2.26事件史その1、決起前までの経緯考


 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).1.31日

 この前は【
昭和時代史3、5.15事件(1932年から1936年)】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、2.26事件に至る経緯を確認する。2020年2月17日、「全貌 二・二六事件 ~最高機密文書で迫る~【前編】 」、「あの戦争の原因」、「ウィキペディア2..26事件」、「2.26事件を巡る(上)」、「ニ.ニ六事件を思う」、「皇道派と統制派の対立、二・二六事件」その他を参照する。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【2.26事件の伏線としての皇道派と統制派の発生抗争史考】
 1936(昭和11)年の2.26事件に至る伏線としての陸軍内での皇道派と統制派の発生と対立、抗争史を確認しておく。「陸軍と派閥」その他を参照する。

 皇道派、統制派の両者とも軍部の改革から生まれている。それが次第に軍近代化の具体的な手法を廻って真っ向から対立することになった。既に1920年代に「改造・革新」に向かう青年将校が現れ、次第に「維新」の方向に覚醒し始めていた。その関係が「運動」の形をとるのは、1931年の三月事件クーデターが未遂に終った後の8.26日、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであると推定できる。そこで藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校が十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。この間、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼らは幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する。続いて民間・海軍グループが血盟団事件、五・一五事件を引き起こすが、この過程で決別し、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発する。

 ここで興味深いことは、陸軍と海軍の対立が既に発生しており、海軍を巻き込まず陸軍内部で抗争していることである。この事情を考察することも興味が湧くが、別稿で確認することにして、ここでは問わない。この運動は、「上下一貫、左右一体」スローガンを掲げ、合法的に軍上層部を動かすことを基本目標にしていた。つまり、「軍中央の『鞭撻』」を主としており、「軍中央の『応援団』的要素を強くもった運動」であった。これには、青年将校運動が陸軍中央によって上から作られたという側面があったことによる。荒木陸相以下の首脳部は、青年将校の訪問を受け入れて懇談し、機密費を供与し、人事上の便宜を与えるなどして、「陸軍中央と青年将校の一体化」を図り「人事上の便宜」を図っていた。これにより、特に歩兵第1聯隊(赤坂)、歩兵第3聯隊(麻布)に後の二・二六事件の主役となる青年将校運動の拠点が形成されることになった。

 皇道派という名前の由来は、荒木貞夫大将が「国軍」を「皇軍」と命名し、日本軍を天皇親率軍と位置づけたことによる。荒木は青年将校等を自由に自宅へ出入りさせ、「非常時日本」、「皇軍の危機」を常々説き、彼らの下克上精神を逆手に取ることで人気を盛り上げていった。彼の弁舌は冴えに冴えていた。荒木が貧しい少年時代と下級将校時代を送ったことも、農村出身の青年将校らの受けがよかった。

 皇道派の中心人物は荒木貞夫、真崎甚三郎・大将(軍事参議官)、柳川平助(陸軍次官、第一師団長)、小畑敏四郎、秦彦三郎、山下奉文・(軍事調査部長)、山下奉文、山岡重厚(軍務局長)、土橋勇逸、牟田口廉也、鈴木率道、古荘幹郎・陸軍次官らで天皇機関説批判の中心的存在でもあった。村中孝次大尉、磯部浅一主計、小川三郎大尉、西田税予備少尉、元(憲兵司令官)として手腕を奮った秦真次第二師団長らが続く。


 その皇道派に対抗して組織化されたのが統制派で、クーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近し、いわば合法的体制的な軍統制を図ろうとしていたのが陸軍省・参謀本部などの中堅幕僚将校のグループであった。

 統制派の中心人物が永田鉄山・大佐(後、少将、軍務局長)、林銑十郎陸相、杉山元参謀次長東条英機、石原莞爾(参謀本部作戦課長)らであった。辻政信大尉、片倉衷少佐、塚本誠憲兵大尉、橋本虎之助陸軍次官、建川美次、小磯国昭中将、東条英機少将。今井清人事局長、真崎嫌いの閑院宮参謀総長。渡辺錠太郎・教育総監らが列なる。
建川美次、梅津美治郎池田純久。これに、満州派の石原莞爾板垣征四郎花谷正、片倉衷。他に清軍派重藤千秋橋本欣五郎長勇小原重孝。

 犬養内閣成立時、荒木貞夫中将は、教育総本部長の職から颯爽と陸相に就任した。皇道派全盛の時代となる。陸軍大臣・ 荒木貞夫、陸軍次官・柳川平助、参謀次長・真崎勘三郎、軍務局長・山岡重厚、教育総本部長・香椎浩平、教育総監・武藤信義。ちなみに参謀総長の閑院宮(陸軍大将、皇族きっての生え抜きの軍人)、教育総監の林銑十郎はいわゆる反皇道派である。この皇道派の時代、荒木は「皇国の軍人精神」や「全日本国民に告ぐ」等の演説を行い、また将校の帯刀しているサーベルを日本刀に変えさせる等いろいろなことをした。

