1903年 | 明治36年 | 明治教典刊行される |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「明治教典刊行される」を確認しておく。「【明治36年】お指図1」、「【明治36年】お指図2」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【明治教典】 | |||
1903(明治36).1月、明治33.8.1日より作成にかかる「天理教教典」(明治教典)が作成された。本部員松村吉太郎が中心となり、国学者井上頼国、逸見仲三郎が執筆、神道学者宮地巌夫が校閲した。敬神章以下十章からなるが、「元始まりこふき」はなく、天皇の先祖を神とするなど国家神道に沿い、忠君愛国を強調した国家主義的色彩の濃厚なものとなっていた。以降、神道本局からの独立請願運動に総力を傾注する。
明治教典の「第一、敬神章」は次の通り。
第二章は、神様の子孫が天皇であるという尊皇章。 第三章は、天皇の国土、天皇の民ならば、私たち民はこの国土を愛しますという愛国章。
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当然、偽教義教典と評する向きが生まれることになる。 |
1.11日、第2回目の願書を提出したが、内務省は再び却下した。
5.27日、衆議院へ、天理教解散請願書が提出される。請願事務所を芝区桜田町に置いて、「同感の士に檄す」と題した印刷物を配布し、一般人の署名捺印を求めていた。
6.2日、天理教解散請願書が衆議院請願委員第一分科会に上程された。
【明治教典の第一回教師講習会を開催】 | |
8.18-9.5日、天理教本部は、先に明治教典を教会及び信徒に頒布すると共に、神道天理教会教師講習会規程を制定し、この日より十九日間の長きにわたって明治教典の第一回教師講習会を開催、以て教典の普及に専心することとはなった。 上村福太郎の「潮の如く」上P67(1959年)は次のように記している。
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先の本部に於ける第一回教典講習に引き続き、高安分教会におっては、9.14-27日に亙り、部内教師を高安に招集、第1回講習会を開催、教典の普及に努力している。このとき、受講者の一人であった東本初代会長中川よしは、東本へ帰ると、「教理の勉強はするな。おたすけは教祖のお話でやれ」と宣言して終生変わらなかったと云う。「教祖の教えた真の教理を理解し、身につけて、たとえ本部が説いても、似而非教理に振り回されるなという厳しい仕込みでありました」。(ほんあづま№176.P26.八島英雄)。 |
12.13日、神道天理教会長大教正・中山新治郎名で、最初の論達が出された。
(道人の教勢、動勢) |
7.29日、鴻田忠三郎が出直し(亨年76歳)。1828(文政11)年2.22日、河内国丹南郡向野村(現・大阪府羽曳野市向野)生まれ。生家高谷家より鴻田家(大和国式下郡北檜垣村‐現・奈良県天理市檜垣町)の養嗣子となる。1881(明治14)年、娘の目の患いから初参拝。眞之亮の後見役。明治20年のおつとめで、かぐらをつとめる。(稿本天理教教祖伝逸話篇95「道の二百里も」) |
この年、松田利平が出直し(亨年71歳)。1823(文政6)年、現奈良県磯城郡本町小阪生まれ。 |
(当時の国内社会事情) |
第一期国定教科書( 人権・近代市民道徳)。 |
(宗教界の動き) |
神宮皇学館→官立専門学校。社寺境内地使用取締規則。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)