第60部 1875年 78才 ぢば定め
明治8年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ぢば定め」を確認しておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【教祖がお筆先六号半ばより十二号の初3首まで一気に御執筆】

 1875(明治8)年、教祖78歳の時、教祖は、こうした時局に対応して、お筆先六号半ばより、七号、八号、九号、十号、十一号、十二号の初3首まで一気に執筆されている。教祖をしてかようにご執筆せしめる情動があった、それは教祖のなみなみならぬ決意の披瀝でもあった、と拝察させて頂く。


【「教祖最初のご苦労」前夜の教祖のお諭し】

 1875(明治8)年、「お道」の行く手を厳しく阻止しようとする暗雲が垂れこもりつつあった。見抜き見通しの教祖は、「もう一度こわいところへ行く。案じな」と予言されている。且つ、ひるむことなく毅然として「お道」を歩む「ひながた」を見せられている。「お道」の道程は平坦ではなく、教勢の伸びに応じて又迫害干渉も強まるという「立て合い」の構図であった。教祖は、迫害を前にして揺るぎがちな道人に対し、神一条の道を通る者の心構えを諭し、自由自在の守護を請け負うて励まされた。「節から芽が出る」とお教えになり、事実、節毎に何時も輝かしい芽を出して、教祖の言葉に間違いのない証拠を見せながら、節に対する心構えや悟り方をお教え下された。道人は、教祖の尊い「ひながた」を目のあたりにお見せ頂きつつお連れ通り頂いた。


【中南の門の建築が始まる】

 この頃、後に警察の干渉の原因ともなった中南の門の建築が始まっている。


【飯田岩治郎18歳の時、母子共々お屋敷に住み込む】
 この年、飯田岩治郎18歳の時、母子共々お屋敷に住み込む。「中南の門屋」普請の手伝いや「月日の紋」作成の手伝いをするなど、お屋敷との縁を深めている。

【まつえが妊娠、教祖が「たまへ」を予見する】
 この頃、まつえが妊娠した。お筆先が次のように記している。
 このたびの 孕(はら)みているを 内なるわ
 何と思うて 待ちているやら
七号65
 こればかり 人並みやとは 思うなよ
 なんでも月日 えらい思惑
七号66
 名はたまえ 早く見たいと 思うなら
 月日教える 手をしいかり
七号72

 八島教学によると、この時生まれた「たまへ」は男の子であり、この子は明治12年に亡くなり、善福寺に葬られ、「智生童子」という戒名が付けられているとのことである。その後、女児が生まれ、この娘が「たまへ」と呼ばれていくことになるとのことである。

【教祖が神そのものになり、道人への叱咤励まし】
 教祖はこの頃、次のようなお筆先を記されている。
 今日までは 何よの事も 月日やと
 云うてあれども まだ分からんで
八号17
 しかと聞け この世始めた 真実と
 云うて話は 説いてあれども
八号18
 世界には 誰か知りたる 者はなし
 何を云うても 分かり難(がた)ない
八号19

【ぢば定め】

  お屋敷では、前年に棟のあがった門屋の内造りの最中であったこの頃教祖は、頻りに「甘露台」(かんろだい)の据え付けを急きこまれた。これにより、据え付け場所としての「ぢば」(地場)を定めることが急務となった(別稿「かんろだいの理」)。「ぢば定め」は、一つ、ここへ甘露台を据えつけ、これを「世界助け」の芯にする。二つ、甘露台を中心として手を揃えて「おつとめ」をする。三つ、ここで「おつとめ」に励み、甘露台の元に堅く結束するなら、如何なる困難が襲ってこようとも危なきはない、とする教理に基づいている。これを「ぢばの理」のと云い、これにより「ぢば」が天理教の聖地となっている。

 「ぢば定め」までの経緯を確認しておく。明治2年1月からお筆先1号、2号の執筆が始まっている。明治3年、「ちよとはなし……」のつとめの詞と手ぶりを教えられている。明治5年6月初めより75日間の断食(穀気断ち)を続けられている。明治6年、飯降伊蔵に甘露台の雛型(木製)を造るよう命じられている。明治7年、お筆先を再び書き続けられ、陰暦5月5日、里方の兄・前川杏助に依頼されていたかぐら面を受け取りに行かれている。同年秋、大和神社の節があり、そのために山村御殿へ呼び出されている。同年暮れ、教祖は身につける衣類一切を赤衣に召し変えられ、自ら月日のやしろとしての姿を示された。

