「矢田教育差別事件考」

 (最新見直し2009.3.30日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「矢田教育差別事件」について確認しておく。 

 2009.3.30日再編集 れんだいこ拝


【「矢田挨拶文」発生】
 1969(昭和44).3.13日、「矢田教育差別事件」発生。これは、大阪市教組東南支部の役員(書記次長)選挙に立候補した共産党系の市立阪南中学分会の木下浄氏の挨拶文の内容が原因となった。同挨拶文は、「労働時間は守られていますか」の問いかけで始めて、「自宅研修のため午後4時頃に学校を出ることができますか。仕事に追いまくられて、勤務時間外の仕事を押し付けられていませんか」と続き、「進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなること、教育懇談会などで遅くなることはあきらめなければならないでしょうか。また、どうしてもやりたい仕事をもやめなければならないのでしょうか」で結ばれていた。

 この挨拶文が事件化し、「矢田教育差別事件」として表面化していくことになる。
(私論.私見) 「矢田教育差別事件」の背景について
 この文面はそれだけではたいしたことのないように思われる。しかし、当時の矢田地区では、生活の困窮、住環境の劣悪さ、高校進学率の低さといった状態を何とか打開しようと、解放同盟矢田支部を中心とした取り組みが進められていた。この解放同盟の動き、日共党中央と解放同盟の抜き差しなら無い対立状況を踏まえれば、この支部役員立候補挨拶文が日共理論に忠実なかなり意図的且つ挑発的なものであることが分かる。ここを理解しないと、「矢田教育差別事件」の真相が見えてこない。

解放同盟の「矢田挨拶文」糾弾闘争と日共の対応
 この文書に解放同盟矢田支部が糾弾闘争に立ち上がった。4.9日、解放同盟は、玉石藤四郎氏ら推薦人3人を解放会館に連行し、深夜に及ぶ激しい糾弾集会を開いた。 木下氏の挨拶文を「日共の差別問題認識水準を示すもの」として槍玉に挙げ、 「教師の苦しみの原因が部落解放運動にあるとする差別文書だ」、「部落差別を宣伝し、部落解放運動に反対し、教師の古い意識を同和教育に反対する基盤として結集することを訴えている」として自己批判を迫った。

 当時の情況を踏まえて客観的に評するならば、「同和のこと」を「進学のことや教育懇談会などで遅くなる」レベルで取り上げれば不見識且つ不用意のそしりは免れないだろう。が、この時の糾弾集会の様子が「野次・怒号・罵声・恫喝に満ちており、まさに人権侵害そのものであった」として、次の様に伝えられている。
 「(われわれは)差別者に対しては徹底的に糾弾する、糾弾を受けた差別者で逃げおおせた者はない。差別者であることをすなおに認めて自己批判せよ、差別者は日本国中どこへ逃げても草の根をわけても探しだしてみせる。糾弾を受けてノイローゼになったり、社会的に廃人になることもあるぞ、そう覚悟しとけ」 、「お前らいつまでたったら白状するのや、お前らは骨のある差別者や、ともかく徹底的にあしたでもあさってでも続いて糾弾する」(大阪地裁、1975.6.3日判決、判例時報782号23頁より)(れんだいこの確認は出来ていない。「部落解放同盟犯罪史」)。

 解放同盟矢田支部の糾弾闘争により、関係教師らは当初文面の差別性を認めていた。が、共産党中央が介入したことによって態度を変え、「差別文書では無い。同和の問題なども時間内に行われるようにしたいと訴えたまでだ」と開き直った。こうして紛糾を深めていくことになる。共産党中央は、「木下氏の挨拶文を差別文書ではない」と木下弁明を追認し、逆に「差別糾弾=暴力、解放同盟=暴力集団」と誹謗中傷する差別キャンペーンを全国的にくりひろげ、大阪では悪質極まる差別ビラを全戸配付した。更に、解放同盟矢田支部の糾弾闘争を廻って、解放同盟矢田支部役員を「逮捕監禁・強要未遂罪」で告訴するにいたった。

 解放同盟側は日共の反撃にひるまず、教育委員会や市教組に働きかけ、木下氏及び挨拶文を支持した日共系教組員の処分を迫ったようである。

 4.9日、市教祖も加えて矢田市民館で糾弾集会を開催している。この際、度重なる糾弾を拒否した教師を勤務中の学校から強制的に集会へ連行しているようである。これに対し日共系は、この時の糾弾集会を主宰した同盟の矢田支部役員を「逮捕監禁・強要未遂罪」で告訴するにいたった。しかし、1975.6月の大阪地裁判決は、監禁罪を認めず訴えを斥けている。

 部落解放同盟は市教育委員会、市教組に圧力をかけ、市教委は関係教師を年度途中で強制配転させ、市教組は権利停止処分にしている。この経過に対し、日共系は次のように述べている。
 概要「この事件はそれまでの活動方針とは明らかに異質で、解放運動を行う上でもっともタブーとされた『暴力的糾弾』に他ならなかった。そして部落解放同盟大阪府連はこの事件を一種の『踏絵』にし、府連の意思に反するものの排除を行う。まず、1969年6月木下挨拶状を差別文書と認めない堺支部執行委員会の活動を拘束、同年9月、支部長以下19名の支部執行委員を除名処分とした。同10月には堺支部、蛇草支部、羽曳野支部、箕面支部を排除、12月までには荒本支部、高槻支部、富田林支部の活動家も除名処分となり、1000名をこえる同盟員が排除された。こうして、木下氏を推薦した教組の組合員11名を処分させ、教育現場から引き離すという暴挙を行った」(「『解盟』朝田一派への批判」)。

