1906年 | 明治39年 | 教祖20年祭執行 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「教祖20年祭執行」を確認しておく。「【明治39年】お指図1」、「【明治39年】お指図2」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【上田ナライト43才、身上願い】 | ||
1.15日、上田ナライト43才、身上願い。
押して、 教長へ申し上げ、本部員一同相談致しまして、もう一應御願い申しましたら 宜しう御座りますか、と願い。
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【教祖20年祭執行】 | ||||||||
1906(明治39).2.18日(陰暦正月25日)、教祖20年祭が一日だけ執行された。20間四方の仮斎場で盛大に挙行した。半年前までは日露戦争が続いており、戦勝国とはいえ日本全体がたいへん疲弊をしていたときであつた。 この時、「朝夕神拝祝詞」が登場し、以降朝夕のおつとめ前に奏上することになる。
同時に神殿には「信徒参拝心得」(石版刷り)を掲額するようになった。この定めは、天理教独自の教理によるものではなく、天理教一派独立請願の必要から採用されたものである(天理教辞典p442より)。1946(昭和21)年の教祖60年祭まで行われ、それ以後は現在の「よろづよ八首」を掲額するようになった。(「稿本中山真之亮伝」323頁参照)。
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12.20日、請願書取り下げ。
【明治39年から敗戦までの「朝夕神拝祝詞(のりと)」】 | |
明治39年から敗戦までの「朝夕神拝祝詞(のりと)」
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(道人の教勢、動勢) |
1906(明治39)年、韓国統監府令第45号によって日本人布教師を対象とする「教ノ宣布ニ関スル規則」が定められた。 |
(当時の国内社会事情) |
(田中正造履歴) |
1906(明治39)年、66歳の時、新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える。谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる。 |
(宗教界の動き) |
国庫供進金制度の発足。引き続き、府県、郡、町村も神饌幣帛(しんせんへいはく)料を供進して行く。 |
12月、第1次西園寺内閣の内務大臣・原敬の勅令に基づき、内務省神社局が、社寺合併跡地譲与に関する通達「神社合祀令」(勅令220)を出し一村一社を推進した。当初は地域の実情に合わせかなりの幅を持たせたものであったが、第2次桂内閣の内務大臣平田東助がこの訓令を強固に推し進めた。 これに対し、信仰に大きな打撃を与えるなどの理由で反対意見も多く出され、民俗学者・博物学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠は南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判し、「日本及日本人」などで10年間にわたって反対運動をおこなった。広大な面積の鎮守の森を失ったことも弊害の一つだった。 結果、これにより内務省は数年間かけて神社の統廃合整理事業を行い、最初の3年間で全国の4万社が取り壊された。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減、7万社が取り壊された。特に合祀が著しかったのが三重県と和歌山県で、三重県の6500社の神社が7分の1以下に、和歌山県の3700社の神社が6分の1以下に合祀された。この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。 戦後、戦前の神社非宗教体制が解体され、すべてが宗教法人となった。一度合祀されたもののちに復祀された神社も少なくなかった。名目上合祀された後も、社殿などの設備を残したところもあり、そういったところでは復祀が行なわれ易かった。全般的にみて、合祀以前の崇敬基盤がその後も維持されたところでは復祀が行なわれ易かったが、行政区画の統廃合や状況の変化で崇敬基盤となった共同体が消滅や変化をした場合は復祀されない傾向にあった。 |
ハワイに出雲大社仮布教所設置。 聖心女子大( カトリック女子修道会)。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)