 明治8年、6.29日(陰暦5.26日)、教祖78歳の時、甘露台の「ぢば定め」が行われた。この時の様子は次のようであった。教祖はこの前日、「明日は26日やから、屋敷の内を綺麗に掃除しておくように」と仰せられ、このお言葉を頂いた人々は、特に入念に掃除しておいた。教祖は、先ず自ら庭の中を一回り二周り歩まれ、やがてつとめ場所とされていた建物の南側にあたる所に進まれると、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなくなった。この地点に標(目印)を付けられた。然る後、こかん、仲田儀三郎、松尾市兵衛、辻ます、櫟枝(いちのえだ)村の与助等の人々を次々と目隠しをして歩かされたところ、皆な同じ所へ吸い寄せられるように立ち止まった。辻ますは、初めの時は立ち止まらなかったが、子供のとめぎくを背負うて歩くと、皆なと同じ所で足が地面に吸いついて動かなくなった。この地が「ぢば」と定められた。こうして初めて「甘露台のぢば」が明らかに示された。時刻は昼頃であった。この時、梶本家に嫁いでいたこかんが一時的に戻り、この神事に参加していることになる。

 「ぢば」について次のように解説されている。

 「『ぢば』とは、人間が創造された時、いざなぎのみこと、いざなみのみことの二柱が、なむなむ、とお宿し込みなされた時の『身の内よりのほんまん中』といわれる地点であり、親神天理王命のお鎮まりくださる地点であります。この『ぢば』は、明治8年6月29日に、教祖が『ぢば定め』によって明らかにされた地点で、当時の住所表示では、大和の国・山辺郡・庄屋敷村・中山五番屋敷といわれた屋敷の一地点、現在では、日本国・奈良県・天理市・三島町一番地の天理教教会本部境内地内の一地点であります」。 

 「ぢば定め」につき、み神楽歌、お筆先に次のように明らかにされている。

 こゝはこのよの 極楽や 
 わしもはやばや まゐりたい
四下り目9ッ
 こゝはこのよの 元ののぢば
 めづらしところが あらはれた
五下り目9ッ
 このところ つとめ場所は 人間を
 始め出したる ところなるぞや
八号36
 このさきは あっちこっちに 身にさわり
 月日出入り すると思えよ
八号81
 きたるなら 我が身さわりと ひきやはせ
 同じ事なら はやく掃除を
八号82
 掃除した ところを歩き 立ちとまり
 そのところより 甘露台を
八号83
 したるなら それよりつとめ 手をそろい
 早くかかれよ 心勇むで
八号84
 こればかり どこたづねても ないほどに
 これ日本の 真の柱や
八号85
 これさいか 確か見えきた 事ならば
 どんなことでも 恐るものなし
八号86
 今迄は 何を言うても 人間の
 心の様に 思うていたれど
九号1
 この度は 何を言うても 人間の
 心あるとは さらに思ふな
九号2
 どの様な 事でもしかと 聞いてくれ
 人間心 さらにまぜんで
九号3
 月日より どのよの事も しいかりと
 言ひかけるでな これ聞いてくれ
九号4
 月日より 社となるを 二人とも
 別間へだてて おいてもろたら
九号5
 この話 しいかり聞いて 承知せよ
 どんな事をば するや知れんで
九号16
 この先の 道のようだい しいかりと
 聞き分けてくれ 月日たのみや
九号17
 月日より 飛び出た事を 聞いたなら
 甘露台を はやく出すよふ
九号18
 甘露台 据えるところを しいかりと
 ぢばのところへ 心づもりを
九号19
 これさいか たしか定めて をいたなら
 どんな事でも 危なきはない
九号20
(私論.私見)
 この「ぢば」の意味について思案が分かれている。みきの「元始まり話」による人間宿しこみの一点としてのこの地に絶対的因縁を見るのか、この地より世界助けに向かう「伏せこみ」の一点として甘露台を据えるための場所をお屋敷内に任意に定めた一点なのか、見解が分かれている。このことは、「かんろだいつとめの理」の解釈に関係してくる。お道外の者には分かりにくい話ではある。
 「ぢばの甘露台を囲んでの神楽づとめ」こそ教祖の志向されようとした「お道」の「最高づとめ」であったと拝察される。教祖の目には、迫り来る官憲との対決が予想されており、抵抗上の必要もあって一刻も早く甘露台据えつけを急ぐようとのお言葉であった、と拝察し得る。