 荒木陸相派は、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行いった。左遷されたり疎外された者らは反皇道派として団結するようになり、同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。永田自身は派閥そのものを否定的見解を持っていた。

1934(昭和9)年の動き

【陸軍パンフレット事件】
 1934(昭和9).10月、「陸軍パンフレット事件」。陸軍省がパンフレット「国防の本義とその強化の提唱」(陸軍省新聞班)を作成し、次の戦争に備える総力戦体制を目指す。これは、「広義国防」論を主張し、「対ソ連戦を想定した戦力の強化」と「資本主義の修正による国民的基盤の強化」を訴えたものであった。「たたかひは創造の父、文化の母である」 と国民に訴えている。国家総動員の前奏となる。 これを全面的に支持したのが社会大衆党の麻生久であった。これに結合したのが新官僚(後の革新官僚)たちであり併走することになる。皇道派青年将校らがその支持普及運動を起こす。

 これに対し、永田軍務局長らが不快感を示し、意見具申に行った村中達の動きを「余計なお世話である」と一蹴した。永田からみれば軍部の政策の立案実行は中央部幕僚の職務であり、兵の教育に専念している筈の隊付将校が軍中央の政策に関与しようとする事は軍秩序の紊乱であった。

【中国共産党紅軍が長征開始】
 中国共産党紅軍は、この年の8月より36年(昭和11)の10月にかけて約1万キロの長征に成功している。毛沢東と朱徳、周恩来らに率いられた紅軍は、西に向かって大きく迂回した後、チベットの高山地帯を通過して北へと転じ、一年後の35.10月には甘粛省と*西町の境界に位置する新たな根拠地・呉起鎮へと辿りついた。後に「長征」と呼ばれることになるこの脱出行は、全行程約1万2500キロに及ぶ苛酷極まりない徒歩行軍であり、紅軍はその道程で兵力の約9割を失ったと云われている。だが、これによって生き延びた共産党勢力は、新天地の呉起鎮を拠点として、勢力を扶植拡大させていくことになった。

【11月事件(「士官学校生クーデター未遂事件」)発生】
 10.28日、西田税の家には大勢の軍人が集まって話をしていた。その中に、安藤、大蔵、士官学校三十六期の野中四郎大尉の三人がいた。大蔵の回想によると、 野中と安藤と大蔵の三人で話し込んでいるとき、西田と新顔の士官候補生の対話が私の耳に飛び込んできた。「西田さんはこの堂々たる邸宅を構えて、豪奢な生活をしているようですが、その費用はどこからでていますか」。大蔵は、新顔の士官候補生を好奇心をもって眺めた。「あの士官候補生は何者だ?」と安藤に聞いた。「私もさっききいたばかりですが、佐藤という候補生だそうです。武藤の話によると青島戦争のときの有名な軍神、佐藤連隊長のわすれがたみだそうです」。「なるほどそうか・・・・・・」。私は、彼の生意気な態度にむしろ好感が持てた。但し、西田は、佐藤の直情径行なぶつかり方に、少々もてあましぎみであった。この時安藤が大蔵に紹介した人物こそ、「スパイ」として青年将校達の仲間に入ってきた佐藤候補生だった。

 ここに辻政信という軍人が登場する。辻は明治35年、石川県生まれで、実家は貧しい炭焼き農家だった。人一倍の刻苦勉励で陸軍幼年学校、士官学校を主席で卒業、陸大でも三位という抜群の成績を残した。士官学校は三十六期なので安藤の二期上になる。辻は特異な人格の持ち主で、逸話の多い人物だった。潔癖な性格で女遊びを非常に嫌い、夜営の際に先輩が酒気を帯びて帰ると兵士が寒さに震えているのに何事かと食ってかかったり、行軍の際は普通の将校が軽い荷物を背負うのに、背嚢にわざわざ煉瓦を入れて兵士と同じ苦労をしたこともある 。同僚や上官であっても言いたいことがあれば遠慮せず物を言い、一方で部下の兵士には優しかった。行軍中に落伍しそうな兵がいるとその銃を担いでやったり、背嚢の中にアメやキャラメルを入れ、居りに触れて分けたりしていた。こんな辻であるから、彼の部下達からは絶大な人気があった 。が、一方で視野がせまく独断専行の気味があり、策略を巡らして自己保身に勤めたり、誇大宣伝を行う重大な欠点があった。後に起こるノモンハン事件では主戦派として大きな損害を招き、しかも前線のある連隊長がビールを飲んでいると報告(実際は水だった)し、その連隊長を首にしてしまっている 。さらに大東亜戦争のフィリピン戦では投降兵を殺害するするように進言したり、実際にフィリピンの最高裁判長を処刑するなどの暴挙も行っている 。

