第60部 | 1875年 | 78才 | ぢば定め |
明治8年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.10.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「ぢば定め」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【教祖がお筆先六号半ばより十二号の初3首まで一気に御執筆】 |
1875(明治8)年、教祖78歳の時、教祖は、こうした時局に対応して、お筆先六号半ばより、七号、八号、九号、十号、十一号、十二号の初3首まで一気に執筆されている。教祖をしてかようにご執筆せしめる情動があった、それは教祖のなみなみならぬ決意の披瀝でもあった、と拝察させて頂く。 |
【「教祖最初のご苦労」前夜の教祖のお諭し】 |
1875(明治8)年、「お道」の行く手を厳しく阻止しようとする暗雲が垂れこもりつつあった。見抜き見通しの教祖は、「もう一度こわいところへ行く。案じな」と予言されている。且つ、ひるむことなく毅然として「お道」を歩む「ひながた」を見せられている。「お道」の道程は平坦ではなく、教勢の伸びに応じて又迫害干渉も強まるという「立て合い」の構図であった。教祖は、迫害を前にして揺るぎがちな道人に対し、神一条の道を通る者の心構えを諭し、自由自在の守護を請け負うて励まされた。「節から芽が出る」とお教えになり、事実、節毎に何時も輝かしい芽を出して、教祖の言葉に間違いのない証拠を見せながら、節に対する心構えや悟り方をお教え下された。道人は、教祖の尊い「ひながた」を目のあたりにお見せ頂きつつお連れ通り頂いた。 |
【中南の門の建築が始まる】 |
この頃、後に警察の干渉の原因ともなった中南の門の建築が始まっている。 |
【飯田岩治郎18歳の時、母子共々お屋敷に住み込む】 |
この年、飯田岩治郎18歳の時、母子共々お屋敷に住み込む。「中南の門屋」普請の手伝いや「月日の紋」作成の手伝いをするなど、お屋敷との縁を深めている。 |
【まつえが妊娠、教祖が「たまへ」を予見する】 | ||||||
この頃、まつえが妊娠した。お筆先が次のように記している。
八島教学によると、この時生まれた「たまへ」は男の子であり、この子は明治12年に亡くなり、善福寺に葬られ、「智生童子」という戒名が付けられているとのことである。その後、女児が生まれ、この娘が「たまへ」と呼ばれていくことになるとのことである。 |
【教祖が神そのものになり、道人への叱咤励まし】 | ||||||
教祖はこの頃、次のようなお筆先を記されている。
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【ぢば定め】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お屋敷では、前年に棟のあがった門屋の内造りの最中であったこの頃教祖は、頻りに「甘露台」(かんろだい)の据え付けを急きこまれた。これにより、据え付け場所としての「ぢば」(地場)を定めることが急務となった(別稿「かんろだいの理」)。「ぢば定め」は、一つ、ここへ甘露台を据えつけ、これを「世界助け」の芯にする。二つ、甘露台を中心として手を揃えて「おつとめ」をする。三つ、ここで「おつとめ」に励み、甘露台の元に堅く結束するなら、如何なる困難が襲ってこようとも危なきはない、とする教理に基づいている。これを「ぢばの理」のと云い、これにより「ぢば」が天理教の聖地となっている。
「ぢば定め」につき、み神楽歌、お筆先に次のように明らかにされている。
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この「ぢば」の意味について思案が分かれている。みきの「元始まり話」による人間宿しこみの一点としてのこの地に絶対的因縁を見るのか、この地より世界助けに向かう「伏せこみ」の一点として甘露台を据えるための場所をお屋敷内に任意に定めた一点なのか、見解が分かれている。このことは、「かんろだいつとめの理」の解釈に関係してくる。お道外の者には分かりにくい話ではある。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「ぢばの甘露台を囲んでの神楽づとめ」こそ教祖の志向されようとした「お道」の「最高づとめ」であったと拝察される。教祖の目には、迫り来る官憲との対決が予想されており、抵抗上の必要もあって一刻も早く甘露台据えつけを急ぐようとのお言葉であった、と拝察し得る。 |
【ぢば定め異聞】 | ||
「復元」37号(昭和37年4.26日発行)の 「考二 ぢば定めに関する老先生方との談話」、「みちのとも」昭和10年1.5日號の「甘露?座談會」に「ぢば定め異聞」が掲載されている。これを確認するに、中山、山澤、管長様、高井の談話の中で、高井の言が異色で、次のように紹介されている。(「魂に上下はありません」参照)
これは、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿で、「教祖が歩いた後をこかん、仲田、松尾、辻ます、櫟枝村の与助等の人々に目かくしをして歩かせたところ、皆な、同じ所へ吸い寄せられるように立ち止まった」とある内容と違う。さらに、稿本教祖伝では、教祖が歩いた後、こかんが登場しているが、高井の談話では出ていない。ここも異聞である。ちなみに、天理図書館で「みちのとも」の回覧ができるが、「ぢば定め異聞」を伝える昭和十年一月五日號は回覧できないと云う。 なお、「宮森先生との談話」では、宮森が次のように伝聞証言している。