【ぢば定め異聞】
 「復元」37号(昭和37年4.26日発行)の 「考二 ぢば定めに関する老先生方との談話」、「みちのとも」昭和10年1.5日號の「甘露?座談會」に「ぢば定め異聞」が掲載されている。これを確認するに、中山、山澤、管長様、高井の談話の中で、高井の言が異色で、次のように紹介されている。(「魂に上下はありません」参照)
 「あの時ほんとに足の留まったのは教祖様とさよみ(仲田儀三郎)さんと、留菊(辻忠作息女)さんの三人や。最初に教祖さんがお歩きになって踏み留まれた所にしるしを付けておかれて、さよみさんに歩いてみよと仰しゃった。さよみさんが目かくしをして歩いたら同じ所で足がひっついた。辻さんは同じ様に歩いて見たがどううしてもひっつかん。つまり因縁がなかったんや。そこで留菊さん(三歳)を負ふて歩いて見たらひっついた。まともにひっついたのは此の三人だけや(略)」。

 これは、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿で、「教祖が歩いた後をこかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の与助等の人々に目かくしをして歩かせたところ、皆な、同じ所へ吸い寄せられるように立ち止まった」とある内容と違う。さらに、稿本教祖伝では、教祖が歩いた後、こかんが登場しているが、高井の談話では出ていない。ここも異聞である。ちなみに、天理図書館で「みちのとも」の回覧ができるが、「ぢば定め異聞」を伝える昭和十年一月五日號は回覧できないと云う。

 なお、「宮森先生との談話」では、宮森が次のように伝聞証言している。
 「辻留菊さんの小さい頃で、なんでも廿六日の宵の日に『明日は命日だからきれいに掃除をして置くように』と仰って掃除をさせられた。最初に教祖様がお歩きになって踏み留まった所へ印を打たれ、側に居た人達にずっと歩けと仰った。其時居合わした人は相当あったが、理のある人だけがまともな所に足がひっついた。辻さんの家内が歩かはったところがひっつかず、留菊さんを負ふて歩かれるとひっついた。松尾さんやったか、家内のお春さんやったか、三尺程手前で足がひっついた人もあったと言うことを聞いています。教祖様は目かくしをされたか、されなかったか聞いていませんが、他の人には皆目を括って歩かされた」。

 これによると、概要「理のある人だけがまともな所に足がひっついた。ひっつかなかった者、手前で止まった者もいた」と云うことになり、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿の記述とやはり違う。

(私論.私見)

 稿本教祖伝の記述と異聞とどちらが正確なのか、この辺りを精査せねばなるない。

【教祖の予言】 
 ぢば定めが行われた頃、教祖は、「もう一度こわい所へ行く。案じな」。本部教理では、「迫害弾圧の時代を前にして、節に揺るぎがちな人々の心を励ましてのお言葉でした」と拝察している。

【こかんの流産】 
 甘露台の「ぢば定め」が行われた明治8年6月29日(陰暦5.26日)前後、こかんが流産している。 教祖が「ご苦労」 あそばされている折も折、この頃身上の障りを頂いていたこかんが危篤となった。この時期の明治8年6月、教祖はお筆先九号に次のように記している。
 このたびの 悩むところハ 辛かろふ 
 あとのところの 楽しみをみよ
九号36
 さきよりに せへいゝばいに ことハりが 
 ゆうてあるぞや 思案してみよ
九号37
 どのよふな 事をするにも さきいより 
 ことわりたゆへ かゝる仕事や
九号38
 この話し どふゆう事に 思うかな 
 月日ぢうよふ しらしたいゆゑ
九号39