 辻は陸士同期の塚本誠憲兵大尉に対し、「極秘だが」と前置きして佐藤を使った青年将校の動向調査の協力を依頼している。「俺が週番指令をしていると、よく生徒が訪ねて来るが、その中には五・一五事件に参加した士官候補生と同じような考えを持っているものがいる。俺はそのつど説教しているが、先日、佐藤という候補生から、『生徒の中には、村中大尉や磯部主計中尉のところへ、休みの日に出入りしている者がおります。私もこれに誘われていますが、どうしたものでしょうか』と、相談を持ち込まれた。俺は、生徒に、『人のあやまちを見てほっておくのは、正しい友情ではない。もし友達がどろ沼にはまったなら、自分もいっしょにとびこんで助けねばならん。岸から手を差し伸べただけでは助けられない』と言っているのだが、佐藤候補生に、『お前もそのつもりで、お前を誘っている候補生といっしょに行動し、その状況を俺に報告しろ。俺が指導するから』といっておいた。その後、佐藤の報告によると、村中、磯部らは、北、西田らとつながりがあり、歩三、歩一、その他の急進将校の間には、何か計画があるように思われるのだが、確たる証拠がない。確証をつかんで、断固処分しなければ、この種の風潮は根絶できない(後略)」 。その「確たる証拠」をつかむために、佐藤候補生は安藤らのいる場に顔を出していた。

 統制派の辻政信大尉が士官学校教官として赴任し、生徒である佐藤勝郎士官候補生から「別の中隊の同級生である武藤与一が皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一主計、西田税予備少尉らの国家改造理論グループに参加を進められている」という話を聞かされた。その結果、「11月21日に、クーデタを決行して首相の岡田啓介、前首相の斎藤実、公爵の西園寺公望らを殺害し、皇道派の荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを中心とする軍部内閣を樹立しようとしている」ということが判明した。辻は、「村中らのクーデター計画情報」を片倉衷少佐、塚本誠憲兵大尉と相談して、橋本虎之助陸軍次官に報告した。
 1934(昭和9).11.20日、陸軍の皇道派と統制派の厳しい派閥対立下、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一大尉らの青年将校がクーデタを計画したという容疑で憲兵隊に検挙された。これを「士官学校事件」又は「十一月事件」(「士官学校生クーデター未遂事件」とも云う)と云う。嫌疑は、第66臨時議会(昭和9年11月28日~12月9日)の開会中に村中、磯部らが首謀者となり、西田税ら民間右翼も加え、元老、重臣及び警視庁を襲いクーデターを決行しようとしているという、「自分たちの理想実現のために不穏な行動を取ろうとした」容疑であった。統制派の主要メンバーが検挙に当たった為に争議となった。

 結局証拠は見つからず、証拠不十分で停職処分となった。磯部らを告発したのは先に述べた辻と塚本、そして参謀本部の片倉衷少佐らだが、事件を研究した高橋正衛氏は磯部らは全くの潔白で、辻らの策謀によって罠にはめられたものであると断言している 。
村中や磯部は当然これに反発し、 「辻政信大尉がクーデターのごとくでっちあげた。これを辻に示唆したのは辻の上司である陸軍士官学校幹事である東条英機であり、これを企画したのは永田鉄山軍務局長である。直接的には片倉衷(少佐)が画策した」と弾劾し、辻と片倉を誣告罪で訴えるという事件となった。後に辻や塚本の行動、三月事件、十月事件の真相などを書いた『粛軍に関する意見書』と呼ばれる文書を作成し、辻、塚本を誣告罪で訴える挙に出た。が、軍は彼等のこうした動きをいやがり、磯部・村中を今度は免官する。三月事件も十月事件も軍の恥部として公表されてはいなかったので、彼らを追放することで隠蔽しようと企んだ。しかし、磯部と村中はいわば冤罪によって追放されたも同然であるから、軍への恨みが残った。

 実際、磯部、村中は二・二六事件の首謀者となる。二人は民間人として事件に参加することになる。「士官学校生クーデター未遂事件」は二・二六事件の前史となる重要事件である。

【日本政府がワシントン海軍軍縮条約の破棄通告】
 12.29日、日本政府は、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を閣議決定し、通告。

 この年、南北朝正閏論足利尊氏を過去に評価した商工大臣中島久万吉菊池武夫や右翼から攻撃を受け、辞任に追い込まれる。

1935(昭和10)年の動き

 (この時代の総評)


【11月事件軍法会議】
 1935(昭和10).2.7日、村中、磯部が永田直系の片倉衷と辻政信を誣告罪で告訴したが軍当局は黙殺した。

 3.20日、軍法会議で、昭和10年3月末にクーデターを計画する旨の談合はあったが、実行する企図があったかどうかは証拠不十分であるとして不起訴とした。しかし陸軍省は、4.1日、村中、磯部ら3名に停職という慣例をはるかに越えた重い処分を科した。

