「辻家には忠作さんが三代続いているが、先生は三代目の忠作さんで代々純農の家に生れ人一倍よく働いた人であった。『あしき払い』と『肥』と二つお授け頂かれ、前者は教祖様拝領の赤衣さんを羽織ってお取次された。お道のお話となると何もかも忘れてしまう程熱心で、火鉢を挟んでの膝つきのお話に、火鉢で相手を押してゆかれるので相手が下がると、又押してゆかれる。遂には部屋中をぐるぐる廻りされたという逸話は余りにも有名である。こんな熱をもってグングン相手を説服せずにおかぬというような話しぶりは、先生以后にはちょっと見当たらない。そして特に記憶のよい人で『今から何年前の何月何日に神さんがこう仰言った。ああ仰言った』と正確に憶えていられた。その別席のお咄は、泥海古記をとても詳しく説かれた。鴻田忠三郎先生も泥海古記をよく説かれたが、その詳しさと相手を得心さす話し方とは、到底辻先生の比ではなかった。別席で泥海古記を詳しく話されたのはこの両先生だけである。
忠作先生は教祖様と共に、何度となく監獄へも苦労され、罰金をとられたり、容易ならん道中を通られ、又三島神社の前で抜身で脅かされたりされた。元々お百姓出のこととて服装も飾らず行儀作法もなく、老年になってからも旧藩時代のままに振舞われたので、本席様の御随行で出られた時など顔の赤らむようなことが多かったと本席様が時折話してをられた。何しろ一番古い人だからどこへ行かれても、本席のすぐ傍らに席がとってある。本席はなかなか慎しみ深く心得たかたとて、すべて心得て振舞われたが、辻先生は昔の百姓の習慣を丸だしで、座席も何も頓着されず、お膳部が出ると、お皿に盛った料理をお箸で、左掌の凹(くぼ)にとってその掌を口へもってゆかれる不作法さであった。朝起きると金だらいにちゃんと洗面の用意が出来ているのに、手水鉢の水を掌ですくって口をすすぎ、顔をくるくるとぬれ手で撫で廻してそれで平気でおられた。こんな具合で後には本席様も随行にお連れにならなかった。けれども何の悪気もなく、昔風で堅かっただけで、言わば世間知らずであった。お道の上では熱心この上なく、財産こそすっかり果すことはされなかったが、よく道の為につくされ、どれほど警察へ引張られ監獄へ入れられようとも、少しも心倒さず益々熱心されたことは、実に見あげたものであった。殊にお助けには熱心で、知っている人が病んでいると聞いたら、何を措いてもお助けにゆかれた。
とにかく先生は無頓着ではあったが、又一面、始末の良い(質素)人で贅沢なことは露ほどもされず働き一点ばりであった。詰所の当番の時には、お礼の包紙の反古でいつも手習しておられたが、別に手本もなく、唯筆を運んで文字を書いていられるだけで、上達されることもなかった。少しもえらばる(高ぶる)事なく、誰に対しても公平につきあい、偉い先生だからといって遠慮もせず、青年さんだからとて見下げず親切にされるので、どの青年も心安くなり過ぎて、他の先生方に対してのように畏(おそ)れんことになってしまった。先生はいつもおつとめの時、「ぢかた」に出られ、かぐらづとめには西の大戸辺さんをおつとめになった。当時の「ぢかた」は大抵辻、平野楢蔵、山中彦七、島村菊太郎の四先生であった。四人の内で尤も声の高かったのは平野先生で、その次が島村先生の浄瑠璃声、そして尤も低いのが辻先生であったが、辻先生は平野先生の声にいくら押されても平気で、口も顔も身体も全部を動かして、身体全体でぢかたされた。それを見ている者は、自然と身体に力がはいって、誰でも勇まずにはおれない位、熱誠表に現れたものであった。別席のお話でも一生懸命で聴き手は、いつの間にか感動せずにおられないように引きこまれていった。
まことに特異な風格をもった先生であった。長男の由松さんは、年がゆく迄家で百姓して、おやしきへつとめられるのが遅れて明治三十三年に出られたが、長女の留菊さんは、幼少の頃から教祖様のお膝許へお引寄せ頂いて良くつとめられ、后に岩谷の前田家から養子の豊三郎さんを迎えて分家し、夫婦揃ってお屋敷へつとめ、この間に現本部員の豊彦さんが生れた。本家の由松さんは、独立の翌明治四十二年正月に、私と一緒に準員に挙げられ、大正五年に本部員となり、別席には出ず中田吉蔵さんと共に主として神殿教祖殿の奉仕につとめられた」。
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