 この4首の「註釈」につき、「この4首(36−39)はこかん様について仰せられたものである。11号25−40総註参照」としている。

 教祖はお筆先11号に次のように記している。
 胸先へ 厳しく支え 来たるなら
 月日の心 急き込みである
十一号1
 このたびの 悩むところで 得心せ 
 皆なの心も めゑ/\心も
十一号13
 この事を 自由自在は 違はねど 
 皆なの心に 承知なければ
十一号14
 一列に 承知をしたる 事ならば
 月日請け負うて 確か助ける
十一号15
 この助け どふゆ事に 思うかな
 三日めへには 外い出るよふ
十一号16

 その意は、「現在悩んでいる身上についてよく考えてみて、傍々の者も、又、悩んでいる本人も、前々から諭してある親神の話に、間違いのない事を得心せよ」で、本歌は、こかん様の身上について仰せられたものである、とされている。

 八島英雄氏は、流産前後の事情を次のように伝えている。
 「この年の夏の頃、長年にわたって、教祖と艱難苦労を共にしたこかんが身上障りとなり、容体が重くなってきました。六月に書かれた十一号のおふでさきには、「胸先につかえる」(十一41)というお言葉が出てきます。こかんは妊娠していたのです。その頃、こかんはつらい立場に置かれていました。ときどき教祖の所に行って、教えの取次ぎをしようとすれば秀司夫婦の露骨ないやがらせがあり、教祖の言葉通りのご用は出来ません。また、子供を生んだら梶本家の主婦として、あるいは母親として育児や夫に仕えるという仕事しか出来なくなります。このような悶々とした悩みを持っていたので、つわりも激しかったことでしょう。それが夏の頃の「胸先へつかえる」ということであったのです。いよいよお産となったのですが、これが大変な難産でした。三十九歳という年齢です。今でも高齢で、初産というのは異常分娩が多いのです。長時間、苦しみ抜いた末に結局は死産となり、こかんはその体力を使い果たしてしまったのです。史料集成部主任であった山沢為次氏はこのお産が「からっこ」であったと伝えています。これは今でいう早期破水のことです。現在ではそれほど重大な異常とは考えられていませんが、当時にあっては命取りとなる大事でした」。(「中山みき研究ノート」P188−188、1987年初版、立風書房)

 こかんは、魂の因縁により神一条の御用を為す身であることを、お屋敷に留まるべきであることを、教祖は切々とお諭しされたのである。これまで、こかんは、藤助と離縁して以来誰とも結婚することなく、一人身を過ごしていた。寄り来る人々からの信頼も厚く、教祖の教えの取次人として重要な役割を担い、教祖の説く「助け一条」の世界を聞き分ける第一人者であった。他方、このたびの秀司夫婦の熱心な後添えの勧めには、お屋敷内における事情があったようである。秀司にとって、「応法」の動きを推し進める上で、こかんの存在は煙たいものでしかなかったように察せられる。まつえは、小姑に当るこかんの独り身の身の上を世情並みに案じ思いやった。こういう縁づくように勧める流れがあった。こうして、こかんは、「理」と「情」との間に悩むこととなった。こかんにとっても、一生一人身の覚悟に対する動揺、姉のまだ幼い子供たちの不憫等々の事情が重なったのであろう、結局のところ、こかんは、お屋敷を離れ、櫟本(いちのもと)へ行くこととなった。こかんは、迷いながらも梶本に生活の中心を置くようになった。世間の事情に随ったのである。恐らく、こかんの初めての教祖に対する「応法」であったであろう。こうして、こかんは、お屋敷といちのもとの間を往復する身となった。教祖は屋敷に戻れといいい、秀司夫婦はいちのもとに戻れと云う事情の中、時が立つに連れて、惣次郎は、こかんがお屋敷へ帰ることにいい顔をしなくなった。他方、お屋敷へ帰っても、次第に自分の居場所がなくなって行った。ひとたび距離を置くと、いろいろな心のへだて、形のへだてが入って来て、今までのような取次人としては通りにくい状況となった。