 皇道派の一部は、「これは統制派が仕組んだ皇道派追い落としの策略だ」として反発した。統制派は、皇道派の柳川平助第一師団長が圧力をかけて軍法会議を打ち切らせたのはクーデターを助長し軍紀を乱すものと非難した。この事件により、統制派と皇道派の対立が激化した。

【東大教授・美濃部達吉氏の「天皇機関説」が非難される】
 2.28日、帝国議会の貴族院で、東大教授・美濃部達吉(1873-1948)の「天皇機関説」が非難され、右傾軍国主義のスピードを増した。この問題では、政党が進んで軍部のお先棒を担ぎ、学問と言論の自由圧殺に加担した。

 天皇機関説は美濃部達吉が東大教授時代に主張した学説で、明治の終わり以降、通説となっていたが、1935年頃、陸軍皇道派や民間右翼はこれを批判し始めた。美濃部は貴族院議員として弁明したが批判はやまず、不敬罪で起訴され貴族院議員を辞職、二・二六の数日前に暴漢に襲われている。美濃部は当時次のように述べて天皇大権としての統帥権を批判している。

 「統帥大権の作用が国務大臣の責任の外におかれることは…不当にその範囲を拡張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て国政を左右し、軍国主義の弊きわまるところなし」。

 1935〔昭和10〕年2月25日、第67回帝国議会貴族院で、美濃部議員(63歳)は、近衛文麿議長の指名で天皇機関説に関するいわゆる「一身上の弁明なる弁明演説をした。次のように述べている。
 「・・・日本の憲法の基本主義と題しましては其の最も重要な基本主義は、日本の国体を基礎とした君主主権主義である。之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である・・・我々は統治の権利主体は、国体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換えれば国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬した給ひ、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、その自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして、天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在(まし)まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ、天皇が国法に従つて行はせられます行為が、即ち国家の行為たる効力を生じると云ふことを言ひ現すものであります」。

 昭和天皇「独白録」は次のように記している。
 「天皇機関説が世間の話題となった。私は国家を人体にたとえ、天皇は脳髄であり、機関というかわりに器官という文字を用うれば、わが国体との関係はすこしもさしつかえないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝えさしたことがある。真崎はそれで判ったといったそうである。また現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だというから、私はふつうの人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことをいわれては迷惑だといったことがある」。

 貴族院議員菊地武夫、美濃部達吉の議員辞職を要求。4.9日、主著の発禁。9.18日、美濃部の議員辞職。

 3.4日、袴田里見が検挙され、戦前の共産党中央委員会の法灯が壊滅した。


 3.16日、ヒトラーが、ヴェルサイユ条約の軍備条項を破棄し、徴兵制による再軍備を宣言した。


 3月、ナチスドイツ再軍備宣言に合わせて華北分離工作を実行に移す。


【磯部、村中の告訴、上申書提出】
 4.2日、磯部が片倉、辻、塚本の三人を告訴したが、これも黙殺された。

 4.6日、教育総監の真崎甚三郎は国体明徴の訓示を陸軍に通達した。

 4.24日、村中は告訴の追加を提出したが黙殺された。

 5.11日、村中は陸軍大臣と第一師団軍法会議あてに上申書を提出し、磯部は5.8日と13日、第一師団軍法会議に出頭して告訴理由を説明したが、当局は何の処置もとらなかった。

【永田軍務局長が華北分離工作を実行に移す】
 5.29日、永田軍務局長が、皇道派の荒木貞夫陸軍大臣が辞任すると華北分離工作を実行に移す。華北問題が重大化し、共産党による華北でのテロ行為を利用して華北分離工作を推し進める。北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)の国民党からの分離を工作する。

林銑十郎陸軍大臣と永田鉄山軍務局長が朝鮮、満洲視察】
 5月、林陸相は永田を伴って朝鮮、満州の視察に赴いたが、これが真崎を更迭する打ち合わせのためのものであるとの噂が流れた 。青年将校らは軍務局長の永田を黒幕として憎悪するようになった。林は永田のロボットとしか思われなかった。実際に林に面会して軍の統制について問答した大蔵栄一の林評がそれを物語っている。
 「私は大臣との問答の一部始終を話して、陸軍大臣林銑十郎大将は風采に似合わぬ凡庸の最たる者である、と結論づけた」。

 カイゼル髭を生やしている林が、見た目だけは立派な将軍に見えると揶揄している。事実、軍事参議官会議でも林は自分の弁護を自分ですることができず、渡辺の機知によって窮地を救われている。この後林は首相にもなるが、悪評のみを残して辞職した。