これによると、概要「理のある人だけがまともな所に足がひっついた。ひっつかなかった者、手前で止まった者もいた」と云うことになり、稿本教祖伝の「ぢば定め」の稿の記述とやはり違う。 |
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稿本教祖伝の記述と異聞とどちらが正確なのか、この辺りを精査せねばなるない。 |
【教祖の予言】 |
ぢば定めが行われた頃、教祖は、「もう一度こわい所へ行く。案じな」。本部教理では、「迫害弾圧の時代を前にして、節に揺るぎがちな人々の心を励ましてのお言葉でした」と拝察している。 |
【こかんの流産】 | |||||||||||||||||||
甘露台の「ぢば定め」が行われた明治8年6月29日(陰暦5.26日)前後、こかんが流産している。 教祖が「ご苦労」 あそばされている折も折、この頃身上の障りを頂いていたこかんが危篤となった。この時期の明治8年6月、教祖はお筆先九号に次のように記している。
この4首の「註釈」につき、「この4首(36−39)はこかん様について仰せられたものである。11号25−40総註参照」としている。 教祖はお筆先11号に次のように記している。
その意は、「現在悩んでいる身上についてよく考えてみて、傍々の者も、又、悩んでいる本人も、前々から諭してある親神の話に、間違いのない事を得心せよ」で、本歌は、こかん様の身上について仰せられたものである、とされている。 八島英雄氏は、流産前後の事情を次のように伝えている。
こかんは、魂の因縁により神一条の御用を為す身であることを、お屋敷に留まるべきであることを、教祖は切々とお諭しされたのである。これまで、こかんは、藤助と離縁して以来誰とも結婚することなく、一人身を過ごしていた。寄り来る人々からの信頼も厚く、教祖の教えの取次人として重要な役割を担い、教祖の説く「助け一条」の世界を聞き分ける第一人者であった。他方、このたびの秀司夫婦の熱心な後添えの勧めには、お屋敷内における事情があったようである。秀司にとって、「応法」の動きを推し進める上で、こかんの存在は煙たいものでしかなかったように察せられる。まつえは、小姑に当るこかんの独り身の身の上を世情並みに案じ思いやった。こういう縁づくように勧める流れがあった。こうして、こかんは、「理」と「情」との間に悩むこととなった。こかんにとっても、一生一人身の覚悟に対する動揺、姉のまだ幼い子供たちの不憫等々の事情が重なったのであろう、結局のところ、こかんは、お屋敷を離れ、櫟本(いちのもと)へ行くこととなった。こかんは、迷いながらも梶本に生活の中心を置くようになった。世間の事情に随ったのである。恐らく、こかんの初めての教祖に対する「応法」であったであろう。こうして、こかんは、お屋敷といちのもとの間を往復する身となった。教祖は屋敷に戻れといいい、秀司夫婦はいちのもとに戻れと云う事情の中、時が立つに連れて、惣次郎は、こかんがお屋敷へ帰ることにいい顔をしなくなった。他方、お屋敷へ帰っても、次第に自分の居場所がなくなって行った。ひとたび距離を置くと、いろいろな心のへだて、形のへだてが入って来て、今までのような取次人としては通りにくい状況となった。 こういう状況の中で妊娠したこかんは、悶々とした悩みの影響でもあろうか、つわりも大変ひどかった。この頃、教祖は、お筆先第11号前半から中ごろにわたり、この身上の障りを台として、人間思案に流れることなく、「どこどこまでも親神の言葉に添いきり、親神に凭れきって通り抜けよ」と懇々と諭された。こうした経過の中、こかんは出産したが、しかし高齢出産ということもあってか「からっこ」となった。「からっこ」とは、早期破水のことで、今ではそれほどのことではないが、当時は命取りの重大事だった。長時間苦しみぬいた末に結局は死産となり、こかんはその体力のすべてを使いはたしてしまった。 |
【教祖の「神楽十人急き込み」】 | ||||||
この頃、教祖は、「神楽十人急き込み」為されている。
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【「教祖最初のご苦労」前夜の教祖のお諭し】 | ||||||||||||||
この頃のお筆先十号には次のように誌されている。
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【「おつとめ」の整備、完結】 | ||||||
この年、新たに「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを教えられた。只今の「坐りつとめ」第3節のことである。ここに、甘露台のつとめの手、一通りが整うこととなった。ちなみに、この第3節は、明治15年に、手振りは元のままながら、「いちれつすます」の句は「いちれつすまして」に、「あしきはらひ」も又「あしきをはらうて」と改められることになった。
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【教義の完結】 | |
このたびの地場の確定と甘露台の据えつけを目標にしたこの時点で、教祖教義が確定ないし完結されたと拝察させていただく。次のように評されている。
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教祖が教えたことの白眉なところは、こうした教義を生み出す根拠としての「泥海古記を通じての元の理」を明らかにしたことにある。これに基づき、各自銘々が「元の理」に叶う生き方を為すよう指し示されていた。しかも、「元の理」が今日の科学の評価に耐えうる創造神話であるという凄みの精彩を放っている。ここが凡百の宗教家と画然とさせられる教祖の秀逸性があると私は拝させていただいている。 |