 こういう状況の中で妊娠したこかんは、悶々とした悩みの影響でもあろうか、つわりも大変ひどかった。この頃、教祖は、お筆先第11号前半から中ごろにわたり、この身上の障りを台として、人間思案に流れることなく、「どこどこまでも親神の言葉に添いきり、親神に凭れきって通り抜けよ」と懇々と諭された。こうした経過の中、こかんは出産したが、しかし高齢出産ということもあってか「からっこ」となった。「からっこ」とは、早期破水のことで、今ではそれほどのことではないが、当時は命取りの重大事だった。長時間苦しみぬいた末に結局は死産となり、こかんはその体力のすべてを使いはたしてしまった。

【教祖の「神楽十人急き込み」】
 この頃、教祖は、「神楽十人急き込み」為されている。
 日々(にち/\)に 神の心わ せゑたとて 
 人ぢう十人 揃いなけねば
六号20
 段々と 人ぢう揃うた そのゆへで 
 しんぢつをみて 役割をする
十号38
 役割も どういう事で あるならば 
 神楽十人 あといなりもの
十号39

【「教祖最初のご苦労」前夜の教祖のお諭し】

 この頃のお筆先十号には次のように誌されている。

 どの様な 事を言ふのも 皆な月日
 知らん事をば 教へたいから
十号78
 月日には 何でもかでも 真実を
 心しいかり 通り抜けるで
十号99
 この道を 上へぬけた 事ならば
 自由用自在の 働きをする
十号100
 月日より この働きを しかけたら
 如何なごうてき たると言ふても
十号101
 心より 真実分り すみきりて
 どんな事でも 親にもたれる
十号102
 この先は 世界中は どこまでも
 陽気づくめに 皆なしてかかる
十号103
 段々と この道すじの ようだいは
 皆な我が事と 思て思案せ
十号104

【「おつとめ」の整備、完結】 

 この年、新たに「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを教えられた。只今の「坐りつとめ」第3節のことである。ここに、甘露台のつとめの手、一通りが整うこととなった。ちなみに、この第3節は、明治15年に、手振りは元のままながら、「いちれつすます」の句は「いちれつすまして」に、「あしきはらひ」も又「あしきをはらうて」と改められることになった。

 続いて「をびや、ほうそ、一子、ちんば、肥、はえで、虫払い、雨乞い、雨あづけ、みのり、むほん」の11通りの具体的な救けを願うおつとめ手振りを教えられた。「をびや」(帯屋)安産守護、「ほふそ」(疱瘡)は疱瘡守護、「いっし」(一子)は子授かり、「ちんば」は不自由な足守護、「こえ」(肥え)は田畑守護、「はえで」(萌出)は作物守護、「虫払い」は害虫駆除、「雨乞い」は雨降り願い、「雨預け」雨止め願い、「みのり」は豊作守護、「むほん」(謀叛)は無病息災守護で、それぞれに地歌と手振りがある。こうして、「助けづとめ」の支度は着々と親神の思召しに近づいて行った。次第に「おつとめ」を整備されながら、いよいよ積極的に「助け一条」をお進めになるに従って親里を慕うて寄り来る人々の数は日増しに増加し、各地に講社の結成を見ると共に人々が教祖をお慕いする気持も、益々強烈となっていった。 

 何もかも 早くつとめの しこしらえ
 親の受けやい 恐みないぞや
十四号90
 これをばな 心定めて 思案して
 早く人衆の 模様急ぐで
十四号91
 早々と 心揃うて しっかりと
 つとめするなら 世界治まる
十四号92