【内閣調査局設置】
 5月、岡田内閣の後藤文夫[新官僚の元締め的存在]内務大臣の提唱により内閣調査局設置。これによって「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインが完成した。これに対して、議会軽視に憤懣を募らせていた政友会政友会は陸軍皇道派とが結びつき対立した。更に、陸軍皇道派に右翼結社である国本社を率いる平沼騏一郎・枢密院副議長が結びつき、「陸軍皇道派・平沼系右翼・政友会」のラインが完成した。帝国議会で第二党となっていた民政党は、「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインに近い存在でした。更には重臣たちもこちらのラインでした。政友会は議会第一党でありながら、政権を担当できず(政党内閣ではなかったこと)、これに不満を募らせていた。

 6.10日、梅津・何応欽協定(河北省に非武装地区) 。6.27日、土肥原。奉徳純協定(察哈爾省の安全確保)。


【土肥原・秦徳純協定(察哈爾省の安全確保)】
 6.27日、土肥原・秦徳純協定(察哈爾省の安全確保)により華北の日本軍勢力範囲を広げる。この二つの交渉中の5.21日~6.16日の3週間、林銑十郎陸軍大臣と永田鉄山軍務局長は満洲視察中で、本国の橋本寅之助陸軍次官に「すでに矢は弦(つる)を離れたので中央もこれを支持すべき」と電信を発している。永田鉄山の「華北分離工作」では英米の中国利権と衝突しないように、慎重な配慮がされていた。しかし、英米との関係を悪化させないまま華北の資源を手に入れることは不可能だった。何故ならそれ以前から英米は蒋介石の排日を画策している。「小畑敏四郎はそれに気づき永田鉄山はそれに気づかなかった」の評がある。
 この時、磯部浅一は北支に永田暗殺の為に渡航している。満洲の・飛行第12聯隊に在籍していた河野寿中尉も暗殺を企んだという噂が残っている。

 6.28日、フランス人民戦線結成。


 6月、選挙粛正中央連盟成立。「新官僚」が中心となった「選挙粛正」運動を社会大衆党・民政党が支持。


【村中、磯部が「粛軍に関する意見書」を陸軍要職者に郵送】
 7.11日、村中、磯部が「粛軍に関する意見書」を陸軍の三長官と軍事参議官全員に郵送した。この意見書は、三月事件、十月事件の責任が隠蔽されている点に軍の混乱の原因があるとして、「粛軍」という新たな闘争目標を設定した。しかし、これも黙殺される気配があったので500部ほど印刷して全軍に配布した。中央の幕僚らは激昂し、緊急に手配して回収を図った。

【統制派による皇道派排斥の動き】
 統制派の巨頭である軍務局長・永田鉄山の勢力は、皇道派の柳川兵助陸軍次官を超えて全陸軍に号令するまで強力になった。永田は、皇道派の一掃に乗り出した。

 統制派は、昭和10.8月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。元陸軍次官の柳川平助第一師団長、元憲兵司令官として手腕を奮った秦真次第二師団長を共に予備役編入し、変わって建川美次、小磯国昭中将、東条英機少将ら統制派幹部を陸軍首脳部に送り込もうとした。永田率いる統制派の一辺倒だった林銑十郎陸相はこれを受け入れたが、当時教育総監の地位にあった真崎甚三郎が真っ向から反対した。統制派の林陸相は、皇道派の真崎教育総監に対して、統制派の永田鉄山軍務局長、杉山元参謀次長が参加し、今井清人事局長、柳川平助陸軍次官の作成した人事案を示した。皇道派の真崎甚三郎や山岡重厚、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木率道らを排除する意図が明瞭にされていた。真崎は、「軍の最高人事は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で決定するという内規を無視するのか」と抗議した。

【真崎教育総監更迭事件】
 必死で抵抗する真崎甚三郎教育総監を辞めさせる為に閑院宮参謀総長を利用する。7月、参謀総長閑院宮載仁親王臨席で開かれた会議でも真崎は辞任に応ぜず、激怒した閑院宮から叱責される場面もあった。
 7.15日、真崎甚三郎教育総監更迭事件。総力戦体制確立のための北支分離工作に対する最大の抵抗勢力が真崎甚三郎教育総監だった為に、統制派にかつがれていた参謀総長閑院官が、統制派の永田鉄山軍務局長とつるんで、皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監を罷免し、7.16日、後任に統制派の渡辺錠太郎(61歳)を任命した。これを「教育総監辞任事件」と云う。

