【部落解放運動考(解放同盟と日共の対立考)】 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).5.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
本来であれば、朝田氏の指導する部落解放運動は実を結び有意義な運動体になるはずであった。ところが、ここでも日共宮顕―不破派のあらん限りの罵詈雑言と敵対が組織され、運動的損失を余儀なくされた。部落解放運動を廻る60年代、70年代の喧騒は、この史実の積重ねである。かく観点を据えるのが正しい。 こたび狭山事件への関心からいっそのこと部落差別問題全体を考えるサイトを立ち上げることになった。これまで部落解放運動を廻っての解放同盟と日共との争いについてあまり興味を持たなかったが、その解析に着手してみて驚いた。宮顕−不破系の変調理論はその反動的本音も含め、解放同盟批判の際に最も典型的に現れていることが判明した。その論理、論法はどこから見ても悪質で、共産主義者、共産党の観点なぞどこにもない。全編が無茶苦茶で、よくもまぁこんな醜悪な理論が恥ずかしげもなく開陳されてきたことよ。 このことに気づくのは、宮顕の胡散臭さに対する確固とした見解を確立しているれんだいこならではなのかも知れない。当然の如く解放同盟側からの反論が為されてはいる。反日共系左派運動からの批判もされてはいるのだろう。が、果たして正面真っ向からの批判を為し得ているだろうか。現下日共党中央に対するれんだいこ的見解に立ちきれていないそういう弱さが、宮顕−不破系党中央の特異な性格を掴み損なっており、為に批判の刃を萎えさせているのではなかろうか。結局、どっちもどっち的抗争に巻き込まれ、運動的損失という被害を受けているように思われる。それは傷み分けではなくむしろ宮顕−不破系の思惑が半ば貫徹されていることを意味する。 彼らは戦闘的諸団体の撲滅請負人であり、ほぼこれを成功させてきた史実を持つ。今日の左派戦線の低迷の過半は、特に穏和系のそれは日共のそういう反革命的所業にこそ求められるべきである。当然、それを咎められなかった側にも応分の責任があると云うべきである。この観点がなかなか共有できないが、なぜなのだろう。既にれんだいこは、宮顕の野坂の不破の胡散臭さをサイト上に公開している。現代左派運動はその成果を吸収すべきであろうに。よしんばれんだいこ見解に誤りがあるのなら、それを質疑すべきであろうに向かってこない。にも拘わらず無視だけは良くしてくれる。この精神は奈辺からくるのか、その辺りから考察し直さなければならないのかも知れない。 宮顕−不破が出向くところどこでも、例えば1・日共の各級機関の実態を見よ、2・「反党分子」に対する仮借ない追放振りを見よ、3・新日本文学界、4・学生運動、5・原水禁運動、6・日中友好協会の実態を見よ。ことごとく分裂壟断され深手を負わされてきた。その要因は繰り返すが、日本左派運動が、1・宮顕/不破一派が権力の廻し者ないしは自ら望む内通派であり、2・その連中が戦前以来ママ不屈の伝統を持つ日共党中央を占拠し、3・その壇上から投降主義的マルクス主義という史上例のない反動理論を鼓吹し続け、4・日本左派運動に公害汚染水の如くな害悪をもたらしている、という事態を的確に見据え損なったことにある。 さて、解放同盟がそういう被害を受けながらも持ちこたえ、更に前進しつつあるとしたら天晴れである。乗ずる隙を与えず反撃してきたとしたなら賞賛に値する。それが組織の主体的力量だと思う。れんだいこは、解放同盟対日共の抗争という舞台では解放同盟の側を支持する。 とはいえ、れんだいこは、解放同盟の理論及び運動方法に諸手を挙げて賛同という訳にはいかない。部落解放運動を通じて他の差別問題全般に通ずる視野を展望してはいるだろう。しかし、外攻的には旺盛でも内省的に甘いとしたら問題だ、身内に甘く他に厳しすぎる面がありやなしや、彼らも体制に篭絡されてきている面がありやなしや。れんだいこにはそういう疑問がある。こういう構図での認識下で、解放同盟運動に対するれんだいこ見解を対置させてみたい。本サイトの考究はまだまだこれからであるが、以上の趣旨合意の皆様と共に充実させていきたいと思う。 2003.6.15日 れんだいこ拝 |
(全面的に書き換え中)
(私論.私見)