【教義の完結】

 このたびの地場の確定と甘露台の据えつけを目標にしたこの時点で、教祖教義が確定ないし完結されたと拝察させていただく。次のように評されている。

 「教祖は、人類だけでなく、全ての生物の生命発生の際の調和、又、生命体を維持してきた調和を甘露台づとめで表現した。そして、それを自分の身体の中で実現して行く心地よさを味わいながら、人々の個性を活かした助け合いによって陽気づくめの世界を現実の社会で実現する生き甲斐を持って暮らす道を教えた。生命の世界の調和をとるためには、自分の持ち味を活かして助け合わなければならない。そうすることによって、それぞれがかけがえのない働きを持っていることに気づき、調和のとれた一つの世界を共有して味わうことができる。そして平等が実現できる。自分の個性に適した、人にも喜ばれるような、自分がいさめる働きを、自分の意志で為すことができるというのが真の自由である。この信仰のキーワードは、助け合い、平等、自律的自由である」。
(私論.私見)
 教祖が教えたことの白眉なところは、こうした教義を生み出す根拠としての「泥海古記を通じての元の理」を明らかにしたことにある。これに基づき、各自銘々が「元の理」に叶う生き方を為すよう指し示されていた。しかも、「元の理」が今日の科学の評価に耐えうる創造神話であるという凄みの精彩を放っている。ここが凡百の宗教家と画然とさせられる教祖の秀逸性があると私は拝させていただいている。

【「月日の紋」の始まり】
 教祖は、かぐらづとめ人衆の着衣に「月日の紋」12弁の菊の紋章を付けることを、早くから言われていた。その紋は、明治8年に安堵村の飯田岩治郎(文久3年入信の善六の子、18歳)の時に手伝わせて作られたのがはじまりである云々。飯田岩治郎御伝記(一瀬幸三・初子、s63・5/30)に次のように誌るされている。
 「この御紋の数と御用いなさるる時とは御話ありたれど憚るところありて之を略す。用いる時来て思い合すべし」。

 飯田は、門屋の普請の時は、母子共にお屋敷に住込み、その手伝いをしていたが、岩治郎はこの普請進捗につれて、度々身上(病気)のお知らせを頂いている。教祖は次のように宣べられている。
 「さあさあ病いではない、神が家をつくる掃除をするのや、案じるでない、さんげせいさんげせい」。
 「さあさあ、神が家をつくるのや、いまはしらのあらきとうりようや、掃除せねばいかん」。
 「さあさあよくきけ、このものは神のやしろにもらいうけるぞ。神のにんそくやしろ(人足社、教祖の啓示ブレーン)と定めるのや、けふより別のなべを食べさせ、今日より心をにごすでないぞ」。
 
 稿本天理教教祖伝では、教祖は、明治14年、増井りん等に12弁の菊の紋作成を命じになっている。また、それを当時5歳の中山たまえをして居合わせた人々に頒けさせた、とある。(「誠真実の道・増井りん」(道友社新書26「十二菊の紋のこと」p91)参照) 当時は、菊の紋章は、皇族以外使うことを許されていない。明治元年3.28日、大政官布告第195号に引き続き同4年6.17日布告2085号では、類似のものもよろしくないという極めて厳しいお達しが出された。元来、皇室は16弁の菊であり、教祖は、1年12ヶ月を意味する12弁の菊であった。丸に梅鉢の現在の教紋は、昭和16.3.31日制定の教規によって定められている。

【かんろだい普請への寄付金】
 「ひとことはなし」その二によると、甘露台の普請への寄付金の記録が残っている。それを見ると、大阪から23名、河内から37名が寄付をよせ、総額で百三円九一銭になっている。当時の貨幣価値の現在時価換算せねばならないが、近在の信者が勇んでひのきしんに参加したことを窺わせる。

 (道人の教勢、動勢)
 「1875(明治8)年の信者たち」は次の通りである。この頃、道人の数は日増しに増加し、各地に講社の結成を見ることとなった。天元講()に続いて、大阪に真心組()、河内の老原村に神楽講(松田伊之助)ができた。この時代、教勢は大和の国境を越え、東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。それは、ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈に昂進していくこととなった。
 榎本栄治郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「42、人を救けたら」。
 「明治8年4月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、庄屋敷村には生神様がござると聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に至り、お屋敷を訪れ、取り次ぎに頼んで教祖にお目通りした。すると、教祖は、『心配は要らん、要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、42人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻るのやで。人を救けたら我が身が救かるのや』、とお言葉を下された。栄治郎は心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは4月23日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手をあわせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中に匂いがけをして回り、病人の居る家は重ねて何度も廻って、42人の平癒を拝み続けた。すると、不思議にも、娘はすっかり全快の守護を頂いた。方々の家々からもお礼にきた。全快した娘には、養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の参人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という」。
 増井りん
 稿本天理教教祖伝逸話篇36「増井りん/定めた心」。
 明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医者の手を尽くしたが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。こうして、一家の者が悲嘆の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる」という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承り、その上、角目角目を書いてもらって、戻って来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます」と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行(すいぎょう)して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみこと と、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやなあ。さあ/\いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう」と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召(おぼしめ)す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねん、いんねん。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで」と、仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。