 別文では「『解同』に屈服した大阪市教委が推薦者を含め二人の教員を不当配転し『強制研修』を命じた」とある。

 この時から日共党中央は解放同盟との非和解的抗争に乗り出した。そういう意味で、「矢田教育差別事件」には重みがある。以後、共産党と部落解放同盟の抗争にエスカレートし、共産党は、部落解放同盟委員長・朝田善之助の個人名を取った「朝田理論」批判に向かい、解放同盟の糾弾闘争を「無法な暴力」として激しく非難を加えていった。「差別糾弾=暴力、解放同盟=暴力集団」と誹謗中傷する差別キャンペーンを全国的にくりひろげ、大阪では悪質極まる差別ビラを全戸配付している。こうして、もはや解放同盟と日共の対立は泥沼の紛争に入り込んでいった。

 これを契機として部落解放同盟正常化委員会が結成されることになる。なお、教育現場でのこうした対立は、1974(昭和49)年に発生した八鹿高校事件へとつながっていくことになる。そういう意味でも「矢田教育差別事件」には重みがある。

【「矢田教育差別事件の裁判闘争」】

 「矢田教育差別事件」は刑事、民事の二方向から裁判沙汰に持ち込まれた。玉石氏らが解同矢田支部長を監禁罪で刑事告訴(矢田事件刑事訴訟)、さらに不当な配置転換の取り消しを求めて民事訴訟を起こした(矢田事件民事)。日共系がこれを仕掛けており、解放同盟の部落解放運動に対して司直の手に委ねて判断を仰ぐという意味でも、解放同盟の「糾弾闘争=犯罪」とみなして告訴するという意味でも先例となった。

 
1975.6.3日、刑事裁判での大阪地裁一審判決は、「挨拶状は結果的に差別を助長する内容を包含するもの」と認定し、「差別に対する法的救済の道に乏しい現状では、被告人の行為は、未だ可罰的評価に値するものとは認め難く云々」、つまり「木下挨拶状は差別的であり、被告人の行為は刑事罰を科すほどではない」として無罪判決を言い渡した。

 この時の判決は、解放同盟の糾弾闘争について次のように述べている。

 「差別というものに対する法的救済には、一定の限界があり、その範囲が極めて狭く、多くの場合泣き寝入りとなっている現状に照らすと、差別に対する糾弾ということも、その手段、その方法が相当と認められる限度をこえないものである限り、社会的に認められて然るべきものである」(1975年6月3日・矢田教育差別事件大阪地裁判決)。

 1979.10.30日、「配転取り消し請求」を廻る民事裁判での大阪地裁一審判決は、立候補挨拶状は「役員選挙に際して、組合員に労働条件の改善の訴え、あるいは、市教委の教育行政を批判するためである」と判断し、「同和問題の解決を阻害するおそれがある」との市教委の主張を斥け次のように判決した。

 「特定の思想なり運動方針に固執するものが、右のような考えを採用するときは……容易に反対意見を封ずる手段として利用され、同和問題の解決に対する自由な批判・討論が不活発となり、右問題に対する開かれた自由な雰囲気がなくなって、ついには一定の考え、思想が独善に落ち込み、反対の理論ないし思想の存在、更にはその考えや思想に同調する人々の存在をも許さないという結果に陥ることになる」。

 1981.3月の刑事裁判2審での大阪高裁の判決は、挨拶状が差別文書であること、ある程度の厳しい糾弾も是認されることを認めた。但し、「手段、方法が限度を越えている」、「結論として監禁にあたる」として逆転有罪判決を言い渡し、解同矢田支部長は懲役3月、執行猶予1年を言い渡された。

 1982.3月、最高裁が矢田事件刑事2審の大坂高裁判決を支持する判決を下し、被告らの有罪が確定した。
 1986.10.26日、民事裁判2審で、大阪高裁が矢田事件1審判決を支持。解同側の有罪が確定した。

 この事件は、子どもの学習権と教師の労働条件を対立的にとらえており、教師の労働条件さえ改善されればよいとする立場に立つのか、それとも、子どものために必要なら時間がかかろうと主体的に取り組み、いきとどいた教育が保障できるよう労働条件の改善を要求する立場に立つのか、教師のあり方をあらためて問い直した。興味深いことに、その後共産党は「教師聖職論」を吹聴し始め、「矢田教育差別事件」の時とは逆の見解を披瀝するようになる。 


【「糾弾闘争」の判例について】
 なお、糾弾の正当性についての裁判の判例は次のとおりである。1975.6.3日の矢田教育差別事件大阪地裁判決は次のように述べている。
 「差別というものに対する法的救済には、一定の限界があり、その範囲が極めて狭く、多くの場合泣き寝入りとなっている現状に照らすと、差別に対する糾弾ということも、その手段、その方法が相当と認められる限度をこえないものである限り、社会的に認められて然るべきものである」。

 1988.3.29日の八鹿高校事件控訴審判決は次のように述べている。
 「今日なお部落差別の実態には極めて深刻かつ重大なるものがあるにもかかわらず、差別事象に対する法的規制もしくは救済の制度は、現行法上は充分であるとはいいがたい。糾弾は実定法上認められた権利ではないが、憲法第14条の平等の原理を実質的に実効あらしめる一種の自救行為として是認できる余地があるし、また、それは差別に対する人間として耐え難い情念から発するものであるだけに、かなりの厳しさを帯有することも許される」。




(私論.私見)