【「月日の紋」の始まり】 | ||||
教祖は、かぐらづとめ人衆の着衣に「月日の紋」12弁の菊の紋章を付けることを、早くから言われていた。その紋は、明治8年に安堵村の飯田岩治郎(文久3年入信の善六の子、18歳)の時に手伝わせて作られたのがはじまりである云々。飯田岩治郎御伝記(一瀬幸三・初子、s63・5/30)に次のように誌るされている。
飯田は、門屋の普請の時は、母子共にお屋敷に住込み、その手伝いをしていたが、岩治郎はこの普請進捗につれて、度々身上(病気)のお知らせを頂いている。教祖は次のように宣べられている。
稿本天理教教祖伝では、教祖は、明治14年、増井りん等に12弁の菊の紋作成を命じになっている。また、それを当時5歳の中山たまえをして居合わせた人々に頒けさせた、とある。(「誠真実の道・増井りん」(道友社新書26「十二菊の紋のこと」p91)参照) 当時は、菊の紋章は、皇族以外使うことを許されていない。明治元年3.28日、大政官布告第195号に引き続き同4年6.17日布告2085号では、類似のものもよろしくないという極めて厳しいお達しが出された。元来、皇室は16弁の菊であり、教祖は、1年12ヶ月を意味する12弁の菊であった。丸に梅鉢の現在の教紋は、昭和16.3.31日制定の教規によって定められている。 |
【かんろだい普請への寄付金】 |
「ひとことはなし」その二によると、甘露台の普請への寄付金の記録が残っている。それを見ると、大阪から23名、河内から37名が寄付をよせ、総額で百三円九一銭になっている。当時の貨幣価値の現在時価換算せねばならないが、近在の信者が勇んでひのきしんに参加したことを窺わせる。 |
(道人の教勢、動勢) | |
「1875(明治8)年の信者たち」は次の通りである。この頃、道人の数は日増しに増加し、各地に講社の結成を見ることとなった。天元講()に続いて、大阪に真心組()、河内の老原村に神楽講(松田伊之助)ができた。この時代、教勢は大和の国境を越え、東は東海、関東にまで、西は中国、四国へと激しい勢いで延びて行った。それは、ただ数の上で信徒が増えたばかりでなく、教祖を慕う人々の気持も益々強烈に昂進していくこととなった。 | |
榎本栄治郎 | |
稿本天理教教祖伝逸話篇「42、人を救けたら」。
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増井りん | |
稿本天理教教祖伝逸話篇36「増井りん/定めた心」。
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【この頃の逸話】 | ||
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(当時の国内社会事情)http://meiji.sakanouenokumo.jp/1875.html |
1.12日、国に殉せし忠霊、九段上招魂社(後の靖国神社)に合祀される。 |
1.25日、紙幣印刷のための銅版印刷機が輸入される。 |
2.11日、大阪会議。木戸孝允、大久保利通、板垣退助、大阪で会議。 |
2.20日、明治新政府の新税法制定。 |
3.5日、日本最初の国産軍艦「清輝」進水。 |
4.4日、明治天皇が小梅村の徳川昭武邸へ行幸(徳川光國、斉昭らの遺業を嘉う)。 |
4.14日、漸次立憲政体樹立の詔書。(左右両院を廃し元老院、大審院を置き、地方官会議を興し漸次に立憲政体を立つ) |
4月、大教院解散。 |
5.24日、大審院が設置される。 |
6.1日、東京赤坂に初めて気象台設立される(中央気象台の前身)。 |
6.28日、言論圧迫の官吏への讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例制定される。 |
9.20日、江華島事件。日本の軍艦が朝鮮江華島要塞を攻撃。9.21日、日本軍が朝鮮永宗島第一、第二砲台を攻略。 |
10.3日、明治天皇、朝鮮処分意見を奏聞。 |
10.4日、明治政府が国税として煙草税を創設。 |
10.19日、左大臣・島津久光、新政府の政策を批評。10.27日、島津久光、左大臣を辞任。 |
11.27日、信教の自由を口達。 |
この年、平民の称姓布告。これにより全国民に姓がつけせれることになった。 |
この年、政府の専制を非難し自由民権運動盛んになる。福沢諭吉の『文明論之概略』出版。加藤弘之『国体新論』。火葬の禁止が解除される。 |
(宗教界の動き) | |
3.10日、奈良の東大寺をはじめ各寺院の実器は内務省管理下に永久保存法を設ける。 | |
浄土真宗四派(真宗高田派、真宗佛光寺派、真宗興正派、真宗木辺派)が神道側との対立、政教分離の必要性を理由に大教院を離脱。3.28日、神道側が神道事務局を設置する。 | |
太政官は神道と仏教との合同布教中止の通達を教部省に出す。また太政官は神宮以下の神社祭式を定める。 | |
5.3日、大教院解散し、自今各宗の教院を設けることにする。この経緯は「神道大教の教史」に次のように記されている。
この年、日蓮宗不受不施派の布教が許される。稲葉正邦が神道大教を設立する。 |
(当時の対外事情) |
ロシアと樺太・千島交換条約が結ばれる。 |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)