  註 仲田儀三郎、前名は佐右衛門。明治六年頃、亮・助・衛門廃止の時に、儀三郎と改名した。


 ここでまず述べる事は、増井りん先生のお引き寄せも、先人の入信のきっかけによくみられる「庄屋敷の天竜さんの噂」であったということ。しかし、後述のお言葉に「用に使わねばならんという道具は痛めてでも引き寄せねばならん」とあることから、それはあくまでも神の成す事であると捉えられる。それは「おふでさき」に、

 なんどきにかいりてきてもめへ/\の 心あるとハさらにをもうな    (十一 78)
 どのよふなものもしんからとくしんを さしてかいるでこれをみていよ  (十一 79)

 とのようにある通りではないかとも思う。神の手引きで、おぢばへ直に代参させ、自身が信じ仰ぐべき神名を知ってこそ、御守護を頂いたのである。また、その夜明けの御守護頂いた話として、「・・・當時の有様を偲ぶものとして五十年後の今日私の左のうでに今尚一つの斑點が残ってゐます。これは光のさし込んで来るのを見た時夢中で前の火鉢をサッと抑へて立ち上ったのですが、そのひゃうしにこん/\とにへくり返ってゐた湯が引っくり返りまして、腕にぶつかゝったものでござりまする」(「みちのとも」昭和三年十二月号「長いことつとめるのやで」より)と、増井りん先生はその時同時に一生ものの傷を負ったという。それはまるで、その日の事を生涯忘れぬ為のしるしのように。その後、自らがおぢばへ帰参した際、「さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めん/\の心次第やで」とのお言葉を頂かれる。この言葉もまた大変意味深い。勇んで掛かれば、いざ難儀しようと言っても、その心次第によっては、それは難儀では無くなる。そうした「たんのう」の心を持って、「難儀するのやない」前生のさんげをするのだ、と仰せ下されたのかとも思える。まさに前述で増井りん先生は「いんねん果たし」を心定めしたように。「たんのう」こそが「前生いんねんのさんげ」と仰る如く、この言葉は「さあ/\いんねん、いんねん」の諭しであることが分かるのではないか。

 と、以上が増井りん入信のきっかけの逸話に、私が読んで感じた事であるが・・・さて、以下ここからが本題の話となる。この逸話を繙く上で、見ればもう一つの側面を実はもっている。とはいえ、これ以上は長くなるので、私がこの逸話で一番述べたい本題は次回に譲ることにする。そこで、最後に一つ聞きたい事がある。この話を音読した人は感じた事があるかもしれないが、「佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう」の部分が繰り返し強調され、少し「くどく」言われたようにも思われやしないだろうか。いかがであろう。それが何故なのか・・・増井りんと仲田佐右衞門、このお言葉の重要性について次に述べていこうと思う。