 陸軍では陸軍省の大臣、参謀本部の参謀総長、教育総監部の教育総監を「三長官」と呼び、行政上の重要問題や主要な人事につき、この三者の合議で決めていた。陸軍省は軍政(軍隊の維持管理)、参謀本部は軍令(軍隊行動に関する命令)、教育総監部は軍隊教育を担っていた。 林は真崎に対し、「君が総監の職を退くことを納得してくれれば、他の8月異動は全部君の思う通りにやる」と説得にかかったが、真崎はこれを拒絶した 。結局三長官会議でも意見の相違は変わらず、陸相と参謀総長の二人で真崎の更迭と林の同期・渡辺錠太郎大将の教育総監就任が決定された。真崎は本人が同意しないまま教育総監を罷免され、軍事参議官に転出させられた。 真崎は、「この人事の背景には永田鉄山がいる」と皇道派将校に吹聴した。これにより統制派と皇道派の対立が深刻化した。皇道派の青年将校は、この人事を統帥権干犯として非難する言論戦を展開した。
 荒木に続いて真崎も、昭和10.8月の定期人事異動によってその座を追われ現役から退かされた。真崎や荒木はまだ巻き返しを狙った。7.18日、軍事参議官会議において、真崎と荒木は林に対して反撃を開始した。会議には真崎、荒木の他に林陸相と新総監の渡辺、それから阿部信行、菱刈隆、松井岩根の川島義之各大将と永田軍務局長が参加した。ここで真崎が三月事件当時(軍務課長時代)永田が書いたクーデター計画書を持ち出して本人に間違いないかを確認し、「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇へ葬られているが、かような大それた計画を軍事課長みずからが執筆起案しながら、時の当局者はこれを不問に付している。軍紀の頽廃これよりはなはだしいものがあろうか。その者を事もあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局の席につかせているとは何事であるか」と言い放った 。真崎は、永田が過去に書いたクーデター計画書を証拠にし、その永田を軍務局長として採用した林の非を鳴らしたことになる。

 しかし、荒木・真崎の切り札は渡辺の機転によって無と化した。渡辺は荒木に質問してこのクーデター計画書を機密公文書と見なしている、との言質をとった後、すかさずその弱点をついた。「宜しい。一歩を譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保持は極めて大切なことである。これが一部でも外部に洩れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はそうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続きをとらねばならぬ」。これには真崎も参った。公文書だと言わせたのは逃げ場を塞ぐための渡辺の策だったのである。「その書類は軍事課長室の機密文書を収蔵している金庫の中にあったものである。不穏なる文書なるが故に、陸軍大臣たる自分の許に届けられ、当時参謀次長たる真崎参議官に回付したもので、機密漏洩などもっての外の事だ」。

 荒木は弁明するが、渡辺はさらに畳みかける。「書類が真崎次長の許に回付された経路はそれで判ったが、その書類が教育総監が所持せねばならぬ書類であるか、さらに教育総監をやめて参議官となった真崎大将が所持せねばならぬ書類かどうか、憶測をたくましうすれば、永田を陥れんがためにひそかに所持していたとも解せられぬことはない。この点について弁明があれば承ろう」。これで、勝負は決した。両者とも言葉もない。阿部信行がこの件を打ちきりを提案し、荒木と真崎は助かると同時に切り札を失う形となった。
 真崎甚三郎教育総監更迭により、軍上層部に於ける皇道派の勢力は大打撃を受けた。林に真崎の更迭をアドバイスし、軍事参議官会議で真崎と荒木をやり込めたのは渡辺錠太郎なのだが、皇道派青年将校らはこれを軍務局長永田の仕業とみた。

【相沢中佐が永田少将を訪問】
 7.19日、皇道派青年将校の一人・相沢三郎中佐(佐官)が真崎教育総監更迭人事に強い異議を持ち永田少将を訪問する。丁度永田は外出しており、帰ったら連絡してくれるように頼んで一端九段偕行社へと引き返した。そして午後三時過ぎ、永田帰省の連絡をもらい、早速陸軍省へと赴いて会談におよんだ。

 この時、相沢中佐は、永田に対して青年将校の国家革新運動を永田が邪魔することを責め、真崎教育総監の更迭などは軍を財閥や政党の私兵化して天皇の統帥大権を干犯するものである。林陸相の処置に誤りが多いのは軍務局長の責任であるとして永田少将に辞職を勧告したといわれる。永田が了解するはずはなく、会談後には「どうも話がへたな上にズーズー弁なので、要点がはっきりしなかった。しかし、諄々と説いたら納得して帰ったよ」と知人に語っている 。この後、相沢中佐の上司であった連隊長・樋口大佐がこの相沢の行動を警戒して、相沢の台湾赴任を申請し、八月の定期異動で台湾歩兵第一連隊附きを命ぜられている。

【磯部、村中孝が 「粛軍に関する意見書」を陸軍に提出】
 7.23日、陸軍士官学校事件で免官(首)になった磯部浅一、村中孝次は、 「粛軍に関する意見書」を提出して陸軍に訴える。

 7.25日、第7回コミンテルン大会。


 8.1日、中国共産党が抗日救国声明。


【皇道派の村中、磯部が、「粛軍に関する意見書」頒布事件で解職免官される】 
 8.2日、士官学校事件で休職中の皇道派の村中孝次、磯部浅一が、「粛軍に関する意見書」を頒布した件で解職処分に付され免官された。皇道派には理不尽な処分であり、以降、統制派に対して激しい敵愾心を燃やすようになった。これが2・26事件の大いなる伏線となった。 皇道派は、”真相究明”を名目とする各種の地下文書を流した。文章は事件が「天皇機関説を実行し、国体を破壊し、国軍を攪乱し、昭和維新を阻止せんとする元老重臣の大陰謀」であると訴えていた。また「永田は統帥権干犯、皇軍私兵化の許されない大罪を犯した」と極言していた。更迭後も軍事参議官の要職にあった真崎は、怪文書の取り締まりを要求する渡辺教育総監を押さえ、青年将校らと接触しては永田をこきおろすなど永田批判を焚きつけていた。

