1906年 明治39年 教祖20年祭執行

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「教祖20年祭執行」を確認しておく。「【明治39年】お指図1」、「【明治39年】お指図2」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【上田ナライト43才、身上願い】
 1.15日、上田ナライト43才、身上願い。
 さあさぁ尋ねる處/\、尋ねるまでやない/\。よう、これ一つ聞き分けにゃならんで。皆々心も一つに成りて、運び切らにゃならん。もう日を何ぼある。日が近づいてある。よう日が数えてみよ/\。何程もあらせん。何から話しょうやら。多分つかえてありてどうもならん。日がつかえて尋ねにゃならんようになるは不思議と言う。身上どう成るこう成る、たゞ銘々思うやない。段々日が遅れてならん。今日は気分が悪いと言う。今日一日代わろうという日を待ち兼ねて居る。日々運び足らんから、尋ねにゃならん日になりたる。よう聞き分け。たゞ一名暮らしと言うて、すっきり貰い受けたる。一人暮らしさしてある。一人暮らしに不足あるか。不足はない。今日までの日、今日一日の日も差し支えはない。なれど、差し支え出て来てから、何ぼどう思た處がどうもならん。そんなら、どうしたらよかろうかと言う。こうしたらよかろうかと言う。さあ二十年の間、席一人からこれまで運び来たる。育てにゃ育たん。皆の心から育てにゃならん。いつ/\経ってもこのなりなら、何も言う事はない。この一つ理聞き分けて、しんばしらに一つ運び、後々繋ぎなくばならん。繋ぐは理かと、しっかり取り締まりてくれにゃならん。日々放ったらかしではならん。どうにもならん。その日になりてから急いてはならん。道具一つの理、八つ九つまで萬事整う。後一つ半端であっては、一つからあゝと言うような事ありては、どうもならん。よう聞き分け。後々という理は未だ餘程遠い。身上案じる事要らん。身上から手入れと言う。これまで、どうしてこうしてと思う。一日の日も缺かさんよう、後々どうしょうと思たら、後々頼りないという指図。

 押して、 教長へ申し上げ、本部員一同相談致しまして、もう一應御願い申しましたら 宜しう御座りますか、と願い。
 さあさぁどういう事も尋ねにゃ分からせん。一つ/\、一つ組んだら一つ組む。一つ印したら一つ許す。どういう事したらよかろと、心なくばならん。よう聞き分け。たゞ一つに貰い受け、年限経った一つ理。今まで何のコウノウという。皆々身上すっきり貰い受けたる、身體々々一つ運んで教祖一つ理であろう。これ碎いて運べば、談示一つの理に治まるものである。(しばらくして)さあさぁもう一言/\、今一時こういう指図あった。どうしょうこうしょう。もう待ち受けたる。年限日は僅かの日柄である。これまで/\、何かじっと治めておく。二十年祭、これ皆々の処十分満足與えて、それより一つ運ぶと、一つ説いておこう。

【教祖20年祭執行】
 1906(明治39).2.18日(陰暦正月25日)、教祖20年祭が一日だけ執行された。20間四方の仮斎場で盛大に挙行した。半年前までは日露戦争が続いており、戦勝国とはいえ日本全体がたいへん疲弊をしていたときであつた。

 この時、「朝夕神拝祝詞」が登場し、以降朝夕のおつとめ前に奏上することになる。
 「かけまくも畏(かしこ)き天理大神の御前に恐(かしこ)み恐み白(もう)さく、大神の広き厚き大御恩をよろこび奉りかしこみ奉りて、朝な夕なに拝み仕え奉らくを諾い給ういて、現御神と大八洲国しらしめす天皇の大朝廷を、天壌の共無窮に守り幸い給い、皇国安穏に又吾が教の教師信徒を始めて、天の下の人民の家をも身をも平らけく安けく守り給い、吾が教えを弥広に弥遠に布き弘ごらしめ給へと、恐み恐みも請祈奉らくと白す」。

 同時に神殿には「信徒参拝心得」(石版刷り)を掲額するようになった。この定めは、天理教独自の教理によるものではなく、天理教一派独立請願の必要から採用されたものである(天理教辞典p442より)。1946(昭和21)年の教祖60年祭まで行われ、それ以後は現在の「よろづよ八首」を掲額するようになった。(「稿本中山真之亮伝」323頁参照)。

   「信徒参拝心得」額
1、 参拝の時は、容儀を正し挙動を慎み、至誠を以て、先ず神恩を謝し奉るべし。
1、 祈願の意を陳ぶるには、必ず宝祚の長久国家の安穏を祈り奉り、次に一身一家の幸福を祈るべし。
1、 一身一家の幸福を祈るにも、無駄なる願ひをせぬように心掛け、己が本文を尽くして、安心の地を得むことを期すべし。
 右3個条の旨意相守もの也。

 12.20日、請願書取り下げ。


【明治39年から敗戦までの「朝夕神拝祝詞(のりと)」】
 明治39年から敗戦までの「朝夕神拝祝詞(のりと)」
 かけまくも畏(かしこ)き天理大神の御前に恐(かしこ)みも曰(まも)さく 大神の広き厚き大御恩(おおみめぐみ)を嬉(うれし)び奉(まつ)り かたじけなみ奉りて朝な夕なに拝(おろが)み仕え奉らくを諾(うずな)い給いて現御神(あきつみかみ)と大八洲国(おおやしまくに)知食(しろしめ)す天皇(すめらみこと)の大朝廷(おおみかど)を天壌(あめつち)の共無窮(むたとこしえ)に守り幸(さきわ)へ給い皇国(みくに)安穏(おだひ)に叉吾が教えの教師(おしえびと)信徒(おしえご)を始めて天下(てんか)の人民(おおみたから)ま家をも身をも平(たいら)けく安(やすら)けく守り幸(さきわ)へ給い吾が教えを弥広(いやひろ)に布(し)き弘ごらしめ給へと恐み恐みも請(こ)い祈奉(のみまつ)らくと曰(まお)す

 (道人の教勢、動勢)
 1906(明治39)年、韓国統監府令第45号によって日本人布教師を対象とする「教ノ宣布ニ関スル規則」が定められた。

 (当時の国内社会事情)
 (田中正造履歴)
 1906(明治39)年、66歳の時、新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える。谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる。

  (宗教界の動き)
 国庫供進金制度の発足。引き続き、府県、郡、町村も神饌幣帛(しんせんへいはく)料を供進して行く。
 12月、第1次西園寺内閣の内務大臣・原敬の勅令に基づき、内務省神社局が、社寺合併跡地譲与に関する通達「神社合祀令」(勅令220)を出し一村一社を推進した。当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであったが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めた。

 これに対し、信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出され、民俗学者・博物学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠は南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判し、「日本及日本人」などで10年間にわたって反対運動をおこなった。広大な面積の鎮守の森を失ったことも弊害の一つだった。

 結果、これにより内務省は数年間かけて神社の統廃合整理事業を行い、最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減、7万社が取り壊された。特に合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の1以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。

 戦後、戦前の神社非宗教体制が解体され、すべてが宗教法人となった。一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そういったところでは復祀が行なわれ易かった。全般的にみて、合祀以前の崇敬基盤がその後も維持されたところでは復祀が行なわれ易かったが、行政区画の統廃合や状況の変化で崇敬基盤となった共同体が消滅や変化をした場合は復祀されない傾向にあった。
 ハワイに出雲大社仮布教所設置。
 聖心女子大( カトリック女子修道会)。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)