【この頃の逸話】
 仲田儀三郎
 この頃の或る日、教祖は、豊田村(天理市豊田町)の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家の周りを「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め」と口ずさみながらお歩きになってのち、儀三郎に前掲のお言葉を下された。その後、儀三郎の孫の吉蔵の代になって、村からの話で、土地の一部を交換する話が進んでいた時、吉蔵の顔に面ちょう(腫れ物)ができて、顔が腫れ上ってしまった。家中の者が驚いて相談したところ、親戚の年寄りたちから、この土地は教祖が地固めされた土地であることを知らされ、親神様にお詫び申し上げ、村へ断りを言ったところ、身上の患いはすっきりと御守護をいただいた。(逸話篇41話)
 榎本栄治郎
 1876(明治8)年4月上旬、山東村菅浜(福井県三方郡美浜町菅浜)の榎本栄治郎は、娘・きよの気の間違いを助けて貰いたいと西国巡礼をしている途中、お屋敷を訪れて、教祖にお目通りして、次のお言葉を頂いた。「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早うお帰り。帰ったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を助けるのやで。なむてんりおうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻るのやで。人を助けたら我が身が助かるのや」。四月二十三日に菅浜に着くと、家では娘が騒いでいた。両手を合わせ、なむてんりおうのみこと、と繰り返しお願いしているうちに娘は静かになった。そこで、教祖のお言葉どおりに、村中をにおいがけして廻り、病人の居る家は重ねて何度も廻って、四十二人の病人の平癒を願い続けた。すると、不思議にも娘はすっかり全快の御守護を頂き、方々の家々からお礼に来るようになった。その後、娘には養子を貰った。栄治郎と娘夫婦はの三人は、助けて頂いたお礼におぢば帰りして、教祖にお目通りさせていただきました。(逸話篇42話)


 (当時の国内社会事情)http://meiji.sakanouenokumo.jp/1875.html
 1.12日、国に殉せし忠霊、九段上招魂社(後の靖国神社)に合祀される。
 1.25日、紙幣印刷のための銅版印刷機が輸入される。
 2.11日、大阪会議。木戸孝允、大久保利通、板垣退助、大阪で会議。
 2.20日、明治新政府の新税法制定。
 3.5日、日本最初の国産軍艦「清輝」進水。
 4.4日、明治天皇が小梅村の徳川昭武邸へ行幸(徳川光國、斉昭らの遺業を嘉う)。
 4.14日、漸次立憲政体樹立の詔書。(左右両院を廃し元老院、大審院を置き、地方官会議を興し漸次に立憲政体を立つ)
 4月、大教院解散。
 5.24日、大審院が設置される。
 6.1日、東京赤坂に初めて気象台設立される(中央気象台の前身)。
 6.28日、言論圧迫の官吏への讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例制定される。
 9.20日、江華島事件。日本の軍艦が朝鮮江華島要塞を攻撃。9.21日、日本軍が朝鮮永宗島第一、第二砲台を攻略。
 10.3日、明治天皇、朝鮮処分意見を奏聞。
 10.4日、明治政府が国税として煙草税を創設。
 10.19日、左大臣・島津久光、新政府の政策を批評。10.27日、島津久光、左大臣を辞任。
 11.27日、信教の自由を口達。
 この年、平民の称姓布告。これにより全国民に姓がつけせれることになった。

 この年、政府の専制を非難し自由民権運動盛んになる。福沢諭吉の『文明論之概略』出版。加藤弘之『国体新論』。火葬の禁止が解除される。


 (宗教界の動き)
 3.10日、奈良の東大寺をはじめ各寺院の実器は内務省管理下に永久保存法を設ける。
 浄土真宗四派(真宗高田派真宗佛光寺派真宗興正派真宗木辺派)が神道側との対立、政教分離の必要性を理由に大教院を離脱。3.28日、神道側が神道事務局を設置する。
 太政官は神道と仏教との合同布教中止の通達を教部省に出す。また太政官は神宮以下の神社祭式を定める。
 5.3日、大教院解散し、自今各宗の教院を設けることにする。この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
 「明治7年頃より西洋思想が入り、神仏合同布教は仏教側の脱退にはじまり、明治8年5月宣教制度は崩壊し、大教院の瓦解に先立って、明治8年3月神道事務局が設置され、再び神道の名のもとに宗教的神道を標榜する神道人達によって、大教院は神道側独自の講学布教機関として名称も「神道大教院」と改称した。事務局は三條西季知、稲葉正邦、田中頼庸、鴻雪爪、平山省斎の諸氏によって有楽町に創立を出願し、明治8年3月28日許可された」。

 この年、日蓮宗不受不施派の布教が許される。稲葉正邦が神道大教を設立する。

 (当時の対外事情)
 ロシアと樺太・千島交換条約が結ばれる。

 (当時の海外事情)





(私論.私見)