別章【皇道派イデオローグ・北一輝考】に記す。 |
【西田税 考】 |