 8.3日、岡田啓介内閣が「第1次国体明徴声明」を声明した。。政府が天皇機関説を公式に否定(「国体明徴」宣言)。


 8.4日、暗殺の直前中国の非戦闘区内で日本人守備隊が攻撃され負傷する欒州事件が発生する。日中関係に緊張が走る中、永田は迅速に対応する。8.6日、事後処理を天津軍(支那駐屯軍)に当たらせる。更に、「対北支那政策」を策定、「自治的色彩濃厚なる親日満地帯たらしむる」事を指示。その内容は華北における「一切の反満抗日的策動を解消」、「日満との「経済的文化的融通提携」を実現すべき・・・。武藤章が起案者であり、これが後の石原莞爾との対立の根幹にある。


 8月、(7月22日内示)秩父宮殿下は8師団、弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に飛ばされる。 
【相沢事件発生】 
 8.11日、相沢中佐は、伊勢神宮に参拝し、当夜、東京に着いた。東京に着くとまっすぐ明治神宮に向かい参拝している。その夜、相沢中佐は親交のある西田税の家に泊まり、そこで大蔵大尉と歓談した。西田、大蔵共にその後の2.26事件の中心人物である。この時、相沢中佐は、大蔵大尉に、「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴は誰ですか?」と聞き、大蔵が「永田鉄山ですよ」と答え、「やっぱりそうでしょうなあ」と相沢はうなずいたという(児島襄「天皇」、244頁)。皇道派の相沢三郎中佐は、永田軍務局長が「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意する。
 翌8.12日、相沢は転任の挨拶のために陸軍省整備局長の山岡重厚を訪ねた。山岡は、士官学校時代の相沢の教官だった。ここで相沢は給仕に永田がいるかどうか確認し、「転任の挨拶をする」と言って局長室へ向かった。あとは惨劇となる。局長室へ入ると正面には衝立があり、その奥の事務机に永田はこちら(相沢の方向)を向いて座っていた。永田と体面しているのは憲兵隊長新見英夫大佐と兵務課長山田長三郎大佐。相沢は衝立の影で抜刀し、両大佐の後ろを回って永田に斬りかかった。永田はとっさの事にイスから立ち上がって逃げようとしたが、相沢は右肩から袈裟懸けに切り下ろした。これは深手にはならず、永田は隣室に逃げようとドアノブを握った。相沢は今度は刀身の中程を左手で握り、銃剣術の要領で一気に突き刺した。刃は永田の背を突き通し、ドアまで達していた。相沢は刀を引き抜き、永田が倒れると留めの一刀を加えた 。こうして「日本で一番悪い奴」と皇道派青年将校に罵られ、しかし将来の陸軍を担う逸材とまで言われた永田鉄山は、白昼堂々訪れた一中佐の手により陸軍省の一室で凄惨な死を遂げた。
 8.12日、陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この日陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ―にして東条英機の兄貴分だった永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起きた。これを「相沢事件」と云う。相沢事件は陸軍皇道派と統制派の対立の画期となった。

 概要は次の通り。陸軍省軍務局長の永田鉄山少将(51歳)は、陸軍省軍務局長室で、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から報告を聞いてたところへ、皇道派の相沢三郎陸軍中佐(46歳)がドアを蹴破り、「天誅!」と叫んで斬りかかり、右の方へ逃げた永田の背後から一太刀浴びせた。永田は自分の机の前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとしたが、鍵がかかっていた。相沢三郎は、永田の左背部から突き刺し刺殺した。武士の作法として首筋にとどめを刺した。新聞は、「現役将校が白昼公務執行中の上官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、我が陸軍未曾有の重大事」と報じた。永田少将は陸士16期生、相沢中佐は陸士22期生で先輩・後輩の間柄であったが、相沢は青年将校らと親しく、真崎の更迭に憤っていた矢先、村中らの地下文書を見せられ永田の暗殺を決意したと云う。軍法会議で、「自分の行為は伊勢神宮のお告げに従ったもので犯罪ではない」と主張している。事件後、皇道派と統制派の対立が更に激化した。永田の「対中一撃論」はその後も統制派に引き継がれ、皇道派を放逐した後は統制派が陸軍の主流を歩むことになる。

 相沢は翌1936年7月死刑になったが、この事件が2・26事件へと発展する。

 後に2.26事件に連座して4年の禁錮刑になった大蔵栄一大尉は次のように述べている。
 「私は相沢さんが心の底から怒ったことを二度知っている。その一つは、(相沢が)池田純久(11月事件を辻政信らと図る。のち関東軍参謀副長、内閣総合計画局長官)に会った直後、相沢さんは『池田はまず、お前たちで勝手にやるがいい。あとは俺たちがひきうけると、とんでもないことをいった』と顔を青くして怒った」。
(私論.私見)
 この言は、相沢が単独でテロを働いたのは事実としても、相沢を教唆するグループがあったことを窺わせる。

 8月、石原莞爾(石原莞爾作戦課長)「帝国陸軍作戦計画」。対ソ3割。


 9.5日、林銑十郎陸相が辞職し、後任に中立派の川島義之陸軍大将が就任した。

【「第1師団の満洲行き内定」】
 1935(昭和10).9月頃、第1師団の満州への派遣が内定している。安藤輝三大尉は、第1師団の満洲行き内定に対して、「この精兵を率いて最後のご奉公を北満の野に致したいと念願致し」、「渡満を楽しみにしておった次第であります」と述べている。1935.1月の中隊長昇進の際には、連隊長・井出宣時大佐に対し「誓って直接行動は致しません」と約束している。

 青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していた。「第1師団の満洲行き内定」に危機感を抱き、逆に「昭和維新断行」の決意を固めた。クーデター決行は、3月になれば第一師団が東京を離れるので2月中に実行に移さねばならないことになった。その為の下士官・兵の動員態勢づくりが進められた。慎重論もあったが、「第1師団が渡満する前の蹶起」を確認した。山口一太郎大尉や民間人である北、西田は時期尚早であると主張したが、置き去りにするかたちで事態が進行し始めた。留意すべきは、この経緯を見れば、皇道派が統制派に乗せられた面も否定できないことであろう。

【ヒトラーがニュルンベルク法を制定】
 9.15日、ヒトラーは、「ドイツ人の血と尊厳の保護」として、ニュルンベルク法を制定した。

【磯部が川島義之陸軍大臣を訪問】
 9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語っている。

 10.3日、イタリアがエチオピアに侵入を開始した。これをエチオピア戦争と云う。
 10.6日、グルー駐日米国大使は日本政府に対して抗議の書簡を送る。日本は門戸解放・機会均等の原則を守らず、中国におけるアメリカの正当な権益を侵していると抗議。これに対して近衛首相は二度の声名を発し、「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存す」また国民政府といえども、「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらず」と述べた。つまり日中戦争の目的とは、アジアから欧米の影響を排して、日本主導による新秩序を作り出すことである、というもの。いわゆる「東亜新秩序」宣言。

 10.15日、第2次国体明徴声明。


【皇道派の陸軍青年将校によるクーデタ計画始動経緯】
 10月頃、皇道派の陸軍青年将校が再び形勢を挽回するためにクーデタを計画し始めた。磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と事件後憲兵の尋問に答えている。

 10.末、土肥原華北派遣。


 11月、親日派の殷汝耕(いんじょこう)をトップとする冀東(きとう)防共委員会(河北省東部)が設立される。日本の傀儡政権。12月、蒋介石派の冀察(きさつ)をトップとする政務委員会(河北・察哈爾両省)宋哲元が設立される。国民党の傀儡政権。

【安藤らが所属する第一師団の師団長・柳川平助が台湾軍司令官として転出】
 12月になると、再び陸軍の定期人事異動が行われる。この時、安藤らが所属する第一師団の師団長である柳川平助が、台湾軍司令官として転出することが決定された。このニュースをいち早くつかんだ東京日日新聞陸軍省担当記者の石橋恒喜は、かねてからの知り合いで、皇道派青年将校の良き理解者でもあった山口一太郎大尉をその官舎に訪ね、「山口大尉よ!師団長は台湾へ動くぞ」と伝えた。山口大尉は、さっと顔色を変えた。「えっ、本当か?それはえらいことになった。柳川閣下がおられたので若い諸君も自重していてくれたが、閣下が出ていかれたのではどうなることか、わしにはもう彼らを押さえる力はない」。山口は暗然たる面持ちで、しばらく天井をみつめていた。

 柳川は、荒木が陸相の時に陸軍次官を務めていた人物である。荒木が病気で辞任し、真崎が更迭されてからは皇道派の庇護者としては最も重要な人物と言えた。その柳川が、いよいよ中央から転任させられる。第一師団は安藤を始めとして皇道派青年将校を多く抱えており、その理解者、また重し役となっていたのが柳川平助だった。これも青年将校の決起の要因の一つとなった。

【磯部が古荘陸軍次官、山下・軍事調査部長、真崎・軍事参議官を訪問】
 12.14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎・陸軍次官、山下奉文・軍事調査部長、真崎甚三郎・軍事参議官を訪問した。山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。しかしオレがそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語っている。

 この後は【2.26事件史その2、決起直前の動き考】に続く